音楽への愛と感謝


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

Ⅰ 生い立ちと音楽    

「詩と農夫」への願い

私のタンドレス・プルミエール

二つの星

 

音楽に寄す

「白樺」とベルリオーズ

愛人の死

 
 

高田博厚との出会い

新しき土地にて

大震災の中での和解

 
  畑中の小さい巣      

 

   

Ⅱ 魂の音楽 ――バッハ、シュッツのことなど――

 

 

小さな美しい集まり

復活祭の日に

二つの『マタイ受難曲』

 
 

私の音楽と妻の音楽

ヘンデルの『メサイヤ』

人間の絆

 
 

安らかなる眠りのために……

トリオ・ソナタの夕べ

受難曲の夕べ

 

ヘルマン・ヘッセと共に……

わが慰めの音楽

フールニエの演奏




  Ⅲ 自然と音楽      
 

富士見高原に想う……

高原の子供の歌

信濃の人たちと共に

 
 

神々しい楽園の歌

雲とともによみがえるもの……

わが『イタリアのハロルド』

 
 

山岳的シューベルト

シベリウス『交響曲第六番・七番』

 

同族の魂

聖母マリアの歎きの歌

妻に……




Ⅳ 精神こころの音楽 ――モーツァルト、ベートーベンのことなど――

一日の果ての宵の明星

一月の三つの誕生日

善き音ずれ

 

高き潮のごとく

二人の女友達とモーツァルト

ヴィルドラックの死

 
 

ついに聴いたフィガロ

古沢淑子さんのスタディオで

晩年のベルリオーズ

 
 

フーゴー・ヴォルフの歌

歌による心の旅路

クルプとゲルハルト

 
 

ベートーベンを歌う

『荘厳ミサ』をきく

ベートーヴェンの誕生日に

 
 

善に通ずる美

ベートーヴェンの小さい花園

対照的な二つの生命!

 
 

愛のない情事

おんみ優しき芸術よ

 

 




                                     

 

 Ⅰ 生い立ちと音楽 

 

 「詩と農夫」への願い

 こんにち私の晩年の生を支えている文学というもの、また私の現在の晴れやかな真昼の太陽、澄みきった夜空の星ともいうべき音楽という芸術、この二つは世の多くの若者が避けがたい試練として一度は経験するであろう人生の最初の嵐のなかで、一途いちずに燃える恋愛と父親への不逞な反逆とのなかで、むしろその勢いを活気づけ、それを正当づけるもののように私に来た。
 その後私がある音楽の巨匠の言葉として知った「美をとおして善へ」いざなう芸術が、当時は自我にめしいた私の無謀な悪戦の矛ほこでもあれば盾たてでもあったのだ。思えばそんなことに力を貸したように見えるトルストイやロマン・ロラン、ベートーヴェンやヴァーグナーこそわざわいである。しかしそれはもちろんちがう。彼らはその同時代者や後に続く者たちのもっとけだかい魂を養い育みながら、結局は余徳をもってわれわれのような者をまで救済したのだ。事のついでにもう少し言おう。私はその頃を、自分にとっての小さな「疾風怒濤シュトゥルム・ウント・ドランク」の時代を、満二十三歳から二十八歳まで生きた。苦しい自活と奮闘と悲しい恋の六年間たった。そしてそれから、おもむろに凪なぎが来た。美しい哀れな恋人が死に、やがて関東の大震災とそれを機縁の父親との和解、そして現在の妻との結婚と、東京郊外での百姓の真似事や花作りを片手間の文筆生活。上高井戸の畑中の新築の小屋に園芸用の器具と一緒に書物がならび、片隅の裸の蓄音機から『田園交響曲』や『ジークフリートのラインの旅』が響いた。
 詩を書くジャン・クリストフとヤスナヤ・ポリヤナの敬虔な農夫。この二つの人間像を自分の中で一つに生かしてみたいというのが私の切なる願いだった。そして思えばそのためにこそ、昔気質かたぎの父親と争って家出もすれば、幾度かの会社勤めをしながら文学の勉強も続けたものだった。その私が恩寵というか僥倖というか、めぐりめぐって詩と音楽と田園に生きる毎日を持つことになった。私から「音楽」と題する次のような詩が生れたのは実にその頃のことである。

  バッハのガヴォット、
  それは魂の聖殿での神々しい歓喜の舞踏だ。
  この世ならぬ光を浴びている初春はつはるの丘の枝々、愛の空、愛の池、
  葉先をしたたる水煙に
  善の花びらの照りこぼれるような、
  人間世界へ遙かにとどく使信のような、
  また愛人の黎明の夢を垣間かいま見るような……
  人の持ちながら
  あまり惜しんで用いる無我の慈しみとその喜悦と。

 もう五十年にもなる昔の春だった。そのガヴォットをクライスラーが弾いていた。小屋の前の畑をこえて向うを走る玉川上水と桜の並木、うっとりとするような空気の奥にまだ雪を残した富士山が、薄青い前山を踏まえて柔らかに立っていた。私の心は嵐のあとの調和の海のようだった。その豊かにひろがったきらきら光る水面を、時として暗くする悔いや哀憐の雲かげはよぎったが、人の心を美をとおして愛の思いや善へみちびくこの神々しい音楽が、「永遠に女性なるもの、我らを引きて行かしむ」の言葉のとおり、早くして悔恨やあやまちの荷を負った私を解放と救いの空へさしまねくのだった。

 明治生れの私には、音楽は、おそらくほかの同時代者へと同じように、器楽によってではなく歌によってその最初の使信をもたらした。
 それは私よりも六つか七つ年上の乳きょうだいで「梅」という名の娘が、私を眠らせるために歌ってくれた子守歌だった。私は父の厄年に生れたために、その頃まだ残っていた古い習慣として、他人の家へ里子さとごとして預けられて五歳の時までそこで育った。土地の名は今でも残っているが昔の東京府荏原郡大井村字浜川。北は鮫洲、南は鈴ヶ森、家の前を古い東海道が走り、道の向うはすぐ海だった。里親夫婦は海苔の養殖と釣道具を売ることを業としていた。「梅」は二人いる娘の妹のほうで、東京から預かった里子である私の子守役だった。そして真実の姉のように思って慕っていたその「お梅ちゃん」が、毎日夕方になると私をおぶって、海苔屑やアオサの打ち上げられている内海の岸の砂地や氏神お諏訪さまの境内を、その子守歌を歌いながら歩くのだった。すると快いその声、その調べ、彼女の襟心とから上がってくる甘やかな体臭、そういうものが一つに溶けて、さすがに疳かんの強い子といわれた私を幼い眠りに誘うのだった。
 母が父の後添いで、しかも生れるとすぐ里子にやられた私に実母の子守歌の記憶はない。しかし私はそのために誰を恨みもしなければ羨みもしない。私には遠い昔の夕暮れのお梅ちゃんの子守歌がある。どんなブラームスのヴィーゲンリートにも、どんなフォーレのベルスーズにも、決して劣らない愛の姉の夕べの歌が。そしてそれが私にとって、人間から人間へと運ばれる音楽の、この世での最初の言伝ことづてだった。
 満五歳で東京の実家に引きとられた私は、その翌年近くの小学校へ入れられた。今の中央区港町、その時分の京橋区新港町の小さい運河のへりにある築地小学校だった。私は今度はそこでほんとうの音楽にまみえることになるのだが、それを語る前にすこし周囲の状況を述べておかなくてはならない。
 そのころ父はかなり手広く回漕業を営んでいた。国内各地のさまざまな特産物を自分の持ち船で運搬し交易する商売である。だから永代橋の下手、石川島や佃島のこちら岸、隅田川に向った私の家の裏手には、水面から石垣へ架ったしっかりした桟橋があり、幾棟かの倉庫があり、表通りには磨き立てた帳場格子をかまえた店がめった。船はかなり大きい三檣船が二艘。そういう船がどこかから積み荷を満載して帰って来ると、倉庫も中庭も酒樽や米俵や炭俵や海産物などでいっぱいになった。店じゅう、家じゅうがごった返した。母や女中たちまでその手伝いに駆り出されて、まだこの実家の空気になじまない孤独な子供の気持などは察する暇もなかったらしい。「お前はここのうちのれっきとした子なんだよ」と母から厳重に言って聴かされていながら、ともすれば私は浜川の仮親や乳きょうだい恋しさに涙をこぼしたり、かたくなに唇を噛んだりしていた。そして夜の添い寝の母からも、女中たちからも、あわれ、どんな子守歌も聴かれなかった。その孤独を慰める友といえばいくらか浜川の海を思わせる隅田川の水のひろがりと鷗かもめのむれ、晴れた日の房総半島と東京湾の沖の雲、石垣のあいだを出入りする蟹かにや船虫ふなむし、そこに咲いている少しばかりの草の花……そういうものへの愛情が後になって私を博物学や地理学や、気象学へと引きつけたのは事実だが、それもまた音楽同様、私の神秘な魂の「郷愁」の上に早くして播かれた種だった。
 築地の外国人居留地に近い古いみすぼらしい小学校(それでも私には懐かしい母校!)。そこへ入ると前田先生という女の先生が一年生の受持だった。その先生が、後になって思えば、私の生い立ちを母から親しく打ち明けられたらしく、特別に心を使って優しく面倒をみてくれた。元来が寂しがり屋で人恋しい質たちの私は、若い美しい先生にたちまちなついて甘えるようになった。しかしその甘え方が度を過ぎると、先生は急にこわい顔をして私を睨んだ。
 前田先生は学校から近い明石町に住んでいた。明石町には教会があって、先生は日曜日ごとにそこのミサに列席した。そしてある時そのミサに私を連れて行った。父親には内緒でという約束だった。なぜならば、これも後になって知ったことだが、私の父は大の「耶蘇ぎらい」で、自分の息子がその耶蘇教の教会へ行くなどとはもっての外のことだったから。
 しかしその息子に、初めて聴くあの荘重なオルガンの響きや讃美歌の合唱がなんという驚き、なんという心の震えを誘って迫って来たことだろう。それは幼い素朴な魂が生れて初めて出会った音楽、まったく見知らぬ世界から潮のように高まって来て、その魂を引きさらって行く音楽だった。そしてそれを歌っている男女の大人や子供たちが自分と同じ人間でありながら、みんな清らかで賢くて、彼らの神への信仰で互いに堅く結びつき、声を合わせて歌うことで同じ誓いを強めている。元より六つか七つのその時の私にこんな理解や想像はあるはずもなかったが、宗教的ともいうべき一種聖なる戦慄と感動にとらえられたのは事実である。私はそれからもなお二、三度先生に教会へ連れて行ってもらったが、家にいても風に乗って運ばれて来るその教会の鐘の音が、孤独な小さい魂への優しいおとずれでもあれば慰めでもあった。
 小学校尋常科の三年、四年。自分の口から言うのも変だが私は声がよくて、その頃はまだ「音楽」といわずに「唱歌」といっていた学科が好きでもあれば得意でもあった。今言うボーイ・ソプラノだったらしい。その唱歌の担任である鎌原先生が、私には珍しく思われた指環を光らせて小さな古風なオルガンを弾きながら、深いきれいなバリトーンで初期のいろいろな小学唱歌や、新しくできた「青葉茂れる」などを歌って教えた。先生は中年で、西洋人の血がまじっているかと思われるような端正な風貌の大だった。その鎌原先生が私の音楽的感性と声とを認めて特別に目をかけてくれ、その時分の東京下町の小学児童には破格な「ロング・ロング・アゴー」や「オールド・ブラック・ジョー」を、しかも英語で教えてくれた。そしてそれがこんにちでもなお失われない外国の民謡や宗教歌に対する私の特殊な愛の、そのそもそもの契機だった。
 ともすれば不毛と見える頑かたくなな大地にも時に恵みの種子が落ちて、人知れぬ一人の春を形づくってゆく。

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 私のタンドレス・プルミエール 

 貧しくても見すぼらしくてもおもむろに形づくられてゆくその春に、これもまた未来の一つの予感として、未知の遠方から文学の柔らかい息吹いぶきのようなものが運ばれて来た。それは東京下町の旧弊な商家の、大人ばかりの索漠とした世界に生きている一個の小さい魂にとって、音楽よりもさらに近く頼もしく、いっそう身になる救いであり天啓であった。
 その最初の天啓は巌谷小波という人の日本や世界のお伽噺の本から来だ。母の実家である霊岸島の家の叔母が、或る年の女正月の回礼に、私にと言って持って来てくれた年賀の贈り物だった本は何冊か重ねて丁重に半紙で包まれ、紅白の水引が掛り、熨斗のしが添えてあった。父は私が学校の読本以外の本を読むことにさえあまりいい顔をしなかったが、新年を盛装して人力車で乗りつけて来た妻の実家さとの嫁から、改まって名ざしで贈られた本だとなれば、舌打ちをしながらも見て見ぬふりをするほかはなかった。ああ、初めて手にするこんな美しい本、これから開けるたくさんのたくさんの未知の世界! 隅田川の水が日光を照りかえす鉄砲洲の家の離家はなれの濡れ縁が、言わば幼い私の読書のための止木とまりぎだった。そしてこの小鳥はそこを隠れがのようにしてひたすら読んだ。振り仮名をたよりに多くの知らなかった字を覚え、文章の味のようなものをなんとなく感じ取り、書かれている物語を通じて広い世の中というものの美しさや醜さ、喜び悲しみのいろいろをほのかに知った。
 若くて利発な叔母はまた私にハーモニカも買ってくれた。私より年下の自分の子供たちに持たせるので、私にもひがみを起させないようにとの心づかいからであったろう。とにかく私は大喜びでそれを学校へ持ってゆくと、前に書いた唱歌の鎌原先生に見せてその正しい吹き方を教わった。そのうちに一通り吹けるようになり、先生のオルガンと合奏のできるところまで上達した。月の出の夕暮れの築地つきじ河岸かしと、白壁の土蔵と、ハーモニカを吹く孤独の少年と言ったらば、大正年代の夢二の絵にでも出て来そうだが、そんな好個の背景をよそに私は自分の家では吹かなかった。いつでも霊岸島の叔父の賑やかな家へ行って従弟いとこたちに教えながら吹いた。その私の吹くハーモニカの曲をその頃すでに七十歳に近かった祖母が好きで、よく「喜ィ坊や、また何か聴かせておくれ」と言って、いくつかの唱歌や黒人霊歌の哀調を私に吹かせたり歌わせたりしてはそっと涙を拭くのだった。その涙も、今思えば、自分の娘の実子でもなく、また生みの母親の顔も知らない義理の孫である小さい私への、情けと憐れみのそれであったかも知れない。そんな時叔母はさりげなく顔をそむけて、次の間で着物を畳んだり片づけ物をしたりしていた。
 ごく若い時に商人を志して単身東京へ出て、持って生れた負けぬ気と、商才と、勤勉と、ほかにいくらかの幸運にも恵まれて或る程度の成功を手にした私の父は、だから「人間は商人あきんどでなくては駄目だ」という一種頑迷とも言える固定観念を持っていた。官吏や会社員も駄目なら軍人や学者も駄目。他人に自分の値打ちをきめられて当てがい扶持ぶちの金をもらう月給取りはすべて駄目だ。そこへゆくと商人は強い。商人はいくら小体こていにやっていても独立独歩、唯我独尊、(不思議や父はこんな言葉を知っていて時どき使った。嘉永五年生れの彼はきっと村の寺子屋か何かで習ったのだろう)、人からとやかく指図をされたり、つまらないやつにへいこらしたりする必要はこれっぱかりもない。男一匹、実力さえあれば大手を振ってどこでも歩けるし、なんでもできる。この父がもしも今のような時世に生きていたら、いくら唯我独尊でも或いは倒産を免れないかも知れないが、その頃は一応それで通ったらしい。そういう彼の理想的商人は大倉喜八郎だった。そこで父はその理想像にあやかるようにわが子に同じ名をつけた。ところが出生届を受付けた役場の書記が戸籍原簿に「郎」の一字を書き落した。私の小学校入学の時に初めてそれを知った父は驚き怒ったが、七年もたってはもう後の祭りだった。今も残っている五歳の時の写真の裏には、気の毒な父の破れた夢のかたみとして、ちゃんと喜八郎と書いてある。
 それはさて置き、父は百姓になることを嫌って東京へ出たが、実家は東京府北多摩郡砂川村で長業を営んでいた。現在の立川市砂川町である。その家は今でもあって、土地の旧家として四代目がいよいよ立派に父祖の業を継いでいる。しかし私の言いたいのはそれではなく、幼い自分がそこで初めて「田舎」というものを見、音楽や文学と共に私のその後の運命を決定するものとなった「自然」というものに、これを最初として接したことである。私にとっての三位一体、音楽自然文学。今から七、八年前にも、私は「田舎のモーツァルト」という一篇の詩を書かなかったろうか。
 砂川の家へは父に連れられて八歳の正月に初めて行った。小さい閑散な立川の駅の前から父やたくさんのみやげ物と相乗りの人力車で、武蔵野の桑や麦の畑の中の田舎道を半時間も揺られてゆくと、けやき並木の五日市街道から少し引っ込んだ一軒の大きな農家がそれだった。東京からの親子の客は歓待された。わけても子供の私は女たちから珍しがられ可愛がられて、鶏だの家畜だのを見せてもらい、地所内の冬枯れた畑や雑木林を連れ廻された。そんな時、「東京の坊や、田舎は何もなくてつまらないだろう」と慰めるように聞かれても、見る物すべてが初めてで、それが残らず好奇心をそそる物として気に入った私には、つまらないどころかおもしろくてたまらなかった。空や大地ののびのびとした拡がりと、高い屋敷林にかこまれたどっしりとした村の農家。遠くまでつづく畑の果てには青い山波が横たわり、雀ばかりかいろいろな名も知らない小鳥が、そんな平和な風景の中で、群れになって散ったり鳴いたりしている。それは東京はもちろん、消えかかった記憶の中の浜川の海べとも違っていた。それは私にとって本の中で知った世界でもなく、現実に見るまったく新しい世界だった。「自然」という言葉は知らなくても、それへの愛の実感が私に迫った。
 今でもはっきり覚えている。その砂川の家に一晩泊った翌る朝、ずっと年上の従兄いとこが猟銃を持ち出して、たぶん私を喜ばせようためだったろう、裏の高いけやきの樹へ集まって賑やかに鳴いている小鳥の群れへ轟然と一発打ちこんだ。運の悪いのが一羽打たれて落ちて来だ。「カワラヒワだ」と言われたその黄と茶色の小さい鳥はしばらくばたばた苦しんでいたが、やがて従兄の大きな手の平の上で動かなくなった。私は喜ぶどころではなかった。この平和な田舎の冬空の可憐な者を虐殺して得々としていることで、心中強く彼を非難した。
 自然への私の愛は、その後毎年の暑中休暇に行く大磯や箱根の逗留でいよいよ深く培われていった。休暇の前半を暮す大磯では海水浴を楽しみながら海の自然に親しみ、赤黒く焼けた体で休暇の後半を過しに行く箱根の宮ノ下や底倉では、温泉につかるよりもむしろ好んで山や渓谷の自然を「探検」した。そういう私や従弟たちを引連れて行ったのは祖母と叔母と私の母、それに女中が一人か二人。男の大人はいなかった。「夏は来ぬ相模の海の南風に我が瞳燃ゆ我が心燃ゆ」は若かった日の吉井勇の短歌だが、まだ恋知らぬ私の瞳と私の心が、長い休暇の夏ともなれば、待ちかねた自由と解放の海に山に燃えるのだった。
 尋常一年から高等二年までの小学校六年間を私は首席で通したが、父はそれが当り前だというような顔をして別段褒めてもくれなかった。それどころか作文や唱歌や理科の成績が特別に優秀だというのでかえって機嫌が悪かった。「ちっとやそっと記事文なんていうものが書けたり、花や虫けらのことを知っていたり、芸人になるのでもないのに歌や笛がうまくったってそれが一体何になる。それよりももっと字を上手にしっかり書け。もっと一所懸命に算盤そろばんの稽古をしろ」。これがお定まりの小言であり訓戒だった。事実父は字がうまかったし、商売がら算盤も達者だった。少し酒が廻ってご機嫌の時などは、うしろから馬乗りになるようにのしかかって、筆を持っている私の小さい拳こぶしを握って強引に引き廻した。そういう時の酒臭い息がたまらなく厭だった。又たまたま興に乗れば自分も算盤を持って来させて、「天一てんいち無頭むとう作九さっきゅうの一いち」などという呪文のような九々を口にしながら、まだ学校では習わないむずかしい割算を教えてくれたりした。そのおかげか、やがて商業学校へ行くようになってからも、私は字こそ相変らず下手だったが、算盤では誰にもひけを取らなかった。
 音楽はと言えば、その芸術への開眼の恩師鎌原先生は私の尋常四年の時に学校を退職された。卒業式の日に小さなオルガンで「螢の光」を弾かれたのが最後だった。それ以来もう先生に会う機会はなかった。しかし私にはその先生のかたみとして、歌を歌うことが、笛を吹くことが、簡単な楽譜を読める力が残された。そしてそれ以上に尊いものとして、音楽を愛する心が深くしっかりと植えつけられた。私は自分のそれなどとは比較にならないほど見事な、床しい、或いは匂やかな音楽への最初の目覚めを経験した多くの人々を知っている。その人たちと比べる時、言わば自分の初恋タンドレス・プルミエールのなんと哀れに見すぼらしく、なんと寒々さむざむと貧しげだったかを思わずにはいられない。
 しかし私はしあわせだ。深く音楽に魅入られた心は、その後私の選んだ文学の仕事の中で独特の軌跡をえがきながら今日に及んでいる。たとえ哀れに貧しげであったとしても、私の初恋はほとんど成就したのである
 小学校を高等二年で出ると引続いて当然のように商業学校へ入れられた。京華商業学校は当時御茶ノ水の向うの本郷元町にあった。私はそこまで五年のあいだ、京橋の鉄砲洲から往復共に歩いて通った。学校では特に理科と英語の先生に恵まれた。そして商家の子弟の学校だというのに、ここでもまたこの二つの学科が父の意に反して好成績だった。その父はちょうどその頃二艘の持ち船を台風のための難破で失ってかなりの損失を蒙った。そのために永年の商売に厭気がさしたか、店を畳んで仕舞屋しもたやになり、その後はずっと地所と家作と株式投資で暮すことになった。しかし私に対するその不満と不信のまなざしは相変らず強かった。
 商業学校を卒業すると私は叔父の関係している或る銀行へ勤めた。どこかの大商店へ見習い奉公にでも出すつもりだったらしい父としては不本意だったに違いないが、周囲の大多数の意見に押されて厭々ながら承知した。ところで私の方は半ば籠を放たれた鳥のようだった。小遣にも困らなかったし、父親の目をのがれることもできたので、文学の本や雑誌を読みはじめ、さらに生意気にも、その頃流行の西欧文学者の作品を英訳の本で読みあさった。たとえばモーパッサン、メーテルリンク、ゴルキー、チエホフ、ツルゲーネフ、アンドレイエフ、イプセンなどを手当り次第に。
 明治四十四年十九歳の時、「文章世界」や「スバル」などで初めて高村光太郎の名を知った。わけても「緑色の太陽」や「出さずにしまった手紙の一束」のような新鮮な芸術意欲と、時の権威や世俗への逞しい反逆精神に貫かれた文章に心酔してその人間と風貌とを深く慕った。また英訳ではトルストイの『復活』から甚だ強い感銘をうけて、それ以来丸善などで手に入れることのできる限り彼の他の作品を読みふけった。とりわけその宗教的な民話に打ちこんでいると、日本の寒々とした自然主義作家たちは元より、もうモーパッサンもアソドレイエフも路傍の人にすぎなかった。
 ベートーヴェン、トルストイ、そのトルストイの数多い評伝の中でも私がRomainロメイン  Rollandロランドと英語読みしていた未知の著者、そして高村光太郎、またその頃の親しい友人高橋万吉にすすめられて読みはじめた雑誌「白樺」とその同人武者小路実篤、志賀直哉、長与善郎。こういう輝かしい、或いは慕わしい名が山として私の遠景にそびえ、深い森林や清列な流れとして私の周囲をめぐることになった。私の野はきわめて徐々として未来の景観を成しつつあった。たとえそれがその後いくたびかの危険や脅威にさらされたとしても。

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 二つの星  ―ロランと高村光太郎―

 私の青年時代の思い出から高村光太郎の名を逸したら、一番大事なところへぽっかりと穴があく。その高村さんとの最初の出会いの頃を思いかえすのは、五十幾年を経た今日感慨のまことに深い、しみじみとした時間を生きることである。それにまたあの時分の若い高村さんを今生存している幾人の人が知っていて、そのうちの誰が一体書き残して置くだろう。
 右から左へと大きく分けた房々と厚い漆黒の髪、思いのほか尋常な鼻の下の豊かな髭、顎あごがすこし長めな白皙はくせきの顔にほんのりと赤い唇、そして反俗的あるいはニヒリスティックともいうべき一種白眼はくがんのまなざし。そういうのが若い日の高村光太郎の風貌だった。
 明治の終りから大正の初め、私はその顔に夜の東京の町なかで二、三度会った。いずれも冬だった。新橋の日吉町にカフェー・プランタンというフランス風の料理店が開店して間もなくのこと、ある晩私はその店の主人の松山省三という人から、「あれが高村光太郎さんです」と指さして教えられた。教えられたその人は常連らしい洋画家や文士のむれから離れたガラス戸ごしの別室で、たった一人食卓の上に小さいトランプの札を並べたり、寒中だというのにアイスクリームを舐めたりしていた。こんなことは今ならば珍しくもなんともないが、その頃の私などは目をみはった。またある夜上野広小路の寄席よせの前ですれ違ったこともある。高村さんは絣かすりひとえに袴をはき、古い麦藁帽子をかぶって池いけノ端はたの方へ早足で歩いて行った。その後ろ姿には「孤高」といった感じがあった。人通りの少ない往来には冷たい霙みぞれが降っていた。
 神田淡路町の角の中川という牛肉店の隣に、琅玕洞ろうかんどうという瀟洒な美術店があった。後になって知ったところでは、高村さんが外国からの帰朝後次弟の道利さんにやらせたいわば画廊で、その頃としては前記のカフェー・プランタン同様珍しい店の一つだった。私はそこへ時どき油絵や工芸品の陳列を見に行きながら、高村さんの裸女のデッサンをほしいと思ったが高いので買えなかった。そういう時のある晩その琅玕洞に近い電車道でまた高村さんとすれ違った。今度は和服の上に筒袖のレインコートを羽織っていた。私は思いきって初めて言葉をかけた。そして咄嗟の口実をさがして、外国の美術雑誌ではなんというのがいいでしょうかというようなことをたずねた。言いたいこと、聴いてもらいたいことは山ほどあるのに、急場とはいえ択りに択って拙劣な質問をしたものだった。すると見ず知らずの若者から往来でいきなりそんなことを聞かれた高村さんは、白い眼をして「スティデューというのがいいかも知れません。英語です」とぶっきらぼうに言い捨てると、そのままさっさと行ってしまった。内に籠った丸みのあるバリトーンの声だった。路上に取り残された私は一人で赤面した。あんなにも慕っていた人との千載一遇の好機なのになんという愚かな質問をしたものだろう、なんと自分の声が震えおののいて嗄しわがれていたことだろう。そう思うと我ながら腑甲斐なく恥ずかしく、拳こぶしを握って頭をたたいた。
 大正元年に斎藤与里、岸田劉生、木村荘八などという一群の若い画家たちによってフューザン会というのが結成され、「フューザン」という雑誌が出た。高村さんの名もそれに加わっているので見落すことも買いそこなうこともなかった。そのフューザン会の第一回展覧会が京橋の袂の読売新聞社楼上で催されて、採光もよくない狭い会場には後期印象派や後年の草土社の空気が熱っぽく渦巻いていた。しかしそれら十数人の青年画家たちの、噴きこぼれた魔女の大鍋のような油絵のあいだで、わが高村光太郎の躑躅つつじの静物や自画像が、ひとり涼しく懐かしく「離群」の歌を歌っていた。一つの運動の起りたてには、その激しい勢いのために、ともすれば玉石の質が混淆されがちである。そしてフューザン会がやはりそれだった。岸田劉生は、しかし、すでに一頭地を抜いていた。だが私はむしろカタログのパンフレットに印刷されている高村さんの「さびしきみち」という平仮名書きの詩に深く心を打たれた。

  かぎりなくさびしけれども
  われは
  すぎこしみちをすてて
  まことにこよなきちからのみちをすてて
  いまだしらざるつちをふみ
  かなしくもすすむなり

  ――そはわがこころのおきてにして
  またわがこころのよろこびのいづみなれば (後略)

 それはこれまでの高村さんの詩にない清らかな光を纏まとい、新しい未知の生ヘその第一歩を踏み出そうとする者の勇ましくも聖なる身震いのようなものを感じさせた。
 やがてフューザン会が分裂して雑誌「フューザン」も「生活」と改題され、すでに出ていた「白樺」から武者小路実篤さんたちがその仲間に加おった頃の潑溂とした芸術的雰囲気には、弱年の読者で一個の局外者に過ぎない私などをも奮い立たせるものがあった。しかしその私にとって何よりも大きな出来事は、高村さんがその「フューザン」と「生活」ヘロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』の中の「叛逆レヴォルト」の一部を翻訳して寄稿したことである。ロマン・ロラン。そうか。それ以前から私の最も心酔していた『トルストイ伝』の著者Romainロメイン Rollandロランドがすなわちこのロマン・ロランだったのか。ああ『ジャン・クリストフ』! なんというすばらしい作品、なんという理想的な作家だろう! 私は「さびしきみち」の詩人の手に成る僅か数ページのその翻訳から、今まで読んだどんな作家のどんな作品もとうてい比べ物にならないような深い感銘と強い衝動を受けた。これこそ真に天啓だった。
 ああ芸術! 人間がその一生を捧げるに価する芸術というもの! とうとう私はお前を見出したのだ。そのお前を新しく我とわが身から産み出すために生き抜くことの、なんと男らしく人間らしいことか! おお脱却、おお自由! 他人からの、周囲からの、また自分自身からの潔い脱却とそれによって贏ち得る自由、魂と思想の自由、創造の自由とその歓喜。そしてジャン・クリストフこそその旗手だ。
 それ以来、私は断然文学に身を投じようと決心した。父の意に反しても止むを得ない。その怒りを買って、よしんば家を出るようなことになっても仕方がない。そのためにならば「いまだ知らざる土」よ、「寂しき道」よ、私にもまた行く手遙かに続くがいい。
  ――そはわがこころのちちははにして
  またわがこころのちからのいづみなれば

 大正二年から三年、私は勤めのかたから主としてギルバート・キャンナン英訳の『ジャソークリストフ』を読み続けていた。そしてもう路上のすれ違いではなく、本郷駒込の新築のアトリエに時どき高村さんを訪ねていた。そしてそのたびに彫刻について、絵画について、詩について、さらに自己の全存在を擲なげうっての創作的態度について、いつも何かしら肝に銘じるようなことを教えられて帰った。ある時は夕暮れの雪が大窓の枠に白い花綵はなづなを懸け、鉄の暖炉に太い松薪が音をたてて燃えるアトリエで、高村さんの読んでくれるヴェルレーヌやボードレールに恍惚と聴き入った。フランス語の勉強を思い立ったのもその頃だった。またある時は、当時私の陥っていたある年上の女との熱烈な恋愛を告白して、しみじみとした力づけの言葉を与えられた。後にして思えば高村さん自身も、まだ長沼の姓を名乗っていた智恵子さんと相愛の仲の時代だったのである。そして大正三年十一月のある日、その高村さんが出たばかりの自費出版の詩集『道程』を届けに丸ノ内の勤め先へ来られた時、私はその本を堅く胸に抱きしめたまま、呉服橋の方へ帰ってゆく彼の後ろ姿を玄関の石段に立っていつまでもいつまでも見送っていた。その詩集の見返しには自筆のフランス語で、「まことにまことに汝らに告げん。無くて叶わぬものはただ一つなり、云々」という聖書からの一句が書いてあった。
 同じ頃、それまでずっと雑誌「白樺」を読んでいた私は、その幾人かの同人の中でも武者小路実篤の名と作品とに最も強く惹かれていた。その人の書く物は同じ時代のどんな作家の物とも違い、一見幼稚で舌足らずに見えていささかも技巧を思わせないその文体は、あたかも新鮮なすがすがしい山の泉のように私の心の渇きを癒した。それに彼がトルストイに深く打ちこんでいることも私を喜ばせた。小説『世間知らず』や脚本『心と心』も好きだったが、私としては生のままの感想を畑から取りたての野菜のように盛った『成長』を最も愛読した。それらはすべていきいきとして正直さに貫かれていたし、その書き方は、その頃の私のような若輩に、おのれを偽りさえしなければ自分たちにも書けるという気を起させた。そしてそこに高村光太郎と武者小路実篤との違いがあった。孤高の気を纏って離群癖のあった高村さんは時に高根の花だったが、訥々とつとつとして変人のように見えながら武者小路さんは、こちらさえおのれを衒てらわず正直ならばよく人を容れる器うつわだった。
 こうしてやがて私はその武者小路さんにも親しく迎えられるようになり、その人を通じて長与善郎、志賀直哉、柳宗悦、小泉鉄の諸氏とも個人的に識るようになった。そしてそこへさらに詩人千家元麿、画家岸田劉生、同じく木村荘八というような人々が加わった。たとえ私のためにではなくても、その人々のために一時代の機は熟そうとしていた。世にいう白樺時代である。そして私はこの新しい潮流に小舟をやりながらなお天の一方にロマン・ロランと高村光太郎という二つの星を見守っていた。

  Dioskuren, Zwillingssterne, dir ihr leuchtet meinem Nachen......
  双子座ふたござよ、私の小舟を照らし導く双子の星よ……(シューベルトの歌曲から)

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 音楽に寄す ―こは彼より奪うべからざるものなり―

  忘れもしない大正四年一月三十一日、その日は私の誕生日だったが、ちょうど英語で読みつづけて来た『ジャン・クリストフ』の第九巻が終って、いよいよ最終巻の「新しき日」へと取りつくことになった。そして私にはこの偶然が徒事ただごととは思えなかった。今日からの二十三歳と新しい日。それは一つの啓示であり、自分にとっての祝福でもあれば鞭撻でもあった。私は作者ロマン・ロランがその冒頭にシューベルトの『音楽に寄す』の最初の四小節を据えた二ページほどの前奏曲プレリュードのような美しい文章を、敬虔な気持と熱っぽい身ぶるいとで訳しにかかった。そしてそれが、ロランの文章を日本語にした私の最初の経験だった。
 新川・新堀のどっしりとした酒倉に囲まれて、今なお重たく甘美な明治の香を漂わせている東京下町の家。その晩おそい冬の夜の奥座敷から「まだ寝ないのか」と半ばなじるように響き迫ってくる父親の声におびやかされながら、辞書を引き引き翻訳した思い出の文章がここにある。
 「生は過ぎゆく。肉体と霊魂とは流れのように流れてゆく。年月としつきは古りたる樹の肉のうちに記される。有形の世界はすべて亡びてはまた蘇よみがえる。おんみばかりは過ぎ去ることがない。不死の音楽よ。おんみは内奥の海である。おんみは底深い魂である。おんみの清い眸ひとみに人生の渋面は映らない。おんみを遙かに、むらがる雲のように日々の列は飛ぶ。燃えるように、冷やかに、熱して、不安に追われて、一瞬のとどまる暇もない。おんみばかりは過ぎ去ることがない。おんみは世界のほかにある。おんみはそれ自身一つの世界である。おんみはおんみの太陽を持ち、おんみの法則を持ち、おんみの満干両様の潮を持つ。おんみは夜の天空の広野にきらめく車輪の痕を残してゆく星の平和を持つ。――それは見えざる牧者の確かな手がみちびく銀しろがねの鋤すきである。
 音楽よ。澄みわたった音楽よ。現世の太陽の烈々たる光輝に悩まされた眼にとって、月に似たおんみの光のいかに柔らかなことだろう! かつてそこに生きていた霊魂は、そしてその水を飲むために人々が足をもって泥土を攪拌した共同の水飲み場に背をむけた霊魂は、おんみの胸にすがりつき、おんみの乳房に渾々こんこんとして尽きぬ夢想の清水をすする。音楽よ。おんみ処女なる母よ。おんみはその浄き胎内に一切の感情を持つ。藺草いぐさの色の、蒼緑あおみどりなす氷河の水の色の眼の湖に、おんみは善と悪とを湛える。おんみは悪を超えている。おんみは善を超えている。おんみの内にかくれがを求める者は時の推移の外に生きる。日々の連続はわずか一日に過ぎないであろう。あらゆるものを噛む死はその牙を碎かれるであろう。
 私の悲しい魂を揺すってくれた音楽よ。それを私に、剛毅な、平和な、そして喜ばしきもの――わが愛、わが宝――として返してくれた音楽よ。私はおんみのけがれなき唇に接吻する。おんみの蜜のような髪の毛の中に私の顔をうずめる。おんみの手の柔らかな掌に燃える私のまぶたを置く。私たちは黙している。私たちの眼は閉じられている。しかも私はおんみの眼の言い難ない光を見る。物言わぬおんみの眼のほほえみを飲む。そしておんみの胸にひたと寄り添って、永遠の生の鼓動に聴き入るのである」
 音楽にたいするこのロマン・ロランの感謝の歌、このせつせつたる信仰告白を胸打たれながら訳していた私は、これに似たもう一つ別な歌や告白を、それより早く、前の年から、一人の女性にむかってひたむきに、熱烈に、初めはこちらからむしろ強制的に捧げていた。その女性は塚田睦子といって、課は違っていたが勤め先の同僚で、津田英学塾出身で英語をよくし、フランス語もわかり、私よりも三つ年上の、気品のある美貌と賢くて優しい心の持ち主だった。その私たちを強く結びつけたのは高村さんとの場合同様、今度もまた『ジャン・クリストフ』だった。彼女は浅草蔵前の静かな河岸通りに住み、私は京橋の新川に住んでいたので、大手町の勤め先からの帰りには時どき日本橋まで一緒になった。私はまだなじみの薄い頃の話題として当然のことのように今読んでいる『ジャン・クリストフ』の話をし、それを読むことをすすめ、きっと彼女が深い感銘を受けるだろうと思って、特に「アントワネット」を読むようにそれの入っている一冊を貸すことにした。弟オリヴィエと姉アントワネットとの悲しくも美しい物語である。この姉と弟の同胞愛きょうだいあいをやがて燃え深まった私たちの恋愛とくらべるのは必ずしも当を得ないかも知れないが、それから五年後、その薄命の姉のように、三十になるやならずの若い身空で死んで行った献身の女を心の目に浮べれば、過去もなければ現在もなく、ただ人の世の夕空遥かに清らかな宵の明星を眺めやる思いがするのである。
 真実の母を知らず、女きょうだいの慈しみも知らずに成人した私にとって、隆子は次第に優しい姉のような、美しい愛人のような女性に思われてきた。日本橋の電車停留所まで彼女と一緒にゆく私の足は、度重なるごとにだんだん伸びて、本石町、大伝馬塩町、浅草橋、そしてついには蔵前の彼女の家の近くまで歩いて送る仕儀になった。その道々私は自分の尊敬している芸術家や好きな本のことを話しながら、自分自身の生い立ちまで残らず打ち明けた。そしてその間じゅう、彼女にたいする私の気持はほとんど弟のそれだった。もちろんそこから彼女の同情や愛をかち得たいという下心がまったくなかったとは言えないが、それよりもまず彼女を姉のように思い、事実しばらくの間「姉ねえさん」と呼びながらいささかも不自然さを感じなかった。そしてそう呼ばれて返事をする時の彼女の困惑したような複雑な表情が、その貴族的な美しい顔にかえって一脈の風情ふぜいを添えた。事情があって離婚したそうだが、彼女は一度は人妻だった。
 或る晩神田美土代町の基督教青年会館で音楽会があった。いくらかは人目をはばかる私たちとして、二人揃ってそんな処へ行くのはこれが初めてだった。会場は、もっと混んでいてくれれば聴衆の波にまぎれて都合がいいのにと思われるほどすいていた。ヴァイオリンの独奏があり、歌があり、最後に若い男性のピアニストの弾くベートーヴェンの『月光』があった。正統の音楽をしかるべき演奏会場で聴く機会に恵まれなかった明治も中期生れ、東京下町の商家育ちの私にとって、それは初めて生なまで、初めて一つの纏まった曲として聴くベートーヴェンだった。私はその第一楽章のアダージョ・ソステヌートから早くも心を奪われた。縹渺と暮れなずむ谷間たにあいの夕べの空を大らかにさし昇って、静かにその光を増してゆく満月の姿。それが第二楽章のアレグレットでは月下の花のむれの舞踏のようになり、さらに終楽章のプレスト・アジタートに移ると、たちまち一転して重厚な、流動的な、ダイナミックな流れとなって岩に激し、両岸に吼え、たえず月光を照り返して燦然と輝きながら、この小さい傑作の終末へと落ちこんで行く……。
 ああ、一人の巨匠の音楽への感動とその共感のためにいや増す恋慕の心! 私はいつか隣席の隆子の手を堅く握りしめていた。するとその手もまた強く握り返してきた。いつもの別れの時のそれとは違っていた。心もち汗ばんで震えていた。私の血は躍った。彼女の血も躍っていた。そしてその夜の帰り道に、私は初めて彼女に恋の告白をした。彼女はそれを受けいれた。しょせんは一人の女性として。しかしまた「姉」と呼ばれるはかない嬉しさを捨てかねる一人の母性の女として。
 こうして親の目をかすめ、同僚の目を避けて楽しいむずかしい逢う瀬ランデヴーを重ねながらも、私はこの恋愛をけっして徒事ただごととは思っていなかった。或る意味ではそれを真剣かけた一つの試練、人生への最初の難関だと知っていた。私はそれまでトルストイの、特に『復活』や宗教的な民話におけるトルストイの信者だった。また『人間の義務』や『若いイタリア』を書いたイタリアの愛国的義人ジュゼッペ・マッチーニヘの傾倒者だった。そして言わずと知れた『ジャン・クリストフ』や『ベートーヴェンの生涯』の作者ロマン・ロランヘの畏敬と心酔。その私として、自分を偽らずにどうしてその時かぎりの、不まじめな、利己的な、おもしろおかしい浮いた恋に一時の快をむさぼって、自分ばかりか相手をも汚したり傷つけたりすることができたろう。しかもその私をさりげなく見まもる者として、周囲には高村、武者小路、志賀というような尊敬する先輩がいた。その高村さんは(前にも述べたが)私への詩集『道程』の見返しに、特にルカ伝の中のキリストの言葉「無くて叶わぬものはただ一つなり。マリアは善きかたを選びたり。こは彼より奪うべからざるものなり」の一句を書いてくれた。「こは彼より奪うべからざるものなり」。高村さ んはもうその時、私に隆子のあることを知っていたのである。
 「白樺」という個人主義的人道主義の雰囲気の中で、勤めのかたわら詩を書いたり短い小説ようのものを書いたりしていた私は、或る時それを父親に発見されて激しい嘲罵と叱責を浴びせられたのをきっかけに、かえって居直るようにして文学志望の堅い決意を訴え、さらに自分に愛人のあることと、その女性とのいつの日かの結婚の意志を告白した。憤怒のために青ざめた父は沈痛な声で「この家を出て行ってくれ」と言った。「それならば出ます。廃嫡して下さい」と私は言った。父は間髪を入れず「よし!」と言った。もう母や親戚のとりなしなどはこの父と子に全然効を奏さなかった。隆子は私に秘して、自分は身を引くから親子の仲を元へ戻してくれるようにと親戚の間を哀願して廻った。彼女の自己犠牲の心とその美しい容姿とに動かされて奔走を試みた者も、しかし「問題は女や文学ではなくて、ことごとに親に逆らう不孝の仕打ちだ」といって追い返された。こうして私は大正四年の秋に二十三歳で生家を去り、以後八年の間ついに父の顔を見ることがなかった。

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 「白樺」とベルリオーズ

 甘んじて廃嫡され、生家の籍を除かれるという法律上の手続きがすむと、父からの言わば縁切りの金や、子供の時からの自分名義の預金などをそっくり与えられて、私の手にはかなりの額の金が入った。それは向う二年間ぐらいの楽な生活を保証するものだった。しかしそれは同時に年上の愛人の心を余計に痛ましめるものでもあった。彼女は事柄がこのようになった責任がすべて自分にあるのだと思いこんで苦しんでいた。私は「いや、決してそんなことはない。僕と父との仲がこうなったのは、つまりは一種の因縁のようなもので、親子の気質や生活感情があまりに対立的なものであった以上、あなたという人がいたいないにかかわらず、晩おそかれ早かれこの結果を見るのはまぬがれなかったのだ」と言って彼女を慰めた。
 私はやがて本郷の赤門近くに下宿を求め、つづいて会社勤めもやめた。そして浅草蔵前の彼女の家や、(隆子はその先夫の子である幼い男の児と、年老いた日本画家で世事にうとい品のいい父親と、世俗的でがっちりとした継母との四人暮しだった)、駒込の高村さんや鵠沼の武者小路さんのところを、今思えば浅はかな気負いの心で、事情を知った先方の気持にさして頓着もしないでたずね廻った。
 また金の有るがままに昔なじみの大磯や、箱根や、湯河原などの旅館を、一週間から十日ぐらいずつ泊り歩いた。そしてどこでも変に思って私から事情を聞くと、「なんとかならないものでしょうか」と気を揉んだ。中でも若い時分私の父の世話になったという大磯の旅館の主人に至っては、事柄をひどく単純に考えて、一人のみ込みでさっそく調停に出かけたところ、「お前さんなんかの知ったことではない」と一言のもとに撥ねつけられて、ほうほうの体で帰って来だ。箱根底倉の旅館の老女主人も、湯河原のホテルの若主人も、それぞれ私には内緒で執成とりなしを試みた が、いずれもすげなく追い返されたそうである。
 なんという申し訳のない恥ずべきことだ! 要するに私という一個のエゴイストの独善と愚昧が、多くの善意の人々の心を痛言しめたり傷つけたりしたのだ。それを思えば、今はみな亡き人の数に入っている彼ら美しい霊たちに、私は心から詫びなければならない。
 しかしそうやってただ漫然と遊び暮していたわけでは決してなかった。やがて心の落ちつきが帰って来ると、文学への熱情も、かりそめならぬ恋愛同様、襟を正した真摯な姿で私に迫った。
 本郷の下宿を引払って、これもまた故人になった長与善郎さんの厚意でしばらくその赤坂福吉町の家に寄宿している間に、私は当然「白樺」の同人やその傍系のグループの人たちと一層よく識るようになった。いずれも若くて、火のような芸術意欲に燃えて、四人、五人と一緒になればたちまち息苦しいほどの空気が醸かもし出されるのだった。そこには「エゴ」という雑誌の中心人物で詩集『自分は見た』の著者、すなわち情に脆くて熱烈で、愛と人間苦のためにくしゃくしゃになったような千家元麿がいた。彼ら自身の草土社風から、ひとり次第にデューラーの画風に移行しつつあった剛腹で不遜な岸田劉生がいた。私よりも一つぐらい年下で、そのころ盛んにゴッホの手紙や印象派に関する書物などを翻訳していた早熟な才人木村荘八もいた。そのほか劉生に近い青年画家椿貞雄がい、小説や戯曲を書き始めている前途有望な犬養健がい、近藤経一がい、道こそ違え、この一群の動静を怜悧な證んだ好奇心の眼で静かに見守っている、学習院の学生松方三郎がいた。
 そしてそういう雰囲気の中で、私も身辺小説のような物を書いては武者小路さんや長与さんに 見てもらっていたが、「実感がよく出ている」と言われれば喜び、「自然描写が多過ぎる」と言われれば不服を感じたり悲観したりした。なぜかと言えば私は自分の幼・少年の時代や最近の恋愛のことを書きながら、それを彩り生かす自然をもまた書かずにはいられなかったからである。しかし私のこういう傾向は、少なくとも身近な先輩たちの間では、あまり迎えられないようだった。
 それにつけても思い出すのは、或る日長与さんの家から帰ってゆく志賀直哉さんを溜池のほうまで送りながら、福吉町の坂の途中で、青空に刷毛はけで刷いたような細い白い巻雲けんうんの浮んでいるのを見て思わず「きれいですね」と志賀さんに言ったところ、「雲のどこがそんなにおもしろいの。君」と平手打ちを食わすように問い返されて、咄嗟の返事にまごついたり、内心憤慨したりしたことである。私は小さい時から雲が好きだったし、その後も多少雲についての勉強もしていた。雲などという物はこの先輩や「白樺」の人たちにとっては至って興味のない主題かも知れないが、私にとっては知的好奇心の対象であり、さらには詩でもあれば音楽でもあった。しかし文学の世界での新参者である私には、この尊敬する先輩に向って、「芸術家が雲の美に感動してはいけないのですか、志賀さん」と反問することはできなかった。それに、惜しいかなその時の私はまだ、『雲』のヘッセやドビュッシーを知らなかった! 私がそのドビュッシーの出て来るロマン・ロランの音楽評論集『今日の音楽家』の英訳本 Musicians of todayを手に入れて、渇いた者が泉に出会ったように飛びついて読みふけり、やがてそれを訳し始めたのは今の雲の話から間もなくのことだった。そして私のこの最初の訳本を涙にくれて堅く抱きしめた隆子にとっては、これが彼女の見た最初にして最後の私の本だった。
 一人の音楽家の英雄的な奮闘の一生をえがいた大作『ジャン・クリストフ』と、その構想の実際の手本とも言っていい『ベートーヴェンの生涯』を読んで、すでに充分ロマン・ロランから培い養われて来た一私にとって、『今日の音楽家』は単なる評伝の集成と見るよりも、むしろ著者自身の血肉の投げこまれた、言わば音楽の世界の『史記列伝』だった。しかもベルリオーズと言い、ヴァーグナーと言い、フーゴー・ヴォルフと言い、さらにはリヒャルト・シュトラウス、サンサーンス、ドビュッシーなど、そのどれ一人をとっても大正四年か五年ごろの私にはまったく未知の名か、名だけは眼にし耳にしていても、その人間や仕事についてはほとんど何も知らなかったと言える。また実際にも彼らの作品に接する機会がとぼしく、よしんば有ってもきわめて散発的で偶然的で、音楽の啓蒙に期待される系統的・持続的な要素が皆無だった。
 たとえばそのころ陸軍や海軍の軍楽隊が日比谷公園正門わきの小さい野外音楽堂で一般公衆のためにやっていた演奏にしても、若い私がその逞しい美しさに血をたぎらせて聴いた或る吹奏楽が、実はベルリオーズの『海賊』の序曲だったということが余程あとになって判明したようなたぐいである。レコードの場合もこれと大同小異で、ベートーヴェンやモーツァルトにしても全曲を通した録音はすくなく、善く言えば抜粋かハイライト、悪くいえば細切こまぎれの物が多かった。高村さんと一緒に夢中になって幾度も聴いた『ラズモフスキー』の第三番も、実はその第四楽章のアレグロ・モルトだけだった。しかしヴィオラで始まった深い壮烈な第一主題が、フガートの手法で第二ヴァイオリン、チェロ、第一ヴァイオリンという順序で受け継がれてゆくこの弦楽四重奏曲の出だしには、二人ともいつでも息を呑んだものだった。また或る時長与さんのまで、名ヴァイオリニスト、ヤン・クーベリックの弾いている『G線上のアリア』なるもののレコードを聴いて感激し、その時初めてバッハの音楽にまみえたが、そのアリアの入っている『管弦楽組曲』を本来の形で聴くことはまだ遠い先の夢だった。
 ともかくも自分の訳した本を通じて新しく知った音楽家のうち、ベルリオーズとヴォルフの二人が最も強く私の心をとらえた。わけてもエクトル・ベルリオーズ、私は彼の人間性と音楽とによって自分の個性の幾つかの面を肯定させられ、鼓舞された。そしてそれに力づけられておのれの信ずる道を歩き出したのである。思えばその道は曲折多く長かった。この数年前の或る詩の中で「燃える情火にその天才を焼きつくさせた男、時代の無理解と孤独との中で神と己れへの信を失った男」と私の書いたベルリオーズ、そのベルリオーズを信仰と自信の喪失のために惜しみながら、しかしやはり自分に最も近い精神的血族として愛さずにはいられない。

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 愛人の死

 不自由なランデヴーを重ねながら、しかしその不自由さのためにいよいよ深くなってゆく隆子との愛情は、夫婦を結ぶそれでもあれば姉と弟とのそれでもあった。淡い愁いの影を宿した恋の顔に手をもって触れる時、この美しい妻が同時に献身の姉だった。家庭の事情でずっと勤めを続けている彼女をその夕方の帰り道に待っている間、私は日本橋四ツ角の古い化粧品店柳屋の前で、たまたまの電車や往来ゆききの人を眺めたり、何かのメロディーを口笛で吹いたりしていた。若い日のジョルジュ・デュアメルはパリ・オデオン座の楽屋から出て来る新婚の細君を待ちながら、しばしば古いロトル―街の本屋の前で『ジークフリート』の「妻の動機ヴァイブモティーフ」を吹いたものだということだが……
 手もとの金がだんだん心細くなって来た私は、隆子と相談の上再び職を求めることになった。新しい勤めの先は日本橋小舟町こぶなちょうのある薬品会社で、あてがわれた仕事は帳簿係だった。ところがある日社用で築地の副社長の邸へ行ったら、なんとそれは父が商売をやめてから私たちの住んでいた家で、やがてそれを当時の或る歌舞伎の名優に売り、副社長がまたその名優から譲り受けたものだった。そんなことのせいか私は会社でも比較的優遇され、仕事そのものも楽だったので文章を書いたり翻訳をしたりする時間が充分にあった。そしてその翻訳というのがベルリオーズの手紙と回想録とを英訳し編纂したエヴリーマン叢書の一冊だった。丸善書店で偶然発見したものとはいえ、ロマン・ロランを通じてこの近代フランスの革新的な音楽家を熱愛するようにたっていた私にはまったく天の賜物だった。私は赤坂の長与さんの家から京橋区の新富座裏の下宿へ移ると、新しい風を背負ったような生活に励まされてその翻訳に打ちこんだ。それは『ベルリオの手記』という題で毎月「白樺」へ連載されて熱心な読者を得た。訳の途中で難解の個所に出あうと隆子に相談した。彼女は喜びと生き甲斐とをもって私を援けた。そしてそういう時の私たちはまたいくらかオリヴィエとアントワネットだった。しかも当のベルリオーズその人が、情熱と悲恋のロマンティックの巨匠でもあれば、その大胆で皮肉な告白者でもあったのだ!
 この翻訳は隆子の死を挾んだ三年後にベルリオの『自伝と書翰』と題されて大正九年(一九二〇年)の末に牛込の書肆叢文閣から出た。五〇〇ページにあまる本だった。今はもういずれも故人だが有島武郎の親友で直情径行の人だった出版者足助素一氏自身がはなはだ熱烈な愛読者で、この本のための新聞の広告文にも読者にむかって挑みかかるような文章を書いた。私はこの訳書を心では愛人に、そして公では終始声援を惜しまなかった高村光太郎、高橋元吉、倉田賢二の三人に捧げた。
 話は元へ戻るが、私たちは金の上で互いに無理をしないでもっと楽に、もっと手近なところで会うために、隆子の捜し当てた浅草駒形河岸の或る貸間へ移ることにした。蔵前の家とは目と鼻ほどの近間ちかまなので、彼女は勤めの帰りや日曜日の昼間の近所への買い物の時などに必ず立ち寄った。そういう時、下町の家庭の女としての彼女の姿が珍しくもあればいとしくもあった。しかし元よりそんなことに現うつつをぬかしていたわけではなく、一方では近くに住んでいる或るフランス語の教師から正式にフランス語を習うことも始めた。ロランその他の作家のものや、そのころ高村さんから教えられて無性に好きになったヴェルハーランの詩などを、すべて原文で読みたいためだった。語学にいささか恵まれた能力があったせいか進歩は早かった。神田神保町の裏通りに小さな店を構えたフランス本専門の三才社、それが私のなじみの店だった。もうとうの昔に跡形もなくなったが、あの店へ足繁くかよった人たちもまだ少なからず現存のことだろうと思うと懐かしくもほほえましい。こんにち私の書棚に詰めこまれてその一段を占拠しているエミール・ヴェルハーランの詩集や文集や彼についての関係書物、手垢によごれ色も変って天井近くにくすぶってはいるが、それでもたまには脚榻きゃたつに乗って一冊を抜き出すことのあるフランドルの詩人のそれらの本は、すべてあの店であの首の太い、高血圧の気づかわれるあの赤ら顔の老主人の手から受けとったものである。
 そんな頃の或る日、本郷にいる息子の家から女のほうの里親が心配して訪ねて来た。何年ぶりかの再会だった。私を自分の乳で育ててわが子のように愛してくれた今は老婆の里親は、実家の父も最近脳溢血で倒れて以来気が弱くなり、初めの頃の怒りもようやく解けてきたようだから、できるならばこれをしおに和解の道を講じて元の鞘に納まるようにしてはどうかと私を説いた。しかし折から来合せてしとやかに応対する隆子を見ると、今までの態度が急に改まって、「どうかこの子を宜しくお願いします」と頭を下げてそこそこに帰って行った。そして厩橋の停留所まで送っていった私に銀貨ばかりでずっしり重い金包みを渡しながら、「あんな別嬪ではお前さんとしても……」と言いさして本郷行の電車に乗った。私は愛と憂慮に重たいその心づくしの古巾着ふるぎんちゃくを手に暗澹とした気持で遠ざかる電車を見送っていた。
 志賀直哉さんから長い親切な手紙を貰ったのはそれから少し後のことだった。私はこれもまた父と子の背離をテーマとしたその『和解』を読んで心を動かされ、もっと正直に言えば羨望を感じ、志賀さんも薄々は知っている私の場合を詳しく書いてその忠言を求めたのだった。というのは、そのころ日本築城学の権威だった某博士から隆子を後妻として迎えたいという所望がしきりで、彼女の母親がそれに乗り気になり、娘を強制して私と別れさせようとしていたからである。一方隆子としては、自分という者がいる以上父と息子との和解はとうてい不可能だと信じ气いっそこの恋愛を断念し、一身を犠牲にして、心に染まぬ縁談を受け容れるべきではないかという真に苦しい心境に悩んでいた。彼女は私に秘して高村さんを訪ね、その衷情を訴えて意見を求めた。すると高村さんはアトリエの椅子に面おもてを正して、それは二人の愛の深さによることであり、もしも互いがその愛によって本当に強いならば、断然世俗の感情をしりぞけて純粋な一念を貫くがよいと言ったという。一方私のはそういう深刻な苦悩でも迷いでもなかった。すべてを既成の事実として父親に認めさせた上での和解を前提とした、極めて虫のいい忠言の所望だった。
 それに対する志賀さんの返事は長い懇切な手紙だったが、要するに、同じ父子の不和と和解ではあっても当事者それぞれによって違う。自分のはあのようにして極めて自然に成立した。君の場合にも決して無理があってはいけない。やはり運命がおのずから開ける時を待つべきであろうそういう慰めと警告との返事だった。言葉は穏やかでもあの志賀さんだ。私の虫のよさは一目で看破され、あの潔癖から軽蔑を招いたかも知れない。そう思うと私はひとり恥じて唇を噛んだ。そしてもうこんな不純な考えは二度と起すまい、万が一隆子と別れなければならない時が来たら甘んじてそれも受けよう、この恋愛は世にもたぐいなく甘美だが、そこに一抹の影のつき纏まとっているのは彼女の心から離れることのない苦しい悔いのためかもしれない。もしもどうしてもそうならば、その苦しみから彼女を救うために自分の愛欲を捨ててもいい。私は真剣にそう思った。しかも互いに会ってこうした思いを打ち明け合うと、その愛欲はかえって一層激しく二人を燃え上がらせるのだった。
 大正八年が明けて隆子は満三十歳、私は二十七歳になった。あえてすれば二人とも法律上ではとうに自由結婚のできる年齢だった。私たちもそれを考えていた。彼女を初めて見た大正三年に勃発した第一次世界大戦は前年の十一月に終っていたから、私たちの間も思えば五年の長きを続いたのだった。ところがその頃から蔓延をはじめたスペイン風という悪性のインフルエンザが日本国中にも猛威を振るって、東京でも続々とその犠牲者が出た。そして新年早々隆子もこれに襲われた。ふだんから丈夫な体なのでただの感冒かぜぐらいに思っていたのが次第に重くなり、病苦と心労とを抱いて力なく床に就くようになった。妹の夫である若い腕利きの医師が種々手をつくしたが甲斐がなかった。病室にはすでに死の影が低迷していた。私はもちろん枕もとにつききりだった。
 隆子は近い死を覚悟しながら、衰えてもなお美しい眼で私を見つめ、やつれてもなお真実のこもった手で私の手を握りしめて、この五年間の愛を感謝し、すべては自分の至らなかったためだといって詫び、私の将来の幸福と立派な仕事の成就とを祈った。時どき熱に浮かされて口にするのは「お父さん!」だった。彼女を慈しみ、継母から彼女をかばい、その前夫のための苦労や私のための愛の悩みを哀れに思いながらつい一年前にみまかった、優しい父親を慕って呼ぶ声だった。二月四日の夜、ついに危篤の時が来だ。妹夫婦のすすめにさすがの継母も今は折れて、隆子と私とは幽明の境で結婚と永の別れの杯をかわした。そして二月五日の早暁、むせび泣く妹や母や先夫の子に取りすがられ、義弟の医師に脈をとられ、額に私の悲涙と唇とを受けたまま暝目した。隅田川をこえて南の空に「さそり」の星座が倒れかかり、禍まがつ日のようなアンタレスの赤い火球が沈んでゆく夜明けだった。
  Mea culpa, Mea culpa! 一切は私の罪だった!

