高村光太郎


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

大いなる損失

あの手のイメージ

ふたたびの春

高村さんとの旅

初めて見たアトリエ

晩秋の午後の夢想

片思いの頃

智恵子さんの思い出(一)

智恵子さんの思い出(二)

                                     

 

 大いなる損失

 れんぎょうや乙女つばき、水仙やクロッカス、春の花のいろいろが咲いて、昨日の雪の静かに溶けている庭のむこう、濃いブルーに塗られたアトリエの片すみ、そこの大きな寝台にあおむけに寝て、この世を去ってまだ何時間という高村さんがいる。「死ねば死にきり」と或る詩に書いた高村さんが、もう覚める時のないその長い悲しい眠りの姿で。
 書きかけの大作と言われる「東京エレジー」、今日の生きた言葉で書きたいといっていた詩劇。それもこれももうおしまいだ。木彫もまた始める気だったし、作りかけの胸像もそばになまなまと立っているし、臘の彫塑も書も画も、何もかもやりたかったのにもう一切がおしまいだ。最近に出るはずの写真による伝記の本の校正を一枚々々見せてもらいながら、最後の一枚を見終わって「ジ・エンドか」といったそうだが、生きて仕事をする欲望と死の覚悟とが、この幾日その頭の中を交互に往来していたに違いない。いかにも痛ましく残念だ。
 高村さんがいなくなって、日本の詩の世界に大きな穴があいてしまった気がする。今日詩を書いている我人ともに、何等かの意味で高村さんから教えられなかった者もあるまいし、またその根本的なものから影響を受けた者も無数であろう。根本的なものとは日本語の自在な駆使による日本的詩美の高揚、詩精神の開拓、古くさい言葉の綾やなきがらだけの詩型の打破などである。こういう道を高村さんはすでに四十年の昔からひとりで進んだ。詩集『道程』から『智恵子抄』を経て『典型』まで、この道は一貫しながらいよいよ広く、いよいよ深くたくましく、我々の詩の世界が四通八達の大道であるべき事を暗示し、常に新風を吹きひろげてここを豊かにし、ともすれば小さな完成に安んじようとする我々を鞭韃し鼓舞した。その高村さんがいまはない。まことにいうべき言葉を知らない。しかしすべてこれから始まるのだ。高村さんの暗示したもの、志したもの、この世での夢で終わったものが、それぞれの形をとって我々のうちに再生するとすれば。

                               (一九五六年四月)

 

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 あの手のイメージ

 この間の歴程祭でブリッジストーンの映画「高村光太郎」を見て、その一周忌も近づいた今、 又あらためて古い友、しかしもう此の世で再び相見るよすがもない友への深いなつかしさに打たれた。
 あの映画で高村さんの出て来るシーンは、岩手県の山小屋を中心としたものと、帰京後の東京中野のアトリエの内部とであって、同じ頃信州八ケ岳の山麓に生きていた私にはいくらか縁遠い感のするものではあったが、永く別れていても深くなじんだ人がこちらの記憶の中で生きて行くありがたさには、その晩年の老いの姿が、いささかも奇異や瞠目の対象とはならないで、極めて自然な推移として受けとられたのであった。此の事はあたかもあの祭の夕べに三十年をへだてて菊岡久利君に会った私の妻が、「大きく立派になられただけで、人柄はちっとも昔と御変りにならない高木寿之介さん」を見出したのと似ているように私は思う。
 映画の中で高村さんは山小屋のいろりに向かっていた。大きくあぐらをかいたまま自在鈎からまっくろに煤けた薬罐をはずして、土瓶にいれた茶を膝のわきの湯呑へついで一口飲んだ。荒い山風が吹きこんでいろりの粗朶の焔が揺れ、いぶる煙が高村さんの方へ吹きつけた。その途端だった。高村さんはちょっと顔をそむけながら湯呑を持った右手を高く上げ、その左手の指で燃えひろがった粗朶を直した。私の見たのはそれだった。私の見てひどく懐かしかったのはその右手左手の動きだった。高村さんにあって今も昔も変わらない、からだ全体の運動の一部としてのあの大きな手の動きだった。「そう言われればなるほどそうだった」と、知っている人ならば誰しも懐かしく思い出すであろうあの手の機能と表情だった。
 あの全人格的な機能と豊かな表情とをもって、私の二十代から四十代まで、高村さんの手がこの私をもまた遇したのであった。あの手が若い私のためにロダンの「考える人」の形をなぞらって見せ、あの手が私のためにアトリエのカーテンを引き、番茶をいれ、ビールを注ぎ、あの手が春の山旅に私のリュックサックの革紐をしめ直し、あの手が私に教えるとて霞の奥の苗場山を指さしたのである。そして画面が変わると、七十歳の高村さんが、自作の大きな裸婦の粘土像へ巻きつけた布を、人が重傷者の繃帯を解くように注意ぶかく解き、花壇の草に水を与える細心さと愛とをもって、如露の水をふりそそぐのであった。
 その手も高村さんの全存在とともにもう無くなった。そしてそのイメージだけを心眼の底に焼きつけている私たちが、桜のほころぶ染井の墓所に、この四月二日、高村さんの一周忌をとむらおうとしている。

                              (一九五七年三月)

 

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 ふたたびの春

 もう二、三日で高村光太郎さんの一周忌が来る。その高村さんに刻々と最後の時が近づいていた一年まえのあのころと同じように、思い出の中野のアトリエの庭にも今は連翹れんぎょうや伊予みずきの黄色い花が盛りであろう。多摩川の三月の水を見おろす丘の上の私の庭でも、同じ花たちが麗らかな春の空気を照らしている。妻は今朝その連翹の一枝を切って来て、書斎のたなに飾ってある「おじさん」の写真にそなえた。
 詰襟服の上に厚い綿入れのそでなしを着て、大きな老眼鏡のうしろの目を細め、短く堅い白いヒゲにかこまれた口を曲げて微笑しているあの写真に。

