夕べの旋律に (一部)


   ※他の文集のページに掲載されている随筆(目次で薄いグレー表示)はここでは省略しています。
   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 
  鎌倉住まい      
    春信   再生の歌   内と外(1)  
 

  内と外(2)

  秋   早春  

  鎌倉随想      

音 楽



  バッハへ傾く心   古い手箱と「別れの曲」   オーヴェルニュの歌

  笛とレコード   モーツァルト   スカルラッティ

  一枚のレコード   『ヨハネ受難曲』について   ブルーノ・ワルター

  パイヤールの印象   「目ざめよと呼ばわる声す」

三詩人

 

 

  「高村光太郎全詩稿」のために

  「蟬を彫る」

 

  星座早見

  「道程」との出会い   「ぼろぼろな駝鳥」  

  千家元麿の人と作品

  千家元麿の詩と解説   賢治を憶う

思い出の山

 

 

  上高地行

  山と音楽   思い出の山と人

  夜明けの山の写真に添えて

  一人の山   

書 評

     

  串田孫一さんの『ゆめのえほん』

  『東京回顧』

  石川翠詩集

  三人の永遠の音楽家   

余 録

     

  ロマン・ロランの声

  電話寸感   信州の酒に寄せて

  初めて『郷愁』を読んだころ

  自然の音   「井荻日記」について

  私のヘルマン・ヘッセ(1)

  私のヘルマン・ヘッセ(2)   白山小桜の歌

  『ベートーヴェンの生涯』(或る文庫版のために)

  「此の家の以前の子供」

  デュアメルの訳書に添えて

  一詩人のブールデル見学    

       
  後 書 (別ページ《その他》に掲載しました)    

 



                                     

 

鎌倉住まい

 鎌倉随想


北鎌倉あたり

 私は鎌倉市の住人だが、同じ鎌倉でも一つ手前の「きたかまくら」を出入りの駅にしているせいか、東京の賑やかな街中や、どこかもっと遠い土地や旅の列車の中などで、ふと鎌倉として心に浮かぶイメージは、やはり現在自分の住んでいる「山ノ内」一帯の景観である。
 大船駅を出た横須賀線の電車が東海道本線とわかれて南東へ向かうと、じきに窓の左右にびっしりと濃い緑の樹々に被われた低い山の連なりが現われる。電車はその間を左手の山裾ちかく沿って進む。するともうそこは私のいわゆる「鎌倉」で、遠隔の地にいても鮮かに浮かび上がる親しくて美しいイメージの一片である。やがてプラットフォームはきわめて長いが駅の建物はいたって可憐な「きたかまくら」。左は円覚寺や明月谷戸めいげつやとをかこんだ山、右は浄智寺や東慶寺を前に、台山だの西と東の瓜うりが谷やつを擁したこれも山、春もまだ早ければあたりに凛々と咲いて匂う梅の花、つづいて優美な桃、桜、海棠かいどう、レンギョウなどの四月の眺め、そして秋はしみじみと日に照らされた広葉樹の赤や黄や緋色のもみじが、周囲の山々の黒ずんだ常緑樹の色彩をいよいよくっきりと際立たせ、そこにどっしりと落ちついた調和を生んで、本来の鎌倉以上にまとまった「歴史的風土」の自然と人文の景観を形づくっている。
 私の住んでいる明月谷戸には上杉憲方のりかたを開基とする臨済宗建長寺派の寺院明月院があって、谷戸の名もそれに由来していることと思うが、谷の空かほぼ東から西へむかって開けているために、晴れてさえいればあらゆる月齢の月が一年じゅう頭上を通る。季節と共にしずかに移る星座の眺めもそうである。湘南もしだいに寒さの感じられる晩秋十一月半ばの宵の口から、東のほう六国見山の山つづきへ次々と姿を現わして、夜半過ぎころ煌々こうこうと輝きながら天頂を通る馭者座ぎょしゃざのカペラや牡牛座のアルデバランが実に美しい。又ちょうどその時分には天あまの河がわもこの谷戸と同じ方向をとって流れているが、鷲座わしざの牽牛けんぎゅうと琴座の織女しょくじょとを左右にしたがえて、西のかた東慶寺あたりの空へ落ちこむ白鳥座の大十字形がすばらしい。東京に住んでいた頃は年を追って役に立たなくなった星座図や携帯用の天文鏡が、ここへ来てまた持ち出されて活用され、夜の天空を見る昔ながらの楽しみが帰って来たことを私は喜んでいる。
 星の観望といえば去年の二月初めの夜の九時ごろ、家のうしろの裏山続きの高い小さい展望台から、南のほう相模灘のまっくらな水の広がりのかなた、昼間ならば伊豆大島の見えるあたりの水平線近くに、アルゴ座の主星カノプスが赤いランプのような光を放って南中しているのを見たことがある。眼の下は建長寺を深く包んだ山ふところ、そのむこうに冬の寒夜を童話めいた灯あかりで飾り暖めている鎌倉の町、それから海、そしてその暗黒の果てに、頭から足の先まで全容を見せながら巨大なダイヤモンドのような主星シリウスを輝かせている大犬座が横たわり、しかもなおその下に昔の中国でいわゆる老人星、わが国の房総や伊豆の海岸地方で船乗りや漁師たちが布良めら星と呼んでいると言われるカノプスが、四百六十五光年の宇宙のかなたに赤々と燃えて浮かんでいたのである。
 このように天体がよく観察されるのは、鎌倉という土地の空気が非常に澄んできれいなのと、そのために夜の町の雑多な光がいろいろなガスや濛気もうきに吸収されたり、それを乱反射したりしないせいだと思われる。昼間でも東京からの帰りの電車で、憂鬱ゆううつな気持を経験しないで眺めることのできる窓外の風景は、ようやく保土が谷を過ぎて戸塚あたりからのそれである。そして大船駅を出ればもうこっちの物、安心して胸いっぱい息も吸えれば、目をそむけさせたり気に障ったりするような見物みものもない。つまり空気が汚濁から清澄へ移ったのと、その空気に浸つかっている自然や人間聚落しゅうらくの景観が、人の心を晴ればれとさせるような生気を帯びた安泰さで横たわっているからである。

      
谷戸への愛着

 よもやそんなこともあるまいし、又あってはならないが、いろいろと由緒も深い鎌倉の地名からもしも谷やつとか谷戸やととかいうのが廃止されたら、どんなに味気ないことだろう。「どちらにお住まいですか」と訊かれて「扇おおぎが谷やつに」と答えたり、「佐助(ガ谷)です」とか「二階堂(が谷)です」とか返事をする人達には、それぞれその地名や土地に対する何とはない愛か、特別な安住感が、更には一種の誇りのようなものさえ有るに違いないと思われる。親しいドイツ文学者の富士川英郎さんはずっと古くから瓜うりが谷やつに住んでおられ、新参者の私は明月谷戸めいげつやとで暮らしていて、いずれもめいめい自分の土地の名に愛着をもっている。東京では歴史も豊かに趣きも深い古い町名か、やたらに且つ惜しげもなく取って捨てられているが、せめて鎌倉ではそんな乱暴か働かれないようにと願っている。
 「谷たにも谷戸やとも谷地やちも元来或る地形の名称で、台地や丘陵が浸蝕されて出来た谷の底面を言うのである。そして海技せいぜい百メートルか百五十メートルの謂わば丘陵地帯でありながら、鎌倉という土地の地形が海にむかって傾斜していかにも美しく複雑の妙をきわめているのは、要するにこれら無数の深い浸蝕谷のおかげなのである。誰の作で何という句だったか残念ながら忘れたが、鎌倉のそれぞれの谷戸に咲く梅の花の遅速の面白さを詠んだのがあった。それというのも一つ一つの谷の向きや形によって平均した日射量や気温の差があるためだろうと思う。またそれだからこそ梅の花の季節などに、あの谷戸この谷戸をそぞろ歩きするのが楽しいのである。」
 これは私か少し以前に書いた文章の数行だが、鎌倉だけでも四十何カ所か有ると言われるその幾つかをたまたま実地に歩いてみて「なるほど」と思いながら、そこの道の屈曲の具合や勾配、溝の流れ、崖の様相、人家の布置の有様などに、納得と好意のまなざしを注がずにはいられなかった。
 たとえば次にその一例を挙げよう。それも私自身の今住んでいる谷戸にしよう。
 明月谷戸、通称明月谷めいげつだには、鎌倉市山ノ内の地区内にあって、それぞれ円覚寺と建長寺とを擁している山と山との間をうねうねと東西に走っている。横須賀線の下り電車が北鎌倉駅を出ると、じきに左手に見える奥行の深い柔らかな感じのする谷がそれである。その入口から谷の詰めまで一キロメートルはあるだろうか、初めのうちは気がつかない程緩やかな登りだが、やがて少しずつ急になる。二百メートルばかり行った明月院の石の門まで道の右手は山裾の急斜面、左は以前幾棟かの農家とその畑地だったろうと思われる今はゆったりと奥まった住宅地、その前を流れている細い深い溝川に沿って春は並木の桜が美しい清潔で静かな道である。このあたりはまた季節によってさまざまな草木の花が道に面した庭垣の中や山の斜面を彩っている。「あじさい寺でら」の名で呼ばれている明月院の、初夏のアジサイの見事なことは言うまでもない。そしてこの寺の在る場所は明月谷戸でもいちばんふところの深い枝谷えだだにで、それを囲んでいる山の林相の複雑な事と湧き水の豊富できれいな事とのためか、住んでいる小鳥の種類も数もはなはだ多い。
 道幅は寺の門前から狭くなって、同時に爪先上がりになる。今度は左が崖で右側がずっと山裾の人家である。その山裾と人家の間をぼそぼそ谷戸の水が流れている。露出した崖の面にはここにもまた昔の「やぐら」が残っている。岩をくりぬいて造った原始時代の横穴式墳墓だろうと言われていて、鎌倉の谷戸地形のところならば各処で見られる。するとすぐにその崖地を切断するように、小さな田圃を前にして一つの深い谷が現われる。これもまた枝谷だが、春はキブシ、ウツギ、フジ、ヤマツツジなど花の咲く木が多く、七月の初めごろは宵闇に光る螢が美しい。
 やがて右側の人家が尽きて崖地に変わると、今度は左側に家が並んでそのままずっと狭い坂道の奥まで続いている。今でこそ斯く言う私の住んでいる新しい造成地の一聚落があったり、略称「信販」の分譲地へのりっぱな石の舗装道路が山の上まで通じたりしているが、古い明月谷戸もこのあたりが本当の谷の詰めである。そして分水界の尾根へ出る薮の小径こみちを登りきれば、視界は俄然ひろびろと開けて、材木座や由比が浜の向い波打ち際にふちどられた鎌倉の旧市街はもちろん、相模湾の青光りする水のむこうに眉のような伊豆半島や影画のように霞んだ大島、さては西のほう熱海・箱根の火山群から富士山まで、(横浜や東京方向のどんよりと暗く濁った空は敬遠するとして)晴れやかな風景か一望のもとに納まるのである。

