高原暦日 (1946年〜1947年)


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

到 着

恢復期

野薔薇

森のオルフォイス

真夏の散歩

晩 夏

音楽会

野鳥と風景

冬空の下

                                     

 

 到 着

 旅行鞄をさげて汽車をおり、改札口に身を乗り出して迎える娘とかたみに両手を握りあい、万感胸にせまればかえって頓には言葉もなく、いそいそと行く我が子のあとに老いたる父親らしく随って、停車場前のちいさい町の坂をくだり、坂をのぼり、蓮華躑躅の咲く丘から郭公の遠音の霞む山手のほうへと、今日からの我が生を托すべき見知らぬすみかへ風薫る高原の道をたどる私であった。
 過去は茫々、未来は漠々。ただこの現前の恩寵に私はすがる。それにしても何たる大空、何たる日光、ゆるやかに高まって末は残雪の山々となる何たる裾野の広がりだろう! その山々を私は知っている。あのいくつかの峯を私は攀じた。最高峯の岩壁に昔八月の烈日は燃え、見わたす四方の国原に積乱雲は夢のように林立していた。ああ八ガ岳。今私はおんみの深い麓にわけいり、この悔悟と敗残の身をおんみの暗く涼しい森、おんみの清冽な泉に托する。今だ。現前の今だ。然しおんみの頂きに立った青々と遠い過去の日に、この私が、この今である遥かな未来を、はたして予感だにしたろうか。いつかおんみの深く柔かい膝のあいだに顔をうずめて、おんみがその雲と風とで歌うソルヴェイグの歌に、傷つき疲れた身と心とを優しく揺られる日があろうなどと、はたして露ほどでも考えたろうか。太古のものなるおんみの母の額に触れながら、あの青春と自負とに燃えていたかつての私が……
 私は祖国を愛した。祖国とはそこに私が生をうけた国土と人との一切であった。歴史に重く、伝統に遠く、その自然と民族との個性をもって世界に伍するに決して憚るところなき「国」であった。私は今でもそれを信じている。同時に私は人類を愛した。しかし私にとって、人類とは畢竟過去現在未来を地上に生きる私自身にほかならなかった。かくありたいとの願望に値する私であり、善と美とへの憧れに燃え、たまたまの悪徳にも拘らずいつかは救われる私であった。しかし、この「人類―私」の観念が一つの後天的な、抽象的なものであった一方、「日本国民―私」のそれが、止むに止まれぬ本能的な、現実的なものであった事は自白しなくてはならない。ところで私のこの単純な楽天的な理想主義は、祖国と他国との死を賭しての格闘という事実の前に崩壊した。国民か人類かという厳粛なのっぴきならぬ対決に面してその弱点をさらけだした。私のうちで血は心情や頭脳に打ち勝ち、理性は本能に駆逐された。私は心から「国難」を信じ、「祖国の急」に身を挺した。響きわたる「武器を取れオー・ザルム!」の喇叭の音に身をふるわせ、愚かのように自分の調べをそれに合わせた。いや、その愚かさによって私は世界の不幸への共犯者となったのだった。自分自身に対する何たる汚辱、平和をおもう幾億の魂への何たる罪! 祖国が敗れ去る前に私こそすでに壊滅し去っていたのである。世を挙げての突撃の叫びの中で、「遥かにためらいがちに響いた平和、そんなにも涙に重く響いた平和、最後のたたかいの砲煙の上に現れるべき最初の星」に、私こそ真先に敗れていたのだ……
 恥を忍び、おもてを伏せて過去一年、私は影のように生きてきた。罪なき妻を道づれに、流浪の宿を転々とした。敗戦の世はさまざまだった。かつて私と親しくし、私にいささかの友情をつくさせた人々が公然私を罪人と呼び、石をもって衢ちまたに私を打った。遠くから私を認めるや、そ知らぬていに道を避けるきのうまでの友もあった。さてまた逢えば叮重に冷やかに挨拶して逃げるがように去る友もあった。しかしそれとは反対に手をとって泣き、私を慰め、優しく励ます幾人かの旧友もあった。そのいずれもが真実であり、そのいずれもが胸にこたえた。そしてこの二つの真実は、過去につながる自分の名の、もはや全く邪魔物であることを深く私に信じさせた。亡びる者に名は要らず、よみがえる者にそれは新らしい重荷であろう。私は死者として忘れ去られ、復活者として全く無名に生きたかった。この世に対しては言うまでもなく、苦楽を共の妻にさえ。我が子にさえ。
 そして今、その我が子に導かれて、あすの復活をたのみながら見知らぬ道をたどって行く私である。今は昔、十年前の早春に、まだ幼かったこの子を導いて一つの登山を完成させた事があった。その時私は詩に書いた、

 「そうして今度は、あわれ、お前が手をとって、
  私のために行くべき道を教えてくれるだろうか」

と。見よ、その言葉は讖しんをなして、今私はおぼつかない復活への山道を同じ我が子に導かれている。
 見るかぎり柔かな爽かな新緑にうずもれて、白い揺籃のような雲をうかべ、讃歌のような峯をつらねた裾野の風景。人影一つ、家一軒見ることのない黄いろく乾いた道のほとりに、さまざまな花が咲き、いろいろな蝶がきらきらと飛ぶ。と、娘が立ちどまり、高原の日に焼けた片手を伸ばして指さしながら優しく言う、「あそこがそうよ。あそこに見える白樺や唐松のまじった赤松の森。あの中にこれからお父さんの住むお家うちがあるのよ」
 そうか。あそこか。それではあそこでこの私が救われるのか!
 ああ、森よ、お前のその新緑のふところ静かに敗残と悔悟の私を抱き取ってくれ! おんみ八ガ岳とその広大な裾野よ、釜無の山々と谷々と富士見高原のすべての村よ、私に恵んで復活にまで救ってくれ!
 そして、ああ、かなた銀色にかすむ道の奥に、わがなつかしい蓼科山が、幾年失踪の子を待つ母のように爪立っている……

 

 

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 恢復期

 森のなかの庭に面した古い別荘の裏座敷。いく間をへだててここまでは人の声もとどかない。賑やかな小鳥の合唱にほのぼの明ける初夏の朝と、新緑に重い深遠な昼と、星ぞらの下の欝蒼たる夜。こうして日が過ぎ、週が過ぎる。私はおもむろに恢復期をたどっている。傷ついた心と疲労した肉体とが虚脱の底から緩やかな曲線をえがいて昇る、あの甘美な、感傷的な、明暗も柔かな恢復期を。
 しんとした真昼どき、その静寂をいっそう意味深いものにする森のせんだいむしくいきびたきの囀りを聴きながら、私は涼しい裏座敷でうつらうつらとまどろんでいる。この一と月、東京で片方の眼をわずらい、そのための偏頭痛に悩まされてきた。今では苦痛も薄れたが、ここ富士見高原の強烈な日光の剌戟をおそれて悪いほうの眼に眼帯をかけている。先刻また少し痛んだ。それで冷罨法をして横になった。海抜三千尺、快晴の日の昼さがり、日なたは暑いが木蔭の屋内は爽かに涼しい。私は薄い掻巻をかけてもらって仰臥している。
 縁先に垂れた煙のような紗の幕が、庭の地面や樹々の葉から日光の反射を柔かにうけて霞んでいる。机の上には重ねて載せた「ゲーテとの対話」と、ソローの日記と、ヴィルジールの「農事詩」と、スイスの高山植物の原色図鑑。壁には大きな葡萄寵を背負ったヘルマン・ヘッセの穏かに秋めいた横顔の写真。そして廊下との界には白と灰青色の市松模様を織出したリンネルの幕。こうした単純な快適な装置は、すべて妻の配慮によるのである。
 床の間にはほんのりと暁の紅べにをさした早咲の野薔薇の一枝が薫っている。今朝見た時にはその花の黄色い蘂しべのかげに一匹の小さい美しい草色の蜘蛛が平たく身を伏せ、左右の足を三日月形に張って近づく獲物を待っていたが、それは今でもじっとしているだろうか。縁側には籐の肱掛椅子が置かれ、小さい卓には明色ブロンドの胡桃の角材を掘りくぼめた巻煙草入が載せてあり、底にヒヤシンスの花を密画で描いた、そしてチョッキのポケットにさえ納まりそうな、白い可愛い陶器の灰皿が添えてある。これらはいずれも娘とその夫との心づくしだ。そしてその胡桃材の凾の蓋をとると中には巻煙草が詰まっていて、蓋の裏には白い油絵具で Bienvenuビヤンヴニユの文字が書いてある。「よくぞ来ませし」と父を迎える優しい心を、むざとおもてには現さず床しく秘めた函である。
 私は大きな捧げ物のようなこの座敷で軽い掻巻に襟をうずめ、仰向けに寝てうとうとと夢を見ている。私はどうやら少年フランシス・ジャムであり、ピレネエの山々に近いポオかオルテズの田舎道で、白い煙のような紗の捕虫網を手に、さっきから一羽の蝶を追い廻している。ところがその蝶というのが、中年を過ぎたヘルマン・ヘッセがある年のクリスマスに人から贈られたというマダガスカルだかボルネオだかの王者のような巨大な蝶で、玉虫色の光を放つ前翅を持ち、後翅は長い燕形の尾を備えて純粋な金色に輝いている。至福な夏と長い休暇、厳格なこわい父は隅田川から自分の持船に乗って取引先の八丈島や新島へ商用半分の遊びの旅に出てしまい、九月になるまでは帰って来ないと母が言った。私はちょうど幼い初恋に悩んでいた。相手は何も知らないのだが、私はこの同級の賢い美しい少女の愛をかち得るためには自分が善い子でなくてはならず、「地主の朝」のレヴィンか「ヘルマンとドロテア」の主人公のように純情な、健康な、そしてどこか田舎びた貴族的な人間でなくてもならず、またこの際彼女への捧げ物としてどうしてもあのヘッセの蝶をつかまえて贈らなければならないと思った。それで林間や野の花の香の蒸すような暑い夏の日盛りを、白と灰青色の市松模様のパンツを穿いた無垢で善良な少年私が、今日も八ガ岳やピレネエの山々に近い高原の路上でさっきから甲斐もなく焦慮の網を振り廻している。ところがその網へ入るのは目ざす華麗な蝶ではなく、大抵はすうっと網の目を抜けてしまう七月の青空か、たまに入っても堅い鞘翅を楯のように上げて一直線に重たく飛ぶ、あの無骨な兜虫か鍬形虫にすぎなかった。
 時の経過と共に私はいらだつ。蠱惑の蝶は姿を消してはまた現れる。しかしそのたびに私はしくじる。私を嫉妬し、私を憎む誰彼の顔が冷笑している。世界がほのぐらくなる。善と美とに縋ろうとするけなげな心がたそがれる。太陽の光が弱くなって空気が冷えれば、蝶の翼もまた冷えて飛ばなくなるのだ。あれほど沢山にいたこむらさきやまきちょうももう姿を見せない。藪や草地の花もだんだんとつぼんできた。私は悲しく諦める。そしてただあの一羽を捕りたいための、あの子への愛の貢物を得たいための捕虫網を、今は空しくかついですごすごと帰りかける…と、その時、あのヘッセの華麗な蝶が、熱帯ジャングルの妖精が、道のむこうからこれを最後のように音もなく柔かに飛んできた。蝶は薄あかいやなぎらんの花の上を過ぎ、土手の黄色いかせんそうを掠めて荘重にゆらゆら揺れながら近づいて来ると、やがてひめとらのおの長い瑠璃色の花穂の先へとまってむずと重たくぶらさがり、さてじりじりと体の向きを変えながらゆっくりと羽根をひろげた。優美な丸味を帯びて或る時は金緑色に、或る時は透明な紫に、また或る時は深紅の色にきらめく大きな二枚貝のような前翅と、卵形の輪郭がしだいに細まって長い燕尾となり、隙間もなく金粉を塗った表面に一層鮮かな金色の翅脈の浮上っているその後翅。そして二粒のトルコ玉のような複眼の前からは、黒い針のような触角がぴんと八の字に張り出して、その先端が微妙にふくれて夜のルビーのように光っている… 私は眼を熱くして息を呑む。蝶は穏かに息をしている。私は震える両手で捕虫網を取りなおす。手の平はべっとりと油汗に濡れている。軽便を主眼としたポケット用の網の口の小さいことが今更のように侮やまれる。ドイツ製のもっと頑丈な、大きな口径の網ならばまちがいなく捕れるのだがと思う。
 その時だった。蝶はなにか楽しい考えが頭の先にうかんだように、二本の触角を数回擦り合せたが、ついと舞い立って私の顔をめがけて飛んで来た。不意を打たれた私は捕虫網を振りあげる暇もなく、ただ茫然と立ちすくんでいた。蝶はその私の頭のまわりを顔とすれすれに二三回ひらひら舞い漂った。それから前へ廻って私の額へふわりと棲まると、思いのほか堅い爪のような物を感じさせる足で歩きながら、しっかりと眉毛のあたりへつかまった。そして、あろう事か、私の片方の眼瞼まぶたをこつこつと突つきはじめた……
 私は仮睡の夢からさめて眼をあいた。見えるのは片方の眼だけだった。もう一方の眼は眼帯でふさがれていた。咄嵯には焦点の合わないその片方の眼で見ると、何か現実のちいさな鳥が現実の私の額に棲まって、その細い嘴でこつこつと眼帯を突ついているのだった。私は軽く頭を振った。とたんに小鳥はチチと鳴いてさっと庭のほうへ飛び去った。眼帯をはずして見るとガーゼの端から脱脂綿が引き出されて、白い繊維がぼやぼやに乱れていた。
 小さい鳥は日雀ひがらであり、彼はその可憐な脆い卵を柔かに温かに保護するために、いささかの綿屑を人間の顔の上から持ち去ったのである。
 こうして今日は過ぎ、またあすが来る。清明な露の夜明けと、溢れる美酒のような光の真昼と、満ち足りた午後につづく瞑想の夕べや、若葉や花にかぐわしい夜が。苦行に倒れた若い釈迦に一椀の牝牛の乳を供した女は誰か。樹々のあいだ、山の中、さてはきれぎれの雲が遊ぶ高原の広がりに、一年の最も美々しい時間が鳴りひびく時、私は人間と自然との無限の恩寵に生きている。どんなに価なく見える物も私を富ませ、どんなに単純な外観からも深遠な意味を私は汲み取る。私は心情と全感覚とを傾けて供せられるすべてを味わい、すべての物におのれを与えて無数の生を生きるのだ。こうして心身の虚脱の底から緩やかな曲線をえがいて昇るあの甘味な、柔かな、しかしもう後戻りする事の決してない、確実な恢復期を今私はたどっている。