 相模野の奥に道志・丹沢の連山がうちけぶり、ホオジロの歌のひびく空に二つ三つ柔らかな雲が浮かび、物思う心のようにフレームのあたりをさすらっている今年最初の一羽の白蝶。逝った人々は永遠に帰らなくても、自然の推移は年ごとに変わらず、めぐる季節がふたたびの春をかたちづくっている。
 今から二十五年ほど前、私は高村さんとの五月の上越の山旅のあとで、その一部分に次のような幾節を持つ詩を書いた、――

  君の存在と共に結局いつか亡びるもの、
  君に属するものの中で最も脆いはかない部分、
  そしておそらくは最も美しい部分、
  君の此の世の姿と、雰囲気と、
  その生活とをわたしは見た。

  生命を形に託す君の仕事は
  それ自身ひとつの永遠を生きるだろう。
  それはいい。しかし君の存在の夏の虹、
  生活そのものである傑作を幾人の者が記憶するか。

  その美の脆いことが時にわたしを涙ぐませた。
  しかしその脆い美がわたしに一層深く君を愛させた。
  友よ、わたしは君の「人間」のにおいに触れた。
  あそこで、あの折れ重なる山々のあいだで。

 新しく出る『高村光太郎全集』の校正刷を見ながら、また彼の彫刻の写真集からその実物を見た折々の感銘を呼びさましながら、私はそれらの仕事の高くかつ大きな価値を考え、一つ一つの作品が持つ制作動機の深さや、表現上のさまざまな試みの敵しがたい新しさや、当時から現在に及ぶその審美的及び倫理的な意義や、未来にまで投げられた種々の問題の暗示性の豊かさを思わずにはいられない。
 そしてすべてこれらの特質が、それぞれ今後の研究課題となるだろうことは彼の業績の担っている運命であり、それは時を重ね、人を得ての上に期待すべきである。しかし再びめぐって来た自然の春を前にして、私の心にそくそくとわく思いは、そういう高村さんのこの世での生ける姿をもう二度と見るよすがの無いという恨みと、芸術は残っても人は亡び、去る者の日々にうとくなるという嘆きである。
 半世紀前に私の物した友情の哀歌が結局は現実となって、われわれに親しかった高村さんの「人間のにおい」が一片の煙と消え、鳴りやんだ歌の余韻のみが残るという事実が眼前のものとなった悲しみである。
 もしもここに誠実な思慕者である一人の夢想家があって、沈丁花がかおり桜がほころぶ染井の墓所にたたずんで、地下の高村さんにその切々の心を訴えるとしたら、高村さんは答えるだろうか。私は思うのだ、あの人間苦にも芸術苦にもたくましかった霊がきっと答えるだろうと。しかしその声は痛ましくも遠く微かであり、またおそらくは追慕者の予想に反したものであろうと。        高村さんは時の霞の奥から答えるだろう、「僕のことはもう終わった。人の世の記憶は夢のようだ。永遠の眠りがいよいよ僕に深くなる。僕はもう人間の仲間ではない。生きている君は君の人間仲間を愛するがいい。さよなら……」と。

                             (一九五七年三月)

 

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 高村さんとの旅

 「高村光太郎と旅」というのが私への課題だが、やはり此処では表題といっしょに、扱う内容も変えさせて貰うことにしたい。
 なるほど彫刻、詩、翻訳の仕事以外にもなお色々な事に興味を感じ指を染めて、その往く処おおむね佳ならざるは無かった高村さんではあったにせよ、さしあたり問題として取り上げるものの中に、「旅行」まで加えるほどのことはないように私には思われる。彼自身の書いたものや年譜などからも察せられるとおり、高村さんはいわゆる旅行家というものからは遠かった。「旅ヘのいざない アンヴィタシオン・オー・ヴォァイャージュ」の歌にほのぼのとした憧れの耳は傾けても、「煙霞の癖」があったなどと言われたら、死んだ当人が却って厭な顔をするだろう。
 全身の隅々まで他国の空の日の光や雨や花の香にひかれるものが備わっていて、およそ旅無しの生涯など考える事もできなかったような人達ならば、ほかにまだ幾らもいる。
 それに、これこそ大事なことだが、高村さんにはその最も活動的であるべき時代に、病身で眼の放せない妻智恵子さんというものがあった。また人手のないそのアトリエには、絶えず灌水を必要とする苗木のような粘土の首や胸像が、遅々と来る完成の日を夢みながらいつでも二つか三つは立っていた。その上、彼には、むしろ彼のような芸術家であったればこそ、そう常に物質的余裕がある訳でもなかった……。

     *

 日帰りのハイキング程度のものは別として、私は高村さんと二度小さな旅をした。たしか昭和四年とその翌年とだった。最初の年には上越国境法師の湯と赤谷あかや川ぞいの温泉へ、次の年には同じ法師から長駆榛名山はるなさんの北の麓の中之条なかのじょうを経て、吾妻川あがつまがわの渓谷沿いにとおく草津の温泉まで。二人とも丈夫な足を持っていたので全行程の大半を歩いた。
 いずれも樹々の若葉や新緑が雲のように湧き上がり、いたる処で精力的に小鳥の歌う、華々しくも男らしい六月山間の旅だった。高村さんは例によって和服にブルーズを着て駒下駄ばき、私は着古した登山服に鋲靴。二人共によく歩いた。その旅じゅう多くは日が照り、きわめて稀に雨が煙った。思い出をうるおしてアクサンをつける雨、緑を濡らす真珠母いろの雨が。
 戦争で当時の日記やノートの類を焼いてしまったので、今は懐かしい此の歌にその折々のもう二度とは書けないような落想の美をちりばめたり、正確な資料の価値を添えたりする事のできないのがいかにも心残りだが、蘇って来る幾つかの旋律を取り上げて、小さな一楽章を形作ってみよう。