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 高田博厚との出会い

 遠く安らかに眠らせたはずの「我が二十代ヴァンタン」の思い出から、老いることを知らない音楽だけが一人覚めて、その力強い手を私の両の肩に置き、涼しく澄んだ眼を私の眼に近づける。私はその響きに満ち調べに満ちた天体の光を飲む。銀河系宇宙の中心射手座サギッタリウスにも比すべき音楽。すべての芸術は自覚するとしないにかかわらずこれをめぐって永劫に回帰する。生の必然、心の琴線から発するというものなくしては、どんな芸術も産れはしない。育ちもしない。そして噴水のようにその各々の頂点で美しく砕けさえもしない。歌よ、お前こそは美の世界の発端だ。しかも変ることのないその中心だ。たとえお前をめぐってどんな盛衰の輪廻が続こうとも。
 本人はどう思っていたか知らないが、詩の上で私の最も尊敬する高村さんは、音楽の上ではいつも率直に感動の分ちあえるただ一人の相手であり仲間であった。まず私がヴィクターの、続いて高村さんがコロムビアの、いずれもまだ手廻しだった蓄音機を買った。私のには蓋がなく、高村さんのには蓋があった。大正も八年か九年、今から五十年以上も前のことだから、レコードはもちろんSP盤、片面が四分なにがしかで終るのだった。だから今三十三回転LPの片面で間に合っているような曲に、表裏両面で三枚も必要だった。途中で盤を裏返さなければならないようなことはざらだった。時には長さを縮めるために何小節かをあえて省略した盤もあったらしい。とにかくそういうので私たちはベートーヴェンの作品十八の弦楽四重奏曲を、その何枚かの断片で聴いて夢中になったり、『ラズモフスキー第三番』の、あの奔流のように不退転な終楽章に魂を奪われたりした。さらに管弦楽では『エロイカ』の第二楽章「葬送行進曲」、『レオノーレ序曲』の第三番、ピアノでは『パセティック』、『ムーンライト』、『アパッショナータ』。そのどの一つも二人の初めの頃の宝だった。そして高村さんにはそれより早くアーサー・シモンズの『ベートーヴェン論』の先駆者的な名訳があり、私はロランのもののほかに英訳を通じてヴァーグナーの『ベートーヴェン』を知っていた。しかしそうした私たちの渇きを癒やすにしては肝心の水が不足していた。音楽会での実演はまだほとんど言うに足りなかったし、手に入るレコードも今と比べれば寥々たるものだった。そこでしぜん同じ盤を幾度でも繰り返して聴いた。私たちはそれぞれの曲の中の気に入りの個所を、口を結んでそらんじることができた。
 そういう音楽から、すなわちここではベートーヴェンから、若い私がそもそも何を受けとったと言うべきであろうか。まず第一に生きる力、持続の力、精神の強靭なヴァイタリティーだった。みずから進んで踏みこんだ芸術の道、文学の道で、生活とのどんな苦闘、どんな悩みにも耐え抜いて、決して半途で挫折したりへばったりしない逞しく粘りづよい生活力だった。もう一つは自分の仕事の中に他の誰のとも違う持って生れた気質を打ちこんで、あらゆる機会にそれを生かし、生かすことでまた新しい可能性を発見しながら、次第におのれの世界を充実させ拡大してゆくことだった。だから一見どんなに幼稚な題材にも全心全力を傾注した。その融通の利かない馬鹿正直さを他人から憫笑され、田舎臭いと軽蔑されても平気だった。今にわかると思っていた。それをまた傲慢だと言って憎む者が出てきても一々争う気はなかった。縁なき衆生だと思って取り合わなかった。とはいえ一度か二度面と向って侮辱されて、カッとなって乱暴を働いたこともあった。
 ちょうどその頃高村さんのアトリエで高田博厚を私は識った。私よりも年下で、たしか二十歳はたちか二十一ぐらいだったが、年よりもずっと早熟な感じのする北陸出身の青年だった。外国語学校のイタリア語科を出たばかりだったのに、早くもミケランジェロの伝記や書簡や詩の作品を読みこなしていた。そのミケランジェロに打ちこんでいた彼は造形の才能に恵まれていて、すでに見事な人体や顔のデッサンも描けば彫刻にも指を染めていた。そして高村さんの訳の『ロダンの言葉』を通してロダンに傾倒し、同時にその高村さんを日本の彫刻家としてほかの誰よりも尊敬していた。粘液質で負けぬ気の持ち主だった。口数こそ少ないが自信に満ちていた。あの若さで、しかも地方育ちで、いつのまに勉強したのか、美術に関してかなり広い知識を持ち、すでに一廉ひとかどの見識を具えていた。その高田博厚が、高村さんのところでレコードを聴くと、たちまちベートーヴェンのとりことなったのである。彫刻家の卵と詩人の雛、その双方を温かい理解の眼で見まもりながら、同じ詩と彫刻という芸術の二つの道ですでに立派なキャリアを積んでいた高村光太郎。その高村さんが世を去って久しい今日、なお健在でそれぞれ初一念の仕事を続けている高田も私も年をとったが、五十年前遭遇の当時を思えば感慨のまことに深いものがある。
 私の処女詩集『空と樹木』は大正十一年に出た。それの装幀を進んで引きうけてくれたのが高田で、扉に彼の作った私の首の写真、見返しと中の絵にこれも彼の花と若い女の顔のデッサンが入れられた。デッサンはいずれもしっかりと描けて美しく、彫刻の方はこの詩集を受けとった口マン・ロランが、「ロダンの作品に非常に近い」と褒めてよこしたものである。その後高田がフランスへ渡って、この最初の賞讃者の首をいくつか作ったのは周知のことである。そしてその詩集の巻末で彼を紹介した文章の中に私はこんなことを書いている。今読み返せば幼稚なものだが、その頃の壮年熱気の程はうかがえる。
「彼と私とが互いの芸術に対して持つ温かい愛、正しい理解、そして常に交換する刺激こそは貴いものである。互いの分野が異なっているとはいえ、芸術自体に対する二人の抱懐はことごとく一致している。およそこの種の一致ほどわれらにとって幸福であり慰藉であるものはない。またかかる一致のみが真にわれらを結合させるものである。
 彼が彫刻を始め、私が詩に志した時が、偶然一致しているのも今では不思議なほどの暗合である。それまで彼は絵をかいていた。私は小説と翻訳をやっていた。二人とも名もなく、認められもしなかった。一人でこつこつと絵をかいていた彼は、すでに立派な素質を現わしていながら、誰の後援をも受けなかった。彼は自分を世間に押し出してくれる知己を持たなかった。またそれを求めようともしなかった。引込み思案ではなくして強い反省力を持っていたのだ。軽はずみな心から他人の奨めで画会を起すにしては、あまりに辛抱づよい根性骨を持っていたのだ。その彼がとうとう自分の本道を探り当てた。『ロダンの言葉』に魂を奪われてから。あの巨匠の作品をまのあたり見てから。
 彼は未来に堅い信仰を置いて今日の現在に専心する男だ。彼はいつでも泥をつくねている。昼間は空の光で彫刻をし、夜だけ生活のための翻訳をやっている。彼は私の知っている限りで比類を見ない精力家だ。彼はクラシックを愛し、健全を愛し、正当を愛する。彼は美の意味を正しく深く理解している。彼の彫刻を眼前に見た者は、その二十三(数え年)という年齢に驚くだろう」云々。
 大地に即した造形美術の世界から音楽の星空の無限の拡がりをうかがい見た若い友が、まずベートーヴェンからどんなに鮮烈な感動をうけたかはよくわかる。一足旱いが私もまたその洗礼を、その煌々たる光のバプテスマをうけたのだ。高田は最近でも機会あるごとにベートーヴェンやバッハヘの変らぬ真情を吐露している。そして今は互いに老境のわれわれが、この巨匠たちへの昔よりもさらに深みのある感動を安心して打ち明け合えるのは、まことに楽しいことだと言わなければならない。『我ら汝を捨てず。されば汝我らを祝福せよ』一人称を複数にしたが、本来は Ich lasse dich nichit, du segnest mich denn.すなわちバッハのカンタータ第一五七番。テノールとバスの輝くような二重唱が、この言葉で曲の冒頭から湧き立つのである。
 そのバッハを今でこそ私は欠くことのできない心の糧のように思っているが、その頃はレコードで小さい曲の二つか三つを知っているに過ぎなかった。たとえばヤン・クーベリックの弾く『エイア』だとか、クライスラーの弾く『ガヴォット』だとか、そのくらいかものだった。しかしこうした言わば花盛りの枝からのわずか一、二輪に過ぎないようなものにもかかわらず、私は自分の心に或る郷愁を歌いつつ近づく何かを感じていた。その何かがどういうものであるかは当時の私にはわがらなかったが、少なくとも自分の熱中しているベートーヴェン、音楽の戦いの野にその精鋭を放って手足のように駆使して、幾多勝利の栄冠をかも得たベートーヴェン、そういう英雄的なベートーヴェンからは与えられない何物かを受けとったように思っていた。

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 新しき土地にて

 隆子の死後「白樺」の人たちともあまり会わず、と言ってほかに友人を求める気持ちなく、むしろ心の底の陰沈とした寂しさや空しさに痛快なものをさえ感じていた私を、その虚無への危機から護ってくれたのはやはり『ベートーヴェンの生涯』や『ジャン・クリストフ』のロランであり、『復活』や晩年のトルストイであり、『人間の義務』のマッチーニであり、『ウォルデン』の独立不羈の生活者ソローだった。彼らはこんな時の私にとってこそ本当の師、真の救済者でなければならなかった。私はともすれば自暴自棄の易きに陥る自分を、彼らへのかつての純な傾倒を新たにすることで繋ぎとめた。そしてこの人たちはそれを可能にしてくれた。私は故郷へのように彼らへ帰った。冬の夜の孤独の下宿で貧しい蔵書から彼らを読んだ。その光は以前よりも幾層倍か明るく、その火は慈父の愛のようにきびしくも暖かかった。ベルリオーズの『キリストの幼時』に出て来るユダヤ人の親方のように、それらの本は「お入りアントレ、お入りアントレ」と言って私を迎えた。こちらに渝かわらぬ信のあるかぎり、窮地に救いを求めれば必ず手を差し伸べてくれるのがこういう人々なのだ。「飢えたる者を佳き物もて飽かしめ、富める者をば手を空しうして去らしめる」聖書のを、私は自分の場合として、人間彼らのうちに認めたのである。
 そうした私を高村さんは見ていた。見ていてしかもあの人らしく、立ち入った事は言いもしなければ為しもしなかった。訪ねて行けばいつも変らず詩や彫刻の話をしたり、私がやりかけている本の翻訳上の疑義の相談に乗ってくれたり、一緒にレコードを聴いたり、私に下手へたなフーゴー・ヴォルフを歌わせたり、時には神田や浅草へ晩飯を食いに誘ったりした。そしてなおそういう時でも、こちらから切り出さない限り、私がどうして暮しているかを質問したことはなかった。オスカー・ワイルドの言葉だと言って、「芸術家には秘密がなくてはならない」というのをモットーとしていた彼、「右手の為す事を左手に知らしめない」彼は、目に見えない自律の垣を周囲にめぐらし、他人の私にも親しみの限度というものをそれとなく意識させた。元より私もそうした高村さんを知り抜いていた。だから二人でかなり飲んだような時でも、勢いあまって、口を滑らしたり、取り乱して羽目を外したりするような事はなかった。「米久の晩餐」を書くことのできた高村光太郎は、また正に「不許士商入山門」の詩人でもあった。
 東京府荏原郡平塚村字下蛇窪。今でこそ品川区内の繁華な市街地になっているが、五十数年前の昔にはまだまったくの田舎だった。国電大井町の駅から西へ十数町、雑木林と竹林と灌漑用水の流れとの間に大小の農家が点在し、馬や牛や鶏の声がきこえ、ところどころに、亭々と立っている屋敷林の木立ちを越えて、遙かむこうに富士・丹沢の山々が絵のように眺められる牧歌的な田園だった。しかも私が里子として五年間を育った大井村浜川の海べからもさほど遠くなく、南のほうには東京湾の水のひろがりと自分の幼時とを懐かしく思わせる明るい空かあった。そして実にその田舎へ、ある日高村さんが「水野君のところへ行かないか」と言って誘ってくれたのである。小説家水野葉舟。その人の本は私も実家にいた頃幾冊か読んだこともあるし、高村さんが彼に唯一の親友と言っていいくらい特別な愛情を抱いていることも知っていたので、なじみのない家庭への訪間や初対面というものをあまり好まない私が唯々として付いて行ったのである。
 水野氏の邸宅は蛇窪部落のほぼ中央にあった。高い欅けやきの立木にかこまれた一軒の大きな農家の隣、片側の薮の下から用水の水音のきこえて来る細い静かな村道を前に、年代を経た南京なんきんじみた二階建ての洋館と、平屋建て和風の家とが一つになっているのがそれだった。邸のまわりの地所はたっぷりと広く、自家用の野菜を作る畑があり、植物を好きな主人ご自慢の庭があった。その畑と庭を囲む低い生垣はおおむね山茶花さざんかと茶の木だった。台所の裏手にはよく実がなるという柿の木と粟の木が茂り、座敷の前には一本の大きな菩提樹が枝をひろげ、おりからの晩春五月、薮のように仕立てられたライラックの植込みで薄紫のその花が幾十という房もたわわに薫っていた。水野氏は親友の連れてきた客である初対面の私を愛想よく迎えて、私もまた植物が好きだと知ると、そういう木や花を一々家族のように引きあわせた。
 植物よりも後から夕飯の馳走の時に引きあわされた家族は四人いた。夫人に先立たれた水野氏は、体の弱い独身の妹さんと男女三人の遺児と一緒に暮していた。妹さんは東京麻布の古い有名なミッションスクールの英語の先生で、敬虔なクリスチャンだった。三人きょうだいの一番上は女、次は男、末はまた女。雇人はいなかった。途中で高村さんから聞いた話によると、家の中の事を主婦のように取り仕切ってやっているのは姉娘で、炊事、掃除、洗濯はもちろん、父親や叔母や二人の弟妹の身のまわりの世話を残らず一人で受持っていた。その上面倒を見てやらなければならない十何羽の雌鶏がい、隣家の百姓を手伝って除草や害虫の駆除もしなければならない自分の家の畑もあった。まるで今時のシンデレラ、いな、それ以上だった。しかもそういう一切を不平も言わず快くやってのけながら、僅かの暇に父親と叔母とから女学校課程の教えを受けていた。気だても善ければ体も丈夫だった。器量も美しくなくはなかった。この知的家庭の令嬢、このいわば農家か牧場の娘、その名は実子みつこといい、年は僅か十五歳だった。「実みいちゃんのためならばこのおじさんは喜んで二梃ピストルの役を引受ける」とある雑誌に書いたほど、高村さんはこの娘を贔屓ひいきにしていた。
 蛇窪の田園がすっかり気に入り、水野氏一家の親しみの感情を嬉しいものに思っていた私は、すぐ近くに新築の貸家ができたから移って来てはどうかという知らせを受けると、東京の町中での永い下宿生活に終止符を打って、喜んでその蛇窪へ越して行った。僅か二間の座敷と小さい台所だけの家だったが、あたりには木々が高々と茂り、用水の水音がきれいに響き、その閑静なこと、まるで隣の大きな農家の離座敷はなれのようだった。そして当の水野氏の邸はその農家の先隣だった。今ならば東京急行田園都市線電車の、戸越公園にほど近いところである。
 高村さんに遠くなったのは寂しいが、水野氏一家の、わけてもその純真で素朴な三人の子供たちの、何くれとなくよくしてくれる事がそれに代る慰めでもあれば力でもあった。私は生れ変った思いで仕事に励んだ。死んだ愛人の思い出であるベルリオーズの『自伝と書翰』はもう出ていた。それで今度は同じ音楽家の『ベートーヴェン交響曲の批判的研究』の翻訳に身を入れた。また水野氏の紹介で創刊されたばかりの雑誌「詩聖」に、毎月詩を寄せ文章を書いた。今も活躍している若き日の田中冬二、すでに故人となった野口米次郎、中野秀人、井上康文氏らのような詩人と親しくなったのもその頃である。
 細々ではあるが生活を支えるには足りた印税と原稿料。壁に貼った「一行として書かざる日無し」を座右の銘に、私から続々と詩が生れ、積り積って翌年には第一詩集『空と樹木』となって世に現われ、それを機会にロマン・ロランから親しみの籠った最初の手紙を貰い、水野家のシンデレラともいつか相愛に陥って、近い未来の二人の春を約束するまでになった。そしてそこへ、大正十二年九月一日、空前の犠牲と災害とを伴って、しかしささやかな「二人の春」を早めるもののように、あの関東の大地震は襲来した。

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 大震災の中での和解

 風の便りにこのごろ半身不随で立ち居も思うようでなく、気もまた弱くなったと聞いている実父への骨肉の本能がそうさせたのか、あるいはこちらだけはとうの昔に感情の深い割れ目を埋めてしまって、今では平らな気持でその人の上を考える事ができるようになったせいか、蛇窪の田舎から遙か東京の空に湧き上がる大地震の火災の煙と赤く染まった巨大な雲の峰を眺めたり、「東京は大変なことだ」という近隣の人々のおびえきった噂を聞くと、もうじっとしていられなくなり、多少の被害をうけて気懸りでもある自分の家や水野氏の邸をあとに、交通機関のすべて途絶えた戦場のような混乱の町中を、品川、芝、銀座、日本橋と、ごった返す人波や往来に運び出された家財の山の間を縫って、私は京橋区新川の元のわが家へと駈けつけた。
 新川の酒問屋街へ入って叔父の家の前を過ぎながら二言見舞うと、長男を相手に土蔵の扉の目塗りをしていた叔父が私を見るとほとんど泣き出さんばかりの顏で怒鳴りつけるように、「お前来たのか! そりゃあよかった。すぐ家うちへ行ってやれ。こうなったらもう出入りの者なんか来やしない。おとっつぁんとおっかさんと女中たちだけだ。構うことはないからすぐ行って手伝ってやれ!」と言って追い立てた。どっしりと酒蔵の立ち並ぶ河岸通りにはもう人間の影もなく、土煙を巻く風だけがごうごうと吹きすさんでいた。案内も乞わずに幾年久しいわが家へ飛びこむと、女中たちを督励して手廻り品を風呂敷包みにさせていた母が、「おとっつぁんは屋根の上だよ!飛び火があぶないから瓦を直すんだって上がっているけど、それどころの騒ぎじゃない、すぐ逃げるんだと言って降ろしてきておくれ!」と叫んだ。屋根の上、熱気を運んで吹き寄せる烈風の中、老いた父は不自由な腰をかがめてずれた瓦を並べ直していた。そして眼の前へ立った私を見ると、哀れ七十歳の顔がにっこりと寂しく笑って、「来てくれたか。それじゃあ済まないが代りにやってくれ」と、たった今せきこんでいた叔父とは反対に静かに言った。この瞬間、足かけ八年の背離、八年の不孝の感は私から吹っ飛んだ。そしてこんなことをしても無駄だとは思いながら、父の気の済むように緩んだ瓦を一枚一枚手早く嵌めこみ、抱くようにして彼を下へ降ろした。
 その時すでに火災の波は浜町や人形町あたりを呑んで、蠣殼町、茅場町、箱崎町辺まで押し寄せていた。私は活路として丸ノ内か、さもなければ少し遠いが浜御殿をすすめた。いずれにしても急がなければならなかった。父は毋と二人の女中に付添われてとぼとぼと越前堀の方へのがれて行った。一人あとに残った私は別れ際に父が言い残して行ったとおり、唐草の大風呂敷に包まれた重たい客用の夜具布団を三組を、河岸との間を十度も往復して運河にもやってある荷足船にたりの底へ運びこんだ。これだって隅田川の真中まで漕ぎ出さない限り助かる見込みはなかったのである。それから私は逃げた。もう背後は全くの火の海、押し寄せる火の長壁たった。行く先々は風の吹き巻く死の町で、人けもない往来を絶えず看板や板きれが飛んでいた。八丁堀岡崎町の電車通りで気を失って倒れている一人の娘を認めた。その十八、九になる娘の重たい体を引っかかえて一町か二町走ったが、ついに力尽きて可哀そうだが置いて逃げた。楓川に架った幾つかの橋は、どれも皆家財を積んだまま曳き捨てにされた荷車に堰きとめられ、中にはもう炎々と飛び火に燃え上がっているのもあった。私は渡れそうな橋を探して駈けずり廻った。死にもの狂いだった。最後に川へ降りて対岸へ泳ぎ渡った。その時水中の杭にしたたか片膝を打ちつけた。京橋際の仙女香の角まで来ると、丸ノ内への鍛冶橋通りは逃げ遅れた避難者でぎっしりだった。その密集群に揉まれながら僅か三町ぐらいの処を一時間以上もかかって漸く鍛冶橋を渡り、ここもまた群集でごった返している東京市庁の庭の救護所へ倒れこんだ。半日余りの奔走に疲れ果て、その上膝頭にかなりの打撲傷を負っていた。そして応急の手当をうけて庭の片隅で一眠りすると、今度は途中通りかかった芝の南佐久間町で、懇意な本屋の老主人のために日比谷公園の裏門までその息子と一緒に本を運んでやり、さてびっこを引き引き深夜の道を赤坂、青山、渋谷、目黒、五反田と市内電車や省線の線路を歩いて、まだ余震のつづく翌九月二日の夜明けにやっと蛇窪のわが家へたどりついた。家の中は壁が崩れ、額がはずれ、ぞっくりと棚から落ちた書物が、いくばくかの家具や大切な蓄音機と一緒に土ぼこりをかぶっていた。
 要するにこの事あって以後急転直下、叔父の計らいで父との仲が元に戻り、私は八年後にして再び実家へ入籍し、そのうえ水野実子との結婚のことさえすらすらと受け容れられた。そして父自身震災のために多大の損害を蒙ったにもかかわらず、その苦しい中から東京府豊多摩郡高井戸村大字上高井戸の畑中に小さいながら一戸を新築してくれて、そこに新夫婦で別居するがいいということにさえなった。桜並木の玉川上水を窓の向うに、井ノ頭用水を家の背後に、居ながらにして富士や大菩薩の連嶺の見える洋風二間の家と二反歩の畑。私は親切な水野氏一家と別れ、実り多い二年間を暮した思い出の蛇窪を後にその高井戸へ移った。そして来たるべき春三月の結婚と、そこでのまったく新しい半農半学の生活を夢みながら、まだ電灯もつかず一個のランプに照らされた出来たてのわが家で、やがて迎える新妻も好きだったベートーヴェンの誇らかな青春と懐郷の歌、あの気品と詩に溢れた『第二交響曲』を久しぶりに聴いて、独身生活最後の除夜を感慨深く過したのだった。

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 畑中の小さい巣  ――神これを祝福したもう――

 父が死んでその跡目を継ぐために東京の実家へ移るまでの杉並区上高井戸の五年間、それは永い間の念願どおり文学の仕事と畑仕事とに専念する生活であり、いわば武者小路さんらの「新しき村」の精神を、妻と二人だけで生かそうとする生活だった。しかし畑仕事とは言っても互いにまったくのしろうとだったので、何を作り何を育てるにしてもいちいち裏の江渡氏や近隣の農家のねんごろな指導に俟つほかはなかった。私たちは怪しげな腰つき手つきで鍬を動かし、息を弾ませて肥桶こえおけを運んだ。妻が前、私がうしろ、一つの桶を中にして二人で天秤棒てんびんぼうをかつぐのだった。そして一端いっぱしの百姓のように旱ひでり続きには雨を願い、長雨には晴天を祈り、虫害を憂え、雀を追った。その私たちの作った物は麦、大根、白菜、甘藷、馬鈴薯、里芋、茄子、胡瓜、葱などだった。そしてそれぞれの季節の収穫物はそのまま生食したり、漬け物にして貯蔵したり、米屋に頼んで碾いて粉にして書斎のテーブルの下の桶に貯えたりした(この粉の桶、来る友達はみんなこの有名な桶を知っていた!)。またいろいろな草花も私たちは作った。コスモス、ダーリア、菊、水仙。これらは奨めてくれる人があって厭々ながら切り花にして花屋に売った。鶏も白色レグホーンを七、八羽飼った。その卵は蛇窪の頃の生活を思い出させながら、毎朝の夫婦の食膳を賑わした。ほとんど収入にもならない詩を書き、いくらかは生計の足しになる散文や翻訳の仕事をしながらの自給自足の生活だったから、毎日同じような物が食卓に並ぶことが多かった。もちろん何かをいかに特別の献立を持つ日もなくはなかったが、それにしても酒屋へ四町、雑貨屋へ五町、煙草屋と松沢の駅へ七町、魚屋と肉屋へ十町。そしてもっと気の利いた買物のための新宿は、東のほう遙かな空の下だった。
 その畑中の小さい家へ、多くの、実に多くの友達が来た。高田博厚や片山敏彦のような連中は比較的近い荻窪と西荻窪に住んでいたので、頻繁に訪ねても来れば訪ねても行った。高村さんも三、四回来た。初めての時は智恵子さんも同伴で、「本当にいいところにお住まいですわね」と、あの無口で慎み深い女性から羨まれた。まだ独身の中野秀人も、当時十七、八歳の高木寿之介(菊岡久利)もたびたび来ては、レコードで悩まされたり、散歩をしたり、激しい議論をたたかわせたりした。長尾宏也、更科源蔵、真壁仁の名も書き落すわけにはいかない。みんな若くて熱烈で純粋で、一人一人が強い個性と美しい夢と信念とを持っていた。武蔵野高井戸の田舎の小屋に談論が風発し、ヴィクターの小函からベートーヴェン、バッハ、ベルリオーズらの音楽が流れた。二人の女、妻の実子みつことその妹の久枝とは、狭い台所でくるくる舞だった。
 結婚の翌年生れた長女栄子につづいて、その二年後に私たちは長男朗馬雄ロマオを得た。ロランにあやかるように付けた名だったが、翌年の春早く流行性感冒で哀れや両親に先立った。異常に澄んだ眼を持った愛らしい子で、わけても若い母親の掌中の玉だった。喜んで名親なおやの役を承諾したロマン・ロランは小さい彼の死の知らせを受けとると、遠いスイスのヴィルヌーヴから、私たちを泣かせずにいないような切々たる同情と勇気づけの手紙をくれた。
「私の友であるあなたたち二人、どうか心を安らかに持たれるように。どうか希望を失わずにおられるように。限りなくさまざまな姿をとって現われる神秘な霊が、あなたがた二人には幼い朗馬雄の姿をとって現われ、そして再び実在者の胸へと帰って行き、そうする事によって実在者とあなたがたとを永久に結びつけようとしたのです。けれどもいつの日にかは必ずまた別の肉体の衣を纏まとって、あなたがたの許へ帰って来るでしょう。そしてその時にこそ、あなたがたが彼のために用意した巣、また彼が以前すでに入ったことのある巣に、進んでつくことでしょう。生と死とは対立した二つの世界ではありません。それは水平線によって分けられた同じ大洋なのです……」
 フランスの詩人シャルル・ヴィルドラックがローズ夫人同伴で訪ねてくれたのもこの家たった。私たち尾崎、高村、高田、片山、上田秋夫、田内静三、今井武夫、吉田泰司らは、それより早く「ロマン・ロランの会」という小さい親しいグループを造っていて、集まる度に寄せ書をロランその人に送っていた。それでヴィルドラックは、いわばロランの友情の使節として私たちに会ったのだった。そのヴィルドラックが後に『日本への旅』という本の中で、「私か見出した小さい片隅、小さい巣、神これを祝福したもう」というヴェルレーヌの詩で同じように祝福してくれた畑中の家での茶菓のつどい、多摩河原の料亭や日本橋のソーダファウンテンでの昼餐会と晩餐会。『ミシェル・オークレール』、『商船テナシティー』、『見つけ物』の作者は僧院派の詩人の真骨頂と、自由な人間の雄々しさ、暖かさ、慕わしさの感銘を、われわれの胸底深く刻みつけて帰国した。そしてその置き土産は、本国での彼の仲間コパンであるデュアメル、アルゴス、バザルジェット、レオん・ウェルト、ジャん・リシャール・ブロックらをわれわれに知らしめて、その人たちとの精神的な交遊の道を開いてくれた事だった。私のところへはその人々の著書が続々と贈られた。
 ヴィルドラックを迎えた事は、この家の私たちの以後の生活に一層確かな信仰と新たな光とを招来した。
 あの高井戸の小家蒼天居と、そこを訪れてくれた幾十の今なお生ける人、すでに死んだ人々への思い出として、妻よ、今夜は『魔笛』を聴くことにしよう!

 

 

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 Ⅱ 自然と音楽  ――バッハ、シュッツのことなど――

 

 小さな美しい集まり

 一つの宏壮な会館があって、しかもその中に大小二つのホールが組みこまれ、その両方で、大げさに言えば、ほとんど毎晩音楽会が催されている。入場券の受取り場も大きい方は大きくて賑やかだし、小さい方は小さくて割あいに静かだから、いくら隣り合っていても間違いようは無いはずなのに、たまに何かに気を取られながらぞろぞろ入って行く人波にまぎれこんでしまうと、切符の関所のところで時には物柔らかに、時にはつっけんどんに注意される。だから小さい方の時には初めからおとなしく左手の壁に沿って行けばいいのである。あの多彩な演奏会の広告ポスターが一面に貼ってある壁に沿って。
 大きい方の会場ももちろん悪くはないが、上野の文化会館では、私は小ホールの方が何か親密な気がして好きである。北鎌倉から電車に乗り、五十五分で東京駅へ、そこで乗換えて上野駅の公園口へは開場前四十分ぐらいに着く。するとその足で帰りの乗車券を先に買う。それから眼の前の会館の食堂へ上かって何か簡単な夕食をとる。前もって時間がちゃんと測ってあるから食後の煙草も悠々と吸える。やがて立ち上がってゆっくりと階段を降り、まっすぐ行けばひとりでに小ホールの受付で、そのすべすべした爪先上がりの廊下とあちこちに人のいるロビーを通り、ドアから中へ入って自分の席を探し当てて寛くつろいで待つ。すると間もなく開演を知らせるベルが柔らかく鳴る。そしてこれが「お極り」であり、こういうふうに物ごとが予定どおり運ぶのが私は好きなのである。
 『慰めの音楽』の作者デュアメルは言っている。「私は年に一回或いは二回以上“第五交響曲”を聴こうとは思わない。また二年或いは三年置きにでなくては“未完成交響曲”を聴こうとも思わない。私は自分の同時代者に思い出させたい。稀少ということが美的感動の一つの本質的な条件だという事を繰返して言いたい。どうか芸術が多過ぎないように。喜びが多過ぎないように!縁ふちの無い美はもう美ではない。そういう物をもう私は認めない」と。ここでは彼は巨大な拡声機などによる名曲の「流し」や「浴びせかけ」について語っているのであるが、たとえそれほどの物ではなくても、自分達の持っているような小さな器械でも、私だってそう始終レコードを掛けはしないし、又すぐれた音楽そのものの稀少価値を重んじてもいるのである。
 大きい方の会場で今どんなプリマ・ドンナがどんなオペラのアリアを歌い終って満揚の喝采を浴びているか知らないが、私のいる小さい方ではハインリッヒ・シュッツの同好者の少数のグループが、今その珠玉のようなモテットを歌っている。それを颯爽と指揮しているのはもう夫人マダムかまだ令嬢マドモワゼルか、いずれにしても舞台に半円を作っている歌い手たちと同年輩ぐらいの若い女性である。自分ではかなり多くシュッツを知っているつもりではいるが、私としてこのモテットを聴くのは初めてである。プログラムには別に特記はしていないが、或いは日本では初演なのではあるまいか。それにしてもバッハより百年も前のこの作品の、何という格調の高い、しかも何と敬虔で熱気を帯びた美しさだろう!  シュッツの名と彼の音楽史上の位置とその主要な作品の名だけは若い頃にロランの本で読んだことがあるが、本自体がむずかしい上にこちらが詩作に熱中していたために大して気にもとめないでいたところ、近年になってその訳書が出たり作品のレコードが先ずドイツから何曲か輸入されるに至って、今度は真剣になってもう一度昔のロランを読み返してみて今更のようにこのドイツの大作曲家に心を向けるようになった。その時私が最初に聴いたのは二十六曲の『ダヴィデの詩篇』の中の「われ山にむかいて眼を上ぐ」と「万軍のエホバよ、汝の住みかのいかに好ましきかな」と、新約聖書から採られた二十九曲の『宗教的合唱曲集』の中の「われらの国籍は天にあり」と「われは荒野に呼ばわる者の声なり」の四つだった。しかしそのいずれもが壮美で味わい深く、一面バッハを想わせながら、またバッハとは遠く離れた軌道をゆく別個の天体のように思われた。つい三年ほど前に私は「ハインリッヒ・シュッツ」という十四行詩ソネットを書いたが、その後半ではどうしてもこう言わずにはいられなかった――

  あなたの高らかな決然とした抑揚は
  ともすれば凡庸に堕する私の生活を奮い立たせて、
  私を最後の旅路へと充実させる。

  そしてあなたの凝縮された宗教的情緒は
  時にゆるやかに解かれ、花のように咲きひろがって、
  私の最後の園を聖なる薫りと色とで満たす。

 そういうシュッツを今これら少数の若い熱心なグループが、同じように少数の若い熱心な聴衆を前に歌っているのである。シュッツの名は日本ではまだ比較的耳新しく、その作品もマタイ、ルカなどの受難曲や『十字架上の七つの言葉』は元より、それぞれ数多くの『ダヴィデ詩篇』も、『カンティオネス・サクレ』も、『シンフォニエ・サクレ』も、『小宗教的コンツェルテ』も、『宗教的合唱曲集』もまだきわめて僅かしか実演されていない。それをこの若いけなげな連中が絶えず研究し、勉強し、あえて少しずつ実演しながら一歩一歩開拓しているのである。そしてその芸術的良心の強さ勇ましさに深く共感しながらじっと聴き入っている私にとって、隣の大ホールでのグランド・オペラなどがいささかも気にならない心境は、或いはわかって貰える事と思う。
 或る時はまた別の会場で、私の好きな「西風が吹きもどり」を含むモンテヴェルディのいきいきとしたマドリガルや、さまざまな古楽器をずらりと伴奏にして「すべての人は喜ぶ」等プレトリウスの精妙な宗教曲を合唱する一群もあった。そしてたまたまそういう音楽会に列席してそれらを聴いていると、なんとわれわれの日常生活なるものが世俗的で粗悪なものであるかを思い知らされるのだった。たとえば詩人のはしくれである私自身にしても、せめて一日に一度ぐらいは音楽の力を借りないでもこのような美しく澄んだ心境を創造して、それを生きるように心掛けなければならないと思うのである。
 初めて日本へ呼ばれて来て男女十四人だかで演奏したパイヤール室内管弦楽団の時もそうだった。聴き馴れたバッハのクラヴサン協奏曲や管弦楽組曲第二番は別として、初めて聴くリュリの無名の弟子の作と言われる『フランス組曲』と、ドビュッシーの『六つの古代のエピグラフ』には目の覚める思いがした。六つの短い楽章から成る『組曲』は春の林をさざめき流れる泉のように清らかでういういしく、指揮者パイヤール自身が編曲したというドビュッシーの方は、「夏の風の神パンのための」とか、「無名の墓のための」とか、「朝の雨に感謝するための」とかいうそれぞれの碑銘エピグラフのように、或いは香かぐわしく爽やかに、或いは沈鬱にほのぐらく、或いは明るく涼しくみずみずしい小品の相次いで現われる見事な一揃いだった。そして久しぶりにその実演を聴くフランス古典音楽の美しさは、ここでもまた私を考えこませた。
 自分は詩人としてこのような動機モティーフの訪れに全然無縁ではないはずなのに、いな、むしろこれに類したものがしばしば頭をかすめる事さえあるのに、それを純粋な霊感のままに捉えて表現しようとせず、さまざまに筆を加え、幾重にも着想を纏まとわせて、元来の物とは似てもつかない重苦しい代物しろものを生んでいる。しかも自分ではそれを知って悔みながら、この歳にたってなお修業が足りないせいか、未だにこうした境地から脱し切れずにいる。そう思うとこの小人数のすがすがしく洗練された音楽会は、私にとって一つの重要な反省の機会であった。そしてこれらはレコードを通してでは恐らく決して得られないものである。
 しかし中にはまた私にこんな意味の詩を書かせるような古楽器専門の一層ささやかなグループもある。
 片膝に載るほどの小さいオルガンを弾く娘は、曲の中途で役割を換えてブロックフレーテも吹く。悠然と並んだヴィオラ・ダ・ガンバの弦の響きは、涼しく雅みやびておっとりとイギリス・ルネサンスの舞曲を奏でて、古い善い時代の夢と秩序をよみがえらせる。しかもそれがすべて揃いの衣裳を裾長く曳いた、匂うばかりの女性の合奏なのである。ああ、私にしてもっと若かったら! しかしもう続かない息、固い指、かすれた声。諦めもさして苦痛ではないほど歳をとった。今は焦燥もなく、嘆きもなく、羨望もなく、彼女らの町や宮廷や野の歌に静かに聴き入り、その画のような輝きに見惚れなければならない。それが受容だ。それが救いだ。そしてそれが老境の知恵というものだ、というようなそんな詩を。
 そうかと思えばまたフランス歌曲研究会というのがあって、その主催者古沢淑子さんのスタディオでもう数年前から毎月きまって研究発表のための例会を開いている。古沢さんといえばフランスの歌曲ではわが国女流の第一人者である。そしてその例会では必ず誰かしら講師の講演もあって有益な話が聞ける。私も四年ほど前に頼まれて、有益でも何でもないが、とにかくガブリエル・フォーレの話をするつもりで及ばずながら多少の準備もしていたところ、その約束の月に急な発病で入院手術をしなければならなくなって、四年後の今日なおそのまま無沙汰を続けている。
 以上挙げた例はきわめて僅かだが、私の知らない此の種の純真な音楽の小さい美しい集まりが、東京は元より地方の都会や町になお無数に散在しているだろうという事は充分に想像できる。そして多くはまだ年若いそういう人達のグループが、考え得る限りの犠牲や不自由に堪えながら彼らの研究や発表に献身している姿は想像するだに頼もしい。そしてこう言いながら今の私の脳裏にいちばん鮮明に浮んで来るのはバッハ・ギルドの一団の事であるが、私の心をいつも力づけ清めてくれるこの尊敬し愛してやまないグループについては改めていつか必ず書くつもりでいる。

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 復活祭の日に

 春分後の満月につづく最初の日曜日が復活祭にあたる。当用日記や外国の山のカレンダーなどにも歴然とその日の欄に印刷されている以上別に自分で算出しなくてもいいようなものの、新しい年の始めに「理科年表」で三月二十一日か二十二日過ぎの満月の日を、(それも春の宵にさし昇る満月の日を)探し出すのが先ず楽しいし、その日からすぐ後の日曜日を見つけてそれと確認することが、何かほのぼのと心暖まって嬉しいのである。
 キリスト教徒でもない私たちの家庭に、クリスマスならばともかく、復活祭を祝うことが一体いつごろから貽まったのかはっきりしない。しかし茹卵ゆでたまごの殼を赤や黄に染めたり、それを広い庭の草木のあいだや花壇の中へ隠して小さい孫たちに捜させたりした光景がはっきり思い出せるから、むろん信州の富士見から東京玉川の新居へ移って後の事にちがいない。外国にそういうしきたりの有る事をいつか何かの本で読んで、幼い者に卵捜しをさせて喜ばせ、大人の私たちは額に入れたキリスト復活の画を前に、例の讃美歌「うるわしの白百合、ささやきぬ昔を」を歌うのが、それ以後かなり長いあいだ続く行事になった。しかし孫たちも次第に大きくなり、やがて住居すまいも東京から鎌倉へ移るようになったこの幾年、あの和なごやかな春の行事もいつとなく忘れられて、今ではたとえ谷戸やとの路傍の草の中や狭い庭の植込みへ卵を隠したところで甲斐がなく、せいぜい私と妻だけが、それもめいめい台所や書斎にいて、昔忘れぬあの歌を口ずさむような仕儀である。
 その復活祭が、少なくとも私にはクリスマスとは反対に、年と共にいよいよ意味深いものに思われて来るのはなぜだろうか。単なる祝日としてではなく、しみじみとした宗教的な気持で待たれ迎えられるのはなぜだろうか。なるほど蘇よみがえった季節の春を野に山にさまざまな花が咲き、鳥が歌い、うらうらと晴れた空に柔らかな大きな雲が去来する三月末や四月初めの希望を孕はらんだ楽しさは我われひと共に同じだろう。しかし一つの仕事に精魂を傾けてこの世の生を重ねながら、もはや余命の程も知れている身には、そうした美しい季節と共に年に一度は必ずめぐって来るこの日を、何やら自分にとってもまた許し与えられた恩寵の日であるように思うことが心ゆかしなのである。「死ねば死にきり」には相違ないが、この世に残してゆく見果てぬ夢や愛情が、いつかまた蘇って達成される事があるかも知れないという有り得ぬ望みを約束する日のようにも思われ、それをキリストの奇蹟の日になぞらえて考えるのが楽しいのである。言葉では言いつくせず、筆にするのもまた恥ずかしい事だが、この気持、わかる人には或いはわかって貰えるかも知れない。

 こういうふうに復活祭を意識するようになって以来、その日には何か因ちなみのある小さい文章か詩を書く事がここ数年の習わしになった。それらは一月末のきびしい寒中に迎える自分の誕生日の物とは違って、どことなく柔らかみを帯び、優しい色や匂いのようなものを湛え、小さい狭い個人の感慨ではなく、広く世界に共通する喜びや祝いや解放の気分に貫かれている。つまり誕生日よりものびのびとし、春という季節に和まされて自由を得た気持が、「復活」という美しい名の日のために何となくロマンティックに動き出すからであろう。去年もおととしも詩を書いた。それより前の或る年には旅先の松本でこの日を迎えて、町の教会の鐘の音の事や、城の花壇の花の事や、そこから眺めた残雪の北アルプスの事を書いた。そして更に古くは信州富士見の高原で、次のような二節を中にした「受難の金曜日」という一篇を得た。

  かつて私が悔恨を埋めた丘のほとりの
  重い樹液にしだれた白樺に
  さっきから一羽の小鳥の歌っているのが、
  二日の後の古い復活祭を思い出させる。

  すべてのきのうが昔になり、
  昔の堆積が物言わぬ石となり、岩となる。
  そしてそこに生きている追憶の縞や模様が
  たまたまの春の光に形成の歌をうたう。

 それならばやがて石となり岩と化する私という人間の仕事とその追憶が、いつかの春の光に新しい形成とよみがえりの歌を歌ってくれればいい!

「シュッツの《復活祭オラトリオ》というのがレコードになっているようですね」ときのう妻が私に言った。「四、五日前ラジオの家庭音楽会の時間にやっていましたよ」
 それを聴いて初耳の私はさっそく東京銀座の楽器店へ電話をかけて照会した。するとどうだろう、その盤ならばもう十年ほども前に出ていて、ちょうど今在庫しているという返事だった。そこで直ぐに送ってくれるように頼んだあと改めてカタログを調べて見ると、なるほどシュッツの項の真先まっさきに載っていて、その上独唱歌手の名まで出ていた。私は自分の迂闊に苦笑しながら、ハンス・モーザー教授の『ハインリッヒ・シュッツ』でその復活祭オラトリオの、正しくは「我らの唯一の贖あがない主にして救い主たるイエス・キリストの喜ばしくも勝利に輝く復活の物語」の条くだりを改めて読み直した。そしてその後半をラジオで聴いたという妻の話から、音楽は歌もレチタティーヴォも全体の感じが颯爽として男性的で、わけても最後のところが大変華やかに勇ましく聴かれたという事を知った。好きなシュッツの作品で未だ知らない『キリスト復活の物語』。私は今静かにその到着を待っている。

 まだ一月以上も先の事だから今から予想したところでどうにもならないが、願わくばその復活祭の日が佳いお天気の日であるようにと祈られる。その頃にはこの北鎌倉でも路傍の草が柔らかに青み、山々の中腹にサクラの花の雲が浮び、レンギョウ、イヨミズキ、トサミズキ、ハクモクレンなどが家々の庭を黄や白に彩り、各処の寺の名あるカイドウの満開が人々の口にのぼるだろう。また山の田圃でカエルが嗚き、糸トンボが飛び、ウグイス、アオジ、シジュウカラ、ホオジロなど、野鳥の歌も賑やかだろう。生き生きとよみがえった自然とおのずから浮き立つ人間の心。私もまた冬に閉ざされた生活や思想から解放されて、その清新な季節をもっと潑溂と生きようとするだろう。
 そういう確かな春の回帰と喜ばしくめでたい復活の祭りの日だ。谷戸やとの奥にひっそり暮す私の家にも敬虔な祝いと喜びの歌がなくてはならない。そしてその歌は、(私たちの讃美歌は別として)、やがて送られて来るシュッツであり、すでに手もとにあるバッハのカンタータである。そして先ず頭に浮ぶのは第四番の『キリストは死の繩目につきたもう』と三一番の『天は笑い、地は歓呼す』、それに二四九番の『復活祭オラトリオ』だが、今度は前記のシュッツの物と比べる意味でもこのオラトリオを聴こうと思っている。
 ティンパニーを随えたトランペットがリズムを刻んで行進する輝かしいアレグロと、オーボエと弦楽器とが限りなく美しい瞑想的な旋律を奏でるアダージョとから成る第一曲の些麗なシンフォニアは、そのままこの聖譚曲のこころを物語ってあますところの無い序奏である。それは主の復活という思いもかけぬ吉報に対する信徒たちの狂喜と、墓地への突進と、涙に濡れた静かな感謝とを歌っている。そしてそのアレグロの主題をさながらに受けついで、「来たれ、急げ、走れ、汝ら速やかなる足よ。イエスを覆いたる穴へと行け」と呼び合って駈けつけるペテロとヨハネ二人の使徒のテノールとバスの二重唱に、「我らの救い主蘇りたまえば、笑いと戯おどけ、心を去らず」と喜ばしげに歌う信徒たちの合唱が花束のように加わって来る第二曲は、前記のシンフォニアと共にこの大カンタータの言わば眼目とも受け取れるものである。
 ヤコブの母マリアが歌う第四曲のソプラノのそれと、ペテロの歌う第六曲のテノールのそれと、マグダラのマリアが歌うアルトのそれと、三曲のアリアはいずれもそれぞれ魅力に薫って美しい。「霊よ、汝の香料は今は早没薬ミルラにあらず。汝の不安の思いはただ輝く月桂の冠によりてのみ鎮めらるればなり」という最初のソプラノのアリアは二本のフルートを助奏にしているが、愛情を堪えて柔らかに歌にまつわるこのフルートの調べはまことに天国的なものと言える。弱音器付きの二梃のヴァイオリンと二本のブロックフレーテに助奏されるテノールのアリア、「わが死の苦しみをしてただまどろみの如く穏やかならしめたまえ」は、シュヴァイツァーも言っているようにバッハの書いた最も美しい宗教的揺籃歌である。弦楽器と笛とが織りなす和やかな音の波間を、救い主への信頼の歌が小舟のように進んで行きながら、その間に幾たびか Schlummerシュルンメル(まどろみ)の一語を感動的に長く顫わせて聴かせるところが、第八二番のカンタータ『われは足れり』の中のSchlummertシュルンメルト einアイン(安らかに眠れ)を思い出させる。そして三曲の内の最後のアルトのアリア、マグダラのマリアの歌うアリア、「告げよ、急ぎわれに告げよ、わが魂の愛するイエスに、われいずこにて見まみえまつるを得べきかを」は、ヴァイオリンとオーボエ・ダモーレの前奏に乗って強く逞しく行進曲のように歌われる。これはもう単なる美しいアリアと言うよりも、愛と信仰に燃える女の熱望と急迫の叫びである。

  私だって二千年の昔を生きて
  もしもこの足が蹇えていたら、
  膝で躄いざっても彼女に続いたに違いない。

と、このアリアを初めて聴いた時、私は詩に書かずにはいられなかった。
 やがて来る復活祭。私にとっても意義深いその陽春の一日が、どうか平和と佳い天気に恵まれるように!