 

 

 

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 野薔薇

 今は彼らの月、光と微風とにひらめく野薔薇の月だ。彼らはようやく暑さの訪れようとする前の清明な幾週間を、信濃の山野のいたるところ、さし当ってはこの高原一帯の路ばたに、林のふちに、採伐林の刈あとに、最初の蛙の声を聴く小さい貯水池や、雛段状の田圃をめぐる落し水に沿って、また農家の花壇の向う、そこから野生の花のはじまる草原の前景に、その暗緑色の葉むらやとげとげの細枝を円くこんもりと茂らせながら、無数の白い五瓣の杯に日光を満たしてかおっている。
 関東の平野地方、ことに武蔵野に住んでその田舎の自然に親しんだ者にとっては、大河の堤防か灌漑用水の流れのふちで多く見出すのが普通だったこの野薔薇に、こんなにもいたる処でおびただしく出逢うという事は一つの驚異でもあればまた大きな喜びでもある。あの「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして道遠し」の世界でも、蕪村はきっとこの野薔薇の花を頭にえがいていたに違いない。私の追憶の中ではそれは荒川や多摩川の暮春の水と空とにつながっている。そして今はこの信州で、高原の白樺に翼を休めてその到着を知らせる郭公の、あの二音符の澄んだ笛の音につながっている。
 私は半ば草に被われた赤土の崖を背に、傾斜地の水田に臨んだ低いハンノキの刈敷林のふちで、緑の芝やクローヴァを敷物に腰をおろしている。すぐ眼の前には石で畳んだ溝のなかを灌漑の落し水が音をたてて流れ、その流れにかぶさるようにして二株三株の野薔薇が大きな藪をつくっている。沢山の長い強靭な枝が斜めに伸びて、互いに絡み合ってしぜんに円い樹形をとり、陰になった古い枝が枯死して落ちてしまうせいか、全体として見る野薔薇の株は何かしら寵のような物を想わせる。そして、その籠は棘とげに満たされ、光沢のない暗緑色の無数の小さい葉に被われているが、数輪ずつ房になった花はその葉の下に隠れたり上へ抽き出たりして咲いているのである。だからもしもこの花の可憐さを愛でるのあまり、無理にも一枝を折り取ろうとすれば、その枝の思いの外の強さと絡み合いと、容赦なく皮膚を引掻く棘とのために、あのゲーテの「野薔薇ハイデンレスライン」のような事になっても仕方がない。しかしそれもまたいい。その葉の暗い緑を地にしてほんのり紅みがかった花の色といい、その形といい、中心に黄色い絹糸を刻んで束ねたような蘂しべといい、ことにはその気品に富んだ得も言えぬ匂いといい、どうしてこれを手折りたいという欲望を禁じ得られようか。
 詩人ヘッセの「菩提樹の花」のように、たといこれを摘んで乾燥して袋におさめ、冬の夜の煎薬として飲もうとも、また「営実」と言われるその紅い実を採集して何かの薬に用いようとも、あるいは重石おもしの下に押しつぶして台紙に貼って、野薔薇の標本を作ろうとも、それらはすべて亡骸なきがらに過ぎず、色も香もない乾き果てたる思い出に過ぎない。またたといその芳香が試験管の中で、ゲラニオール、チトロネロールなどの主成分に分析され、その貴重な数滴が厚い水晶の小さい容器に秘蔵されようとも、晩春初夏の野外の光とそよ吹く風との中で天然の花から揮発する匂いには、肉体を持った霊性には、到底較ぶべくもないだろう。
 野薔薇よ、信濃の国の野に咲く薔薇よ。お前たちに似てお前たちよりも遥かに色香すぐれた外国の姉妹らは、そのために露もまだ干ぬ朝早くから処女の閨房ハーレムを引き出されて、蒸され搾られ、ランビキに掛けられ、はては用の無い塵あくたとして捨てられているのだ。ここからは遠い黒海沿岸アドリアノープルで。また地中海の海岸カンヌで、グラースで。
 きのう私は森のうしろの池のふちで、二三日前から咲き初めた野薔薇の深い茂みの中に一個の青鵐あおじの巣を見つけた。それまでじっと真面目な眼を輝かせて卵を抱いていたらしい青鵐の雌は、指先で枝をわけて覗きこむ私の気配に、ぶるっと羽音をたてながら矢のように飛び立って近くの藪の中へ姿をかくした。細い草の根や苔を用いて作った椀形の巣の底には、淡青い地に紫がかった褐色の縞をよそおった可憐な卵が四つ、宝石のように納まっていた。彼らが孵化して雛になる頃にもまだこの茂みは花盛りだろう。そうすればその柔かい産毛には事によったら花の匂いがうつるかも知れない。そう思うと私はひどく楽しい気持になって、それを主題に一篇の、たとえば新しいシェイクスピアの十四行詩のような小さい詩が書きたくなった。
 そう言えば戦争で失う前に私は一枚の極めて美しい歌のレコードを持っていた。ガブリエル・フォーレの「薔薇ラ・ローズ」という歌曲で、ほかのと同様やはりあのニノン・ヴァランが歌っていた。詩は誰のであったか忘れたが、多分ルコント・ド・リールではなかったかと思うが、薔薇ローズという言葉がいくつもいくつも重なり合い、韻を踏み、柔かな類音アソナンスを響かせるので、聴いていると余りに強い薔薇の香に噎せ、その薔薇色や深紅の色に染まってしまうような錯覚に陥いるほどであった。

 

 