     *

 水上みなかみが終点になっていた上越線を後閑ごかんで下りて、結束して歩き出した爽やかな朝の三国街道。高村さんと初めてする山の旅らしい旅が嬉しかった。それに此の上越の国境付近は私にとって未知の土地だし、初夏の空は浅黄色に晴れて到るところ山躑躅が咲き、小梨が咲き、藤が咲き、川ぞいの山村には一と月遅れの端午の節句の真鯉緋鯉が賑やかに浮かんで、古く伝わる民俗の美のゆかしさを、こんな辺鄙なればこそいよいよしみじみと感じさせた。
 しかし私は、口にこそ出さないが、法師まで六里の道を歩くには重過ぎるルックサックを背負っていた。初めの内は意地と張りとで我慢もできたが、その道のりのほぼ半分を歩いて相俣あいまたの部落に近く、万太郎や仙ノ倉の残雪の嶺線を高々と仰ぐちょっとした乗越のっこしで、私はとうとう高村さんに白状した。「実は僕此のルックサックの中にビールを六本持っているんです。そんな山奥だからきっと高村さんの小父さんの好きなビールだって有りはしないでしょうと言って、実子みつこのやつが持たしてよこしたんです。僕もあなたを驚かすのを楽しみに背負っては来たんですが、こんな登りでさえこたえるようになって……」と。高村さんは私に驚き、私の妻の心根をいじらしく思う顔つきだった。妻は彼の親友の長女であり、彼はまた私達の結婚の証人だった。「そりゃあ君重かったろう? ありがとう、ありがとう。僕も持つよ」と高村さんは言って、ナイフを出して強いくご繩をぶっぶつと切り放ち、四本の壜をつかんで自分のルックサックヘ押しこんだ。
 旅でこそわけても結ばれる心の機縁。その一つのものが此処にあった。私の救われた体力と蘇った精神。がっと開いた赤谷あかやの谷の空高く、おりからの雲にかげっていよいよ青い小出俣おいずまたの尖峰の、なんと鏘々しょうしょうと鳴るばかりだったことだろう!

     *

 途中をゆっくり楽しんで日の暮と一緒に着いた法師の湯。今でこそ温泉好きや山好きに広く知られている名ではあるが、高村さんが四十六、私が三十七だった二十数年前の法師温泉なるものは、上州も特に辺鄙な北西の山の奥、三国山脈直下の深い谷あいにひっそりと細い湯けむりを上げている、名声からも時代からも遠く取り残された存在だった。
 その法師の湯すなわち長寿館の、明治二十年代の様式を想わせるフランス風の窓を持った古い森閑とした浴室で、私は高村さんの裸体を見なければならなかった。どういうものか他人の全裸を直視することを憚る私は、これには困った。「尾崎君は裸を見ると中々いい体をしているね。筋肉が一本一本浮き出している」と言われて嬉しい気はしたものの、「僕はどう? 中々いいでしょう? 此の頃少し痩せはしたけれど」という言葉に、仕方なく凝視の風をよそおいながら、実は一糸も纒わずに正面切って立ったその色白の見事な肉体を、ただ両眼の網膜に漠然と露光させているに過ぎなかった。曾て高村さんに「人間は越えさせてはならない垣を持たなければいけない」と言われて、それを即座に納得のできた私だった。その私にとって此処にもまた一重の垣はあるべきだったが、「おれは女を裸にして、隅から隅までむざんに見る。この世の美からは逃げられない。首をかけても、この世の美からはどかれない」と書くことのできた高村さんは、此処でもやっぱり彫刻家だった。
 「この家うちにもビールは有るそうだけどね、やっぱり実みいちゃんの好意をありがたく頂いて、残りはあした三国峠で雲や山を見ながらやる事にしようよ、君」とコップを挙げた高村さん。葉書へ桂かつらの葉を墨で押して絵はがきにして、智恵子さんに便りを書いた高村さん。その寝顔を私に見せ、おまけに大きな寝言まで聞かせた高村さん。――旅にくつろいだ高村さんを語ることは楽しく、消えた俤をしのぶことは懐かしいが、私に与えられた紙の数は思わざるに此処で尽きた。

                            (一九五六年四月)

 

 

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 初めて見たアトリエ

 「そんなおうちへ初めて伺うんだから」と、白木屋から届いたばかりのすがすがしい夏の袴を穿かせられ、三橋堂だかの菓子折をあたらしい風呂敷に包んで持たされて、電車に乗って下町から山ノ手、酒の香かのする京橋区新川から青葉に埋もれた本郷駒込の林町まで、今日こそ晴れて高村光太郎その人に会うことのできる嬉しさと恐ろしさとにわくわくしながら、私の行ったのは明治が大正に改まった年かその翌年の、たしか七月の事だったと思う。
 もっと幼い頃によく菊見に連れて行かれた団子坂。その坂の上から動坂上まで道の片側はほとんど樹々の茂った庭園のへりばかりを見る閑静な通りの左側に、塀もなければ門もなく、往来からすぐ下水をまたいで四つの段々。其処からいきなり狭い玄関口が洞穴のようにあいている高村さんの新築のアトリエだった。鍵のかかった入口のドアと、白金巾やビロードのきれを中から垂らした右と左の小さい深い硝子窓。その小窓の下の足もとには、靴の泥落しかと思われる弓形をした薄い鉄枠が、煉瓦敷に堅くしっかりと嵌めこんであった。そして其の後もめったに開かれたことのない大窓を持つこの南京じたみ渋塗りのアトリエの、これも同じ往来に面した右手裏木戸のすぐそばに、後には惜しくも切られてしまったが、一本の欅けやきが亭々と立ち、その灰褐色の太い幹やこんもりと茂った夏の葉むらが、このアトリエに一つの気品と田舎びた健やかさとを添えていた。
 青空の雲のように去り消えた四十幾年むかしの夏よ! さすがの高村さんも三十そこそこ、近くに実家のあった中条(宮本)百合子もまだうら若く、如来さんの娘関鑑子も向う横町の崖の上の家で、ほんの可愛い少女の年頃であったろう。ともかくもそれぞれの人が知るや知らずや、此処でもまた未来にむかって各自固有の運命をつむいでいた駒込林町の静かな屋敷町に、思いのほかに染物屋があり植木屋があり煙草屋があり、若い彫刻家・詩人がほのぐらいアトリエにひっそりと住んで、不忍川しのばずがわの低地をへだてて上野・谷中の高台をむこうに、あたりはにいにい蟬や油蟬の歌だったような気がする。
 色白の顔に油気のない房々した髪の毛、鼻の下の厚い髭、背の高い無口な主人にあいそもなく通された広い薄ぐらい画室のなか、ところどころに布で被われた彫刻台が立ち、たしか光雲翁の大きな石膏の胸像があり、幾枚かのカンヴァスが重ねて壁に寄せかけられ、左手奥のほうに水道の蛇口の光る立流し、こちらの隅に厚いゴワゴワな袋へ入った一挺のチェロ、壁の腰羽目に造りつけの腰掛と緑いろの綸子りんずの座蒲団、ブロンズの小さいカーライル像や数点の古い工芸品のならんだ棚、ジャワ更紗を投げかけた籐椅子や肱掛椅子に時代のついた低い茶の卓、さては大きな鮪まぐろか何かの脊椎骨に似せて刻まれた南洋酋長の黒ずんだ長い杖など……そういうすべてが重たく手強く分厚にできていて、人間の手工の尊さを思わせる「物」の調和世界をなしている此のアトリエなるものの光景は、其処にほのかに立ち迷うテレビンの香や粘土の匂い、更に何か知らぬが得ならぬ香気のただよいと共に、隅田河畔の下町商家から来た私という二十歳の青年の心や感覚を、驚かせたり魅惑したりするのに充分であった。
 何か知らぬが得ならぬ香気……それは品ひんよくなまめいていた、とまでは言わないにしても、ほのかに敏感な鼻を打って何となく女性をおもわせるものではあった。しかし、言って置かなくてはならないが、其の時はもちろん、又それから暫くの間も、私はやがて智恵子夫人となった女性の存在についてはほとんど何も知らなかった。親しんで狎れようとしない隔てエカトルマンの感情と或る羞恥の気持とが、他人のすすんで語ろうとしない事柄への好奇心の動きや、はしたない臆測や詮索の興味を私に禁じた。人の私事にうとい私、たとえ眼は誰に劣らずよく見えても、その自分の眼の見ない物まで見たように思いなす事を拒絶する私は、智恵子さんについてはもちろん、高村さんの月の裏側の消息についてもまたいちばん無知な一人だったかも知れない。