      
滑川で

 昭和二十年、終戦直後の秋の或る日、由比が浜と材木座海岸との境になっている滑川橋なめりかわばしのまんなかで、ぱったりと久保田万太郎さんに出逢った。ふだんの交遊はないが互いに顔だけはよく知り合っている二人は、時が時、場所が場所だけにその奇遇に驚き、私としては何か心の暖まるような気がしたものだった。私よりも年上の久保田さんはその時五十五か六ぐらいだったろう。生粋の江戸っ子らしく、殊には生え抜きの浅草っ子らしく、身なりなどもいつも洗練されていたその人が、さすがに戦中戦後の不如意な生活と心身の疲労のためか、悲しくやつれて貧しく見えた。年老いた母の病いの看護に、千葉県の三里塚から妻と一緒にこの鎌倉名越の親戚の家へ来たばかりの私にしたってそうだった。二人は滑川の河口をすぐ眼の前にした橋の上で、寒い浜風に吹かれながら手を取り合った。その時久保田さんか言った、「尾崎さん、あなたも鎌倉へいらっしゃい。住んでみればいい処ですよ」と。それから間もなく母が死んで、やがて私は相州鎌倉ならぬ信州富士見に住むことになったが、この世の酸いも甘いもすべては無常のものと見きわめたような、あの時の久保田万太郎さんの寂しくも穏やかな顔や声音こわねが、二十何年たって図らずもこの土地に定住するようになった今、たまたま同じ滑川の水の流れを見るたびにいとど懐かしく思い出されるのである。
 「その滑川へ御案内しましょう。上流のほうにはまだ昔のおもかげが二、三ヵ所は残っていますから」と、ついこの頃の或る日、極楽寺に住んでいる親しい若い詩人の伊藤海彦が誘いに来た。私は自分達夫婦が仲人をしたこの聡明で勉強家の友の、いつもながらの厚意に感謝して一緒に出かけた。彼の美しい奥さんと私の孫娘とが同伴だった。四人は先ず鎌倉駅から十二所じゅうにそう行きのバスに乗った。大きなトラックやライトパンなどの往来の烈しい金沢街道をむこうに眺める十二所神社は、左手奥の小高いところに山を背にしてひっそりと立っていた。熊野十二所権現を勧請かんじょうした社だそうで古びた社殿と神楽殿のある狭い境内には、そのあたりから始まる静かな谷戸の風景と共にどこか田舎びた趣きがあった。植物を好きな孫の美砂子は、早くも咲き出しているアキノタムラソウの薄紫の花を見つけて声を上げた。これから土用の暑さの七月だというのに、ここかしこに落ちている銀杏ぎんなんの黄色い冷たい実を手に取って、私はふと歴史の土地の秋を感じた。
 伊藤君の見せようと言った「昔のおもかげ」の滑川は街道のすぐ下を流れていた。なるほど深い渓谷の見事な眺めで、これがすぐ向うの鎌倉の街中で、味も素気そっけもないコンクリートの両岸に押しせばめられているのと同じ滑川だとは、咄嗟とっさにはとても考えられなかった。私たちの立っている場所はちょうど谷の曲流点だったが、鬱蒼うっそうとした奥のほうから姿を現わして来る涼しい水は、私たちの頭の上から対岸の山の斜面まで届きそうに枝を伸ばしたアカガシらしい一本の樫の大木の下で半円をえがいて淵を造り、小さい魚群の影を見せ、その水際まで下りて行って手をじゃぶじゃぶやっている二人の若い女を喜ばせた。
 そこから新旧こもごもの両岸の間を水はたどって泉水橋、青砥橋、華ノ橋と、それぞれに名の美しい橋のずっと下手しもてに小町三丁目の東勝寺橋。連れて行かれたこの橋の下を流れる滑川の谷もまたよかった。ここでは十二所のそれとは幾分か趣きが変わって、私には自分の永く住んでいた東京玉川の上野毛に近い等々力とどろき渓谷が思い出された。おりからの夏の青葉にいよいよ暗く深く見える谷に架かった橋の鉄の欄干らんかんの赤く錆びて朽ちかけたのも、東勝寺の旧跡や北条高時腹切りのやぐらなどに程近い場所だけに、街中とは思えないような環境の落ちついた品位と静寂とにマッチしていた。その橋の上から見下ろした流れの岸の岩の上に、「チ・チ・チ」と囀さえずりながら餌をあさっている黄鶺鴒きせきれいの姿を私は認めた。それに又どこか近くから三光鳥の声も聴こえた。そしてすべてこれらの事が、瞬間ではあるが、私に東京の旧居へ心淡い郷愁を目ざめさせた。

 

寺と海と

 夏の盛りの由比が浜は、海水浴客で賑わうと言うよりも寧むしろあきれる程の雑踏だし、春や秋の八幡宮、鎌倉宮、それに建長寺や円覚寺を始めとした有名な寺々は、いずれも団体の観光客や修学旅行の生徒たちで引きも切らない人出だが、そうしたほかの土地からの訪問客の比較的少ない時の鎌倉は、駅の付近は別として、全体がいかにも静かで落ちついて住み心地がいい。文筆の仕事の人や画だの彫刻の美術家が多いのもそのせいであろう。古くから土地に住んでいる友人と閑静な道を散歩している時など、あれが誰それの家、これが何々さんの住居と聞かされて、なるほどと感心することが多いのである。
 その鎌倉の駅前の広場にしたところで、天気が佳くて、海や山からの風がそよそよ吹いて、日光のしみじみと暖かい秋の日などは、どこか鄙ひなびた、気の置けないものが感じられる。勿論よその町の駅同様、ここにも銀行やデパートのような高い建物も立っているし、喫茶店やいろいろな商店も軒をつらねている。おまけに十二所行き、鎌倉宮行き、逗子行き、大船行き、大仏廻りの藤沢行きなど、各方向へのバスやタクシーが鼻を揃えて並んではいるか、それらがいずれも一つの清楚な調和景をなして、私たちの鷹揚おうような利用とつつましやかな楽しみとに備えている。生きることの妙味がここにもあり、平常で自然であることの善さがここでもまた味わわれる。そして私としてはすぐ向うの若宮大路へ出て、懇意の薬局へ薬を買いに寄ってもいいし、二ノ鳥居前の本屋へぶらりと本を見に行ってもよく、また気が向けば段葛だんかづらの参道を前にした鰻うなぎ屋で軽い昼食をとってもいい。どこへ行こうと何をしようと、こんな日には見る事もする事もすべてか鎌倉の秋めいている。
 そんな或る日、私は小町の理髪店を出ると、電車でまっすぐに北鎌倉へは帰らずに、駅の前から逗子行きのバスに乗って松葉まつばガ谷やつの妙法寺へ行った。この前友人の案内で初めてそこを訪れたのは庫裡くりの庭に紅白の梅の花の美しい季節だったが、それ以来一度は是非一人でぶらりと行ってみたいと思っていた寺である。
 大町名越なごえの四つ角で車を降りると、母親の病死した親戚の家の前を悪い事だが素通りして、静かな住宅地の中のうろ覚えの路をやがて立派な総門の前に立った。日蓮宗楞厳山りょごんざん妙法寺。日蓮の庵の跡と伝えられ、護良もりなが親王の遺児日叡にちえい上人の建立と言われているこの寺を私は好きだが、来て見れば春とはまた風情を変えて、広い境内の老杉の緑の中にちらほらと黄や赤のもみじの色を点じていた。そしてまだ生き残りのツクツクボウシの声。私のほかに人の姿は一つも無かった。
 本堂を一回りして蓁々しんしんと暗い杉の木立の中を山の中腹の法華堂へ行った。この前にも感心した「苔の石段」は今度もまた健在で、心ない見物人に踏みにじられた形跡も無かった。その石段の横を登って護良親王の石塔のところまで行き、樹下の陰と洩れ陽の中で煙草を吸いながらゆっくり休んだ。あたりには水のような四十雀しじゅうからの声が響き、遠く見おろす総門のかなたに十月の秋の海が光っていた。