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 森のオルフォイス

   「ふと歌が聴こえれば、それはオルフォイス。彼は来てはまた去って行く」
                                     リルケ

 緩やかになだれおろした古い八ガ岳火山の裾が、赤石山脈釜無の断層崖へ磯浪のように崩れかかって、特に一箇所やや複雑な地形をえがき出した富士見の高地。その中でも極めて僅かな高度差のために天竜川と富士川とを北と南へ振りわける一本の分水尾根。その尾根の下段の踊り場、赤松を主として唐松、白樺、はんのきをまじえたある大きな森の中心に、私の今住む分水荘の建物は在る。
 持主の旧華族、番人の百姓一家、それに私たち寄寓の夫婦親子、この三家族が二棟の建物に分れ住んで、四方数町の間に隣家も見なければ隣人も持たない。時おりの遠い汽笛と風がもたらす轣轆の音。ただそれだけが想像の紫にけぶる遠い都会と、それに繋がるかずかずの記憶とを、ふと昔の歌のこだまのように思い出させるよすがである。
 梢の上の大空と、時々ちらりと木の間に光るいずれかの山の片鱗のほかには、われわれの眼からすべての遠景を遮断しているこの森は、しかしそのまま楽しい瞑想の庭であると同時に、またさまざまの野生の者らのすみかでもある。春から夏はつぎつぎと咲きさかる草木の花、秋は透明な焼絵硝子を張りつめた紅葉もみじの絢爛、冬は霜の羽毛と羽根飾りと、すべての小径を消して波うつ積雪。そしてそこに生れて匍い廻り、跳ね、走り、飛び、歌い、豊富な食物に養われ、安全な隠れがを持ち、恋愛し、繁殖し、遊戯し、格闘し、やがて来る寒気と飢餓の季節にはおおむね姿をかくす無数の虫と、小鳥と、いくらかの小さいけもの達。こうした野生の植物や動物らは、はんのきや樅の幹に灰緑色の円い雲形の模様をつけるうめのきごけのような地衣類から、空開地の日当りでとんぼがえりを打ったり松の毬果を貪ったりしている赤毛の栗鼠にいたるまで、この森とその周囲とを舞台にして、何千何万という彼らの個体のどれ一つが孤立するということなく、複雑に結ばれた生の網目の一目一目を互いに微妙に関連し合いながら、一個の全体として見事な生物劇を演じ、緊密な社会生活を営んでいるのである。
 そしてこれらの者の生活をよく視るために、うずくまったり覗きこんだり耳を澄ましたりする事が何と私にとっては楽しいだろう。パリに近いヴァルモンドワの庭園で、その動物や植物から、「我が庭の寓話」の一巻を書くことのできたのは実に詩人ジョルジュ・デュアメルであったが、もしも自分にもそれに必要な心情と詩と能力とがあり、かつ時がその事を許して呉れるならば、生涯の思い出としていつかは私も試みたいと念じている程である。
 私にとっての言わば「我が庭」であるその森で、樹々の若葉がこんもりと緑の雲を盛り上らせ、大きな赤い花簪のような蓮華躑躅が木の間をいろどり、自い舞鶴草や肉いろの紅花一薬べにばないちやくが小径を埋めて一面に咲きつづく六月こそ、ここに住む小鳥達の生の潮の最も高まった時である。彼らはここで冬を過ごした者も春と一緒に南のほうから帰って来た者も、おのおの自分の領域を占めて、愛を求め配偶を得、あるいは早くも巣を営むというそのはちきれるばかりの活動と快楽とへ、さらにそれぞれの霊妙な歌の調べと羽毛の色とを絢いまぜて、緑に暗いこの森じゅうに脈々とした生気を波うたせ、華麗な輝きを振りまいている。中でも彼らの未明の合唱をなんと言おう。五月末から六月いっぱい、水仙いろの暁の光がまだ八ガ岳の空を染めない午前四時まえ、釜無の山々は短か夜のねむり覚めず、ほのぐらい高原の露にみちた天にまだ無数の星のきらめいている時、もう彼らの中の第一声が重くしずれた新緑の奥から響いてくる。その歌は初めはいくらかためらいがちに、たとえば切れぎれの草案のように呟かれるが、しだいに確信の調子を帯びて声量を増し音色ねいろがととのい、メロディーが流れるようになり、美しい一日の起床喇叭にふさわしい熱と力とに強まってくる。するとそれに答えるように別の小鳥の別の歌が目をさます。ひどく甘美な、重くきらめく、ほとんど滴るような調べである。つづいて第三第四の歌が誘い出され、それがまたつぎからつぎへと新らしい歌の波紋を呼んで、ついには広い森じゅうがこの潑刺と朝を目ざめた小さい魂らの讃歌の波で満たされてしまう。そしてこの精力的な合唱は朝日の光が八ガ岳の歯形の峯頭をわずかに離れて、西のほう釜無山脈のもっとも高い円頂をその第一線で掠める頃まで続くのである。
 これらこの森に巣を構え雛を育てる十幾種類、何十羽の小鳥のうち、私が歌手として最もすぐれた者とするのは黒鶫くろつぐみである、彼らはここに約四羽いてそれぞれ配偶を持っているが、そのうちの一番つがいがこの山荘に近い一本のポプラーの大木の枝に家庭を営んでいるので、私の注意と愛とは特に彼にそそがれている。一般に黒鶫のラテン名は Turdus トウルドゥス Cardis カルディス であってそのTurdusが鶫という属名である事は言うまでもないが、種名 Cardis は、あるいは「心臓形の」という意味ではないかと思う。と言うのは、この鳥は全身の羽毛が黒く、ただ胸から下腹部へかけて白く、その白い部分がいわゆるハート形に見れば見られなくもないからである。それでもしも私の貧しい外国語学の知識による解釈にして間違っていないならば、この学名は「胸に心臓形の白斑を持った鵜」という意味を現しているのであろう。それにしても Cardis というこの種名は私には物足りない。晩春初夏の銀と薔薇色の朝霧の中、また豊麗に天地をいろどる夕日の中で、晴朗で、光があって、まろく透明なフリュートの音を吹き鳴らすこの黒鶫には、私ならばむしろ Orphicus オルフィクスとでもいう種名を与えたい。その霊妙な歌と竪琴のしらべとで森の猛獣をさえ和らげ、山野の巌をさえ動かしたといわれる神話の英雄、ギリシャの楽人、あのオルフォイスの名にちなんで。
 閑雅の真昼と沈黙の森。「蜜蜂の生活」の楽しい幾ページが、私の想像を遠くベルギー・ゼーランドの花に囲まれた養蜂場へ拉し去る静かな一と時、ふと庭の片隅から嚠喨と響く小鳥の歌が生まれる。それはオルフォイス、あのポプラーの黒鶫だ。純粋な金を溶かして青い空間へ投げるような、白雲岩の洞窟に千古の水の滴るようなその音色ねいろは、そよともしない夏木立に一連ずつの玉のようなメロディーを編みからげて、色の着いたこだまを生み、匂やかな余韻を残しながら、今そこで聴こえたかと思えばもうあそこへ移っている。仔細に聞けば彼にはそれぞれ違った三つの楽句がある。彼はそのきらきら光る三いろの楽句をさまざまに組み合せ、さらにその間へ他鳥の歌の断片を即興的に織りまぜて変化をつける。そして必ず結句のように鶫の類に特有な一種の嗄しわがれ声を一つ入れる。そしてこの錆びた鉄片の摩擦のような声を聴くと、私には初めて「鳥」という生物である彼の姿や、蚯蚓みみずを呑んだり蛾を啄んだりするその黄色い嘴の形が現実の物としてはっきりと眼に浮んで来るのである。

 

 