                                (一九五六年)

 

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 晩秋の午後の夢想

 愚かな空想をするようだが、もしも今高村さんが生きていて、私とおないどしか一つぐらい年上で、今日のような穏やかなきらびやかな晩秋の午後に、多摩川べりの木々に囲まれたこの家ヘたずねて来てくれるのだったらどんなに嬉しいかと思うのだ。つい十日ほど前に、「高村さんのおじさんが生きていらしったら、うちで取れたのですがと言って持って行って上げられるのに」と妻が呟いていた庭の柿は、もう大半孫たちとオナガやヒヨドリのような鳥どもに食べられてしまったが、清楚に白いヤツデの花やルビーのようなサザンカが咲き、ヤマノイモの葉が黄いろく照り、ヤマウルシやヌルデの葉がまっかに染まった庭を前に、半世紀になんなんとする互いの知遇に今はなんの心置きもなく、静かにくつろいで、暗く奥深い緑茶の一碗を味わっているような時間が持てたら、どんなに楽しいことだろうと思うのだ。
 やがて高村さんは書斎の隅の電蓄に目をつけると、あの大きな手の人さし指を立てて私に合図をするだろう。私はその意味をのみこんで、そっと器械に近づくだろう。そして何を一緒に聴こうかと、ずらりと並んだレコード入れの箱の前で一瞬思いまどうだろう。「私たちの古いなじみのベートーヴェンにしましょうか。それも後期の弦楽四重奏曲の、何か静かなラールゴかアダージョに」と私はたずねる。「でなければバッハのオルガン・コラールを一つか二つ。それとも久しぶりにブランデンブルクをお聴きになりたいですか」。すると高村さんは白い大きな手を軽く振って、「今日のところはベートーヴェンやブランデンブルクはいいよ。じゃあオルガン・コラールにしてもらおう」と言う。そこで私は音盤を二枚選び出して、まず初めに「装いせよ、おお愛する魂よ」をかけ、続いてすこし間を置いて、「汝の御座みくらの前に我いま進み出で」をかける。沈痛で深く美しい衆讃曲は秋の夕空の光のように行き進む。この世の時と処とが解体して、音楽の純粋な時間と空間とが君臨する。七十年の互いの過去は遠い世のこと。今在る「時」こそ二人の個々の永遠である……。
 高村さんには、その詩集『典型』に、「ブランデンブルク」という五節から成る六十行近くの長い詩がある。昭和二十二年十月三十一日、岩手の山里の晩秋の天に「純粋無雑な太陽がバッハのように展開した」ことから始まる力作の詩である。原形どおりに引用すると紙数を費やして悪いから書き流しにするが、第三節から終りの節までは次のようになっている。

  「秋の日ざしは隅まで明るく、あのフウグのやうに時間を追ひかけ、時々うしろへ小もどりして、又無限のくりかへしを無邪気にやる。バッハの無意味、平均率の絶対形式。高くちか く清く親しく、無量のあふれ流れるもの、あたたかく時にをかしく、山口山の林間に鳴り、北上平野の展望にとどろき、現世の次元を突変させる。/おれは自己流謫のこの山に根を張って、おれの錬金術を究尽する。おれは半文明の都会と手を切つて、この辺陬を太極とする。おれは近代精神の網の目から、あの天上の声を聴かう。おれは白髪童子となつて、日本本州の東北隅、北緯三九度東経一四一度の地点から、電離層の高みづたひに響き合ふものと響き合はう。/バッハは面倒くさい岐路えだみちを持たず、なんでも食つて丈夫ででかく、今日の秋の日のやうなまんまんたる天然力の理法に応へて、あの「ブランデンブルク」をぞくぞく書いた。バッハの蒼あおの立ちこめる岩手の山山がとつぷりくれた。おれはこれから稗飯だ。」