      
小さな生命たち

 若い頃から鳥や植物や昆虫が好きで、文学の仕事のかたわら望遠鏡で野鳥の観察をしたり、山野の花を調べてその腊葉さくよう標本を作ったり、いろいろな蝶を採集して標本箱の数をふやしたりした私は、今でこそそんな殺生せっしょうなまねはやめにしたが、見ることだけは相変わらず好きで、鎌倉に移って来ても注意の眼がおのずと彼らに注がれる。
 湘南地方や伊豆に多いと言われているモンキアゲハを、もう珍しいとも思わずに自分の庭
で見ることのできるのは、この土地に住むようになってからだった。ミカン科の植物の葉を
食って育つこの揚羽あげは族の蝶は、真黒な立派な羽根に二つの大きな黄色紋を際立たせながら、ウツギや山ツツジの咲く四月末から五月にかけていたる処を飛んでいる(但しその後の観祭に
よると、この蝶は一年に二回ないし三回発生するらしい)。
 春や夏の山地の渓谷でならば、その美しい声と空色の羽毛にも拘わらず格別珍しいとも思
わないオオルリを、建長寺裏山の半僧坊から天園てんえんへの尾根伝いで見たり聴いたりしたのもここでの事だった。また葛原くずはらが岡おかから大仏への途中、佐助さすけガ谷たにの奥の森で営巣中のヤマガラ夫婦を発見して喜んだのも、オオルリの時と同様富士川英郎さんや伊藤海彦たちと一緒の遊山の折だった。
 さては到る処の半日陰の崖で、初夏には紫の花を見せるイワタバコ、「近くの原で摘んで来ましたから」と言って隣人の若い奥さんが、その一輪を涼しく氷らせて持って来てくれたマツムシソウ、山あいの田圃たんぼの夏の夜のホタル。しかし、そういう者たちも、遠からずこの鎌倉の自然界から姿を消してしまうだろうと思うといかにも寂しい気がするのである。

 

 

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三詩人

『高村光太郎全詩稿』のために

 私は書を見ることは好きだが、自分自身は生来どうも字が下手なので、他人の書いた字を見ても、心の中での好き嫌いは別として、批評がましい事は一切口にしない。勿論ひどい悪筆を見せられて気の毒な気のする時も無くはないが、あの人がこんな美しい、或いはこんな立派な字を書くのかと思って、今更のようにびっくりする時のほうが遥かに多い。
 ところで私が「美しい」とか「立派だ」とか思う場合の事を考えてみると、俗に言う麗筆であれ無心枯淡の筆であれ、それがいつでも正直に、まごころ籠めて書かれていると思われる時である。へんに気負ったり気取ったりせずに、本当にまじめに素直に書かれていれば、稚拙でさえも気持がいい。しかし、昔、或る著名な洋画家の書を指して、「意識して稚拙に書くのは卑しい」と私に言ったのは高村光太郎さんである。「卑しい」。高村さんはこの言葉の当てはまる人間や事物をいちばん軽蔑した。
 その高村さんの書というか字というか、これには二十代の昔から敬服しきってなお今日に及んでいる私である。これには全く批の打ちようも文句のつけどころもない。ことによるとその彫刻や詩よりも寧ろこのほうがすぐれているのではないかという気が、彼の書に惚れぼれと見入った瞬間にはするくらいである。ところがその字でいっぱいの九百篇にのぼる詩の原稿が、すべてそっくりそのまま精巧な複製写真版の本になって出るというのである。雄大で雅致に富み、自由自在で厳正で、気品高くして滋味また滴るような漢字や仮名文字が、長短の詩を成して全二巻を埋めつくしていると言う。私の喜びは問題外として、これを所蔵して日夜親しむ事のできる人々はまことに幸いだと言うべきであろう。

 

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「蟬を彫る」

  冬日さす南の窓に坐して蝉を彫る。
  乾いて枯れて手に軽いみんみん蝉は
  およそ生きの身のいやしさを絶ち、
  物をくふ口すらその所在を知らない。
  蟬は天平机てんぴょうづくゑの一角に這ふ。
  わたくしは羽を見る。
  もろく薄く透明な天のかけら、
  この虫類の持つ霊気の翼は
  ゆるやかになだれて迫らず、
  黒と緑に装ふ甲胄をほのかに包む。
  わたくしの刻む檜ひのきの肌から
  木の香たかく立って部屋に満ちる。
  やがてわたくしはこれに一切を投じる。
  時処をわすれ時代をわすれ
  人をわすれ呼吸をわすれる。
  この四畳半と呼びなす仕事場が
  天の何処かに浮いてるやうだ。

 この詩は昭和十五年二月十一日の作だということだが、それより早く大正の終り昭和の初めにも、高村さんには木彫の制作に熱中していた一時期があった。私もその頃を思い出して或る文章にこんな事を書いた。
 「高村さんは書斎の上の二階の窓際に絨毯を敷き、厚板を横たえ、うしろに二枚折りの屏風を立て、その前に前垂れがけのあぐらをかいて、気に入った木材の小さいかたまりと取り組んでいた。そばには水を張った小形の木の盥たらいと砥石が置かれ、黄色い金巾かなきんのきれの上には鑿のみだの切出きりだしだの色々な刃物が十何本、ぴかぴか光ってきちんと並んでいた。私か行くたびに鯰なまずが出来たり蟬が出来たりしていた」。
 ところで「蝉を彫る」というこの詩は実にみごとで、私は以前からこれを高村さんの傑作の一つに数えている。こんこんと湧き、なみなみと流れ出てくる泉のような言葉の味は、声に出して読めば読むほど無限に深い。よく切れる刃物を駆使して木を彫るという爽快な造形作業が、選びに選ばれて寧ろ天然の物のようになった言葉の芸術と渾然と溶け合って、ここに一篇の比類も稀な詩をなしている。強くて緻密で含蓄ゆたかな言葉の材質。冒頭の「冬日さす南の窓に」の一句が、最後の「四畳半と呼びなす仕事場」の朝の雰囲気を、なんと生き生きと描き出していることか。「乾いて枯れて手に軽い」のカの音の重なりが、「生きの身のいやしさ」や「物をくふ口すら」のイやクの音の重なりと共に、なんと読むに楽しいことか。蟬という鳴虫の、わけても「黒と緑の甲胄を装った」ミンミン蟬というあの美しい蟬の羽根の真相を、わずか四行足らずの句で道破した水もたまらぬ技術の冴えは、さすがに彫刻家・詩人高村光太郎だと言わなくてはならない。

 

 

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 『道程』との出会い

 数えればもう五十五年前になる大正三年十月のある日、その頃私の勤めていた丸ノ内のある会社の玄関へ高村光太郎さんが訪ねて来て、私を呼び出して一冊の新刊の本を手渡すと、「じゃあ失敬」と言って手をあげてすぐにそのまま帰って行った。建物が大きくて多勢の人間が働いている会社や役所などというものに、およそ縁の遠い彫刻家であり詩人である高村さんが、用事がすめばさっさと帰ってしまうのは当然な事に違いないが、私は何か申しわけのない気がして、贈られた本を手にしたまま、呉服橋の方へ遠ざかるそのうしろ姿を玄関前の歩道に立って見送っていた。
 私は二十二歳、高村さんは三十一歳。本郷駒込の画室からわざわざ届けに来てくれたその本は、彼が自費を投じて出したばかりの最初の詩集『道程』だった。
 事務室へ戻って胸を躍らせながら開いた厚い紙表紙、水色のその詩集の見返しには、私の名と著者自身の署名とかあり、「無くて叶わぬものは只一つなり。マリアはその善きかたを選びたり。こは彼より奪うべからざるものなり」という聖書の中のキリストの言葉が、美しい書体のフランス語で添え書きしてあった。私は尊敬してやまないこの先輩の親切に心を打たれ、自分のような名もない者へのこんな破格の厚遇に感激した。そういう私は詩というものを書き出してまだ間がなかったのである。
 永代橋際の家へ帰ると、ほんとうに斎戒沐浴さいかいもくよくする思いで秋の夜長を机の上の『道程』に向かった。つい去年、まだなじみも薄い私に作者自身が書き上がったばかりのを読んでくれたバーナード・リーチヘの「よろこびを告ぐ」や、ホイットマンを想わせる長い逞しい「冬の詩」があり、それより前から好きだった旧訳の雅歌のように美しい愛の詩「郊外の人に」や 「冬の朝のめざめ」があり、初めて読む作品としてヴェルハーランヘの傾倒の感じられる燦然さんぜんとした「五月の土壌」や「秋の祈」があった。そしてたとえ両親のもとを去っても文筆をもって世に立ちたいという当時の私の悶々の情に答えるかのような、決然として雄々しい心の歌、あの全文平仮名書きの「さびしきみち」があった。それは私にとっても、今日に到る長い「道程」の道しるべだった。

 

 

 

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「ぼろぼろな駝鳥」

  何か面白くて駝鳥を飼ふのだ。
  動物園の四坪半のぬかるみの中では、
  脚が大股過ぎるぢやないか。
  頸があんまり長過ぎるぢやないか。
  雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
  腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
  駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
  身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
  瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
  あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
  これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
  人間よ、
  もう止せ、こんな事は。