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 二つの『マタイ受難曲』 

 三月十二日の大雪の翌日から中一日を置いて『マタイ受難曲』を二つ聴いた。十三日にはハインリッヒ・シュッツの作、十五日にはヨーハン・セバスティアン・バッハのもの。思えばその雪は天からの惜しみない潔めであり、その音楽は冬の終曲、春の知らせの序曲だった。
 シュッツの日には家の前の長い谷戸やとの急坂で、曇天の朝早くから孫たちが嬉々としてスキーを飛ばせていた。しかし雲一つなく晴れ上がったバッハの日には、明月院の庭に紅あかや白の梅が咲き照り、「瑠璃唐草るりからくさ」と呼んでやりたいオオイヌフグリの早春の花が、小径の雪間から彼らの空色の綴つづれのはしを覗かせていた。
 持っているレコードでの二様の『マタイ』は別として、実際に演奏されるのを聴くシュッツのそれは今度が初めて、バッハのそれはこれが二度目。一方は招待、一方は予約。いずれにもせよ二人の巨匠の宗教曲の大作を日を接して聴きに行くのは、正直に言って楽しくもあれば又いくらか重荷でもあった。とにかくそういう特別な日だから、私は両日とも午前中から常にも増して神妙によく働いた。そして時刻が来ると北鎌倉からいつものとおりの道順で東京上野の文化会館へ。シュッツの夜は小ホール、バッハの晩は大ホール。どちらの場合にもいい席をあてがわれて、舞台の上の演奏を聴くにも観るにも不足はなかった。
 大橋弓子さん指揮のハインリッヒ・シュッツ合唱団は、『マタイ』の前に先ず『宗教的合唱音楽ガイストリッヒェ・コーアムジーク』からのモテット三曲を歌った。これがいずれも以前の第一回の時のよりもすぐれていた。私はふだんからシュッツの歌は、特にその合唱曲は、肉声のそれをじかに聴かなくては真の善さがわからないと思っているが、今度もまた一層その感を深くした。作者シュッツの魂の中にあり心の中にある深く宗教的で劇的な想念が、生きた人間の命ある声で沸騰し、溢れ出し、迫って来るからである。
 さて『マタイ受難曲』は、伝記によれば一六六六年、シュッツ八十一歳の時の作だというから驚くのほかはない。普通ならばすでに無数の傑出した作を残して、今は静かな境地に悠々と老いを養っていて然るべき高齢の身が、また勃然と高まって来た新鮮な創造力に促されて、『ルカ』、『ヨハネ』のそれと共に更に自由で雄大なこの曲を書き上げたのである。しかもなおその後五年、死の前年にあたる一六七一年には、『詩篇一一九番』や『ドイツ・マニフィカート』などを作曲して神への最後の感謝の歌としたのだった。
 一人一人の役柄の出来ばえを云々する気持もなく又出来もしないが、このキリスト受難の物語を堂々と進めてゆく福音史家マタイを演じたクルト・エクィルツはやはり良かった。このテノール歌手は二日後のバッハの時にも同じ役を演じて、当然シュッツの時とは違った用意の程を示したが、多くの美しいアリアやコラールで飾られたり柔らげられたりする事の全然ない此処では、冷静に決然と悲劇の経過を語る証人か、嵐の海に船を進める揖取りのような困難な役目をみごとに果した。そしてそのために全曲が引きしまって、初めから終りまで緩むことのない緊張が続いた。それに合唱が良かった。イエスの弟子たちの半ばおびえたような質問や訴えも美しいが、腹黒い祭司長と長老たちや、無知で粗野な群集や兵士たちの合唱が漲みなぎるように生き生きとしていて、時には鞭を舞わし、衆を憑たのんで旗鼓を鳴らす趣があった。私はそこにもシュッツのきびしいリアリスムを見る気がした。
 シュッツの『マタイ』はバッハのそれよりも六十三年前に作られている。そしてこの二つはいずれも彼らの傑作である。そのシュッツに先んじてどんな前例があったか知らないが、もう一つの『ルカ受難曲』と共に、これほど傑出したものは恐らく作られていなかったに違いない。なぜならば私自身の貧しい蒐集を通じて年代を追いながら彼の代表的な作品を聴いてゆくと、この巨匠のここまで到達した事が決して故ないものではなく、一生を神への信仰と疲れを知らない音楽創造の道とに捧げつくした巨匠の当然の成果と思われるからである。「彼の受難曲にバッハのような豊かな抒情性を探してはいけない。そこには、しかし、深く心に触れる完全に正しい抑揚と、凝縮された情緒とがある」とロマン・ロランは言っているが、私も言葉こそ違え同じような特質を『シンフォニエ・サクレ』や『ガイストリッヒェ・コーアムジーク』などの中に早くから気づいて、それを文学者としての自分の軌範にしようとさえ思ったものである。その作にあって独特な高邁と優雅さ。各声部の輝くばかりな交錯と接触、私はこうしたシュッツを今から七、八年前に、その『ドイツ鎮魂ミサ曲』で初めて自分に知らしめた謹厳有能な若い化学者、心に宗教的な音楽を抱きながら毎日を研究室で働いている友人野本元に感謝せずにはいられない。

 前々夜の午後七時よりも三十分早く始まったバッハの『マタイ』は、曲そのものが屈指の大作だけに時間も掛れば大がかりでもあった。ここでもまた福音史家を受持ったクルト・エクィルツを含む十人余りの独唱者と、主催者である宗教音楽研究会と東京カンマーコーアとの二重合唱団、第一部だけを歌うグローリア少年合唱団、それに東京交響楽団のオーケストラに加えて三人の通奏低音という舞台いっぱいの大編成だった。そして遠山信二氏がこれを指犀した。
 人類に遺贈された不滅の音楽的傑作であるこの受難曲については、すでに無数の研究、分析、論議が公にされ、同時に人それぞれの敬慕や嘆美の声も世界の隅々に充ち満ちているから、一介の素人にすぎない私などが今とやかく述べる必要は更に無い。ただその宗教的な深刻で巨大な迫力と、音楽そのものの限りない美とを真向まっこうから受けて、浴びて、それに堪え、それを味わい、それに酔い、結局それによって心を洗われ魂の装いを新たにされて、額ひたいを照らす星の夜道をひとり帰ればいいのである。してみればそういう私に音楽会の出来・不出来などは問題ではない。それを問題として採り上げるためには又別に人がある。私としてはただこの巨匠に親しむに至った自分の幸いな運命を喜び、今宵のような素朴な深い感動が能うかぎり永続して、自分の生活と仕事とを少しでも神に通じる美へと近づけてくれればいいと願うばかりである。
 管弦楽を先立てたあの第一部劈頭の二重合唱「来たれ、なんじ娘ら、来たりて我と共に嘆け!」に始まる苦悩と動揺の間を縫って、「おお罪なき神の小羊、十字架にかかりて屠ほふられ給い」と清らかに歌い出される少年合唱団の、あたかも天の銀河のようなコラールをどんなに胸ときめかせて私が待ったことだろう! またベタニアの塗油のくだりで、弟子たちの烈しい難詰を主に訴えるアルトのレチタティーヴォに続くアリア「懺悔と悔恨」を、この受難曲最初のものとしてどんなに耳を澄ませて聴き入ったろう! そして最後の晩餐でのイエスの伴奏付きのレチタティーヴォ「取りて食せ、これ我が体なり。なんじら皆この杯より飲め、これ契約の我が血なり」の処では、シュッツの悲痛な同じ個所と思い比べながら今更のように二人の巨匠の苦心の程を考えた。続くソプラノのレチタティーヴォ「わが心いかに涙に暮るるとも」と、そのアリア「わが心をなんじに捧げん、救い主よ、なんじその中へ沈み給え」も、私の総譜では以前から特に印しをつけてある好きな個所だった。そして第一部の終りで、イエスが捕えられて弟子たちが皆逃げ去ったあとに、少年たちの清らかな声をまじえて歌われるあの名高いコラール、「おお、人よ、なんじの罪の大いなるを嘆け」の壮麗な大合唱が始まった時、私としては遠く目ざして来た高山の第一峰に立った思いがしたのだった。
 第二部の開始を柔らかに飾るアルトの独唱アリア「ああ今やわがイエスは去り給えり」の嘆きを慰める友人たちの合唱「女の中のいとも美わしき者よ、なんじの友はいずこに行きしや。われらなんじと共に探し求めん」は、ソロモンの雅歌から転用された歌詞だが、この感動的な旋律で運ばれる一篇の挿話を最初に据えたバッハの気持には充分に同感ができる。また祭司の長おさの邸の庭で群集が叫ぶ「彼は死罪にあたる!」という凄すさまじい八声合唱のあと、唾や拳こぶしでイエスを辱しめながら「言い当てよ、キリスト、なんじを打ちしは誰なるかを」と愚弄する同じ烈しい合唱と、それに続いて静かに歌い出される「かくもなんじを打ちしは何者ぞや」の信徒たちの悲痛な合唱とはいかにも対照的である。更に鶏の鳴くまでに三度キリストを否認したペテロが、師の言葉を思い出して深い悔いに号泣するくだりを述べる福音史家のレチタティーヴォと、そのペテロに代って宥ゆるしと憐れみとを乞うアルトのアリアも心を打つものであった。
 イエスに有罪の判決が下されて、囚人バラバとイエスとのうちいずれを赦免すべきかをピラトが問うた時、群集がただ二言叫ぶ「バラバを」の最強声フォルティッシモと、「彼を十字架にかけよ」のフーガ風の短い合唱も聴く者の胸を今更ながら打ちひしぐ。しかしその間にフルートの助奏で歌われるソプラノのアリア「愛ゆえにわが救い主は死に給う」は限りなく悲しく美しい。そして「おお血にまみれ傷つきしこの御頭みかしら」のコラールと「いつの日かわれ死なん時」のコラールとは、例の「あれら涙にくれてひざまずき」の終曲大合唱と共に、溜め息をつきながらじっと聴き入っていた私を、深い満足感と言うに言われぬ思いとで静かに帰途につかせるものだった。

 

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 私の音楽と妻の音楽

 似た者夫婦というか、五十年も苦楽を共にして来たその間の実りというか、妻は私同様自然が好きで、日常目に触れる何でもないような生物にも興味を寄せているが、わけても野山の花や小鳥には特別な愛と関心とを持っている。五月も末のこのごろ、「向うの崖にトリアシショウマが咲き出しましたよ」と教えてくれるのも彼女なら、年明けて初めてのサンショウクイの空飛ぶ声や、うしろの山でのハルゼミの初鳴しょめいをまっさきに聴きつけて報告してくれるのも彼女である。私もその方ではかなりよく気がつく人間のつもりだが、路傍の花や小鳥の声を誰よりも先に見つけたり聴きつけたりする点では、残念ながら彼女に一籌いっちゅうを輸さないわけにはいかない。
 そういう妻はまた音楽も好きである。むろん古典音楽の話だが、その寛容度は私のよりも遙かに大きいらしい。たとえばこちらが余り好意を持っていないブラームスなんかでも、別に退屈したり無理に辛抱したりしている様子もなく結構楽しそうに聴いている。「面白いのかい、ブラームス」とたずねると、「ええ悪くはないわ。随分美しいところだって有るじゃありません? 偏見無しに聴けば」という返事である。してみるといかに信頼し同調している夫の私にも、時に偏見や先入観というものの有る事を彼女はちゃんと承知しているらしい。半世紀にもなんなんとする長い夫婦生活だ。互いに生来の弱点を知り、持前もちまえの癖を知り抜いているのは寧ろ当然な事と言えよう。それを敢えてあげつらいもせず、厳しく咎めだてもしないままにどうにか此処まで辿りついた私達。その互いの老年に、それぞれの受け取り方はどうであれ、許し切った心で同じ音楽に耳を傾ける事ができるとしたら、それはやはり生涯の夕日の時を生きる二人にとっての静かに満ちた幸福と言うべきだろう。
 しかし彼女の好きな音楽は何と言っても私の好きなそれに近い。永年一緒にいるのだから当然のようなものだが、バッハ、ヘンデル、グルック、モーツァルト、ベートーヴェン。シューベルト、ベルリオーズ、シューマン、ショパン。それにこのごろはイタリアやフランスの古い大家とハインリッヒ・シュッツ。更にオルガンのブクステフーデやパッヘルベルなども加わって、耳を通しての彼女の世界は一段と広くなった。元より家事に追われているのでそう始終は聴けないわけだが、たまには私と、もっとたまには家族の者や私が床に就いたあとの夜晩おそく、締め切った書斎で何か一人で聴いている。ついこの間などは買ったばかりのモーツァルトのヴァイオリンとヴィオラとチェロの三重奏曲、あの変ホ長調ケッヘル五六三番のディヴェルティメントを聴いていた。「良かったかい?」と翌朝訊くと、「すばらしかったわ。幸福な音楽とはほんとにああいう物を言うんですね」と、皿を拭き拭き目を輝かせて彼女は答えた。
 そんな自分の妻を見るにつけ、今更言っても始まらないが、高村さんとその愛妻智恵子さんとの間に、音楽を介しての更に別種な和なごやかな心の交流があったならばと惜しまれるのである。なるほど高村さんは決して音楽に無関心ではなかったが、敢えて私に言わせれば、それも彼独特の自己中心主義への触媒のようなもので、これをすなおに親しい者と分け持って、共に楽しむという事をあまりしなかった。彼のいろいろな文章を読んでも、夫婦愛の悲歌の名作『智恵子抄』を読んでも、人と人とを結びつけて共に生かしめる音楽の力、その美によって人間の魂を豊かに装わしめる音楽の徳についてはほとんど何も語られていない。私のは智恵子さんの頭がまだ正常だった頃の思い出だが、その二十年に近い間の折々の同席にも、自然の事に関してならばともかく、事音楽についての言葉というものを一度も彼女の口から聴いた事が無かった。もしもあの二人の静けさきわまる隠棲のような家の中に、一脈春をもたらす音楽の空気がもっとかよっていたなら、或いはああいう結果にはならなかったのではないかと思って、他人事ひとごとながら一人ひそかに悔まれる。つい最近私と妻とは親しい友の案内で福島県二本松の智恵子さんの生家の跡をたすね、『智恵子抄』の「樹下の二人」の丘へ登って松吹く風の音を聴き、安達太良山あだたらやまの中腹でつくづくと「智恵子のほんとの空」、「あどけない話」の空を見上げたが、そのみちのくの短い旅の間にもいよいよ前記の感を深くした。そして「音楽よ、汝はわが心に暖かき愛の火を点じ、われをより善き世には導きぬ」というあのシューベルトの不朽の歌が、今更のように心の琴線に触れるのだった。
 そういう音楽を単に聴いて楽しむ者としてばかりでなく、自分達自身でも演奏したり歌ったりして、おそらくはいわゆる素人しろうとでありながら、又それぞれが別にこの世での務めを持つ身でいながら、幾人かの同好者が集まって、休みの日にも熱心な練習を重ねて、一年に一度か二度の発表会を持つ事に若い日の生き甲斐の一端を見出しているけなげな人達の仲間が幾つかある。そして皆川達夫さんの指導している中世音楽合唱団もまたその一つである。
 皆川さんは中世及びルネサンスの音楽史を専攻する博学な音楽学者であり、その時代の音楽をわが国にも広く知らせて、われわれの間にその美の所以ゆえんを鮮明に浸透させようと努めて倦む事のない旺盛な努力家である。彼には『合唱音楽の歴史』という大著があるが、出版後わずか半年で九版を重ねたという程好評を博した内容豊かな書物で、私などでも読んですこぶる楽しく面白く、同時に教えられるところの甚だ多い有益な本である。元来話術の巧みな彼が日常の言葉使いをそのままに駆使しているので、警抜な文句やほほえましいユーモアが随処に出現し、彼の頭の切れの良さが、言わばこの講義録全体を生気と潤うるおいに満ちた読み物にしている。
 その皆川さんの指揮する合唱団の第十五回演奏会というのを、四月末の或る晩に招かれて聴きに行った。男女合わせて三十人程の出演者で、全体の素朴で清潔な印象がまことに快かった。グレゴリオ聖歌を初めとするジョスカン・デ・プレやヴィクトリアなどの宗教歌の合唱と、セルミンやジャヌカン、ガルニエやマレンツィオの世俗歌の合唱とがあったが、抑制されて清らかに澄んだ前者と、華やかで生き生きとした後者との対照が、いかにも指揮者その人の意図する真意と、その抱擁力の大きさとをうかがわせて興味が深かった。しかし私としては、どちらかと言えば、第一部である前者の方に心に訴えて来るものの有るのを覚えた。そして終りにはいつものようにイザークの「インスブルックよ、さようなら」が歌われ、更に最後に舞台と聴衆席との合体で、例によって「夏が来た」の輪唱カノンが場内に流れ渡った。もちろん私も加おった。幸いこの歌なら昔からよく知っていたから。
 まことに皆川さんの願いどおり、企画どおり、終始庶民的な心暖まる会だった。

 カール・リヒターの率いるミュンヘン・バッハ合唱団とその管弦楽団との来日演奏は、晩春初夏の幾夜を飾るバッハ音楽の饗宴だった。絶讃とも言うべき好評が専門家たちの筆で新聞の紙上を賑わした。私もそれに動かされないではいなかった。そして『口短調のミサ曲』や『マタイ受難曲』は所用のために聴き損ねたが、そのカンタータの夕べには孫娘同伴で行く事ができた。結論を先に言えば初めから終りまで、その洗練し尽されたバッハ再現の美しさに魅了され囚とらわれ通しだった。
 この指揮者と楽団とには自分の持っているレコードで既に永く親しんでい、独唱者のウルスラ・ブッケル、マルガ・ヘフゲン、エルンスト・ヘフリガー、キート・エンゲンなども馴染なじみの名だが、さてこうして本物の声をその人達を眼前にして聴いていると、ただただ感に打たれてじっと聴き惚れ見惚れているばかりだった。合唱団にしてもそうだった。それは時には凪ぎ時には高鳴る人間の声の海、多彩な雲の巨犬なかたまり、レコードなどでは到底聴けない生き物だった。それに舞台の下手しもてに居えられた新しいパイプオルガン。私としてはこんな会場で初めて目にする楽器だったが、これがまたその夜のプログラムの中では到るところで際立った活躍をした。輝かしい金管楽器トランペットの響きも、勇壮というか壮美というか、四曲のカンタータの要所要所を赫々と照らした。一〇三番のカンタータ『汝ら泣き晞ばん』の中で、アルトやテノールのアリアに伴奏するヴァイオリンの音色ねいろの美しかった事も忘れられないし、一四七番『心と口と行為と命』の第一部と第二部の終りのコラール、いわゆる「主よ、人の望みの喜びよ」をめぐって伴奏するあの高音弦楽器群の敬虔で壮麗な音の綾、音の輪舞も、こういう名手たちの実際の演奏をまって初めてバッハの真意に添うのだろうと思われた。時どき聴えるオーボエやヴィオラの歌も魅力的だった。それは特に三一番『天は笑い、地は歓呼す』の中の第八曲のソプラノのアリアに伴う時に、遠い空からの懐かしい風の消息のように私に来た。
 私はいつもするように、その夜も光の弱い聴衆席で自分の感銘の断片をプログラムに走り書きしたが、それをここで書き伸ばしていたら切りがあるまいし、読者にも一層の退屈を強いる事になるから止めにする。けだし私の感嘆、私の陶酔は全く私だけのもので、その夜会場を埋めつくしていた聴衆には、またそれぞれ別に立派な感銘や所感がある筈だからである。

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 ヘンデルの『メサイヤ』

 音楽は私の晩年にいよいよ付いて離れないものとなっている。昔のようにもう余り山へも登らず、かと言って観光客の殺到する旅館や乗物の事を思えば進んで旅行をする気にもなれず、結局は変りのない現状に満足して、わが家で思いのままの生活をしていることが多い。不時の来客や電話のほかには邪魔も入らず、文房用具はすべて身辺に、読みたい本、調べたい書物もすぐ手に取れるし、ゆったりとした気持で物も書けるし、住んでいる場処が場処ゆえ、狭いながらも四季それぞれの風物からの新しい見つけ物にも事欠かない。その上最後には音楽への愛という心の支えがある。そしてこの支えが徐々として迫って来る老いの中で、私のために精神の若さを保たせていてくれるのである。つい先頃も、何となく気が沈んで心の冴えない憂鬱な日に、ふと思い出してヘンデルの『九つのドイツ歌曲集』からその二つ三つをレコードで聴いた。すると好きなソプラノ歌手ヘルタ・フレッベが歌っているそれらの歌の調べの雄々しさと、言葉その物の敬虔な美しさとに晴ればれとした気分になって、今までよりも遙かに生気のある自分に帰る事ができた。その歌は「愛らしい花よ、タンポポの綿毛よ」と「我が魂は見つつ聴く」。いずれも煌きらめくようなヴァイオリンの音を助奏にしたアリアだが、創造主への感謝や讃美がこぼれんばかりに歌われていた。
 ヘンデルは私の好きな音楽的巨匠の一人である。ひどく気が滅入って生活に張りがなくなり、心がしおれて我ながら意気地の無さを痛感しているような時、その音楽をひっさげて闊歩して来て言わば私をどやしつけ、もう一度生き甲斐あるべきこの世へと引き戻し押し返してくれるのは彼である。この点似たようでもベートーヴェンとは微妙に違うし、バッハやモーツァルトともまた違う。ベートーヴェンは何と言っても生涯を通じて渇仰する師であり、バッハは私の最も神妙な時の宗教的思念への導き手であり、モーツァルトはその無尽の美をもってこの世を飾り、聴く者の心を喜ばせながらこれを教育する人である。その中に在ってのゲオルク・フリートリッヒ・ヘンデル。慈愛に富んで男らしく頼もしい伯父でもあれば、衆にすぐれた膂力の持ち主でもあるようなそのヘンデルを、私としてどうして懐かしまずにいられよう、愛さずにいられよう!
 大オラトリオ『メサイア』のすばらしい事は今更ここに言うまでもない。その中でもどの個所が一番好きかと訊く人がよくあるが、しいて答えれば第二部劈頭の合唱に続く「彼は侮あなどられ、人に捨てられ」のあの痛ましいアルトのアリア、第四十一曲の「いかなれば諸々もろもろの国びと怒り立ち」のすさまじいバスのアリア、更に湧き立つ雲の峰のような「ハレルヤ・コーラス」と、最後の曲である海のような「アーメン・コーラス」などを挙げなければならない。しかしこの大曲の間を花のように埋め、泉のように綴つづっている比較的短い合唱や小さいアリアも私には捨てがたい。たとえば第九曲のアルトの独唱と合唱「おお、汝、よき便りをシオンに伝うる者よ」とか、第二十曲のソプラノとアルトのアリア「彼は牧者の如くその群れを養い」のようなものを。わけても「ハレルヤ・コーラス」が終った直後、第三部の初めに歌われる「我は知る、わが贖あがない主の生き給うを」の限りなく美しいソプラノのアリアを好きで、時どきレコードでも聴けば自分でも歌ってみる程である。それは私の貧しい心を春や夏のように豊かにする。そしてこんな雄大な聖譚曲の中へこんな宝石のような歌をちりばめる事をゆるがせにしなかったヘンデルなる者に、今更ながら頭の下がる思いがするのである。
 ヘンデルには『メサイア』のほかに尚多くのオラトリオやオペラの類がある筈だが、その大部分はただ断片としてレコードに入っているだけなので、われわれのような一般人にはそれぞれの全貌を知るすべが無い。全曲が入っていると言う『エジプトのイスラエル人』にしても、『ユダス・マッカベウス』にしても、『サウル』にしても、是非持っていたいと思って楽器店や発売元に問い合せればもうとうに売り切れか廃盤である。最近その『サウル』に付随した序曲やシンフォニアを集録した盤を手に入れてせめてもの事として喜んだが、ヴィンシャーマンを初めとするドイツ・バッハゾリステンの演奏は堂々とした立派な物で、中でもハープやカリヨンを主としたラルゴやアンダンテのシンフォニアが珍しくもあれば美しくもあった。それにしても『水上の音楽』や『王宮の花火の音楽』、或いは『ユトレヒトのテーデウムとユビラーテ』や『祭司ザトクのための戴冠式アンセム』のような物は、手許には有ってもこの幾年ついぞ聴かない。理由は自分でもはっきり判らないが、前者には花々しくはあるが内容の稀薄な気軽さが感じられ、後者はパーセルを手本として作曲されて、記念的なジャンルでのその最初の試みだと言われているが、いかにせん其処には何か自分にしっくりしない物が有るからではないかと思う。しかしこれは飽くまでも私個人の好みの問題にすぎず、反対の意見を持つ人の多いであろう事も充分に想像できる。
 バッハやモーツァルトやベートーヴェンが彼らの旅か休暇で不在の時、私はしばしば好んでヘンデルの『合奏協奏曲』を招じ入れる。その十二曲にはいずれもそれぞれ特色があるが、そこにはこの作者に独特な詩的なもの絵画的なものがのびのびと繰り拡げられている。そして私としてはロマン・ロランの言うようにやはりヘ長調の第二番と、イ短調の第四番と、卜短調の第六番とがすぐれていると思うし、好きでもある。その上ロランはこの三曲のいずれにもベートーヴェン的な物を見出している。別の場処でヘンデルの事を「鎖につながれたベートーヴェン」と言った彼の評言も思い出されてほほえまれる。事実これらの曲にはベートーヴェンの愛したのと同様な田園的雰囲気が汪溢していて、「このような作品は実に音楽による絵画である。これを理解するには良い耳だけでは足りず、見る眼や感じる心が必要である」というロランの言葉の正しさを証明している。しかし何はあれヘンデルがベートーヴェンよりも遙かに先立ってこれらの物を書いた事実を忘れてはなるまいし、そのベートーヴェン自身、「ヘンデルの墓前にぬかずきたい」と言ったという話も思い出さなければなるまい。
 『合奏協奏曲』の事に触れると当然のように頭に浮ぶのは彼のオルガン協奏曲である。もうかなり以前になるが、『バロック・オルガン音楽の歴史』という三枚組のレコードを手に入れて、最後のバッハの一つ手前でヘンデルの『オルガンとオーケストラのための協奏曲、へ長調、作品四の四』というのに出会った時には、その気品と気魄に満ちたオルガンと和声も豊かな管弦楽との壮大さに打ちのめされたような気がした。なぜならば恥ずかしながら私はそれまでヘンデルのオルガン協奏曲なる物を聴いた事が無かったからである。歴史と銘打っているからフレスコバルディやシャイトのような初期のものから、フランス、南ドイツ、北ドイツの各楽派に属する名匠の作品がベームやブクステフーデあたりまで順を追って入っていたが、ひとたびこのヘンデルを聴くや否や、それまでのすべてが私から飛び散ってしまった気がした。そしてそれ以来というものすっかり病みつきになって、今もなお作品四の一から六までをミューラーやディヒターによって楽しまされている。合奏協奏曲とオルガン協奏曲、それに六曲のオーボエ協奏曲を加えると、私の愛するヘンデルは此処に器楽作家としてのその英雄的な横顔をほぼ現わしているように思われる。
 フルートの奏鳴曲、ハープシコードの組曲、ヴァイオリンとハープシコードのための奏鳴曲、ハープとリュートのための協奏曲、フルートとオーボエとチェロとハープシコードのための四重奏曲その他。私の貧しい蒐集の中でもヘンデルは相当幅を利かせているが、何としても肝腎のオラトリオやオペラの聴けないのが残念である。それにしても一生をヘンデルの研究に捧げたクリュザンダーを称讃しながら、自分自身については「このささやかな書物はヘンデルの生涯や作品のきわめて簡単なスケッチに過ぎない。私はやがて書く本でヘンデルの特質や作品やその時代について更に詳細に研究したいと思う」と書いているロマン・ロランの、今を去る六十年も前の著書である大冊『ヘンデル』や興味深い小品『ヘンデルの面影』を読んで、よくもこれだけ博く且つ深く文献を渉猟し探究し、よくもこれだけ多くの作品を聴く事ができたものだと驚かずにはいられない。
 私はロマン・ロランがバッハを遇すること、バッハに心を寄せること、薄かったとは決して思わない。それどころか彼の音楽上の著作には随処にバッハの名が現われ、深いバッハ認識が見出されるのである。しかし惜しむらくはロランにはその『ヘンデル』に匹敵するバッハ研究の著書が無い。六冊に及ぶ偉大な仕事『ベートーヴェン研究』は措くとして『ヘンデル』が有って『バッハ』が無いのは私としてはいかにも寂しい。そこで思うに、人間ロランには「鎖につながれたベートーヴェン」に対して気質的には通じるものがあったのではないだろうか。『ジャン・クリストフ』の山岳を越えて『コラ・ブルニョン』の平野へ降り立つ時、私は芸術の中でもまた支配的な力を奮っている彼ロランの「自由への愛」と「精神の英雄主義への傾向」とを思わずにはいられないのである。
 私の今日のささやかな仕事はこれで終る。今夜は中天に懸るアンドロメダの光を窓に、ヘンデルの『聖セシリアの日に寄せる頌歌オード』を聴く事にしよう。

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 人間の絆

 久しぶりに上の家のSさんのところへ招かれて、ひっそりと落ちついた洋風の広間で一緒に一枚のレコードを聴き、それが終ると今度はいつもの清楚な茶室風の日本間で、奥さん心づくしのご馳走と美酒に思わずも夜を更かした。
 近所に同好の士が無いせいか、Sさんは時どき私と二人でクラシックのレコードを聴いたり、静かに音楽を語ったりするのを好んでいる。お互いについ目と鼻の先に住みながら、両家の女たちの親しさは別として、少なくとも彼と私との交わりに心安だての余りの乱れというものが無いのは、一つにはその間に音楽が介在していて、おのずから規律と調和を保たせているせいかと思う。
 その目聴いたのはセザール・フランクのへ短調のピアノ五重奏曲で、私のまだ知らない作品だった。彼の二短調の交響曲や、『前奏曲とコラールとフーガ』のようなピアノ曲や、『英雄的小品』とか『三つの衆讃曲』のようなオルガン曲ならば私も大切に持っていて折々耳を傾けるが、この五重奏曲がこんなにも美しい物である事は初めて知った。殊にSさんが「跪ひざまずいて祈っているような感じ」と言ったレント・コン・モルト・センティメントの第二楽章と、「慰めと力づけの歌だ」と言った強靭で精力的な第三楽章とに私は打たれた。と同時に、一九〇五年にストラスブールで行われた第一回の音楽祭でこのフランクの崇高な叙事詩『盛福レ・ペアティチュード』(『八つの幸い』とも訳されている)を聴いたロマン・ロランが、彼が公衆との非妥協的な点でベートーヴェンに比較し、バッハを別にすれば実際にキリストを見、且つ人々にも彼を見せる事のできる唯一人の音楽家であると書いた文章を思い出した。私はその個所を五十数年前に翻訳してフランクという名に初めて接した記憶があるので、今この五重奏曲を聴くに及んで一層この作曲家とロランその人とを懐かしんだ。そして私が静かにこうした感慨を告白するとSさんも晴れやかな顔をして、「僕にとっても三十年間愛し続けて来たフランクですよ」と言った。こうしてフランクは期せずして吾々を結ぶもう一本の絆きづなとなった。そして翌日改めて自分の持っている彼の曲の幾つかを聴いたり、ロランの『追想録メモアール』から一八八八年頃の彼らの親しい接触の事を書いた「セザール・フランクに関する短い思い出」を読み返したりしたが、同時にフランクの人間と芸術の徹底的な誠実さと清廉さと、英雄的な直情と、更に時にはほほえましいくらいな人の好さボノミなどの点で、これもまた自分の好きな同じベルギー生れの詩人であるエミール・ヴェルハーランとの類似を思わずにはいられなかった。

 その頃妻の肉親の叔母であり、私にとっても愛する義理の叔母にあたる人が、半年余りの入院の末腎臓病で他界した。キリスト教の学校東洋英和の出身で、本人も口にこそ出さないが自分なりの信仰を持っていたので、その告別式は渋谷区代官山町の新しい小さな教会で至って清楚に執り行われた。正面の壇上を埋めつくした純白な菊や百合や蘭の花のあいだから、七十六歳でみまかった人の懐かしい顔の写真が、天井の高いみ堂を満たした会衆の哀別の瞳に穏やかにうなずいていた。もちろん男性もいたが同じ学校出身の奥さんや娘さんたちが多く、昔の同級生で生き残っている老人も、彼女らの親しい「お信のぶさん」との別れに幾人か悲しみの姿を見せていた。
 式は荘重なオルガンの奏楽で始まり、会衆一同の歌う「主よ、みもとに近づかん」の讃美歌がこれに続き、司式者である牧師の聖書朗読と祈禱があり、「ものは変り、世は移れど」が一人の若い女性によって歌われ、再び司式者の告別の言葉と祈りとがあって、さて会衆一同の二度目の合唱による讃美歌「しずけき祈りの時はいと楽し」が明るく柔らかに堂内に響いた。これには特に「故人愛唱」という但し書きがついてい、私もまたこの讃美歌を好きだったので、亡き叔母と一緒に歌う気持になって、愛と敬虔の心をこめて一同に和した。そして最後の献花の時、私は一輪の菊の花を供えながら叔母の遺影につくづくと見入った。それは数年前に彼女とその同級の友三人とを上高地へ案内した時の記念写真の顔とそっくりだった。数十人の潑溂とした若い男女の登山者に囲まれ、瀬音せおとも涼しい梓川に架った河童橋かっぱばしの石段の最前列に四人の「お婆さん連」の一人として腰をかけ、六月の西穂高の新緑を背にしている時のあの楽しげな顔が其処にあった。そしてその顔に最後の別れを告げながら、私の眼から不覚の涙が流れたのも是非がなかった。
 それにしても家にいて時に一人で讃美歌を口にする事のある私が、それをこんなにも切実な思いで歌ったためしは一度もない。すべてはあの叔母の死による清めの力である。私の妻をその娘の頃から「実みいちゃん、実ちゃん」と言って可愛がってくれ、それに連れ添う私にさえ常に変らぬ好意を寄せていてくれたあの「お信のぶ叔母さん」の徳である。

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 安らかなる眠りのために……

 フランスの高名な作家であり、詩人であり、医学者であり、熱心な文明擁護論者であると同時に政府の文化使節として広く世界の各地を歴訪したジョルジュ・デュアメルがこの世を去ってから、もう早くも七年なにがしになる。彼は一九六六年四月十三日の午後、パリから程遠くないヴァルモンドアの田舎の自宅で八十二年の生涯を閉じた。何の病気で歿し、死の床の様子がどのようであったかを私は知らないが、六十一歳の時(一九四五年)に出した『慰めの音楽』という本の中に出て来る「ヨーハン・セバスティアンの歿後二百周年のための感謝の言葉」という文章の終りを、彼は次のような切々たる言葉で結んでいる。
「もしも家族の者に取巻かれての死が与えられるなら、バッハの思想が私と共に、私の周囲に、私の上に在るようにと祈る。その時、『聖ヨハネによる受難曲』の最後の合唱を聴くことが、私にとってさぞや心楽しい事だろう。この合唱はいつでも私に漫々たる波を、世代から世代への幾世紀の夜をとおしてキリスト教の思想を遠く運ぶ、深い深い人間の波を想わせたのである。
 もしも私が故国から遠く、わけても我が家を遠く、愛する者たちからもまた遠い処で斃れなければならなかったら、ヨーハン・セバスティアンが私の憩いのために、悟りのために、解脱げだつのために、そして救いのために作曲してくれたあのけだかい歌、もう永久に見分けもつかないほどよく、またそれほど遠い以前から私の思いに混じりこんで来たあの歌、誰でもが歌い、誰でもが歌うだろうあの歌、そしてしかも尚ヨーハン・セバスティアンと私との間の秘密であるあの歌を、ただ一人で、声も無く、少なくとも心の奥所おくがで歌う力を与えられたい」と。
 デュアメルが『ヨハネ受難曲』の最後の合唱(le choeur final)と言っているのを念のために聴いてみると、それは次のような歌詞で成っている。「安らかに眠りたまえ、おんみ聖なる亡骸なきがらよ。私はもうそのために嘆きはしない。安らかに眠りたまえ、そして私にも安らぎを与えたまえ。あなたのために定められて、もはやどのような苦しみも取り囲み得ないこの墓は、私を天国へと導き、地獄への道を閉ざすのです」と。そしてこの「安らかに眠りたまえ」(Ruht wohl)の一句は歌の中で実に幾たびか繰り返されるが、それがこの合唱を揺ぎない太い柱のように支えているのである。しかしまたその「最後の合唱」なるものが、実はこの受難曲を結ぶ本当の終曲である衆讃歌コラールだったとしても、デュアメルの真意には変りはあるまい。なぜならば其処には「ああ主よ、私の終りの日には、おんみの愛する天使をして、この魂をアブラハムの膝に運ばしめたまえ。最後の審判の日までこの体を彼の臥所ふしどに横たえ、悩みもなく苦しみもなき安らぎを与えたまえ……」という信頼に満ちた懇願が、これもまた敬虔な合唱となって歌われているから。
 いずれにもせよ、ヴァルモンドアの四月の春の広い庭園に囲まれた自宅の一室で、今やこの世を去ろうとするデュアメルを中に、その妻や息子達夫婦や孫達など多くの近親が、声に出すと出さないとに拘らず、彼のためにその至愛の祈りの歌を歌ったであろうという事は想像に難くない。そして彼としても死にゆくきわの夢心地の中で、バッハと自分との間の秘密の歌を必ずや歌っていたことであろう。私はその悲しい聖なる瞬間を心に描いて羨ましく思う。そしてもしも叶う事ならば、自分もまたこのようにして一生を終りたいと願っている。

 父の実家も両親も仏教徒であったのに、その嫡男である私自身はひそかにキリスト教徒のつもりでいる。小学生の頃に女の先生に連れられて時どき行った以外には教会へも行かず、まして信徒としての洗礼を受けたこともない者がこんな事を言えば、烏滸おこの沙汰と思われるかも知れないが、世の中にはこういう「内心のクリスチャン」も決して少なくはないのである。仏教の経文は読まないが聖書はつねに身辺にあり、折に触れれば心をこめて讃美歌も歌い、祈りもする。そしてそれがキリストを思いながら私がおのれを正したり清めたりする仕方である。それには若い頃から親しんだ西欧の文学や絵画の影響があずかっている事は勿論だが、キリスト教自体の持っているさまざまな精神的な美の要素が早くから私の心をとらえた事、それが最大の原因であった事は確かである。
 それにもう一つ、妻の亡くなった叔母たちが皆熱心なクリスチャンであり、その叔母たちに育てられ愛されていた妻が、私のところに嫁いでもなお先に言った「内心のクリスチャン」である事をやめなかったので、それが互いの間に共鳴して今日に至ったのも事実である。時折妻が忙しい家事のあいだに小さい声で讃美歌を歌っているのを耳にすると、二階で仕事をしている私も思わず小声でそれに同調してしまう。すると其処に、ふだんは余り自覚もされない夫婦愛の世界に、いつしかキリスト教的美の世界が柔らかに参与して来るのである。実は先刻もそうだった。私かデュアメルの言うバッハの『ヨハネ受難曲』の最後の合唱なるものを確かめるためにレコードを掛けていると、今まで掃除をしているものとばかり思っていた妻が、ひっそり二階の上框あがりかまちへ腰を下ろしてそれをじっと聴いているらしかった。私は彼女に気付かれないように、しかし彼女のために、少しばかり音を大きくした。そしてこんな聴き方をされるバッハやその演奏者たちの不思議な満足感を想像し、こんな聴き方さえもする老夫婦が一体今の世にいるだろうかなどと考えて、何かほほえましいような、何か涙ぐましいような思いに打たれたのだった。
「さっきの音楽、あれはバッハでしたか? ほんとうに美しい歌ですね。あたし、なんという事なしに、亡くなったお菊叔母さんやお信のぶ叔母さんの事を思い出しながら聴いていました」と、二人だけの昼の食事の時に妻は言った。
 年をとるにつれて次第に世間の雑事から遠ざかりたくなり、たとえ贅沢にではなくても静かに安楽に暮したいと願うのは誰しもの事だろうと思うが、私の場合には中々その願いが叶えられない。それどころか、逆にだんだん雑用が殖え、訪問客が多くなり、いろいろと面倒な相談事が持ちこまれ、生活のためだから仕方が無いようなものの、心に染まない原稿や講演を頼まれたりして、以前よりも却って忙しく生きている。曽てデュアメルも同じような事を託かこっていたが、こういう生活が一体いつまで続くのかと思うと、時には絶望的な気持にさえなる。しかし冷静に考えればこれこそ自分に課せられた運命であって、私としてはこの運命に従いながら、しかもその油断の隙を見て、どんな小さい物であろうとおのれの幸福を克ち取り打ち建てねばならないのである。そして其処に即ち運命に対する知恵が見られ、昔メーテルリンクから教えられた事の活用がある。
 無意味とも思われる現在の多忙と、そのために粗悪になり勝ちな毎日から、私が克ち取る幸福や美の一つが音楽である事は改めて言うまでもないだろう。日時を都合して音楽会へ行き、僅かの暇にかねてから考えていたレコードを聴く。しかしそのようにして聴く音楽に宗教的な物の多くなったのは、心の憩いと安らぎと、魂の救いとを求めるに至った自分の年齢の故であろう。私にはデュアメルが、その晩年に及んで本当の意味でバッハに近づいて行った心境がよくわかる気がする。恐らくヘルマン・ヘッセにしてもそうだったであろう。ヘッセは彼の著書の一冊の中に『古い音楽』という一篇の美しい小品を書いているが、それは彼が雨の夜の人け少ない教会堂で、たぶんセザール・フランクの作かと思われる敬虔なオルガン曲とバッハの『前奏曲とフーガ』とを聴いて、深い宗教的な気分にひたった時の実況と感慨とを述べたものである。そして、「私は思わずにはいられない。われわれは何というみすぼらしい粗悪な生活を送っていることだろう!われわれの中の誰がこの巨匠のように、こんな訴えと感謝の叫びとをもって、かくも深い心情から生れた本質の亭々たる偉大さをもって、神と運命との前に進み出る事ができるだろうか。ああ、われわれは別の生き方をしなければならない。もっと大空や樹木の下に生き、もっと孤独になり、そしてもっと美と偉大との秘密に近づかなければならない」と、その文章の最後で述懐している。
 一日が果てて寝に行く前の、三十分かそこらが私には楽しい。明日あしたは明日、今日はともかくこれで無事に終ったと、レコードの棚の前に立ってあれかこれかと物色する。昼間から予定したのは直ぐに掛けられるが、大抵はそうでない場合が多いから少しのあいだ迷う。聴くのは無論宗教的な曲である。しかし余り大きいものはこの場合適当でない。バッハの教会カンタータのどれかにしようか、ヘンデルのオラトリオか歌曲集から何か広々と豊かな感じの一、二曲を選ぼうか、それともこのところ久しく聴かないシュッツの『シンフォニエ・サクレ』か『カンティオネス・サクレ』から、今夜の気持にふさわしいどれか三、四篇を聴こうかと、棚の前を往ったり来たりするが容易には決心がつかない。しかし本当は彼らの物ならばどれを聴いてもいいのである。私の求めているのは心の憩いであり、眠る前の安らぎであり、一日の清めと感謝の祈りだからである。
 昨夜はそういう中で嬉しいかなディーヌ・リパッティのピアノを聴いた。それもバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」と、二曲のコラール・プレリュード「主よ、われ汝を呼ぶ」と「見よ、救い主は来たりたもう」とであった。好きな奏者と好きな曲。私の眠りは安らかだった。

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 トリオ・ソナタの夕べ

 十一月の十九日は雨だった。それに北東の寒風さえ吹き添っていた。ミリオン・コンサート協会主催の「トリオ・ソナタの夕べ」のために、冬の夜の雨風の中を北鎌倉の谷奥の家から東京新宿の厚生年金会館まで出かけるのは、時間も掛ればちょっとした労役でもあった。一時間半の電車と地下鉄、それに後から後からひっきりなしに駈け抜けて行く自動車が跳ね上げる水しぶきを浴びながらの街上の徒歩。主催者からの招待でもあるし、一度でも彼らの実演を聴いて置きたいためでもあったが、こんな夜は家にいて、暖かくされた部屋のソーファにゆったりと倚って、一人静かに同じような曲目をレコードで聴いている方がずっと楽だな、などと思いながら。
 しかし、やはり行ってよかった。行って二階正面真前まんまえの席を与えられ、舞台中央の一双の金屏風を背にした二人の外国人と二人の日本人とが、最初の曲のヨーハン・セバスティアンを奏で始めた頃には、もう我が家からの道のりの長かった事や、途中の雨や風との闘い事などはもうすっかり忘れてしまった。フルートのオーレル・ニコレとオーボエのハインツ・ホリガーとが半ば向い合うようにして前列に立ち、チェンバロの小林道夫とチェロの藤本英雄とが通奏低音の奏者としてその後方に控えていた。そしてこの当然なトリオ・ソナタのための各奏者の並び方さえ一つの看物みものと感じられた程、音楽会の空気は私をすなおで寛容な人間にしていた。息を呑んで静まり返った満場の聴衆とその一員としての私の殊勝な気持。これこそ、幾度も言うようだが、レコードからは期待出来ない音楽会場独特の所与である。
 その夜の曲目は、バッハの二短調のトリオ・ソナタ、ヘンデルの卜短調のオーボエ・ソナタ、フラソソワ・クープランのトリオ・ソナタ『アストレ』、ローベルト・ズッターのフルートとオーボエのための二重奏曲、バッハのロ短調のフルート・ソナタ、それにテレマンのハ短調のトリオ・ソナタだった。この内ズッターの曲が私には全くの初耳だった。ズッターは漸く五十歳を越えたばかりのスイス生れの作曲家という事だが、ニコレとホリガーとに献げられたというこの曲は、生気と異色とをもって興味あるものだった。プログラムでの紹介によると、二つの独奏楽器フルートとオーボエの新しいテクニックの可能性が充分に発揮されるように作曲されているという事だったが、なるほど南洋のどこかの島の密林で、名も知らぬ二羽の美しい鳥が、われわれには全く未知な求愛の歌か叫びを、思いもかけない高音や低音で矢のように飛ばし合っている趣があった。しかし、さすがにクープランの『アストレ』は比較にならない程すばらしかった。たぶん組曲『諸国の人々レ・ナシオン』の中の「ピエモンテ人」と同じ曲ではなかろうかと思われるこの『アストレ』は、あくまでもフランス・バロック的に典雅で優美な上に機智さえ交えて、たとえば春の庭園での幸福で賢い二人の語らい。二本の笛が速い時も遅い時も互いに待ち合せて綾のような調べを織り、その愛の睦言むつごとはきらきらと光り、柔らかに燃えて、いつ果てるとも知れない楽しい遣り取りに耽っている。私にはこれがその夜の空を飾ったフランス音楽の星のような気がした。
 勿論バッハとヘンデルもそれぞれ良かった。この人達のものには常に敬意と愛をもって親しんでいるので、この夜は心の緊張をほぐしてゆったりと聴いた。それにしても音楽そのものの生れて来るのは現に向うの明るい舞台の上からであり、其処で二人乃至四人の演奏者が精魂こめて巨匠の作を音に造形しているのである。だから私は或る人々のするように目をつぶっては聴かない。フルートのオーレル・ニコレには身を伸ばし身を曲げて吹き上げ吹き下ろす概があった。これに反してオーボエのハインツ・ホリガーには悠然とあたりを睥睨へいげいして、びょうびょうと吹き流し吹きなびかせる趣があった。そしてその間にも小林道夫のチェンバロが散る花びらのような音をこまかに刻み、時として藤本英雄のチェロの響きが波のように盛り上がった。四人のいきががっちりと組み合い、音にも動作にも一分の隙も無いように思われた。そして其処から生れるのは表情豊かな旋律の流れと、的確なリズムの進行とであった。
 それにしてもこんな分り切った事を今更のように私が言うのは、音楽をレコードだけで楽しんで、現在同じ時を生きている人間仲間が美の再現のために身をもって働いている一つの感動的な光景に、わが目わが心をもって接しようとしない人々が必ずしもすくなくないからである。みみっちい事を言うようだが、音楽会行きのために要するいろいろな費用を合算すれば確かに一枚の立派なレコードが買える。しかもそれは欲する時いつでも聴けるし、取扱いや保存の仕方さえ良ければかなりの年月に耐える可能性さえある。しかし其処には人が目で見、耳で聴きに行く音楽会に特有な「一時性」というものが無い。完璧な物はいつ聴いても完璧であって、音楽会でのような、時によっての出来不出来やミスなどは薬にしたくも無い。それだからこそレコードは良いと言われればそれまでだが、私達がわざわざ音楽会へ足を運ぶのには実演を聴くことの楽しみのほかに見る楽しみというものがあり、その事柄の「一時限り」の魅力があるからである。そして更には多勢の聴衆と一緒に聴いて感動を共にするという事、場合によれば感きわまって思わず隣席の連れの腕を小突きたくさえなるという事。甚だ幼稚かも知れないが、私はそんなところにも音楽会独特の妙味だか力だかを感じるのである。
 その夜の曲目最後のテレマンも、帰宅の時間を気にはしながら身を入れて聴いた。テレマンもレコードでならばかなりの数を持っているが、それは『ヨーハン・セバスティアン・バッハの好敵手テレマン』というロマン・ロランの研究を読んでいろいろ学ぶところが有ったからである。そのお蔭で一応は彼について知りながら、私は最初から余りテレマンを好きになれなかった。ロランはテレマンの人間と作品とを詳細に亙って論じ、このバロックの大家の並々ならぬ天分と幾つかの傑作とを賞讃しながら、「テレマンには完全な美しさと並んで俗悪さや下らなさが見いだされる。もしも彼が自分の天稟をもっと意識して、あのように濫作したり多くの雑事にかかわったりしなかったら、彼の名は音楽史上にグルックのそれよりも或いは一層深い反響を残したかも知れない。いずれにもせよ彼はおのが名声と共に生きていた。しかしそこには歴史の止め金として精神上の審判がある。芸術においては才能を持っているという事だけでは充分でない。その才能に努力を加えたとしてもまだ充分ではない。――テレマンほど働いた者もいないのである。――その上になお人格が必要なのである。十八世紀の数あるドイツの作曲家の中でも作品の最も少ないグルックは人間であり、ハッセやグラウンやテレマンのような人達はただの音楽家に過ぎなかった。しかも音楽においてさえ、音楽家であるだけでは充分ではないのである」と言っている。私が当初からテレマンをそれほど好きになれなかったのには、こうしたロランの見解の影響も有ったではあろうが、何と言っても心からバッハに傾倒し、ヘンデルに特別な愛を感じて、(後のモーツァルトやベートーヴェンについては言わないとしても)、彼らの精神的な美や力によって自分という者を陶冶し練磨しつつあった途上での遭遇だったからではなかろうか。
 しかし私は其の夜そうしたテレマンを真剣になって聴いた。少なくとも彼の志したところを舞台の上の四人の熱演から能うかぎり汲み取ろうとして。そして私は自分のそういう気持を善しとした。いつまでも鳴り止まない拍手を後に玄関を出ると、そとは相変らずの雨と風だった。

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 受難曲の夕べ

 音楽会場も上野公園か日比谷界隈だと鎌倉から出かけても比較的楽だが、四谷だの目白となると些か不便でもあるし実際のところ時間もかかる。そして私の場合その鎌倉の自宅がまた長い谷戸道やとみちの奥で、おまけに山の中腹ときているから、あいにく雨の日などは停車場との往復だけでも面倒である。しかも往きは大抵夕方の五時前に家を出て、帰って来るのも夜の十一寺という事になる。そんな時の私を玄関に送り迎えしながら、「音楽会行きもはたから見たほど楽じゃありませんね」と妻は言うが、まったくそのとおりだと思うことも度々ある。しかし結局これが職業や仕事のためではなく、好きな道を自由な意志で行くのだから、何処へ尻の持ち込みようもない。更に前もって切符を買ったにせよ招待を受けたにせよ、行って聴く事から何か得るところが有るとすれば、家に蟄居していては訪れて来ないような生き生きとした感銘や喜びに出会うとすればたとえ年はとっても、体は以前よりも疲れ易くなっても、音楽会に疎遠になって平気ではいられないし、又それほど呆けてもいない。
 四月七日には、目白の東京カテドラル聖マリア大聖堂という処ヘハインリッヒ・シュッツ合唱団の「受難楽の夕べ」を聴きに行った。私はこの聖堂へ行くのは初めてだったが、椿山荘のそばだと言うのなら目白駅からは直ぐだと早合点して、バスにも車にも乗らずに歩いて行った。ところが思ったよりも道のりが長く、タクシーで二、三度行った椿山荘もなかなか現われず、時間は経つし気は急いた。私はあたかも何年ぶりかで東京へ出て来た田舎者のように、あの車の往来ばかり烈しくて人通りの至って少ない真直ぐな目白通りを、関口三丁目目当てにとぼとぼ行った。すると折よく向うからどこかの大学生らしい二人連れの青年が来たので聖堂の在りかを尋ねた。ところがその返事や教え方がすこぶる懇ねんごろで明快なので、事によったらこの人達はクリスチャンで、今日が受難週間の水曜日だという事を知っているのではないかとさえ思った。そしていつも世間から兎や角言われるこんにちの青年学生の中にも、こういう人達のいる事を改めて知る機会を持ち得だのを嬉しく思った。
 広々とした地所の中に新しい様式で建てられた純白な聖堂は、折からの晴れやかな春の夕空を背景にすがすがしくも聖きよらかな姿で聳えていた。そして此処にこういう建物があって、朝な夕なに祈りの鐘の音が流れるのだとしたら、この付近につつましやかに住んでいる人々の心もおのずから清められ和なごめられて、ほかの土地の人々の知らない何かで育まれているのではないかと思った。私は今宵の宗教的合唱団の精神であり原則であるとされている「学び且つ行う」の心が、早くも自分の衷にも動き出している事を感じた。そして三三五五連れ立って芝生の庭の中を急ぐ人人の後から、静かにみ堂の玄関へ入って行った。そして其処の雑沓の中で、今夜の指揮を最後に一週間後には南米ブラジルへ旅立つ淡野弓子に出遭って、二年間の別れを惜しむ気持と神の護りが常に彼女の上にあるように祈る言葉とを急いで伝えた。
 今宵シュッツの歌で満たされるべき聖マリアのみ堂の内部は、私としては初めて見るような様式だった。堅い木製の椅子席に着いて周囲や頭上に眼をやると、何か巨大な高い三稜形の立方体の底にいるような気がした。そしてその高みから白い長い光が垂直に落ちて来て、今までのどんな音楽会場とも全く違った世界を照らし出していた。それは「受難楽の夕べ」の集まりにふさわしく、座席を満たした静粛な会衆の顔々をすべて敬虔にいろどった。そのうちに何処からともなく微かな鐘の音のようなものが聴えて来、やがて正面の壁の右片隅を四角に切り抜いた小さい穴のような出入り口から、ハインリッヒ・シュッツ合唱団の聖歌隊が一列になって現われて祭壇上に整列した。そしてモテットの指揮者である淡野弓子が彼らに面して立つと直ちに歌が始まった。さながら春を萌え出る草のように!
 ラテン語で歌われる最初のモテット三曲は『カンティオネス・サクレ』からのもので、いずれも受難のキリストを偲びながら悲しみに胸を引裂かれるような訴えをあらぬしている。その訴えは感情の高まりにつれて迫力を増し、刻まれたような激しいリズムで一つのクライマクスに達するが、また次第に鎮まって穏やかな、むしろ甘美な歌となる。そして最後にふたたび感情が湧き上がり強化されて、愛らしい幼な児イエスと痛ましく十字架につけられたイエスとの対比が現われ、そのキリストの手から流れる血の描写が現われて大波のように打ち合い漲みなぎって進みながら、ついに人間のための罪の赦しと魂の解放とを祈る三連符の水平線へ洋々とひろがってゆく。
 私は来てよかったと思った。場処の遠い事も往復の時間のかかる事も今では全く問題にならず、人々と共に酔い、人々と共に感奮する事のできるこんな素晴らしい音楽との久しぶりの再会を心から喜んだ。
 続く三曲は私の特に好きな『ガイストリッヒェ・コーアムジーク』からの物で、これは原歌詞がドイツ語なので私には一層よく理解できるのかも知れない。ともあれ第一曲はダヴィデの詩篇からの「涙と共に播く者は喜びと共に刈り取らん」、第二曲は「われは知る、わが贖あがない主の生きたもうを」、そして第三曲はヨハネ黙示録からの「今より後、主にありて死する者は幸いなり」だった。一六四八年、シュッツ六十三歳の時に公刊されたこの二十九曲から成るモテット集は、これに先立つ『クライネ・ガイストリッヒェ・コンツェルテ』や『シンフォニエ・サクレ』の第一巻、第二巻などに比べると其処に一層の簡潔さと格調の高さとがあり、又それだけ直接心に迫って来るものの有るのを感じる。「涙と共に播く者は」の哀切な長いフレーズと欣喜雀躍しているような軽快なリズムとの激烈な対照、また同様に信仰と確信とが低音部と高音部の緩やかな流れと早くて細かい動きとに彩られ活気づけられている「われは知る、わが贖い主の」のまじり気ない喜悦の感情、そして「主にありて死する者は」の霊的な安らぎと魂の自由との完全な調和は、私に古いドイツやオランダの画家の作品を、たとえばデューラーやレンブラントのそれを想い出させた。
 十五分間の休憩が告げられたので私は席を立った。すると思いがけなく友人の野本元がにこやかに近づいて来た。彼については前にも少しばかり書いたことがあるが、音楽によって結ばれた友人の中でも私が最も安心してシュッツやバッハへの愛を語る事のできる相手である。「たぶん来ていらっしやるだろうと思っていたらそのとおりで、うしろの席からでも直ぐわかりました」と友は言った。彼は背が高く、その上今夜の来会者の中に私ほどの年齢の男子は一人もいないので、遠くからでも容易に発見されたというわけだったのである。二人はしばらく話し合ったり、小さい隣室に祀られているマリアの像を眺めたりした後、彼が戸塚に住んでいるので途中まで一緒に帰る約束をしてそれぞれの席へ戻った。すると再び微かな鐘が鳴り、祭壇の壁の片隅から三十名余りの合唱隊と三人の独唱者が入場し、今までの淡野弓子に代ってこのシュッツ合唱団の指揮者になった東京ゲーテ・インスティテュートの所長でフルートの演奏家でもあるH・J・コルロイターがこれに続いた。聖堂での受難楽の演奏というので、終始拍手が「遠慮」させられた事も言って置いた方がいいであろう。
 静かな導入の合唱で開始された『ヨハネ受難曲』は、他の二つの受難曲である『ルカ』と『マタイ』同様に一六六六年、シュッツ八十一歳の時の作とされている。そんな高齢でこれらの大作を成し終らせたとはまことに驚くのほかは無い。曲はイエスが弟子達を連れてケデロンの谷の彼方の園へ入り、其処でユダと彼に導かれた兵卒や祭司長らパリサイ人らと出遭うところ(ヨハネ伝第十八章)から始まる。そして第十九章の第三十節(イエスの最後の場)で終るまで、全曲を通じてずっと福音史家のレチタティーヴォが物語の筋を運んで行くのだが、そのレチタティーヴォはバッハのとは又違った力強さと権威とを感じさせて頼もしい。言うまでも無い事だが、どんな受難曲でも福音史家のレチタティーヴォが良くないと歯痒くもあれば、主柱のぐらつく家のようで心もとないものである。その点今夜の独唱者はこのむずかしい主役を立派に務めおおせたと言っていい。そして全曲が荘重な合唱のうちに恙つつがなく終って壇上の全員が静粛裡に退場した時、私は彼らと彼らの永年の良き指導者淡野弓子に対して、一人無言の賞讃と祝福とを送ったのであった。
 帰りは新宿経由で品川へ出ずに、上野を廻って東京駅から横須賀線に乗った。戸塚駅までの間ずっと野本と一緒だったので静かながら話が弾んで楽しかった。この友によってシュッツを知り、シュッツによって幾多未知の同好者と相識るようになり、私の老境はそれだけ心の豊かさと明るさとを増した。昨日も稲村ヶ崎に住む或る若い大学教授で鎌倉へ移ってからの新しい友の一人の訪問を受けたが、彼も近頃シュッツに熱中し、そのレコードをできるだけ集め、音楽の世界でシュッツとバッハとを最も愛し敬っているという告白を初めて聴かされた。その根拠として彼の語ったところはすべて私として同感を禁じ得ないものであり、このように有識の愛好者が日本の各地に散在している以上、シュッツの真価は今後わが国でもいよいよ正しく深く認識されるに違いないという確信を抱くに至った。

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 ヘルマン・ヘッセと共に……

 正月の或る日、NHKがテレビ番組の教養特集の時間に「パイプオルガン」というのをやった。解説のための出演者は東京芸術大学教授服部幸三、東京大学助教授馬淵久夫、オルガン製作技師望月広幸、それにフィルム出演者としてパリ大学教授森有正、作曲家諸井誠の諸氏だった。そしてこれらの諸君の話の間にパイプオルガンの歴史や構造、及びその弾き方などが至って懇切丁寧に紹介されたが、中でも驚いたり興味深く思ったのは、パリ・ノートルダーム大寺院の大パイプオルガンと、その奏者ピエール・コシュローの実演の録画が堂々と映写された事だった。
 これは私のような素人の音楽好きを恍惚とさせずには置かず、画像が消えた後でもそのイメイジは永いあいだ眼底から消えなかった。そしてその時以来再び私にオルガン音楽への愛がよみがえり、折から新しく出たコシュローの盤を電話で注文せずにはいられなくさせた。するとその盤もまた能うかぎり速やかに私の熱望に答えようとするかのように、三日目の朝にはもう東京から速達小包で届けられた。ジャケットを彩る Johan Sebastian Bach in Notre-Dameの文字と、林立する丈高いパイプの列と、内陣の天井近い大きな薔薇窓とが美しく目を引いた。
 私はその日の仕事をいつもより少し早目に切り上げた。そして書斎の中に散らばっている雑物を整理した。これが尊重する人の音楽を改まった気持で聴こうとする時の私のいつもの仕方である。紅と白との花カタバミもまだ次々と咲いているので庭へは返さず、却って庭で咲きはじめたギリシャ産のスノウドロップスというのを小さい鉢ごと持って来てこれと並べた。『草木抄』の著者桜井元氏から贈られた珍しい花である。二つの鉢はモーツァルトの楽譜を縫取りしたテイブル掛けの上で、その優美な姿と色とをしとやかに競っているように見えた。そしてこれから始まるノートルダーム大寺院でのバッハのオルガン音楽、窓から射す冬の薄日、物音一つしない静かな午後。こんな境地を仕合せと言わないで何を仕合せと言うべきだろうか。
 私にとってコシュローは初めてだが、その演奏は期待にたがわず見事なものだった。曲目はすべてバッハで、すなわち二短調の『トッカータとフーガ』(BWV五六五)、へ長調の『トッカータ』(五四〇)、(長調の『トッカータとアダージョとフーガ』(五六四)、それに二短調ドリア調の『トッカータ』(五三八)。そしていずれも素晴らしいこれらの四つの曲の中でも、第一のものと第三のものとがとりわけ深く強く私の心をとらえた。
 それは響きわたる音楽を通じて神の手による世界の創造を想わせ、その至上の命令に従って打ち建てられる万物の秩序を想わせた。雄渾無比な低音の巨大な柱が次から次へと何本も聳え立つ。人は胸躍らせてそれを見上げながら、これらの柱が揃って真直ぐに天と地とを支えている物だと思う。荒々しいまでに豪毅で憑たのむに足り、今後これらを主柱として其処にどんな華麗な世界がちりばめられるかを想像してときめく胸を鎮めて待つ。するとやがてその装飾はいともきらびやかに現われる。和音の綾がこまかに編まれ、精妙な旋律をえがいて波打ち歌い、あたかも雄大な原始林とその周囲の春の野のような光景を現出する。私がバッハのオルガン音楽をしばしば巨大な春のようだとする根拠が此処にもある。やがて又もやすさまじい雷鳴のようなトッカータの動機の轟きと、それに飛び散ったり追いすがったりする小鳥や蝶の群れのような分散和音の調べの波。時には集積した黒雲の中で吼えたけるバッハ自身の劇的な思想を思わせ、時には神苑の花の間を行くような豊かな敬虔な楽想で人を酔わせる。これこそ実にバッハ特有のものであり、わけても彼の宗教的な音楽にその真髄を現わしているものである。
 次から次へとさまざまな想念が呼び起され湧き立たされるにしても、バッハのオルガン音楽はいささかも小さな機智や匠気しょうきを感じさせず、つねに正面から堂々と押し進んで展開して来ること、あたかも大海や連山に対した時の観がある。たとえ言いようもなく美しい情緒の纏綿する楽句が現われても、彼は忽ちそこから新しい力と光を呼び出して鳴り響くような大伽藍を構築する。小さい何物かに溺没するにしては余りに広大な魂であり、その設計はつねに尋常の尺度を超えている。これは私のような詩人にとって時どきは思い出さればならない教訓であり実例である。小さな着想を喜んでそれに心を奪われたり、ましてやそれに得々とする事のままある詩人にとって、バッハのオルガン曲のトッカータの如きは実に大喝であると言わなければならない。
 この壮大な音の建築について、ヘルマン・ヘッセは彼の小品『古い音楽』の中でこう書いている。ヴェラチーニだかナルディーニだかのオルガン音楽が済んだ後の条くだりでである――
「休憩の時間が来てもなおそれを追っているのか、ささやきや、ざわめきや、腰掛にすわり直す音などが楽しく陽気に聴えて来、人々はいそいそとして、次に来る新たな輝きを待ちうけている。そしてそれは来る。大らかな自由な身ぶりで、巨匠バッハが彼の寺院へ入って来る。彼は感謝をもって神に礼をし、それが終るとやおら身を起して、讃美歌の本文にしたがっておのが祈りと日曜日の感情とを喜ばしく弾きはじめる。しかし彼がそれをはじめて、そこに僅かな余地が見出されるやいなや、今度は自分自身のハーモニーを一層深いものにし、波立つような多音の中でメロディーにメロディーを、ハーモニーにハーモニーを組み合せる。そしてその音の建築を教会の空高く、崇高な、完全無欠な秩序にみちた星々の世界にまで飾り上げ、押し高め、完成する。あたかも神が眠りに行って、彼がその権杖とマントとを預かったかのように。彼は集積した雲のなかで吼え猛るが、またふたたび自由な明るい空間をうち開く。彼は星辰と太陽とを意気揚々と引き連れて上がる。彼は高らかな真昼を物倦げに憩い、また適切な時に涼しい夕べの驟雨を降らせる。そして落日のように壮麗に力づよく終り、沈黙のなかに輝きと霊気に満ちた世界をのこす」
 こうしてヘッセは教会を出る。「私は静かに天井の高い広間をよぎり、眠りこけている小さい広場をぬけ、高々と架った橋を静かに渡って、街灯の列のあいだを街のほうへ出てゆく。雨は止んでいる。全大地を被った巨大な雲のうしろ、その僅かな割れ目をとおして月の光と夜の明るさとが感じられる。街は遠く消え、私の野道に沿った樫かしの木々が柔らかな涼風すずかぜにさらさらと鳴っている。そして私はゆっくりと最後の坂を登って、もう眠りに落ちている我が家へはいる。窓から楡にれの木が話しかける。さあ、それならば満足して休もう。そして又しばらくは人生の試練に耐え、その玩具おもちゃになることにしよう」
 こうして詩人ヘルマン・ヘッセはバッハの音楽によってその魂を浄化され昂揚され、又こうしてわれわれ同様半ば俗人であり芸術家である彼の日常の世界へと帰って行ったのである。