 バッハの協奏曲の頂点をなすブランデンブルクを、高村さんは自分の山の小屋でのように書いているが、本当は花巻あたりの好楽家のところで初めて聴いたのではないだろうか。そして聴いたのは全六曲か、それともその内のどれか一曲か二曲だろうか。いくつかの徴候からそういう疑問も生まれるのである。しかし結局そんな事はどうでもいい。かんじんなのはこの長大な詩が、いかにもあの協奏曲の微塵ゆるぎのない構成と、耳にこころよい豊かな多音と、強靭な生のリズムの躍動とに乗り移られている点にある。高村さんはここでも雅俗共にその豊富な語彙を縦横に駆使している。好個の戦場を得た将軍のように、旗下の兵を四方に放って手足のように動かしている。そして戦い勝った夕べの馬上で破顔大笑、「おれはこれから稗飯だ」と言っている。真にすばらしい秋の一日だったと思わなければならない。
 しかしまた問題はちょうどここにある。高村さんは「バッハの無意味、平均率の絶対形式」と高い調子で言っているが、その無意味とはバッハの音楽における限定なき生の流れの謂いなのだろうか。また四十八曲の平均率ピアノ曲集は、果たして絶対形式などという言葉で片づけられるものだろうか。また由来高村さんは錬金術などという密室的なものを卑しんでいたのにかかわらず、「究尽すべきおのれの錬金術」とは何を指し、その秘密の錬金術とあの太虚のように純粋無雑な「無意味」とはどういう関係に立つのだろうか。バッハをして「ブランデンブルク」をぞくぞく書かせた「まんまんたる天然力の理法」とは一体何だろうか。そしてたとえ芋粥、稗飯に腹ふくらせようとも、岩手県太田村山口のその小屋で、近代精神の網の目から天上の声を聴き、電離層の高みづたいに交響の相手を求めようと言うのである。しかしこのあたり、否、この詩の全体を通じて、忌憚なく言えば、私は高邁な言葉と観念による雄大な図上作戦を見るような気がして仕方がない。
 あたかもこれと同じ頃、昭和二十二年の冬の初め、私も一種の自己流謫の気持で東京から移り住んだ長野県八ケ岳山麓の森の一軒家で、「存在」と題する次のような三節の詩を書いた。その詩は後に出た詩集『花咲ける孤独』に加えたが、これも紙数を取ることを遠慮して散文体の書き流しにして引用しよう。

  「しばしば私は立ちどまらなければならなかった。事物からの隔たりをたしかめるように。その隔たりを充填する、なんと幾億万空気分子の濃い渦巻。/きのうはこの高原の各所に上がる野火の煙をながめ、きょうは落葉の林にかすかな小鳥を聴いている。十日都会の消息を知らず、雲のむらがる山野の起伏と、枯草を縫うあおい小径と、隔絶をになって谷間をくだる稀な列車と……/ああ、たがいに清くわかれ生きて、遠くその本性と運命とに強まってこそ、常にその最も固有の美をあらわす事物の姿。こうして私は孤独に徹し、この世のすべての形象に、おのずからなる照応の美を褒め、たたえる」

 私は自分の近況をつたえるつもりでこの詩を岩手の山間の高村さんに書いて送ったが、その返事の葉書からは密かに期待していたものは得られなかった。それもいい。人にはそれぞれの気質があり、境遇があり、心境があったのだ。「暗愚小伝」の苦衷から抜け出ると、たちまち「山林」を書き、「脱郤の歌」を書くことのできた、また書かずにいられなかった高村さんだ。そして同じような窮境を生きても私には信州という国がらの暖かい周囲があり、妻があり子があり、何よりも何よりも、高村さんには欠けている家族の炉辺とその慰めとがあったのだ。
 高村さんは他人が自分の世界へ立ち入ることを好まなかったと同時に、おせっかいがましく人ごとに立ち入ることもしなかった。だからそういう事から来る争いやいざこざを一度も経験しなかったように思われる。人情の雁字がらめなどは高村さんの最も忌むところだった。とは言え大正十五年に、シャルル・ヴィルドラックの脚本の読後に書いたあの美しい詩「ミシェル・オオクレエル」にはこんなすばらしい数句がある。「それを見るとついかっとして、ミシェル・オオクレエルが喧嘩をしたんだ。/さあ出て行つてくれと、ブロンドオが椅子をふり上げたんだ。/閉ぢようとする心をどうしても明けようとする、さういふ喧嘩の出来る奴だ。(中略)さういふ喧嘩をおれは為たか、相手の身の事ばかりが気にかかるといふ本気な喧嘩を。』してみれば高村さんにも、純粋な動機から生まれた人間の無私の感憤を善しとする気持は充分にあったのである。
 私にこんな経験がある。たぶん今の詩よりもすこし前の事だったと思うが、当時私の住んでいた上高井戸の田舎に津田道将という詩人が移って来て、病いを養うために或る農家の離れ家に看護婦と暮らし、名は忘れたが二号か三号続いた詩と散文の贅沢な個人雑誌を出していた。津田はそれを私や高村さんや、私の岳父水野葉舟氏におくった。ホイットマンやソローの影響を強くうけた詩風であり文体であったが、水野氏がもっとも高く彼を買い、私が彼に並ならぬ共感を持っていたのに、どういうものか高村さんだけは頑として彼を容れないばかりか、むしろ強い嫌悪の念をさえ抱いていた。私にはそれが惜しまれてならなかったし、敬愛措くところのない先輩にもかかわらず、これだけは何か頑迷な、何か不公正なことのように思われた。そこで或る日駒込の家へ出かけて、私はその嫌悪の理由を高村さんに問いつめ、なじった。つまり高村さんの大嫌いな「人ごとへの立ち入り」であり、おせっかいな介入だった。高村さんは思いつめている私にしばし迷惑そうな顔をして返事を左右にしていたが、「さあ出て行ってくれ」とも言わず、アトリエの椅子も振り上げず、その代りに津田道将の雑誌を手に取り上げて或るページを開き、「ここを読んでみたまえ」と言って私の眼前へ突き出した。読んでみると私もすでに知っている編集後記の短文だが、別に高村さんを怒らせるような事は何一つ書いてないのを確かめた。今ではうろ覚えの記憶だが、なんでも詩壇の老朽した塀や壁どもは早く崩壊してしまえというような事が書いてあった。「これがどうかしたんですか」と私はけげんな顔で訊いた。「僕のことさ。言わずと知れてる」と苦がりきって高村さんは答えた。私は唖然とした。現にすぐれた作品をぞくぞくと物し、ホイットマンやソローにも共通する思想を持ち、今はまた見事な翻訳でヴェルハーランを紹介している事どもを、およそ詩にたずさわる者ならば誰でも知っている高村さんを目して、誰が枯渇した老朽詩人だなどと思うだろう。これは高村さんの思いすごし、ひがみ、言わばばかばかしい被害妄想だ。まったく高村さんらしくもない。そんな考えはきれいさっぱりお捨てなさい。よろしい! 私が津田に会って直接彼の真意を確かめましょう。私はそう言って、今は寧ろあっけにとられている高村さんを後に高井戸の田舎へ帰った。
 誤解解消の成果をいそぐ私は、その夜のうちに津田に会って、あの編集後記の中のいわゆる「老朽詩人」なるものが、たとえばどんな人達だかをさりげなく訊いた。すると、ここにその名を挙げるのは遠慮するが、当時詩壇に幅をきかせていた三人か四人の名が洩らされた。それで私は思い切って、しかし今度もさりげなく、高村さんはどうなのかとたずねた。すると相手は寝耳に水のようにびっくりして、「とんでもない! あの人は僕のいちばん尊敬している詩人です」と、何かを払いのける勢いで手を振って言った。私は自分の考えの正しかったことに満足し、そのあくる日さっそくまた駒込へ出かけて、津田との話の模様を逐一つたえた。高村さんは間の悪そうな顔をして聴いていたが、「尾崎君にはかなわないよ」と言いながらも頭を下げた。私はまた余計なおせっかいをして高村さんを悩ませたかなと思ったが、それでもこれでさばさばした気持になった。翌々日高村さんから心のこもった礼の手紙が来た。そしてその中に「君は天使のような心を持っている」という一句があった。
 あの美しい「ミシェル・オオクレエル」の詩は次のような二行で結ばれている。「―ありがたう、ありがたう、ありがたう、あたし生き返つた気がするわ―。ああ雨に洗はれたやさしい若葉のそれが声だ」
 雨降って地固まる。生き返った気がしたのはブロンドオの妻君ばかりか、私だってそうだった。