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 真夏の散歩

 森の家の南正面、そこだけいくらか木立が薄くなっている間から、夏の正午の微動する熱い空気をとおして、遥かむこうの丘をまっすぐに登っている一筋の道が見える。それはここからは十数町を隔てているのだが、望遠鏡で近づけて見ると、片側は深い谷に臨んだ崖、片側はある大きな別荘を隠した森林の斜面になっていて、この真昼時、その側だけに僅かな木蔭が出来ている。そして日盛りのこの坂道を稀に往来の人もみんな、日光の直射を避けてその日かげを通る。登りの人が足を休めて汗を拭いているらしいのが見えることもある。馬がとまっていることもある。しかしまた華やかなパラソルが二つ三つ連れ立って元気よく降りて来ることもある。いずれにしても望遠鏡の円い視野の中に切りとられ拡大されたこの夏の坂道は、そのまま一幅の絵画でもあればまた一篇の歌にもなりそうである。
 この白い絲のような長い坂道はやがて丘の黒ずんだ緑の松林の中へ消えて行くが、ちょうどその松山の上で釜無の谷を挾んだ甲斐と信濃の山々が重なり合い、銀青色にきらめく夏霞をまとって高々と横たわっている。そして更にその上へ甲斐駒が、標高三千メートルに垂んとする誇らかな巨大な山頂をそばだてているのである。私にとっては思い出も深い曾遊の山であり、その峨々たる花崗岩の大金字塔を毎日居ながらにして見ることのできる今の生活は、真にそれだけでも有難いといわなくてはならない。ところがここからは下になって見えないが、前述の坂道の登り口を斜めに切って一本の坦々とした国道が走っている。それは南のほう甲府と北方上諏訪とを結んでいる古い甲州街道である。きのう私はその街道を南ヘー里くだって釜無の谷へおり、河心が国境になっている広い河原で、甲州側の本流へ漬って水浴びをしては信州側の石のあいだで甲羅干しをし、弁当をつかい、煙草を吸い、遠い村々を眺めたり、歌を歌ったり、雲や鶺鴒を観察したりして、二時間あまりをたった一人でそこで遊んだ。そして帰りには山の中の間道沿いのある部落で、石を載せたこけら葺の屋根から夕顔の棚をさしかけ、三株四株の紅白の立葵と黄いろい日廻りとを咲かせ、繩でくくった細長い鋼はがねの薄板をわきに積上げて、板張りの土間へすわって仕事をしている鋸作りを感心して眺めたのだった。稀にしか人の通らぬ部落外れの小さいあばら家。山の稲田の青いそよぎを前にして、日がな一日、一人こつこつと鋸の歯を切っているその老人を、私は愛と尊敬と、またいくらかの羨望の情とをもってつくづくと見ずにはいられなかった。
 きょうはそのきのうにも劣らぬ快晴の日で、朝から空をよぎる一片の雲もない。私は新らしい巣の附近の特徴を記憶するために飛び廻る蜜蜂のように、我が家を中心に周囲一二里の森や野や村々を見に歩きまわる。炎天を私はいとわない。私は子供の時から夏を愛し、都会の夏の暑さにも平気なばかりか、炎暑に伴う町住みのあらゆる美や楽しみを今でも数えることができる。私は生れてこのかた東京の京橋や日本橋でそういう夏を二十幾たび経験したし、その後武蔵野で田舎の夏を味わいつくして今日に及んだ。私の肉体の全細胞とすべての器官とは夏に適したようにできているらしく、私の経て来た閲歴や養って来た生活技術は夏において最もよくその力を発揮するらしい。毎年七八月は仕事にしろ遊びにしろ、私のいちばんいきいきと活動できる時である。そしてその仕事を私は楽しみ、その遊びにもまた仕事のように夢中になれる。しかも自分の住む処が野外ならば、更にいわゆる自然のまんなかならば、少くとも祖国日本では、夏が暑く輝かしく、日光が強ければ強いほどますます佳い。炎天を私はいとわない。あの壮烈な炎天のもつ根源的情緒こそ、私の詩心の汲めども尽きぬ源だ。
 きょう八月の日盛りの午後二時頃、私はその炎天の道を歩いている。不思議にも戦災をまぬがれた白麻のズボンを穿き古いパナマ帽をかぶって、家から正面に見たあの坂を登って行く。このズボンは今から二十年前の夏、私を誘ってその郷里四国へ帰省するその頃のある友人と一緒に新調した夏服の片割だ。これを着て仁淀川の峡谷をくだり、これを着て室戸崎の突端で太平洋の波のしぶきに濡れたのだ。それ以来服も老いたが私も老いた。しかし質の丈夫なせいか、日頃の手入れのいいせいか、両方ともまだこの老の坂を登るには苦しまない。
 坂を登りつめると今度はゆるい降りになる。しばらくは森を圧する精力的な蝦夷蟬えぞぜみの合唱。やがて風景の性格が今までとはがらりと変って、幾つかの村落を点綴した平和な田園の眺めがひらける。もうここは火山噴出物に覆われた八ガ岳の裾野ではなく、釜無山地の古生層を基盤とした壌土地帯に入ったのであろう、溝を畳んだ岩石も青や白の縞目を現して美しく、土の色も焦げついたように赤くはなく、畠の作物も私の住んでいるあたりの物よりもずっと立派だ。そして釜無の断層崖を背に、一帯の低い丘陵を前にして、一種のケルンコル地形を現しているこの田園からは、北に水平の一線を劃した楯状火山霧ガ峯を遠望し、南東遥かに富士と奥秩父の金峯山とが見える。そして今その金峯山の横に真白な雲が立ちかけている。この頃毎夕甲府盆地の空へ集積して夜晩くまで華麗な電光を飛ばしている雷雲の、あれはその卵だろう。
 また一つ急な坂道をおりて田圃のあいだの小径をたどり、山から落ちて来る一本の小川を界にした二つの部落の中間へ出る。右は若宮、左は木之間このま。川に架った橋には「武智川橋」の文字が微かに読まれる。私は橋を渡ってだらだら下りの村道を木之間の部落へ入ってみる。「木之間」とは字面じづらもいいし音感もいい。程近くにある小部落横吹よこぶき、花場はなば、休戸やすみどなどの名と共に、何となく住み心地の良さそうな落ちつきのある古さと、地名に心をひかれる旅人の憧れ心を誘うような美しさとを持っている。そしてきのう私が初めてその横吹や花場のあたりを歩いたのもやはりこの憧れ心によるのだが、それぞれの部落がそれぞれの地形に拠り、それぞれの風格を備えていて、遠く他国へ出ているその土地の出身者が、「我がふるさと」と懐かしみもし誇りもするに値するような場所だった。木之間がやはりそれである。平屋造りで板葺の屋根に石をならべた両側の家並は典型的な山間の路村だが、その道の片側に清冽な水を走らせ、どの農家も色鮮かな夏の花を楽しみのために栽培しているのは、百姓をしながら考古学や地質学に蘊蓄を持ち、俳句をたしなみ和歌を詠む人たちの多いといわれるこのあたりの村民の気風や生活の趣味の良さを、おのずから物語っているように思われる。
 しかし今は暑い日盛りでもあり養蚕で多忙な季節でもあるせいか、そういう人たちの姿もほとんど見えない。ただ古い布きれで作った手製の捕虫網を持ったりボール箱をかかえたりした小さい女の子が二人三人、路ばたで蝶を追っているのに出逢うくらいである。暑さも暑いし部落も長い。このまま降って行ったらきのうの横吹へ出てしまうだろう。それで村の四辻から踵を返して今度は若宮の部落へ入って行く。そこに私の咽喉の渇きを医やすべき水を恵んでくれそうな誰かの姿と、この焼けつくような炎天にも拘らずなおいくらかの潤いを私の眼と心とに与えてくれる何かを求めて。
 私は木之間に似てもうすこし道幅の狭い、それだけ家の建てこんで見える若宮の部落を通る。今度は逆に登りになって道の片側をやはり清冽な水がながれ、厚く仕立てたあららぎの生垣を低い塀のように刈込んで、その上から土蔵の白壁を覗かせている家が多い。それらの家はほとんどすべて道に直角な南むきの母屋入もやいりで、前には仕事場兼用の庭を控え、用水から流れを引いた小さい石囲いの池があって鯉が飼われ、またその池の片隅へ石段をつけてそこで家内の食器を洗うようになっている。そしてここでも庭の片側や狭い菜園の隅に季節の花が色とりどりに咲乱れているが、入口からまっすぐに庭へ敷かれた花崗岩の敷石の間を埋めて、炎天にも萎えない黄や赤や紫の松葉牡丹がひらひらと燃えるように咲いているのが如何にも捨てがたい風情である。
 そういう農家の中のある一軒の大きな家の前で、一人の娘が用水の上へうつむいて何か洗濯物をしている。ちょうど私がその前を通りかかると折よく娘が顔を上げる。私はさっきから咽喉が渇いている。それで思いきって一杯の井戸水を無心する。娘はすぐに立上ると、別に当惑したような顔も見せず、しかしさすがは妙齢の少し羞じらいを含みながら「どうぞおはいり下さい」という。十八か十九ぐらいの、まだ女学校を出て間も無さそうな、非常に晴れやかな怜俐な感じのする美しい娘である。私はその娘のあとについてここでも色さまざまな松葉牡丹に縁どられている長い敷石を踏んで行く。清潔な庭に面して葦簾よしずを垂れた母屋の前を通って、厚い花崗岩を四角に組んだ井戸のそばへたたずむ。井戸は車井戸で四本の角柱の上にしっかりした屋根が載っている。その向うは畠との境のちょっとした果樹園らしく、五六本の柿の木が緑玉エメラルドの葉を光らせ、遠い高原の広がりをおもわせる空の一角に、浮き漂っているような八ガ岳が見える。娘は家へ入ると大家の調度にふさわしい立派な硝子のコップを盆に載せて持って来る。そして私には手も出させずに自分で水を汲み上げてそのコップに移すと、今度はいくらか勇気をとりもどして、真白な歯をこぼれるように見せ、涼しい瞳を輝かせながら「どうぞ」といって盆を差し出す。こういう子ならばこういう声を出そうかと、誰でも納得するようなすっきりした綺麗な声である。私はコップを受けとって一息に飲む。氷を溶かしたかと思われるような水である。「もう一つ」と、すすめるように娘がいう。今度は一層親しみを見せて、年長者に対する人なつこいいたわりの調子である。
 「ではもう半分」と頼んで、コップのまわりに水蒸気を凝結させる甘露の冷水を味わいながら飲む。そして眼は半ば驚異をもって、この若さと健康と近代的な明朗そのもののような、眉目すぐれた娘を褒め讃える。
 ああ私にしてもしもなお充分若かったならば、そして未だ独身の身だったならば、私は自分の母を説き父に乞うてこの娘を妻にと所望することだろう。そして、もしも彼らにして肯じなければ、「あなた達の一人息子はあの信濃乙女に焦がれて死ぬ」とおびやかすだろう……
 いや、私としてなんと愚かな空想をしたものだ。私はもう決してそんな年齢ではないし、またそんな境遇にもいない。またよしんば満腔の同情をもって対そうともマリーエンバート七十四歳のゲーテとも違う。むしろシューマンの歌、アイヒエンドルフの詩のように、「父母ちちははは夙つとにみまかり、ふるさとびとは我を見知らず」というのが東京を去った今の流離の私の姿だ。ただ「若し妹背をなさむには、このおなごをなさむ」といったという、傾城や官女に見かえて一人の柴売娘を選んだあの老芭蕉の半ばは戯れ、半ばは本気らしい言葉に似たものをここで繰返しているに過ぎない。それにしても芭蕉やゲーテの永遠の心の若さを身にしみじみと感じることのできる私は、自分のこんな真夏の昼の夢でもむざと捨てるには忍びないのである。
 それはさて措き、きのうの鋸作りの老人といい今この農家の娘といい、彼らの離ればなれの存在と、一世代を中に隔てたその老いとその若さとにも拘らず、その雙方がなんと私のうちで、私をとおして、一体となりたがり、なんと互いに響き合いたがっていることだろう。一方の担っている重たい過去と、一方の描く夢の未来。しかもそのいずれもが現在という時間の中に併存して、この信濃の国の空の下でそれぞれの生を生き、物を思い、努力し、願望し、恐らく日毎にいささかの幸福を創造しているだろうということは考えるだにすばらしい。私の仕事はその「すばらしさ」を芸術の中に実現するにある。老いと若さとの彼ら二色ふたいろの鐘の音を私のうちに招き入れて、真に新しい諧音の波を生むことにある。それはある山には力づけの歌となって響きかえり、またある谷間には慰めのしらべとなって柔かに流れこむだろう……
 親しんで狎れず、私は心からの感謝を述べて娘と別れ、農家を去る。ついに名を問われもせず告げられもしなかったその娘は、空からのコップを載せた盆を片手に、一本の大きな胡桃くるみの樹がおとす緑の木蔭に立ったまま、振りかえって最後の会釈をする私をじっと見送っている。

 

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 晩 夏

 八月末の或る日、午後五時ごろ。私は自分の好きな場所の一つであるこの芝草の斜面へ来て、日の暮れる前のひとときを憩っている。風は涼しく、柔かく、クローヴァが甘く匂う。正面には傾く日を浴びた八ガ岳とその裾野とが、煙ったような灰緑色と薔薇色とに横たわり、眼の前の水田では花かけ時の稲の穂がこまかい白い花粉をこぼし、薄青い空にはほのかに暖い葡萄酒いろの光がある。そしてその空の低いところをさっきから無数の岩燕が飛びまわっている。もうじき南方への旅がはじまる前、集団の飛行に馴れたり翼の力を強めたりする練習をしているのであろう。彼らのほそい鋭い声が時どき「チリリー」と空に響く。
 燕の出発、夏の終り。それから嵐と、秋と、そのもみじと。そしてある朝とつぜんの氷雪とともに訪れて、それ以後ずっと数ヵ月を君臨する冬。そういえば向うの丘の白樺にもちらほら黄いろい色が見える。あたりのクローヴァや薊のあいだを飛んでいる蝶の羽根にも力がない。畠の粟の茎や葉にも血の色がさしてきた。野にも山にも夏の疲れがそこはかとなく漂い、逸楽と飽満とにつづく美しい衰えが歌っている。それは私に哀愁を催させ、無常を感じさせる。しかしその哀愁も無常の感じも私はけっして厭わない。私はその杯を最後の一滴まですする。目を上げて干す……
 いや待て! そこでやめるがいい。それから先を言うのはまだ早い。お前は過ぎゆく夏に一篇の別れの歌を贈ればいいのだ。今われわれと共にある夏の終り、晩夏に対して。ところでその「晩夏」を、「深い晴れやかな十月」や、「みずからの充実の中に安らっている完璧な秋」や、「あたかも遠方からジークフリートがその行為について物語るかのような」青い無限と暖かい日光との秋の日と、いつかしら混同してしまったのはほかならぬ教授ベルトラム、あの得もいえず涼しく甘く葡萄のように深く楽しいその大著、『ニイチェ』におけるエルンスト・ベルトラムその人ではなかったろうか。
 夏よ! その日夜の饗宴と歓楽とに衰えて、今はうっとりと、しどけなく、思い出のそよ吹く風の中に身を横たえている晩夏よ! 未だいくらかの熱い血潮と残んの色香とに息づきながら、眼を半眼にみひらいて、重たく物倦げに身を投げ出している美わしの晩夏! おんみの乱費は底知れず、おんみの蕩尽はすばらしかった。おんみは南風の海にへんぽんと戯れ、ほの温かい夜空に乳を流して白鳥をうかべ、恋の星を居ならばせ、またその豊かな薫る胸でどんな荒くれの山岳をも抱きしめた。おんみのきらめく美酒は無限にそそがれて大地を酔わせ、おんみの色と蜜と芳香とはすべての花を成熟にまで粧った。愛の夜楽セレナードは夜を徹してかなでられ、青春の晨朝歌オーバードはまたあたらしく暁を響いた。そしてこの豪奢な饗宴の毎日を、讃えられなかった美徳も無ければ喝采されなかった歌も無かった。否、ある種の悪徳でさえもそこでは宥された。但し「自然」なものならばすべてが歓迎され、その本来の面目があるならば仮面ですらも迎えられたこの寛容の宴うたげにも、なお断じて守られる不文の掟というものは有った。それは、私欲のために偽る者、他人をおとしいれる者、および偽善者らの排斥であった。そこで敵である冬に魂を売った夕立の雹は唾棄され、有頂天になって犯した過誤の無慈悲な懲罰者である疾病はうとまれた。こうして力づよい歓喜の合唱は昼をとどろき、無限の愉楽は夜を照らした。そしてついにその長夜の宴も果てた今、夏よ、おんみは満ち足りて衰え疲れたからだをぐったりと微風の中にまどろんでいる。そのおんみの晩夏の寝顔がなんと美しいか。なんと無常をおもわせるか。そしてなんと私の哀愁をそそることか! とはいえ私はおんみを見捨てはしない。おんみへの感謝を忘れもしない。私が疲れ傷ついた身と心とを運んでさすらって来たとき以来、あの小鳥と野薔薇の花の日以来、夏よ、おんみは絶えず優しく私をみとり、豊かに養って再生の力を与えてくれた。私に治癒の香油を塗り、青春の美酒と乳酪とを捧げてくれた。見るがいい! 私はもうほとんど昔の私にかえった。否、昔の私よりも一層私らしい私となった。もう大丈夫だ。こんにち以後、全く新らしい青春をひっさげて生きることができる。ああ夏よ、輝かしい恋人よ、私はおんみに感謝する。晩夏よ、美しい哀愁の母よ、私はおんみを褒めたたえる……
 もうすっかり日が落ちた。八ガ岳は透明な薄紫になり、野はあおあおとたそがれてきた。夕映えの高い空を飛んでいた燕の群ももう見えない。そうだ、今夜はヘッセの「九月の哀歌」をしみじみと読もう。それからセザール・フランクの「クルーズ河の歌」を「非常に緩い速度トレ・レントー」で弾こう。
 だが、私のために夏はまだある。まだここにいる……