 バッハのオルガン曲はいろいろな名手によって演奏され、そのレコードも数多く出ている。本来ならば第一は教会、次いでは音楽堂へ行ってこれを聴けば一番いいのだが、私など現状では中中そうした機会に恵まれないので、ついレコードの易きに就いてしまう。しかしそれを聴くためには大抵自分一人だけの時をえらび、出来るだけ静粛で敬虔な教会内の雰囲気に似たものを造り出すことに努めている。窓からの青空の眺めに一、二片の白い雲が浮んでいれば尚更いい。その空へと突き出た庭木の枝に、梅か桃の花でも咲いていれば更に一層申しぶんが無い。私はそれを教会の内陣の花窓のように思ってしみじみと耳を傾けるだろう。
 弾いているのはアルベルト・シュヴァイツァーでも、ヘルムート・ヴァルヒャでも、マリー・クレール・アランでも、ハインツ・ヴンダーリッヒでも、ピエール・コシュローでも、或いはフリッツ・ハイトマンでもいい。元来出来の良さ悪さを云々する事をあまり好まない私には、バッハの物とあれば誰の演奏でも楽しく聴えるのだから始末がいい。「気分で聴いているのだ」と言われればそれまでだが、それ以上の真実は、バッハに対する私の不変の愛とその奏者への信頼や同感である。こう言う私は日本人の弾いているレコードも何枚か持っているが、これらも亦バッハヘのわれわれ共通の愛や尊敬のために大切にしている事、上記の外国人のそれといささかの変りもない。更にパイプオルガンの「奉献」という事が今よりも一層多く行われるようになれば、有望な演奏者も次第にふえて、私などの聴きに行ける機会ももっと多くなるだろう。何としても楽しみな明日だと言わなければならない。

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 わが慰めの音楽

 自分ではピアノが弾けなくても、ヴァイオリンの音が出せなくても、或いは怪しげな指使いや息の入れかたで僅かにブロックフレーテの初歩ぐらいしか吹く事ができなくても、その代り学校で音楽を専攻した孫娘のような者が家族の中にいて、それが私祖父の時折の求めを快く容れて、ベートーヴェンなりシューベルトなりを彼女のピアノ室で聴かせてくれるとすれば、これはやはり一つの幸いだと思わなくてはなるまい。
「それくらいの幸いならレコードが有ればいいじやないか。何でも聴けるし、そう言っては悪いがお孫さんより上手に弾くだろうから」と言ってくれる親切な人がおるかも知れない。なるほど私もレコードならばかなりの数、かなりの種類を持ってはいるか、あの器械や円盤に頼んでいくら快く容れられるとしても、それを現身うつそみの人間のなまの演奏に対する時と同じ気持で耳を傾けるわけにはとてもいかない。たとえば今日のように朝の庭をぶらつきながら不図ディーヌ・リパッティの事を懐かしく思い出して、あの薄倖のピアニストの美しいバッハなりモーツァルトなりを久しぶりに聴こうかなどと思ったとしても、晴れやかな早春の土や草木の庭からいきなり引き返して、書斎で器械と面と向うような気持にはとても成れない。むしろ咲き終りの梅の花なり咲き初めの連翹れんぎょうなりをもっと心静かに眺めながら、若くしてこの世を去ったあの天才の悌を偲ぶほうが遙かに望ましい。
 その日はちょうど日曜日で孫娘も家にいた。向うの山では鶯や鶫つぐみが嗚き、南に向いた窓という窓には午前の日の光が和なごやかに照りそそいでいた。孫娘はベートーヴェンのチェロ・ソナタのために一人でその伴奏の練習をしていた。私は邪魔にならないように静かに庭からピアノ室へ入り込んでしばらくそれを聴いていたが、やがて一段落ついたらしいので、思い切って「何かバッハの短い物を聴かせてくれないか」と頼んだ。すると孫はその乞いをこころよく容れて、さながら私の気持を見抜いたかのように、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を弾き始めた。それは全く私の望みの喜びでもあった。たった今私の思い出していたリパッティもやはりこれを弾いているのだから。すると孫は続いて二つのコラール・プレリュードを弾いた。これもまたリパッティの弾いている「主イエス・キリストよ。われなんじを呼ぶ」と「見よ、救い主は来たりたもう」だった。私は「ありがとう。嬉しかったよ」と礼を言いながら部屋を出たが、こんな恵まれた朝のために、バッハにも、孫娘にも、又それが一つの契機となったリパッティの思い出にも、言うに言われぬ満足と感謝の気持とを抱いたのだった。

 今から七年前の一九六六年四月、八十二歳でこの世を去ったフランスの作家ジョルジュ・デュアメルを私は今でも好きで、その長篇『パスキエ家の記録』や『サラヴァン』などのページを時どき楽しく拾い読みしている。そして好きな余り、自分自身も彼の北欧への旅行記や庭の中での寓話の本や『慰めの音楽』のような物を訳したが、この最後の物が思ったよりも多く読まれている現状なので満足している。
 そのデュアメルを追悼して十数人の友人や旧知の人々の書いた文章を集めた『ジョルジュ・デュアメル』という本がパリのメルキュールから出ている。研究的な考察もあれば興味深い逸話もあり、いかにもデュアメルその人を想わせるほほえましい思い出の話も出て来る。私はこの本もまた時どき手に取る。すると彼が文化使節として二十年前に細君同伴で来日した時の事を追想して、あの時もっと公式にでなく、もっと四角張らずに打ち解けて、英語まじりのフランス語ででも話をする事ができたのだったらどんなに善かっただろうにと悔まれる。彼も本当はそうだったのだろうがあいにく自由な時間が乏しく、それに心では思っていても互いに言葉がすらすらと通じなかった。ただ鎌倉で建長寺だかの庭を歩きながら、道を暗くして亭々と立っている杉や檜の大木や、折から賑やかに鳴いたり歌ったりしている小鳥を題材に話をするのが関の山だった。すでにその頃私は彼の『わが庭の寓話』を読んでいたので、動植物に対するその造詣や愛の深さをよく承知していた。又今にしてみれば頭上の小鳥の事などより、彼の『慰めの音楽』を題材にその方面の話でもすればどんなに善かっただろうと思うのだが、当時は其処まで気が廻らなかったし、第一私が専有すべきデュアメルでもなく、何処へ行くにでも付添いの役人や報道記者がぞろぞろと彼に続いていた。
 前記の追悼の書『ジョルジュ・デュアメル』には、彼の義兄に当る詩人シャルル・ヴィルドラックも勿論書いている。そのヴィルドラックの「或る友情の黄金時代」という一文が実にすばらしい。その全文を此処で紹介するわけにはいかないが、最後の一節だけは音楽愛好家諸君へのささやかな贈り物として此処に訳して置きたい――
「これらの数ページを閉じるためには、特に私にとって感動的で生き生きとしている一つの思い出を書き残して置けば充分であろう。それは或る午後のすばらしい終りだった。私はラ・ナーズの家に一人でいたが、長い仕事のあと、作品の最後の台詞せりふも書き終って『幕』と書いた時には、いくらか頭がぐらつくような気持だった。私は少しよろめきながら夢見る人間のように家を出て、玄関の踏段の一つにぐったりと且つ楽々と腰を下ろして、そのまま時間の魔法に懸ったように我を忘れていた。陶酔したような花達の不動の姿、空や木の枝の得も言えない美しさ、薫る空気の柔らかさ。と、突然、隣の庭からグルックの『オルフェオ』の哀歌が湧き出した。それはデュアメルが至上の純粋さと有らん限りの情熱とをこめて吹いているフルートの調べだった。彼は私がこの音楽に特別な愛を持っている事を知っていた。そして私が今それに耳を傾けている事も知っていた。彼はこうして暮れてゆく一日の恩寵に有終の美を与えながら、彼自身と私とのためにそれを吹いたのだった」
 もしも私にしてせめて人並にブロックフレーテでも吹く事ができたなら、一篇の詩なり文章なりの書き上がったこんな春の夕暮れには、バッハでもヘンデルでもベートーヴェンでもシューベルトでもを、仕事の出来た喜びの余韻として身の廻りに吹きめぐらすのだが、それが不可能なのが何としても口おしい。
 デュアメル自身の書いた物によると、彼は三十歳を過ぎてからフルートを始めた。それも第一次大戦中、軍医として前線の野戦病院で働いていた時の事である。ほとんどすべての楽器に堪能な上官の軍医長に相談したら、ほかの楽器だとその歳ではもう遅いからと言ってフルートの稽古を奨められたのだそうである。最前線の軍医とあっては稽古の暇も無かっただろうにと思うのだが、それでも彼は僅かな暇を利用して練習を重ねたのだそうだ。そして戦友の間から幾人かの音楽好きの連中を発見して、激しい戦闘の合間に、住民の逃げ出した空家の中で、巨匠の作品の不完全な合奏やら練習やらをやったという話である。元来それだけの素質を恵まれてはいたのだろうが、私などには到底思いも及ばない事である。デュアメルのフルートは戦後いよいよ上達し、同好の家族や友人達をヴァルモンドアの自邸に集めて練習会やら小演奏会やらを開くようになった。そういう時の愉快な場面は『慰めの音楽』の一章に詳しい。
 ところで私などは二十年近くも手許にブロックフレーテを置きながら、未だに教則本の上をとつおいつしている始末である。後から始めた或る友人などはどしどし上達して、今では随分むずかしい曲を楽々と吹きこなし、それでも足りずにアイリッシュ・ハープの勉強をして、その仲間も徐々に増えている現状だと言うのに。しかもその友人が文章の上でもまたすぐれているのだから、思えばいよいよ羨ましい限りである。恐らくデュアメルもこういう人だったに違いない。ああ、それならばこの友が、私の一生の仕事の「幕ぎれ」の時に、せめて誰かの「哀歌」を吹くなり弾くなりしてくれるといい……

 二月の最後の日には孫娘と一緒に日比谷の公会堂ヘドイツ・バッハ・ゾリステンを聴きに行った。この連中には指揮者でオーボエ奏者であるヴィンシャーマンを初めとして顔なじみが多いので、何時聴きに行っても特別の親しみが感じられる。その夜も彼らはバッハの物を四曲やったが。最初のカンタータ二○九番と最後のオーボエ協奏曲とが楽しみだった。私は二〇九番のこのカンタータでは冒頭のシンフォニアしか知らないが、その大好きなシンフォニアだけが入っているレコードを持っているので時どき聴いている。しかしこれが独唱カンタータだという事は知らなかったので、初めて見るエリー・アメリンクというソプラノ歌手がそれぞれ一つずつのレチタティーヴォとアリアとをフルートや弦楽合奏を伴って若々しい綺麗な声で歌ったのを聴いた時には、やはり日比谷まで出て来てよかったと思った。そしてこのカンタータの全曲が入っている盤が出ているようだったら是非手に入れたいと思った。実際このシンフォニアは見事な協奏楽章で、さして精神的でもなく宗教的でもないが、バッハ音楽の楽しい一面を満喫させる物の一つである。弦楽合奏とバッソ・コンティヌオとを向うに廻した『オーボエ協奏曲』では、ヴィンシャーマンのオーボエにいつもながら引きこまれた。特に第二楽章のシチリアーナは出色の出来映えのように思われた。何時聴いてもヴィンシャーマンは良い。そしてその良さは彼の実演を眼にしている時更に数倍する。そしてこの事はヴァイオリンのシールニンクやフルートのライデマイスターのような人達に対しても言えるであろう。

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 フールニエの演奏

 つい一月ほど前の或る日の午後、家の近くで採って来た二、三種類の秋草の花を植物図鑑相手に調べていると、下の部屋からとつぜん屋内電話のブザが鳴って、「これからフールニエの演奏が始まりますよ」と言う孫娘の声が響いて来た。二階のテレビは小型の上に色が出ないので、私は急いで下の食堂へ下りて行った。ちょうど始まったところだった。前景にチェロをかかえた当のフールニエが大きく映り、後景にピアノに向った小林仁氏の横顔が見えた。曲は二つあっていずれもチェロ・ソナタ。最初の物はベートーヴェンのイ長調作品六九、第二の物はセザール・フランクのこれもイ長調。両方とも初めてと言っていいくらい久しぶりに聴く物なので、一音一句胸を鎮め息をひそめて聴かずにはいられなかった。そして昔からの気品のある端正な風貌に加えて何処か厳格なものさえ見えるフールニエの顔の大写しを、溜息まじりにつくづくと見入った。この際老カザルスを引合いに出すのはどうかと思うが、この二人の名手のレパートリーを調べて見ても、其処に何か微妙な違いがあるように思われる。例えばバッハの『無伴奏チェロ組曲』のような物の場合にしても、私としてはフールニエのを聴く方が遙かに多い。但しこれは私一個の好みに過ぎないのだから、別に問題とするには当らない。
 今から数えるともう七年ばかり前になるが、私はこのフールニエとあのヘルマン・ヘッセとの美しいめぐり合いについてこんな文章を書いた事がある。
「スイスの山の避暑地でもとりわけエンガディーンの風光を愛していたヘッセは、年をとってからもたびたび其の地を訪れたらしい。或る年の夏、同じホテルにチェロの名手ピエール・フールニエが泊っていた。互いに名を知り合い、互いの芸術上の仕事についても知り合っている二人は、顔を合わせれば挨拶を交わしたりうなずき合ったりする仲だった。そのフールニエは、詩人ヘッセの見るところでは、あらゆるチェロ奏者の中で最も手堅い人であり、練達の点でも先輩カザルスと肩をならべ、芸術上ではその演奏のきびしさ、渋さ、曲目選択の純粋さと非妥協的な点でむしろカザルスを凌ぐものを持っていた。人の好みはそれぞれだから、この際私としては何も言う事は無いが、永年ヘッセを読んでその人となりに通じているように思っている私には、豪壮であって時にかたわら人無きような不敵なカザルスの代りに、あくまでも端正で深く透徹して、聴く者の心を捉えずにはいないフールニエを採るヘッセを、いかにもヘッセらしいと思わずにはいられない。ところでそのフールニエが、エンガディーンでの避暑を終って帰るというその日ヘッセに、彼のために個人的にバッハを弾いて聴かせようと申し出たのである。
 折からヘッセは体と気分の調子が良くなかった。『老齢の見掛け倒しの知恵の段階では、まだ周囲や自分の心の制御されない努力のために起り易い不機嫌と疲労とに見舞われた』不調和の日だった。彼はほとんど無理をして、約束の時刻に音楽家の部屋をおとずれた。彼は椅子へ腰を下ろしたが、いかにも調子の狂った物悲しい倦怠の気分だった。ところが大家フールニエが向うの椅子へ腰を掛けてチェロを構え、弦の調子を合わせると、自分や周囲に対する不満不調和の空気に代って、たちまちヨーハン・セバスティアン・バッハの清らかな厳しい空気が部屋じゅうに張りつめた。高山の谷間の魔力もその日ヘッセに対して余り効果を発揮しなかったのに、ひとたび弦があの重奏音の響きを起した瞬間、彼は重い気分の谷底から遙かに高い透明な山上の世界へ引き上げられたような気持になった。それはすべての感覚を開き、呼び起し、鋭くしてくれた。その日一日かかって出来なかった事、つまり日常の世界を脱して純度の高い非凡な詩の世界に向って踏み出す事を、この音楽が数分間のうちに成し遂げてくれたのだった。一時間か一時間半、彼はバッハの無伴奏組曲を二つ聴きながらその部屋にいた。そしてその間、短い休止と僅かな対話とで中断されただけだった。力づよく、正確に、しかも微妙に抑制して弾かれたその音楽は、彼にとって飢え渇いた者へのパンであり葡萄酒であった。それは真に魂のための栄養であり沐浴であって、こうして癒された老詩人ヘッセは、ふたたび取り戻した仕事への勇気と音楽家への感謝の念とに満たされて、その祝福された部屋を辞去したのだった」
 テレビで大写しになって現われるこのフールニエに見入り聴き入りながら、私も数十年前にヘッセが味おったのと似たような感動と感慨とを経験した。私にも不機嫌の時もあれば疲労を感じている時もある。そんな時は概して文章も書けなければ詩も浮ばない。つまり自分の此の世での仕事が思うように出来なかったりはかどらなかったりする時である。ちょうど幾らかそういう状態だった時、家の近くの散歩の際に採って来た草の名でも調べてやろうとしたその瞬間、こんな好運にめぐり合って気分が一新させられたのである。ベートーヴェンのソナタの立派だった事は言うまでもない。特に昔から好きだった第二楽章のスケルツォーが実に楽しかった。更に第三楽章のアダージョ・カンタービレも、これを初めて聴いて恍惚とした五十数年前の武蔵野の田園生活を思い出して本当に懐かしかった。あのチェロとピアノとの華やかな掛け合いの面白さには心が浮き立った。ただ、浮き立ったその心が、熱烈な拍手を浴びながら退場して行くフールニエの昔ながらの補助杖を見た時、彼の足の悪かったのを思い出してサッと曇ったことも事実である。
 セザール・フランクのソナタも良かった。私はこれもヴァイオリンで演奏しているのを持っているが、こうして聴いているとチェロに編曲した物の方が良いような気がした。この曲は最初は幾らか単調で何となく影にでも包まれているようだが、第二楽章アレグロの男らしい雄大な趣、第三楽章のレチタティーヴォ・ファンタジア、そして第四楽章のアレグレット・ポコ・モッソと進むにつれて美と力とを増してゆく曲全体の展開や進行が、いかにもフランクらしく颯爽としていた。それにフールニエと小林仁氏との呼吸もよく合っていた。
 序でに言えば私の調べ上げた秋草の花はハグロソウと、ユウガギクと、ヒヨドリバナだった。

 

 

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 Ⅲ 自然と音楽

 

 富士見高原に想う……

 終戦後の七年間を、もしもそれが神の意志であり自分の運命であるならば、よしや其処の土になっても露さら悔いも恨みもしないと思いながら暮した信州の富士見高原、戦前いくたびか登りに来た八ヶ岳の連峰をつい眼の前にする広大な森の奥、敗残の私を快く迎えてくれた旧華族W氏の古い大きな分水荘という別荘の十二畳敷きの一室へ、辛くも戦災をまぬがれた僅かばかりの家具や衣類や書物と一緒に、あの年経た小さいオルガンが運びこまれた時の沈痛とも言える涙ぐましい感慨を、私は今でもはっきりと覚えている。
 なぜかと言えば私にはすでに音楽は遠かった。隣組長や防火群長としての多忙な生活、やがて敗戦の色も濃くなった戦争末期に町内の住民のためにする日夜の奔走、つづいて幾たびかの空襲と遂に蒙った我が家の戦災、今は住むに家も無くなって頼って行った都下砂川の親戚の家での終戦の報、それから妻の父の住んでいる千葉県三里塚の開拓農村、ふたたび舞い戻った東京での友人の家から家への居候暮し、そして最後に全く未知だった人の厚意によるこの富士見。その追われに追われて暖まる席もなかった慌しい生活の中で、どうして私に音楽があり、音楽が許されたろうか。砂川では絶えず戦闘機・爆撃機の飛ぶ下での夏から秋への畑の手伝い、三里塚では冬の深夜を部落から部落への夜警廻り、そして東京へ帰れば妻と二人の口すぎのための翻訳や原稿書き。否! 「おお友よ、その音ならぬ他の音を」の序唱で始まるあの歓喜の合唱、あの聖なる音楽は、もう二年も三年も前から私を見捨てていたのである。愛国の詩を書くことで戦時の祖国に身を捧げていたつもりの私は、その祖国が敗れ去る前すでに自分の芸術的良心に敗北し、「遙かにためらいがちに響いた平和、そんなにも涙に重く響いた平和、最後の砲煙の上に現われるべき最初の星」を云々する資格を、言わばみずから抛擲していたのである。
 恥を忍び、おもてを伏せて一年有半、私は影のように生きて来た。敗戦後の世相はさまざまだった。かつて私に親しみを求め、私にいささかの友情を尽させた人間が、今は口を拭って公然と私を戦争共犯者と罵り、石をもって衢ちまたに私を打った。遠くから私を認めるや、素知らぬていに道を避ける変り身早い友もあった。さてまた逢えば丁重に冷やかに挨拶して逃げるがように去る永年の親友もあった。敗戦と被占頷下の国はそれほど人間を鉄面皮にし、卑屈にし、悠然たる自己保全主義者にしたのである。しかしそれとは反対に手を取って共に嘆き、優しく励ます幾人かの旧友もあった。そのいずれもが実相であり、そのいずれもが私にはっきりと目を醒まさせた。そして人の世のこの悲しい二様の実相が、過去にまつわる自分の名のもはや全く空しいものである事を深く私に信じさせた。亡びる者に名は要らず、蘇よみがえる者にそれは新たな重荷であろう。私は死者として忘れ去られ、復活者として全く無名に生きたかった。
 そして今や海抜一千メートルを算する信州富士見高原の、山と原野に囲まれた森の中の家だった。時は九月の半ば過ぎ、爽やかに立つ白樺の林もちらほらと色づいて、木々の間や草の中でさまざまな小鳥が囀り虫がすだき、八ヶ岳の峰の端はから昇る朝日が勇ましく美しく、諏訪湖の空を染める夕映えが画のようだった。隣人といえば森とその周囲の野や畑を領地としているW氏一家と、そこで使われて管理や手伝いをしている一軒の農家だけ。駅や町までは十五分、著名な療養所までは三十分近い道のりで、時おり風に運ばれて来る列車の汽笛や轣轆れきろくの音が、今はさして執着もない東京を思わせる唯一つのものだった。
 分水荘にはまだ電気が来ていないので、夜はランプの生活だった。昔懐かしいその落ちついた弱い金色の照明や、昼間の林中の静かに澄んだ光をうけて、漸く安住の場処を得た床の間の蔵書の列とつやつや光る太い四角な大黒柱を背にしたオルガンとが、これから新しい生活を始めようとする私に、いかばかり頼もしく思われたことだろう! 文学書も科学書も、大切な本だけはほとんど皆助かってここに在る。蓄音機とレコードとは、被災の直前に或る親切な友人に贈ったのでもうここには無いが、少ながらぬ楽譜や歌曲集だけはそっくり手許に残っている。名手たちの演奏が聴けなければどんなに下手でも自分でやるのだ。但しそれは歌だけである。しかし昔小学校での唱歌の時間に、あの慕わしい鎌原先生が言われたではないか、「楽譜を読んで歌が歌えるという事は一生の幸福だ」と。そうだ、心を新たに身も新たに、私はその幸福にあずかるのだ。
 荷物の整理もようやく片づいた数日後の事、私は初めてオルガンに向った。妻がすっかり拭き清めてくれたその古い楽器はさしたる狂いもなく、すべての鍵がいずれもきれいによく鳴った。戦争もこれには敢えて指を触れなかったのである。私はこれをこそ先ず第一にと思っていたメーリケの『隠棲フェアボーゲンハイト』を、ヴォルフの歌曲集から探し出して「ゆっくりと、深い感動をこめて」歌ってみた。

  Lass, o Welt, o lass mich sein!
  locket nichit mit Liebsgaben,
  lasst dies Herz allein haben
  seine Wonne, seine Pein! ......

「おお、世の中よ、私を構わずに置いてくれ! 愛の施しでいざなう事をせず、この心をしてひとり喜ばせ、ひとり悲しませて置いてくれ!………」。同時にこれが世間に対する私の真底しんそこからの訴えでもあれば要請でもあった。そして富士見へ移る事が決定した数日後に東京で書いた「新らしい絃」という詩が、また実にこの歌に似た気持から生れたものだった――

  森と山野と岩石との国に私は生きよう。
  そこへ退いて私の絃いとを懸け直し、
  その国の荒い夜明けから完璧の夕べへと
  広袤こうぼうをめぐるすべての音の
  あたらしい秩序に私の歌を試みるのだ。
  なぜならば私はもうここに
  私を動かして歌わせる
  顔も天空も持たないから。

  私は逆立つ薮や吹雪の地平に立ち向おう、
  強い爽やかな低音を風のように弾きぬこう。
  だがもしも早春の光が煦々くくとして
  純な眼よりももっと純にかがやいたら、
  私の弓がどの絃を
  かろい翼のように打つだろうか。

 譜面台に拡げられたヴォルフの歌曲集は、以前から好きなメゾ・ソプラノの名手エレナ・ゲルハルトの編纂したものである。私は『隠棲』を終ると当然な事のように『祈り』を歌った。それは昔最初に知ったヴォルフの歌であると同時に、「主よ、み心のままに我に賜え、愛なりとも悩みなりとも。み手より出ずるものなれば、そのいずれにも我は足らわん」という歌詞と旋律が、今の自分の心境にぴったりと当て嵌まるものだったからである。続いて夏野に憩う処女マリアとその嬰児と、傍らの森に早くも緑の若木として立っている十字架とを描いた『古い画に寄せる』の歌を歌ってみ、更に「おお、オルプリート、私の国、お前遙かに輝くものよ!」で始まる広々とした歌が、大海原の波のような深いピアノの上向アルペッジョを伴奏に展開してゆくあの憧れと荘重さに満ちた『ワイラの歌』をやってみた。ああ Gessang Weylas! お前もまた私にとって常に遙かに輝くものだ!
 やってみるとどれもうまくはないが忘れてはいなかった。歌いながらいろいろな事が思い出された。武蔵野高井戸の頃の事、東京の時の事、それから郊外荻窪や井荻での実り豊かな長い創作生活の事などが、歌ごえに添ったり離れたりしながらきれぎれな画のように心の眼前をよぎって行った。それからアイヒェンドルフの『黙せる愛』と『郷愁』とをしみじみとした気持で歌ってみたが、戦前好きだった『友』だけは遂に歌う気になれなかった。なぜならば、少なくともその時の私には、この歌に出て来るような、に価する友が居もしなければ信じられもしなかったから。「何が成功でどういう事が敗北か、きれいな顔の世渡りにどんなきたない裏道かおるか、豁然かつぜんと覚めた心が今無心の岩に地衣を撫でる」と、数日前の或る高山への登攀の際、「山頂」という自作の詩の中にこういう一句を投げ入れたばかりの私だったから。
 蘇った歌につづいて、今度はこれも何年ぶりかの心任せの散歩が来た。まず樹木や草の種類を克明に調べながら広い分水荘の森の中を歩きまわる事だった。声を聴いたり姿を見たりする小鳥たちの名も逃のがしはしなかった。植物と言い鳥類と言い昆虫類と言い、これが初めてのものも少なくないので、すべて図鑑と照らし合せて野外手帳へ書きこんだ。それからもっと足を伸ばして近隣の原野や聚落を歩く事が始まった。八ヶ岳の裾野と釜無かまなし山脈の麓とを五万分ノ一の地形図を頼りに見て廻るのだから、散歩と言うよりも寧ろ再び採り上げられた自然地理学や博物学の勉強だった。幸いにも東京で使っていた道具が助かったので、前々から助手の役をしていた妻に手伝わせて毎日の気象の定時観測も始めた。天気、気圧、気温、湿度、風向、雲級などが記録のおもな項目だった。
 しかし一見趣味とも言えるようなこういう事が、実は以前から私の文学の骨子を成す物の一部でもあったのである。よく見る事によって理解し、理解する事によって愛する。そしてその愛から芸術を生む。これが私の信条だった。そしてその信条をここで再び、否、前よりも一層よく生かす事が人間私の復活の道でなければならなかった。そしてその復活への第一歩として着手したのが、後に『高原暦日』の名で纏まとめられた数篇の文章だったのである。

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 高原の子供の歌

 ひろびろと山の自然に囲まれた信州富士見高原での私たちの新しい生活は、二十数年前の東京高井戸での新婚生活のそれと同じ血脈を引きながら、それよりも遙かに成長し遙かに充実した主題を元にその第一楽章を奏ではじめた。先ず静かな瞑想的な「新生の誓い」の動機、つづいて現われる雄々しい勤勉の第一主題と、人間や自然に寄せる優しい愛の第二主題。やがてそれらが互いに反復され展開されて波のように進みながら、一つの強壮で田園味に満ちた楽章は成るのだった。事実私たち夫婦は新しい住みかがすっかり整頓されて、いよいよ今日から日常の生活が始まるのだというその朝、同じ心でこの構想をえがいていたのである。妻は戦時中のいわゆる上衣にモンペ姿、私はいちばん古い洋服に地下足袋かゴムの長靴。たとえ身なりは見すぼらしく貧しくても、豊かな心と熟練した技術とで試みる毎日の生せいのリハーサルは楽しかった。すぐ眼の前の木でアカゲラやコゲラが鳴き、続々と冬の野鳥たちの到着する森の中の家で、それは同じ二人の再度の結婚に似ていた。
 第一主題が「勤勉」とあるからには先ず働かなければならなかった。妻はこの分水荘の昔の玄関を改造した台所での毎食の支度と後かたづけや、古い桜の大木の下の堅固な石がこいの井戸端での、(嫌いではないと言うよりも寧ろ好きな)洗濯や張り物。私は庭に面した広間の明るい机に向っての翻訳や原稿書き。それも何処から頼まれたと言うのでもない自発的な習慣的な仕事だった。翻訳はフランスの親しい友人マルセル・マルティネの詩や、ヴィルドラック、デュアメルたちの文章。原稿書きのためにはここへ移ってからの自然に関するメモや日記のたぐいが涸れる事のない源泉になった。好きな自然の中で漸く自分たちだけのために働けるので妻はいそいそ。私も彼女と同じ条件の下でゆっくりと仕事ができるので安らかに満ち足りた気持だった。たとえ貯えは乏しくても、どうにかその日その日を過して行く事だけはできた。しかももう名は要らない筈だったのに、早くもその名を慕って来る町や村の人たちが、米とか、蔬菜とか、漬物とか、何かしら食う物を手土産に持って来てくれた。中でも以前から私の読者だった停車場前の或る商店の主人などは、時にタバコ、時には酒さえ届けてくれた。そういう人々の親切に妻はいつも涙ぐんで感謝していた。そして私としては彼らから頼まれれば、遠い道のりを往復徒歩で講演にも行けば句会にも出た。学校の先生にしても農家や商家の老人や青年にしても、未だに便りを絶やさない程みんな善い人たちだった。そしてたまにしか出かけない妻が農閑期をえらんで一人で訪ねて行くような事でもあると、「おお、先生の奥さんがおいでだ」と言って大変なもてなしぶりだった。東京での古いしきたりだと、一月十五日は「女正月」と言って女性が年始の回礼に行く日である。それを富士見に来てまで当然の事のように実行した妻が、さすがに紋服の礼装をして、但し地面に雪のある頃だからモンペに藁沓わらぐつといういでたちで訪ねた時には、みんな目を見張って感嘆したという事だった。それを聴いて私にこんな一句が湧いたのも今となっては懐かしい思い出である。

     山村新年
  わが妻も藁沓遠き礼者れいじゃかな

 話がいささか前後したが、この森の中の別荘へ私たちを快く迎えてくれたW氏すなわち渡辺昭さんとその家族の方がたとは、言うまでもなく一番早く一番親しい間柄になった。いかにも都会の上流人らしく洗練された物静かな一家だった。主人の渡辺氏は元の貴族院議員だが世事に通じて寛闊な人物、夫人の春子さんは美しくて聡明、そしてこの両親と共に東京麹町の本邸から疎開して来て土地の小学校へ通っている兄の允まこと君とその弟の豊ゆたか君とは、これまたそういう家庭の子息らしく気品があり、礼儀正しくて、学業のほうも優秀だった。また同じ建物の別室には、この別荘と土地との管理を託されている名取という土着の百姓一家も住んでいて、そこにも姉を頭に和男と八平という二人の男の子がいた。この二人も言わば主人である渡辺氏の子息たちと同じ学校へ通っていたが、いずれも素朴で従順で家の手伝いにもよく働いた。そしてこれら二家族の子供たちの間には、ふだんは身分の上下の差別がほとんど無く、私の言う「森の子供たち」として、いつでも四人だけで彼らの勉強と遊びの生活をしていた。そしてそういう空気の中へ新しく私たち夫婦の者が仲間入りをしたのである。元来子供を好きな私の妻が彼らを分け隔てなく愛していた事は言うまでもない。私もまた四人のために幾たびか小さい集まりを催して話をしてやったり、一緒に遊んだり、彼らの自作の文章や詩や画を綴じて「僕達の本」という回覧雑誌を作ったりした。その少年たちも二十数年後の今はみな立派な大人になって、農家名取の兄弟はそれぞれの道に従って一家を持ち、渡辺氏の次男豊君は南米ブラジルの領地へ移住して事業を営み、長男允君は有能な働きざかりの外交官になっている。忘れもしない、その允君の如きは、私たちの処へ来れば「おじさま、おばさま」とか「どうも恐れ入ります」とか言いながら、一転して学校仲間・遊び友達の名取の子に向えば、「八平さ、おら、へえ、ごしてえ」(八平さん、僕はもうくたびれた)などと信州諏訪の田舎の方言を、きわめてしぜんに、きわめて鮮やかにあやつるのだった。
 ここにその子供たちのために私の作った「高原の子供の歌」というのがある。スウェーデンの有名な民謡「ああヴェルメラソド美わしや」の旋律に歌詞をつけた物だが、その第一節の、

  山立もたらぶ信濃の国、  われは愛すこの国を。
  春風吹けば鬼つつじ  咲く八ヶ岳の裾野。
  ここに生れてここに育ち、  遠き他国は知らねども、
  愛す、うるわし我が里。

を和男、八平の田舎の兄弟がいくらか土臭い声で歌うと、それに答えて允、豊の東京からの兄弟が、可憐な声で第二節を歌うのだった。

  白樺そよぎ空は青く、  風は涼し夏の日も。
  さえずる小鳥家に近く、  遊ぶ池に映る雲。
  ここに育ちてここに学び、  いつか都に帰るとも、
  思え、たのしかりし日を。

 往時まことに夢のようだが、夢ならぬ朝の現うつつにたまたまこの歌が口をついて出て、私にもあの楽しかりし日を思い起させるのである。

 樹木こそ多かったが山には遠い東京の郊外に住んで、永年いろいろな昆虫類にも親しんだ私ではあるが、たとえばエゾゼミには富士見での出会いが初めてだった。ほぼミンミンぐらいの大きさで彼よりも幾ぶんほっそりとし、翅が透きとおって体の色は褐色と黒。そしてその黒い部分にこれも褐色をした山がたの斑紋のあるのが一つの特色だった。その彼らが池に近い裏の林で一斉に鳴き立てると、賑やかと言うよりも寧ろやかましいくらいだが、私は文人の風流心からよりも生物学者のそれに通う愛や興味から彼らの盛夏の大讃歌を歓迎した。しかし一方ではその観察も忘れなかった。彼らは樹木の幹や枝の高い処へとまって鳴くので、その採集は普通の蟬捕りとは違って容易ではなかった。その鳴き出す時刻も一夏かけて測ったが、寒暖計がおよそ摂氏二十三度に上った頃からが通常だった。富士見の気温は東京よりも冬だと七度、夏だと平均ほぼ五度低い。だから二十三度というと午前十時頃になる。ちょうど私の机上の仕事が調子の波に乗って来た時分で、彼らの「ギリギリ、ギリギリ」の合唱もそれから本番に入るのだった。
 渡辺さんのところでも夫人が手伝いの若者を相手に養鶏や畑仕事をやっておられるので、私たち夫婦も高井戸の昔を思い出して少しばかり畑地を借り、ピヨ子と名づけて可愛がった一羽のプリマス・ロック種の雌鶏を飼った。ところがこれが又よく卵を産んだ。畑では主として馬鈴薯を作り、大豆やアズキやササゲのような豆類を作った。土地の名物のキャベツのように栽培に手の掛らないのも一つの理由だった。
 豆類こそはよく出来た。自分たちの食膳の豆が美味だと、みんな記念に少しずつ残して置いて畑へ播くのだった。そしてそれに一々名をつけた。たとえば八ヶ岳農場から貰って来れば「農場豆」、母の年忌の法要の時にお寺さまから貰った豆には「長泉寺豆」、佐久の協和村出身で東京で洋服屋をやっている江本仙司君から貰ったのには「仙ちゃん豆」。中でも傑作なのは茅野ちのの在に住む文学好きのお百姓牛山大六さんからのもので、彼が話の中へ口癖のように「なんてえか」という一句を挾むので、「牛山豆」では語呂が悪いし、「大六豆」では失礼かも知れないと思って、ついに「なんてえか豆」という名をつけた。本当の名を教えて貰っても何と言ったかじきに忘れてしまうササゲの類。それぞれ別のガラス壜に入れられ、レッテルを貼られて、ずらりと並んだ彼ら豆科のつややかな食用種子に、「なんてえか豆」はその総称、その代表名であってもよかったのである。

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 信濃の人たちと共に 

 富士見高原での生活中、時おり自分で歌う外国の古い民謡や歌曲リートの類は別として、また友人の家のレコードや自宅のラジオで聴くそれも別として、私に欠けていたのは生なまの音楽を聴く機会だった。今でこそ東京ならば夏の僅かな期間を除けば、いつ何処ででも大なり小なり音楽会が開かれているが、昭和も戦後処理や復興に忙しい二十年代、しかも場処は信州。いかに松本や長野でも、私の知るかぎり、そんな贅沢な催し物は望むべくもなかった。
 もしも東京へ行けば或いは聴けたかも知れないが、無理をしてまで行く気もなく、それよりも山々を見わたす広い高原の自然の中で、捥ぎたての果実か摘んだばかりの野の花のような新鮮な材料を、詩や文章として書く仕事のほうが私の心を捉えていた。そして私が無力でさえなければ、そういう材料は毎日何処にでもころがっていた。昔読んだヘンリー・ソローの日記の再読、ギルバート・ホワイトやハドソンやアンリ・ファーブルの読み返し。そしてそういう物から自覚を促されて自分の新しい自然文学を打ち建てること。それが始終頭にあったから別に東京へなど行きたくもなかった。
 それならば信濃の空に音楽は響かなかったろうか。少なくともそういう生活に没頭している私の魂を音の芸術で装ってくれるために。信濃の人は彼ら自身の手や声で美しい音楽を聴かせなかったろうか。否、私は聴いた。聴かせてもらった。それを忘れてしまったり過去の徒事ただごとのように思ったりしたら、私は恩知らずの譏そしりをまぬがれまい。たとえ本人たちはもう覚えていないにしても、その幾つかの記憶は二十数年の歳月を経てほとんど昨日きのうの事のように私にある。

 昼間でもカンタンやコオロギが地を揺するように鳴き、薮や林の葉が黄ばみ、到るところの畑に蕎麦の花が真白な秋の半ばの或る日、上諏訪の知人Mさんから親しい手紙に添えて音楽会の招待券が送られて来た。シューベルトの生誕百五十周年を記念する音楽会で、演奏曲目も全部この作曲家の作品から成っていた。主催は諏訪音楽協会で過去三十年に及ぶ古い歴史を持ち、歯科医のMさんも地方文化の先覚者として、また湖畔の町の名望家の一人として、会の創立当初からその育成に力を注いで来た。出演者である協会員には医者かおり、官公吏があり、教員があり、大学生があり、会社員があり、旅館の主人があり、更にほほえましくもまた刮目に値するものとして染物屋があり、洋服裁縫職人かおり、自動車の運転手があり、鍛冶屋があった。こういう人達が弦楽器を弾き、管楽器を吹き、ピアノを奏で、ティンパニーを叩くのである。更に混声合唱には男女の中学生や若い事務員や店員が出る。百数十年前のオーストリア・ウィーンならぬ日本の長野県、山に囲まれた風光明媚な湖と温泉の町上諏訪における、正に現代の「ジューベルティアート」だった。
 音楽会は昼と夜と二回あったが、私達夫婦は帰りの遅い夜道を考えて昼の部へ行った。上諏訪市本町の静かな横町に面した会場の中はもう聴衆でぎっしりだった。私達はMさんから紹介された藤森成吉氏と並んで最前列の席へ案内された。やがて舞台ヘパッと華やかに電灯がつき、二十人余りの楽員が手に手に楽器を持って登場し、続いて一人だけモーニングを着た年配の指揮者が満場の拍手を浴びながら現われた。町の大きな楽器店の主人であり、古い教育家でもあった人である。そして一ひとわたり管弦楽団を見廻した彼の指揮棒が静かに下りると、ああ、『ロザムンデ舞曲』の第二番が花をちりばめたように流れ出した。
 何年ぶりかで聴くこの本物のシューベルトに、私は自分の心にも花の咲く思いで聴き入った。最後に演奏された『未完成』の時も同様だったが、私がこういう音楽に耳を傾けている時、それはむずかしい批評家の気持ではなくて寧ろ信頼しきった者の心境である。これらの音楽ならば諳そらんじるくらい知っている。しかし今流寓の地にあって、愛するシューベルトを、しかも土地の人人の熱意の手から聴いているという事は決して徒あだや疎おろそかな現実ではない筈である。それぞれのこの世の務めを終ってからの長い練習の果てに、ついに今晴れのステージで演奏している彼らアマチュアの身になったり、それをうっとり聴いている自分という者を考えたりすると、そこに何か宗教的とも言うべき不思議な機縁を感じるのである。
 ヴァイオリンの緩い抒情的なしらべを最後に『ロザムンデ』が終ると、今度はピアノが曳き出されて『アヴエ・マリア』と『冬の旅』からの「凍れる涙」とが歌われた。独唱者はMさんの末娘で伴奏者はその姪だった。この美しい妙齢の歌手は女学校の音楽教師だが、今日は先生としてではなく、しんと静まり返って耳を傾けている幾十の純潔な娘たちの一人として、彼女らすべての心の歌を歌っているのだと私は信じた。続いて数十人の若い男女によって『夜』と『野薔薇』の合唱があり、暫時の休憩の後、ホールに溢れる聴衆の期待を集めて交響曲第八番口短調の『未元成』が始まった。
 シューベルトの『未完成ウンフナーレンデテ』。音楽の愛好家ならばこれは誰でも知っている。多くの人に親しまれている。訴えるような悲痛な主題と限りなく甘美な主題とが簡潔に交互に述べられて、さて突如として出現する圧倒的な運命の前に散り崩れる第一楽章。人間の罪をまだ知らぬ日の歓喜にどっぷりと漬かり、艶あやにきらびやかに照り輝き匂いわたりながら、その神々しい調べの長さにいつまでも耳を与え心を委ねていたいと思わせるような第二楽章。全き信頼と無防禦とでこの音楽の流れに身を任せている事がどんなに楽しいか。信頼は心の安泰、無防禦は夢想の揺籃。私はこの『未完成』をもって完成された自分の一日に感謝した。

 今度は夏の夜である。いま霧ヶ峰でヒュッテ・ジャヴェルを経営している高橋達郎君がその頃はまだ富士見にいて、立場川たつばがわの鉄橋に近い緑の谷の中腹の、木々に囲まれた瀟洒な家に住んでいた。その高橋君が東京からの四人の客を迎えて晩餐を共にし、そのあとでピアノの小演奏会を催すから是非来て下さいという事だった。私は虫の音の繁くなる夕方から三つの丘と沢を越えて彼のところへ行った。客というのはその頃東京の或る音楽大学で先生をしていた初対面の小山郁之進君とその女のお弟子である三人の娘で、中の一人は高橋君の親戚だった。賑やかな晩餐が済むといよいよ別室での演奏会。主人の姪で松本に家のある敬子さんというのが先ずバッハの『パルティータ』ハ短調を弾いた。昼間ならば緑も深い渓谷を眼の下にする林間の家の一室で初めて聴くそのパルティータ。私は最初のシンフォニアからこの巨匠の音楽の虜となった。続いて別のお弟子がベートーヴェンの『三十二の変奏曲』を華々しく見事に弾き、もう一人のお弟子がブラームスの『ラプソディー第一番』を力強く弾奏し、最後にこの娘達の先生である小山さんその人が、趣を変えてスカルラッティの『パストラーレ』を春の日の光のように暖かく且つ潑溂と弾いた。みんな初めて聴く物ばかりだった。私はその数日前から持てあましている原稿が、これであすこそは必ず一気に書けると思った。
 次は或る年の、たしか麗らかな春の日の事だった。前記の高橋君の姪であるあの岩附敬子さんが再びバッハを聴かせてくれた。それは胃腸専門の医院をやっている彼女の父君の肝入りで、私が松本の音楽好きの医師達の集まりのために富士見から講演に行った時だった。演題は「ベートーヴェン」で二時間余りの長いものだったが、それが済むと特に私のためにと言って、当時漸く十六歳か十七歳だった天才少年豊田耕児君がヘンデルのヴァイオリン奏鳴曲の或る楽章を弾き、敬子さん自身はバッハの『来たれコンム、甘美なる死よジュッサートート』を弾いた。両方とも私には初めての物だった。ヘンデルのは第何番のソナタだったかつい本人から訊き洩らしたが、いずれにもせよこんな若い二人から択りにも択ってヘンデルとバッハとを聴かせてもらったのはこの上もない美しい記念だった。そしてその思い出は私の遠い郷愁の空に、今でも時あって美しい二片ふたひらの雲のように浮ぶのである。
 これはまた佳く晴れた秋の日の事だった。大町に住んでいる或る友人に誘われて安曇平あずみだいら穂高町付近の有名な山葵わさび田を見物に行った帰り道、その友人の案内で或る中学校を参観した。槍ヶ岳に源を発する高瀬川の流れを東に、常念や大天井や有明山をつい西の眼前にした広い校庭を持つ学校だった。まわりにはくるりとアカシアの大木が植わっていて、その葉がもうすべて晴天続きの秋を黄ばんでいた。私は折からピアノの鳴っている音楽室というのにも案内された。新任だという若い女の先生が弾き、男女の生徒が体を固くして両手を膝に目を輝かせて聴き入っていた。輝くような躍るような潑溂たる音の流れ。それは私もよく知っているモーツァルトのロンド、アルラ・トゥルカ。ケッヘル三三一番の終楽章で俗に言う『トルコ行進曲』だった。人によれば「なんだ、あれか」と鼻についた物のように軽くあしらうその音楽を、この若い新任の女の先生は孜孜ししとして弾き、それをまたいささかも音楽擦ずれしていない信州安曇あずみの中学生たちは身じろぎもせず傾聴しているのである。この光景は強く私の心を動かした。そして自分の音楽がこんな田舎町の純真な人達から愛される事を、モーツァルトはさぞや喜んでいるだろうと思った。

 

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 神々しい楽園の歌

 長野県富士見の高原療養所で同じ頃一緒に病を養っていた若い連中のうちの数人が、二十年後のこんにち尚その昔を忘れまいと、当時彼らの近くに住んで互いに往き来していた私達夫婦の者を中心に結成している穂屋野会。その穂屋野会の男女の会員から、私の第七十八回目の誕生日の祝いとして、或る目すばらしいステレオのセットが贈られて来た。そして同時に職人が来て、半日がかりで念を入れてそれを壁の書棚のあいだへ組み込んだ。彼らのためにろくな貢献も出来なかった私にとって、これはまた予想だにしなかったような有り難い志であり、貴重な贈り物であり、老年の仕事の日々を音楽によって力づけられている私へのこの上もなく大きな援助だった。「公の名誉」なるものを振りかざして勿体もったいらしく授けられるどんな賞も、この数人の友人達のまごころの証しの前では物の数でもない。新調のセットは書斎の正面に頼もしくでんと据えられ、今後そこから霊妙な歌のしらべを飛び立たしめるべき両翼を右と左にぐっと張った。私は今や確かに我が物となったそれを一日じゅう楽しく眺め暮しただけで、直ちには手が出せなかった。
 その翌日、この嬉しい贈り物から先ず何を聴こうかと考えた。なるほど自分の心祝いとしてつい先頃バッハの新しいレコードを買ってはある。しかしこれによって最初に聴くべきは、何を措いてもやはりベートーヴェンではないかと思った。ベートーヴェンこそは芸術への私の開眼の恩人であり、今でもなお求めればその音楽で私の心を清め、鞭撻し、鼓舞してくれる。この恩は生涯かけて忘れてはならず、また当然ながら忘れもしない。ユリア・クルプの歌う『フェイスフル・ジョニー』や、薄命な久野久子の弾いた『アパッショナータ』に青春の純な感激を経験して以来五十年。その間人生行路のさまざまな危機や局面に、なんと幾たび彼の助けを借りたことだろう。そして今は老境の心も静かに、行く先頼もしいこの精巧な器械から先ず最初に鳴り出でる彼の祝福の音楽を、あれかこれかと半ば楽しく思いまどっている私であった。折から谷のむこうで一羽のホオジロが歌い、眼の前の森でカケスが鳴き、一群のカワラヒワがお喋しゃべりをしていた。そして窓から見おろす庭には梅が散って桃が綻び、連翹れんぎょうが咲き、日の当った芝生のふちをクロッカスが黄に紫に彩っていた。四十何年ぶりと言われる低温の彼岸の幾日がついに暖め返されて、今日こそは真に春らしい春の回帰である。そして復活祭ももう直ぐだ……と、その瞬間私はごくしぜんに思いついて、数あるベートーヴェンの中からいかにも時宜に叶った『ヴァイオリン協奏曲』を聴く事にした。手許にはオイストラフとグリュミオーのと二種ふたいろあるが、富士見から東京へ帰ると間もなく買ったのが後者の独奏している盤なので、その記念のためにもこのベルギー生れの名手のほうを採り上げた。管弦楽はアムステルダム・コンツェルトヘボウ、指揮者はヴァン・ベイヌムである。そしてプレーヤーに盤を載せると私は椅子にもたれて息を凝らした。ほとんど一年ぶりで聴くこの神々しい楽園の歌とも言うべきヴァイオリン・コンチェルトの、その第一楽章が夢を孕はらんで鳴り出した。
 ティンパニーが柔らかに刻む四つのD音。すると直ぐにそれを受けて立ち上がるオーボエ、クラリネット、ファゴットの木管群が、彼らの呈示する気高く雄大な第一主題でたんと洋々たる前途を思わせることだろう。続いて現われる第二主題。これはまた第一のそれの妹のようだが、優しいうちにも凛々りりしさを失わず、兄と共にところどころで初々ういういしい花のように歌いながら、この長大な楽章を最後まで飽かせない物にしている。そして短前打音で跳躍しながら遂に姿を現わした独奏ヴァイオリンが、以来装飾と変化の限りをつくして踊り廻っている間にも、彼らは木管楽器に斉奏させて悠然とこの楽章の支柱であり根幹である歌の務めを果している。私はこれら二つの主題の美しさが、実はこの第一楽章を飾る星でもあり花でもあると以前から信じているが、こんな見事な主題を無の世界から有の世界へともたらしたベートーヴェンの創造の力の豊かさに、今もまた驚嘆を禁じ得ないのである。
 ラルゲットの第二楽章で、弱音器をつけた弦楽器群の歌い出すあの変奏曲の主題もまた夢見るように美しい。これはまさに楽園のしらべだと言える。その付点音符は其処を逍遥する者の軽い喜ばしい足どりであり、絢爛な日光や花の眺めを繰りひろげる独奏ヴァイオリンの活躍の上を、コルネット、クラリネット、ファゴットの響きをもって涼しく吹き渡るそよかぜである。そしてやがて取って代った弦楽器群の力づよい斉奏トゥッティを最後に、トレモロを先立てたソロ・ヴァイオリンの華麗なカデンツァに一切を任せる。
 カデンツァからそのまま堰を切ったようにロンドへ流れ込む終楽章では、飛び跳ねるような主題を固執する独奏ヴァイオリンの活躍が目ざましい。しかも全管弦楽もこれを助けて終始壮大な循環反覆を展開する。固執されるこのロンド主題の頻発に眉をひそめる人も世には有るが、私は必ずしもそうではない。寧ろ或る期待を抱いてこの騒宴に対するのが常である。と言うのは、曲も半ば近くに達してこちらの耳がいくらか単調さを感じ始めた頃、突如として独奏ヴァイオリンから得も言えず美しい副主題が天啓のように現われるからである。それはその清明さで雲間の青空を思わせる。そしてその歌が華やかに上昇下降する分散和音となって融けている間に今度はファゴットが同じ旋律を遠いこだまのように模倣する。するとまたヴァイオリンが少し変形された同じような旋律を独奏する。と再びファゴットがそれを真似る……実に何とも言われず楽しい三十小節である。この間の楽しさを知っている人は無論多勢いる事であろうが、この楽章がここまで来ると、私はよく隣席の妻や友人の肱をこづいて注意を促したものだった。
 親しい友らから贈られた立派な器械での最初の演奏はこれで終った。すべての音が美しく生かされて、よく響いて、今後の楽しみを一層確かなものとして約束した。これで聴くバッハやモーツァルトがどんなに良いだろう。シューベルトもベルリオーズもヴァーグナーも曲を揃えて待っている。今は鎌倉の春。中世やルネサンスやバロックの物も聴こう。やがての夏の夕べには近代フランスの知的ですがすがしい作品も聴こう。音楽では実演に重きを置いている私だが、友人達の誠のこもったこの新しい再生装置の恩恵の事も決して軽んじてはならないのである。

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 雲とともによみがえるもの…… ――上高地と乗鞍高原――

 この十何年、毎年六月最初の土曜、日曜、月曜日の三日間は、必ず上高地で暮すことになっている。槇有恆さんの後を継いで戦後三年ばかり日本山岳会の信濃支部長をやっていたのを機縁にそれ以来、その支部主催のウェストン祭に顔を出すのが一種の約束ごとのようになってもいればまた一つの楽しい年中行事にもなっているからである。
 宿は河童橋かっぱばしの袂の五千尺旅館。これまた永年のきまりなので、なじみの客というよりも寧ろ親戚か何かのように気安く懇ねんごろに、しかも心を配って大切に扱ってくれる。通される三階の部屋も毎年同じだし、食べ物もこちらの好き嫌いは元より、生活習慣のようなものまで或る程度心得てくれているので、泊り心地、居心地、共にいつでもすこぶる善い。わけてもこの宿での独特の楽しみの一つは、爽やかな初夏の朝か夕方に、わざわざ階下のフロントの陰から掛けてくれるレコードの音楽を、たとえばバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトなどの良く選ばれた器楽作品の一つを、二階のロビーで一人静かに聴くことである。なぜかと言えば其処は東京や鎌倉の住み馴れた我が家の書斎ではなく、実に北アルプス上高地の谷間であり、眼下を梓川の清冽な水がせせらぎ流れ、おりから小梨の林が薄桃色の花に包まれ、山風やまかぜに化粧柳の綿毛わたげが飛び周囲を雄渾な穂高連峰や霞沢岳や、細い噴煙を柔らかに上げている焼岳やけだけにぐるりと取り巻かれた別天地だからである。
 或る年の同じ六月に、やはりこの二階のロビーからバッハの器楽曲を聴いた時の印象は、年を経た今でもなおはっきりしている。その時の聴き手はロビーに寛くつろいでいる私と、下の大玄関のホールで太い白樺の薪の燃えている壁暖炉を前にした登山姿の二人の若い女性と、フロントの正面に端然とひかえた古参の女事務員との四人だった。あとで訊けばその二人の女客は東京の某大学の学生で、昨日きのうは西穂高を往復して来て昨夜はここに一泊したが、朝の松本行初発のバスを待つ間何か音楽を聴かせてくれという所望だったので、「私も好きなあのバッハをお聴かせしました」ということだった。音楽も終り、出発の時間も来たので、真新しいリュックサックを背負い上げて出発するその若い二人が、こんな境地で図らずも聴いた美しいバッハに感動して、フロントの女事務員に心からの礼を述べていた光景は今もなお忘れない。

 私は音楽を聴きながら、よく山や高原のことを思い出したり、ただ何となく或る自然の風景を心に描いたりしている時がしばしばある。そしてそういう時の音楽は、言うまでもなくふだんから自分が好きで、ものによれば部分的には暗誦もできるくらい親しんでいる作品である。しかしそれには取り立てて標題めいたものが無くてもよく、なまじ『アルプス交響曲』だの『森の情景』だのと言われると、かえってこちらの夢想が歪められたり制限されたりする惧れがある。モーツァルトのピアノ・ソナタの絶美な楽章を聴きながら、雪渓の傍らの真夏のお花畠を瞼まぶたの裏にえがいたり、樹氷に飾られた冬の高原の輝かしい朝をぼんやりと考えたりしていることもあれば、ベートーヴェン晩年の弦楽四重奏曲の或るアダージョから、今は亡い親しい友との高知の浜べの夕暮れのそぞろ歩きの事をなつかしく思い出している時もある。まことに私にとって音楽を聴く事は、これまでの人生体験からその時どきの記憶をよみがえらせる事にほかならない。
 シューベルトのいわゆる『鱒の五重奏曲』、あれにしてもそうだ。あれを聴いていると私はきまって何処かの谷の景色を思い出す。奈良井川や木曽川の谷、笛吹川や釜無川かまなしがわの谷、さては梓川や久慈川の谷などを。そしてそのどれもが、私の曽ての旅や滞在の記憶につながっている。あの有名なイ長調のピアノ五重奏曲が、その第四楽章の変奏部に同じ作者の歌曲『鱒フォレレ』の旋律を使っている事は誰でも知っているところである。私も無論あの変奏曲の楽章を好きだが、しかし夏の青察の谷のように颯々さっさっ鳴って涼しくて、かつは優美なアレグロの第一楽章もそれに劣らず好ましい。風のそよぎや渓流の響きを想わせる弦楽器群の合奏もいいし、その間を飛び散る瀬波のようにリズムを切って進むピアノの歌やアルペッジョも実に美しい。今は遠い思い出となった或る年の木曽路の旅に、奈良井川の谷を見おろす朝の道で私は一人の若くて美しい女性に出会った。白いブロードのブラウスに紺のスカート、涼しく切って波を打たせた匂やかな髪の持ち主は、その前日近くの学校で講演をした私のために、ほかの教師や父兄たちの賑やかな音頭おんどにつれて木曽踊りを踊ってくれた女の先生だったが、これから学校へ出勤するとの事だった。それまで当然の連想から晴れやかな『鱒』の気分にひたっていた私が、丁寧に辞儀をして別れて行く彼女の若々しい後ろ姿を見送った瞬間、ふと同じシューベルトの弦楽四重奏曲『死と少女』の哀愁をたたえた第二楽章を思い出して、一種の感慨にふけったのも或いはしぜんの成り行きだったかも知れない。