 記録によると昭和三年二月の作だというから、高村さんはもうあと一と月で満四十五歳の春を迎えるところだった。この時分は短い詩の出来ることが多く、それも大概若い連中のやっていた小さい薄い詩の雑誌への寄稿が多かった。みんな年も若いし金もない時代だったから、詩の同人雑誌の定期発行などというのは土台無理でもあるし贅沢な事だった。私や片山敏彦や高田博厚たちの出していた「東方」だとか、逸見猶吉、草野心平たちのやっていた「銅鑼どら」などがそのいい例だった。しかもその頃の高村さんは生活も楽ではないどころか、それ以上に窮迫していただろうと思われるのに、自分の詩には雑誌の維持費とか同人費とかいう名目で、きちんきちんとかなり多額の金を添えて送って来られた。今だってこんな誠意のある潔いことをする人はまずいないだろう。この事は書き残して置く必要もあり、またそれだけの価値もあるように思われる。
 この「ぼろぼろな駝鳥」はそういう時代のそういう空気の中で出来た。そしてその頃の高村さんの書いた一群の詩の中での、最もすぐれた作品の一つだと私は思っている。これは前記の同人雑誌「銅鑼」へ出たが、他人は知らず、私自身はこの詩を読んでグッと胸に来るものを覚えた。
 その時分高村さんとは上野の動物園へ二度ばかり続けて行った記憶があるが、自然を好きな私が主として動物学上の見地から鳥や獣を観察していたのに引きかえて、高村さんはそれより以前のあの「白熊」や「象の銀行」の詩のように、私のとは全く異なった詩的契機を彼らから捉えていたらしかった。だからその高村さんの邪魔にならないように、私は私なりの目的でいろいろな柵や檻おりの前を見てまわった。それにその頃はまだ動物園を訪れる人の数も少なく、園内も至って閖静だったから、お互いに何を見、何を考えているにせよ、ほかの見物人に押されたり、群衆の声がうるさかったりするような事はなかった。猿だって今のように広い岩山に半ば自由に放たれて、いつのまにか大きな一族を形づくって、ボスになったりなられたりはしていなかった。せいぜい二匹か三匹が狭い鉄の檻に入れられて、少しばかり四ッ足で歩いたり、あぐらをかいて蚤のみをとったりして、冷たい床の片隅でしょんぼりしていた。
 そういう時代の上野公園動物園の、静かといえば静かすぎるくらい人影も稀な寒空の下で、一羽だが二羽だかの駝鳥を見たのだ。「四坪半のぬかるみ」と言うから、畳にすれば九畳敷きかそこらの鉄網張りの柵の中の、霜か雪どけでびしょびしょに濡れた狭っこい地面の上だったろう。世界に現存する鳥の中で最大の種類だというから、脚だって太く長くて大股だし、頸だってそれに比例して長いに違いない。産地は北アフリカ、アラビアなどのような熱帯地方の沙漠や荒地だから、雪の降る国の九畳敷きでは、考えたって、これをつかまえて来て飼うほうが無理というものだ。生まれの土地では植物質や小動物を常食としているそうだが、どんな人間が与えたものか、その駝鳥に堅パンはひどすぎる。遠方にあこがれている彼の眼は動物園の森よりも、東京の空よりも、いや、日本よりも遥か遥か遠いところを見ようとし、遠くを夢みて、赤道地帯の自由な故郷へと誘う「瑠璃色の風」が、今にも波々と吹き渡って来はしないかと待っている。そしてその堂々たる体や長い頸に較べると小さすぎるくらいな素朴な頭の中が、無限に大きな(多分悲しみと憤りとに彩られた)夢で逆まいている。しかも本来ならば美しく房々とその体を飾っているはずの彼の羽毛がここではどうだ。まるで禿はげだらけで薄汚いぼろ姿ではないか。本当を言えばこれはもう駝鳥ではない。いくら野生の姿を見せるのだとはいえ、日本の一月二月の酷寒の季節に、これでは理屈から言ったって全く合わない。そこで「何か面白くて駝鳥を飼ふのだ」ということになる。そして、そこで「人間よ、もう止せ、こんな事は」という苦にがりきった警告になる。
 詩自体がはっきりしているから、もうこれ以上何も説明は不要のはずだが、作者の高村さんはこういう不自然を極度に忌み、こういう事が当然のように行なわれ通用して怪しまれない世相を憤っているのである。貧しいぼろぼろな羽根は元より、その長い脚や頸や、遠くを見ている眼や、あこがれと脱出の夢で逆まいている小さい頭は、すべてこの不自然さや人間の暴戾さを強く印象させるための極めて正確で且つ美しい詩的描写である。そしてそこで「何か面白くて」と「もう止せ、こんな事は」という痛烈な抗議プロテストが生きるのである。

 

 

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 千家元麿の人と作品

 千家元麿は明治二十一年(一八八八年)六月八日、男爵千家尊福の子として生まれ、昭和二十三年(一九四八年)三月十四日に六十歳で他界した。生来孤独を愛する異端児で、小・中学校での学業を余り好まず、規則に束縛されることを極度に嫌っていたと言うから、成績・操行共に両親や教師達の期待には多く添わなかったろうと思われる。しかしその天性は善良で美しく、情にもろく、一方芸術への愛も熾烈で、早熟な文才と画才は若年の頃からその鋒鋩ほうぼうを現わしていた。生前の詩集十巻、遺作詩集一巻、死後集められた詩約一巻、長篇の叙事詩一篇、小説二篇、更に詩・美術・外国文学に関する随想数篇などを数えれば、その業績の大きく且つ多彩なことが思われる。
 しかしもしも彼がなお十年二十年を生きて、その仕事の筆が断たれなかったとしたら、そこからどんなに一層円熟した、どんなに美しく老戊した作品が生まれた事だろうと思って、謂わば「早死はやじに」が惜しまれるのである。

  昨日きのふは去っても
  また新らしく生れる
  不死鳥のやうに
  火焔の中から蘇よみがへ

 こうした熱烈な願望を心に燃やし、消えなんとするそれを懸命に掻き立てていた詩人千家元麿が、ようやく襲って来る心身の深い疲労と生活の索寞とをどうする事もできず、移る世代の足音と目まぐるしい芸術的思潮の変遷のなか、枯野に夢を馳せめぐらす焦燥と孤独のうちに、世にも稀なあの無私と熱中と愛の詩人の姿を、蹌踉そうろうと遠く寂しく消して行ったことは限りもなく痛ましい。

     *

 彼の処女詩集で又その最もすぐれた詩集である『自分は見た』は、大正七年五月、三十歳の時に出たが、それを率先して推挙したのは武者小路実篤だった。実際、詩人千家元麿は雑誌『白樺』によっておのれに目ざめ、わけても武者小路、長与善郎、岸田劉生らとの親交によって駿馬しゅんめの驥足きそくを展ばすに至ったと言っても過言ではあるまい。元より能よく与える者はまた能く与えられる者でもあって、武者小路、岸田というようなすぐれた同僚を得て躍り出た千家の矢継ぎ早な作品発表と旺盛な詩作力とは彼らを驚かせ、喜ばせ、剌激したには相違ないが、それにしても彼は当時ようやく擡頭してそれぞれの流派を形成しつつあった感情詩派、民衆詩派、乃至は正統をもってみすから任じる高踏的な詩派等々の雑然と相隣る野から一人離れて、武者小路らの『白樺』的雰囲気のなか、その素朴と奔放と、情愛に濡れた随毛や眸を珍重されながら、もっぱら風薫る貴族的・人道主義的な牧場でおのれを養っていたのである。
 彼はたびたび居を変えたが、多くは東京北部の郊外、都会と田園とが接触して一種独特な庶民的生活風景と憂鬱な雰囲気とを持つ巣鴨、池袋、練馬のあたりを、家族をかかえて転々と借家住まいしていたように思われる。しかもその間に画期的な『自分は見た』以後、『虹』、『野天の光り』など十冊の詩集に加えて、ほかに二冊の短篇と戯曲の集、一冊の随想集を次次と出版させた。この間かん頭に変調を来たして幾らかの空白の時も持ったらしいが、やがて大東亜戦争が始まって、昭和十九年には長男宏がビルマで戦死し、翌年三月糟糠そうこうの妻千代子が疎開先の埼玉県吾野あがのの田舎で病没した。この選詩集の巻末を飾る「三月」という詩は、永の年月人生の明暗苦楽を共にした亡き愛妻への、真に惻々そくそくと胸迫るような哀歌の一つである。

     *

 千家元麿の詩業のあとを辿って見ると、その流れは初めに太く終りに細くなっている。それはひとり作品の量においてばかりでなく、質においてもまたそうである。彼は数年の間に持っているすべてを使い尽し、その後は惰性か、稀に訪れる霊感か、或いは過去の作品の残響によって書いていたように思われる。おそらく病気のための空白や、予後の肉体的・精神的の疲労や衰退が原因したのであろう。それにしても彼は早くから吐き出すのに急で、摂取するのにおろそかだったのではないだろうか。又たとえ摂取はしても余りにも自己流に早呑みこみで、且つその栄養の対象が、余りに当時の『白樺』的な物に限られていたのではないだろうか。彼の作品には他からのきびしい批判というものが向けられなかった。純粋で素朴で恬淡てんたんで恥ずかしがり屋で、常に同情と愛とにせつなく満たされていたこの善人、この巷と田園の歌の天使を温かく囲むものに、少数の作家や画家の一団があり、ひたむきに彼に心酔する一群の若い詩人達があった。それはまことに幸福な事には相違なかったが、又いちめん他山の石、口に苦い良薬を手にしなかった事は、芸術家としての彼にとって幾らか惜しむべき事ではなかったろうか。
 しばしば私は考えるのだが、もしも彼が『自分は見た』や『虹』や『野天の光り』等に示した意欲と、充実と、力感と、特色とを、更に更に深く広々と押し進めて行ったならば、どんな未前の詩芸術の一天地が新しくわが国に出現したことだろう。その畢生ひっせいの作の合本はおそらく日本の『草の葉』とも言うべき物になったろう。そして或いは重たく堂々とした大冊に仕立てられ、或いは軽く手丈夫な袖珍本しゅうちんぼんに製本されて、広く永く人々に愛され読まれたことだろう。実際彼の詩は本質としてもそう成って然るべきものであり、芸術家を動かすと同時に大衆の心に訴え、それを掴む力を持っているからである。
 私はあの「車の音」、「野球」、「村の郵便配達」のような、貧しい庶民的生活者への人間