 

 

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 音楽会

 露に重たい朝があり、霧の深い朝があり、空は一日一日と澄んで明るくなり、爽かな西風が信州の山や田舎に吹きわたる。その風の蕭々のひびき……夏はついに行ってしまった。
 黄の色を増した草原や畠には昼間でもかんたんこおろぎが地を揺するように嗚いている。その草原にはよく見れば蟻ノ塔草や苔弟切がこまやかに、つつましやかに紅葉している。ある日遊びにきた村の青年たちの一人が「この沢のつきる畠も蕎麦の花」と詠んだように、粟や玉蜀黍の刈取られたあとの畑地では、今や到るところ蕎麦の花が真白だ。その蕎麦の畠には小さいせせり蝶が飛びまわり、無数の銀のつぶてのような蜂が唸りを立てて一日じゅう蜜をあさっている。しばらく花の途絶えていた野にも急に青や黄の系統の花が多くなった。谷間の河原では壮大な富士薊が驚くばかりに見事な紅紫色の花を見せ、土手や尾根では薄すすきも淡赤い穂を出した。その間にも一日一晩吹きとおし降りとおした風雨のあとから大きな円い月が出た。高原は無量の露の光にみたされ、山々は水に浮んだ島のように見えた。そういう夜には時どき森の奥でむささびの無気味な叫びが響いた。
 その秋もなかばのある日、上諏訪の知人から親しい手紙と一緒に音楽会の招待券が送られてきた。シューベルトの生誕百五十周年を記念する音楽会であり、曲目もすべてこの作曲家の作品からなっていた。主催は諏訪音楽協会で、過去三十年におよぶ古い歴史を持ち、私のこの知人も地方文化の先覚者として、またあの湖畔の町の名望家の一人として、創立当時から会の育成に力をつくしてきた。出演者である協会員には医者があり、官公吏があり、教員があり、大学生があり、会社員があり、旅館の主人があり、更にほほえましくもまた刮目に値するものとして染物屋があり、自動車運転手があり、洋服裁縫職があり、鍛冶屋があった。こういう人たちが絃楽器を鳴らし、管楽器を吹き、ピアノを弾奏し、チンパニーを打つのである。そして混声合唱には男女の高等学生や教員や若い事務員が出る。百数十年前のオーストリア・ウィーンならぬ日本国長野県、山々にかこまれた湖と温泉との町上諏訪における、さながら現代の「シューベルティアード」である。どうしてこれが見逃せようか。否、聴き逃がせようか!
 音楽会は昼夜二回あったが、帰りの最終列車の混雑と真暗な高原の夜道とを考えて昼の部を聴くことにした。その日は夜明けごろから濃い霧が湧き、その霧の中でさあさあと秋雨が降っていた。私たちは――私と妻と娘夫婦とは、森の家を出て長いぬかるみの尾根道をくだり、富士見の駅から汽車へ乗った。途中立ん棒の車窓から腰をかがめて外をのぞくと、地理学者のいわゆる富士見狭隘をうずめつくした田圃の稲がもうすっかり黄いろく熟れて、両側の山裾を点々と綴るさまざまな秋草の花とともに、雨の中では一層色も鮮かだった。汽車が勾配をくだるにつれて釜無山脈に垂れさがった乱雲の底が高くなる。びっしょり濡れた青柳、茅野ちの。それから上諏訪。私たちはそこで下車した。
 知人Mさんの家では一家総出で迎えられた。主人夫妻とその母堂と、京都の大学から帰省中でフリュートを吹くその長男と、県立の女学校で音楽の先生をしている愛らしいその次女と。そして来客があると喜んで座敷中を駈けずり廻る老年の犬も一緒に。私たちは主人蒐集の幾函かの蝶の標本に感嘆し、今日これからの出演者である兄と妹との成功を祈り、賑かな昼飯を共にし、そして開演の定刻前、程近い演奏会場へと出かけて行った。いつのまにか雨がやみ、風が吹きはじめ、道路の水溜りに桔梗色の空がうつり、湖畔の山には九月も末の甘美な日光がいっぱいに当っていた。
 私たちは静かな横町に面した明るい会場へ入って行った。戦争ちゅう工場として使われていたというそのホールは然しほとんど旧に復して、音楽にも、小さい劇にも、講演にも、極めて手頃な、かつ親密感のあるホールだった。座席用の腰掛はきょうの音楽会を機会に全部新調された物だというが、その腰掛をうずめて聴衆はほぼ満員だった。全体として学生が多く、とりわけ女学生が多かった。みんな非常に静粛で、開演間際に馳けつけて来た者も取り乱して無作法な音を立てるという事がなかった。そこには人をして今が昼間だという事を忘れさせるほどの静かさと熱意とがあった。
 私たちはその静謐と熱意との最前線に坐らせられていた。私のうしろにはプログラムを手にした藤森成吉氏がいた。Mさんがその藤森氏に私を紹介しようとした瞬間、舞台にパッと電燈がつき、その華やかな光に照らされながら二十人の楽員が手に手に楽器を持って登場し、めいめいの席へ着くとすぐに調音をはじめた。Mさんは紹介を思いとどまった。並んだ楽員の中には彼の長男の大学生もいて、その白い額と濡羽色の髪の毛とが前面に立ちはだかったコントラバスの蔭からちらちら見える。Mさんの眼が柔かにそこへそそがれる。と、指揮者が現れた。町の大きな楽器商で古い教育家でもある人だ。この人だけがモーニングを着ている。指揮者は聴衆の拍手にこたえて軽く会釈をすると、台の上へあがって楽員と相対した。そして譜面台に開かれている総譜本を片方の手のひらで押し拡げるようにしながら、ひとわたり管絃楽団を見まわした。水平にささげられた指揮棒が静かに下りた。「ロザムンデ舞曲」の第二番が花をちりばめるように流れ出した。
 私はいつもするようにある時は眼をとじ、ある時は眼をあけて聴いている。あけている時の私の眼には楽員たちが懸命に演奏している舞台が映り、また窓の外の屋根を照らしている和やかな日光や、九月の雨後の青空が映る。しかしそれはこの華麗なうちにも一脈の哀愁を湛えた音楽の流れについて行く私の耳や心の邪魔には少しもならない。なぜならば、いま私は何かを理解しようとしているのではないからだ。指揮者が全管絃楽を確実に把握しているかいないか、箇々の楽員の技術が高いか低いか、そんな事は問題ではない。全体の統一がどうか、各部の均衡がどうか、速度がどうか、音色がどうか、そんな事も問題ではない。問題は私がこの演奏を批評家の耳をもって聴いているのではなく、この音楽を信頼しているという事だ。それは「未完成」の場合でも同様で、私はこれらの音楽を今窓の外を照らしている太陽の光のように熟知し、あの青空のようによく知って心からの信頼を寄せている。私は神学者ではなく、神を信ずる側の人間だ。私は自分が太陽や、雨や、風や、小鳥や、花や、星や、天空を信ずるようにこのシューベルトを信じ、更にはバッハを、ヘンデルを、モーツァルトを、そしてあの大いなるベートーヴェンを信頼している。
 こういう音楽は私にとっては天然の物と同じであって、光や空気や泉のように古くから存在し、著作権を主張することもなければ版権を云々することもなく、その創造主の名さえも忘れさせるほどに普遍化し、ただしばしば単純で健康な篤信者の心の内に古く明るい野中の御堂みどうのように斎いつき祀られて、淳朴な祈りを捧げる者を慰め、温め、清め、高め、喜ばせる。それは万人に属するものでありながら、学者や、僧侶や、註釈者や、好事家らのものでさえありながら、本当はそれなくしては遣って行かれない悩める敬虔な魂や、健全で、単純で、祈りでさえも歌になってしまうような純な、けなげな、美しい魂に属しているのだ。
 ヴァイオリンの緩い抒情的なしらべを最後に「ロザムンデ」が終ると、今度は舞台の中央にピアノが引出されて歌が始まった。歌手はM氏の次女で伴奏者はその娘の女いとこ。曲は「冬の旅」から「アヴェ・マリア」と「溢るる涙」の二つが選ばれていた。この愛らしい若い歌手はマリアに祈る処女にふさわしく、清らかにほのめき光る純白な服を裾長に曳き、薄い水色のリボンで房房とした黒い髪の毛を締めていた。歌はきわめて美しくかつ自然の感動をもって歌われたように思われた。私はそれらの歌を聴きながら、やはり路ばたに少女の祈る春の野の御堂や、悩みの雪の溶けてゆく小川の流れのさまなどを心に描いていた。そして自分の知人の愛娘まなむすめであり、私たちにとっても親しい存在であるこの純潔な妙齢の歌手が、きょうは学校の音楽教師としてではなく、しんと鎮まって耳を傾けている幾十の純潔な愛すべき娘らの一人として、彼らすべての心の歌を歌っているのだと確信した。
 続いて数十人の青年男女によって「夜」と「野薔薇」が合唱され、そして暫時の休憩の後、曲目はホールに溢れる聴衆の期待をあつめて「口短調未完成交響曲」に移って行った。
 シューベルトの交響曲第八番「未完成ウンフォーレンデテ」、これは誰でも知っている。ふと行きずりにどこかの窓から流れ出たその断片を耳にしても、人は直ちにそれと聴きわける事ができる。それほど知られてもいれば親まれてもいるこの音楽を私はここで説こうとも思わないし、またそんな必要も更にない。訴えるがように悲痛な主題と限りなく甘美な主題とが簡潔に交互に述べられて、さて突如として出現する圧倒的な運命の前に散りくずれる第一楽章。人間の罪をまだ知らぬ日の歓楽にどっぷりと漬かり、艶あでにきらびやかに照りかがやき匂いわたりながら、しかもこよなく玲瓏無垢な、その神々しい調べの長さにはいつまでも耳を与え心を委ねていたいと思うような第二楽章。それらに就いて述べる必要も全くない。私はここでもまた「ロザムンデ」の時と同様に、全き信頼と無防禦とをもって、この音楽の流れのままに浮きつ沈みつ流れて行った。信頼は心の安泰にほかならない。無防禦は夢のための揺籃である。「きょう汝は我と共に天国にあり」という言葉をそのまま、私はこの「未完成」の中に一つの調和の生を生きていた。
 それから「奏鳴曲ニ長調」の可憐に洗練されたピアノ独奏があり、続く聖楽曲「スタバート・マーテル」の独唱と合唱とが十字架のイエスと痛める母マリアとを歌い終る余韻の中に、きょうの音楽会の幕はいとも感銘的に下りたのであった。
 私はMさんの紹介で改めて藤森成吉氏と会い、この二人の地方文化の指導者にきょうの音楽会の成功を祝し、そして家族の者たちと一緒に夕方の汽車で富士見へ帰った。それにしてもあらゆる社会的地位の相違、あらゆる職業的差別をよそに、一致協力して一つの芸術を楽しんでいるあの人々を何と言おう。彼らの無私の行為、素朴な態度、照りかがやくような信頼と愛情。それこそはあの不遇の天才、生涯を通じての友情の渇仰者、フランツ・シューベルトが願っていたものであった。たとえその技術はどうであるにせよ、あの人々こそ真に「シューベルティアード」の名に値し、その精神を生きている人々だった。
 汽車は富士見へ着いた。私たちは満ち足りた思いを抱いて、しっとりと湿めった高原の道を森の家の方へと登って行った。空も山も晴れ、道にも野にも爽かな風がそよそよと吹き渡っていた。私たち親子四人はいつ誰からともなく歌い出して、シューベルトのあの名高い「音楽に寄す」を独逸の原語で歌っていた。

  おんみ優しき芸術よ、
  人の世の荒きいましめ
  我に辛つらかりし小暗き時をそもいくたび、
  おんみ我が心を温かき愛に燃えしめ、
  我を引きてより善き世にはいざないしぞ!