 書斎の窓から空の三方がよく見えるので、机に向っている時でもソーファに寛いでいる時でもつい雲の姿が目に入る。ところでその雲というものを昔から私は好きだった。思い出せば遠い明治の代よの事だが、隅田川の河岸で商家の一人っ子として寂しく育った幼少の頃、すでに私には雲がいちばん親しい友たった。中でも対岸佃島や越中島の空に積み上げたように現われる東京湾の夏の雲、二階の物干しから見える皇居の森や、それよりもずっと高くずっと遙かな山波の上に並んだ春の雲。今ならばそれを発達しつつある積乱雲だとか、やがて全天に拡がる高積雲だとか言うだろうが、そんな名も知らず知識も持たないその頃の私には、それだけにまた手の届かない処にいる勇ましい、或いは美しいあこがれの対象だった。後年の「雲」という詩の中で書いたとおり、「この世でのつながりを欲しいが、つかむには鏡の奥の物のようで、打明けの相手としてはすでに天上的に半調色だ」。ヘルマン・ヘッセも子供の頃から雲が好きだったとみえて、『ペーター・カーメンチント』を初めとして数多くの文章や詩の中でも、あの大空の物言わぬ友の事を愛をもって語っている。そして成人した後の私がヘッセを好きになったのも、本もとをただせば、実にその『カーメンチント』の初めの方に出て来る限りなく美しい雲の描写が縁だったのである。
 結婚後の郊外住まいに、私は仕事のかたから本格的に好きな雲の勉強をはじめた。藤原咲平博士の雲の写真集と図説を手がかりに、雲の本ならば片っぱしから何でも読んだ。無論クラークやケイヴ等の専門の書も読み、ラスキンの『近代画家』の第五巻から「雲の美について」の一章をさえ字引き片手に読みふけった。そして遂には組立てカメラでの実物の撮影にまで手を染めて、五年間にわたるその成果を『雲』という一冊の本として出すまでになった。こうした私か今でもなお空の種族である彼らへの愛を持ち続けているとすれば、音楽の世界でもドビュッシーの管弦楽『雲』を閑却する筈はないであろう。
 ドビュッシーの『雲』は三曲から成る管弦楽『夜奏曲』のその最初の席を占めている。しかしこの曲は、私の知るかぎり、日本では余り多く問題にされていないようである。或いはその前後に『牧神の午後への前奏曲』や『海』のような一層みごとな作が控えているせいかも知れないが、およそ雲というものに関心を持っている程の人ならば、この曲を聴き馴れるにつれて好ましく思い、愛をもって音に描いた作者の意図に同感するに違いない。なるほど規模も比較的小さく、印象主義的なその手法も一見淡彩風で軽くあっさりはしているが、大空に浮き漂うあの水蒸気の神秘な凝結、いつとは無しに生れて育ち、咲きさかり、やがて又いつとは無くしぼんで消えるあの水の花の霊妙な短い一生を、ドビュッシーは揺らぐと見えて崩れる事のない均整と、論理的に展開する進行とをもって実に鮮やかに表現している。或る時は日光を屈折する彩雲のように虹色を呈し、或る時はヴォリュームを増して逞しく照り輝き、やがては夕日の空に赤く金色にたなびきながら消えるもの。これがこの音楽から私か好んで描く一つの雲の姿であり、よしんばこの曲に何らの題がついていなかったとしても、また作曲家自身、「彼が最終的に選んだ曲名をあまり字義的に解釈される事を欲しなかった」としても、やはり、私はここから「雲」を感じ取り、ひそかに「雲」という名を与えただろうと思うのである。

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 わが『イタリアのハロルド』  ――乗鞍高原にて――

 音楽はできるだけ実演で聴こうと心がけている私にとって、六月九日というのはまことに不運な一日だった。その夜上野の東京文化会館では安川加寿子さんのショパン、ドビュッシー、プーランクの雅みやびやかなリサイタルが繰りひろげられ、一方丸ノ内の第一生命ホールでは古沢淑子さんのフランス歌曲の夕べが、これまた久方ぶりの独演で静かに爽やかに催された。
 しかし両方が同じ夜とあってはたとえ行けても体は一つ。その上めぐり合せの悪い時は仕方のないもので、私には六月の五日からちょうどその九日の夕刻まで、例年のウェストン祭の行事やらそれに前後する講演会や地方の放送局でのインターヴューやらで、上諏訪から上高地、乗鞍高原、松本市と、長野県南部の町や山間を経めぐらなければならない前々からの約束があった。それで二人の女流音楽家には止むを得ぬ事情を述べて不参を詫び、二枚の招待券はそれぞれ孫娘美砂子とその友達とに分ち与えた。年若い彼女らはいずれも音楽大学で勉学中の身なので、その望外の喜びは察するに余りあった。しかしその二つのリサイタルが上野と丸ノ内の会場で今や佳境に入っているだろうちょうどその時間に、私と私に同行の孫息子敦彦とは、五日間の旅の終りの新宿駅や東京駅の雑沓の中で、背中や両手の重い大きな荷物と悪戦苦闘をつづけていた。

 快晴の六月最初の日曜日、ウェストン祭のために上高地へ入った登山者の数は実に五百名に近かったという。梓川の清流に臨んだウェストン師の碑前での記念行事は、いつものようにエーデルヴァイス合唱団の若々しい山の歌の合唱から私の新作の山の詩の朗読まで、終始和気あいあいとした雰囲気のうちに進行して恙つつがなく終った。二十四回目の祭だから、三度だけ欠席した私としては実に二十一回の夏を来た事になる。その昔父親に伴われて参加したという子供が今では立派に成人して一廉ひとかどの登山者姿で現われ、それが遠慮勝ちに記念の署名を求めるのだと思えば、書いてやるこちらの気持にもおのずから一種の感慨と愛情とがあった。そういう署名を人々に囲まれながらそもそも私か何十したろう! 無論そのために疲れはした。しかし決して迷惑とは思わずぞんざいにも書かなかった。同じように山を愛する人々への、それが私の善意だったから。そしてそういう私を霞沢の三つの巨大な岩峰が、今年もまたいつものように真向から見おろしていた。
 ニリンソウ、エンレイソウ、エゾムラサキ、イワカガミ。コマドリ、コルリ、オオルリ、メボソ。上高地原生林を活き活きとさせているそういう花や小鳥を見たり聴いたりした早朝の散歩から帰って来ると、私と孫とは食後のロビーでゆったりとコーヒーを啜りながら、眼下を流れる梓川の瀬波と対岸の山の新緑とを眺めていた。するとそれを待っていたかのように、グリュミオーとハスキルの弾くモーツァルトのヴァイオリン・ソナタが音も清らに響いて来だ。この旅館へのみやげにと持って来たレコードを、フロントの女事務員が気を利かせてさっそく懸けてくれたのである。場処が場処であり、朝の時間もまだ早くて静かなので、そのモーツァルトは自分達の鎌倉の家で聴く時よりも一層豊かに美しく響いた。敦彦もうっとりと聴き惚れていたが、やがて一言ひとこと「いいねえ、おじいちゃん」と言った。好きな画の事ならいざ知らず、ふだんは音楽について感慨めいたものを口にした事のない十七歳のこの孫が至ってしぜんにこんな事を言い、こんな思い入ったような言い方をするのだから、環境と音楽との調和がよほど深い処で彼の心を捉えたらしい。私はこうした心境を彼のために喜び、老いたる祖父とまだ年若い孫とのためにしてくれたフロントの優しい心づかいを嬉しく思った。
「画が描きたい処があるから僕だけもう二日ここにいて、九日の午後松本の駅でおじいちゃんと落ち合う事にします」と言うその孫の事を宿の人達にもよく頼んで、私は数人の連れと一緒に乗鞍の高原へむかった。彼と二人だけで過す上高地の楽しい二日間を空想すると何やら後ろ髪を引かれる思いがし、カンヴァスと画具えのぐ箱とを高々と差しあげて見送っていた彼の姿がしばらくは網膜の底に焼きついて消えなかった。しかしそれでも車が前川渡まえかわどの新設の橋を渡って平湯峠への道へ入り、大野川の部落を過ぎてやがて番所ばんどころから鈴蘭小屋のあたりまで来た頃には、もうすっかり諦めもつき、当の上高地も幾重の山のかなたになっていた。そしてその私に新たな生気を吹き込もうとするかのように、今度は乗鞍の幾つもの峰々が銀と青との些麗な屏風で行く手の空を飾っていた。
 数年前に来た時蕎麦食い競争などに興じた鈴蘭小屋は、その後改築されてすっかり立派になっていた。しかし今度の私たちの宿は同じ鈴蘭平でも一番奥の「ヒュッテ乗鞍」だった。そして古くから多くの登山者になじみの深い鈴蘭小屋とこの新しいホテルとの間には、休暇村だとか国民宿舎とか言うような施設のほかに尚数軒のヒュッテ風の旅館が立ち並んでいた。折から小梨の花は盛りでも、カッコウやホトトギスの声は頻りでも、いわゆる観光開発の手がこんなにまで拡がっては、鈴蘭平のここかしこに僅かに残っている昔の姿もやがては全く消え失せてしまうのではないだろうかと思われた。
 その翌日の午前中にところどころ車を使いながら見て歩いた乗鞍高原六月の風景は、しかし真に目も心も洗われる程の美しさだった。中でも一ノ瀬牧場と呼ばれている草原と森林と湿地帯との広大なひろがりが気に入った。ゆったりとした起伏の間に白樺や岳樺だけかんばの疎林があるかと思えば樅もみや落葉松からまつの森があり、その間の到るところに大きな株の山ツツジや紫ヤシオツツジの花が燃え樹下の草の中には可憐な鈴蘭がひっそりと咲き、湿原にはやがて見事な仏焰苞ぶつえんほうを開く水バショウが壮大な葉を立てていた。そしてアオジ、ホオアカ、ノビタキ、ビンズイ、コヨシキリなど高地草原の小鳥の歌も、却ってここの天地を一層静かな、世間から一層遠い広々としたものにしていた。
 同行の連中がそれぞれ撮影をしたり、薮地をさまよったり、雑談をしたりしている間、私はひとり草の中に身を倒してむこうに見える残雪の剣ヶ峰や高天原たかまがはらと、その上の青空にぽっかり浮んでは又消える一つ二つの白い雲を眺めていた。そして久しぶりにこんな境地を詩に書きたいなと思っている内に、ふと、(然しきわめてしぜんに)、ベルリオーズの交響曲『イタリアのハロルド』が私の脳中をよぎって暫くそこにとどまった。
 ああ『ハロルド』! それを私が今でもどんなに好きだろう! どんなにあの独奏ヴィオラの音の後を追い、四つの楽章をとおして絶えず現われるその男らしい憂愁と憧れと歓喜とを纏った固定楽想の調べを愛していることだろう! あれは私の生涯の或る時代をさながらに思い起させると共に、今もその余韻でこの老年の心をあやしたり、時に昂然と額ひたいを上げ胸を張らせたりさせるのだ。夕べの祈りを歌いながら近づいて来ては遠ざかって行く巡礼達の行進の場も美しいし、アブルッチの山の牧人達が彼らの愛人に寄せるセレナードもしっとりとして華やかであり、山賊共の荒々しい饗宴と、その騒ぎに打ち消されながらなお断続的にヴィオラの歌う青年ハロルドの追想の調べも懐かしい。他人はどう思うか知れないが、そういう時のベルリオーズこそ私の好みにぴったりなのだ。規模はもっと大きくても『幻想交響曲』は私にとってこれに及ばず、劇的音楽の筋としては一層多彩で面白くても『ファウストの劫罰』もこれに如しかない。要するにここには私の詩の基調に類するものがあり、私の気質の中のロマンティックな面に通じる物があるのである。その点では『キリストの幼時』や、『ロメオとジュリエット』や、『トロイアの人々』などの内方に現在の心を引かれるものが多い。
 残雪の乗鞍の峰々や其処に浮ぶ白い軽やかな雲を眺め、『イタリアのハロルド』への連想から自分の過去と現在に思いを馳せていると、向うの樅や栂つがの森から一名を慈悲心鳥と呼ばれるジュウイチの声が響いて来た。一羽が「ジュウイチイ」と鳴き出すと、それに連れて二羽三羽と鳴き始め、それぞれが次第に速度を早め調子を高くして、ついにはその最高潮で絶え入るように鳴きやむのだった。更に頭上の空間には時どきアマツバメの群飛があった。数十羽で一隊をなした彼らは長い半月形の両翼を張って矢のように飛び去り飛び来たり、その度毎に「ヒューツ、ヒューツ」と空気を切り裂く鋭い音をひびかせた。そして其処にもまたハロルドばかりか若いベルリオーズその人の、イタリアの中部アブルッチの山の中での孤独の思い出とその哀愁との甘美さがあった。
 上高地の渓谷と乗鞍の高原とで一年ぶりに山らしい山を味わった私は、松本での講演もインターヴューも無事に終って、九日の午後松本駅で敦彦と落ち合った。私よりも背の高いこの高校生の肩へ手を載せて「どうだったい?」と訊くと、「うん、よかったよ。画もどうやら一枚描けたし、五千尺でも良くしてもらった」とにこやかに答えた。そして優しいかな「おじいちゃんのほうは?」とたずねた。私は乗鞍での事をこまごまと話した。
 そして数人の友人達に見送られて特急のグリーン車で帰る途中、二人には思い出多い富士見の駅を過ぎながら、食堂車でビールの一盞を挙げた事は言うまでもない。尤もまだ成人前の孫のほうは些か後ろめたそうな顔をしてはいたが……

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 山岳的シューベルト

 六月初めの土、日、月という全まる三日間を上高地と乗鞍高原とで暮した。今度は家じゅう五人が総出の上に友人五家族も誘い出しだのでかなりの人数だった。ふだん互いに親しく往き来はしていても、こんなに多勢の家族が(小さい子供達まで連れて)同じ旅をするのは初めての経験だった。
 上高地は例年どおりのウェストン祭。東京の日本山岳会本部から槇有恒、松方三郎、三田幸夫、日高信六郎等の諸君も来会して、日曜日当日のウェストン碑前ではあいにくの小雨の中をそれぞれ予告を違えず講演をした。天気が好ましくなかったにも拘らず碑前の広場は梓川のへりまで会衆でいっぱいだった。(しかし私としては既に亡き人の数に入った松本の小里頼忠、木曽上松の下平春渡両君の永久不参を思うと悲しかった。)そして例によって安曇あずみ小学校の女生徒による献花式があり、エーデルヴァイス合唱団による幾つかの華やかな合唱があり、最後にこれも恒例の私の新しい自作詩の朗読があってめでたく会を終った。そしてその間じゅう男と女の二人の孫が雨傘をさしかけてくれたり、朗読の際の原稿紙の出し入れをしてくれたりした。去年の同じ時には肝腎の詩の原稿が見当らなくて大いに狼狽し、周囲を取り巻いた厚い人垣の笑いの中で孫息子をハラハラさせたものだが、今年はその姉のほうが前もってちゃんと保管していてくれたからあんなへまも演じなかった。その朗読の前に「昨年は大まごつきをしましたね」と言ったら、覚えている人達の中から一斉に好意ある笑いのさざめきが起った。
 子供や女連やその夫たちが大正池と田代池とを見物に行っている間、私は一人でその反対方向の六百沢付近を散歩していた。場処から言えば明と暗との相違である。あちらは明るい湖沼とその水辺、こちらは岩のごろごろした急な涸れ沢とほのぐらい原生林。彼らの処でカッコウやオオルリが啼いているとすれば、私の世界では時折のコマドリやホシガラスの声。しかしこんな寂しい沢へわざわざ入り込む物好きもいないとみえて、以前在ったところには相変らずイワカガミが珊瑚色の花をびっしりと咲かせ、オサバグサの大群落がシダのような葉の間から白い小さい花を優しくすんなりと立てている。そして私は彼ら花たちに近い一個のすわり心地のいい岩に腰をかけて、ゆっくりとタバコを吸いながら持参の薄いフランス本を読む。日本では『星の王子さま』で有名なサン・テグジュペリの“Lette à un otage”(或る人質への手紙)を。私も好きな男らしい作家で警抜な美術評論家でもあるレオン・ウェルトに宛てた物だと言われている真に美しい感動的な本を。このウェルトも著者テグジュペリ同様今は亡いが、パリの仲間コパンの会から寄せ書きでくれた葉書の中の彼の署名は、何冊かのその著書同様今でも大切に持っている。ウェルトはユダヤ系のフランス人として第二次大戦中ドイツ軍の捕虜になっていたが、この本は高邁な作家で飛行家のサン・テグジュペリがその友ウェルトを慰め勇気づけている書翰集と視ていいだろう。北アルプスのほのぐらい原生林の中、静まり返った渓谷の岩の上で、一人私の読んでいるその本にはこんな一節があった。
「友よ、僕は今楽々と息のつける何処かの山の頂上てっぺんのような君が欲しい! そしてあの日ソーヌ河の川べりの、床ゆかの喰み出した小さな旅籠屋はたごのテーブルに二人の船頭を招待した時のように、もう一度君に寄り添って楽々と片肱を突いていたい。そうしたら僕らは、太陽のようにほほえんでいる平和の中で、彼らと一緒にまた乾杯をするだろう」
 家族の者と友人達とだけで行った乗鞍の高原には、先発のA君と共に新しい一日と晴天下の自然とが待っていた。ここでは色々な山のツツジやアカシアや、上高地ではまだ蕾たったコナシの花が盛りだった。去年は上高地へ居残ったために来られなかった敦彦を初め、一同は風景の性格の全く違うこの広々とした乗鞍岳直下の高原が頗る気に入ったらしかった。殊にこんな処を初めての女達にとっては、放牧の牛が三々五々流れのへりで水を飲んでいるような長閑のどかな風景は感激と驚異そのものであったろう。
 一本の大きなクルミの樹の下にぽつんと在る腰掛けのあたりから綺麗なブロックフレーテの調べが聴えて来る。スミレやミヤマキンポウゲの咲いている芝生の上へ寝ころんで、去年ここでベルリオーズの『イタリアのハロルド』の事を考えていた自分を思い出していた私には、それがまるで夢と現実との境からの訪れのように思われた。ピアノに向えば『テンペスト』を弾き抜く孫の美砂子が、平和なクルミの樹下でドイツ・ヘッセン地方の古雅な民謡や、十六世紀のマイスタージンガーの歌などを音と旋律の玉のように零こぼしているのである。私は柔らかに目を閉じて聴いていた。その夜私たち一同は東京薬科大学の教授A君の肝入りで学校所有の楢ノ木坂山寮の厄介になったが、孫娘を前に私の吹く笛の音にはあのような情味も風懐も全く無かった。むしろ寮を取り巻く高原の夜のヨタカやトラツグミの声の方がはるかにすばらしかった。
 それにしても五日間の旅は私の心身にかなりの疲労をもたらした。予定の仕事はちょうどその日数だけ詰ってしまって気には懸るが、さりとて帰宅勿匆々机にむかう気力も無かった。こんな時こそ普段は余り聴かない種類のレコードをゆったりと聴くのが一番良さそうだ。それにはこのところずっと手に取らずにいるシューベルトがいい。そうだ、シューベルト! それも此の際重々しい物ではなくて比較的軽く明るい物がいい。
 先ず当然のようにピアノの五重奏曲『鱒』が挙げられた。これには古くシモン・ゴールトベルクとウィリアム・プリムローズ達の演奏している物もあるが、それよりもヘブラーとグリュミオーが弾いている方を選んだ。ピアノ曲としてはイェルク・デームス演奏の『即興曲』と『楽興の時』、弦楽四重奏曲にはアマデウス・クァルテットの『死と少女』、そして最後に新しく出たシュタルケルの『アルペッジョーネ・ソナタ』という事にした。しかし数多い歌曲集はどうしても歌詞の本文を見ながら聴くようになるので、眼をかばうためにも今度はいっさい敬遠した。
 『鱒』を聴いていると何となく又あの梓川の谷の水音近くにいるような気がした。この曲のもとになった歌の比喩的な意味よりも何よりも、ピアノや弦の跳躍するその音自体が谷川だった。この五重奏曲をいくらか軽視する人々のある事を私も知っているが、欲を言えば切りの無いもので、天才必ずしも常に完璧を産みはしない。寧ろ次第に生涯の苦惨の時に向うシューベルトが、前年厚遇をうけた遠い国の山の町の音楽愛好者たちを喜ばせるためにこれを作曲したのだと思えば、(アルフレート・アインシュタインは「社交的」と言っているが、或る曲の成った発端や経緯を知ればモーツァルトは勿論ベートーヴェンの場合にすら何とでも言えるだろう!)そういうふうに軽視するどころか、こんな作が残っていた事を祝福したいくらいである。
 作品九〇の『即興曲アンプロンプチュ』も元より好きだが、この数年聴く事の無かった『楽興の時』が盤の裏面を占めているという事も一つの理由で、エドヴィン・フィッシャーのよりもデームスの方を選んだのだった。無論『即興曲』だけならば荘重で幽暗な美を湛えているフィッシャーを採ったろうが、或る意味ではシューベルトの佳品の一つに数えるべき『楽興の時』をまことに久しぶりで、しかもこんな時に寛くつろいだ気持で聴くのが楽しみだったので若いデームスにしたのだった。
 弦楽四重奏曲『死と少女』を聴いたのは、言わばシューベルトに没頭して来たその幾日間の私自身の潔斎だった。これからは又新しい仕事のために再び毎日を机に向わなくてはならない。それにはいつまでもシューベルトに執着していてはならないし、さりとて世にも美しいこの二短調の四重奏曲に前途を祝福して貰わなくてもならない。あの見事な第一楽章と第二楽章とを私はどんなに愛しているだろう。私としては題名中の「死」はむしろ当らず、同じ名を持つ歌曲リートの事は採り上げないで、ただ『或る少女のための弦楽四重奏曲』とでもして欲しかった。無論あの乗鞍山麓の初夏の牧場で、一人花下に笛を吹いていた少女の鮮やかな印象も加わってはいるが。
 自己休暇の最後の日には東京まで出掛けて、ヤーノシュ・シュタルケルがチェロで弾いている『アルペッジョーネ・ソナタ』を買って来た。これは私を喜ばせた。そこにはチェロという楽器にふさわしい深い情感と、男らしいリリシズムとがあり、「神々しい長さ」よりも親しい快い簡潔さがあった。シュタルケルもここではよくおのれを抑制して余りに旋律をのさばらせず、憂鬱に対しても度を越させていない。彼にしては慎みぶかい程の演奏だが、それが心や体の何処かに未だ山の気が残っている私には打ってつけだった。例のアインシュタインはその『シューベルト・音楽的肖像』の中でこの曲に言及しながら、「もしもシューベルトが(あのアルペッジョーネという新しい楽器の宣伝の機会に)あの時代遅れの楽器のために特別な努力を傾けたとしたら、ばか者たった事だろう」とか、「自分の手綱を緩める社交的なシューベルトは、妥協をしない偉大なシューベルトよりも人気を呼ぶからである」というような事を言っている。だがアインシュタインは何とでも言わば言え、私にはこの曲が気に入った。そしてこの音楽を多くの若い人達に聴かせたい。殊にその心に「山岳的」なものを固く持っている人達に! しかしそれは必ずしも私か山から下りて来た(“Ich komme vom Gebirge her”)ばかりのためではないであろう。

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 シベリウス『交響曲第六番・七番』

 私のところの二人の大きな孫達から小父おじちゃんとか小母おばちゃんとか懐かれ慕われている「上の家うち」のSさん夫妻、暇な折には機嫌よく派手に彼らの遊び相手になってくれたり、時には音楽や絵画の事でそれとなく彼らを啓発してやってくれたりするその主人Sさんが、私とはこれまた全く別な大人づきあいで、普段でも世間や他人の噂話だの心安だての冗談口の応酬などはおろか、よそ目にはいくらか堅苦しく見えるくらい折り目を崩さぬ交わりを続けている。しかしその私達を柔らかにではあるがしっかりと結ぶものとして、音楽への共通の愛のある事はたしか前にも一度書いた。その上両家の仲を調和させるものに、互いの細君たちの極めてしぜんな潤滑油的な働きがある。そこで私は時どき考える、こういうのもまた今の世の中にあって「善き隣人」の一つの例ではないだろうかと。
 最近もそのSさんに招かれて、例の広い静かな書斎で一曲のシベリウスを聴いて感動した。Sさんのところにはいつでも何かしら新しく到着するレコードがあるらしいが、そういう時しんから自分の気に入ったのがあると、私にも聴かせてその感動を分ち合いたくなるとみえる。だから私も誘いをうければ、宅の門から彼の家の門へと喜んで二十九の石段を登って行く。そして彼の善意と私の期待とはいつでも申しぶんなく満たされるのである。この前のセザール・フランクのピアノ五重奏曲の時もそうだった。私は帰宅するや直ぐに東京の楽器店へ電話をかけて、同じ盤を速達で送って貰わずにはいられなかった。こうして善き隣人Sさんは、音楽の上で私をもまた啓発してくれるのである。
 そこで今度のこのシベリウスの交響曲第六番二短調。この曲は、もしも私の記憶にして誤りがなければ、今までに一度も聴いた事がなかった。『フィンランディア』、『悲しき円舞曲』、『トゥオネラの白鳥』などならば在来のレコードや、あの渡辺暁雄氏の親身しんみな指揮による実演で幾たびか聴いて知ってもいるが、カラヤン指揮、ベルリン・フィルハーモニー演奏のこの第六番は初めてだった。そしてこれを聴いている間じゅう、シベリウスの音楽の雄大な気高い海の潮流に、心の小舟を任せ漂わせているような気がした。
 ああそれならば、老いた私の中にまだ詩の焰はすっかりは消えず残っていたのだろうか! まだ北方の歌に魅せられ引き寄せられる一片の鉄の精神は生きていたのだろうか! 恍惚として、魂を飛ばせて、私はこの三万五千の湖沼の国、北極圏までも拡がる大森林の国、そのフィンランドの清澄な高貴な芸術に、その「カレヴァラ」の神々を蘇よみがえらせた偉大な国民的音楽家の最後の傑作に聴き惚れていたのだった。
 自分に感銘を与えたレコードはどうあっても手許に置かなければ承知のできない私に、翌朝東京へ注文したシベリウスは三日とは待たせずじきに着いた。その交響曲第六番の裏にはハ長調の第七番が入っていた。この事は盤を手に取って見て初めて気のついた私に思いもかけない喜びだった。そして第六番が一応四つの楽章で構成されているのに引きかえて、その第七番、すなわち最後の交響曲は、ただ一つの長い楽章から成っていた。しかも未完成などでは決してなく、実にそれ自体が一個の燦然たる結晶を想わせる完成品で、交響曲なるものに対する作者シベリウスの究極の理想なり信念なりが見事に実現されている畢生の傑作と思われた。
 自分が永いあいだ養われて来、こんにちでもなおその芸術から心の糧を得ているバッハやベートーヴェンは元よりとして、指を折って数えれば二十に余る好ましい音楽家が私にもある。その人々は時あれば現われてそれぞれの美の贈り物で詩人私の貧しい姿を装ってくれる。私はそういう彼らに対して決して忘恩者ではない。それどころか是非ともモーツァルトに待つ時もあるし、或いはシュッツやヘンデルに、或いはシューベルトやシューマンに、また或る時はベルリオーズやヴァーグナーに彼らの助力を乞うのである。この際更にもっと多くの助力者の名を挙げるべきだろうか。しかしそれは読者にとって退屈でもあろうし、私にとってもまた心無い業のように思われるから此処ではやめる。けだし人にはそれぞれ独自の好みもあれば愛もあり、信仰すらもあるからである。
 そういう私にジャン・シベリウスの再認識の機会が与えられた事は、すなわちこの巨匠の芸術の美の真髄を知ることのできた事は、それが自分の晩年の出来事であればあるだけに貴くもあれば嬉しくもあった。なぜならば私の愛する音楽家の中でもこのシベリウスはきわめてユニークな存在であり、しかも詩人としての魂の郷愁が永く求めていた遠い空や地平の拡がりを、彼はおのずから身に体しているからである。私は今あの二つの交響曲から感じた事だけを言っているのだが、六番にしろ七番にしろ、聴く者の胸を躍らせるような突然の屈折も変化も無ければ、激しく迫って来るものも無くていながら、全体の眺めが雄大で寂しく高貴で内省的で、しかもいささかも単調を感じさせず、互いに似通ったように見える循環主題の旋律やその動きにも微妙な変化が与えられ、聴けば聴くほど喜ばしい滋味ある彫琢が施されている。私はこれらの音楽を前にして未だ見ぬフィンランドの春や秋を心にえがき、北緯六十度の男らしい瞑想的な風土と、其処に培われた一人の偉大な芸術家の孤高の魂とを慕わしく思った。
 この上は何を措いてもその交響曲四番五番と、交響詩『タピオラ』とを聴かなければならない。心よ、凡庸な生活の塵を払って待つがいい。また近く北方の非凡な客がお前に来るのだ!

 この夏の休暇を女のほうの孫は大学の卒論の作成に忙しい。しかもその論文のテーマというのが、択りに択ってハインリッヒ・シュッツなのだから鶩いた。ところがその論文の指導教官なる人がすこぶる熱心で、彼女のために何かと世話を焼いたりヒントを与えてくれたりする。私は自分も知っているその女の先生の親切と熱心に内心深く感謝しながらも、何しろ相手がシュッツという難物であり、参考書という参考書がほとんどすべてドイツ語なので、果してどうなるものやらとハラハラしている。しかし当の本人は自信があるのか、まだ日時があるので安心しているのか、普段同様落ちつき払って、小さいお弟子達へのピアノの出稽古も怠らず、家事の手伝いも欠かさずしながら、それでいていつの間にやら部屋へ籠って当面の大事な仕事も続けている。歳も違い性格も違うが、そのエネルギーと意志の強い事には祖父の私も驚いている。しかもその間には二、三の親しい学友を語らって、彼女の言葉に従えば、「一切を忘れた気持で」一連の旅もして来るのである。たとえば最近の霧ヶ峰・美うつくしヶ原・仁科三湖・黒部第四ダム・八方尾根への六日間の山旅というように。
 ニッコウキスゲの黄の花が全山を埋めつくした七月下旬の霧ヶ峰の美観と、和田峠への道すがら登った鷲ヶ峰の景観とが最も彼女らの心を捉えたらしい。その霧ヶ峰では私の富士見時代からの友人高橋達郎が経営しているヒュッテ・ジャヴェルヘ一泊した。高橋夫妻は客の美砂子をその二つか三つの幼児の頃から知っているので、今の姿を見て鶩いたり喜んだりした。そして彼女の一行が皆同じ国立音楽大学の在校生だと知ると、彼自身音楽を(とりわけベートーヴェンを)好きなだけに、その夜の話には花が咲いたようである。その中でもウィーン中央墓地のベートーヴェンの墓碑の前で、偶然にも初めてケンプに遭った話と、一年置いた四十五年の新潟市民会館での再会の話とは、高橋君にとって「終生忘れられないもの」だけに、並々ならぬ熱と愛とをこめで話してくれたと孫娘は言っていた。
 山のホテルやヒュッテの経営について勉強するためにスイスに留学させてある長男に会いがてら、四十三年の三月の末、彼高橋君はオーストリアの首都ウィーンを訪ねた。しかしその主たる目的はベートーヴェンの墓に詣でる事だった。無論今は立派にドイツ語の話せるその長男が同伴だった。彼らは先ずベートーヴェンハウスを見に行き、次いでハイリゲンシュタットを訪れ、最後にウィーンの中央墓地にベートーヴェンの墓をたずねた。午後の五時頃だった。目的の墓は容易に見つからなかった。ところが前方から年をとった紳士夫妻と若い女性との一行が来て擦れ違った。高橋君は息子にその後を追わせて墓の在りかを尋ねさせた。するとその老紳士が道を引き返して彼ら親子をベートーヴェンの墓碑の前へ案内してくれた。ところで高橋君の頭にこの顔はどこかで見た顔である。事によったら大ピアニスト、ケンプではないか。そういう考えが浮んだ。そこで勇気を出して、息子を通訳に、「失礼ですがあなたはもしやケンプさんではありませんか」と訊いた。相手はうなずいた。高橋君は自分達が日本人の親と子である事、若い頃からベートーヴェンを好きで、今漸くその墓に詣でる望みを達し得た事、しかもその墓を教えてくれたのがケンプその人であった事の嬉しさを告白した。ケンプは大いに喜んで自分はウィーンへ来る度に必ずこの墓碑を訪れる事にしていると言った。そして来年はまた日本へ行くから、その時もしも再会する事ができれば嬉しいと言って、同伴の女弟子に碑前の記念撮影をさせた。折柄の夕日の光に墓碑は金色こんじきに輝いていた。
 越えて四十五年の六月半ば、高橋君は四百キロの道を新潟まで車を飛ばしてケンプの演奏会を聴きに行った。そしてホテルにまで呼ばれて嬉しい再会の機会を得た。その夜の演奏曲目の劈頭は高橋君も大好きな『テンペスト』だったと言うが、生憎ヒュッテ・ジャヴェルにはピアノが無くて、その曲を自分の孫から聴かせる事のできなかったのは、私としては残念でなくもない。

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 同族の魂

 凡庸な日常生活の塵を払って、そこへ凛乎として潔いさぎよい北方の空気を招じ入れるために、何を措いても手にしたいと思ったシベリウスの交響曲第四番と第五番とは、東京へ電話で注文すると、早くもその翌日の夕方には速達小包で鎌倉へ送られて来た。
 二枚のレコードはダンボールで厚く鎧われ、きっちりとボール箱に収められ、それを何本かの強い細紐でくくったという、手数もかかれば注意の程も並々でない包装に護られて届いた。そしてそれが先ずわがシベリウスを遇する仕方にふさわしいものと思われた。私は堅く結ばれたその紐を心無い鋏には任せず、丁寧に指でほどき、要所要所に貼られたセロテープの小片も一枚一枚ナイフで剥ぎ取り、さて二枚の厚紙の間から美しいジャケットに装われて現われた二枚を手に取った。いや寧ろうやうやしく捧げ持った。期待の楽しみを長めるために、少しばかり時間は掛けても念入りな包装をゆっくりと解く気持は、多くの人々が味わい知っているところであろう。そして私の場合、今や自分の物として卓上に並んだのはイ短調の第四番と『トゥオネラの白鳥』、変ホ長調の第五番と『タピオラ』の二枚だった。いずれもベルリン・フィルの演奏でカラヤンの指揮である。私はそのわきへ既に持っている第六番第七番の一枚を出して並べた。後日更に手を入れる事になるかも知れぬ他のシベリウスはともかく、今はこの四曲の重鎮で充分だと思いながら。
 北鎌倉明月谷の谷間の空に、鷲、琴、白鳥、冠、牛飼などの星座が涼しく光っている八月の夜、私は心静かに新着の二枚に耳を傾けた。手許に総譜のない事がいささか惜しまれはしたが、それだけに受ける感銘は無垢でもあれば生き生きとしてもいた。事実総譜という物はもっと曲に親しんでからこそ役に立つ物で、或る曲を初めて聴く時にそれを一ページ一ページめくりながら、上から下まで各パートを克明に辿るのは却って害あって益なき事のように思われる。それ故私のような全くのしろうとは、専門家じみた真似をしないで、捉われない心を正直に開いて、先ずその音楽の醍醐味にひたるのが本当であろう。そういう私は、だからジャケットに載っている曲の解説なども、聴いてから後で読むことを常としている。自分の感銘を先ず第一とするために既定見解パルティブリの介入を避けるのである。この耳で聴き、この心で感受する事こそ、音楽鑑賞の本道だと私は信じている。
 その夜初めて聴いたシベリウスの二つの交響曲は、たとえ前もって何らの知識を与えられていなくても、全面的に私の感嘆と讃美とに値する物だった。『第四』にせよ『第五』にせよ、「気に入った」とか「正に同感」とか言ったら無躾であろうが、いずれも私のために作られ、私の心を汲み願いを容れて作曲された物のような気がした。生来のものかどうか知らないが、私は幼い時から自然を愛し、しかもそれが老年の今日に至るまでなお続いている。自然とその美とは私の書く詩や文章の中核となり主題となった。そういう私は自分と同族の魂を音楽の世界にも探し求めた。それは無くはなかった。それは明らかにベートーヴェンの中にあり、更にシューベルト、ヘンデル、ベルリオーズその他幾人かの人々の中にあった。しかし言うまでもない事だが、それらのうちの或る物はこんな私だからこそ感じ取る事のできたもので、一般には際立って問題とされないところだった。しかしシベリウスにはまざまざとそれがあった。否、私からすればそれがシベリウスの音楽の核心であり、骨肉であり、美の根源であった。原始的自然への傾倒とそれへの郷愁。フィンランドという祖国の地によって代表された大自然の精神的な美への郷愁。この究極のものを問題とせずに彼の音楽を論じるのは必ずしも当を得たものではないように思われる。そして私は彼が祖国の神話や伝承文学を主題にしたという『タピオラ』からも『トゥオネラの白鳥』からも同じ事を感じた。音画と言えば音画かも知れず、標題音楽と言えば標題音楽でない事もあるまいが、私としては彼がそういう物を踏まえながら、尚且つ彼にあって抜く事のできない祖国の自然への本能的な愛を其処ヘそそぎこんだものだと思う。
 少なくともこれらの交響曲を聴きながら、どれほど快美な旋律に接しても、どれほど懐かしい歌に出会っても、私にはそれを簡単に「牧歌的」とは言えないし、「田園的」とも形容できない。牧歌的とか田園的とかいう言葉の裏には、ちょうどそれとは正反対な何かしら都会的な想念が影のように付き纏まとっているからである。交響曲第五番の終楽章のコーダを評して、或るアメリカの評論家が「日の出のように荒涼として雄大だ」と言ったそうだが、この荒涼の美こそシベリウスの音楽の、特にその後期のシンフォニーの特質だとは言えないだろうか。私はベートーヴェン晩年のピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲を聴きながら、しばしば其処に魂の秋とも言うべきもの、魂の冬とも言うべきものを聴き取ることがある。そしてシベリウスがすべての作曲家の中でベートーヴェンを最も尊敬していたという事実と考え合せると、自分の感じているシベリウスと北方の自然との深い内面的なつながりの事が、必ずしも勝手な思い過しや独断であるようには思われないのである。
 シベリウスがその本国で最高の名声を博している事は至極当然だと思うが、その彼がイギリスで殊のほか愛好されているという事実には興味があるし、至当だとも思う。その理由は色々あろうが、私としてはこの際何よりも先ず自然に対するイギリス人の愛を挙げたい。由来イギリス人はおしなべて自然が好きである。そしてその自然への感銘から生れた文学も他の西欧諸国のそれとは比べ物にならない程多い。詩にしても小説にしてもそうだが、自然に関するエッセイという分野に到っては、(フランスに於けるアンリ・ファーヴルなどを別にすれば)断然他の国を凌駕している。彼らは不朽の名著『セルボーンの博物誌』の著者ギルバート・ホワイトを持ち、『釣魚大全』のアイザック・ウォルトンを持ち、『遙かな国、遠い昔』の著者で野鳥の大研究家でもあるウィリアム・ヘンリー・ハドソンを持ち、『野外』や『わが心の物語』のリチャード・ジェッフリーズを持ち、更に近年の人としては政治家ファロードンのグレイをさえ持っている。イングランドやスコットランドの古い民謡にどれ程多く自然を歌った物があるかは人のよく知るところである。そういう国民性を受けついでいるイギリス人が、「幼少の頃から自然を愛し、夢想的な性格を持ち、森や湖に遊びに行くことを好み、植物や昆虫を採集することに熱心だった」と言われるシベリウスの人間と音楽とを愛するのは極めてしぜんな事ではないだろうか。して見れば幼い頃から自然を愛して尚こんにちにまで及んでいる私のシベリウスへの愛や同感も、その限りでは、イギリス人の場合同様至ってしぜんな事のように思われるのである。
 洋楽レコードの総目録というのを見ると、渡辺暁雄氏がこのシベリウスの七つの交響曲全部を入れている。今頃になってそれに気がついたとは随分迂闊な話だが、彼がバトンを振っているとあれば是非とも最初のものから揃えて聴きたい。聴いて彼のシベリウス観を知り、彼の血に流れている筈のフィンランドを感じたい。そして出来ればいつの日かその実演を改めて聴きたい。今の心、今の耳で。けだしレコードに頼るのは音楽愛好者の採る第二、第三の手段であって、本当は眼の前での魂こめた実演に接する事こそその念願なのである。聴衆からは全く隔絶された何処かの遠い離れ島か高山の頂から、精巧な機械を通じて放送されて来るようなレコードの音楽とその未来。しかしたとえ幾らかは意に満たないような場合があっても、私はやはり本物を聴きたい。しんから感嘆して熱烈な拍手を送れば、ほほえみはにかみとを湛えてそれに答える演奏者たちと同じホールの中、同じ天井の下で一夜の感激を共にしたい。そんな時の帰りの夜道の感慨が、われわれ一人一人の心をどんなに清め、どんなに深め、どんなに美しくしてくれることだろう。

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 聖母マリアの歎きの歌

 近く出る筈になっている自分の本の事でその出版社との約束を果すために、秋の毎日をきまって五時間机にむかって仕事をしていた。そしてそれが予定通りきっちり三週間目に片づいた時には、さすがにホッとして心の緊張がほどけると同時に急に体の疲労が感じられ、そのままぐったり崩れてしまうような気がした。しかしそれも結局一日か二日の事で、三日もたてば少なくとも気持だけは平常通りシャンとし、やがて毎日の生活の段取りにもふだんと変りが無くなって来た。そして過去の業績の上では到底匹敵すべくもないが、今の自分と同じ年ごろの時、果してヘッセやデュアメルが尚これだけ働いていたろうかなどと、いささか自慢げに、しかし要するに取るにも足らぬ想像をめぐらすのだった。モンタニョーラのヘッセはヘッセ、ヴァルモンドアのデュアメルはデュアメル。たとえ彼らがどんな悠々自適の生活を送っていたとしたところで、そんな比較は問題にするだけ野暮だ。とは言えこれがこのごろの私にとっての自己鞭撻である事は、甚だ幼稚なようではあるが、熟するに晩おそい一人の詩人の偽らざる心境告白として書いて置いてもいいかもしれない。
 そういうある日、私は定期の健康診断をうけるために病院へ行った。ところがその途中のバスの中で、向い側の席に腰をかけて幾つかの大きな実の着いたアケビの蔓を持っている一人の青年を見た。一見工場か何かで働いている若者らしかったが、片腕に捲いたその蔓に二つか三つずつ着いているアケビの実がじつに見事で、灰ばんだ薄桃色のや、もう紫がかっているのや、口を縦に半分あけて白い果肉を見せているのや、まだふっくらと膨れたままでいるのが、小さい枕のような形をして、五枚の小葉から成る緑の掌状複葉の間に美しく重たくぶらさがっていた。車中にはそれに目をつけて、「一体何でしょうかしら」と言うようにひそひそ話をしている買物帰りらしい奥さん連や、「なんだ、アケビか。珍しくもねえ」と言わんばかりにちらりと流し目に見ただけで、腕を組んでそっぽを向いている老職人などがいた。ところがその青年はちょうど私と同じ停留所で降り、道も病院の方へむかって行くので静かな小路こうじを並んで歩く羽目になった。そこで私か「みごとなアケビですね、どこで採ったんですか」とたずねると、「なあに極楽寺の山ですよ。一つ上げましょうか」とその若者は言った。「ありがとう。でも結構ですよ、折角お採りになったんだから」と、私は彼の好意の言葉だけを喜んで受けとって病院の門を入った。それにしても気持のいい事だった。
 そしてその気持よさは尚つづいた。薄紅葉の山を背にした病院では、いつものように皆から口数こそ少ないが温かに扱われた。血圧の調子もよく、どこと言って悪い個所もなく、昔の胃潰瘍の痕跡のレントゲン検査にも及第し、「異状はありません。上々です。お大事に」と言われて、白い物ずくめの診療室やひっそりとした広い待合室を出た。庭にはサザンカが咲き、ムラサキシキブやウメモドキなどの実が美しく、裏手の山では和なごやかな秋の午後をヒヨドリやシジュウカラが上機嫌で鳴いていた。私は医師に言われた「上々です」の一語にすっかり気をよくして、来た時のようにバスにも乗らず、駅前のタクシーにも手を揚げず、そのまま一丁場を横須賀線の電車に乗って意気揚々と帰宅した。その私を玄関に迎えて「いかがでした? 随分お元気そうね」と言う妻に、「ありかと、ご覧のとおり。先生は異状なし、上々ですと言ってくれたよ」と答えて二階へ上がった。いそいそと付いて来た妻が新しい着換えの和服を出してくれた。信ずるに足る病院と我が家とその家族。心身共に健やかでおればこそこれもまた気持のいい事だった。
 毎日規則的に仕事に没頭していた三週間、私はその間つとめて音楽から遠ざかっていた。本当を言うと音楽にとっても自分にとってもそれがいいのである。よしんば三週間とまではいかないまでも、せめて一週間ぐらいは間を置いて聴いてこそこちらには有難味が感じられ、むこうには聴かせ甲斐かあるというものだ。ましてそれがいつでも聴ける自分所有のレコードである場合、聴く楽しみや感動の新鮮さを失わないためにも、尚の事こういう自粛が必要なように思われる。音楽はたまたまの精神的美食であってこそわれわれの心を喜ばせたり、養ったり、富ませたりするが、いかにすぐれた物であろうと、もしもこれが毎日の食卓にのぼるとしたら、人は平気にもなってしまうだろうし飽きもするだろう。生活のためか職業柄、始終音楽を聴かなくてはならない人々が時には感じるだろう或る種の苦痛を、私は充分推察することができる。
 ところで私には、この三週間の仕事が終ったらもう一度ゆっくり聴きたいと思っているレコードがあった。或るレコード会社が試聴のために届けて来たドイツ・エレクトローラの盤で、『現代に生きる中世とルネサンスの音楽』と題された二枚一組の物だった。大体十三世紀から十七世紀前半ぐらいまで盛んに行われていた作品らしく、それをシンタグマ・ムジクムというアンサンブルが演奏し、ケース・オッテンというこれまた色々な古い楽器の奏者でありその団体の熟心な組織者でもあるオランダ人が指揮をしている。マショーとか、オケゲムとか、ダンスタブルとか、デュファイとか、イザークとかいうような連中の名ならば知ってもい、その作品の幾つかは今までにも聴いた事があるが、全体としては初めて耳にする名が多く、作者不明の曲もたくさんあった。その上使われている楽器も色とりどりで、特に管楽器に珍しい物が多かった。そしてそれだけに演奏も華やかで賑やかで、しかも素朴に鄙びているので、聴いていていかにも楽しかった。
 しかしその中で私が真に「もう一度ゆっくり聴きたい」と思っていたのは、実はウィル・キッパースルイスというアルト歌手の歌っている十字架下の聖母マリアの嘆きの歌だった。これは十三世紀に行われていた作者不明のフランスの歌だそうだが、“Lasse ! Que deviendrai je”(捨てて置いて下さい! 私がどうなろうと)で始まる歌は実に純粋で清冽で、何節かに切られた三十八行の長きにわたる歌詞のうち、ただの一個所たりとも装飾音めいたもので飾られていない。そしてその悲痛な嘆きと訴えとは終始凛然とした母性の情に貫かれて、“De tristesse n'eus jamais aucun temps comme aujourd'hui!”(今日のような悲しみは今までについぞ無かった!)の一句で終るまで、夕日を浴びた野中の聖母像のようにI人まっすぐに立っているのである。私はこれを聴きながら敬虔な歌というものの本質に触れた心地がし、日本にもこういう歌を進んで歌う女性が一日も早く出てくれればいいと思った。

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 妻に……

 私の家の横手の山の登り口にハイキング・コースの道標が立っている。すなわち其の地点から一筋の急な山道がはじまり、しばらくして見晴らし台の高みへ出、今度はまた急な狭い石段を下って一つの鞍部へ達し、そこから緩やかな、前よりも楽な坂道を建長寺裏の勝上岳の頂上へ出、そして鎌倉の町をほぼ半円形に取巻いている幾つかの低い山の尾根を上下しながら、天園と呼ばれている眺望豊かな六国峠の高みに立つ事になるが、それで一応ハイキング・コースは終るのである。
 私も今までに幾度か歩いた事があるが、行くたびに少しずつ路が改修されたりして次第に以前の趣が失われてはゆくものの、それでもゆっくり歩いて二時間乃至三時間の山踏みとしては、結構楽しいコースだと言えるだろう。山々の中腹に爛漫と桜の咲いている春は勿論良いし、すべての山の針葉樹の緑にまじってもみじの燃えている秋も良い。特に今年は十数年来珍しい紅葉だと言われているだけに、鎌倉の町全体が燃えるような絢爛さに包まれている。書斎の窓からの眺めに向っただけでも感嘆する男の客やうっとりとする女の客が多く、「本当に良い処にお住まいですね」と羨まれる晩秋初冬のこのごろなのである。
 そのこのごろの二、三目前、私は急に思い立って妻と二人でいわゆる「山踏み」を試みた。妻は若い頃から野山を歩く事が好きなので、「裏山を歩いてみないか」という私の提言に一も二もなく賛成した。まるで遠足に行く少女か何かのように身支度をしたり履物の用意をしたり、留守の戸締りをしたりして待ち構えた。週間日なので家には朝から誰もいなかったからである。
 私達は道標の処から始まる急な山道を登り出した。数日前に降った雨のためにまだ路がぬかるんで歩きにくく、ややもすればすべって手を突いたりした。両側に茂っている笹や木の枝もあまり頼りにならなかった。二人は互いに手を引張ったり腰を押したりして幾個所の難場を越えた。妻は私の手の泥を紙を出して拭き取ってくれ、私はそういう彼女の額ひたいの汗をぬぐってやった。山坂を共に登る老夫婦の相互扶助が此処ではしなくも実現された。息を入れるための休みの時、妻は用意のチョコレイトをポケットから取り出して先ず最初の一個を私にくれ、次いでもう一つを自分で食べた。そして私の取り出す巻煙草にマッチを擦って火をつけてくれる事も忘れなかった。見上げ見下ろす周囲の暗い杉林の中では、一羽のヒヨドリが笑うように鳴いていた。
 戦前東京にいる頃はよく二人で日帰りの山歩きをした。戦後の信州富士見生活では住んでいる処がすでに八ヶ岳山麓の高原だから、何処を歩いても山歩きだったが、釜無かなまし連山や八ヶ岳の一部や霧ヶ峰はもちろん、更に遠出をして常念、燕つばくろ、槍ヶ岳などへも行った。元来植物が好きな女なので、花となると夢中だった。私がじきに忘れてしまう高山植物なども一度見たら直ぐ名を覚えて、何処で見た何という花と即座に答えた。それは私達の森の家をかこむ野草から、槍や穂高の雪渓の縁へりに咲いているものにまで及んでいた。しかし憚りながら小鳥となると私の方が先生だった。小鳥ならば野でも山でもたいがい声だけで聴き分ける事ができた。
 そんな二人がもう互いにそれぞれ歳はとりながらも、同じ博物趣味を分け合って歩いているのだから、つい我が家のうしろの裏山路なのに思いのほかに時間が掛った。「あら、こんな処にカンアオイの群落がありますよ」とか、「今鳴いたのはメジロだよ」とか教え合いながらのゆっくりした登りは、それが実に二人だけでの山歩きゆえ余計に楽しかったし時を要した。するとそういう私達を追い越すようにして下の方から二人の素朴な若い男女が登って来た。そして「天園へ行くハイキング・コースとはこの路ですか」と訊いた。私は「そうですよ」と答えて、少し細か過ぎるくらいにこれからの路を教えたり途中での注意を与えたりした。若い二人は丁寧に礼を言って元気よくどんどん登って行った。若いだけにその足は速かった。「元気なのはいいけれど、もう少しあたりを味わいながら歩けないものでしょうかね」と妻が惜しむように言った。「年寄りは今日という一日を大事にし、若い者はひたすら彼らの行く先に、未来に気を取られるものなんだね」と私は言った。
 漸くの事で尾根へ出ると暫くは丈たけの高い笹薮が続いた。もみじした木々に絡んだ蔓からはアケビの実が口をあけてぶら下がっていた。秋の午前の日光を浴びたその薄い紫の色が得も言えず美しかった。一つ採って食べてみようかと思ったが、余りの見事さに止めにした。あのカンアオイにしろこのアケビにしろ、私達は何かを採るために来たのではなくて見るために来たのだから。やがて二人は見晴らし台へ出た。此処が吾々にとっては今日の一番の高所でもあれば終点でもあった。二人はシーツを敷いて腰を下ろした。眼の下には折り重なった森の間に建長寺の緑青ろくしょういろの屋根が見え、その向うに鎌倉の町並が見え、なおその向うに言わずと知れた相模湾がひろがって、折からの快晴の日の太陽にきらきらと金色に輝いている。伊豆の大島を期待して来たが、それはこの海の照り返しと暖かい霞のために見えなかった。その代り西の方には予想外に高く富士が見えた。その富士はもう半ば雪に被われて、あたかも白い絹雲けんうんのように西の中天に浮んでいた私達はあたりに少しばかり散らばっている紙屑や煙草の吸殻などを小さく纏まとめ、シーツの上に拡げた菓子や飲み物を採った。空や海や山や寺々の屋根の広々とした風景を眺めながらのつつましい食事はうまかった。妻は手帖を取り出して鉛筆を舐め舐め、途中で出会った花たちの名を書いていた。私は遠く和賀江島の入江のあたりを眺めながらぼんやり煙草をくゆらしていた。
 するとこの見晴らしを真直ぐに降って勝上岳や半僧房へと続く尾根の鞍部から、先刻道を教えてやった男女二人の若者が急な石段を急ぎ足で登り返して来た。どうしたのかと訊くと、その鞍部の処で路がわからなくなったので戻って来たと言うのである。ところが其の路ならば此処からもよく見えて、しかも半僧房さえ眼前にある。「なんにも迷う事なんか有りませんよ。あの綺麗な一本道をまっすぐに登ってそのまま歩いて行けば、あなた方の足でなら半僧房へだって天園へだってわけはありませんよ」と励ました。「私達が此処から手を振っているのが見えたら、それが正しい道だという合図だと思って安心して前進なさい」
 二人は前のように丁寧に頭を下げ、再び早足に石段を降りて行った。しばらく姿が見えなかったが、やがて鞍部の処へ姿を現わして、嬉しそうにお辞儀をしたり手を振ったりしながら、教えられたとおり一本道を登って行った。そしてその途中でもお辞儀と互いに手を振り合っての挨拶だった。これが何遍続けられた事だろう! やがて遠いもみじの山の曲り角を最後に彼らの感謝の姿も消えた。私達夫婦はほっとして、もう一度シーツの上へぺったりと坐りこんだ。
 その夜吾々夫婦は二階の書斎で久しぶりに二人だけでレコードを聴いた。それはシュッツの同時代者で、シュッツやシャイトと並んでドイツの三大Schの一人と言われるヨーハン・ヘルマン・シャインの作で、『イスラエルの小さい泉』という宗教的マドリガル集だった。その中に旧約聖書の詩篇第九〇番から採られた一曲があるが、二人はその個所を聴くと顔を見合せた。それは「我らが年を経る日は七十歳ななそじに過ぎず、或は壮すこやかにして八十歳やそじに到らん。されどその誇るところはただ勤労と悲しみとのみ。その去り行く事すみやかにして、我らも飛び去るなり」という句だった。そして同じ詩篇によればその少し先に、「願わくば我らにおのが日を数うる事を教えて知恵の心を得しめたまえ」という一句があったが、その「知恵の心」を持つ事の願いこそ私達にはせめてもの救いの言葉だった。最後に二人はシュッツの『シソフォニエ・サクレ』第三輯の中の「種蒔きが種を蒔きに行った」を聴いた。「殆どすべての種は悪条件のために芽を出さずに終ったが、善い土地に蒔かれた最後の種だけは育ち栄えて百倍もの実を結んだ」というイエスの訓話である。そして昼間の山で見知らぬ若い二人に「道」を教えて、それがどうやら役に立つたらしいという快い思いがこれらの歌を機縁に二人の心に蘇るのだった。

    妻に
  晩おそい午後のひとときを私がなおも机にむかって
  ペンを手に一篇の文章と闘っている時、
  お前は音もなくこの部屋へ入って来て
  静かに憩いと慰めの茶を置いて去る。

  四十幾年の生活を倦みもせずにいそしんで
  お前が常に私のかたわらに在ったということ、
  遠く人生の大河を共にくだった私たちの小舟で
  お前がいつも賢い楫かじ取りであったということ、

  それはお前が私にとっての守護の天使、
  この家と家族にとっての守護の霊だということだ。
  そしてそのお前への深い信頼の中心に
  私は安んじて生の錘おもりを下ろしてきた。

  人々への善意と、自分自身へのきびしさと、
  橈たわむことのない忍耐力とはお前にあっての三つの徳。
  私のたまたまの我執がしゅうの闇を明るく優しく照らすために
  お前は静かに愛と警告の灯を置いて去る。

 

 

 

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 Ⅳ 精神こころの音楽  ――モーツァルト、ベートーヴェンのことなど――  

 