愛と共感とから対象を偉大なものにまで聳え立たせる彼の、その正しく、健康で、更に圧倒的な力に縊れた作品をどんなに好きだろう。これこそ真にホイットマン、ミレー、ゴッホに心酔してやまなかった詩人の作品である。又あの「白鳥の悲しみ」、「象」、「蛇」のような、実相観入の驚嘆すべき深さにまで達した作品をどんなに愛するだろう。これらもまた彼の傾倒したゴッホに通じる道であると同時に、彼の遂に口にしなかったライナー・マリア・リルケの、あの物の詩の真諦しんていにも脈絡するものである。
 すべてこのような作品は彼の在世当時すでに詩界に独特なものであったし、今後も永く独特である事をやめないだろう。彼の早逝はまことに惜しく、半途でのその罹病と疲弊とは一層惜しい。私がこの選詩と解説とを喜んで引き受けたのも、実に畏友子家元麿への讃嘆と敬愛と哀惜との故にほかならない。

 

 

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千家元麿の詩の解説 

 千家元麿の人となりと作品の独自性については、その概観をすでに書いた。それゆえ私としてはこの項で幾つかの詩を取り上げてその鑑賞を試みることにするが、紙数の制限もあるので多くを望むわけにはいかず、自分で選んで採録したものの中から作者の特色の一層顕著なものを択りすぐって、それらについて若干の感想を述べるのほかはない。しかもそのためには『自分は見た』と、『虹』と、『野天の光り』の三冊の中の作品を主として問題にした。なぜかと言えばこの三冊にこそ、彼の詩の園はその最も見事な花を咲かせているように思われるからである。
 第一詩集『自分は見た』は大正七年(一九一八年)彼が満三十歳の時に東京の玄文社から出た。内容の詩は九十七篇、亡父尊福に献げられて、装幀は岸田劉生、序文を武者小路実篤が書いている。武者小路はその長い序文の中でこう言っている、「自分は日本の今の詩壇からは門外漢かも知れない。しかし本当の詩には自分は門外漢ではない。(中略)自分は日本に真の詩人がゐるかと聞かれた時に、自分は『ゐる』と答へる光栄を有してゐる。そして自分は今の日本の詩人で誰を一番尊敬してゐるかと云はれても、自分は即座に答へることが出来る。そして今の日本で最もよき詩集はなんだと聞かれても自分はたちどころに答へることが出来る。その詩人は千家であって、その詩集はこの本である」と。そして当の千家はと言えば、彼はその短い自序の中で、「自分はこの詩集に誇りを持つことを禁じ得ない」と簡潔に言い切っている。
 まったくそう言われても無理ではなかった。私自身初めてこの詩集を手にした時の驚きと感動を今でもはっきりと覚えている。劈頭へきとうを飾る「車の音」が先ず私の初心をとらえた。深夜の巣鴨の大通りを天から繰り出して来るような夥おびただしい百姓の車の木の輪の音。それは彼の好きなホイットマンの『草の葉』から根本的な霊感をうけた、真に日本の庶民的・人間的な生活美への讃歌だった。「揃ひも揃って選り抜きの、よく洗はれた、手入れの届いた、簡単で、調法な、木の車の自信のある安らかな音色」への愛がこの詩の中で繰返し変奏される主題であり、全篇の掴みどころでもある。「着物は綺麗だが頭でっかちだ」という近所の子供達の奇抜な評語を含む「わが児は歩む」は、散歩の途上の描写に幾分冗長な点が見られるかも知れないが、その飾りけのない率直さには読む者をほほえませ、心を温まらせる力がある。同じことが「野球」の場合にも言える。ここでは電気会社の前の草原で近くの小さなメリヤスシャツ工場の職工達がボールのノックを受けているのだが、どこで習ったのか皆上手で、「一人一人が病的な美しいなつこさ」を持っていて、「その姿がまるで星のやうに美しい」という条くだりは凄いほど利いている。そしてこういう処が彼千家の独擅場、その無類の魅力である。
 「飯」にしてもそうだ。「君は知つてゐるか、全力で働いて頭の疲れたあとで飯を食ふ喜びを。赤ん坊が乳を呑む時、涙ぐむやうに、冷たい飯を頬張ると余りのうまさに自ら笑ひが頬を崩し、眼に涙が浮ぶのを知つてゐるか」が主体となっているこの僅か九行の短い一篇を読んで、辺幅へんぷくを飾ることのない彼の目に見えるような正直さ、人の善さに、却っておのれを省るもの私一人ではないであろう。詩集と同じ題を持つ「自分は見た」も、「野球」や「飯」と同様に彼の人間性のにじみ出ている詩だが、貧しい場末の下駄屋の店先で仕事をしている主人と、赤子を抱いてぼんやり上がり框がまちへ腰をかけている女房と、板の間へ立って二人を見下ろしている彼らの老父との、そのいずれの顔にも現われている生活苦のやつれの様を彼は目に見えるように生き生きと書いている。そして最後に「それを思ふ度に涙が出る。何事のありしかは知らず。されど自分は未だかゝる痛苦に迫った顔を見し事なし。かゝる暗き光景を見し事なし」と、半ば文語体の絶望的トロストロースな一句で結んでいる。そしてこうした破調に、われわれはむしろ詩人の遣瀬やるせない気持を汲み取るのである。その意味では「白鳥の悲しみ」でもまた慰めのない場景が採り上げられている。動物園の白鳥の母親が園丁から大切な二つの卵を奪って行かれた処を目撃して書いたものだが、やがて悲しみの母であるその白鳥は気を取り直して水中へ躍りこみ、「涙を洗ふやうに、悲しみを紛らすやうに、その純白の胸も首も水中へひたし、水煙を上げて悶えた。然しそれはとり乱したやうには見えなかった。さうして晴々した日の中で悲しみを空に発散した」。そして詩人はそこに美しく痛切で偉大でさえあるものを感じた。詩全体がリルケの形象詩を想わせながら、しかもリルケの持たなかった、又あえて持とうともしなかった、人間らしいせつない愛情から書かれている。「立ち話し」や「朝飯」や「櫛」のようなものはそれまでにも書いた人が無く、今後もまた書く人が無いであろうが、それを平気で、立派な主題として、心をこめて書いた詩人を私は愛さずにはいられない。序ついでに言えば「貧しい母親」という詩で、「高い煉瓦れんぐわの壁の中で、赤い着物を着てゐるのを見たら、私の乳は上ってしまった」とあるその高い煉瓦の壁は当時の巣鴨監獄のことであり、赤い着物とは女の夫である囚人が着せられている獄衣のことである。この詩を書いた時、作者はおそらく巣鴨に住んでいたのであろう。
 第二詩集『虹』は大正八年(一九一九年)千家三十一歳の時に新潮社から出た。岸田劉生の一層美しい装幀で、武者小路実篤に献呈されている。これに付けられた作者の序文は第一詩集のものよりも遙かに長く、詩の形をとった全文が喜びと自負と前途への希望に満ち満ちている。内容は長短百二十六篇から成っているが、この中では「象」と「村の郵便配達」とが最も注目すべき逸品である。そして「象」が或る意味でリルケを想わせながら尚あの『形象詩集』の詩人を凌駕りょうがしているとすれば、「村の郵便配達」は作者の愛してやまなかったゴッホとその画とを想わせる。先ず「象」こそはすばらしい。詩人は動物園でこの巨獣の吼えるところを見ている。「象は鼻を牙に巻きつけて巨おほきな頭をのし上げて、薄赤いゴムで造つたやうな口を開いて長く吼えた」。長い太い鼻を牙に巻きつけるのであり、柔らかい口はゴムで造られた物のようである。先ずここが第一に見事である。続いて「二分三分、四分位たつと再び象は鼻を口の中へ巻き込んでくはへた。さうして異常な丈たけとなり、不思議な痛ましい曲譜を吹き鳴らした」。この巻き込んでくはえるの語感が、なんと如実で逞しくさえある事か! 異常な丈となりも写実を超えた写実である。「やがて彼はまた何ものかに促されて凄じい姿となり、巨頭を天の一方に捧げて三ベン目を吼えた。」「四ヘン目を吼え終った時、彼はその鼻で巨きな禿げた頭の頂きをピシャリと音の発するほど嬉しさうに叩いた。何か吉兆に触れたやうに」。ここに至ってはもう私として言う事はない。これは正にこの詩集の中での圧巻、いな千家元麿一代の傑作の一つだと言っていい。「村の郵便配達」は兄である「象」に対する弟の観がある。配達人は深夜の雨の中を角灯提げて、全身を鱗か鎧のように光らせてやって来る。「うしろに銀の征矢そやを背負つてゐるやうに」。深夜の豪雨の山道や森や畑を辿り辿って村へ着いた嬉しさに、彼は「心気亢進かうしんして輝くそうだ」。黒い頭巾の蔭のその顏は透明な瑪瑙めのうのように赤く、異様な大きなすがすがしい眼を光らせて、濡れ濡れた合羽かつぱの下から大事そうに郵便物を取り出す。彼は「熱い息をはずませ、受取る人も沈黙し、闇と光りの中で眼を集めて選えり分ける濡れない葉書や手紙の美しさ。光りの中で浮んで闇に消え入る人の宛名の美しさ」。これだ! これこそ画家ゴッホをこよなく愛した詩人千家元麿の真骨頂だ。
 私はなお『野天の光り』その他に言及したかったが、紙数が尽きたのでここで一先ずペンを擱おかなくてはならない。述べ尽せなかった処は読者諸賢の一層こまかい鑑賞にまちたい。

 

 

 

 