 私は歌う娘夫婦の声を聴き、妻の声を聴き、また我と我が声を聴いて眼がうるみ、咽喉のつまるのを覚えた。遥か北西の空、日没のあとの浅黄いろに澄み晴れた諏訪湖の空には、金紅色に酔った高い夕映えの雲が二ひら三ひら、感動のなごりのように浮かんでいた。

  

 

 

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 野鳥と風景

 小鳥たちの晩春初夏の合唱や森のオルフォイス黑鶫くろつぐみのことを書いてから、もうかれこれ半年が経過した。毎日の平均気温が零度以上には昇らなくなり、霜柱や氷が日ましに深くなり厚くなってゆくこの十二月なかば、今われわれの森に居残っているのはかなりの数の四十雀、日雀、柄長の一隊と、それに混じって細いはんのきや白樺の幹をこつこつ叩いている地味なこげらと、群になって赤松の針葉の中へ寝に来る元気な小河原鶸こかわらひわと、昼間でも暗い檜や椹さわらの植林を好んで暮らす少数の懸巣と、いつも孤独を楽しんでいる黒白赤の美しいあかげらと、時々さっと飛び出して霜にけむる開墾畠のほうへ急ぐ夫婦の雉鳩ぐらいのものである。
 もちろん森を一歩出れば、冬枯の藪には百舌もずも頬白も青鵐あおじもいる。鴉や雀のいることは言うまでもない。また谷へ下りれば、氷に縁どられた流れの上を水や岩とすれすれに飛びながら、時々「ヴィツ・ヴィツ」という声を聴かせる河鴉かわがらすもいる。そういう水に近い村落ならば黒褐色できびきびしたみそさざいや、このあたりで一般に「ちちん」という方言で呼ばれている鶺鴒せきれいの一種背黒鶺鴒も家のまわりで容易に見ることができる。こういう鳥たちは大抵は去年の冬からずっとここに棲んでいて、前記の森の連中と同様一年じゅうをわれわれと共に暮らしているのである。そして更にもう一歩踏み出して山へ入れば、なお幾種類かの居着きの鳥に出逢うだろう。もちろん彼らが雪の山から餌を求めて山麓の里のほうまで下りて来ることは充分有り得るので、はしなくもそういう彼らに遭遇した時の嬉しさはまた格別である。たとえば、凍りついて動かない水車のほとりのつるうめもどきの薮に、ある朝ちらと見た濃い空色の瑠璃鶲るりびたき、またどんどん雪の降りだした午後、裏の林檎畠へすっと飛んで来て堅い芽をついばんでいる、咽頭の赤い、頭と羽根と尾のまっくろな鷽うそなどがそれである。
 こういう遭遇は一面から見れば確かに僥倖に違いないが、しかしやはり普段からの眼の修練と注意力の練磨とが大切な条件となっていることは言うまでもないであろう。私の気のついた時に友は気がつかず、私にはよく見えるのに彼にはさっぱり見えないということはしばしばある。たとえば二人は橋の上から夏の谷川を見おろしている。流れる水の波紋を透して浅い水底に一匹の魚の姿が見える。魚は大きな鮠はやで、上流の方へ頭をむけ浅瀬の砂へぴったりと腹をつけて、ひらひらと薄い胸鰭を動かしたり、ゆらゆらと長い尾鰭を揺すったりしている。彼の形と体色とは流れや砂の色に見紛うほどだが、それでも私にはちゃんと見えている。ところが私の友にはそれがどうしても見えない。いくら説明してやっても見えない。友人のためには魚の保護色と擬態とが充分に効果を発揮しているわけだが、私に対してはこの際すべて無効である。しかもこの夏の渓流と涼しい魚の姿とが、同じ視力を持っていながら自分の友人に見えないことが何としても私には歯がゆい。つまり、眼前の幸福を分かち合うことがどうしてもできないからである。そしてそういうことは鳥の場合にも珍らしくない。
 それとは少し違うことで残念な例を野鳥の場合で一つだけ挙げれば、一般に人が眼の網膜には映しているがよく見ていないこと、鼓膜には受取っているがよく聴いていないことである。彼らには青鵐あおじも頬白も田雲雀もみんな同じものに見える。赤腹の歌も黒鶫の歌も同じ歌に聴こえる。これが始終自分の家のまわりで野鳥を見たり聴いたりする機会に恵まれている田舎の人なのである。もっともこういうことは日本だけとは限らず世界じゅうどこの国にもあるものとみえて、英国のグレイ卿も彼の野鳥に関する著書の中で、ブラックキャップ(頭黒虫喰ずくろむしくい)とマーシュティット(小雀こがら)とを平気で一緒にしている百姓や、鶫の歌もブラックバード(黒歌鳥)の歌もごっちゃにして聴いている祖父母や両親のことを書いていた。ハドスンや米国のジョーン・バーローズも似たようなことを書いている。ある初冬の日の寒い午後、私は家の近くの広い裸の耕地に二三百羽の群をなして下りているその年最初のあとりの大群を眺めていた。その耕地は中新田へ通う道路に沿っていたが、ちょうどそこへ道を登って来た兄弟らしい農村の青年と少年とが通りかかって、「えらい雀だな」といいながら小さい方が小石を拾って投げつけた。私が「雀ではないよ」というとその二人は顔を見合せて憫笑するように笑った。そこで持っていた望遠鏡を貸して覗かせながら、そばから雀とあとりとの羽色の著しい相違や鳴声の違いを教えてやったら、初めて蒙を啓かれたような驚きと赤面とを見せて、それでも感激したように幾度も礼を述べて帰って行ったのであった。
 ところでこのあとりの場合にしても、また前にちょっと述べた瑠璃鶲るりびたきや鷽うその場合にしても、彼らの姿や行動の可憐さ潑刺さ、その羽色の美しさは、彼らをとりまいていたその時その時の環境や、時間や、気象状態や、その他さまざまな因子の合体したものが一つの風景あるいは背景となって、そして私に極めて鮮明な、いきいきとした、永く忘れることのできない、思い出すたびに心の暖くなるような感銘を残したのである。これが若しも籠に飼われて粒餌や摺餌で養われているあとりや瑠璃鶲や鷽だったとしたら到底そんな感銘の与えられないことは確かである。十二月の曇り日の午後、さむざむと褐色に煙る落葉松からまつ林のむこうに、もう雪の来た八ガ岳を見る広い淋しい裸の開墾地で、刈跡にこぼれた蕎麦の粒でもついばんでいるのか、幾百羽という大群をなして散らばっているあとりの群。黒と白と黄と褐色とで美々しくよそおい、鮮かな橙黄色で胸を染めたそのあとりが、何十羽ずつの塊りになって、霜に崩れた畝から畝を、あるいは高くあるいは低くぞろぞろと羽毛の波のように移動したり、一時に颯と飛び立って「キョッキョッ」という光沢のある地鳴きの声を発しながら、一団の雲のように舞ったり輪を描いたりして、ふたたび驟雨のように乾いた耕地へ降って来るのだったとしたらどうであろう。そして事実この光景は、また全然別の何枚かの「あとりのいる風景」と一緒に、私の野鳥の画廊の中に貴重な一幅として永く保存されているのである。
 この秋にも私はそういう絵を何枚か新らしく手に入れた。今はそのうちの二枚だけを並べて見よう。
 十月なかばのある日、正午をすこし過ぎた頃、私は入笠牧場の枯草の中へすわって弁当をつかっていた。そこは諏訪郡から上伊那郡へかよう山の鞍部で、海抜千八百メートル、私の地図には御所平峠という峠の名まで書いてあるが、永年の風雨に曝らされて白骨のようになった牧柵に断ちきられて、夏ででもなければその柵をあけて通る人も無いような寂しく高い、しかし明るくて静かな、そして西方伊那の谷から木曾駒ガ岳や御岳方面へのひろびろとした眺望を持つ、まるで天然の公園のような一角だった。私のすぐ眼の前には早くも晩秋らしく紫がかった鳶色に枯れた入笠の本岳が、比較高度二百メートルの大きな美しい円錐形を峙てていた。そしてその腰のあたりから私の休んでいる牧場の打ち開けた鞍部へかけては一面に深いずみの叢林で、折からそれが紅葉の真盛りだった。空そのものは冷めたい藍色に澄んでいたが、かなりの西風が絶えず雲塊を運び、わけても本岳の右手には高く厚ぼったい積雲が湧き上って、日があたると夏の入道雲のようにぎらぎらと輝いた。その雲の暗さ明るさと、深い藍色に澄んだ空と、ずみの大叢林の今を絶頂と思われる真紅の色彩とは、絶えず照り曇りする日光の作用を微妙にうけて、その変化のすばらしさ、到底筆にも口にも現し得るものではなかった。そして実にその真紅のずみの叢林のここにもあすこにも三四羽ずつ群になった小雀こがらがいて、「チッピデーデーデー」と聴こえる低い声で鳴きながら、燃え立つような茂みの中をひっそりと枝移りしているのであった。
 小雀こがらは頭部の黒色を除くと全体が灰いろと淡い褐色と白との一見地味な小鳥ではあるが、望遠鏡で近づけて見るとその地味な羽色には得もいえず柔かな真珠の光のようなニューアンスがあって、今彼らの棲まっているずみの木のとげとげの枝にびっしり着いた真赤な葉や赤い小球果とじつに見事な対照をなしている。そしてその「デーデーデー」という低い寂びた声がこの場の秋の静かさや淋しさとよく調和し、いよいよそれを深めているように思われるのであった。この小雀ではもう一枚の絵がある。それは今から六七年前のこれも晩秋に群馬県の御荷鉾山みかぼやまへ二度目の登山をした時だった。東御荷鉾の頂上を辞してさて西御荷鉾へ取り付こうとする鞍部の投石峠なげいしとうげで、やはりこの鳥の小さい群を見た。何の木だか忘れてしまったがもうすっかり葉を振るった白い膚をした灌木の藪に五六羽いて、やはり「デーデー」をやっていた。標高千十一メートルのその峠からは榛名や赤城がよく見えた。そして投石峠の名のとおり薄板のように剥がれた岩石が一面に露出していて、私もちょっとその小さいかけらを拾って眼下の秋の風景の中へ投げこんでみたいような誘惑にかられた。そしてその時の小雀こがらの背景をなすものは、実にこの暗緑色の片岩の大規模な露出と、何の木だか忘れた白い膚をした藪の茂みと、巨大な赤城山を前景として遥かに見える上越の山々であった。
 最近のもう一枚の絵には五十雀ごじゅうからがある。それは十一月一日のことだったが、その日は丸一日どんな山の端、どんな遠い地平線を掠める兎の毛ほどの雲もない快晴で、エマースンがあの有名な「自然論」の冒頭で言っているように「あらゆる命ある者が皆満足の色を帯び、地に横たわる家畜の群も偉大にして静穏な思想をいだいているように見える」――そんな日だった。私は昼飯をすませると久しぶりに家から一里ばかり北の本郷村立沢たつざわのほうへ散歩に出かけた。途中到るところで見た賑やかな稲のとりいれ風景や、珍らしく春のような歌を聴かせていた一羽の青鵐あおじの話などは抜きにすることにして、一時間後には私は立沢の部落のすこし奥、立場川の右岸の尾根の上の、赤松や欅けやきや水楢みずならの百年以上を経た大木が林のようになっている所に坐っていた。尾根の崖下は渓谷を埋めている赤や黄の最後の紅葉。眼を上げると頭上にかぶさる枝の網目を透いて八ガ岳の西岳や阿弥陀の峯頭がちらちら見える。そして振り向くと裾野の遥か北西に、もう初雪を粧った北アルプスの槍や穂高の連峯が、ほんのりと浅黄色に染まった地平の空を背景にして水色の影絵のように並んでいる。と、いきなり、私のすぐ頭の上を「ヒョイ・ヒョイ・ヒョイ・ヒョイ」という鋭い小鳥の叫びが掠めて通った。驚いて首を廻してその叫びを追うと、声の主は五十雀で、それが三羽、近くの水楢のがさがさな幹や枝へそれぞれ取りついて、もうきつつきのように樹を縦に攀じ登ったり、四十雀のように逆さになって枝を渡り歩いたりしていた。頭から尾へかけての爽かな灰青色と、真白な腹や淡いオレンジ色の腰のあたりが実に美しい。しかも長くて真直ぐな嘴と、幅が広くて短かい尾羽とを、空へ向けてぴんと反らした姿勢が胸のすく程きびきびしていた。そして絶えず忙しく活動し、樹々の間を矢のように飛び廻って少しもじっとしている暇も無いのである。もちろん私にも雙眼鏡を取り直して焦点を合せている暇などは無かった。それでただじっと見ていたが、その凝視の三分間だか五分間だかの短かい時間を、私は全く緊張し充実して生きたのであった。
 野鳥の姿態や、色彩や、動作や、囀鳴の美には、彼らの環境の自然がいつでも有力な寄与をしている。そしてその自然は地方により、個々の場処により、季節により、時間により、また天候によって、彼らのための千差万別の背景となるのである。そしてそれが彼らと調和しないということは決してない。この調和の美を味わう能力は、それを練磨し涵養することによって誰にでも持つことができるのである。私にしても野外を生きることのできるかぎり、おそらく今後もなお幾多の野鳥のいる風景に出逢えるであろう。
 それにしても故郷東京で、初春の朝の隅田川に都鳥の名で浮かんだり、出船入船も賑やかなその河口の空や東京湾の水の上を白手拭のように翻ったりしているあの鷗かもめの群を、果たしていつの日に再び私が見ることだろうか!