 一日の果ての宵の明星

 もうあたりがすっかり新緑の木々にうずもれ、窓からの空や山の眺めも晴れやかにすがすがしくなった或る日の朝、書斎の絨毯に電気掃除機をかけていた妻が「序でにこれも取り替えましょう」と言って、客用のティー・テイブルヘ敷く小さいテイブル懸けを替えてくれた。その気に入りの布のまんなかへ灰皿を置いて、今年最初の春蟬の声を聴きながら、仕事にかかる前の煙草を一本ゆったりと吸っている時の気持がなんとも言えない。
「気に入りの」と言ったこの小さいテイブル懸けは、十年近い以前に東京で或る若い美しい奥さんから贈られた物である。横幅五〇センチ、縦二五センチ程の長方形でベイジュ色をした刺繡用の布地に、同じ長方形で五線と音符とが縫い取ってある。その縫い糸は濃いチョコレイト色で、卜音記号も調性記号も、速度記号も強弱記号も、何一つ略さずに入っていて全体で二十六小節。そしてそれが私も好きなモーツァルトのホ短調のヴァイオリン・ソナタ、ケッヘル三〇四番の最初の部分である。それをご主人同様モーツァルト好きの奥さんが幾日かを費やして、自分の手でこまかく綺麗に刺繍をして持って来てくれたのである。そしてその技術がすぐれているので幾度かクリーニングに出したこんにちでもなお崩れもせず、糸による写譜が正確なのでこれを見ながらでも間違いなく弾ける程である。私としてはただ単に気に入っていると言うよりも、むしろ貴い物に思って大切に使っていると言った方が本当であろう。
 この曲はモーツァルトへの私の晩おそい開眼の時期に現われて、この巨匠への愚かな偏見を一掃してくれたものの一つである。それまでにも時どき彼を聴きはしたが、ベートーヴェンに取り憑かれていた私は彼の音楽を何か軽薄な物のように独断していた。常に明るく軽快で無邪気ではあるが深みに欠け、胸を打つ沈痛なものや重厚さや、打ちしおれた気持を引き上げ引き立てる激情的・英雄的な力が皆無で、いつでも皆同じ娯楽的なものに聴えた。かつて私は五十歳になって初めてモーツァルトの真の善さ、偉さがわかるようになったと書いたが、そんな歳にならなくてもずっと若い時から彼を愛し、彼の偉大さに引き寄せられている人々が世界の古今は元より、現在自分の身のまわりにも無数にいるのだから、思えば問題外の晩稲おくてだと言わなければならない。若い時ピアノの師に見込まれてモーツァルト弾きになるように熱心に勧められたロマン・ロランの例もあるし、或る一日の日記の銘に「モーツァルト」と大書したヘルマン・ヘッセの例もある。こういう人達がそれぞれ彼らの青年時代からモーツァルトの音楽を愛していたとすれば、ベートーヴェンやバッハヘの傾倒はともかくとして、あのベルリオーズにあれほど血道をあげていた自分にいくらか慚愧を覚える気さえする。然しまた考えようによれば、青年の客気とおのれを生かすためにしたそういう熱烈な経験が、こんにちモーツァルトの真の美を知るようにさせ、この音楽の神の寵児を敬い愛するようにさせたのでもあったと言えるかも知れない。
 さて私をモーツァルトへと開眼させたこのホ短調のヴァイオリン・ソナタに就いて、碩学アルフレート・アインシュタインはその大著『モーツァルト』の中でこう言っている。
「(このソナタは)まことに彼の創造の奇蹟の一つである。感情の最も深い奥底から取り出されたもので、もはや単に交替や対話に終始するのではなく、劇的なものに触れており、やがてベートーヴェンが開くにいたる、あのぶきみ戸口をたたいている。モーツァルトは激情的にはならない。この抑制、つまり秘められた灼熱、そして―――テンポ・ディ・メヌエツトにおける――短く輝く至福、こうしたものも、見かけは《小さな》このソナタの秘められた力をひたすら高揚させるのである。モーツァルトが本当に真剣になるときにはいつもそうだが、ここでも彼は《労作》つまり対位法を使っているが、この場合には対位法によって移行句にアクセントをつけている」。(浅井真男氏訳『モーツァルト』)
 若いモーツァルトの創造の奇蹟、感情の最奥最深の底から取り出されたベートーヴェン的・劇的なものの予感、抑制によって秘められた灼熱と短くてしかも輝く至福……まことに著者の言葉どおりで、私として今更これに付け加えるべき言葉も無い。
 その後私は機会ある毎にモーツァルトを聴きに行き、又レコードも買い集めて今ではかなりの数に及んでいる。そしてそれらを聴くたびに、こんな立派な音楽を、よしんばひたむきな客気に駈られた不条理不公平のためからとは言え、よくも永い間軽視したりなおざりにしたりしていたものだと、自分で自分に呆れるのである。
 ちょうどこれを書いている今、私の傍らに一枚のモーツァルトが置いてある。十数年前の誕生日に、京都大学の教授でスイスの偉大な預言者的思想家マックス・ピカートの日本に於ける最初の紹介者でありその著書のほとんど全部の訳者でもある佐野利勝氏から、祝賀の心をこめて贈られた盤である。ケッヘル四六六番二短調のピアノ協奏曲で、これもまたすでに故人となった大家エドヴィン・フィッシャー自身が指揮をとりピアノを弾いている。そのフィッシャーに邦訳『音楽を愛する友へ』の好著があって、これをまた同じ佐野氏が訳しているという事も奇縁と言えば奇縁である。
『モーツァルトのピアノ協奏曲』という詳細な研究書の著者 C. M. Girdlestoneガードルストーンは、このニ短調の曲を論じた文章の書き出しで、われわれが幼い時に或る同じ物語を飽きもせずに何度でも聴きたがる事を書いている。その物語には子供の心をときめかせるようなクライマクスがあって、その個所が近づいて来ると子供は胸の動悸を抑え、息を殺して聴きながら、しかもその深刻な瞬間のなるべく永く続く事を願うのである。そしてこれはちょうど吾々がこのニ短調に対して持つ気持とよく似ていると言っている。ガードルストーンを読んでここまで来た時彼のしぜんな比喩に同感を持った私は、実は前からこの協奏曲が好きで時どき思い出しては聴いていた。押し寄せる嵐ときらめく電光のような斉奏管弦楽部の悲壮感と、その間を縫って独奏ピアノが哀愁を湛えながら歌っている第一楽章には、ほとんどベートーヴェン的とも言える重厚な男性美がある。可憐から優雅へ、優雅から劇的な壮麗へと進み入るロマンツェの第二楽章は、私などにはこれぞモーツァルトの音楽だと叫ばずにはいられないような独特な美が感じられる。しかも今までの悲壮感や哀愁からきっぱりと抜け出して、管と弦とピアノとがいかにも明るく楽しいロンドを踊り狂う終楽章。約三十分で終るこの曲は、まったくガードルストーンが言った子供と物語の場合のように、ほとんどその全部をそらんじる程に知っていてさえ、尚且つ聴くたびに胸躍るような音楽の一つだと言える。
 モーツァルトの一四番以後のピアノ協奏曲には短調のものがただ二つだけあって、二〇番に当るこのニ短調もその一つだが、もう一つの二四番(ケッヘル四九一)はハ短調である。そして私はこのハ短調の曲を初めて聴いた時、何よりも先ずその第二楽章ラルゲットでピアノが弾き出す二種ふたいろのモノローグの和なごやかな美に魂を奪われるような気がしたものだった。更に木管楽器をことごとく揃えて全面的に活躍させているために、この曲全体が協奏曲と言うよりも寧ろ交響曲を思わせる一層広々とした印象を与えているのに気がついた。アレグレッ卜の第三楽章も実に潑溂としたもので、相次いで現われる八つの変奏の絢爛さには目の醒める思いがした。しかし私などにはこのハ短調とあの二短調とを比較して論じる力などは元より無く、ひたすらモーツァルトの天稟の豊かさに驚かされるばかりである。
 私は銀座の楽器店で美々しく包装してくれたこれらのモーツァルトを、数日後に行く上高地の宿へ東京からのみやげとして持って行ってやるつもりである。毎年の事なので先方でも心待ちしているだろうし、自分としても彼らの喜ぶ顔を見るのが楽しみである。壁暖炉のある玄関のフロアや二階のロビーの大窓のガラス越しに、残雪輝く穂高連峰やせせらぐ梓川の流れを眺めながら聴くモーツァルトがなんと美しいことだろう。小梨平こなしだいらに小梨の花は綻びそめたろうか。いつもゴジュウカラやミソサザイの声を聴くあたりに、もうエンレイソウやイワカガミは咲き出しだろうか。流れに沿ったケショウヤナギ、山の裾や中腹をその柔らかい新緑の雲でうすめるダケカンバやシラカンバ。そこではもうおそらくカッコウやホトトギスが嗚き、ヒガラもコガラもオオルリもコルリも歌い囀っているだろう。一般の登山シーズンにはまだ少し早いから、私を迎える五千尺旅館もほかの宿屋も真夏の時よりは閑散で静かだろう。そしてその雄大な静かな世界でモーツァルトの弦楽四重奏曲や五重奏曲、ヴァイオリン・ソナタやピアノ・ソナタを心も豊かに聴こうというのだ。こうして私の冬から春への仕事のための疲れが癒され、再び新しい元気で仕事にむかう夏が始まるのだ。
 今の私にはモーツァルトの音楽が、一日の果ての宵の明星のように思われる。うしろは賑やかな都会でもいい。しかし前景はちらほらと農家の見える村落の風景。そして静かに暮れてゆく森や林のかなた、遠い山の端にひとり煌々と輝いている宵の明星。よしやその黄金の光は沈んで無数の夜の星座がこれに代ろうとも、あの独特な天体は私の願ういかなる時にも、彼の偉大な無心ととめどもない美の流露とで、この貧しい心を富ませてくれることだろう。

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 一月の三つの誕生日

 正月の元日と二日とは年賀の客で賑おった。早朝自家用車で信州富士見の高原の部落を出発して、土地の野菜やくだものの類を山のように持って来てくれる旧知二十年の四人組の客もあれば、これも自家用車を飛ばして遠くから祝賀に見える子供連れの夫妻もあり、新婚の夫婦も来ればまだ独身の連中も次々とやって来て、宅の女共は妻も娘も孫もその接待でくるくる舞をしていた。私も前々から用意して置いた或る書物を心静かに初読みするどころか、それぞれの客にそれぞれ応対したり一緒に飲んだり食ったりする事で、二日間というものを夢のように過してしまった。その上机に積み上げられた厚い二束の年賀状。それを見ると人間というものが、ふだんから互いにどのくらい無沙汰を重ね合ったり、筆無精だったりしているかを思わずにはいられなかった。しかも私などはその親玉に属する方なのだから、せめてこれを機会に長年の悪癖を改めなければならないと反省した。それにしても去年は年賀状をくれた人が、今年はもうこの世にいないという事はいかにも寂しい。
 三日は思いがけなく朝からの雪降り。この谷を薄うっすりと化粧している初雪である。いいなと思って眺めていると、下の食堂から「安川さんですよ! 安川加寿子さん、テレビ!」と知らせる妻の大声が響いて来る。急いで食堂へ降りて行くとNHK第一チャンネルのテレビが始まっていて、加寿子さんがピアノに向い、江藤俊哉がヴァイオリンを弾いている。瞬間何をやっているのかしらと思ったが、ヴァイオリンの熱情的なスタッカートの主題を聴き、それを直ぐに繰り返すピアノを聴くと、『クロイツェル・ソナタ』だという事がわかった。始まったばかりなのである。この新年に安川さん。しかも曲はベートーヴェン。何というすばらしいめぐり合せだろうと、妻の入れてくれるコーヒーを畷りながら、そして知っている旋律を追いながら、強靭で奔放な第一楽章から、幾つもの変奏が相次いで現われる優美で典雅な第二楽章、そして第一楽章よりも一層放胆で華麗な終楽章まで、あたかも自分が祝われているような思いで聴き続けた。元来がベートーヴェン自身「ほとんど協奏曲のように、きわめて協奏風な様式で書かれたヴァイオリン助奏を有するピアノ・ソナタ」と題した程の曲だから、ピアノが活躍しているのも当然だった。
 さてそれが終ると江藤俊哉が独奏するパガニーニの『綺想曲』からの三曲があり、最後にまた安川さんが独奏でこれもお得意のショパンを聴かせた。『練習曲』の中の変イ長調「牧童」と『バラード』の第四曲。こうして午前九時から始まったNHKテレビの新春演奏会は一時間ほどでめでたく終った。雪はまだ降っていたが、窓の前の庭へは今年初めてのアオジが二、三羽降り、そのまわりにはいつものスズメ共が物珍しげに集まっていた。
 安川加寿子さんとは夫君定男さんとの交友を通じてもうかなり長い識り合いになる。そのピアノについては更に古く、彼女がまだ「草間」の姓を名乗っていた頃から注目していた。加寿子さんはいわゆる名手ヴィルティオーズでありながら世の大家のように心傲ったところが少しも無く、端正で品位があり、誰に対しても常に公平な態度で接している。だから私のような者の出版記念会にもわざわざ出席して、お祝いにベートーヴェンも弾いてくれたし、お宅へ伺えば言葉少なにではあるが親しくもてなしもしてくれる。無論彼女自身のリサイタルにはほとんど常に招待されている。そのプログラムにはモーツァルトやショパンや近代フランスの曲が特に多いが、彼女が時折弾くベートーヴェンも私は好きで、こう言ったら笑う人もあるかも知れないが、どことなくイーヴ・ナットを想わせるものを其処から感じる。
 それから二十日余りは書き残した年賀状書きと、締切り日に追われる幾つかの原稿書きとで忙しい毎日が続いた。頼まれる原稿は概して山や自然や音楽に関する比較的小さい物が多いのだが、一篇ごとに色も形も気分さえも異ったイメイジを頭にえがき、それを規定された枚数に纏めるのだから、思いの外に神経も使えば手間もかかる。そしてその間にも来客が無いわけではなく、おまけに夜はレコードを聴くか本を読むかして、原稿は決して書かない事にしているから仕事の進行はつい遅れる。しかしこうでもしなかったら、私という人間がただの原稿書きで終ってしまうだろう。
 一月の二十七日は、寒くはあるがよく晴れた美しい朝だった。しかも色々と善い事や面白い事のあった一日の朝だった。まず食事をしていると一番便の速達で小包が一個届けられた。以前私達の住んでいた東京玉川上野毛の桜井元さんという人が、花盛りのスノウドロップ数株を送ってよこしてくれたのだった。桜井さんは昭和四十四年に出版された『草木抄』というきわめて興味深い書物の博学な著者だが、私が或る雑誌にその書評を書いた礼心に送ってくれたのである。さっそく返礼の電話をかけると、あれはギリシャの東部の産で、同じスノウドロップでも早く咲く種類だという事だった。私同様植物好きの妻は、さっそく水苔と腐植土とで三個の鉢へ柔らかに植えこんで暖かい部屋へ並べた。在来の日本の物よりも花に気品があるように思われた。
 そのうちに下から上がって来た孫の美砂子が、自分のピアノの弟子で再従姉妹またいとこに当る小学二年生のレコードが出来て来たから聴いてやってくれと言って持って来た。最近吉祥寺だかの公民館での発表会の折に好評を博した演奏だそうで、曲はベートーヴェンの『ソナティネ』だった。なるほど先生の美砂子も認めるように子供としては中々しっかり弾いていた。幼い西にし桂子けいこよ、お前が最初に身も心も打ち込んだそのベートーヴェンを、これからの長い長い生涯かけて忘れないように!
 桜井さんのスノウドロップだの、桂子のベートーヴェンの事だのを心覚えに書いて置こうと思って日記帳をひろげると、これはまたどうだろう! 今日という日の欄外のところに「モーツァルト生れる」と印刷してあった。私はびっくりした。そしてもしや間違いではないかと思って二、三のモーツァルト伝で確かめると、正にそのとおりだった。すると途端に頭に浮んだのは九州の門司に住んでいる私の愛読者でBさんという女の人の事だった。顔も知らず年齢も知らないが、美しい筆蹟で懇ねんごろな手紙をくれたり、時どき同地特産の品などを心にかけて送ってくれる人である。その人が最近寄越した手紙の中で、自分がどんなにモーツァルトを愛しているか、どんなにモーツァルトの音楽(殊にその歌劇)から慰められ生き甲斐を感じさせられているかをこまごまと述懐して来た。それを思い出したので私は彼女を喜ばせようと、すぐに北九州市門司区の彼女に宛てて電報を打った。『キョウハモーツアルトノウマレタヒデス「カマクラ」オザキ』という文言で。タソジョウビだと八字になるから、三字倹約してウマレタヒとしたのである。電話でこれを受けつけた大船電報局の局員は、私からその話を聴くと、職務外ではあるが、気持よく同感した。(付記。その三日後に九州から速達で来た綺麗な絵葉書には、「モーツァルト生誕日のお知らせ有難うございました。電信、嬉しさと感謝の心一杯で拝受しました」とあった)
 午後二時からは小金井の串田孫一君と電話による自然対談というのをやらされた。或る園芸関係の雑誌の企画で、武蔵野と湘南に住む私達二人に今頃の互いの家の周囲の自然の話をさせて、それを録音して原稿を作るというのである。やがて直線距離四〇キロの冬の空間を隔てて串田さんの柔らかいバリトーンの声が聴えて来た。彼は最近庭へ造ったフレームの事だの、その中に咲いている幾種類かの花の事だのを話した。私はちょうど今朝から咲き出した庭の白梅の事や、十幾鉢の椿の事や、桜井さんからのスノウドロップの事や、今も庭へ来ている小鳥達の事や、おまけとして今日はモーツァルトの誕生日だという事まで話した。そしてその夜私はレコードで、この巨匠の最後の三大交響曲の一つ、卜短調の第四〇番を聴いた。
 一日置いて二十九日。今日はロマン・ロランの誕生日である。妻は古いオルガンの上の肖像に最もよく花の着いた梅の一枝を供え、私は彼の日記から一九三六年七十歳の誕生日の一文を記念として翻訳した――
「今私は自分の七十年の長い道程を回顧している。そしてその旅の途上では意識しなかったような明るさで、この巡礼のあいだ絶えず自分の道案内であった思想、すなわち次のような二様の思想を見ている。第一のそれは生ける万人との共同一致の思想であり、時代を貫き、民族や国民を貫く人類合一の深遠で永続的な観念である。第二のそれは思想と行動との不可分性についてである。たとえ子供の頃から魂や詩や音楽の源泉に深く感動させられて来たとは言え、私はあの高慢な象牙の塔の中への逃避を決して自分に許さなかった。私は芸術の為の芸術を軽蔑し、おのが餌食を物欲しげに見る王蛇ボアのようにとぐろを巻いている思想を軽蔑する。思想は地球の胎内から生れ出た河である。その源泉は決して充分深くはないだろう。しかし一度ひとたびその源泉から迸れば、流れて止まぬ河は山野を貫いてその大道を切り開かなければならず、大地を潤してそれを豊かにしなければならない。行動を伴わない思想。それはすべて流産か裏切りである」
 そして明後日あさって一月三十一日はフランツ・シューベルトの誕生日、更に敢えて言わせて貰えば私自身の誕生日でもある。モーツァルト、ロラン、シューベルト。この人達から養われなかったような自分の生涯を、今の私には到底想像する事さえできない。

 

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 善き音ずれ 

 柔らかい南の風と暖かい日光とをもたらす移動性高気圧に被われて、今日はこの関東南岸の鎌倉も、ついに春の袖をしっかりとつかまえたかと思われるような麗らかな一日だった。
 家のまわりでは朝早くから頬白、四十雀、鶯、鵯ひよどりなどが鳴いているし、梅の終った庭では連翹れんぎょう、土佐ミズキ、伊予ミズキたちの黄色い花も盛りだし、一株一株の名が未だに覚えられない程数多い鉢植えや地植えの椿も、それぞれ特徴のある枝ぶり木ぶりを、それぞれの色や形の花で重たそうに飾っている。それに垣根のクレマティスの蕾もだいぶ膨らみ、東京の家の庭から持って来たライラックも、四年目の今年はどうやら私達の目を喜ばせてくれそうな気配である。昨夜食堂のカーテンにとまっているのを発見して戸外そとへ放してやった褄黄蝶つまきちょうも、けさはまだ遠く飛び去らずに、庭の隅の花大根の桃いろの花にとまって、その美しい翅の表や裏を見せている。思えばこれもまた再び訪れた春の袖ではないだろうか。
 こうした平和な一日も終りに近い午後七時、私はNHKの教育テレビにスイッチを入れた。この時間にモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ(ケッヘル四五四番)の演奏があるのを新聞で承知して、昼間のうちから楽しみにしていたのである。ヴァイオリンは海野義雄、ピアノは小林仁。今の日本ではまず申しぶんのない組み合せと思われた。同じ曲のレコードならばグリュミオーとバスキルのを持っているが、好きでいながら久しく聴かずにいた処へこの「善き音ずれ」だから、いにしえのシオンヘのそれのように喜び迎えずにはいられなかった。なぜならばヘンデルは彼の『救世主メサイア』の第一節で、アルトのアリアにこう歌わせているではないか――
  
  O thou that tellest good tidings to Zion,
  get thee up into the high mountain:
  O thou that tellest good tiding to Jerusalem,
  lift up thy with strength;

「おお、なんじ善き音ずれをシオンに伝うる者よ、高き山に登れ。おお、なんじ善き音ずれをエルサレムに伝うる者よ、力も強く声を上げよ」と。
 いろいろな距離や角度で映し出される二人の演奏ぶりに好ましく見入っている私に、重音奏のヴァイオリンとそれを追うピアノとの静かな序奏が終っていよいよアレグロの主題が進み出るとそれからはもう全くモーツァルトの世界だった。渚なぎさの波の戯れと言うか、光に酔った花々を縫って吹き去り吹き帰る風と言うか、その他どんな想像も連想も許されながら、しかもそれがすべて耳に新しく目に珍しかった。あらゆる空間が弦と鍵の賢いしらべで粧われ、一緒になれば強く豪華に、離れればそれぞれに澄んだ晴れやかな歌を歌った。しかもどんなに魅力ある旋律もわれわれの心に嘆息や佇立の暇を与えず、変容に次ぐ変容をもって卓抜な音楽的空間を形成し終るのである。同時にこの事は終楽章のロンドについても言えた。それはアルフレート・アインシュタインの指摘しているように、「主題の中に、中間和声部の中に、また幾たびかの主題再帰の中に、常に新しくて人を幸福にする不意打ちをもたらす」。そしてアンダンテと言うよりも寧ろアダージョと言うべき第二楽章の、あの平和な輝きと真摯な情緒の深さとは、実にこれらの前後のアレグロに挾まれていよいよその効果を深めているのである。
 私はこの夕べのリサイタルで味わった美しい感銘の思い出として、また二人の演奏者に対して抱いた好感のしるしとして、机上のポール・ランドルミーの『シューベルトの生涯』から、当時十九歳ぐらいだったと思われるシューベルト自身のモーツァルト礼讃の手記を訳してみた。そしてそれは一つには今年音楽大学を卒業した孫娘へのためでもあった。勿論シューベルトはこの手記を彼の母国語で書いたに違いないが、私のはそのフランス訳からの重訳である。
「今日という日は私の全生涯を通じて、明るい、輝かしい、すばらしい一日として残るだろう。モーツァルトの音楽の魅するような音が、私のために記憶の遠方で今も尚なんと優しく響いていることか! シュレジンガーの見事な演奏がわれわれの心にあの音を浸透させたのだ。そうだ、われわれの心の奥底まで、信じ難いほどに力強く、次いであんなにも優しく。時々場処の変化にも消される事のないこれらの美しい感銘はわれわれの魂の中にとどまって、われわれの生に対して有益な働きを及ぼすのだ。この音楽はわれわれの生活の暗黒の中に一つの燦然として明るく美しい未来を、われわれが信頼をもって待ち望んでいる未来を現わして見せる。モーツァルトよ、不滅のモーツァルトよ、君はこの世の生活よりも更に善い輝かしい生活のありがたい感銘を、どんなに、おお、どんなにわれわれの魂に与えてくれることだろう!」
 その頃シューベルトの家では、夜になると、父親やその友や彼自身の友人達が集まって、本職とアマチュア合同の演奏会を開くのを慣わしのようにしていた。随分楽しい集まりだったらしく、シューベルト自身もベートーヴェンのピアノ曲を弾いたり、ゲーテやシラーの詩につけた新しい自作の歌を歌ったりした。彼は又よく町へも出かけて、友達と集まったり音楽を聴いたりして興奮して帰って来た。私が引用したモーツァルトについての手記もこういう時に書いた物のように思われる。それにしてもこの手記の文章を読み返しながら、私自身詩作に心を打ちこみ始めた若い頃に、果してこれほど真に純情であったかどうかを考えてみずにはいられなかった。世上の噂や左右の思わくに頓着せず、おのれの信じ愛するところを怖めず臆せず公言したり実行したりする事がどれだけ私に出来たろうか。幼稚のように思われる事を恐れて言いたい事も言えず、書きたい事も書かずに終った覚えは無いだろうか。また一方では怜悧な世渡りや恥を知らない自己顕示を極度に賤しんだ私か、そのために文学の世界で幾多のいわゆる「損」をしなかったであろうか。しかしただその代償かのように、この世における愛すべきものを愛し、敬うべきもの貴ぶべきものを尊重し、人間や自然や芸術からそれぞれの美を見出して、貧しい心や魂を養うことが出来だのはこの上もない幸福であった。

 

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 高き潮のごとく

 いずれも日限のある仕事として、カロッサとその詩の本質についての文章や、自分の訳したデュアメルの『わが庭の寓話』の中の一篇ごとにそれぞれ多少関連のある随想を書く事や、上高地田代池への初夏の散策の思い出などを書き上げた末、更に或る近刊の本のためにその箱や背の文字を揮毫し、その上自著の詩集百冊近くへ署名をすると言ったような用事を済ませると、十日ほど毎日続いた労働のためかさすがに私も疲労を感じた。それでもこれから一日か二日はのんびり出来ると思うと気分が晴ればれとして、机の周囲をきれいに片づけ、西の山あいの夕映えの空を窓の向うに眺めながら、いつだったか聴いた事のある何とかいうアルト歌手の歌を思い出して、同じドヴォルザークの『歌曲集』から古いリード・オルガンを相手に二つ三つ歌ってみた。勿論もう声も駄目だし思ったように歌えもしなかったが、それでもあの美しい旋律に導かれて敬虔な歌詞を辿って行くことは、時が時だけに静かな喜びでもあれば心の潔きよめでもあった。
 あくる日は休養の第一日、どこへ行こうと何をしようと思いのままである。久しぶりに東京へ本かレコードを探しに行こうか、極楽寺に住んでいる若い友を誘ってこの鎌倉でもまだ知らない山道を歩こうか、それとも妻や娘の手助けに庭の植木の世話か家のまわりの草むしりでもしようかと考えたが、兎角する内に遠方からの思いがけない客の訪問があって遂に一日が潰れてしまった。しかしそうは言っても朝は良かった。特別の場合でないかぎり午前中から音楽を聴く事を慎んでいる私が、その朝だけは平生の自戒を破ってレコードを聴いたのである。それは前々から暇があったら一番いい条件の下でゆっくり聴こうと思っていた音楽で、すなわちモーツァルトのピアノ協奏曲第二五番、ケッヘル五〇三だった。
 スイッチを入れる。盤が廻りだす。アレグロ・マエストーゾの堂々たる第一楽章が始まる。身も心も自由な朝を祝福されたものにしたいと願う気持に、これ程ぴったりと当て嵌まる音楽がほかに有ろうとも思えないような雄大ないさぎよい出発の歌である。管弦楽による長い導入部がやがて終ると、今度は思いのほか力を抑制したような独奏ピアノが彼の主題を歌いはじめる。それは森の木立とその間をよぎり飛び交う蝶か小鳥の姿を連想させて、豪壮と優美とのイメイジを豊かに描く。豊かと言えば第二楽章のアンダンテ(むしろアダージョ)もそうで、ピアノの旋律は管弦楽の織り成す装飾楽句と得も言えず微妙にからみ合って、この楽章の豊麗さに寄与している。しかしそこに微塵の放逸もなければ遊びも見られず、終始威厳と抑制とが保たれているように思われた。そしてこの事は終楽章の楽しいアレグレットについても言えた。幾たびか行っては帰る口ンド主題とその変奏の華やかな面白さにも拘らず、この音楽の根底を確固と把握している作者の心はどんな思いつきにも迷わされないで、飽くまでも整然とした彼の最初からの構想を崩すことなく貫きとおしている。そして同時にこれは私にとって一つの教訓でもあった。言葉の芸術に永く奉仕して来ながら、時あって気を許せば細慮を欠いたペンの動きに身を任せかねない私にとって。
 夜の十時から一時間ほど放送されるFM東京の「リコーダーの魅力」という番組のために、服部幸三さんとの対談を頼まれて東京まで録音に出かけた時の事も書いて置きたい。その番組に特に私のような者を指名したのはどうも服部さん自身らしいが、それは私が時どき真似事のようにこの竪笛たてぶえを吹くのを風の便りに知っておられたからであろう。いずれにしても東京芸術大学楽理学科の教授であり、私も入会している国際ハインリッヒ・シュッツ協会の日本支部長であり、普段からその学識と穏和な人柄とに尊敬やら好意やらを抱いている服部さんと、このごろ頓とみに聴取者の多くなったと言われるそのFM東京の番組で対談をするというのは、恥ずかしくもあるが又一面うれしい事でもあった。
 その録音の日、肝腎の場所である虎ノ門付近の地理に暗い私を案内してくれたのが、これまた最も人を得た串田孫一君だった。あらかじめ電話で打ち合せをして置いたとおり銀座の或る画廊で一緒になり、そこで少しばかり時間をつぶし、それから地下鉄へ乗って彼もまた用事があるというFM東京の録音所へ連れて行ってもらった。場処は或るビルディングの三階だった。こんな事にもまた不馴れな私に対して、手を取って教えるように串田君がエレヴェーターのボタンを押してくれた。串田君は元来こまかい処までよく気の付く人だが、特にこのごろは歳を取った私をそれとなくかばったり、身のまわりの事にも何かと気を配ってくれるのである。そのせいかディレクターの池田という人も万事丁寧にもてなしてくれた。狭い録音室にはたった今別の録音を済ませたという服部さんも来ておられた。普段はそれほど懇意な間柄でもないのに、心の中では既に互いに充分親しみを持っているせいであろう、これからする対談の打ち合せもそこそこに、あとは色々と楽しい話で録音開始までの時間をつぶした。その間マイクロフォンの前にコーヒーが運ばれたり煙草を吸う事ができたりしたのは、NHKなどではちょっと考えられない事だった。そしてこういう「郷ごうに入った」事のない私は喜んでその郷に従った。
 番組が「リコーダーの魅力」だから、私は自分の好きなガンのジャン・バティスト・ルイエのレコードを持って行った。服部さんはウィドマンの舞曲集とヘンデルのソナタとを選んだ。二人の対談を中心にこれらの清楚な音楽が演奏されるわけだが、「なるべく寛くつろいで自由にお話し下さい」とディレクターが言うので、私は服部さんから問われるままに自分とリコーダーとの抑そもそもの出会いから、それを串田君に引合せて却って向うの方が忽ち上手になってしまったいきさつを穏やかな口調で話した。すると服部さんがそれをまた柔らかに受けて、二人の対話は「バロック音楽をあなたに」の総題にふさわしい家庭的な情味を醸かもし出した。しかしその間にリコーダーというこの古い楽器についての服部さんの砕けた説明のあった事は言うまでもない。そういう話と音楽とをガラス窓一枚隔てた隣室で、串田君は終始まじめに聴いていた。時どきは微笑を浮べて。そして私にとってはそうした彼の存在が力でもあれば助けでもあった。しかもその串田君は私の帰りを東京駅の横須賀線プラットフォームまで送ってくれ、おまけに留守宅へ電話をかけて私の電車の発車時刻を知らせるという労をさえとってくれた。お蔭で北鎌倉の駅には懐中電灯を持った長女が迎えに来ていた。
 さてこんな事をくどくどと書き列ねたのも、音楽を介しての私の求道を、どんなに多くの人々がそれぞれの仕方で助けてくれているかを述べたかったからにほかならない。否、音楽を介してばかりではなく、他のものを介しても道を求める私に常に誰かしらが助力している。その厚意に何をもって報いたらいいのだろうか。それには唯一つしか道は無い。すなわち彼らにならって私自身今よりも一層親切に、一層身をつつしみ、一層人間の名に値するように残りの日々を生きる事である。

 五月二十八日には友人安川定男君の夫人加寿子さん自身の招待で、彼女のピアノ演奏三十周年記念のリサイタルを聴きに上野の文化会館へ行った。どの階も聴衆で溢れるほど満員の盛況だったが、その賑やかさの中にどこか雅みやびた知的な雰囲気の感じられたのは私の贔負目ひいきめのせいばかりでもなかった。何年ぶりかで逢うような友人や知人も多勢来ていた。そして逢う人ごとに私の肩に手を置いたり健康を祝してくれたりした。これも詮ずるところ当夜の女主人公のおかげだったと言わなければなるまい。
 森正氏指揮のNHK交響楽団を向うに廻して、加寿子さんの弾く曲目はモーツァルトとショパンとモーリス・ラヴェルのものだった。いずれもピアノと管弦楽のための協奏曲で、モーツァルトはイ長調のケッヘル四八八番、ショパンはヘ短調の作品二一、ラヴェルは『左手のためのコンチェルト』だった。
 モーツァルトの協奏曲は、つい先頃その五〇三番をレコードで念入りに聴いたばかりだったので余計に興味が深かった。特に第二楽章のアダージョの諦念の世界から、「あたかも新鮮な風と陽光とが憂鬱な暗い室内ヘサッと流れ込むようだ」とアルフレート・アインシュタインが書いている第三楽章のロンドへの輝かしい転変が、ふだんは典雅で物静かな安川加寿子さんがたまたま見せるであろう青春への潑溂とした回帰のように、聴く者の夢想を突如破ってその胸をときめかさせた。そして続くショパンは無論彼女の得意なものには違いないが、私としてはそのモーツァルトをもっと度々、もっと幾つも聴きたいと思った。
 しかし最後のラヴェルこそはまこと其の夜の圧巻だった。舞台一杯になるほど人数を増した大管弦楽団を相手に、始めから終りまで左手だけで弾き去り弾き来たるその華々しくもすさまじい妙技には、これもまたあの人の芸術的興奮のもう一方の真相だったかと、今更のように驚きもすれば感奮もさせられる最高潮の場面だった。こう言っては憚りもあるが、私は聴く耳だけでなく、視る眼を持っている自分がありかたかった。

 

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 二人の女友達とモーツァルト

 今日もまた終日の快晴が約束されたような初冬の昼前。二階座敷の仕事机には暖かい日がよく当って、その片端に置かれた一個の小さい植木鉢が二輪三輪、紅と白との可憐な花を開いている。娘の栄子が知り合いの奥さんから分けて貰った物だそうで、彼女はそれを花カタバミと言っていた。ところが二、三冊の植物図鑑で調べてみるとどうも少し違うようで、タクワカタバミと言うのが本当の名らしく思われた。しかしそのタクワの意味が私の持っている図鑑では判らない上に、語調も変だし花その物の愛らしさにも似つかわしくないような気がするので、われわれの処ではやはり花カタバミという名で呼ぶ事にしていた。そして今その花が、すでに開いていたものはいよいよ大きく美しく、筒形の蕾であったものも、三枚ずつに分れた柔らかい緑の葉の間から気持良さそうに頭をもたげて開きかけている。植物のそういう様子を見ていると、私はいつもそうであるように、太陽の光や熱のありがたさというものを、今でもつくづく思わずにはいられない。そして自分の遅々としたペンも、別に急がないでいいから、こういう穏やかな佳き日の下で順調に進んでくれるようにと願うのである。
 時どき花に眼をやりながら仕事のペンを動かしていると、下の食堂や部屋のあたりに何やら賑やかな声や物音が聴える。どうも孫の美砂子の処へ約束の友達というのが訪ねて来たらしい。そしてその接待のために家の女達の活動が開始されたらしい。美砂子のその「お友達」というのは彼女の同級生で、彼女が楽理専門なのに引き換えて先方はピアノが専門である。しかし美砂子は又別に小さい時からピアノもやっているので双方の気が合うとみえて、前々からの約束で今日はモーツァルトの『二台のピアノのためのソナタ』を二人で弾こうという事になっていた模様である。そして第一ピアノを客である友達が弾き、第二を美砂子が受け持つ。そう言えば数日前から下の音楽室で練習しているこの孫の楽器の音が時どき微かに聴えて来たものだった。
 もう花カタバミはすっかり開いて、全部で五輪になっている。白いのも紅いのもそれぞれ五弁から成る花の底に淡い黄色味を帯びて、それがいかにも匂やかに優しい。こういう花に飾られた小さい鉢は正午の日光をいっぱいに浴びて生気ひとしお盛んである。これから下で娘達が二台のピアノの合奏を始めるとすれば、私の机の上の彼らも五輪の花の合奏をするというわけであろう。私はそんな空想をしながら、それでもいつものように重いペンを動かしている。敢えて言えば数日前から続けている山に関しての随想である。古いノートをひろげて鳥の記憶や花の思い出、森の静寂や残雪の光の事。とり立ててむずかしくはないが、文章全体に或る工夫を加えたので、それが面倒と言えば面倒で、ペンの進みの特に遅いわけも其処にある。いつもの例でこんな時には一切の文学書を身のまわりから遠ざける。先人の書いた物に似通ったり、其処から何かヒントを得たように思われたりするのが厭だからである。その代り綺麗さっぱり片づけられた机の上には、すなわち燦々と初冬の日に輝いて唯一つ花カタバミの鉢がある。
 やがての事に下では女達の昼の食事も終ったらしく、今まで賑やかだった笑い声や話し声がひっそりとしてくる。妻がこっそりと二階へ上がって来て「どうやら始まりそうですよ」と言う。私は娘達が固くなったりあがったりしない為に自分だけは此処にいて、ただ音楽室のドアをあけて置いてくれるように頼んだ。
 五分。或いは六分。突然フォルテのユニゾンが鳴り響く。モーツァルトのケッヘル四四八番『二台のピアノのためのソナタ』が、アレグロ・コン・スピリートの第一楽章で開始されたのである。私は急いで花カタバミの鉢と一緒に一層よく日の当る場所へ移動する。この力強く闊達で華麗な音楽は、あまねく輝く日光の下でこそ聴くにふさわしい物だと思うからである。華々しい経過部とドルチェの第二主題。第二ピアノの受け持つこの第二主題の爽やかな事は恰もそよかぜのようである。そしてそれが二台のピアノによって模倣され、再び華やかな経過句に結合する。私は傍らの楽譜を捨てて、それから先はアンダンテの次楽章からモルト・アレグロの終楽章まで只うっとりと聴き惚れていた。そして此処が立派な広い客間や公の演奏会場でなく、小山に囲まれた谷の中腹の小さな我が家であり、そのモーツァルトの演奏者が自分の孫とその女友達である事を思うと、言い知れぬ幸福感に打たれるのだった。
 モーツァルトはこの曲を一七八一年、ヨゼフィーネ・フォン・アウルンハンマーという女弟子のために作ったのだと言われている。そしてその初演も彼女の邸で行われて好評を得たという話である。又それより三年後の一七八四年には同じく女弟子であるバルバラ・フォン・プロイヤーの邸で彼女と共に演奏した。そしてその時は著名な歌劇作曲家のパイジェルロも列席したと言う。してみると此の曲は師と弟子、或いは仲の善い友人同士で演奏するのが最も当を得ているように思われる。私の持っているレコードでも第一ピアノをバドゥラ=スコダが、第二ピアノをイェルク・デムスが弾いている。元来が協奏曲風な性格を備えているこの作品としては、こうした人間関係が最もふさわしいのではないだろうか。
 二人の女友達の音楽はやがて終った。もう太陽もつい眼の前の山の陰に隠れて、その上の空の海には金色がかった青い色が拡がった。そして私の花カタバミもおもむろに花弁を閉じていた。私はこの優美な、しかも潑溂とした花に Oxalisオクサリス Mozartianaモーツァルティアーナという学名を与えたかった。ひそかに。

 明月院のアジサイには未だすこし時季が早いが、それでも宅の庭では白花のが咲き出し、幾株かのバラを初めとしてさまざまな草木の花が狭い空間を輝かしたり彩ったりしている五月の或る日、珍しくも串田孫一君の訪問をうけた。東京では会などで最近時どき会ってはいるが、この鎌倉の自宅に彼を迎えるのは実に久しぶりの事である。その串田君は、「或いはもうお持ちかも知れませんが」と言いながら、一枚のレコードをおみやげに持って来てくれた。モーツァルトの『ロンドンのスケッチブック』のうち未完成の分を除いた全三十九曲を入れたもので、その全部を小林道夫氏がチェンバロで弾いている。私はまだ持っていないので心から友に感謝した。串田君もまた私の喜びに満足した様子だった。そして二人して早速その片面を聴いた。少年モーツァルトがその父親と姉との三人で、パリ、ロンドン、オランダなどへ演奏旅行をした八歳から九歳頃までの自作を集めたものだが、何処やらたどたどしくて幼く愛らしい中にも、音楽の神の寵児たる本質は早くして既に随処にその鋒鋩を現わしている。そしてこの珍重すべきレコードは、恐らく世界でも最初のものだろうという事だった。
 二人は続いてモーツァルトの事や音楽全般についてたくさん話した。その話の中で、今串田君がいちばん聴きたく思っているのは中世、ルネサンス、及びバロック時代のフランス、イギリス、イタリア、ドイツなどの、余り広く知られていない音楽だという事だった。これには私も全く同感だった。ただその種の音楽が余り演奏されず、歓迎もされず、従って録音もされていないのが残念だった。そしてそういう処へ小林道夫氏のようなバロック時代や古典初期の鍵盤音楽の名手が現われて、進んでこういう道を切りひらいてくれる事はありがたかった。彼はモーツァルトを愛してそのピアノ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ・トリオ、オルガンによる教会ソナタの全曲を演奏している。そして今又此処にこの『ロンドンのスケッチブック』である。私と串田君との意見はこの点でも合致して、今後も蔭ながら彼の活躍と健在とを祈る事にしようと約束した。
 串田君はこれから家へ帰って、今夜は新刊の自著の特製本のために百何十枚だかの署名をしなければならないという事だった。それで私は彼を北鎌倉の駅まで送って行く事にした。友はまだ賑やかにカエルの鳴いているこの明月谷の小さい自然を称讃しながら、今彼自身の住んでいる小金井付近の日毎年毎の変り方の烈しいのを嘆いていた……ところが何という奇縁だろう! 彼を見送って帰って来ると、私のところへも近く刊行される自著『晩おそき木の実』の特製本への署名のために、厚い見開きの用紙が百数十枚ドカリと郵送されていた。詩文集の第九巻である。
 その夜私が家族の者たちと一緒に初々ういういしい少年モーツァルトを、小林道夫氏のチェンバロに導かれて楽しく聴いた事は言うを俟たない。

 

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 ヴィルドラックの死

 ちょっと面倒な一篇の文章が書き上がった安堵と、そのためのさばさばとした気持とで、この夏の或る日私は銀座の楽器店ヘモーツァルトの『フィガロの結婚』を注文し、別の外国レコード輸入商ヘシュッツの『宗教的合唱音楽ガイストリッヒェ・コーアムジーク』の一揃いを、孫娘の行っている学校まで届けてくれるように依頼した。そしてそれぞれ丁寧に包装されたそれらの音楽的な荷物は、郵便配達夫と孫の手とで事もなく届いた。しかしその同じ日に配達された新聞紙上で、友人高田博厚の書いているシャルル・ヴィルドラックの死去の報にびっくりし、しばらくは暗然として到底待望の荷物をほどいて見る気にはなれなかった。死因は急性腎臓炎で、高田が日本へ帰った翌々日の昭和四十六年六月二十八日、突然シュザンヌ夫人の胸にぶつかるように倒れかかって息絶えたのだそうである。享年八十九歳。年に不足はあるまいとは言うものの、あんな善い人には叶う事ならもっと生きていて貰いたかった。私は生前に彼から贈られた数枚の写真のうち一枚を書斎の棚に飾り、自分の持っている彼の著書全部をその左右に並べ、庭から切って来た花を供えて冥福を祈った。そしてその夜、彼が好きだったろうと思われるガブリエル・フォーレの『鎮魂ミサ曲』を静かに聴いた。
 飾った写真には「私のきわめて親しい友らであり、甥であり姪であるオザキ・キハチとミツコに」と書いてあり、署名と共に一九二九年と記されている。思えば四十数年前のものである。並んだ本には『愛の書』や『絶望者の歌』や『見つけもの』のような詩集があり、『商船テナシティー』、『ミシェル・オークレール』、『巡礼』、『ベリヤル夫人』、『いさかい』のような劇作集があり、『薔薇の島』や『植民地』のような少年向きの読み物があり、更に『日本への旅』や短篇集『こだまを追って』などがある。どれもこれも彼の美しい人柄や優しい顔や魂を心に蘇よみがえらせながら幾度も読み返した本である。もしも今の私に少しでも彼に似た処があるとしたら、それは大半その人の感化だと言える。それにはもともと互いの性分も合っていた。忘れもしない、あの『見つけもの』を初めて或る日本の女の人の美しい訳で読んだ時、私は世界にもこんな本が有るものかと驚きかつ喜んだものである。そして彼がアルゴスやデュアメル達と結成した「僧院派アペイスト」の運動を知るに及んで、私の書く物にもいよいよその「こだま」が遠くから伝わった。そして日本を訪問する彼のうちに自分の俤を認めてくれと言って来たロマン・ロランと共に、あのシャルル・ヴィルドラックこそは私の霊の肉体の母であった。銀座での夜の散歩で夜店の並ぶ煉瓦の歩道を歩きながら、焼鳥屋の前で私の肩を叩いてにやにやしながら、わざと鼻をピタピタさせて見せたヴィルドラック。多摩河原の春の田舎道で、私達夫婦や、「小さい栄子プティート・エイコ」をおんぶした義妹の久枝と声を合わせて Dans les jardins de mon père les lilas sont fleuries(お父さんの庭にリラの花が咲いた)を歌いながら手をつないで歩いたヴィルドラック。その人が今こそ遂にいなくなった。そして思い立って買った『フィガロの結婚』もいくらか私の心から遠ざかった。たとえシュッツの宗教的な音楽はそれに先んじて聴かれるとしても。

 せっかく届いた『フィガロの結婚』をヴィルドラックの訃報を手にするやもう直ぐには聴く気になれず、未だに袋から取り出そうともしない心境は一体どういうものなのであろう。この場合、喪のための慎みであろうか。フランス音楽と言い、フォーレと言い、鎮魂ミサならばふさわしいが、『フィガロ』では余りにかけ離れすぎているという一種の配慮からなのだろうか。
「尾崎さん、あなたはモーツァルトを好きでレコードも随分持っておられるが、オペラの話はついぞ伺った事がありませんね。モーツァルトのオペラはお嫌いなのですか」と、或る日或る人が私にたずねた。私は早速の返答に困った。それで仕方なく、「性に合わないとでも言うんでしょうかね、それともほかのに比べて余り興味が持てないからでしょうかね。持っているものと言えば、『レクィエム』と『魔笛』ぐらいだけですから、あなたにそう言われても仕方がありません」と、正しい答えにもならないような曖昧な返事をして、不審と憐憫とを一緒にしたような相手のきびしい目つきと質問とに応えた。
「私は務めから家へ帰ると早速モーツァルトに飛びつきます。そして胸を躍らせて彼のオペラに聴き入ります」と、九州に住んでいる或るけなげな女性が書いてよこした。このたよりも何という事なしに私の心を苦しめた。そして自分には何かが不足しているのではないかと思った。音楽を愛し、そしてわけてもモーツァルトを熱愛する親しい他人が彼のオペラを好んで見たり聴いたりしている時に、自分だけはその仲間から外れているのだと思うと寂しい気がした。
 私は昔高村光太郎の訳になるアーサー・シモンズの『ベートーヴェン論』を読んだ時の感動を今でも覚えている。少し長いがその重要な一部分を引用させて貰おう。シモンズは言っていた―――
「音楽家が外界無しでゆけるように、外界によって汚されないで済むように、又他の芸術や、言語の機構や、舞台のために書く条件や、その他そういうものとの関係に於いて、彼は自分だけの試金石を持つ。自分だけの価値標準を持つ。その生涯の大部分、ベートーヴェンはオペラを書くための台本を探し求めていた。彼のオペラの一つ『フィデリオ』は哀れな台本によって書かれた。けれども英雄的なその主題が彼の要求したところであったのである。そして、彼は多分それが表現されている形には余り気を付けなかったのであろう。なぜと言えば、彼にとって言語は何の意味も無かったので、ただ、この言語の表現する感情の性質だけで充分だったのである。或る者は、モーツァルトを軽視したのだと思ったが、彼がモーツァルトに就いて『ドン・ジョヴァンニ』や『フィガロ』などは間違っても書かないと言ったのは、ただ斯かる主題の性質そのものが彼とは相容れなく、又彼がそれをまじめに取るようになる事は有り得ないという事を意味したまでである。モーツァルトはその非凡の無頓着をもって、いかなる地上の幸福でも、いかなる肉や霊の快楽でも直ぐ摑み取って、たちどころにその音楽の不朽性に化してしまった。しかしベートーヴェンにはその農夫のような本気さがあるので、世界の徳性や、リズム的秩序とふざけ合う事ができ
なかった。彼の芸術は彼の宗教であった。そして世の中の気軽な面白さの少しもない敬拝をもって奉仕せらるべきものであった」
 こういうベートーヴェン観で薫陶されていた私が、かなり後までモーツァルトその人を愛するに至らず、その音楽の美を感じたり理解したりするに至らなかったのは、遺憾ながら仕方が無かったかも知れない。従ってモーツァルトのオペラに就いて言えば、「主題の性質その物が私と相容れず、又それをまじめに取るような事が有り得なかった」のである。単に日本で彼のオペラが容易に上演されず、手軽に聴く事の不可能なせいばかりでもなく、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』や『キリストの幼時』のような物ならば、在らぬ舞台を想像しながらでも熱心に聴き入るのも、持って生れた自分の性向の然らしめるところであろう。

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 ついに聴いたフィガロ

 ついに私はモーツァルトの音楽喜劇『フィガロの結婚』を聴いた。四枚のレコードに二晩懸った。それは成心をかなぐり捨てた素直な聴覚の集中だった。そして聴き終えて今までに久しく経験した事のない程な音楽からの疲労を感じた。しかしそれだけの甲斐はあった。私は他人が知って自分の知らないモーツァルトの、もう一つ別な傑出した世界を初めて垣間かいま見たのだから。
 聴く以前にこの歌劇の筋を知っていれば良かったのかも知れないが、それは後になってゆっくり調べればわかる事だと思っていきなり音楽へ飛びこんだ。原語の傍らに日本語で訳のついている台本を片手に聴いてはいたが、美しい旋律で進行する対話が余り速いところでは、その文句に付いて行けずに幾たびか読む事を断念して耳だけに任せた。その代り気に入った処へは心覚えの朱点をつけた。又次の機会に聴いたらこの朱点は増えるだろうと思うが、ともかく念のため正直にその個所を書いて置こう――
 第二曲のフィガロとスザンナの二重唱、第三曲フィガロのカヴァティーナ「もしも踊りをなさりたいなら」、第四曲バルトロのアリア「仇討ち、そうだ仇討ちこそ」、第六曲ケルビーノのアリア「自分がどんな人間で」、第九曲フィガロのアリア「もう飛ぶまいぞ、可愛い蝶々」、第十一曲ケルビーノのカンツォーナ「恋とはどんなものかしら」、第十五曲全員のフィナーレ、第十六曲スザンナと伯爵の二重唱、第十七曲伯爵のアリア「わしが溜息をついている間に」、第十八曲スザンナ、マルチェリーナ、ドン・クールツィオ、ドン・バルトロ、伯爵及びフィガロの六重唱、第十九曲伯爵夫人のアリア「何処にあるかしら、恋に生きたあの楽しい日々は」、第二十曲スザンナと伯爵夫人の二重唱、第二十三曲バルバリーナのカヴァティーナ、第二十四曲マルチェリーナのメヌエット「牡山羊と牝山羊とは」、第二十六曲フィガロのアリア「目を大きく見開きたまえ」、終曲全員の合唱「苦しみと出来心と狂気で過したこの一日を」
 以上の中には既に二、三度実演で聴いたものもあり、レコードで知っていたものもあるが、こうして全体的な流れとして聴くと、個々の星の図ではなくて全天星図を見る思いがする。そしてそれが名手誰々の歌っている何々ではなく、(そう思って聴いてもいいが)、ほかの星達とその光や色を競い合いながら、全体として綺羅星のきらめく空を形造っているのが良かった。『フィガロの結婚のハイライト』とでも言ったような物を造ろうと思えば造れるだろうが、今の私としてはしばらくはこの本来の形で聴きたい。
 まだ三十歳にならない前の昔には、外国版のオペラの名曲集を持っていて、オルガンを相手によく歌ったものである。『タンホイザー』の夕星の歌や、カヴァレリア・ルスティカーナの幕のうしろの歌や、『カルメン』の闘牛士の歌と言ったようなものを、隣家の遠い田舎暮しとはいえよく大きな声で恥ずかしくもなく。そしてその本にこの『フィガロ』の中の「恋とはどんなものかしら」と「もう飛ぶまいぞ、可愛い蝶々」が入っていた。特に「恋とは」の方は節が比較的やさしくもあり、楽しくもあったのでよく歌った。「ヴォーイ、ケ、サペーテ、ケー、コーサ、エ、アモール……」すると当時毎日訪ねて行っては一緒に讃美歌を歌ったりした妻の叔母が、「尾崎さん、又あの幸左エ門の歌を聴かせて」とせがんだ。“Che cosa è amor”をわざと幸左エ門と言っていたのである。そして数十年を過ぎて今図らずもこれを聴く。その頃まだ十七か十八の娘たった現在の老妻は、改めてこの歌に涙をこぼしていた。病身で敬虔なクリスチャンであった亡き叔母とモーツァルトの「幸左エ門の歌」。まことに人生滔々として流るる水の如きを憶わざるを得ない。
 私はこの一揃いの『フィガロの結婚』に満足した。そして今までの自分の偏見や食わず嫌いを反省した。私のモーツァルトの世界には新しい見事な蕾がつき、今までよりも一層春らしい季節が約束された。私はこの事を多くのモーツァルティァンに報告したい。そして曽ての渋面や憐憫から解放してくれるように頼みたい。これで初めてモーツァルトを安心して全面的に諸君と共に語る事ができるのだから。

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 古沢淑子さんのスタディオで

 窓からの谷間の眺めが漸く冬めいて来たとか、毎朝ヒヨドリやツグミの声が賑やかだとか、庭の植込みにも鶯が訪れて頻りに笹鳴きの声を聴かせるようになったとか、青い空か玉のようだとか、白い雲がきっぱりと美しいとか、そんな事を言っている内に歳の暮はどしどし迫って来た。他人目はためにはいかにものんびり暮しているように見える私の処でも、大人の女共はそれぞれの部屋の片づけ物やら、敷物やカーテンの取替えやら、家のまわりの清掃やら、いろいろ新しい用事がふえて忙しくしている。二人の孫も下の男のほうは高校卒業のための最後の試験勉強、その姉のほうは大学の卒論書きでこれもほとんど毎晩徹夜。そして仕事こそ違え、私も追われている原稿や来客との応対などで結構多忙である。
 毎年の事だが歳の暮なんて落ちつかない厭なものだなと思いながら、それでも大して愚痴もこぼさず、老齢ではあるが自分は自分らしくどうやら元気にやっている。
 しかしそうした中で私は二人の親しい人の訃報に接した。十二月四日には飯塚浩二君、その一週間後には藤木九三さん。両方とも私にとっては敬愛に価する人達だった。六十四歳で亡くなった飯塚浩二君は日本では数少ない人文地理学者の一人であり、東大の名誉教授であり、フランスの地理学の大家ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュの主著『人文地理学原理』の訳者でもある。ソルボンヌ大学出身の彼とは三十数年前に初めて信州の霧ヶ峰で知り合った。私が詩人のくせに柄にもなく地理学が好きで、エコール・ノルマール時代のロマン・ロランの善き師であったプラージュその人の著書を愛読している事を話したら彼は非常に喜んで、それ以来畑違いながら友情を持ち続けて来た間柄である。諏訪湖のかなたに遠く乗鞍や穂高を眺める夏草の高原で、初めて言葉をかわした時のあの友の、若々しくて清らかだった風貌が今でも一番はっきりした印象として残っている。
 十二月十一日の夜明け前に西宮市の病院で他界された藤木さんは享年八十三歳。私の属している日本山岳会の名誉会員で、言わば登山家社会の大長老の一人だった。私もあの人の書く物が好きで、その代表的な著書『雪・岩・アルプス』や『雪線散歩』などを読みふけったものだが、藤木さんも私の書く山の文章に常に好意を寄せられて、たまたま東京でお目にかかると必ず懇切な言葉を下すった。二十数年前の上高地でのウェストン祭の折、そとは激しい夕立の河童橋の袂のホールで、その豪雨の音を打ち消すかのような声と勢いで講演をし詩の朗読をされた藤木さんを、私は今もなお忘れない。また快晴に恵まれた或る年のウェストン祭に、釜トンネルが工事中のために車が通らないので中ノ湯から上高地まで歩いた時、途中の坂の片側に立っている大きな桂かつらの樹の下で私と二人の連れとが一休みしていると、その前をこれも故人となった西岡一雄さんと前後してゆっくりと登って行かれた藤木さんのあの姿……思い出せばいろいろな時の温容が目に浮ぶ。
 十一日のその夜、早くも朝日新聞の夕刊で藤木さんの訃が知らされると、私は最近或る人から贈られたチマローザの『レクィエム』の新盤が有ったのを思い出し、それをあの人達の魂の鎮めのために一緒に聴こうと考えた。しかし私は思い直してやはりモーツァルトの『レクィエム』にした。チマローザでは何かふさわしくない気がしたからである。