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 賢治を憶う

 宮沢賢治生前の唯一の詩集『春と修羅』は、関東大震災の翌年の大正十三年(一九二四年)四月に発行されたが、それは奇しくも今連れ添っている妻と私とが結婚して、その頃の東京府豊多摩郡上高井戸の田舎の新居に、家庭生活を営みはじめた同じ春のことだった。
 或る日幾つかの郵便物にまじって、その畑中の一軒家ヘ一冊の詩集が届けられた。差出人は遠い岩手県に住んでいる未知の人で、タンポポの模様を散らして染めた薄茶色の粗い布表紙の背に、「詩巣 春と修羅 宮澤賢治作」とあった。私もその頃第二詩集『高層雲の下』の原稿をまとめていたが、今と違って知らない人から自著の寄贈をうけることなどは稀だったので、新婚早々の大らかな気分、世の中との新しい交わりや人の訪れを広々と迎えようとする気持も手つだって、この未知の詩人からの贈り物を一つの大いなる祝福のように喜んだ。
 時に宮沢賢治二十八歳、私は三十二歳たった。

     *

 花の散った玉川上水の桜の土手を眼前に、その奥の奥に薄青くかすんだ春の富士山を眺める家の前の花壇のテーブルで、私は遠い人から贈られたその詩集を一気に読んだ。すべてが今までの誰の詩とも違っていた。天文学や気象学、地理学や地質学、動物、植物、鉱物に、化学や物理学、仏教にキリスト教。種々さまざまな学問の専門術語や宗教上の言葉が、或いはルビを振られ、或いはなまの片仮名で、また或いは横倒しのローマ字綴りで、ほとんどどのページにも出現した。しかし幸いなことに私もそんな学問に全く無縁ではなかったので、一つ一つの言葉の意味も大抵はわかり、わからないところは参考書で調べ上げて、彼がこうした専門語や術語を駆使せずにはいられない作詩上の要求を理解することができた。それは当時一部の人々の非難したような衒学でもなければ、奇異を衒てらうことでもなかった。すべてがとめどもない彼の精気の突破口だった。
 賢治の内面の世界は光と混沌の夢の巣のような物を思わせる。さまざまな欲求や夢想が精神的宇宙の流星雨のように飛びちがい、渦状星雲のようにすさまじく旋転している。しかもそれらが次々に形をなして実行に移されるのである。
 彼は十八歳で法華経の精神に生きることを誓う。彼は生涯を通じて農民を愛し、その幸福を念じ、農学と農芸の研究や指導に当たりながら、郷土の農民や子弟の間に新知識を普及し、おのれを空しくして彼らと共に土に働く。彼は講義に、設計に、実地指導に農村を巡回し、その超人的な奉仕活動と、極度の粗食と、重労働との間に徐々に肉体を虫ばまれながら、僅かな時間を見出して人の胸を打たずにはおかない詩を作る。彼は青年たちのためにレコードのコンサートを催し、また西洋から花や野菜の種子を取りよせて、これを町や村のために試植する。彼はただの詩人ではなかった。われわれの言う「詩人」という名のスケールが、彼には小さすぎるように思われる。

     *

「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ/慾ハナク/決シテ瞋いかラズ/イツモシズカニワラッテヰル。一日二玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ/アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ/野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萓かやブキノ小屋ニヰテ/東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/(後略)」

 宮沢賢治の名を口にするほどの人は誰しもこの詩の存在を知り、少なくともその最初の一、二行をそらんじているだろう。学校で生徒に教えながら、その人自身賢治に傾倒している先生は元より、まだ純真な魂が早くもこの詩の誠実な美に打たれて、何かしらけだかい物に触れたような気持になる生徒ならば、喜んで、好んで、この詩の全体を暗誦するだろう。むしろ賢治を云々しながらこの詩をよく読みもせず、これによって彼の真骨頂に思い至らない者、それは当代の詩人ではあるまいか。

     *

 賢治が二十五歳の若さでみまかったその愛する妹のために書いた悲しみの詩『永訣の朝』こそは、私の知っている幾つかの同じような悲歌の中で最も心を打たれ、胸に迫って来るものである。それは美しいとも、清らかとも、けだかいとも、到底一言では形容のしようもない。血肉をわけた兄と妹、幼い時から互いに愛しいつくしんだ兄妹の現世での永の別れ。おりからみちのく十一月の寒い朝を陰惨な雲間からみぞれがぴちょぴちょ降っている。死も間近な妹は「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(雨雪取ってきて下さい)と兄にせがむ。兄は外へ飛び出して欠けた茶椀に向い美しい雪をうけて帰って来る。瀕死の妹が天上のアイスクリームのように喜んで砥めてくれるために。すると妹は言う。「うまれでくるたて/こんどはこたにわりゃのごとばかりで/くるしまなぁよにうまれでくる」(また人間に生まれて来る時は、今度はこんなに自分の事ばかりで苦しまないように生まれて来ます)
 なんというすなおさ、死に面してのなんという静かな清らかな光を包んだ言葉だろう。こういう方言をきわめて自然に配して読む者の心を浄化するこの詩こそ、正に兄と妹の天上の歌というほかはない。

 

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書 評

串田孫一さんの『ゆめのえほん』

 夢には色が無いというが、著者自身が文章と画をかいたこの『ゆめのえほん』は、それぞれにほほえましい夢の中の形象の饗宴、えもいえず美しく微妙な色彩の音楽のようだ。こんな本をもらったら子供たちはさぞかし喜ぶことだろうと思うが、これを贈られた大人の私だって、いや、大人なればこそ、半分子供心になりながら、いっそうこの画本の本当の美、その深い含蓄、今は珍しく貴い物となったこの世の青空や地平線の果てにただよう詩のようなものに打たれ、それを懐かしまずにはいられないのである。
 「ぼくのみるゆめは、へんなゆめですが、よそのひとのゆめも、りっぱだとはおもえないので、はずかしがらずに、かくことにします」という前書きがあって、まずびぼというラッパを貰った一番初めの夢に始まり、オレンジ色のころもを着たふしぎな坊さんたちの行列を見る夢に終わる十篇の小さい物語が、一つ一つ新鮮に味わい深く、平易でありながらこの著者独得の柔らかい言いまわしや話術で進められてゆく。
 私などの見る夢はひどく現実的でむしろ苦しいのが多いが、知っている限りではハンス・カロッサだけがこんな夢に恵まれたのではあるまいか。そして串田さんのこの『ゆめのえほん』にも、われわれ大人への柔和な教訓や警告のようなものが至るところに見出される。

 

 

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『東京回顧』

 この本の著者曾宮一念さんは明治二十六年生まれだというから、私とおっつかっつで、もうかなりのお歳のわけだ。それにしては記憶の良さと、文章の自由自在さと、筆力の旺盛な事にまったく驚かされる。もちろん話題から話題へと移ってゆく間には、一つ一つの材料の取捨選択や、話の持って行きかたや、力の入れどころの点などでいろいろ人知れぬ苦心はされているに違いないが、そんな事がまるで感じられないほど楽々と読めて、興味もまた尽きない文章であり本なのである。
 内容の構成は二部にわかれていて、前半が本の名と同じ「東京回顧」、後半が「学生時代、其の他」という事になっている。この「其の他」の中には長短の詩も何篇か含まれている。その上画家である著者自身の放胆な風景のデッサンや、軽妙であって美しい人物の顔のスケッチがたくさん入っている事も言って置かなくてはならない。そして読者はこれらの文章と画とがその根底ではよく一体をなしていて、曾宮一念という一人の老芸術家を、ほとんど全人格的に表現していることに気がつくのである。
 友人中村彝(つね)と会津八一の思い出を書いた「二人の独身芸術家」からは、一種すさまじい、そのくせ何か遣瀬やるせないような感慨をうけたが、私とほぼ同年輩で、子供のころ育った場所も同じ東京下町、それも中央区霊岸島や越前堀の事がこまかに書かれている幾篇かは特に楽しく面白く読んだ。お互いに二十歳はたちになるまでの明治時代の乗り物のこと、銀座や日本橋や浅草のこと、花見のこと、物売りのこと、盛り場や祭礼や縁日のこと、女の髪かたちや着物のこと、酒倉の並んだ新川・新堀や、メトロポール・ホテルのある築地居留地界隈のこと、佃島やその渡船わたしのこと、永代橋わきの商船学校と明治丸のこと、大黒屋の鰻うなぎと茅場町偕楽園の支那料理のこと等々、言われてみれば一々それと思い出されて、すべてが昔なつかしく昔恋しくなるような話だった。

 

 

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石川翠詩集

 木曾福島の女学校での文芸講演会で、その頃まだういういしい学生だった石川翠さんを初めて見た時からもう十五年になる。石川さんは会の幹事役か何かで、始終私につきそっていろいろ面倒をみてくれたが、いかにも木曾谷の娘らしく素朴で、言葉ずくなで、しとやかで、何か話しかける私の顔をまっすぐに見るその深くきれいに澄んだ眼が、誠実で、聡明で、敏感な子だという好印象を私に与えた。そしてその消えがたい感銘のために、それ以後私の書いた幾人かの信州木曾の若い女性が、そのどこかで石川さんを原型にしているように見えるのも是非がない。旧約聖書のソロモンの雅歌に、「われは色黒けれどなお美わし」という若若しく誇らかな句があって、私も時どきモンテヴェルディやパレストリーナの宗教的な歌でこの言葉を楽しく口ずさむが、男でもなく、色とてもまた黒くはなく、そして十五年後の今は人妻であり人の子の母でもある石川さんと共に、「われはなお美わし」というこの言葉の真実が、昔の余韻をひびかせながら、こんにちもなお私の前に現われることこそ喜びである。

     *

 この詩集の中に「会話」という短い詩がある。それがいかにも石川さんという人の心の真相をうかがわせ、かつ彼女のほとんどすべての作品の命をなすところのものを解く鍵ともなるようにさえ思われるので引用してみる。