 

 

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 冬空の下

 理学博士中谷宇吉郎氏の数多い随筆の中に、南カラフトの凍原ツンドラや北海道の泥炭地帯の晩秋の景観を書いたものがある。これらはいずれも実に見事な文章で、寡聞な私としては、ああいう北地の荒涼とした広がりの美をかくも新鮮に、物的にディングリッヒ、しかも溢れるばかりの愛情をもって叙述したものをいまだかつて知らない。もしも私の貧しい知見の中に、似たような場所について、しいていくらかの相似のものを探がすとすれば、それは北独逸の泥炭地方、ディットルマルシェンに近いヴォルプスヴェーデで、そこに集まった一群の若い画家たちの仕事や生活や、その土地の寂しい自然の移るともない季節の推移を、一枚の大きな微妙な壁掛を織上げるようにして書いた、あの詩人リルケの「ヴォルプスヴェーデ」ぐらいのものである。
 すこし長いがそのリルケの文章を引き、中谷博士のものを引用することを許していただこう。そしてリルケのほうは今手許に原本がないので、大体谷友幸氏の翻訳にしたがうことにする。
 「それは実に珍らしい国土である。ヴォルプスヴェーデのちょっとした砂丘に立てば、四方にひろがっている土地を見わたすことができる。暗色の地に濃い花模様をふちどった、百姓女の肩掛をおもわせる眺めである。それはほとんど襞もなく平らに横たわっている。道路や水路は遠くまで通じて、ついには地平線の奥に没している。そのあたりから何とも言えぬうつろいやすい壮大な天空がはじまる。空は一枚の葉にも姿をうつしている。そして万象がたえずその天空と交渉しているように思われる……」
 中谷博士はこう書いている。「車窓から見たツンドラの広原は、非常に清らかな感じのものであった。この感じは、その後ツンドラの中へ踏み入って見て益々深められたのであるが、実に意外であった。見渡す限りの平坦な草原は、濃い橙黄色を基調として、ところどころに茶褐色と白緑びゃくろくとの斑点が、ぼかし染めに染め出されていた。茶褐色のところはいそつつじの灌木の叢であり、白緑の色はみずごけが毛氈のようにふくらみ茂っているところである。その間にグイ松のかなり大きい立木がツンドラの絨毯をつきぬけたように、乱立して無造作に立っていた。そのグイ松の殆んど全部が立枯れの木であって、樹皮はもういつの昔かにとれてしまって、灰色にしゃれた木の骨だけが立っていた。中には風雨に倒されて、ツンドラの草原の中に、半ば埋もれて横わっているものもあった……」
 リルケの画イマージュは、おそらく、渺茫とした春の哀れに美しい北欧泥炭地の風景であり、中谷博士のそれは、潔くも遠く悲しい秋のツンドラの美である。そしてそのいずれもが新らしく降った雪や、草の芽や、星のような無垢な清らかさを息づき、その雙方が果てなく遠い地の広がりを物語っている。ヴォルプスヴェーデで一枚一枚の白樺の一葉を愁いめぐっていた暮春の空は、冬近いカラフトの凍原で一株一株の磯躑躅や、グイ松や、白緑の水苔の紐に映っていた空である。そして詩人と学者とによって描き出されたこの二枚の画から郷愁のように歌いながらわれわれを呼ぶのも、地平線から湧いて地平線に落ちこむその空である。われわれの文学であまりにも顧みられることすくない広さと、遠さと、平らかさとの休息感。たまたまそれに接した時の魂の名づけようもない安らいと、静けさきわまる喜びと、清らかな澄んだ哀愁。そういうものをこの二人の作者は心の底に柔かに感じている、持っている。そしてリルケ自身が

   Im flachen Land war ein Erwarten
   nach einem Gast, der niemals kam,
   平らな国では待っていた、
   いちども来なかった一人の客を。