 その翌日の十二日は、大森山王の古沢淑子さんのスタディオで催される第九十八回目のフランス音楽鑑賞会へ、小さな講演をしに行く事になっていた。三年ばかり前に実行する筈だった約束が当時の私の入院手術のために中止になったのを、漸く果す日が来たのである。それは「フランスのクリスマス」と名乗る夕べの催しで、私の話が済むとクリスマスを題材にしたソプラノのための四曲の歌の独唱があり、最後にその夜の聴き物、モーリス・ラヴェルの幻想劇『子供と呪文』が古沢さんを初め、このフランス歌曲研究会の男女二十数名によって演出された。結論を先に言えば、レコードで聴くアンセルメ指揮のそれよりも寧ろ充実と親しみとの感じられる見事な出来ばえだった。
 午後六時にスタディオヘ着くという電話での約束どおり、横須賀線・京浜東北線と電車を乗り継いで実に何十年ぶりかで大森駅へ降りた。古沢さんに言われたとおり駅の最先端の改札口を出ると、其処にはちゃんと若い女性が一人出迎えに来ていて、自身運転の車へ慇懃いんぎんに私を載せ、昔とはすっかり様子が変って立派になった大森の町なかを走って、やがて細い静かな坂の途中の古沢さん宅へ連れこんでくれた。しかしその夜こうした車での送り迎えをしてくれた人が、実は若い女流ピアニストの井上二葉さんだったという事を後で知って、私はしんから恐縮した。
 三階の洋風の自室で正式の初対面をした古沢淑子さんからは、演奏会の舞台で見る時よりも年の若い、いかにも聡明で清楚な女性という感じを受けた。髪の結び方や、濃いピンクのワンピースの着こなしや、私との応対の仕方そのものまで、すべてフランス風に灰汁あく拔けがしていた。そう言えば部屋の中の飾りの趣味も洗練されていた。私達はフランスの歌の事や、その国の古い女流声楽家の事や、双方の知っている故人荻野綾子の事などを話した。そして互いの間に漸く親しみの気持の生れた頃、開場の知らせが来て私は一階のスタディオヘ案内された。ふだんは練習場に使われているらしい五間半に四間半という会場は、出演者と来賓とでもうほとんどいっぱいだった。
 六時半に呼び出されて演壇へ立った私自身の拙い講演については多くを語る必要も無いだろう。若い時からのフランス歌曲との結びつきや、戦後富士見への疎開中に独りで稽古したフォーレの歌曲集の下手な写譜の紹介や、音楽に対する自分の信仰告白のようなものが話題だった。しかしそれよりも自分の役を終って、さて一人のお嬢さんがソプラノで歌うシャミナードや、フォーレや、ジャン・ビネや、ドビュッシーなどのクリスマスの歌を聴いた時のあのしみじみとした気持こそ、もうすぐむこうまで来ている基督降誕祭にふさわしかった。
 作家コレット夫人の詩にモーリス・ラヴェルが曲をつけた幻想劇『子供と呪文』は、レコードの場合と同様に声と楽器(この夜は連弾のピアノ)だけだったが、大体の筋を知っているので興味は深かった。元来がオペラとバレーとを結びつけた華やかな作品だから、これが舞台の上で本式に演出されたらそのロココ風の美と近代の美とが渾然と融け合って、いかにもラヴェルの物らしく新しい夢と抒情の場面が展開されるに違いない。しかしそれはさて措き、以下小林利之氏の明快な解説をもとにこの音楽劇の荒筋を辿ってみょう。
 第一場は昔ながらのノルマンディー地方の旧家の一室。庭に面した天井の低い子供部屋に窓からの夕日が射し込んでいる。六、七歳になる一人の男の子が宿題のノートを前に机に向っている。しかし彼は勉強に退屈しきり、早く外へ遊びに出たくて癇癪を起している。そしておやつを持って来た母親の言葉に反抗する。そのために罰として砂糖抜きの紅茶とバター無しのパンとで我慢させられる。子供は腹立ちまぎれに手当り次第な乱暴を始める。すると突然長椅子や安楽椅子が動き出し、人間のように口をきいて奇妙な姿でダンスを始める。続いて毀こわれ時計も二本の足を出して歩き出し、子供に毀された嘆きの歌を歌う。イギリス製のティー・ポットは英語で喋りまくり、中国風の茶碗も怪しげな中国語や日本語で歌い出す。ストーヴの火も子供を脅やかし、破られた壁紙からは男女の羊飼いが犬や羊を連れて出て来て悲しい別れを嘆き合う。更に絵本からは美しい王女が抜け出して悲しみの歌を歌い、算数の本からは小人こびとの老人が飛び出して薄気味悪い数字の歌をがなり立てる。子供はさんざんにおどかされ、余りに不思議な事の頻発に呆然と立ちすくんでいる。すると其処へ彼がふだんからいじめている猫が人間のように大きくなって現われ、牝猫と一緒に「ニャゴ・ニャゴ」と愛の二重唱を歌う。しかしやがてその二匹が窓から出て行くと、子供もその後を追って庭へ出る。
 第二場は美しく月光に照らされた庭園。池の水は輝き、樹木は豊かに繁った枝を拡げている。雨蛙、梟ふくろう、ナイティンゲールなどの声が静かな夜の空気の中を聴えて来る。子供は先刻までの気味悪い出来事も忘れて、ふと大きな庭樹の幹によりかかる。すると今度はその樹が「お前のナイフで傷つけられたところが痛い」とうめき、蜻蛉とんぼが捕まえられた恋人を返してくれと迫り、蝙蝠こうもりは「母を殺された可哀想な子供達の事を考えてみろ」と叫び、栗鼠りすは雨蛙たちと一緒になって復讐の歌を歌いながら、寄ってたかって子供をいじめる。ところがその弾みに栗鼠が足に怪我をする。すると子供は自分のリボンを取って怪我をした栗鼠の足を繃帯してやるが、自分も力尽きてその場に倒れてしまう。それを見て鶩いた動物達は一瞬の間静まり返って栗鼠と子供を取り囲むそして「この子は栗鼠の手当をしてやった。もう後悔して善い子になったに違いない」と口々に言いながら、さっき子供が洩らした「お母ちゃまマモン」という言葉を皆で繰り返す。その時家の窓に明りが射したので、動物達は口々に「あの子は優しい善い子になった」と褒めながら立ち去って行く。子供は気がついて起き上がる。そして家の方へ手を差し伸べて一声「マモン!」と呼ぶ。――そしてこれで劇は終るのである。
 その子供を古沢さんが演じた。幕切れの「マモン!」が期待通り良かった。しかし良いと言えば皆が実に良くやったのであれだけの成果が得られたのである。まことに平生からの惓む事のない研鑚の結実だと信じて敬意を表する次第である。

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 晩年のベルリオーズ

 同じ鎌倉に住んでいながら、昭和四十六年の夏の或るささやかな宴で私は初めて大佛次郎さんと同席した。それにつけてもつい最近その大佛さんがこの世を去られたのは惜しんでも余りある事だ。
 もっとも彼とは大正十三年以来の知り合いで、媒介はロマン・ロランの『ピエールとリュス』そのロランからの翻訳権を私が彼に快く譲ったのが縁だった。その後も時どきは顔を合わせる機会もあってまるきりアカの他人ではなかったが、会って親しく話を交わすめぐりあわせというものは一度も無かった。ところがその大佛さんも加えて鎌倉在住の六人の私たちが、昭和四十六年の八月に土地の事を書いた一冊の小さな本を出した。そしてその記念にと言うので執筆者と出版社側との八、九人だけで夕食の会を催した。大佛さんとの初めての同席と言うのはつまりその会での事なのである。
 場処は広々とした静かな庭園に囲まれた鎌倉園。高台の一角に建てられたどっしりとした構えの料亭で、以前一度来てすぐさま気に入った家である。樹木の多い庭も良いが、その庭からの鎌倉の海や相模湾の水の眺めも画のようである。折からの晩夏の夕暮れを、眼の下に見える材木座あたりの家々の灯が美しく、次第にたそがれて行く海の上には帰って来る漁船の姿が二つ三つほのかに見えた。私と大佛さんとは食卓の用意が整うあいだ縁に立ってその風景を眺めていた。
 私たちの正面には海上の空高く一つの赤い大きな星が輝いていた。すると大佛さんが「火星で、すね」と事も無げに言った。「そうですよ、このごろが火星の一番良い観測の時期だという話です」と、私は最近調べた今年の『天文年鑑』からの知識をちょっぴり披露した。と、今度は庭園の西側の樹林の端に、私は予期したとおりもうじき沈もうとする一個の巨大な黄色い星を認めた。十数年前一時その四個の衛星の観測に血道を上げた覚えのある木星である。大佛さんと私とは縁に立つたまましばらくは静かに星の話に没頭した。彼がよく私と共に星を語れるのも道理である。彼の兄上は私の私淑している星の先生野尻抱影さんなのだから。
 しかしそれよりも更に驚いたのは、彼が十九世紀のフランスの大作曲家エクトル・ベルリオーズを熱愛しているのを知った事だった。宴終って料亭からの帰りの車の中だった。帰る方向がほぼ同じなので二人は同車していた。その車の中で話がはしなくも音楽の事に及んで、私が「大佛さんは誰の音楽が好きですか」とたずねると、彼は言下に「ベルリオーズです」と答えた。私はその名とその勢い込んだ即答の仕方とにびっくりした。現在の詩人達は元より、どんな作家達の間でも、今日こんにちこれだけ断乎としてベルリオーズを言い放ち得る人は恐らく何人もいないのではなかろうか。私か昔から大好きなベルリオーズを大佛さんもそれ程好きであり、しかもその事に堅い信念を持っているのだから驚いた。彼は先ず『キリストの幼時』を挙げ、『ローマの謝肉祭』を挙げ、続いて『ファウストの劫罰』を、『イタリアのハロルド』を、『ロメオとジュリエット』を、『レクィエム』を、『テ・デウム』を挙げ、更に幾つかの序曲を指折って数え上げた。そして近く発売される筈の『トロイアの人々』を楽しみに待っていると言った。彼は折しも『天皇の世紀』を或る新聞に連載中で勉強の毎日を送っていたらしいが、そういう大佛次郎という人がベルリオーズに打ち込んでいる事を知ると、ひどく頼もしいような、男らしく勇ましいような気がして嬉しかった。彼は自宅に近い八幡宮通りの段葛だんかずらで手を振りながら降りて行った。私も窓の中から手を振って、ここに新たにベルリオーズによって結ばれた古い知己との交わりを、今までよりも一層深めたいと思った。

 とうとう歌劇『トロイアの人々』の全曲を聴いた。二晩かかった。聴いた後は興奮のためか二晩とも容易に寝つかれなかった。しかし全部を聴き終った翌朝は、永年の望みが漸く果された満足感に心が晴ればれとして、冬の太陽の光もいつもより美しく和やかなものに感じられた。
 エクトル・ベルリオーズの名と人間と芸術とを私はロマン・ロランから教えられた。たしか二十三歳か四歳の時だった。彼の事を書いたロランの評論を読みながら、自分の気質の中に彼のそれと相通じたものを見出して他人のような気持がせず、彼に親しみ彼を愛した。それは敬ってやまないベートーヴェンに対するものとも、また好きなシューベルトに対するものとも違っていた何か同じ星の下に生れて、相似た運命に弄ばれる人間ででもあるようだった。私は今でもそれを思うとほほえましくなると同寺に、時に精神の奮起を感じることがある。
 さて『トロイアの人々』であるが、これはベルリオーズにあって最終にして最大の傑作である この歌劇は一八五六年に着手され、六三年に到って漸く完成されたのだから、その間七年という年月を要している。そして彼はこの作曲を最後として一八六九年に六十六歳で世を去った。『幻想交響曲』、『レリオ』、『葬礼交響曲』、『レクィエム』、『ペンヴェヌート・チェリーニ』等が相次いで出来、『ロメオとジュリエット』が完成しかけていた三十歳代の同じ七年間を思えばうそのようでさえある。しかし使い尽された稀なる創造の天分と、燃やし尽された情熱の一生。その二つのものの決算がこの『トロイアの人々』であったとすれば、私としては深い愛情と大きな期待とをもってこの大曲に向わざるを得ない。
 このレコードのためにコヴェント・ガーデン王立歌劇場管弦楽団の指揮をとったコーリン・デイヴィスは、「ベルリオーズと『トロイアの人々』を語る」の中で賢明にも次のような事を言っている。「この長大なオペラの聴きどころを拾い上げてゆく事は膨大になると共に不可能に近い…… しかしベルリオーズが少年時代に父と共にヴェルギリウスを読んだ経験や、後年のシェイクスピアに対する情熱、グルックやウェーバーへの変らぬ傾倒などが、いずれもこの作品に現われている。彼の英雄たちは、ベルリオーズがその頂点に達した豊かな創造力で光を添えられている。ベルリオーズが古典文学の世界を愛した事は、彼の素材の選び方でも明らかである。彼は、人間が神の絶対命令に従うために召される世界に安住する。其処では人々は運命に従うことに英雄的行為を見出し、“光が失われてゆく事”に怒り狂うが、死に対しては自己憐憫の情もなく肯定するのである。…… 音楽的に見ると、ベルリオーズはこの世界を古典的形式で表現している。レチタティーヴォ、アリア、合唱などがはいっている。メロディーが最も重要視され、アクションよりも印象が大切にされている。劇的構成上から見ると、彼はシェイクスピアから学んだ幾つかの異ったレベルの経験を自由に並列する方法を試みている。個人は集団の下にあり、あらゆるものは運命の歯車によって進んでゆく」と。(岡崎昭子氏の訳による)
 この長大な台本は全篇をヴェルギリウスの原作に従ってベルリオーズ自身が構成し作詞したのだが、驚くべき事には叙唱やアリアや合唱は勿論、単なる科白せりふでさえすべて脚韻を踏んでいる。そしてどんな短い対話も旋律で彩られ、管弦楽の伴奏で織り上げられている。
 序幕と第二幕とはギリシャ軍によるトロイアの陥落と、ヘクトールの妹で女予言者であるカサンドラーの死の顚末を叙する事で占められている。その中に出て来るカサンドラーのレチタティーヴォとアリアや、彼女の愛人コロエブスとの二重唱は実に美しい。カサンドラーは早くからトロイアの没落の運命を予感して不安におののき、常に人々に警告を与えていたが、遂に攻め入って来たギリシャ兵に囲まれて他の女達と一緒にみずから刺して死ぬのである。この終末の音楽はまことに悲壮で、ベルリオーズならではと痛感させられる。
 第三幕から終曲の第五幕まではカルタゴーの女王ディードーの運命を描きながら展開する。群集を前に王座について彼らの歌う国歌の大合唱や、大工、水夫、農夫たちの行列の音楽を聴いている彼女はいかにも幸福そうに見える。しかし何か知らぬが或る不安が未亡人であるこの女王の胸にきざす。その不安を追い払うために恋を勧める妹アソナの言葉が彼女を悩ませているのである。其処ヘトロイアから逃れ出た船隊が水夫に変装したアエネーアースに率いられて助力を求めに入港して来る。折からカルタゴー自体もヌミディア人の襲撃を受けているという報が入る。アエネーアースは変装を解いて輝かしい姿で女王の前へ立ち、その侵略に対して援助を申し出る。ディードーは喜んでこれを受けながら、相手の優雅さと気高さとに密かに心を奪われる。勇気凛凛としたアエネーアースはヌミディア兵の駆逐に向う。そして敵を撃破して凱旋する。
 第四幕劈頭の無言劇「王の狩りと嵐」の場の音楽は凄まじくも美しい。遠くの森にこだまする狩りの合図のファンファーレ、降り出した烈しい雨と稲妻と雷鳴、四方に散って行く狩人たち、其処へ箙えびらを肩に懸けて女神ディアーナのような装いをしたディードーと軽い武装をしたアエネーアースとの登場、森のニンフ達の叫び声、時どき聴える「イタリアヘ!」の声。やがてさしもの嵐も静まって雲が切れる。ベルリオーズの音楽の持つ壮大の質がここにその全貌を現わしている感がある。
 ヌミディアの兵を撃破してカルタゴーが勝って、女王ディードーが客将アエネーアースその他の祝宴の席に出て来た時、エジプトの舞子や奴隷達の踊りに合わせてバレエ音楽も面白いが、その騒がしさを嫌ったディードーの所望でイオパスの歌う田園詩の独唱が美しい。これにはフルートとハープの伴奏が付いているが、この平和な田園詩が続く第五幕の劈頭で若い水夫フェラスが帆柱の上で歌う望郷の歌とみごとな対照をなしている。一方ディードーとアエネーアースとは恋に落ちる。ところが彼らの陶酔と恍惚との二重唱が終ったところでメルクリウスの「イタリアへ、イタリアヘ!」の叫びが響く。アエネーアースは神の命令でイタリアへ船出しなければならないのである。そしてカルタゴーの女王はすでにそれに気づいていた。そして二人の恨みと言訳の二重唱の最後に、「私の涙でこれ以上立ち止るのはおやめ、信仰心の怪物ばけものよ! お行き! 私はあなたの神とあなた自身とを呪います」と言って彼女は立去り、アエネーアースは兵士達をひきつれて船へ乗りこむ。そしてこれが彼女と彼との別離である。こうして神に見放された今、ディードーの選ぶのは死への道しか無い。彼女はみずからを葬とむらう式の用意をさせる。
 海に面した庭園の一隅に火葬のための大きな薪の山が築かれる。その上には寝台や長衣や兜や剣や、アエネーアースの半身像などが載せられる。葬礼用の衣をつけた神官たちの登場に続いてヴェイルをかぶり木の葉の冠をいただいたディードーが現われる。神官たちの合唱に続いて女王の妹アッナとナルバールとのアエネーアースに対する呪いの歌。そしてディードーは剣を抜いてみずから刺す。人民たちの悲しみと呪詛の合唱。その中で「ローマ、ローマ、不滅の……」という叫びと共にディードーは息を引きとる。
 そしてこれが雄大壮麗な歌劇『トロイアの人々』の終末だった。

 

   晩年のベルリオーズ
           (渝る事なき愛情をもって)
  寒さと雨とぬかるみのパリの片隅、
  リュ・ド・カレーの孤独と寂寞の薄ぐらい部屋で、
  眉に垂れかかる銀髪を掻き上げながら、
  老い衰えたベルリオーズが一通の手紙を書いている。
  五十年前の初恋の、片恋の、年上の娘、
  あの故郷グルノーブル・メーランの「山の星ステラ・モンティス」、
  今は七十歳に近い老女エステル・フールニエに
  最後の憩いの胸と膝とを求める手紙を。

  人生は「ただ動く影にすぎなかった」のか。
  それは本当に「一人の白痴の物語だった」ろうか。
  しかしあのたぎり立つ青春の一大ロマンス『幻想交響曲』や
  あの壮麗な『死者のための鎮魂曲』、『ローマの謝肉祭』、
  さては『ロメオ』、『ファウスト』、『イタリアのハロルド』。
  そういう傑作はすべて空しい戯れだったのか。
  『キリストの幼時』と『トロイアの人々』とは長びく夕日の残照だったが、
  それは彼の聖書的な牧歌であり、音楽でのヴィルジールだったのだ。
  彼はそれらをさえ人間喜劇の終曲フィナーレだと言うのか。

  燃える情火にその天才を焼き尽させた男、
  時代の無理解と孤独との中で己れへの信を失った男、
  「人は髪の毛の白くなった時、もはや夢を、
  友情の夢をさえ忘れ捨てねばなりません」と
  訓戒の返事を与えられるとは知るや知らずや、
  生き疲れ、衰え果てたベルリオーズが、
  遠くいとけない昔の恋人、現在の老婆に、
  雨の夜の墓地にゆらめく鬼火のような
  はかない手紙を書いている。

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 フーゴー・ヴォルフの歌

 今から四十年か五十年前の若い頃には、実は内心相手のほうが当惑するほど、私は訪ねて来た友人に自分の好きなレコードを聴かせたものである。「尾崎君もいいが、何しろ行けば必ずレコードを聴かされるのであれには参った」という話は、被害者当人の口からも、人伝ての噂としても、後になって幾度か聴いた。思えばまことに心無い業わざだった。自分の善しと信じる事を他人に強いる悪い癖は今でもなお多少の痕跡を私のうちに残しているが、あれは本当に度を越していた。新しい善いのが手に入ったからとか、これならばきっと相手の心を動かすだろうとかいう独断的な好意がそうさせたのである。そこに決して僅かばかりの蒐集を誇る気持の働いていなかった事は確かだが、相手の身になってもみず、その心境の天気図も考慮に入れないで、ただ善い物だから是非聴かせたい、一緒に聴く事で感動を倍加したいというのでは、少なくとも今の気持としては余りに簡単素朴であり、幼稚でありすぎたように思われる。
 尤もそのころ訪ねて来た友人といえば、芸術に志したり既にその道に入っていたりした若い連中が多かったから、中には聴いてよかったと思ったり、それが当人にとって何かしら善い契機となった者も絶無だったとは言えないかも知れない。現に彼らの思い出の中でこの事に言及して、高井戸の畑の中の家の時代や、それに続く東京下町住まいの頃の交遊をなつかしむ者も幾人かはいるのである。そしてそういう人たちが今では皆かなりの年配になって、それぞれの道で立派に一家を成している。これを逆にすれば私にしたって同じ事で、たとえば高村光太郎、高田博厚、片山敏彦らの家で初めて聴かされた音楽から、初めて見せられた画の本や詩集から、どんな新しい感銘、どんな深い暗示をうけたかを思う時、人間個人の形成というものが、決して自分一人の力で達せられるものでない事を痛感せずにはいられない。
 『音楽上の諸考察ムジカーリッシュ・ペトラハトゥンゲン』(佐野利勝氏邦訳『音楽を愛する友へ』)という興味深い本の中で、その著者で名ピアニストのエドヴィン・フィッシャーは書いている。「誰かに対して、なにか特別の好意を示してあげたいと思うときには、いつもわたくしは、ピアノに向ってその人のためにモーツァルトの作品を一曲演奏するのがつねである」と。何という美しい好意の示し方だろう! 心をこめて弾いてくれる人が実に名手フィッシャーその人であり、弾かれる曲がまたモーツァルトの作品なのである。どんな人かは知らないが、こんなもてなしを受けた人こそ羨ましい限りと言わなければならない。スイス・エンガディーンの夏の滞在の終る日に、同じホテルに泊っていたチェロの名手ピエール・フールニエから、特に自分一人のためにバッハの無伴奏チェロ組曲を弾いてもらったヘルマン・ヘッセの事も思い出される。しかもこれまた名手その人の自発的な好意だったのである。
 しかしいかほど誰かに特別な好意を示したく思ったにしろ、自分自身いささかも音楽家でない私に勿論そんな事のできよう筈はない。そこでいきおい録音された名演奏家の力を借りて、モーツァルトなりベートーヴェンなりでもてなしの心を表わそうという気になる。実のところ、むかし他人に押売りをして相手を当惑させたというのも一種の「善意の発作」だったのである。とは言え今ではもうその発作も稀になって、余程の場合でないかぎり、つまり先方から是非にと言って望まれないかぎり、私はみずから進んで相手のためにレコードを取り出すことをしない。それに今ならば特に私のところで聴かなくても、ラジオがあり、テレビがあり、殊にはFMがあり、音楽会も絶えず各処で催されてい、その上彼ら自身立派な器械やすぐれたレコードを持っている人も決して少なくはないからである。
 昔は下手へたなくせによく人に歌を聴かせた。スコットランドやアイルランドの民謡だの、『美しき水車屋の娘』だの『冬の旅』だの、フーゴー・ヴォルフのメーリケやアイヒェンドルフの『歌集』だのの中から、自分がとりわけ好きで少しばかり得意にもしている曲を、さすがに多少の恥じらいをもって。そしてその最初の被害者は誰あろう高村光太郎さんだった。例によって「なかなか善いよ」と褒めてはくれたが、その「なかなか」が曲者くせものであり意味深長なものだった事は、身に覚えのある人ならば誰しも思い当るだろう。何しろ場処があの駒込の家のよく反響するアトリエだったのだから、つい上の二階で何かをしている夫人の智恵子さんだって、壁越しに同じ被害をまぬがれる事はできなかったに違いない。たしか高村さんがヴェルハーランの詩を訳し始めていた大正八年か九年の頃だった。いかに若気の至りとはいえ、思えば冷や汗の出るような話である。
 それから十年ぐらい後の事、すでに結婚していた私は五年間の武蔵野住まいから東京京橋区新川の実家へ移っていた。高井戸の田舎と違って交通の便がいいせいか、そこへは色々な連中がしきりなしに訪ねて来た。前から引続いての若い詩人たちも来れば、その頃から知るようになった年長の登山家たちも来、穏健な思想の持ち主も来れば過激なほうの連中も来た。ヴィルドラックに紹介されノーエル・ヌエットさんに案内されて、フランスの若手のピアニストで文化使節のジルマルシェクスも来た。彼はたしか日比谷の公会堂だかでドビュッシーやラヴェルのリサイタルを催したが、そのラヴェルの『道化師の朝の歌』は日本での初演だった。ヨーロッパから帰って来たばかりの中野秀人が新婚のフェリチタ夫人を連れてひょっこり訪ねて来たのもその頃だった。美しい彼女は奥座敷の床の間へどっかりと腰をかけて大黒屋の饅の蒲焼を食い、灘の生一本をちょっぴり飲み、その間たえず夫の秀人とフランス語でぺらぺらしゃべっていた。また私たちの幼い娘の栄子に北海道の熊の真似をして見せるというので、若い更科源蔵が這ったり飛びかかったりしたあげく、とうとう二階座敷の新しい床の間の砂擦りの壁に大きな傷をつけてその後の一つ話の種になったのも、これまた同じ頃だった。
 ところがそういう或る日の事、自分でアナーキストの詩人だと名乗る一人の青年が四国から上京して訪ねて来た。一面識もない若者だが、その種の詩人もよく遊びに来た頃だったから別に気にもしないで快く迎えた。ところがその彼が小さいオルガンのあるのを見つけて何か弾くか歌うかしてくれと所望した。私は『冬の旅』の中の「孤独」を歌った。Wie eine trübe Wolke durch heitre Lüfte geht……で始まるあの寂しく美しい歌である。半ばはその若者の気持に同情するつもりで歌ったのだが、それが効を奏しすぎた。彼は私かドイツ語の歌詞の大意を話してやったその歌に心を引かれると同時に、私のところの芸術的・家族的な雰囲気にもひどく動かされて、当分ここへ置いてくれと言い出した。しかしそれは私としては困る事だったので、気の毒だとは思ったが一晩だけで断わった。落胆した若者はそれでも翌日おとなしく帰って行った。行く先も告げずに、「明るく晴れた空をゆく一片の陰鬱な雲のように」……

 今も書いた小さいオルガン、半世紀になんなんとする私達の長い夫婦生活に伴奏をしつづけて、現在なお書斎の片隅でおりおりは音を発する古い、小さい、ヤマハのオルガン。これ有るがために私は早くからシューベルトやシューマンの数多くの歌を一人で覚え、フーゴー・ヴォルフのそれを愛することを学んだのだった。そしてそのヴォルフを初めて私に知らしめたのは、ほかでもないロマン・ロランの『今日の音楽家』(拙訳『近代音楽家評伝』)であり、私はそれを一九一六年に世に出した。しかもそのロランに『ジャン・クリストフ』や『ベートーヴェンの生涯』を通して遙かな友情を感じ、更に労働者や無産階級のために捧げつくした五十年の闘争の間、優しくもフーゴー・ヴォルフの歌をこの上もなく愛した一人の女性が、若い日の私の心を照らして今もその夕映えの色を消さないローザ・ルクセンブルクである事は懐かしい。
 その方面に無学な私は彼女の有名な『資本蓄積論』その他の著書を読んでいないが、カウツキー夫妻に宛てた書翰集とリープクネヒトの夫人ゾフィーに宛てたそれとは今でも大切に持っている。中でも前者の仏訳本の扉には「一九二七年二月五日高井戸にて」と書いてあるから、ローザの人間とそのすばらしい文章に初めて接したのは三十五歳の誕生日を迎えて間もなくの事だった。そしてその本の終りに近い幾つかのページの中から、ヴォルフとその忠実な友であり歌手でもあったフーゴー・ファイストの名を発見してびっくりした。ローザはファイストを通じてヴォルフと知り合いになったのだが、そのファイストが第一次世界大戦の始まる頃、ジャン・ジョーレスの暗殺される一日前に戦争最初の犠牲者として倒れて以来、もう彼によるヴォルフの歌も聴けなくなったと言って嘆いているのである。しかも彼女自身また獄中でさえ好んでヴォルフを歌っていた事は、カウツキー夫人ルイーゼもその書翰集の序文に書いている。
「お序での時に『アナクレオンの墓』(注・ゲーテの詩。ヴォルフの『ゲーテ歌集』第二九番)を書き写して下さいません? あなたはこの詩をよくご存知でしょう? 私は勿論フーゴー・ヴォルフの音楽で初めて正しく理解したのでした。歌で聴くとそれはまさしく建築的な印象を与えます。ギリシャの神殿をまのあたり見る心地がします」
 これに類する讃辞はソフィー・リープクネヒトに宛てた獄中からの書翰集になお幾度か出て来て、世の中のフーゴー・ヴォルフ好き、ローザ・ルクセンブルク好きを喜ばせている。

 

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 歌による心の旅路

 一月の半ば、鎌倉二階堂に住んでおられる陶芸家小山冨士夫さんに招待されて、逗子の或る料亭で晩餐のご馳走になった。一行は極楽寺姥ヶ谷に邸宅とアトリエを持つ彫刻家高田博厚夫妻、そこから程近い稲村ヶ崎の早大教授高瀬礼文さん、北鎌倉明月谷のかく言う私、それに珍客として所沢近くの東村山からやって来た詩人の草野心平君。なお別に私には初顔の女性二、三人も加わった。
 相変らず高気圧のための空気乾燥と快晴のつづく一日の午後を、一行はまだ梅には早い瑞泉寺をおとずれ、其処の茶室で茶の湯の饗応にあずかり、小山さんのよく整備された仕事場を見学し、そこから海岸通りを姥ヶ谷まで高田博厚ご自慢の家を見に行って事実その立派なのに感心し、さて車を一転して目的の逗子へ行ったのだった。
 高田と草野の両君は私にとってきわめて古い親しい友である。高田と知り合ったのは彼が彫刻に手を染めた頃だから五十年以上も前のこと、草野君にしたところで長女の栄子が五つか六つの頃だったからやがて四十幾年になる。それでいながら二人とも今なお元気旺盛でめいめいの仕事を続けている。それを思うと私なども時に老いの眼を輝かせて、彼らに劣らじとおのれを鞭撻すること少なしとしないのである。
 招宴の席では草野君と並んで坐ることになった。一座が次第に賑やかになって主人の小山さんが景気よく歌を歌いはじめると、隣席の草野君が声をひそめて「こっちも二人で何か歌おうか」と相談を持ち掛けた。彼はこういう時にはよくベートーヴェンの『第九』の合唱を歌ったが、「今夜は何か別のものをやりたいね」と言いながら、「ああそうだ。昔栄子ちゃんに教おったノルマンディーはどう?」と訊いた。「ノルマンディー? なるほどそれはいい」と私も即座に賛成したが、さてよく考えてみるとあいにく二人ともすっかり文句を忘れてしまっている。最初の出の「カン・トゥー・ルネー・タ・レスペランス」まではよかったが、後はさっぱり駄目である。節だけ出来ても肝腎の歌詞が駄目では問題にならない。それでノルマンディーはさっぱりと諦めて、私がセザール・フランクの曲へ自分で歌詞をつけたものを歌い、草野君が会津磐梯山と磯節とを歌った。そしてその出来がまた実によく、感動的でさえあった。
 その夜帰宅してから家の者にその話をすると、娘の栄子がいきなりそのノルマンディーを歌い出し、私も釣り込まれるようにすらすらと一緒に歌うことができた。「なんだ、惜しい事をした」と私は思った。それから腹癒せにではないが、妻と孫達とを前に娘と二人で改めて一番と二番とを続けて歌った。実に何十年ぶりかの事だったが、古き善き時代の記憶につながる懐かしい歌は、時と処とを超えて蘇よみがえった。
 四十年にも及ぶ遠い以前に若い日の草野心平君が、今は大学と高校へ行っている二人の子の母親(私の娘)である女から教わったという「ラ・ノルマンディー」。暁星か白百合(その昔の仏英和)を出た人ならば誰しもこの歌に覚えがあるだろう。現に串田孫一君も知っているし、伊藤海彦も知っている。むしろ幼稚園や小学校の頃からフランス語になじんでいる人で、この美しい歌を知らない人は無いだろう。「シャント・シャント・プティ・トワゾー」や、「ジャヴェー・ザン・カマラード」や、「ル・ドゥラポー・ドゥ・ラ・フランス」などと一緒に。
 その夜栄子が小学校時代の唱歌の本を探し出し、宿題であるエンゲルスの原書(Von der Utopie zur Wissenschaft)の下調べに忙しい孫の美砂子が写譜をさせられ、翌朝栄子がその譜の下に片仮名でフランス語の歌詞の読みを書きこみ、又別に原語で歌詞を書き、それに私が拙いながら日本語の訳をつけた。
「万物が希望によみがえり、冬が我らから遠く飛び去る時。我らのフランスの美しい空の下に、太陽が一層和なごやかに帰って来る時。自然がふたたび緑になり、燕がまた立ち戻って来る時。私はわがノルマンディーを見るのを喜ぶ。それは私を生んでくれた国なのだ。
 私はスイスの山々を見、その山小屋や氷河を見た。私はイタリアの空を見、ヴェニスとそのゴンドラの舟子とを見た。そしてそれぞれの国に挨拶をしながらも、私は自分に言った。どんな旅の土地もわがノルマンディー以上に美しくはない。それは私を生んでくれた国なのだと」
 私達はこれを草野君のところへ郵送した。そしてこの旧友を今でも大事に思っている私の妻が、自分から進んで封筒を書いた。思えば一家揃っての「ラ・ノルマンディー」だった。もしも草野君にしてこれをすっかり覚えこんだら、昔の東京新川の家の時でのように、否、その時よりも更に更に複雑な深い思いをこめて一緒に歌う機会があるだろう……
 或る晩書斎の隅で私のために探し物をしていた妻が、「こんな物が出て来ましたよ」と言って一枚の古い五線紙を差し出した。手に取って見るとフォーレの歌で、現在東京工大の教授である三輪誠君の妹の素子さんが二十何年か前に写譜をしてくれた Au bord de l'eau(水辺にて)だった。当時私と妻とは彼等兄妹の住む上諏訪の町に近い富士見の森の家で暮していた。素子さんは芸大声楽科の出身だがその頃は諏訪の女学校で音楽の先生をしていた。その彼女が私かフォーレを好きだというので、わざわざ綺麗に書き写したのを持って来てくれた優しい心情の記念品である。私は今は結婚して遠く山口県にいる彼女に心の中で改めて礼を言うと、さっそくオルガンに向って弾きながら歌ってみた。年月が経っているとはいえ高原の家でさんざん稽古したものなので、シュリー・プリュドンムの詩に作曲したその美しい歌は直ぐに歌えた。聴き覚えの妻も探し物を続けながら、ところどころ鼻声で一緒に歌った。

  S'asseoir tous deux au bord du flot qui passe,
  Le voir passer,
  Tous deux s'il glisse un nuage en l'éspace,
  Le voir glisser ………
 
「過ぎゆく流れのふちに二人すわって、その過ぎ行くのを見、空をすべって行く一片の雲があれば、そのすべって行く姿を眺め……」
 というように、水や、雲や、花の香りや、藁家から立ち登る煙のようなはかない流転の姿を前にしたこの恋人たちの愛の歌は、その後二、三日知らず知らず私の口にのぼった。するとフォーレへの愛か急によみがえって、その頃自分でせっせと写譜をした『歌曲集メロディー』の第三輯を歌ってみた。その中からは好きだった「薔薇」が出て来、「シャイロック」が出て来、「牢獄」が出て来、「九月の森」が出て来、いちばん好きだった「墓場にて」が出て来た。しかし当時歯が立たなかったのは今でも手におえなかった。そこで彼の大部分の歌は、「幻想の水平線」も一緒に、スゼーやクルイセンやロス・アンヘレスのレコードに任せた。無論あのすばらしい『鎮魂ミサ曲』を初めとして、彼の器楽作品に至っては言うまでもないが。
 フランス近代歌曲の中でガブリエル・フォーレのものを好きな私が、またアンリ・デュパルクのものを好きなのは至ってしぜんな事かも知れない。彼らの歌は詩によっておのれを磨こうと願う私の心に語りかけ、その心を現代日本の狭苦しい、或いは荒々しくて乱雑な世界から、自由で広々とした詩芸術の天然の中へと解き放ってくれるからである。それには(ドビュッシーやラヴェルをも含めた)彼らの調べのいかにもフランス的な清明さや、典雅さや、又時に激情的であるかと思うと時に切々とした哀調に満たされながら、しかも常に清潔である事を失わないその特質にあるかと思う。私はそれが自分の詩に欲しかった。少なくともそういう世界へと自分を伸ばしたかった。だから生涯を通じて我が国のどんな詩派にも属さなかった。私の詩心を掻き立てたり、それを鼓舞したりするものは其処には無かった。それはむしろフランスやドイツの詩にあった。そしてもっと正しく言えば西欧の音楽にあり、更に言えばその歌にあった。しかしこの事を述べるには又別に適当な機会があるだろう。
 話をデュパルクに戻せば、私は彼を好きでいながらその歌を十二曲しか知らない。しかもそれが彼について知っている全部なのである。デュパルクは八十五歳という永生きをしたが、後半の四十何年間は一種の神経病のために全く創作活動が出来ず、その上既成の作品全部をみずから破棄してしまったというから、今のところこの世に残っているのは僅か十四曲の歌だけである。しかしそれだけでもいい。真の珠玉ならば数や大小は問題ではない。
 その珠玉がここにある。全部が全部と言っても過褒ではないが、私の好みからすればボードレールの詩に作曲した『前世』と『旅へのいざない』、ロベール・ド・ボンニエールの詩につけた『ローズモンドの館やかた』、フランソワ・コッペーに基づいた『波と鐘』などを先ず挙げたい。これらの歌はその芸術的な陶酔の深さと言い、憧れの底知れぬ甘美さと言い、彼にあって独特と思われる押えつけられた激情の沈痛さと言い、そのいずれもが凡庸な時の私を奮い立たせる。私は自分の奥底に眠っている生来のものが、まだ決してその真面目を発揮していない事を思う。
 草野君に送ってやった幼いながら懐かしい「ラ・ノルマンディー」からフォーレやデュパルクの歌への長い道程。それが私の人生行路の一つの間道バイパスだと言えるかも知れない。

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 クルプとゲルハルト

 高村光太郎さんと私と二人、SP盤のラベルに印刷されている Julia Culpという綴りをそのまま、「ジュリア・カルプ」、「ジュリア・カルプ」と呼んでいた昔があった。
 彼女がオランダ生れだという事も知らず、その名をドイツ式にユリア・クルプと読むべきだという事も知らずに、歌われているベートーヴェンの歌曲の名が、The Cottage Maid(田舎家の娘)と英語書きになっているのに従って、「ジュリア・カルプのカテージ・メイド」と呼んで何ら怪しむところも無かったのである。
 思えば五十数年前、レコードの数も種類も極めて少なかった。言わば出る物が私達にはすべて珍品で、ベートーヴェンの『カテージ・メイド』のような物さえ大事がられた。テキストが付いていないので歌の意味はよく分らなかったが、曲自体が鄙びていて健康だという事、声が美しくて歌い方が伸び伸びと素直だという点が気に入った。高村さんの駒込のアトリエでも、私の本郷の下宿でも、会えば必ずこのレコードが二人の友情に伴奏した。まだ新婚間際で丈夫だった頃の智恵子さんもこの歌が好きで、時どきアトリエへひっそりと入って来て片隅の席で一緒に聴いた。私は私で『カテージ・メイド』という幼稚な長い詩を書いて、友人水野葉舟氏の健康で働き者の長女(現在の老妻)のけなげな生活を礼讃したものである。彼女は十四歳の時から私のところに嫁入るまでの五年間、その父親と病身の叔母と二人の弟妹との為に一切の家事を取り仕切っていた。
 そうしたさまざまな思い出につながるクルプの盤が最近再生録音されて、『ユリア・クルプ・リサイクル』の名で再び世にまみえたのである。私はもちろん飛びつく思いで買った。無論妻も喜んだ。ただもう一人一緒に聴くべき高村さんの既にこの世に亡いのがいかにも残念だった。
 この盤でクルプはベートーヴェンのほかにシューベルト、シューマン、フーゴー・ヴォルフ、ブラームス、ドビュッシーなども歌っているが、何と言っても『カテージ・メイド』との半世紀近くを経ての再会が嬉しかった。たとえ録音は上等だとは言えないまでも、あの頃のSPよりも少し増しだぐらいには思って満足している。あの綺麗な若々しい声、あの咲き出る野の初花のような新鮮で健康な歌い方は、もしも聴いたら作曲者ベートーヴェン自身をも充分に満足させたろうと思われる。こういう歌に恵まれなかった昔の私達が素朴に心を奪われたのも、考えてみれば無理はなかった。
 エレナ・ゲルハルトについてはフーゴー・ヴォルフを主題に前に書いたが、そのゲルハルトの『シューベルト・リサイタル』というのが出たのでクルプのと一緒にこれも買った。シューベルトの歌曲ならばフィッシャー=ディースカウのような男性歌手の物でほとんどすべて持っている。しかしクルプとの再会の嬉しさは同じように昔なじみのゲルハルトにまで及んで、これら昔のライヴァル同士を、レコード屋の店先で仲善く同じ袋に包んでもらった。ほかに買物もあったので少し重かったが、銀座から鎌倉まで意気揚がった私の心は軽かった。
 ゲルハルトは『冬の旅』からの八曲と、別に『魔王』や『鱒』や『音楽に寄す』その他五曲を歌っている。どれもこれも善く知っている歌だし、いずれも一応は練習をした事のある曲なので気安かった。しかし聴く心は頗るまじめで、クルプとゲルハルトとの良さの違いを自分なりに見きわめる事も怠らなかった。二人の歳は前者の方が三つばかり上だったようだが、印象から言うとクルプにはどこか人の善い娘のような純真さが感じられ、ゲルハルトには立派に成熟した女のようなもの、犯しがたい威厳のようなものが感じられた。とはいえ両方とも前代の名歌手だからこの比較もぐっと標準を上げて受け取ってもらわなければならない。それにしても谷間の空に星の輝く夏の夜を、風通しのいい二階の書斎で好きなシューベルトやフーゴー・ヴォルフに聴き入る楽しさ!

 以前SP盤でしか聴けなかった名手の演奏がこのごろはどしどしLPに再生されるので、昔を懐かしんで買っていたら切りが無いが、最近評判が善かったのに引かされて、戦争で失ったクライスラーを一枚手に入れた。すなわちベートーヴェンの『ヴァイオリン協奏曲』である。そして早速聴いて、これこそは紹介者の言葉にたがわず近頃の逸品だと思った。この曲ならばグリュミオーやオイストラフのを持っているが、その気品と言うか、重味と言うか、到底この巨匠の域にまでは達していないように思われた。第一楽章と第二楽章とがわけても素隋らしく、ロマンロランの言う、「神々しさ」がにじみ渡っている。私は恍惚として聴き、この盤を手に入れてここに再びクライスラーと出会った幸いを祝福せずにはいられなかった(因みに彼はこの盤の残りの部分でバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第一番のアダージョを弾いているが、これも万一全曲があったらばと思った)。
 最近NHKのテレヴィジョンでヤーシャ・ハイフェッツの演奏会というのを見た。もう七十歳になったそうだが、人間としての重味もついたようだし、技巧にも構成力の強さにも以前に増して一層しっかりしたものが感じられた。それに容貌も態度も大家らしく立派になり、聴衆の喝采に応える挨拶にもあっさりとしながら親しみがあった。彼はヘンデル、モーツァルト、プロコフィエフ、ドビュッシー、ガーシュウィン、バッハ、ブルッフなどの短い物を弾いたが、最も立派だったのはバッハの無伴奏ヴァイオリン第二番からのシャコンヌであり、最も良かったのはブルッフのヴァイオリン協奏曲『スコットランド幻想曲』だった。別に彼の日常生活の場面も幾つか出た。中でも海岸の波打際での水の戯れと、ピンポンの練習と、自家用車の点検とが私を驚かせた。なぜかと言えばこうした健康で幸福そうな彼を見るにつけても、同じアメリカで世間の無理解と病苦と貧困との生涯を終ったバルトークを思って悲しかったからである。
 もちろん例外はあるが、音楽の世界でも、作曲家と演奏家とを比べると、この世的な運、不運に大きな差があるようだ。或る人間をして「名演奏家」の名を成さしめる曲は、元をただせば「作曲家」という別の人間の創作に成ったものである。その作曲家自身は世間の片隅に逼塞ひっそくしているのに、演奏家は(修業時代の苦しさは無論有るが)堂々と舞台に立って華やかにおのれの芸を振り撒いている。言うまでもなくその演奏家は一代で終る。作曲家の作とその名こそは永く、或いは末代にまで残る。しかしそういう成り行きが極めて当然なように受け取られている事が私にはどうしても不当に思われ、不満な気がしてならないのである。一人の貧しい発明家と無数の富んだ利用者や受益者との現世的な生活の差。これを彼ら不遇な者の在世時に埋めてやる事は果して永久に不可能なのだろうか。事がバルトークに触れたのでつい日頃の思いをさらけ出してしまった。

 しかしこんなふうに音楽の事を書きながらも、私は決して音楽だけに没頭しているわけではない。文筆の仕事はほかにも有るので、読書もすれば町や野外へも出かける。そして一歩家を出れば眼に見る物、耳に聴く物がいくらでもあり、その中から選択をして、いつの日にか書く文章のためにメモとして取って置くのである。電車の中での未知の少女との対話もあるし、寺の裏の山道で不図見つけた珍しい花の記録もあるし、或る蝶の素速い産卵の観察記もあるし、静かに大きく片手を廻しながら次第にその輪を縮めていって、遂に相手がその中心で動けなくなったのを難なくつかまえた往来の水際のコシアキトンボの話もある。そしてたまたまの旅行にはそうした材料が規模を大きくして幾らでも増える。その点ではクルプもゲルハルトもクライスラーも、今の私にとっては何十年ぶりの再会というよりも、むしろ新しい発見とその喜びである。
 中途で止めずに永く続けて経験を重ねれば、一つの仕事に熟達するのは古来多くの人々の証明しているところである。私は初めの内それを単なる諺か何かのように思いながら、ほかに格別得意の業わざも無いままに今のような仕事をやり通して来たが、こんにちにして思えばそれが善かった。いまだに幼稚でもあり浅いものでもあるが、同時に勉強した自然科学が力を貸して私の文学を多少異色ある物にした。同時にメーテルリンク、ロマン・ロラン、ヴィルドラック、デュアメル、ヘッセ、カロッサのような人達がそれぞれに深い影響を及ぼして、現在に至る道へと私を導いた。私の書く物の性質が多かれ少なかれ今までの日本文学のそれと異った味わいを持っているとすれば、それはすべてそうした学問や心酔して措かなかった先輩たちのお蔭である。そこへロランを通して音楽が加わった。これは良い意味で致命的でもあり決定的でもあった。『ベートーヴェンの生涯』と『ジャン・クリストフ』、それに今見れば冷や汗の出るような『今日の音楽家』の自訳がこの世界へと私を引き込んだ。ベートーヴェンは勿論の事、ベルリオーズやフーゴー・ヴォルフヘの私の特別な愛は、実にロランからの遺産である。そのロランは私の人間的傾向を見抜いていたらしく、或る時は「山男」とか「野人」とか呼び、又或る時は「君自身の気質を枉まげる事なく人類のための仕事を続けられよ」と書いてよこした。思えばまったく山男であり野人であり、昔ながらの信念や生き方を未だに固執して止まない私なのである。

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 ベートーヴェンを歌う

 器楽の演奏に接する機会のはなはだまれだった明治の終りから大正の前期中期、音楽への私の傾倒が主として歌曲にあったことはすでに前にも述べたかと思う。東京赤坂の溜池や浅草公園のあたりで、貧弱なイタリア歌劇や喜歌劇の歌は聴いたが、ただ物珍しく花やかなだけで、その空しさは私になんの感銘も残さなかった。そのくらいならばむしろ正しく歌われる民謡の方を幾層倍か私は愛した。むかし築地の小学校で今は亡い鎌原先生から手ほどきされたあの幾つかのアメリカ民謡と黒人霊歌。その歌の言葉や調べには、あこがれにせよ、嘆きにせよ、訴えにせよ、また宗教的なものと牧歌的なものとを問わず、そこには常に心の喜び、精神の糧となる何かがあった。そしてたまたま思い出してはそれらの歌を歌いながら、うまく歌うことのできたことよりも、思いをこめて歌の心に徹し得た時の自分に満足した。おしろい臭い声や仕草で歌われる『カヴァレリア・ルスティカーナ』や『ボヘミアン・ガール』のアリアなど、いかに当時もてはやされた芝居小屋の若い歌手たち得意のものでも、少なくとも私にとって、とうてい純真で深く美しい「夏の最後の薔薇」や「深い河」の比ではなかった。そしてそんなところへ、ベートーヴェンの編曲と和声づけになる古いイギリス民謡の『カテージ・メイド』と『フェイスフル・ジョニー』のレコードが現われたのである。ああ、ベートーヴェンの名で初めて知った二つの歌。それまでに聴いたこの巨匠の器楽の作品とはまた趣を異にした歌と、さらにそれを装い飾る伴奏の美しさ。私は自分の理想として描いている人生と詩の世界へのために、ここにまた永続的な一筋の大道が示されたことを喜ばずにはいられなかった。
 戦災をも免れて今なお手もとに残っている幾冊かの音楽の本の中に、ぼろぼろになって紙の色も変ったペータース版の『ベートーヴェン歌曲集』と『シューベルト歌曲集』とがある。つい近頃の或る夜にも崩れかかったそのベートーヴェンの方をいたわるように開いて、オルガンの譜面台にそおっと載せて、遠い青春の日を蘇よみがえらせる思いで一時間ばかり歌ってみた。今では息も続かず声もかすれて、いくら調整してみても自分でさえがっかりするような始末だったが、それでも『ゲレルトの六つの歌』を心をこめて歌える自分の精神の若さ、真剣さが嬉しかった。中でも「或る人は言う。私は神を愛すると。しかもその人はおのが兄弟を憎んでいる。彼は神の真実を嘲り、それをおとしめる者だ」という十二小節の激しい非難の叫びに続いて、「神こそは愛である。そして私が自分同様、隣人をも愛することを神は欲する」という七小節の敬虔な穏やかな対句へと移って終る「隣人の愛」という短い曲と、六曲のうち一番長くて歌そのものもむずかしい「懺悔の歌」とを、以前よりも一層切実な心境で歌うことができた。なぜかと言えばこの「懺悔の歌」、この Busslied をこそ、愛人の死後間もなく今眼前にある同じ歌曲集から発見して、自分の犯したあやまちへの悔悟、傷ついた魂の祈りの念から、ベートーヴェンを頼りに歌うことを始めた鮮やかな思い出があるからである。そして「ただあなたにのみ私はそむき、しばしばあなたのみ前に悪しきことをなしました」で始まる沈鬱なイ短調ポコ・アダージョの四十六節という長い前半を終って、続く明るいイ長調の、感情を抑制しながらつい弾んでしまうようなアレグロ・マ・ノン・トロッポ、「かつてあなたはそのみ恵みで私を満たそうとなさいました。神よ、慈悲の父よ。あなたのみ名によって私を喜ばせて下さい」へと一転する個所では、昔同様、いな、今こそ一層切実にその深い美しさに打たれた。Du bist mein Gott, ich dein Knecht(あなたは私の神、私はあなたのしもべです)のところを、今日老年のなんと晴れやかな気持で歌う歌う甲斐であり、自分自身への祝福でもある。セバスティアン・バッハに『汝を装えかし、おお愛する魂よ』というカンタータがある。その魂の装いの一つが、すなわち私にあっては歌であり、音楽なのである。
 しかし、たとえばまたこんな場合もある。よしんば楽譜は持っていても、そして歌詞の心に通じ、それを諳そらんじることができたとしても、自分の能力ではとうてい原作者の抱いていたであろう深い心情の世界まで降りて行くことができず、それゆえ曲の持つ真の美を表現することが叶わないという場合が。
 ベートーヴェンにはゲーテの詩につけた歌が、私の知っている限りでも十二、三曲ある。その中の『五月の歌』や『マルモッテ』や、四種の試みのような『あこがれ』などは比較的取りつき易いが、『新たな愛、新たな生』、『悲しみの喜び』、『星空の下の夕べの歌』、『太鼓は轟き、笛は鳴り』、『喜びに満ち、悲しみに満ち』などになると、もう到底私などの手にはおえない。いくら忠実に速度の指定や強弱の符号や、表情のつけ方の指示に従っているつもりでも、歌ってみると我ながら味もそっけもなく、或いは乾からび、或いは雲を摑むようなものになってしまう。そこで歌の先生を持っていない私としては、一応は誰かにヒントを与えて貰わなければならなくなる。そして、レコードはこういう時に一つの光明、一つの指針となるのである。
 作品八三の『ゲーテの三つの歌』の中にある前記の「悲しみの喜び」の場合がその一例である。これはロマン・ロランが、ゲーテの詩による歌曲の中の最も美しい作品であり、「心より出でて心に至る」というベートーヴェン自身の言葉に当てはまるものだと言っている曲だが、譜面にはただアンダンテ・エスプレッシーヴォという指示があるだけで、ほかに手引きになるほどのものは見当らない。私は初めのうちは馬鹿正直にもメトロノームに頼っていたが、私のとる速度では「乾くな、乾くな、永遠の愛の涙よ!」という沈痛な調べや言葉に、とても「豊かな表情」などはつけようもなく、何かしら楽しい行進曲のようになってしまった。 Wonne der WehmutのWonneを簡単に「喜び」と訳した先人のせいもあろうが、もしも「悲しみの恍惚」とでも訳されていたら、私のような素人しろうとでもほかに取りようがあったかも知れない。それはともかく、その私の目を或る日卒然と見開かせたのは、レコードを介して初めてこの歌を聴かせたフィッシャー=ディースカウだった。彼はなみなみとしたバリトーンで、もっとずっとゆっくりと、ほとんどアダージョの速度で、それこそ表情豊かに、その寂寞とした歌に一脈の甘美さを与えているのだった。私はほとほと感じ入った。そして歌う楽譜の解釈には、歌詞の真意を充分に汲み取りながら、歌う人間その人の自由がかなりの程度に許されることを悟ったのだった。
 ハウクヴィッツの詩につけられた『諦念』の場合もそうだった。これは作品一〇一番と一〇六番の二つのそれぞれすばらしいピアノ・ソナタの間に書かれた歌曲だが、ベートーヴェンの生涯の最も暗い時期のものに属している。「消えよわが光! お前の失った物今は遠く、ここに再び見る由もない! 今こそお前みずからを解き放て。お前はかつて嬉々として燃え上がったが、今こそそのお前に空気は奪われ、炎はさまよい去ってもはや見出すすべもない。消えよわが光!」という短い詩句から成るこの歌に、「歩くような動きで、感情をもって、しかし決然と、充分にアクセントをつけて、語るように歌われる」という作曲家自身の注意書きがついているが、まず拍子をとることがむずかしく、それに慣れても次には強弱の自然な生かし方がすこぶるむずかしい。しかしそれをもまたフィッシャー=ディースカウは一つの典型となるように見事に歌い果おおせているのである。
 こうして私は、いわば歳も忘れて喜んで歌の翼の運ぶにまかせ、ベートーヴェンを初めとして時にはバッハ、シューベルト、フーゴー・ヴォルフの、また時には青やかなフォーレやデュパルクの土地にまで遠くさまよい出るのである。たまたまは孫娘のつきあってくれるピアノの伴奏にいたわられながら……

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 『荘厳ミサ』をきく

 「おじいちゃん、いらっしゃるでしょ? ミサ・ソレムニス」と、八月末の或る日の朝、学校へ出がけの孫娘が私に訊いた。
「いつだい?」「十一月十日、場処は厚生年金会館」「それでお前は?」「それが私残念だけど駄目なのよ。ほら、ちょうど八瀬や大原の秋を見に京都へ誘われているんで」「ああそうだったな。では一人でもいい、勿論行くよ」「じゃあ切符申し込んで置くわよ」「頼む」
 よく気がついて、何でも快く用を達してくれるこの孫は、ようやく二十歳はたちである。彼女にとって先は長い。『ミサ・ソレムニス』を聴く機会だってこれから後いくらも有るだろうし、本場のドイツヘだって遠からず行けるだろう。ところが私の方はそうはいかない。先方から来てくれればよし、さもなければレコードで我慢する外はない。そこヘベルリン聖ヘドヴィヒ大聖堂の合唱団とボンのベートーヴェン・ホール交響楽団とがやって来て、この大曲を生のままで聴かせてくれるというのだ。まさに千載一遇の好機だと言わなくてはならない。そこで机のわきのスイスの山のカレンダーを繰って二月先のその日の欄へ、「ミサ・ソレムニス、午後六時半、新宿厚生年金会館ホール」と書きこんだ。紅葉もみじした小灌木に被われた堆石モレーヌの堤を前景に、青と銀とに輝く美しいローヌ氷河が落ちているところをカラー写真にしたページだった。
 それから凡そ六十日、残暑から秋への鎌倉の自然の移り変り、その間二回ほどの小さい音楽会行きを別にすれば、私は例によってほとんど毎日四時間乃至五時間の仕事をした。締切り日に追われながら長短十数篶の文章を書き、自発的に三篇の詩を生れさせ、デュアメルの思い出の話『わが生涯に射した種々の光』や、サン・テクジュペリの『或る人質への手紙』などを読みながら、感動をそそられた個所を自分だけのために翻訳した。あらかじめ印しをして置いた数行を日本語に訳して、いくらかの推敲を施して、さて何か小さいピアノ曲でも聴いた後で床に就くのがその時どきの楽しみだった。
 ピアノと言えば孫の美砂子はベートーヴェンの作品九〇番のソナタ、ホ短調を練習課題として貰って来た。学校では楽理科に籍を置いているので帰って来てからも色々な勉強に忙しそうだが、それでも日曜日は勿論、大概の夜は階下の音楽室から練習の音が微かに立ち昇って来た。私はその曲では「余り速すぎず、たっぷりと歌うように」という作者の指示のついているホ長調の第二楽章が以前から好きだった。それは烈しい春の雷雨のあとの草原と、水嵩を増して流れる小川の歌とを思わせた。同じような形をした嵐の名ごりの綿雲のように、幾たびか繰り返して現われるロンド主題が懐かしかった。そして今や愛する孫の指の下から生れるその調べを聴きながら、幾多の思い出、無量の感慨が私にあった。
 美砂子はそのソナタを一応上げると、数日間はもっぱらブロックフレーテの音を聴かせていた。話によれば学校に四、五人熱心な仲間がいて、先生の指導で時どき合奏をやるのだという事たった。それでテレマンやクヴァンツやルイエの曲が彼女のアルトの笛からこの北鎌倉の夜の谷戸やとへ流れ出すのだった。そしてやがてその小さい発表会が終ったら、今度は前のにも増したベートーヴェンの大物、後期の五つのソナタの最初のものと言われている曲、作品一〇一番の『ドロテア・ツェツィーリア・ソナタ』と取組むだろうという事だった。
 そして一八一五年から一六年へと続く沈黙の木から花咲き実った数少ない「黄金の果実」の一つであるこのソナタに、初めて敬虔な戦きの指を染めるはずのわが孫を祝福しながら、私としては、彼女が京都へ行っている十一月十日の夕べ、二長調『ミサ』の荘厳な典礼に参列したのだった。

 私は東京駅からの車を会館の前でおりる。玄関の白い石段を今夜の聴衆がいそいそと登ってゆく。見たところ若い人達が断然多い。そしてその男や女の若々しい顔に私のと同じ期待と予感の色、これから味わうはずの驚きや喜びへの同じ用意の表情を看て取ったように思って、普通の音楽会の時には経験したことのない一種の緊張を早くも覚える。なぜならば彼らはこれから幾多壮麗な歌や響きでぎっしりと織り上げられた一つの偉大な宗教的音楽の儀式に加わるのだという事を知っているからである。そう思って見ると服装なども皆さっぱりして、今宵こよいの作曲家と作品とにふさわしく落ちついて質素で、少なくともけばげばしかったり突飛だったりするようなのは一つとして見当らない。そういうのは恐らく何処か別の世俗の殿堂で華やいだり煌きらめいたりしているのであろう。
 開演に十分前、広い会場はもう上も下も満員である。私は一階の最後列の自分に充てられた椅子に腰を下ろす。二月も前からの予約ですでにこういう席だから、それに遅れた人達が私のうしろで壁を背にして立っているのも是非がない。それにしても静かだ。人々は薄暗い照明の下でプログラムを繰って解説を読んだり、挿入された出演者の写真を眺めたり、たとえ連れと話をするにしても遠慮勝ちにひそひそとやっている。ある荘厳な事がこれから始まるのだという予感が、早くも雲のように場内に低迷しているからである。やがて開演の知らせが鳴り、その音がやむと聴衆席の明りが前よりも一層暗くなり、その代りに煌々と照らし出された舞台へ九十人に近い男女の合唱団が長い列を作って静かに姿を現わし、続いて七十人を越える管弦楽団がめいめい楽器を手に出て来てそれぞれ所定の位置につく。ずらりと並んだ揃いの服装の黒い一角から時どき光る金管や木管の楽器のきらめきも頼もしい。そして舞台の上での楽員の動きがしずまり、聴衆が居住いずまいを正した瞬間、まず階上の席の片隅から起って忽ち場内一杯にひろがる波のような拍手の中を白髪の指揮者が足早に登場する。
 バッハが二十四個の接譲地に分けた花咲く草原くさわらを、ベートーヴェンは五つの讃歌の中に包摂しているといみじくもロマン・ロランの言ったこのニ長調の大ミサ曲が、先ずその「キリエ」(憐れみたまえ)の神々しい地平の拡がりで私を包む。ティンパニーを伴った和音の雲間から静かなヴァイオリンとフルートの光の矢が射し込んで、それが輝かしい管弦楽の海のみなぎりを呼び起す。するとその水の果てから力強いテノールの合唱で「キリエ」の思慕の声が立ち上がり、進み出る。そしてそれの消えるのを受けて同じテノールの独唱者の声だけが鮮やかに残る。続いて同じ形で繰返されるソプラノとアルトとバス。この効果は実に圧倒的で、私は唇を噛みしめ眼を輝かせて聴き入るばかりである。やがてキリストを呼び求める声が独唱者の四声部で綾を織り、それを追って全合唱団の木魂こだま響き返る「クリステ・エレイソン」(キリストよ、憐れみたまえ)そして幾分装いを改めて再び「キリエ」。あたかも爛々たる星空の下の大草原に一つの甕かめが置き捨てられ、その暗い巨大な甕に天界の歌の波の或いは強く或いは弱い振動が、さながら打ち寄せて共鳴しているかのようである。
 「キリエ」が神とキリストを呼び起す万民の熱誠こめた訴えならば、続く「グローリア」はその栄光を讃える諸人もろびとこぞっての頌歌ほめうたである。トランペットとティンパニーを先立てて現われる胸もときめく大讃歌、続いて緩急と強弱を織りなした敬虔な歌と伴奏の盛り上がり。「おんみの大いなる栄光のため我等おんみに感謝す」の荘重な合唱から、「主にして神、天の王、万能の父なる神よ」の急調子に移り、「我等に憐れみを垂れたまえ」の「ミゼレーレ」で卑下と祈願の中へ消え入って、やがて「けだしおんみ独り聖なれば」の怒濤のような合唱となって再び湧き上がり、ついに長い壮美な切迫した「アーメン」の合唱のうちに終るまで、私は演奏者の全員や幾千の聴衆と共に、ただただ深い感動、神聖な酔いにひたるばかりである。
「クレド」(信経)はキリスト一代記の要約であり、それを信じる者の誓いの歌だとも言えるであろう。それゆえ曲そのものも劇的な構成を持ち、「聖霊により処女マリアより人体を得、かくて人となり給えり」の清らかな四声部の独唱と全員の合唱とを遍歴して、やがて「ポンテオ・ピラトのもとにて苦しみを受け、葬られ給えり」の「セプルテス・エスト」で最も静かに終る悲痛なシーンの後に、突如として目も覚めるような「エト・レスレクシト」(しかして三日目にして 蘇よみがえり給い)の力強い合唱が噴出する時には、今までの長い薄明りを破って俄然日光が射して来たような気がするのである。題材が題材だから、単調になる事を避けるためにも、おそらくベートーヴェンの最も苦心をした一章であろう。
 演奏は休憩の時間も取らず「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」から「アニュス・デイ」(神の仔羊)まで引続いて行われる。中でも私はその「ベネディクトゥス」(祝福せられ給え)から与えられる聖なる酔い心地を待っている。先ず独奏フルートとヴァイオリンの天上の歌のような前奏が終ると、アルト、バス、ソプラノ、テノールの順で待ち望んでいた個所が現われる。それが合唱を誘い出して天の美酒のような歌の世界を醸かもし出す。そしてその間ずっと、低い管弦楽を地にした独奏ヴァイオリンが黄金の糸のように縷々るるとした、しかも精力と情熱とを傾けつくしたオブリガートを弾き続けるのである。「心を清め、魂の糧となったものとしての音楽。生きる毎日を鼓舞する聖なる力としての音楽」と私は最近の日記に書いたが、今夜のこの『荘厳ミサ』こそ、それを代表するものの一つにほかならないと信じる。そして愛する孫にとってもまた、彼女の一生の伴侶であるべき音楽が、常にそういうものであるようにと祈られるのである。ベネディクトゥス!