                             (一九六五年十一月)

 

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 片思いの頃

 高村さんが亡くなってから早くも十年になる。人に頼まれて短い文章を書くというので、別の仕事を片わきに押しやって、ようやく秋めいてきた朝の机にむかっていると、

  「一人の老いた大事な友の病いが篤い。
  見舞いに行ったアトリエの庭の
  淡い黄色い伊予ミズキの花のあたりを、
  どこの天から降りて来たのか、
  今年最初の紋白蝶が希望のように飛んでいた。」

と書いた昭和三十一年三月三十一日の、ちょうど今日のような静かに寂しい澄んだ朝の心境が思い出される。その「老いた大事な友」である高村さんは、三月の庭の初蝶の希望もむなしく、私がその詩を書いた二日後の雪の朝に、巨木の倒れるようにこの世の命を終えたのだが、その私も今は十年を老いて故人の享年を一つ越えている。人生は長いようでまことに短い。年代記的な年や月日の記憶は薄れても、それだけは鮮明に残っている人や場所や出来事の箇々を並べたり積み上げたりしていると、すべてがつい昨日の事のように思いなされる。
 明治の末だったからまだ十九か二十歳はたちの頃、私にとって「高村光太郎」という名は、その字面じづらから見ても音おんから言っても、他の芸術家の誰のよりも美しく立派に思われた。今でもそんなふうに考える若い人達がいるかも知れないが、光太郎とあるからは当然高村という姓でなくてはならず、高村ならば光太郎がいちばんぴったりした名だというのが、少なくともその頃の私には、彼への深い心酔の因の一つだった。
 私はこの清潔で星のように光った五文字の署名を、当時の文芸雑誌や美術雑誌やいろいろの新聞紙上で見た。と言うよりも、この名の人が書いていればこそそういう雑誌や新聞を買ったり読んだりしたのだった。そして言うまでもなくその文章に心を奪われた。誰一人あんな文章を書く人はいなかったし、誰一人あのように知的で男らしくて孤高で、しかも匂うような文体の駆使者はいなかった。たとえば「粘土と画布」、「出さずにしまった手紙の一束」、「緑色の太陽」などがそれだった。こういう物に較べると一時好きだった『ふらんす物語』の永井荷風の鮮度が薄れ、「ヴィタ・セクスアリス」や「カズイスティカ」の鷗外さんが物足りなく思われた。夏目さんは敬遠、花袋や秋声や白鳥のような人達の書くものは、じめじめと下宿屋臭く泥臭くて嫌いだった。それに木下杢太郎などの仲間もディレッタントに過ぎないように思われた。そういう時代のそういう中で、ひとり燦然と光っているように見えたのがわが高村光太郎だった。
 商業学校を出たばかりの若い銀行の見習いで、月給よりも母親から貰う小遣いのほうが多かった私は、昔風な商人気質あきうどかたぎの父親の眼をぬすんで、好きな文学や美術の本を日本語や英語で読むほかには、家から近い銀座や日本橋の、少し変わった食べ物屋へよく出かけた。ちょうどそのころ新橋日吉町の静かな通りに、洋画家の松山省三という人がカフェー・プランタンというのを開店した。パリージャン好みの瀟洒な品ひんのいい店だった。日本橋小網町河岸のメーゾン・コーノスとはまた趣きを異にして、常連の客には文士や美術家のほかに土地の芸妓などの姿もちらほら見えた。今思えば冷や汗の出るような生意気な文学青年の私だったが、そのプランタンヘもたびたび行った。後にブラジル・コーヒーで有名になったカフェー・パウリスタなどもまだ無かった時代だった。銀座の横通りや裏通りは、柳の街路樹と人力車を見る静かな町の眺めだった。そして或る夜プランタンで、主人の松山さんから「あれが高村光太郎さんです」と言って教えられたのである。
 高村さんは一段高い隣りの部屋の白い紗のカーテンの陰で、一人食卓に向かってトランプの一人占いをやっていた。ただの手すさびか何か対象あっての占いか知らないが、大きな手が並べる小さい小さいカードだった。房々とした真黒な髪の毛、鼻下に髭をはやした色白な長めの顔、飛白かすりの着物に縞の袴。「文章世界」の写真で見たとおりのその人だった。私はすっかり気おくれしてしまって、「紹介しましょうか」という松山さんの親切な言葉も真赤になって辞退した。初めて見る実物の、その反俗物主義的アンチフィリスターな威厳ある風貌と雰囲気とを直観したのである。私はマカロニ・オ・グラタンを半分食べ残し、ペルモー・カシスを飲みほして逃げるように外へ出た。
 二度目はたしか霙みぞれの降っている夜の上野広小路だった。私は高村さんと或る寄席よせの前ですれちがった。高村さんは冬だというのに筒袖の単衣ひとえに袴。傘もささずに古い麦稈帽子をかぶっていた。しかもその足の早いことまるで突風の一過だった。この時も声をかけたり自分から名乗り出たりする勇気はなかった。どうしてあんな人を呼びとめられよう! それほど空気はけわしくすさまじかった。
 三度目は神田小川町の電車通りだった。そのすぐ近くの淡路町の角に、高村さんが令弟道利さんに始めさせた琅玕洞ろうかんどうという美術店があった。これもカフェー・プランタン同様その頃としては珍しい商売、つまりオブジェ・ダールの店だった。私も時どきそこへ油絵や小品の彫刻などを見に行って、高村さんの裸女のデッサンや短冊などに感心したものだが、元より値段が高くて買えなかった。その夕暮二人が電車通りですれちがったのは、私がその店から出、高村さんがその店へ行くちょうどその時だったに違いない。今度こそ私は勇気をふりしぼって声をかけた。高村さんは立ちどまり、白い眼をして私を見た。私はとっさの思いつきで、自分は芸術を好きで、特にあなたの書かれる物に心酔している男ですが、外国の美術雑誌では何というのが善いでしょうかというような事をたずねた。すると「国内で手に入るものならスティデューが善いかも知れません。英語です」。そう言い捨てると振り向きもせずにさっさと琅玕洞のほうへ行ってしまった。初めて聴いた高村光太郎の声だった。それは内に籠もって少し鼻へ抜けるような、いくらか日本人ばなれのした、しかし何となく懐かしい声であり発音であった。その返事はそっけないと言えばそっけないが、私はそれだけで感動して、別れてから一人顔を赤らめ汗をかいた。まるで田舎者の純で憐れな片思いのようなものだった。
 私が初めて駒込の新しいアトリエに高村さんを訪ねたのが満二十歳の時だったから、以上はすべて明治四十三年から四十五年までの間、高村さんが満二十七歳から二十九歳ぐらいの頃の事である。