    一つの会話
  その時 わたしを超えて飛ばねばならぬ
  不可能な心が波紋をひろげ
  キリキリ 舞い落ちる
  やさしさに出あった 一つの会話が
  わたしを かなしみにしてしまうので
  もう ふりむくことをしない

 どんな優しさの匂う会話であったか忘れたが、永い間には、私にもまたこういう微妙な瞬間の彼女を見た記憶がある。共通の話題のなかで、或る思い出を柔らかに私が話す。彼女は両手をきちんと膝に、つぶらな眼を思い入ったように深く伏せて、私のほうがむしろ驚くほどあどけなく、こちらの言葉に一々うなずく。何という誠のこもった聴きかただろう! 私はそれで満足して、一つの歌を歌い終わったような気になって、もうそれ以上話をひろげず、深入りもしない。たとえ彼女がもう過去を振りむくことを肯じなくても、ふとこみ上げて来る感傷を払いのけようとしたとしても、それはおそらく当然で、この上彼女のなすべきことは、現在の自分自身を超えてなお飛ばなければならないからである。

     *

 私はこの詩集から美しい悲しみや諦めの調べのかずかずを受けとるが、それが石川さんの過去・現在の運命とどのような関係にあるかを全く知らない。また彼女の作品の結びが、ほとんど常に慰めなきトロストロス断絶或いは「突き放し」の形をとっているが、それか彼女の無常の世への諦念の故か、それとも存在の悲哀を踏みこえての突進の姿勢であるかをつまびらかにしない。しかし、よしんばそれが何であれ、書かれた作品はまさに作者の心の叫びであり、止むに止まれぬ歌であって、私としてはその一篇一篇がすべて彼女の真実に貫かれていることを露ほども疑わない。私の胸を打って時にそれを暗澹とさせ、また時に晴れやかな詩心を奮い立たせるのも、すべてその真実と美との故である。そして詩は美しくなくてはならず、その美は魂の真実を根源としなくてはならないことを、十年の研鑚の証しとして初めて世に問うこの詩集が語っている。

 

 

 

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三人の永遠の音楽家

『モーツァルト』、『ベートーヴェン』、『バッハ』。最近出版社から寄贈された訳本《永遠の音楽家》シリーズの初めの三巻が、冬の朝の机の片隅にきちんと揃って重なっている。どの箱も表面いっぱいそれぞれの巨匠の顔の色刷りで埋まっているが、一冊一冊手に取り上げて眺めると、いずれも彼らの音楽同様親しくて美しく立派だ。薄紫のモーツァルト、黄色いベートーヴェン、朱赤色のバッハ。これから後に続く人たちのがどんな色になるか知らないか、遠からず春の訪れるこの鎌倉の谷間の家の書斎では、こんな事さえなお季節の花へのような一つの期待になるのである。
 このところずっとほかの仕事に追われていてまだどの巻も通読するには至らないが、あけて見て偶然に現われた何ページかを読んだ限りでさえそれぞれ生き生きとした特色を持っていて、在来の本では見られなかったような問題の取り上げ方や書き方がなされているのに直ぐ気がついた。たとえばジャン・ヴィクトル・オカールの『モーツァルト』では全巻が二人の音楽愛好家の対話から成り立っているのだが、モーツァルトへ近づくためのそれぞれ異なった幾筋かの道が次々と挙げられ、研究され、論じられて行くところなどは、読んでいて興趣が尽きないばかりか、少なくとも私などはそこから学ぶ点すこぶる多くのものが有ったのである。
 ところがその高橋英郎氏訳の『モーツァルト』から西本晃二氏訳の『ベートーヴェン』になると、がらりと様子が変わる。私にはアンドレ・ブークーレシュリエフという著者の名は初耳だが、部分的に一読した箇所だけでもかなり面白かった。曲の解釈なども自由で勁抜だし、その所信をずばりずばりと言い放つ大胆さにも新味が溢れている。たとえば「ディアベルリ変奏曲」を論じながら、「これはもう変奏曲などというものではなく、無限の多様性をもつ有機体の集団であり、各個体の奥深く互いに共通し互いを結び合わせる一点を持つ想像力から生み出された三十三個の結晶体であって、もしもなんらかの絵画的表現を用いてこの作品を全体的に説明するとしたら、さしずめパウル・クレーの「碁盤」の絵のどれかという事になろう」と言っているあたり、何か新しい風のような、広々と胸襟を開いて物を言っているような、一種の爽快さを感じさせられる。
 リュック・アンドレ・マルセルの『バッハ』は角倉一朗氏の訳である。従って訳者にその人を得ていることは言うまでもない。そしてこれもまた私の貧しいバッハ文献への一つの新しい寄与である。角倉氏は、この本の著者の目的としているところは単なる伝記でもなく、作品の解説でもなく、実にバッハの音楽とそれを生んだバッハという人間の秘密を解明しようという点にあって、すなわちこれは一つの「エッセー」であり、そこにはフランス人の感覚と、わけても確かな現代人の目がある、と言っている。バッハについてフランス人の書いた本という物を(デュアメルの随想以外)ほとんど知らない私には、訳者自身のこれらの言葉が一つの指針でもあれば刺激剤でもある。しかもこの著作の中にこまかい組み方で挿入されている「オルガン小曲集」や、「クラヴィーア小曲集」や、「ブランデンブルク協奏曲」や、幾つかの「カンタータ」などの解説を実は早くもそっと拾い読みしながら、この豊かな本の好もしい前味をすでに少しばかり試みて楽しんだところなのである。

 

 

 

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余 録

電話寸感

 二月の湘南、北鎌倉、梅の花もちらばらの明月谷の谷の上、新居の書斎でモーツァルトのピアノ協奏曲を聴いている。一七八五年に新しい泉のように噴き出した傑作、二短調、ケッヘル四六六番である。
 と、その英雄的な第一楽章が終わって、これからいよいよあの天国の歌のような第二楽章のロマンツァが始まろうという瞬間、下の台所兼食堂から突如としてインターフォーンで、「お電話ですよ!」と呼び上げてくる。私はふしょうぶしょうに立ち上がると、器械をとめ、針を上げて、下の部屋へおりて行って受話器をとる。東京の或る出版社からの電話で、今度新しい企画を立てたについては、その用件で明日午前中に参上したいのだが、ご都合はいかがかというのである。私は承諾のむねを答え、停車場からの道筋をこまかに教えて電話を切る。
 ところでこの思わぬ中断のために、私にはもう続けてモーツァルトを聴くことか出来なくなった。雰囲気がこわされたというか、等質な純粋な水に異質なものがまじったというか、とにかく玉のようだった時間にひびが入って、容易に元にはもどらない。出版社の新しい大きな企画、それについての相談。どんな話を持ちこんで来るのか知らないが、今の私にとっておそらくわずらわしい事がらには違いない。そう思うと、そのわずらわしさの予感だけですでに気がめいり心がざわめいて、少なくとも夜にでもならなければ再びモーツァルトには立ち帰れない。これはいささか不健全だと言えば言えるかも知れないか、このごろの私は本当にそうなのだから仕方がない。
 しかしもちろん、そんな時ばかりはない。電話があればこそと痛感する時だって大いにある。いつだったか別の文章で書いたことがあると思うが、北アルプスの常念小屋からの電話のようなのがその一つのいい例である。孫娘と一緒に夏の山登りに出してやった長女の一行が、無事に予定のコースを歩いているかしらと東京の留守宅で妻と心配している矢先、常念岳のてっぺんで大雷雨に襲われ、ビショ濡れになって小屋まで駈けおりたが、みんな無事で、今着物をかわかしたり賑やかにおしゃべりをしているところだから安心して下さい。小屋のご主人からも先生に宜しくということでしたという電話だった。するとその翌日、今度は学校の水泳の練習で房州館山へ行っている中学一年生になる男の子の孫から、「おじいちゃん、おばあちゃん、寂しくない? 僕はずっと丈夫だから心配しないで下さい。今日は往復二キロ泳がされたが平気でした」という知らせだった。いずれも幾十里をへだてた山頂や海辺からの愛する者たちの肉声のたよりで、そのかすかに聴こえて来る一生懸命の話し方がいとおしく、懐かしく、「そうかい、そうかい、よかったね」と返事をしながら、やれやれという安心と共に胸がいっぱいになるのだった。
 ここまで書いてよく考えてみれば、モーツァルトを中断された出版社からの電話の場合だって、先方としては充分真剣でもあれば申しぶんなく丁重でもあったのだから、それをただ迷惑の一語で片づけてしまうのは、第一、電話を敷いた目的とも矛盾している。この意味では無いよりも有る方がもちろんいい。しかし突然電話口に引っぱり出されて、どうでもいい私事や世間話を長々としゃべりまくられては、折角の電話もつい呪いたくなる。

 

 