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 ベートーヴェンの誕生日に

 今日は十二月十六日月曜日、ルードヴィヒ・ファン・ベートーヴェンの生れた日である。
 この記念すべき日を迎えて、今日はまた何という美しい朝だろう。つい先頃までの木々のもみじも散り終って、周囲の山々の冬を凌ぐ緑だけがいよいよ濃い私たちの谷間に、初冬の清らかな日光はくっきりと大きな明暗を横たえている。常に変らぬ鵯ひよどりの叫び、懸巣の濁声だみごえ、鶯の笹鳴き、頬白の囀りさえ、今朝は何か心嬉しく、新しく、頼もしいものに感じられる。いつもより丁寧な洗面を終って庭へ下りると、咲き残りの薔薇、終りに近い山茶花さざんかを初めとして、二十種にあまる鉢植えの椿もそれぞれに蕾をふくらませ、とりどりに紅や白の重たい花を咲かせている。そして今朝は雀たちも特別上等な餌を貰ったせいか、庭の片隅の薄鉢をかこんで三、四十羽、飛んだり跳ねだりして大騒ぎをしている。「特別」と言えば今日は巨匠のめでたい日のために、昨夜から町の菓子屋へ注文して赤飯を炊かせた。それを今夜は自分たち家族も相伴しょうばんし、上の地所に住んでいるベートーヴェン好きの親しい友人宅へも福分けしようというのである。
 早起きの妻がもうとっくに掃除をしてくれたとはいうものの、その二階の書斎へ上がって今朝の私がいちばん先にした事は、ベートーヴェンの仮面マスクや写真入りの額に塵払いをかけることだった。その塵払いというのは、毎年の暮にきまって何か実用的でかつ珍しい物を送ってくれる東京の或る家庭雑誌社が、今年はまた一段と趣向をかえて届けてくれたオーストラリア製のピンクに染められた柔らかい美しい羊毛の塵払いである。私はそれをやがて来る元日から使うつもりでいたが、半月早めて今日のベートーヴェンの日のためにおろす事にした。机の上から私の毎日の仕事を見おろしているそのマスクは今フランスへ留学している若い友人から或る年のクリスマスにプレゼントとして贈られた物、三枚の額入りの写真は同年輩の山友達で外交界の某長老が、ボンからのみやげとしてこの夏届けてくれた記念品である。
 こう書いて来ると、私はいかにも人から贈られた物ばかりに囲まれて生きているようだが、必ずしもそうばかりではない。しかし、「もしも吾々にして自分でかち得た物を何一つ持っていないとしたならば、なんとこの世が暗いことだろう! 又しかし吾々にして自分でかち得た物以外何一つ持ちもせず、又それのみしか愛さないとしたならば、なんとこの世が貧しく淋しいことだろう!」と書いたデュアメルはやはり正しい。そして私は、少なくともこの家では、永年かかって「自分でかち得た」数多くの貴重な物らに取り囲まれ、それらの中で安心して生きている。そして今のこの瞬間、私は半世紀前に買ってすでにすっかり色褪せ古びたロマン・ロランの『ベートーヴェン』を拭き清められた朝の仕事机の真中に置き、ボンにある巨匠最後のブリューゲルだと伝えられるピアノで弾いた最後から二番目のソナタ変イ長調をイェルク・デムスで聴いている。そしてこれもまたつい先頃自分で手に入れた新しい盤なのである。私は実生活こそ貧しいが心の生活では常に富み、富まされている。しかしその富の中では他人の愛や友情や善意の証しが、自分でかち得た喜びや満足、みずから招いた苦痛や悲哀や悔恨と入りまじり溶け合って、時にほとんどその由来さえもはっきりとしないまま現在のおのれを形作っている。思うに私はこうしてこのまま、遠からずこの世から召し去られるのであろう。しかし万が一にも再生という事が許されるならば、これらの貴い懐かしい思い出の荷物と共に、在りし日への郷愁の雲に包まれたまま復活したい。そしてかつての愛する者らとどこかのガリラヤの海べで再会し、この世では果せなかった善い願望を来世の人間界で達成したい。
 こうして珍しくも訪問客のない午後をずっとベートーヴェンや自分の事を考えて過し、一行でも物を書く代りに青年時代のカール・チェルニーのベートーヴェン回想を少しばかり翻訳し、さて晴れたまま穏やかに暮れていった夜には家族揃って心ばかりの祝宴の座につき、最後に孫娘の進んで弾いてくれる今日の主賓の最も初期のピアノ・ソナタを聴いた。あの詩的なアダージョの旋律が、若い心の意識下のあこがれを早くも歌っている作品二番の第一のソナタを。

 バッハは私の魂の救いであり、慰めであり、現在のような老年にこそいよいよ豊かにゆったりとした装いであり、残響の快い教会でもあるが、ベートーヴェンは同じ今でも必ずしもそうではない。いな、むしろ僅かに残っている体力と、それに支えられてまだ強靭さを失わない精神力とを絶えず鞭撻し鼓舞する力である。そしてそれは私の生涯を通じて変らないだろう。一人の平静な生活者、おびただしい追憶や体験の荷物をわきへ下ろして憩う旅人としての私の眼は、明るく澄んで広々としたバッハの風景にそそがれるが、一個の創作者としての眼は今でもなお生々なまなましいベートーヴェンの幾多悪戦と勝利との跡を真剣に見つめる。日々の生活の中でいくらか安易な気持になり、いわゆる心の箍たがのゆるんだ時、それを引き締めて人間の厳粛な「日の務め」に立ち帰り、生計のためよりも先ずおのれ自身の創造力を試みるために仕事に向う気持には、余命短い今日こそ一層切実なものがある。一人合点と言う者は言え。そういう時の私にとって最も力強い支持者が、芸術家の模範が、あえて言うならば仰ぎ見るべき英雄が、実にそのベートーヴェンなのである。そしてそう信じる気持は今こそ一層強く、深く、確乎としている。そもそも彼の作品一〇六番のピアノ・ソナタを、『ハンマークラフィーア』を、若い頃から幾たび私が聴いたろう? しかもその悲劇的な壮大なアダージョや、デモーニッシュな大フガートが展開する巨人的な音楽力の魅惑の意義に多少なりとも悟入し得だのは、実に漸く近年に至っての事である。
 しかし青春も盛りの頃の私はそうではなかった。私は詩を作り文章を書く自分をベートーヴェンで鎧っていた。そしてその鎧・兜かぶとはロマン・ロランと『ジャン・クリストフ』の糸や革紐で一層しっかり綴じられていた。当時の詩壇や文壇からすれば、こんな大時代な武装はおよそ滑稽な喜劇的なものにさえ見えたろう。事実そうした私をひそかに忌いみ疎とみ、或いは公に嘲り笑った者も少なくはなかった。だが当の本人は大まじめだった。何と言われてもこの頑かたくなな野暮と信念で押し通し、書き通し、些かも妥協せず、時には激越な論争も辞さなかった。今でも思い出しては後悔をしているが、ベートーヴェンやロマン・ロランを悪しざまに罵られて、憤然として詩人仲間の一人に乱暴な平手打ちを食わせた昔もあった。しかし又ベートーヴェンヘの私の熱意に共感して、自分で綺麗に筆写した『悲愴パテティック』の楽譜をわざわざ届けに来てくれた奇特な一交響楽団員もあった。その名は覚えている人もあるだろう新響のチェロとホルンの大津三郎。不幸にして早く私に先立ったが、いつの世にかは再会して堅く手を握り合うべき一人である。故人と言えばその目黒の自宅で私のために『レオノーレ第三番』のファンファーレを吹いてくれた、同じ新響の楽員で雅楽の普及者でもあったあの心優しい友人近衛直麿の事も忘れはしない。

 そう始終音楽会へ出かけるわけにもいかず、その曲目にしたところで大して魅力の無い場合も少なくないので、つい手もとのレコードで聴いてしまいはするものの、本来ならばすぐれた曲を生きている人間仲間が懸命になってやり、それを多勢の人々と一緒に聴く音楽会の方を私は採る。最近の『ミサ・ソレムニス』の時などもその一例で、たまたま喉を痛めていたらしい隣席の若い女性の聴衆が「グローリア」の最中に低く苦しげに咳せきこんでいたが、それはあの雄大な声と楽器の音の流れにはほとんど影響せず、完璧な青空に生れて消える一瞬の水蒸気の凝結のような物にすぎなかった。由来音楽会の聴衆というものはそういう事には知らず識らずのうちに馴らされていて、それが甚だしい騒音や雑音でない限り、むしろ舞台上の演奏者同様、全体の音の流れの中でそんな些事には寛容になっているのではあるまいか。そして私はこれが大音楽会というものの雰囲気でもあるように思っている。
 しかしこれが少数のいわゆる選ばれた聴衆を前にした瞑想的な精緻な弦楽曲や、独奏ピアノ曲などの場合では必ずしもそうはいかない。この場合には聴く人の一人一人が独自の夢の深みにおいて耳を傾け、心をひそめ、楽音の流れ以外のどんな小さな雑音の闖入をも許さない。それは静謐なきびしい空気であり、他人と隣り合せながらしかも孤絶の世界であり、人はそれぞれ美々しい夢を期待しながら粛然と着席し、やがて一人満ち足りて黙然と去るのである。トルストイの言った「音楽は人と人とを乖離かいりする」という言葉の一面の真理がここにある。
 私も所持のレコードで色々な音楽を一人で聴くが、あまり善いので私わたくしするに忍びず、家族の誰かを呼んで一緒に聴くことが度々ある。むかし友達を悩ませたというのも同じ理由からだったろう。或る時或る若い親しい友人の結婚式に夫婦揃って招かれた。盛大なうちにも実意のこもった親密アンティームな式だった。新郎新婦共に音楽が好きたったせいか、特に呼ばれた或る優秀な弦楽四重奏団がベートーヴェンの作品七四の『ハープ』を演奏した。時たまどこかのテーブルで遠慮勝ちに打ち合わされるグラスの軽い響きを超越して、あの弦のピチカートの高貴な旋律がいかにも美しくめでたかった。そしてその時の独特な音楽的雰囲気は、私か書斎で一人して聴く同じ『ハープ』の遂に醸し出さないものだった。

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 善に通する美  Das Schöne zum Guten ――

 フィッシャー=ディースカウの独唱会へ二晩続けて行ったのを最後に、私はしばらく音楽から遠ざかって生きていた。書斎の小さいリード・オルガンにも向わず、レコードにも手を触れず、ラジオやテレビからも聴かなかった。音の芸術の美食に飽満したと言うか、すぐれた物にも馴れっ子になる精神の安易さに気づいたと言うか、とにかく音楽と自分との間に若干の時間的距離を置いて生きた。
 先ず構想だけで永らく捨てて置いた幾篇かの詩に形を与え、ノートの中のメモを頼りにこれも久しぶりの自然に関する短文を書き、書棚の片隅から幾年無沙汰のバザルジェット、ヴィルドラック、アルゴス、デュルタン、ジャン・ジオノたちのものを引き出して読んだ。それぞれ署名をして送ってくれたこれらの作家の本を手に取ると、自分の若かった頃の彼らへの傾倒や兄弟愛のようなものが卒然と蘇よみがえり、あの頃のいきいきとした生活や気持にもう一度立ち帰る事が出来たらばと思った。年所と共に来る円満もいい、円熟も望ましい。しかし持って生れた自分の気質がそのために鈍化してなまくらになるようだったら、たとえ永く生きてもさしたる意味は無いはずである 私は現在の自分を養っている物が実に音楽であり自然であるという事を、つい先頃も公然と書いた覚えがある。確かにそれに違いはない。そして好きな自然を観る事は元より、これからもなお喜んですぐれた音楽を聴くだろう。しかし今の私に欲しいのは、安閑とした自足よりも精神の活動のより一層の拡がりである。もっと世の中を正視する事であり、もっと世界を知る事である。何でも知ってい、何でも解っているような気がしていながら、本当には知っても解ってもいないような貧弱な自負や自信を一掃する事である。頭を上げてもう一度この世を見直し、身をかがめ膝を突いて初心者の心で地上の生を熟視しなければならない。小さな先入観念や貧しい偏見を捨てて自由な精神で広々と事物に接し、そこから新しい心の糧を得なければならない。
 こういう矢先にふとロマン・ロランのある短い文章を見出して、ひとり音楽のみならず、生きる事一般にもまた妥当する教えに接したのは私にとって望外の幸いだった。
 ロランは言っていた。「芸術にはそれ一つだけが美しいという物などは無い。或る世紀にそれ一つだけが真実であるという様式は無い。ヨーハン・セバスティアン・バッハのバロック様式のまじったすばらしいゴシック様式を讃美したとしても、当時のすぐれたイタリア人や、イタリア化したすぐれたドイツ人たちを軽視する事にはならず、その人々と共にバッハも当然讃美されるべきものなのである。ハッセの親しい友であったヨーハン・セバスティアン・バッハや、スカルラッティの親しい友であったヘンデルを見習おうではないか。すべての美しいもの、ペルゴレージとラモー、ベートーヴェンとロッシーニとを共に愛するだけの広い心を持とうではないか。そして現在われわれの拠りどころとしている既成の観念、民族や時代に関する理論、芸術の発展や頽廃に関する理論を乗り越えようではないか。われわれのすべての理論を天才が常に否定しに来るという事を、眼を見開いて見ようではないか。われわれの輝かしい西洋には、特権を持つ民族、特権を持つ時代というものは無い。美とか、魂の偉大さとか、生命力とかは、いつでもそれが現われた時に、しかもしばしば一番期待していなかった場処や時に花を開くものである。デカダンス時代の人と言われているシチリア人アレッサンドロ・スカルラッティや、ナポリ人プロヴェンツァーレは、みずから望みさえすれば、バッハと同じくらい深く、ヘンデルと同じくらい完全になれたのである。イタリア芸術が堕落したと言われるイタリアの十八世紀にも、天才が群がっていたのである。ヘンデルやバッハの栄光のために輝きを消され、事実それほど偉大ではなかったとしても、少なくとももっと広大であった大家達は、よりすぐれているとも思われる美を持ち、純粋な古典的天稟をそなえ、その彼らが予言していたモーツァルトにも匹敵するのである」
 「人は多くのものを眺めたり多くのものを聴いたりすればする程、生活も豊かにする事ができ、この世がどんなに豊富であるかを感じるようになる。そしてごく少数の物しか感じ得ないような、鈍くて狭い心を持つ気の毒な人々は同情に値する。ただ悲しいことに、考えてみれば、われわれは諸世紀の美のすべてを抱きしめる事はできないのである。しかしそれは本当は仕合せな悲しみであり、われわれは各人がその悲しみを持つ事を望み合うべきなのである。われわれの愛すべき音楽の水を永遠に亙っていくら飲みつづけても、その泉の決して涸れることがないと考えるのは楽しい事である」(蛯原徳夫氏訳『ヘンデル協会について』)
 ロマン・ロランのこれらの言葉は、ひとり音楽の場合だけでなく、ほとんどあらゆる芸術の場合に当てはまってわれわれを鼓舞し、われわれに新しい生き甲斐を感じさせる。
 広大な音楽の夜の星空から眼を転じてひとたび昼の地上を眺めると、そこには私を待っているもの、私の心をとらえて新しい行動に移らしめるものが到る処にあった。それは最も身近な家庭生活にもあった。私は家族を愛していると信じている。しかしその愛が単に夫であり親であり祖父である者以上のそれであるか否かは、よくよく考えてみれば頗る怪しい。第一に彼ら一人一人の個性に対する理解が足りず、第二に彼らそれぞれが抱いている理由への細かく暖かい洞察が不足している。要するに私のは肉親としての半ば盲目的な愛情に過ぎない。一人一人を見る眼に客観性が乏しく、漫然と平和な家庭生活に馴れてその上に安住している。しかしそれではいけないのだ。私は自分自身に対してもっと厳格でなくてはならず、しかも彼らが時折見せる誠に対して一層敏感でなくてはならないのだ。或る日「妻の誠を思へ」と墨書して座右の銘のように壁に貼ったが、思うべき誠はひとり妻や家族のそれだけではなく、一切の他人のそれも同様である。若い女の客の持って来てくれた数輪の季節の花からその人の優しい心根を感じもせず、只事のようにそのまま花壜に挿す行為を私としては反省しなければならない。朝も早く務めや学校に行くというので窓の向うの坂道を駈け足で降りてゆく娘や孫達が、二階から見ている私に一日の別れの手を振るその姿、その誠を、単なる習慣のように受け流してはいけないのだ。
 朝のお茶のあとの楽しみな煙草一本。それをゆったりと吸いながら眺めている向うの山で、いつも何かしら春の小鳥が鳴いている。それがシジュウカラの時もありホオジロの時もあり、ウグイスの事もあればカワラヒワの事もある。その場合いくらその鳴き声で鳥の名が言えたとしても、新鮮な心でその歌に聴き入る事ができないとすれば不幸である。「ヒリヒリン・ヒリヒリン」と鳴きながら新緑の谷間の空を横ぎって行く鳥がある。それを「ああサンショウクイか。今年は少し遅いな」と些か専門家じみたリマークをするだけで、それ以上別に何の感慨も湧かないとしたら、その心は貧しいものだと言ってもいいだろう。
 音楽の場合でも同じ事が言える。この際その道の専門家はしばらく措くとして、私のような素人の愛好者の中には、どんなベートーヴェンを聴いてもどんなモーツァルトに接しても、世評や既知の概念に毒されてまるで免疫か不感症にでもなっているような人が少なくない。「ああ、ベートーヴェンの第三か」とか、「モーツァルトのアイネークライネか」とか、「バッハのブランデンブルクか」とか友達づき合いのように心安げに言ってのけるだけで、そこから何等特殊な感想も愛の告白も得られない。作者の名や略歴や音楽史上の位置や主要な曲の事ならば一冊の音楽事典を持てば足りる。しかしそんな事で足りないのは音楽そのものであり、とりわけ偉大な作者の偉大な作品である。そこには汲めども尽きない心の養いの泉がある。親しめば親しむほど新たに発見される美や誠がある。われわれが音楽に期待するものは耳を喜ばせる美と共に、作者の心の誠である。「心より来たる。願わくば心に帰らんことを」はひとりベートーヴェンだけの願いではなく、バッハのそれでもあれば、又時にモーツァルトのそれでもあったろう。
 曽て東京玉川上野毛の私の家へ神父のカンドーさんが訪ねて来たことがある。私達は彼の同国人である詩人フランシス・ジャムについて色々と話をした。そして最後にもてなしとしてバッハの或るカンタータをレコードで懸けた。カンドー師はあの穏和な顔で終始じいっと聴き入っていたが、その帰りしなに玄関で靴の紐を結んで立ち上がると、「ああ、久しぶりのバッハ。今日は本当にいい午後でした。ありがとう」とにこやかに言いながら、彼にあってよく似合う「本当のベレー・バスク」を柔らかにかぶった。それを門まで見送った私は、善い人に善い音楽を聴かせた事を嬉しく思った。
 音楽が道徳や倫理の説教でない事は言うまでもない。しかしそれが深く心に訴えて来るものであればある程、音楽は美を通しての善であり、「善に通ずるの美」である。私は人から何と言われようともこの信念を変える事はできない。或る時は鼓舞であり、或る時は養いであり、又或る時は慰めであるこの芸術が、やがて来る最後の日まで自分から離れる事はないだろうという確信が私の老いを支え、私の余生を強くする。Das Schöne zum Guten と書いたベートーヴェンの楽譜こそ、正に私の守り札であると言わなければならない。

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 ベートーヴェンの小さい花園

 ベートーヴェンの作品とあれば出来るだけ多くこれを聴き、これを知り、そのレコードにしても手に入れられるだけは手に入れて、どうしても聴きたいと思う時に聴こうというのが、今なお続いている私の永年の願いである。マニアと言われればそれまでだが、この願いは幸いにも年を追い月を追って満たされつつある。手許の作品目録と照らし合せてみるとまだところどころに小さい穴はあいているが、そういうのもいつか篤志家の演奏で聴かせて貰えるか、何かの機会でレコードとなって発売される日もあることだろうと、それを楽しみに待っている。
 ところで昭和四十五年はそのベートーヴェンの生誕二百年目に当るというので、音楽会も方々で催されるし、レコードも各社からたくさん出た。それらの盤は私もほとんど全部持っているが中にたった一枚『ヨーロッパ民謡集』という珍しいのがあった。勿論私として自分には初めての物らしいそれを広告の片隅に見落す筈はなかった。早速東京の楽器店に注文しながら念のため大体どんな国の民謡が入っているかを訊いたら、こちらの意気ごみが伝染したか、なじみの女店員の少し上ずった声の答えの中に「ティロールのがたしか四曲……」という一句があった。ティロールが四曲! 私にはそれだけ聞けば充分だった。それでいつものように速達で送って貰って二日後に受け取ったが、まず手に取り上げたジャケットの画、――十八世紀ごろのヨーロッパの平和な田園風景をえがいた画が気に入り、Beethoven, Volkslieder verschiedener Völker という文字さえ頼もしく思われた。
 表裏二面の録音を順番に言うと、前にも書いたとおりティロールが四曲、ドイツが二曲、デソマーク、スペイン、アイルランド、ハンガリー、ロシア、コサック、イタリア、スウェーデン、ポルトガルが各一曲、ポーランドが二曲、そして最後にスコットランドが一曲で、併せて十八曲入っていた。そして民謡そのものをソプラノのエミー・ローゼとバリトーンのクルト・ディーマンが歌い、当のベートーヴェンがつけた見事な和声をヴァイオリンとチェロとピアノとが聴かせていた。私は六年程前に買ったイギリスからの輸入盤の民謡集を別に一枚持っているが、これはベートーヴェンヘの最初の編曲依頼者だったエディンバラの音楽書出版者ジョージ・トムスンの処から出た歌集の中のごく一部で、スコットランド、アイルランド、ウェールズ、イングランドの著名な民謡十六曲が収められている。しかし今度のは最後の『フェイスフル・ジョニー』を除けば全部初めて聴くものであり、華やかなヨーデル唱法と共に山地の空気を想わせるティロールのものを初めとして、それぞれ原語とドイツ語との両方で歌われる民謡が各民族や国民の個性に薫って、或いは快活に、或いは重厚に、或いは物悲しく、或いはそぞろ哀愁を湛えながら、それと呼応する三つの楽器の調べと共に、聴けば聴くほど味わい深く興趣もまた尽きないものがある。
 幸いにも前記の出版者トムスンとベートーヴェンとの間にはかなり多くの書翰のやりとりがあって、それが今でも保存されていると言われている。中でも多いのは郵便物の行き違いや遅着に関する双方の不平の交換と、報酬支払い上の交渉や駈け引きの事のようである。この点ではベートーヴェンも中々の数学家で、絶えず編曲料の安い事に文句をつけたり、その値上げを迫ったりしている。しかし当時は彼も不如意のどんそこで生活をしながら、直ぐには収入にもならない自分本来の創作を進めていたのだから、たとえ僅かな金でも取れるだけ多く取りたかったには違いない。とはいえ二人の手紙の内容はそんな事ばかりではなく、トムスンはトムスンでベートーヴェンの編曲が余りむずかし過ぎると言って、もう一度遣り直してくれるように楽譜を送り返したり、「単純である時こそあなたは神々しい」と書いてよこしたり、「スコットランドの貴婦人連は音楽の栄養が広く行き亙っているあなたの国の貴婦人がたほど強壮ではありません」とか言って来たりした。また節廻しをもっと簡単にしてくれるように繰り返し頼んだり、スコットランドでは良いヴァイオリン奏者よりも良いフルート奏者のほうがずっと普通だから、どうかヴァイオリンのパートをフルートのパートに直してくれと懇願したりしている。こういう色々な注文を持ち出すトムスンに対して、ベートーヴェンは一八一八年二月の手紙で次のようなかなり重要な事を言っている――
「これらの歌に調和する和音を発見することは直ぐ出来る。しかしその歌の持っている単純さや、特質や、本性に適応するものを書く事は、私にとっては、君の考えている程そう常に容易ではない。君は無限の数の和声を見出す事が出来る。しかし或る旋律の本性と特質とにぴったりした和声というものは一つしかないのである」と。
 ベートーヴェンはこの編曲や和声づけの仕事を五年以上も続けた。そしてその数は二〇〇曲以上にも及ぶと言われている。彼はこれらの民族的な歌に事実非常な興味を抱いて、『諸国民謡集』という厖大な出版を考えていた。これはそれより早くドイツ・ロマン派の先駆的詩人ゴットフリート・フォン・ヘルダーが『歌に現われた諸民族の声』で企てたところを継承する意味になるが、この点彼らは世界市民の系列に属するわけである。
 「しかし」とロマン・ロランは彼のベートーヴェン研究の一巻『復活の歌』の第四章「連作歌曲集」の中で言っている、「しかし、いかに民謡が、とくに四十歳以後のベートーヴェンの器楽に、その刻印を残しているにせよ、彼の編曲した民謡は、ベートーヴェンの天才それ自体について、われわれに教えるところは――彼がそこからおこなった選択とその和声づけ以外の点では――あまり無いと(吉田秀和氏訳)。そして私は自分が初めてこの個所を読んだ時、直ちにはロランの言葉に承服できなかった事を覚えている。
 ところでそれに続いて出版された『第九交響曲』の巻末の「ベートーヴェンと民謡」と題する付録の中では、ロランはまたこうも言っている、「私はいささか軽々しく、且つフリートレンダーのような歌曲リート史の大家達の説に基づいて、ベートーヴェンは全く例外的な仕事以外には、われわれの世紀の流行となっているような、(わけても前世紀の末に流行したような)民衆的主題の作曲を承諾するにしては、あまりに際立った個性を持っていたという見解を述べたことがある。しかし実際では非常に多様な民謡旋律の実体シュプスタンスが、(たとえばライン地方の、低地オーストリアの、ロシアの、クロアティアの、スコットランドの、アイルランドのそれが)、彼の器楽作品の非常に多くのものの中を、わけてもその創造の最後の時期のもの(作品五九の弦楽四重奏曲、作品七〇と九七の三重奏曲、作品五三のピアノ・ソナタ黎明オーロール=一般には“ヴィルトシュタイン”と呼ばれている=、及び第七と第九の交響曲)の中を流れている。その力強い個性をいささかも犠牲に供することなく、歓喜の終曲のように、彼はそこに友愛に結ばれた民衆の共有財産を呼び入れたのである。Alle Menschen werden Brüder(すべての人間は兄弟となる……)」(以上の引用文は筆者の翻訳)
 民謡の編曲や和声づけのような仕事が「ベートーヴェンの天才それ自体についてわれわれに教えるところはあまり無い」と曽てきびしく言い切ったロランが、ここではもっと寛容で自由な見地に立って、これもまたあの巨匠の天才の一面を証拠だてる世界の民衆の共有財産の「呼び入れ」を、実例を挙げて、(歓喜の合唱の詞句までも添えて)認めているのは、少なくとも私にとっては、大きな安心でもあれば満足でもある。ベートーヴェンが彼のすぐれた先人から多くの示唆をうけた事実や、その彼がまた変奏の達人でもあった事をわれわれはよく知っているのである。
 いずれにもせよ今私の眼の前に新旧二枚のベートーヴェン民謡集がある。古い方のレコードにはスコットランドと、アイルランドと、ウェールズと、イングランドのものが十六曲、新しい方にはこの文章の初めにも書いたように他のヨーロッパ諸国のものが十八曲。そのうち一曲だけの重複を除けば全部で三十三曲になる。これは数の上からすれば言うに足りないかも知れないが、私にはベートーヴェンの山岳や森林の連なりを遠くに眺める小さいが生き生きとした庭のように思われる。あの高い山々も暗い深い原生林も私はほぼ歩きつくして、今では親しい懐かしい思い出に染められた曽遊の地となっている。ところがその雄大な風景を展望するこの新しい可憐な庭はどうだろう! ここには目に珍しい諸国の野生の植物が移し植えられ、それぞれに違う風土の特色を健やかに美しく花咲かせている。しかもこれらの花をみずから選んで蒐集して、それに手を入れた篤志の愛好家がほかならぬベートーヴェンその人なのである。もしもこの庭に彼の名を冠したとしても、その彼は時のかなたからほほえみこそすれ、決して厭な顔はしないだろう。それどころか、もっと美しい花を自分はたくさん集めて育てた筈だと言うかも知れない。
 ティロールの四つの歌が、ピアノやヴァイオリンに飾られてなんと若々しく輝かしいことか! スコットランドの「ロッホナガール」が、バイロン卿の歌詞と楽器とに力づけられて、なんと英雄的に暗く荘重に響くことか! 「アイルランド人の脈搏」の歌がなんと私の血を湧かせることか!
 ベートーヴェンの「天才」は、こういう小天地にもまた花咲き薫っているのである。

 

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 対照的な二つの生命!

 最近の或る日私の娘が、幼稚園から小学校、女学校までを共にした彼女の古い学友と連れ立って、四十年ぶりかで曽ての女の先生に会いに行った。その先生はフランス人で、片瀬海岸にある白百合学園のナザレト修道院というのに九十一歳の高齢を養っている。その姉妹マスールジェットゥル(Ma soeur Gertrude)が、今はもう四十歳も半ばを越した昔の教え子の来訪をひどく喜んで、色々と懐旧談をしたり一緒に歌を歌ったりしたそうだ。
 マスール・ジェットゥルは長いあいだ学校で子供達にフランス語と、歌とピアノとを教えていた。それが今灰色の冠り物と法衣と白い胸当てとの清らかな姿をし、顔にはほとんど皺が無く、白い額ひたいや顎あごに老醜の影さえ無く美しかった。そしてその高齢の尼さんが昔の生徒と一緒に「ラ・ノルマンディー」だの、「月の光に我が友ピエロ」だの、「アヴィニョンの橋の上」だの、「フレール・ジャック」だの、「お父さんの庭にリラの花が咲いた」だのを、次から次へと十何曲、しかも二人の客と一緒になって遊戯の時の手振りさえまじえて歌ったのだそうである。相模湾を前にした修道院の静かな一室で、フランスの貴族の出と言われる老いたカトリックの尼さんが、歌が弾んで来ると顔を振ったり指先で拍子をとったりして。私の娘ももう中年を越しているが、帰りに「江ノ電」の鄙びた駅で其処に巣食っている燕の親子の睦まじい生活を見ると、折が折だけに涙ぐんでしまったそうである。私はその日の彼女たちの訪問とこの結末とを、近ごろ本当に美しい話だと思った。
 その娘と一緒に、私も時どき彼女の幼稚園や小学校時代のフランスの唱歌を歌う。歌っている内に忘れていた文句がひとりでに出て来る。「よくそんなに覚えているわね」と妻は言うが、一緒に歌っていると別に苦労もしないのに後が出て来るから妙である。そしてこれは誰しも覚えのある事だろうと思う。或る時串田孫一君と一緒に山を歩いていながら、ふと私が「われに一人の戦友ありき」(J'avais un camaradeジャヴェーザン・カマラード)を口ずさんだら、串田さんが直ぐに後をつづけた。彼は暁星の出だからこの歌も小さい時に学校で教わったに違いない。それにしても秋を黄ばんだ山の小径で、年とった二人が歌う「戦友」の歌。これもまた音楽を愛する者の余徳だと言えるであろう。
 しかしこれは音楽とは言っても要するに古い唱歌か民謡だから、たとえフランス語でも英語でもドイツ語でも、親しく楽々と歌えるのかも知れない。だが本当に芸術的な歌曲リートのような物になるとそうはゆかない。歌う者の気持もすっかり改まってしまって、どうしても固くなる。歌い馴れたシューベルトの「菩提樹」や「セレナード」のような物にしてさえ、いざとなると民謡の時のように気安くは行かない。そしていわゆる芸術的歌曲にあってはそれが本当なのかも知れないが、たまには気の合った同士と胸襟を開いて一緒に歌うのもいいと思う。宗教的な物にせよ世俗的な物にせよ、合唱の起りは元来そういう処にあるのではないだろうか。一般の讃美歌やコラールがその善い例であり、ベートーヴェンの「歓喜の合唱」などに至っては、いくら上手でもたった一人で歌ったのでは大した効果も無ければ、余り問題にもならないような気がする。元来が万人共に歌うように作られた歌なのだから。そしてこういう点でこんにち私が喜んで聴くのは、さしあたりハインリッヒ・シュッツ合唱団の演奏会と、二十年来皆川達夫さんに率いられている中世音楽合唱団とのそれである。但し私がそういう人達と一緒に歌うことの出来ないのは言うまでもない。
 話が合唱と独唱に触れ、更にシューベルトとベートーヴェンにも少しばかり触れたから、私はこの際彼ら二人の大作曲家についての古い愛読書、そして今でも時どき取り出してはその幾ページかを読み返して学ぶところのあるポール・ランドルミーの本『シューベルト』から、心に叶った個所を少々引用してみたい。

「対照的な二つの生命! 大いなるベートーヴェンと小さいシューベルト。傲慢な人間と謙遜な男と。
 一方は民衆もお偉方えらがたもすべてがその前に頭を下げる征服者。他方は市民階級の人々への親しくて打ち解けた友。そしてこっそりとピアノの前にすわって、弾かせてもらうための言訳をし、必要とあればダンス相手のピアノも弾き、結局自分自身を魅惑するような即興演奏に成功して、其処から自分のよろこびを見出すというたぐいの男。
 ベートーヴェンはシューベルトを知らなかった。しかも彼は『このシューベルトの中には真に聖なる火花がある』というあの有名な言葉を吐いた。しかしシューベルトは崇敬とも言えるほど彼を讃美していながら、敢えてベートーヴェンに近づかなかった。
 一方は普通の寿命でもう一方は短い生涯。そして中一年を置いて二人共ほとんど同じような条件のもとに此の世を去った。
 彼らの作品は同じ時代の物である。しかし同じ魂から出た物ではない。ベートーヴェンは恐ろしく情熱的でしかも当てにならない恋愛に捲き込まれる事をやめなかった。これに反してシューベルトは夢想の中に沈み込んで、どんな人間的な熱情からも遠ざかっていた。しかし二人はそれぞれ違った道を歩きながら、その生涯においても芸術においても、共に同じ悲劇的な深さに達したのである。
 対照的な二つの生命! あらゆる比較をうながす二つの生命!」
 そして音楽の中にも人間の道を求める詩人私としては、永の歳月、この二人から実に多くの心の高揚、躍動、感銘、恍惚などを贈られているのである。そしてバッハを愛し、モーツァルトを愛し、更に多くの他の音楽家とその作品とを愛してそれぞれ与えられるところ有りながら、ベートーヴェンとシューベルトからは、特に若い頃から今に至るも尚消えない火のような物を貰っている。それは実に詩人ショーバーが書いてシューベルトが作曲したあの歌曲『音楽に寄す』の心でもある。

 私かこんな事を書いているので、しかも飽きもせずに何年か書き続けているので、余程の音楽好きだと思っている人も世間には少なくないらしい。そのせいか「先生は毎晩レコードをお聴きになるのでしょうね」などと質問する若い女性が時どきある。私の家へ来て書斎に並んでいるレコードの列を見たり、私の書く物を欠かさず読んでくれたりしている人の、別に大した意味も無い問いである。すると私の真剣な答えはいつでもこうだ。
「どうしてどうして毎晩どころか、平均一週間にやっと一枚聴くか聴かないぐらいのものですよ」。すると女の人は目を丸くして言う、「本当ですか先生」と。
 嘘を言って何になろう。この事は全く真実なのである。ではなぜそうか。なぜそんなに聴かないのか。聴く暇が無いほど忙しいのか。否、否。そうではない。私にも暇はある。何もせず、何も考えずにぼんやりしている時だってある。しかしそういう空虚な時間を、我が愛する音楽、敬うべき音楽、大切な時に魂を救ったり心を慰めたりしてくれる音楽で埋めようとは思わない。本当に聴きたい時、聴かずにはいられない時、そういう時だけに私はレコードを取り上げるのである。
 この点私にあって音楽会はちがう。何ヵ月も前から切符を買って座席を予約しておいて、さて漸くその日になって聴きに出かける音楽会はちがう。これには其の当日を忘れてはいけないという、言わば一種の負い目がある。そして其の夜の無数の聴衆にまじって聴くという長所もあれば短所もある。私が特に「短所」と言うのは、聴衆のあの長い拍手を聴かなければならない点、アンコールの添え物だか景物だかをせがんでいるようにさえ聴えるあの拍手喝采を、じっと我慢していなければならない点である。もっとも私は所定のプログラムが終ると大抵直ぐに帰ってしまうが。
 実のところ今の私は、昔のように音楽ならば何でも飛びつくようにして聴くということが無い。よほど心に訴えて来るもの、語りかけて来るものが無ければ、しいて聴かなくてもいいという心境である。ただ然しこのごろは、時どき人から教えられる中世やルネサンスやバロック時代のすぐれた音楽を、どうして今までにこういう物を知らなかったのだろうという驚きと喜びとで、遅播きながら老後の美しい楽しみとしてあれこれと聴いている。

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 愛のない情事

 あの世への旅に持って行くすべもないのに、いつの間に、どうしてこんなにレコードを殖やしたかと思う。狭い部屋なのに場処は取るし、整理をするのもこのごろは面倒になって来ているのに、それでもちっとも減らないばかりか、却って月に一枚か二枚は必ず殖え、時によれば数枚ドカッと運び込まれる。妻や娘は「これがおじいちゃんの唯一の道楽だから」と言って許しもし笑ってもくれるが、さて自分の望みで手に入れはしたものの、何か心に引懸るものを感じる事がたびたびある。そしてそんな時は直ぐ飛びつくようにして聴く事も稀であり、たいがい数日経って気が軽くなってから、気持に余裕が出来てから、やおら取り上げて器械に懸けるのである。
 いったい、人は誰しもこんな経験をするのだろうか。いや、そんな事はあるまい。欲しいと思って買って来たレコードならば、出来るだけ早く時間を作って、能うかぎり速やかに耳を傾けようとするだろう。それが人情である。「あなた、あんなに楽しみにしていらしったのに、まだお聴きにならないのですか」と妻から詰問される私のほうが余程どうかしている。
 ところで考えてみると私の場合、これはどうやら専有という観念から来る一種贅沢な気持、自分の物となったからはいつでも好きな時に聴けるのだから、何もそう慌てて飛びかかるには及ばない。いちばん条件の良い時に、いちばん寛容な心を開き、耳を澄ませてその一曲の音楽に聴き入る。それでいい。否、それが本当なのだと思う。ところが以前はそうではなかった。以前は買って来れば袋から取り出すのももどかしく、盤面をサッと拭ってすぐさま器械を廻し針を置いた。そして気に入れば一度は愚か、二度でも三度でも続けざまに聴いた。そんな事が出来る出来ないは年齢のせいなのだろうか。音楽に対する熱情の如何によるのだろうか。その熱情が今の私にはもう薄れてしまったのだろうか。いや、そんな事はけっして無い。
 ここで問題になるのは言う処のレコード蒐集家である。古典でも現代でも良いからすべてを揃えたい。古い名手の演奏が見事に入っている珍しい盤。それも無論欠いてはならない。そういう物を出来るだけ集めて専有したいという気持。これが先ず彼らの欲望を刺戟する一番大きな理由であろう。そしてこの事は場合によっては一種の骨董趣味とも言えるのである。
 然しそうではなくて善いもの好きなものを身辺近く置きたい気持、モーツァルトなりベートーヴェンなり或る特定の作曲家のものを専門に蒐めたいという欲望。この方は広く言って学者や蔵書家のそれにも通じる。誇りでもなく、他人に羨まれるためにでもなく、専ら自分自身の勉強や教養や満足のためにである。そしてこういう蒐集家のほうがいわゆる骨董家よりも数において遙かに多く、又私としてもそういう人達の方に同感が持てる。「務めから帰って来て夕飯を頂くと、すぐにモーツァルトやバッハに没頭します」と書いて寄越した女性があるが、私には充分にその気持を理解できる気がする。察するところこれらの巨匠を熱愛して、そのレコードもかなり沢山持っているのであろう。まだ会った事は無いが、モーツァルトの歌劇に対する私の愛の乏しさを幾らか物足らなく、或いは残念に思っているらしい九州の女性である。そして私としてはこういう種類の音楽愛奸者やレコード蒐集家には好意を抱かずにはいられない。
 然しどんなに多く持っていようとも少しも羨ましく思わないどころか、却って同情を、或いは寧ろ気の毒さを感じてしまうような多量なレコード所有者もいる。すなわち新しい盤が出るたびに、必ず何処かの誌上で紹介をさせられて、つまり推奨文なり感想なりを書かされて、その謝礼か記念として自分の手がけた音楽の見本盤を贈られる人々である。真に気に入ったレコードならばともかく、たとえそれが仕事のためとは言え、厭々書かされた当の素材の山積みに場処をふさがれるのは、さぞかし楽しからぬ事だろうと思う。「そんな事を思うと、時どき音楽その物が厭になる事さえあります」と或る若い人が述懐した。身を削られる思いで書いた推薦や紹介文。「たとえ自分が書いたにしろ、あんな物を読み返す気にさえなりません」と言うのは、まったく腹からの言葉であろう。
 こういう仕事に苦しんでいた詩人であり自分の友人でもあるジョルジュ・シェーヌヴィエールの事を、『慰めの音楽』の著者デュアメルは思い出として書いている――
 「音楽についての彼の知識を、シェーヌヴィエールは何年かのあいだ批評の仕事に役立てた。そして間もなく苦悶しはじめた。音楽というものはそう何時でも楽しみではあり得ない。魂が同意し、身を捧げ、身を捨てるのでなくてはならない。音楽の愛人だからと言って、あらゆる瞬間に祝宴を玩味する用意が出来ているわけではない。さて批評というものは、職業的及び義務的にそれに当っている人々を酷使する。彼らは今日も一日じゅう元気潑溂たることを要求される。昼前は宗教的な祭りのために、午後は練習や演奏会のために、晩は芝居や儀式のためにというようにそれはあますところのない放蕩である。シェーヌヴィエールはじきにこの事で苦しんだ。音楽を喜びも無しに受け取り、食欲も無しに食うにしては、彼は余りにも真心からそれを愛していた。彼は恐れげもなくその事を嘆いた。彼は孤独な人間だった。彼は集会への好みを持っていたが、ごたまぜへの好みは持っていなかった。毎日一回或いは二回の演奏会は、彼にとってほとんど拷問ごうもんになった。それは愛のない情事だった。私にはシェーヌヴィエールの気持がよくわかった。なぜかと言えば私は彼と違ったふうには考えなかったから。そしてこんにちでもなお同じように考えている……」
 私は本来愛すべき音楽から、逆にこれほど苦しまされている人々を自分の周囲に持たないが、これにいくらか似た人は知っているし、時に洩らされるそのにがにがしい告白も聴いている。そしてよく言われる、「あなたのような身分が羨やしい」と。別に羨まれるほどの身分ではないが、詩という本業の有るかたわら、或る音楽に気が乗らなければ何も無理をして書かなくてもいいし、面白くもなさそうな音楽会ならば強いて聴きに行かなくても済む。或いはそのために多少の損失はあるかも知れないが、精神の自由という事と関係の深い音楽のためならば、そんな事ぐらい我慢をしても大して惜しくはない身分ではある。演奏会の聴衆に囲まれて聴きながらメモを採り、それをその晩のうちに整理して一個の感想文なり批評文なりに書き上げ、翌日急いで依頼主のところへ送り届けに行くような生活は、到底私のような人間には出来もしなければする気にもなれない。こんな仕事を拷問と言い、愛のない情事と言ったデュアメルは正しい。
 たまたま聴きに出掛ける音楽会のプログラムや解説のパンフレットはともかく、愛蔵のレコードだけはきちんと整理し分類してカードでも作って置こうと思っている矢先、忽ちとは言わないまでも更に少しずつ新しいのが殖えてゆく。しかしそう始終音楽を聴いてばかりもいられない上に、もう棚に立てたり箱に入れたりする余地も無いので、後から来たのはつい無精をして器械のそばへ積んで置く。すると折角注文して漸く届いたものまで聴くのを忘れてしまうような事が起る。話は少し外れるが、いつか日比谷のバッハ・ゾリステンで聴いたバッハのカンタータ二○九番の『悲しみの何なるかを知らぬ者は』がその一例である。しかし結局この盤は買ってよかった。二〇九番の裹が二〇四番『我はおのれに心満ちたり』で、これも持っていない曲だった。ゾリステンで聴いた時のエリー・アメリンクとは違うエリーザベト・シュパイザーというソプラノ歌手が両方を歌っているが、彼女の歌いぶりは清潔で格調が高く、あの甘美で悲痛な別離の気分を盛り上げた大規模なシンフォニアを初めとして、ルードルフ・エーヴァーハルトの指揮するヴュルテンベルク室内合奏団なるものの演奏も、世俗カンタータと言うよりは寧ろ家庭的とも言うべきこの独唱カンタータに親しみ深い雰囲気を醸かもし出していた。そして私は此処にまた一つの別の美と憩いの席をバッハから与えられた気がした。
 こういう事を考えると、レコードの殖えてゆくのに時どき平気だったり或いは困却のようなものを感じる自分を、贅沢とか恩知らずとか思わずにはいられない。世の中には善いレコードを持ちたがっている人達がどんなにか多数いることか。そしてそういう人達の中には私よりも幾層倍も多くの喜びなり、慰めなり、力なり、精神上の利益なりを享うけている者もいるのだ。その一枚が自分の手中に有ったらどんなに楽しく、どんなに心強く、どんなに喜んで聴き又聴き返す事だろうと思っている殊勝な人々もいるのだ。
 実演を眼前にして其処から享ける心の富を大切な物と思うと同時に、恐らく私は今よりも更に更にレコードという物の価値なり恩恵なりを有難く受け取らなければならないのであろう。自分用のカタログが無くてもカードが無くても、持っている彼らのすべてに通じている程でなくてはなるまい。そしてどんなに面倒でも志した一枚を捜し出して、精神を集中して聴くべきであろう。そうすれば今迄に書いたようなすべての事が一つの愚痴か世迷言よまいごととして、ツツジ咲く初夏の庭のかなたへ吹っ飛んで行ってしまうであろう。

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 おんみ優しき芸術よ

 十月の二十四日には、来日中のケンプのピアノ協奏曲の夕べを聴きに上野の文化会館ホールへ行った。私と私の友人とのために、もう四ヵ月も前から孫の美砂子が座席券を買って置いてくれた音楽会である。彼女自身の財布から持ち合せを出してくれたのだろうが、普段からたしなみが良く心が行きとどく娘だから、私などの知らない間に色々と気を配ってくれているのである。
 モーツァルトの第二〇番のピアノ協奏曲(ケッヘル四六六)を昔から大好きだった友人の高橋達郎はこの親切をひどく喜んで、その日早速あの信州霧ヶ峰のヒュッテ・ジャヴェルから、今はもう草も枯れ紅葉も散り尽したというあの山の上の自宅から、日時をたがえず会場の私の隣席へ駈けつけて来た。彼とケンプ夫妻とのウィーンでの出会いの事は前に書いた覚えがある。その老ケンプが外山雄三指揮のNHK交響楽団を相手に、今われわれの眼の下でモーツァルトを弾いているのである。彼高橋達郎にとっては私以上に感慨の深いものがあったろう。
 一日も遅れまいと孫が急いで買って置いてくれた座席だから、いつもと違ってステージよりも天井の方に近かったが、それでも一階や二階の或る場処よりも響きが良かった。それにケンプの演奏の姿を絶えずすっかり見おろす事ができた。遠来の友人の満足は私の喜びでもあり、「高橋さんの小父おじさん」の分まで用意した美砂子の本懐でもあったろう。
 モーツァルトでは最初に弾いた『ドン・ジョヴァンニの序曲』もさる事ながら、何と言っても二〇番の協奏曲が聴き物だった。私もこの二〇番が好きでエドヴィン・フィッシャーのものその他を一、二枚持っているが、ケンプのを、しかもその実演で聴くのは初めてである。
 演奏が始まる。切分音の和音進行を縫って低い弦のしらべがアクセントをつけて流れる。続いて木管群の奏でる美しい第一主題、そしてその力強い経過部の底からピアノがつつましくしかしみやびやかに第二主題を弾きはじめる。この間の呼吸が何とも言えなく良い。私達はもう此の冒頭から酔っていた。そして今までにも吾々がこの曲を思い出す時に先ず口を衝いて出て来るのが、実に第一楽章のこの部分だったのである。
「ロマンツェ」という名を持つ第二楽章でピアノと管弦楽によって交わされる対話も美しいが、そのピアノが新しい旋律を優美に奏でると弦が控え目にこれに伴奏して、次いで静かに第一主題へと帰って行くところも一層美しい。と、途端にピアノが激しい転調をして聴く者の耳を驚かす。しかしそれも永くは続かず、やがてじきに最初の優美な主題へ戻る。全体としてきわめて情緒に富んだ楽章で、やはり此の協奏曲の中心を成しているもののように思われた。続く第三楽章はかなり速い曲で、これまた軽快なうちに逞しい弾力を秘めたロンドである。ふだん心易だてにモーツァルトに接して或る種の既成概念を作り上げている者が、たまたまこうした機会に名手の実演を眼にし耳にすると、今更のように巨匠モーツァルトの真価の程がわかって頭の下がる思いがするのである。しかしそれがためにはやはり歳をとる必要があるだろう。
 古今のピアノ協奏曲の傑作につづく傑作、モーツァルトのそれにつづくベートーヴェンの『皇帝』。私はこんな堂々たる作品を二つ一度に聴くのを何だか勿体ないように思った。昔ならば手や足先で軽く拍子をとったり、いわゆる鼻声で低く歌ったりしただろう。しかし今ではとてもそれどころではない。膝の上に両手を突いて、息をひそめて、音楽の福音を告げられている者のように、半ば禱るがように、静かな敬虔な気持で聴いていた。
 ベートーヴェンを好きで此の曲をも愛している人が無数の時、どの楽章のどの個所でケンプが特に彼の技倆を発揮したとか、どこはそれ程でもなかったとか言うような事を、私は勿論書く力も無いし書こうとも思わない。それよりも余り音楽会という物へ出かけないこのごろ、真に久しぶりに聴いたこの『皇帝』から、容易には忘れる事もない程の深い感動をうけた事実だけは特筆して置きたい。そして此処でもまた言いたいのは、いくら便利でもレコードはあくまでもレコードであり、テレビの録画や録音にしても残念ながらそれだけの感銘をしか与えてくれない。そこへゆくと音楽会での実演はただ一回限りの勝負だけに、その効果も感銘も聴く者、視る者の心に生き生きとした痛切な印象を残す。そしてそういう体験の積み重ねが、音楽に対するわれわれの真の愛を豊かにし、不動の物とし、いよいよ深い物として行くだろうと信ずるのである。その意味から言えばレコードやラジオで音楽を聴く事は一つの補助的な手段だと言えると思う。
 その夜の会場はほとんど満員だった。そして見渡したところ若い人達が大部分で、わけても女性が七、八割を占めていた。これはピアノをやっている女の人達が多いせいであろうが、こういう人達が高い入場料を払って聴きにくる事を考えると、レコードではなく実際の演奏会でないと満足出来ない人々の多い事を思わせた。
 事実、最近の或る日T学園大学音楽学部に在学中のY君という立派な青年がヴァイオリンを持って訪ねて来て、近い内にビーバーの『ロザリオ・ソナタ』の演奏会があるのだが、その時彼自身の弾く「守護の天使」を聴いて貰えまいかと言う事だった。私は快諾した。ただあいにく孫の美砂子が留守でピアノの伴奏は付かなかったが、十分ほどかかるそのヴァイオリン曲は実に美しいものだった。Y君は未来有望なヴァイオリニストであり、シュッツ合唱団の歌手でもあり、更に私の書く物の愛読者だという事だったが、その宗教的音楽への並ならぬ愛は、その日の演奏やその後呉れた手紙にもよくあらわれていた。こうして筆でも口でも説き明かす事のできない音楽の神秘は、しかし、やはり此のように多くの人々の心を、殊に若い人々の心を捉えてこれに培っているのである。
 さてこの『音楽への愛と感謝』も終りに近づいた。この中で、そもそも私が何を語ったろうか。何を語ってどれだけ読者に訴える事ができたろうか。考えようによれば何も訴えず何も語らず、おのれ一人のために言いたい事を言って来たに過ぎないような気もする。もしもそうだったら結局私はみずから恥じ、多くの人には詫びを言わなければならない。
 しかしまたそれ程でもなく、時には本心を打ち明ける事で却って読者の同感を得、貧しいながらも筆者独自の音楽的収穫を告白して、或る種の人々の心を多少なりとも富ませ和なごませる事ができたかも知れない。もしもそうだったら、多くの人々の退屈を招いた恐れのある此の仕事に対して、尚いくらかの言いわけが立つのである。それは本当にいくらかの言いわけであって、音楽については理論の上でも実技の上でも何も知らず出来もしない私が、ただ自分の思ったまま感じたままを機に臨み時に応じて、他の専門家たちからは外はずれた道で、一介の音楽好きの詩人に過ぎない自分のペンを走らせたというのが偽り無いところである。
 愛してはいながらその愛の対象について知るところの少ない私は、本来ならば書いて置きたかった多くの音楽とその作者についての感想や感謝を述べなかった場合が多い。いま、窓の近くでヒヨドリが鳴きホオジロが歌っている初冬の部屋に独りすわって此の仕事を振り返ると、そういう巨匠たちの名さえ挙げなかった事が悔まれるのである。色々な場合にヨーハン・セバスティアン・バッハやモーツァルトやベートーヴェンを挙げながら、私はヴィヴァルディやテレマンやラモーや、アレッサンドロ・スカルラッティやグルックやハイドン達の仕事を取り上げなかった。若い時からあれ程心酔して今でも好きなのに、どういうわけか余り深く触れる機会のなかったシューベルトが惜しまれるし、シューマンやショパンに対しても同じ思いを抱くのである。ベルリオーズに言及しながらヴァーグナーに二言も費やさなかったのも不思議ならば、ブラームスに背を向けていたように見えるのも不思議である。デュパルクやドビュッシーについては他の雑誌などに少しは書いた覚えがあるが、あの遠く碧いフランスのフォーレやラヴェルを好きでいながら書き落したのも不覚であった。
 このように色々な巨匠の名を書き出してみると、結局私はその時どきの感銘や心に浮ぶ思い出を、原稿の締切りに追われながら急いで書き綴っていたに過ぎない事になる。しかし今はそれでもいい。これはこれとして諦めるか満足するのほかは無い。そしてもしも私がこの仕事から利せられるところ有ったとしたら、それは愛する音楽の美を通して、人間たる者の道を柔らかに、しかししっかりと摑み得たという一事である。
 最後にフランツ・シューベルトの歌で私の最も愛する『音楽に寄す』(An die Musik)を歌って、ペンを擱きたいと思う。

  Du holde Kunst in wieviel grauen Stunden,
  wo mich des Lebens wilder Kreis umstrickt,
  hast du mein Herz zu warmer Lieb entzunden,
  hast mich in eine bessre Welt entrückt,
  in eine bessre Welt entrückt!

  おんみ優しき芸術よ、
  人の世の荒きいましめ
  我に辛つらかりし小暗き時をそも幾たび
  おんみ我が心を温かき愛に燃えしめ、
  我を引きてより善き世にはいざないしぞ!

 

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