復活祭の日に
春分後の満月につづく最初の日曜日が復活祭にあたる。当用日記や外国の山のカレンダーなどにも歴然とその日の欄に印刷されている以上別に自分で算出しなくてもいいようなものの、新しい年の始めに「理科年表」で三月二十一日か二十二日過ぎの満月の日を、(それも春の宵にさし昇る満月の日を)探し出すのが先ず楽しいし、その日からすぐ後の日曜日を見つけてそれと確認することが、何かほのぼのと心暖まって嬉しいのである。
キリスト教徒でもない私たちの家庭に、クリスマスならばともかく、復活祭を祝うことが一体いつごろから貽まったのかはっきりしない。しかし茹卵ゆでたまごの殼を赤や黄に染めたり、それを広い庭の草木のあいだや花壇の中へ隠して小さい孫たちに捜させたりした光景がはっきり思い出せるから、むろん信州の富士見から東京玉川の新居へ移って後の事にちがいない。外国にそういうしきたりの有る事をいつか何かの本で読んで、幼い者に卵捜しをさせて喜ばせ、大人の私たちは額に入れたキリスト復活の画を前に、例の讃美歌「うるわしの白百合、ささやきぬ昔を」を歌うのが、それ以後かなり長いあいだ続く行事になった。しかし孫たちも次第に大きくなり、やがて住居すまいも東京から鎌倉へ移るようになったこの幾年、あの和なごやかな春の行事もいつとなく忘れられて、今ではたとえ谷戸やとの路傍の草の中や狭い庭の植込みへ卵を隠したところで甲斐がなく、せいぜい私と妻だけが、それもめいめい台所や書斎にいて、昔忘れぬあの歌を口ずさむような仕儀である。
その復活祭が、少なくとも私にはクリスマスとは反対に、年と共にいよいよ意味深いものに思われて来るのはなぜだろうか。単なる祝日としてではなく、しみじみとした宗教的な気持で待たれ迎えられるのはなぜだろうか。なるほど蘇よみがえった季節の春を野に山にさまざまな花が咲き、鳥が歌い、うらうらと晴れた空に柔らかな大きな雲が去来する三月末や四月初めの希望を孕はらんだ楽しさは我われ人ひと共に同じだろう。しかし一つの仕事に精魂を傾けてこの世の生を重ねながら、もはや余命の程も知れている身には、そうした美しい季節と共に年に一度は必ずめぐって来るこの日を、何やら自分にとってもまた許し与えられた恩寵の日であるように思うことが心ゆかしなのである。「死ねば死にきり」には相違ないが、この世に残してゆく見果てぬ夢や愛情が、いつかまた蘇って達成される事があるかも知れないという有り得ぬ望みを約束する日のようにも思われ、それをキリストの奇蹟の日になぞらえて考えるのが楽しいのである。言葉では言いつくせず、筆にするのもまた恥ずかしい事だが、この気持、わかる人には或いはわかって貰えるかも知れない。
こういうふうに復活祭を意識するようになって以来、その日には何か因ちなみのある小さい文章か詩を書く事がここ数年の習わしになった。それらは一月末のきびしい寒中に迎える自分の誕生日の物とは違って、どことなく柔らかみを帯び、優しい色や匂いのようなものを湛え、小さい狭い個人の感慨ではなく、広く世界に共通する喜びや祝いや解放の気分に貫かれている。つまり誕生日よりものびのびとし、春という季節に和まされて自由を得た気持が、「復活」という美しい名の日のために何となくロマンティックに動き出すからであろう。去年もおととしも詩を書いた。それより前の或る年には旅先の松本でこの日を迎えて、町の教会の鐘の音ねの事や、城の花壇の花の事や、そこから眺めた残雪の北アルプスの事を書いた。そして更に古くは信州富士見の高原で、次のような二節を中にした「受難の金曜日」という一篇を得た。
かつて私が悔恨を埋めた丘のほとりの
重い樹液にしだれた白樺に
さっきから一羽の小鳥の歌っているのが、
二日の後の古い復活祭を思い出させる。
すべてのきのうが昔になり、
昔の堆積が物言わぬ石となり、岩となる。
そしてそこに生きている追憶の縞や模様が
たまたまの春の光に形成の歌をうたう。
それならばやがて石となり岩と化する私という人間の仕事とその追憶が、いつかの春の光に新しい形成とよみがえりの歌を歌ってくれればいい!