 と言ったその「平らな国」の消息を知っている人を、私はツンドラや泥炭地を前例もないような筆で描いた、我が中谷宇吉郎氏に見るのである。
 こういうことを思い出すのも、実は秋が逝き冬が来て、私の住んでいる信濃の国の空や空気がいよいよ澄み、周囲の山々や原野・村落の風景がすっかり冬枯の色になって、その色彩も土黄色、水いろ、白緑、薄墨などに積雪の白を配した、沈んだ寂しい調子に統一されて来たからである。しかし冬の概念を寒気というものと結びつけるとすれば、ここの冬は「忍び寄る」とか「訪れる」とかいう感じでは来ない。それは一時にどっと湧いて流れ出し、山々の間に張りつめるとか、あるいは切って落としたように落下して、そのまま重たく沈澱し滲透すると言った感じである。
 同じ信州でも地方によって幾らかは違うと思うが、ここ諏訪郡の富士見附近では、十月のなかば、すでに新雪の富士や北アルプスを秋空のかなたに遠望し、近くの八ガ岳や甲斐駒・鳳凰などの頂きに薄っすりとかかった初雪を見る。しかし山野を照らすもみじは未だある。自然が青と金と朱紅色とで象嵌され研ぎ出されたような、きらびやかな、静穏で暖かな、うっとりするようないく日がつづく。十一月の初め、稲の収穫がおわり、その調整もすむと、山の落葉掻きやぼや採りが一斉にはじまる。朝から森や林に熊手の音がひびき、夕方には小山のように枯枝を背負った女や子供が道を通る。ちょうどその頃、大抵は数日間北西の強風が吹きすさむ。最後の枯葉が吹落されてあらゆる凹みを埋め、黄いろい霧のような落葉松からまつの葉が横なぐりに吹きつける。こうして落葉掻きも漸く終ると入れちがいに御葉漬や沢庵漬の行事がはじまる……と、とつぜんある朝家の内にも自然にもびっくりするような冬の相貌。それは来ている。いたる処にいる。柄杓の動かない水瓶にも、寒暖計の赤い液柱にも、巻煎餅のように堅く巻込んだ石南しゃくなげの葉っぱにも、土の表皮を亀裂させて膨れ上った地面にも、日光を反射し屈折している真白な山畑の斜面にも、その亜高山帯針葉樹林に一夜にして霧氷の燻し銀をかけた八ガ岳にも蓼科山たてしなやまにも。ぱりぱりの霜と結氷、冬の進駐。それは悠々と坐りこみ、断乎として君臨する。そして雪だ。それは大抵は根雪であり、その上へ積もって凍ってはまた新らしい雪をうけとる雪である。もうこうなると毎日の平均気温は氷点下六七度の辺をうろつき廻り、二月へ入るとそれより深い海底を探ぐりに行き、三月の半ば頃までは浮き上って来ない。気温の上昇がもはや気紛れの業ではなく、グラフの上の曲線の形がちゃんと納得のゆくようになり、たとえ摂氏半度か一度の上昇でも、人が信頼と感謝とをもって押し戴くその三月の半ば頃まで。
 しかし信州は自然も人間もこうした冬に馴れている。それは試練の時でもなければ天災の襲来でもない。だから不慮の寒気に見舞われた暖地のように、慌てたり取り乱したりするということはない。あらかじめ適応の備えがあり、ことに臨んで一々の処置が適切に行われる。植物にしても枯れるものは潔く枯れ、耐寒装備のあるものはその装備に身を固めて、決してだらだらと旧套を曳きずったり、よもやに引かされたりはしない。人間も一律に冬構えをととのえ、分に応じて来春五月頃までの野菜をむろに貯え、冬じゅうの燃料を小端こばを揃えてきちりと家のわきへ積み上げる。信ずるに足るほど几帳面で、厳寒もまた楽しいほどその生活は冬に順熟している。綺麗さっぱり掃除の出来た秀麗な山野の自然と、籠城の門扉はひっそりと厳重に、しかし内部では何かこまこまと楽しい生活というのが、先ずこの信州の冬のように思われる。
 英国の自然文学者リチャード・ジェッフリーズは「野兎の棲息地」という随筆の中で、「同じ冬でも田舎の冬は都会の冬ほど、そんなにひどく寒々としてはいない」と言っている。彼の言うのはもちろん屋外の冬のことだが、事実田舎には未だ「いろいろな樹があるし、その樹のまわりには小鳥も残っている。楡の木からクィップ! ホィップ! という声が響く。ホイップ! クィップ! それはレッドウィング(脇赤鶫)が自分たちのほうへ近づいて来る者をその鞭ホイップでおどすのである」 日本の冬の野外ならばさしずめ百舌もずというところででもあろうか。彼もまた路傍の冬木の枝へ棲まって細い尾を上下左右に振り廻しながら、近づいて来る者を「キイ・キイ」と鋭い叫びで叱っておいて、さてひらひらと飛び下りて近所の枯藪のなかへ姿を消すのである。
 野外の好きな私は冬でも好んで田畑や山林をあるき廻る。たまには二里三里と遠出をすることもあるが、冬は日も短かく道も他の季節ほど良くないから近距離の散歩が多い。
 それでも森の家を中心に東西南北、一足出ればどの方角へ向っても自然界の観物にことは欠かない。たとえば裏手の二百坪に足らない小さい池の周囲を一廻りするだけでも見る物はたくさんある。その池の氷が溶けて水の現れている処では、水中の枯草にとまって半分麻癖したようになっている水かまきりや松藻虫も観察できるし、またその松藻虫をついばんで氷の表面へ投げ出して、つるつる滑って行くのを追駆けて食っている背黒鶺鴒の一風変った動作を見ることもできる。また池の片隅には氷に臨んで無数の枝を張り出した一株の大きな河柳が生えているが、その枝には赤銅色に光った鱗片に包まれた小さい角のような芽がもう出ている。この鱗片の袋が何時すぽりと抜けて中から銀毛に被われた花穂が現れるか、それを見る日が今から楽しまれるのである。またその近くには煙ったように冬枯れたうつぎの藪もあって、株の中ほどには今年の春の百舌もずの巣もあまり壊れずに残っている。来年もまたおそらくここへ営巣するのだろうと思う。そして池畔にたたずみながら、土手の枯草の中に、まるでびっしりと縫いつけたように、数十枚の赤い根葉の薔薇結びを見せている幾株かの大待宵草の、その冬の堅忍の美を、嘆称することもできるのである。
 古外套とスキー帽と、厚い手袋とゴム長靴とに身をかためて、冬の高原の耿々と晴れた日を外へ出ることがなんと私に楽しいだろう! 樹下の霜住をざくざく踏んで森を出る。するともう路傍の土手のむこうに白金の粉をまぶしたような八ガ岳の連峯がずらりと出る。その土手を越えて尾根の開墾地へ登ると、こちらへ向けてがっくりと口をあけた深い釜無の谷奥に銃眼を切った城壁のような鋸岳が千筋の雪条を懸けつらねて黒々と立ちはだかっている。その左手の前山の上には、逆光に漬かって輪郭だけ金色に光る甲斐駒が皚々と白い大金字塔をそばだてている。それから更に左へ、何段かの階段状断層を薄青い影絵のように見せた紫水晶の鳳凰山。そしてそのまた左には編笠岳の長いゆるやかな裾を踏まえて、南西の半面を薄薔薇いろに匂わせた荘麗な富士。そして天心から八方へ落ちかかって浅黄いろに明るむ冬の大空。
 尾根の開墾地を下りて田圃に面した小松原を横ぎる。小松の枝の頭にはどれもこれも一掴みずつふわりときのうの雪が載っている。この原には蓮華躑躅もまた多いが、五つに割れたその褐色の蒴果と一緒にもう来年の花の蕾が、幾重もの鱗片に堅く包まれて玉のように着いている。よもぎの藪はがさがさになって立枯れているが、その枯葉がくるくると捲き上って裏の銀白色が表へ出、表が黒変して裏になっているのが、このよく日の当った青空の下では不思議に美しい。よく見れば斑々と雪の残った枯草の中に、松虫草の根葉が、これも濃い緑の薔薇ロゼット結びをひそませている。
 小松原から田圃へむかって尾根の裾の小径を行く。南へ向いたこの尾根の麓には普通の野薔薇とてりはのいばらとが断然多い。野薔薇のほうはもう葉を落として裸だが、てりはのいばらには未だ葉がついていて、その小さい卵形の葉が紅葉して名の示すように光っている。両方とも堅くて赤い球形の実を綴っているが、てりはのいばらの実のほうが少し大きくて形も長めだ。冬枯の景色の中で見出すこういう赤い葉だの実だのが、私にあの「僧院」の詩人たちの、特にヴィルドラックや、デュアメルや、アルコスたちの詩を何となく思い出させるのは、いつもながら不思議でもあるし懐かしくもある。ここにはまた数本の若いずみの木も生えていたが、その棘とげのようになった短かい枝に、こちらへ蒼白い腹を見せて一匹の小さい蛙が刺さっていた。いわゆる「百舌の早贄はやにえ」であるが、もう殆んど硬くなった四肢が、わけてもその小さい両手が、しかも指をひろげて、最後の苦痛をそのまま現しているのがいじらしかった。
 田圃には雪がある。稲の刈株だけを残した雪は薄い煎餅のように凍って、踏めばぱりぱりと爽快な音をたてて割れる。そしてこの雪の被いがあるせいか、それとも土質のせいか、田圃には霜柱という物が出来ていない。二三箇所場所を変えて調べてみたが、どこもただこちこちになっているばかりである。やはり雪のせいよりも砂質の客土のためであろうかと思う。とにかくこの火山の裾野では、冬歩いていてぼこんぼこんと足のもぐらないのは、踏み固められた大道と実にこの田圃だけである。
 水涸れ時の落し水はその量が夏の半分以下に減っている。それでも「コボコボ」だの「チョッピ・チョッピ」だのと言って流れているのが嬉しい。幅は一跨ぎよりは少し広いが、石が崩れたり木の根が洗い出されたりしているその水際には、さまざまな雲形模様に縁どられた薄い氷が庇ひさしのように張り出している。そしてその雲形の氷の縁へ日光が当ると、光が分解されて虹のような色彩に輝くのである。流れの中から頭を出している丸石は昔のオランダの白い襟飾のような氷の環をめぐらしている。ところがその環の下で後からできる新らしい氷が押上げるためか、初めにできた環の内側と石との接触点に狭い隙間があいている。あるいは石からの熱の伝導でその部分の氷が溶けたのかとも考えたが、環自体がせり上っているのだから、やはり下からの押上げによるのだろうと思う。この落し水の一段高い堰せきのようになった所には太い氷柱が何本も下がっていて、その下流の淀になった所は表面が一様に凍っている。この氷柱や氷の板は白い摺硝子のように見える。無数に含まれている微細な空気の泡が光を乱反射するので、こういうふうに只白くて不透明なのであろう。ここでは、今年の春、はんのきの根元に巣を営んでいる夫婦のみそさざいを発見したが、きょうは未だ出逢わない。あの時にはこの水際に並んでいるはんのきがすべて紫いろをした太い花穂を垂らして金緑色の花粉にまみれていた。今はまだその花穂が短かく堅くただ褐色に光っているばかりだ。みそさざいのためにも時期がすこし早過ぎるのであろう。しかしいちばん早く春のきざしの動き初めるのは、何と言ってもこの水際である。
 田圃を後に今度はむこうの松山の尾根を越える。松山の中は一面の雪で、野兎の足痕が縦横に走っている。ひらたい飴玉のような糞もころがっている。この尾根は面積も広く林や藪も深いので兎なども棲んでいるのである。ところが林を越えて南向きの暖かい枯草の斜面へ出たら、いきなり「ドドドッ!」と強い翼の音を立てて一羽のやまどりの雄が飛び出し、日をうけて金褐色に輝く全身を見せながら、低く一直線に飛んで斜面の下手の方へ姿を消した。この十一月の初めには程近い立沢の林で足元から飛び出した雄雉を見た。高冷地開発の手がだいぶ伸びて来たとはいえ、まだまだこの附近にはこの種の大形の鳥や兎が残っているのだと思って嬉しかった。
 尾根の切れ目からぐるりと廻って先刻の田圃の上手を逆に横ぎり、時どき来ては寝転んで雲を仰いだり、本を読んだり、煙草をふかしながらぼんやり風景を眺めたりする、家から十町ばかりの、例の芝とクローヴァの斜面へ行く。芝は短かく金色に枯れているが、クローヴァは未だ柔かな緑の葉をいくらか残している。ここからの眺望は初めに述べた尾根の開墾地からのに似てそれよりも一層雄大である。空は正面に遠く一線を劃した編笠の裾へ向って円天井のように落ちこんでいる。その下には甲府盆地があり、ごたごたと重なり合った山々を越えて更に武蔵野や相模野が横たわり、そのまた向うには太平洋の広袤がある。そう思うと、東風吹く頃には、たまには海の香でも運ばれて来はしないかという気さえするのである。
 ここではまた前面の広い田圃へ下りて稲の落粒を拾っている五十羽ほどの小河原鶸こかわらひわと、うしろの落葉松からまつ林の箒のような枝に鈴生りになって棲まっている二三百羽の頭高かしらだかとを見た。今年の春に「別れの曲」を聞かせて遠い北方の繁殖地へ帰って行ったあの頭高がまた訪れて来たのである。彼らはじっと動かずに羽毛をふくらませて棲まっている。日に照らされた胸の銀白色や、嘴の下にちょっぴり斑点をつけている赤栗いろが実に美しい。そしてその背景は日光の金粉のかすかに漂っているかと思う例の青磁いろの大空、我が国の文学ではほとんど問題にされないが、胸をひらいて仰ぎ見れば、そこから無限の啓示の落ちて来るあの大空である。
 そしてきょうも日が暮れれば、その大空の東から悠々と、堂々と、牡牛やオリオンの大星座が上がるだろう。やがて夜も更ければ、獅子座のレグルスを中に火星と土星との三つの星が、霜に満ちた空間を明るませて爛々と昇るだろう。そうしたら井戸のポンプできょう最後の水を汲みながら、私の妻があの好きな歌を口ずさむかも知れない。シューマンの「兵士の花嫁」、

  Es scheinen drei Sterne so hell dort uber Marienkapell,
  むこうのマリアの御堂の上に星が三つ
  あんなにきらきら光っている

を。ちょうどいい。なぜかと言えば私もまた詩人として勲章も星の飾りも持たない一兵卒であり、妻としてはその私の胸にあの冬の夜空の三つの星が欲しいだろうから。それに又あしたは降誕祭前夜であり、そのむかし東方の博士らも、あのような星の光に導かれて幼い救世主を祝福しに来たのだから……
                  (十二月二十三日)

 

 

 

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