                             (一九六六年九月)

 

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 智恵子さんの思い出(一)

 ようやく動きそめた自然の春にそそのかされてか、私はけさ書斎の隅の電蓄へ、野鳥の声を録音したディスクを久しぶりに何枚か懸けて聴いていた。スピーカーの箱のほのぐらい奥からは、今ごろの中部地方の山々や森林をなつかしく思わせるヒガラ、黄ビタキ、黒ツグミ、赤ハラなどの春の歌が、青い遠方への郷愁をかきたてるように響いてきた。
 そしてこれらの音盤の中には、青森県の海岸で録音したらしい大白鳥おおはくちょうの啼き声もはいっているので序でに聴いた。
 ところで、この大白鳥の声というのが、元来人間の声、それも成熟した女の声にかなりよく似ているのだが、私は今それが確かに聴き覚えのある誰かの声音こわね、ずっと昔にいくたびか聴いたことのある女の人の声音、――よくよく心を空しくして考えてみると、そうだ、亡くなった高村光太郎さんのこれも今は亡い奥さん、あの『智恵子抄』の智恵子さんの声を大変よく思い出させるという事に気がついたのだった。
 その大白鳥は啼くのである。もう雪の降る北国きたぐにの天から飛んできて、雲も色づくみちのくの秋の入江で、「コワコワコワ、コワコワコワー・コワー」と、大らかに、懐かしく、悲しいまでに清らかに。
 まだ頭の狂わない、その精神が正しく働いていた頃でさえ、智恵子さんには社交的な面がほとんど無かった。時たま人に接してもきわめて無口で、普通の家庭の主婦のように、気楽に人と応対したり、相手の意を迎えるという趣きは全くなかった。体は小柄で小肥りで、趣味がよく着こなしも上手なせいか和服が似合い、色白の顔は丸顔でいて聡明に美しく、一文字の上唇を赤い柔らかい半月形の下唇が受け、それが犯しがたくもまた魅惑的だった。まつげの長い伏し目勝ちの眼はむしろ青いくらいに澄み、初めの頃はたっぷりある黒髪を大きくうしろへ束ねていたが、後には惜しげもなくおかっぱに切っていた。それがまた袂をつめて仕立てた着物や、胸高にしめた博多の帯などによくうつった。そしてたまたま聴くその声だが、それがきれいなコントラルトで、もともと音質もよく量も豊かなのだが、ただ口のあけ方が充分でないせいか、音色ねいろが内へこもって、いくらか内攻するように鼻へかかって、あたかも弱音器を装置したコルネットかホルンのように聴こえるのだった。そのためであろう、慣れない人には彼女の言葉が聴き取りにくく、時によると双方で気まずい思いをする事が無いでもなかった。
 しかしたまたま智恵子さんの人生が、霧を破って現われた北方の空や太陽のように晴れやかな時、その話し声や、何かの拍子で思わず洩らす笑い声が、なんと﨟ろうたく美しかったことだろう!
 その笑いは、字で書けば「ほほほほ」というに過ぎないのだが、それがいかにも玉のように円くて透明で、人の心を楽しくさせたり童心に帰らせたりする天来の響きを持っていた。そして智恵子さんは自分のその笑い声を思わずも取り落とした貴い玉、しかしもうこれ以上この世で落とすまいとする玉のようにしっかりとつかまえて、再びもとの伏し目勝ちな沈黙にかえるのだった。
 そして今、春の初めのうららかな朝、私の聴いている大白鳥の声の中に、もう聴かなくなってから二十幾年、しかしその昔にはそれを聴くことが楽しくもあれば、また友の心を推察しての安堵でもあったあの智恵子さんのコントラルトの声の音色ねいろが、懐かしくも深く大らかに響くのである。
 私には時どき智恵子さんという人が、高村さんにとって一種の天人女房か鶴女房だったような気がすることがある。一人の男を救うために人間世界へ下りて来て、幾歳いくとせを契ってやがて舞い去った何かの精のような気が。
 あの四月の春の時ならぬ雪の未明に、愛する夫光太郎を、われわれの知らない永遠の国の何処か広くて明るい土地へ運んでいった智恵子さんのイメージとして、私には九十九里の浜の千鳥ちどりや岩手の山の雪女より、やはりもっと人間に近くて霊的な鶴や白鳥のようなものが想われるのである。