「シュッツの《復活祭オラトリオ》というのがレコードになっているようですね」ときのう妻が私に言った。「四、五日前ラジオの家庭音楽会の時間にやっていましたよ」
それを聴いて初耳の私はさっそく東京銀座の楽器店へ電話をかけて照会した。するとどうだろう、その盤ならばもう十年ほども前に出ていて、ちょうど今在庫しているという返事だった。そこで直ぐに送ってくれるように頼んだあと改めてカタログを調べて見ると、なるほどシュッツの項の真先まっさきに載っていて、その上独唱歌手の名まで出ていた。私は自分の迂闊に苦笑しながら、ハンス・モーザー教授の『ハインリッヒ・シュッツ』でその復活祭オラトリオの、正しくは「我らの唯一の贖あがない主にして救い主たるイエス・キリストの喜ばしくも勝利に輝く復活の物語」の条くだりを改めて読み直した。そしてその後半をラジオで聴いたという妻の話から、音楽は歌もレチタティーヴォも全体の感じが颯爽として男性的で、わけても最後のところが大変華やかに勇ましく聴かれたという事を知った。好きなシュッツの作品で未だ知らない『キリスト復活の物語』。私は今静かにその到着を待っている。
まだ一月以上も先の事だから今から予想したところでどうにもならないが、願わくばその復活祭の日が佳いお天気の日であるようにと祈られる。その頃にはこの北鎌倉でも路傍の草が柔らかに青み、山々の中腹にサクラの花の雲が浮び、レンギョウ、イヨミズキ、トサミズキ、ハクモクレンなどが家々の庭を黄や白に彩り、各処の寺の名あるカイドウの満開が人々の口にのぼるだろう。また山の田圃でカエルが嗚き、糸トンボが飛び、ウグイス、アオジ、シジュウカラ、ホオジロなど、野鳥の歌も賑やかだろう。生き生きとよみがえった自然とおのずから浮き立つ人間の心。私もまた冬に閉ざされた生活や思想から解放されて、その清新な季節をもっと潑溂と生きようとするだろう。
そういう確かな春の回帰と喜ばしくめでたい復活の祭りの日だ。谷戸やとの奥にひっそり暮す私の家にも敬虔な祝いと喜びの歌がなくてはならない。そしてその歌は、(私たちの讃美歌は別として)、やがて送られて来るシュッツであり、すでに手もとにあるバッハのカンタータである。そして先ず頭に浮ぶのは第四番の『キリストは死の繩目につきたもう』と三一番の『天は笑い、地は歓呼す』、それに二四九番の『復活祭オラトリオ』だが、今度は前記のシュッツの物と比べる意味でもこのオラトリオを聴こうと思っている。
ティンパニーを随えたトランペットがリズムを刻んで行進する輝かしいアレグロと、オーボエと弦楽器とが限りなく美しい瞑想的な旋律を奏でるアダージョとから成る第一曲の些麗なシンフォニアは、そのままこの聖譚曲のこころを物語ってあますところの無い序奏である。それは主の復活という思いもかけぬ吉報に対する信徒たちの狂喜と、墓地への突進と、涙に濡れた静かな感謝とを歌っている。そしてそのアレグロの主題をさながらに受けついで、「来たれ、急げ、走れ、汝ら速やかなる足よ。イエスを覆いたる穴へと行け」と呼び合って駈けつけるペテロとヨハネ二人の使徒のテノールとバスの二重唱に、「我らの救い主蘇りたまえば、笑いと戯おどけ、心を去らず」と喜ばしげに歌う信徒たちの合唱が花束のように加わって来る第二曲は、前記のシンフォニアと共にこの大カンタータの言わば眼目とも受け取れるものである。
ヤコブの母マリアが歌う第四曲のソプラノのそれと、ペテロの歌う第六曲のテノールのそれと、マグダラのマリアが歌うアルトのそれと、三曲のアリアはいずれもそれぞれ魅力に薫って美しい。「霊よ、汝の香料は今は早没薬ミルラにあらず。汝の不安の思いはただ輝く月桂の冠によりてのみ鎮めらるればなり」という最初のソプラノのアリアは二本のフルートを助奏にしているが、愛情を堪えて柔らかに歌にまつわるこのフルートの調べはまことに天国的なものと言える。弱音器付きの二梃のヴァイオリンと二本のブロックフレーテに助奏されるテノールのアリア、「わが死の苦しみをしてただまどろみの如く穏やかならしめたまえ」は、シュヴァイツァーも言っているようにバッハの書いた最も美しい宗教的揺籃歌である。弦楽器と笛とが織りなす和やかな音の波間を、救い主への信頼の歌が小舟のように進んで行きながら、その間に幾たびか Schlummerシュルンメル(まどろみ)の一語を感動的に長く顫わせて聴かせるところが、第八二番のカンタータ『われは足れり』の中のSchlummertシュルンメルト einアイン(安らかに眠れ)を思い出させる。そして三曲の内の最後のアルトのアリア、マグダラのマリアの歌うアリア、「告げよ、急ぎわれに告げよ、わが魂の愛するイエスに、われいずこにて見まみえまつるを得べきかを」は、ヴァイオリンとオーボエ・ダモーレの前奏に乗って強く逞しく行進曲のように歌われる。これはもう単なる美しいアリアと言うよりも、愛と信仰に燃える女の熱望と急迫の叫びである。
私だって二千年の昔を生きて
もしもこの足が蹇なえていたら、
膝で躄いざっても彼女に続いたに違いない。
と、このアリアを初めて聴いた時、私は詩に書かずにはいられなかった。
やがて来る復活祭。私にとっても意義深いその陽春の一日が、どうか平和と佳い天気に恵まれるように!
|