                             (一九六五年三月)

  

 

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 智恵子さんの思い出(二)

 或る意味では謎に包まれていたような高村光太郎・智恵子夫妻の往年の生活に、結局はその真相について何も知らない私たちが、後になってとやかく想像をめぐらして言をなすことは慎しまなくてはならない。人がどう取ろうと『智恵子抄』は『智恵子抄』でよく、私はあれを高村さん一代の仕事の中での、それもまた一顆の完璧だと信じている。それよりも今私が文字として残して置きたく思うのは、あの純粋な愛の女性、宿命的な病いのためにはかなく逝った佳人高村智恵子さんが、その夫のもとでまだ比較的健康だった頃、たまたま見せたつつましい光か雲間を洩れる空のような、懐かしくも珍貴な姿の二つ三つである。なぜかと言えば私はそういう時の智恵子さんを、当時は元より、今思ってさえ一つの救いのように、幸いにもこの眼で見ることができたからである。
 たしか大正十四年か昭和元年のことだったと思う。その頃高村さんは木彫の小品を作ることに精を出していた。書斎の上の二階の窓際に絨毯を敷き、厚板を横たえ、うしろに二枚折りの屏風を立て、その前に前垂れがけのあぐらをかいて、気に入った木材の小さいかたまりと取り組んでいた。そばには水を張った小型の木のたらいと砥石が置かれ、黄色い金巾かなきんの布きれの上にはのみだの切り出しだの、色々な刃物が十何本、ぴかぴか光ってきちんと並んでいた。私が行くたびになまずが出来たり蟬が出来たりしていた。私は彼が今度はかぶと虫をやってみたいと言うので、その頃住んでいた上高井戸の田舎で、家のまわりの林から幾匹かのかぶと虫をつかまえて持って行った。しかし次に行った時には、「どうもかぶと虫には彫刻的契機モーメントが無いからやめにしたよ、君」と言うから、その後しばらくたって、これも家の裏手の桜林で捕った一羽のうそを籠に入れて駒込林町まで持参した。
 漆のように黒い頭と、薄墨色の背と羽根と、桃色ののどをした美しい雄だった。高村さんはもう山がらを作って放してやった後なので、このうそをひどく喜んだ。智恵子さんもそばにいて、アトリエの板の間へじっとしやがみこんで、息さえつめて、私の籠から山がらの空籠へと移される黒と白と桃色の小鳥の動作を見守っていた。そしてやがて二つの籠の蓋が同時に開かれると、うそは私の籠から高村さんの籠の中へ「ヒュー」という一と声と一緒に飛びこんだ。ああ、その瞬間だった。智恵子さんが「ホッ!」という声を上げた。山野の生物へのいとおしみというか、それとも阿多多羅山や阿武隈の空、東京には無い「智恵子の空」への飛び帰りのためか、とにかくその声には人の心に強く食い入る実感があった。私は小鳥によりも寧ろ智恵子夫人の美しい興奮の表情に見とれた。こうして出来たうその木彫を、彼女は柔らかい紙でくるんで、いつも大事そうに帯の下に挾んでいたということである。
 高村さんに「新茶の幻想」という短いが、まことに見事な文章がある。昭和十年五月の作品だが、新茶の季節になったにつけても、今は品川の病院で病いを養っている智恵子さんの上を思いながら、その昔、「法隆寺さんから頂いたお茶だよ、いれてごらん」と言って父君光雲さんが持って来た玉露の「碧乳」というのを、親子三人で静かに味わった時の事を回想するくだりがその文中にある。ところがそのだが、多分これもうそを届けた年の事だと思うが、晩春だか初夏の或る午後、私は駒込のアトリエでその「碧乳」のご馳走になった。「父が法隆寺の貫主からついこのごろ貰った玉露だが、ちょうど君が来たから一緒に飲もう」と言って問題のお茶をいれてくれた。その時の智恵子さんだが、口数こそ少ないがいかにも家庭の主婦らしく、高村さんも後で書いているように、まず水から湯にわかし、それが沸騰すると火から下ろして生ま水をさし、その水がかえった頃、あらかじめ少し多めに葉を入れた急須にゆったりとその湯をさした。そして夫妻と私との三人は「静かにそれを味わって黙っていた。それは古代な、奥深い、不思議な時間であった」。そして私としては、世間で「変わった人だ」と言われている智恵子さんが、少なくとも自分から見れば変わっているどころか、全く自然な、生きのままの、つつましく敬虔な、美しく好ましい奥さんであるように思われた。
 同じ頃の或る日訪ねたら、アトリエの梁はりから太い綱が下げられて、その下に秤はかりがついていた。粘土か何かの計量に使ったものらしかった。ちょうどいいから三人で目方くらべをしてみようと高村さんが言い出して、一人一人秤のかぎにぶらさがった。十七貫だかで高村さんが一番重く、智恵子さんが十四貫いくら、私があわれ十一貫そこそこだった。高村さんは例のように口をすぼめて私の軽さを笑ったが、智恵子さんは伏し目になって、「でも尾崎さんは……」とか何とか言って、しきりに弁護してくれているらしいのが嬉しかった。

                              (一九六五年十月)

 

 

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