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初めて『郷愁』を読んだころ

 私は日本で広く『郷愁』の名で知られているヘルマン・ヘッセの小説『ペーター・カーメンチント』を、今ではもう四十年以上にもなる昔に初めてドイツ語の原書で読んだ。しかし、「読んだ」と言うのははたして正しいだろうか。いや、そうではなく、むしろ「その原書に初めてまみえた」と言ったほうが適切である。しかも貧しい語学力でおずおずと、初恋の若者のような胸のときめきと恥じらいとをもってである。そしてその第一章の最初のページから、たちまち目もくらむような言葉と文体の美に圧倒された。それは三十五歳になるその日まで、いまだかって日本のどんな小説からも経験したことのないような鮮烈な感銘であった。時は大正年代の終り、昭和の初めだった。
 旧制の中等商業学校を出ただけの私は、詩作を主とした文学の仕事をするようになってからも、基本的な学問上の知識を必要とすることはすべて独学でやらなければならなかった。語学もその一つだった。ただ英語にだけは早くから自信めいたものを持っていて、まずトルストイ、ドストイエフスキー、ついでロマン・ロランなどの大小の作の英訳をほとんど読みこなしていたが、フランス語とドイツ語とは生活の仕事のかたわら一人で勉強しなければならなかった。私はまずそのフランス語を、好きなロマン・ロランやヴェルハーランを原書で読んでみたいばかりに、英語で書かれたフランス文法の本と訳語にとぼしいそのころの仏和辞書とをたよりに、二、三年がかりでようやく自分のものにした。その成果は、初めのころのものとしては昭和二年に出版されたロランのフランス革命劇『花の復活祭』と、その翌年に出たシャルル・ヴィルドラックの『選詩集』である。
 つぎに来たドイツ語の場合はもう少し恵まれていた。当時三十三歳、私はその前年に東京郊外上高井戸の田舎に小さい家を新築して結婚したばかりだった。まだ古い武蔵野のおもかげの残っている畑の中の小屋へは幾人かの親しい友だちもよく訪ねて来たが、その一人に今は亡い片山敏彦がいた。私はその片山から初めてヘルマン・ヘッセの名を知り、彼が一、二篇翻訳したヘッセの詩というものを見せられたりして、このドイツの詩人のロマンティックであると同時に東洋風で諦観的な精神に深い親近感を覚えた。私はそのヘッセをどうかして原語で読みたかった。そこでまず片山から『途上ウンターヴエークス』という一冊の詩集を借り(独和辞書だけは以前から持っていた)、近くに住んでいた友人で上智大学を出た中村吉雄に発音や文法の手ほどきをしてもらった。そこへまた同じ上智大学出で山登りの仲間でもある今は故人の荒井道太郎が東京から助勢の声を上げて、有益な手引き書や、非常に便利な強変化と不規則変化の動詞表や、各種の品詞や構文の変化の実例が手に取るようにわかる表などを送ってくれた。私はこうした友情に鼓舞され、ヘッセヘのいよいよ深まる愛に推進されながら、一年後には『途上』や彼の最初の『詩集ゲディヒテ』(後に『青春詩集ユーゲント・ゲディヒテ』と改題)の中の比較的やさしい詩ならば楽に読めるようになった。そしてそれから四十年を経て、自分の手になるヘッセの詩や文章の訳書も何種類か持つに至った今日、若い日の友人たちの無私の助力や、純粋にひたむきだった自分自身をふりかえる時、今は遥はるかとなった青春への郷愁と感謝の思いに打たれざるを得ないのである。
 「山や湖や嵐や太陽が私の友だちだった。彼らは私に話をしてくれ、私を教育し、私にとっては永ながい間どんな人間の運命よりももっと好ましく、なじみであった。しかし、きらきら輝く湖よりも、悲しげな銀松よりも、目の当たった岩よりも、ずっと好きなのは雲であった」。私は今自分の手もとにあいにく原書を持っていないので便宜上石中象治氏の訳を拝借して引用しているが、四十年前『郷愁』を原書で読んでここまで来た時、思わず息を呑んだのだった。なぜならば私は幼い時から自然が好きで、おとなになってからもその観察や研究を怠らなかった。私もまた主人公のペーター同様山や湖や太陽が好きだった。星も好きならば植物も好き、小鳥も魚も虫もすべて愛した。そしてさらにうれしいことには、私もまたペーター同様、何にも増して大空に浮かぶ雲を愛した。その愛が嵩こうじて、やがては『雲』という写真図版入りの気象学的な著書を出すに至ったほどにも。
 その雲をペーターが、ヘッセが、自然の中の何よりももっと好きだと言うのである。私がまだ貧弱な自力のドイツ語でこのくだりを読んだ時の驚きと喜びとは、わかる人にはきっとわかってもらえることと思う。しかも私にも、『郷愁』を初めて読んだ時以前に、すでに早く雲への愛や讃美を歌った自分の詩の数篇があった。
 ゆがめられた教養や浅薄な文化から脱却して、純粋な豊かな自然から直接なみなみと詩心の泉を汲もうとしていた私は、それゆえカーメンチントが文学によって沈黙の自然に表現を与えることを自分の天職だと感じ、「大作によって今日の人間に自然の大規模で無言な生命と親しませ、それを愛するようにさせたい。大地の鼓動に耳をすませ、全体の生命にあずかることを教えたい。自然に対する兄弟のような愛の中に、喜びの泉と生の流れとを見出すことを教えたい。見る術すべを、さすらう術を、楽しむ術を、目前に在るものに対する喜びを説きたい」と言っているくだりを読んだ時、私はこの世でただ一人真の心の友にめぐり合ったような気がした。
 その後私はほとんどすべてのヘッセの作品を読んで、彼の他のいろいろな面をも知ってますますこの巨匠への敬慕の念を深めるようになったが、老年の今、たまたま遠い過去に思いをはせてなつかしむのは、やはり昔の空に浮かんで私の魂を引きよせた雲、高めた雲、若き日のペーター・カーメンチント、実にこの『郷愁』の一巻にほかならない。

 

 

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「井荻日記」について

 近刊として送られて来た『自然との対話』という本を取りあげると、その目次の列に私の名もならんでいて、「井荻日記」という三十ページあまりの文章が載っていることを知った。古い自著からの再録を乞われて承諾した覚えがあるから、掲載されていても別に不思議はないわけだが、このごろこんなことが多いのでつい忘れていたのである。ともかく十五人ほどの人の自然に関する研究や、リポートや、感想文を集めた本で、親しい顔やなじみの顔も幾人か見出された。親しい顔は早川孝太郎、串田孫一、辻まこと、曾宮一念。なじみの名前は寺田寅彦、柳田国男、大町文衛、今西銷司、北杜夫。今はなつかしい故人もいれば、今こそいよいよ各自専門の道と固有の人生とに成熟しつつある人々もいる。
 この「井荻日記」は、今を去る二十四年前の一九四四年一月一日から、同じ年の二月十五日までの自宅付近の自然観察の日記で、初めの計画によればもっとずっと続けて書かれるはずだったが、その後急に東京の町なかへ引越さなければならないことになったため中止してしまったものである。その観察の場は杉並区井荻の善福寺池が中心で、それを囲んだ畑地や草原や、また東京女子大の校庭などもいくらかの役割を果たしている。
 一九四四年といえば終戦の前の年の昭和十九年に当たるから、そのころ隣組長と防火群長とをさせられていた私としては、もう毎日がずいぶん忙しかったはずなのに、この日記ではそんなことにはいっさい触れていない。そういうのはすべて別の小さい懐中手帳に書くことにして、自分にとっていっそう意義あるものに思われた、毎日の天気だとか気温だとか、池の水温の変化だとか、水面のカモ類や野や林の冬の小鳥の生態だとか、プランクトン・ネットで採集して顕微鏡で調べた水中の微生物だとか、ネコヤナギとコリヤナギの冬芽の比較研究だとか、昼間の雲、夜の星座といったようなものを、目をもってはこまかく観察し、ペンを執ってはいきいきと描写して、すでに物資の乏しくなったそのころとしてはむしろりっぱに過ぎるような大きなノートーブックにうやうやしく書きこんだ。自分で言うのも面映ゆいが、五十三歳になるイギリスのトーマス・カーライルが、五十六歳になるドイツのエッケルマン、あの『ゲーテとの対話』のエッケルマンに、自分の国の博物学者で牧師でもあるギルバート・ホワイトの『セルボーンの博物誌』を読むことを切々とした口調ですすめている二通の珍しい手紙を訳したあとで、それについての熱烈な感想を書いているくだりは、二十数年を経たこんにち静かに読み返しながら、我ながらよくもこれだけ踏みこんで書けたものだと感心した。なぜならば、それは戦争ちゅうの、しかも感冒の高熱で床についていた間の日記でもあったからである。
 さて私は今でもやろうと思えばできなくはないはずだから、この鎌倉で毎日の仕事の合い間に、もう一度こういう自然観察の日記を書いてみようと思っている。もう一度初めから出直して、主として自分の心の喜びのため、自分の魂の慰めのために、またひいてはだれかの共感を得たりだれかを鼓舞したりするために、人が軽んじて顧みない、あるいは腰をかがめてひざまずいて、自然への敬虔なまなざしを注ごうとしない、そういうこの世での日常の伴侶を特に手厚く迎えたり愛と驚異の目で見入ったりして、ただの随感や随筆で終わってしまわないような、科学を踏まえた四季おりおりの讃歌を書くことを始めようと思っている。
 そしてそれこそ私に残された生の毎日を充実させて生き深める、ただ一つの方法でもあろうと信じている。
 「三月十六日午前十一時、柔らかに晴れた屋根の上の空を円覚寺から建長寺へかけて今年最初のツバメ二羽行ったり来たり……」
 まずこういうのが日記の主題になるのである。

 

 

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私のヘルマン・ヘッセ(1)

 ヘルマン・ヘッセという名に親しんでから、数えてみればもう四十年あまりになる。今で
はその人の本が書斎の棚の何段かをうずめ、同じ家に住む娘の部屋にも二人の孫のそれぞれ
の部屋にも、その作品の翻訳の新しい装幀本がきれいに並んでいる。私はたまに彼らの部屋
へ入ることがあるが、自分の与えたのや彼ら自身で買ったヘッセが、その数ではむしろ昔の
私の所蔵をはるかに凌しのいでいるのを見てさまざまな感慨に打たれるのである。
 昭和のはじめ、一九二六年ごろに、私の持っていたヘッセの本と言えば、GedichteゲディヒテとUnterwegsウンターヴェグスの僅か二冊、つまり初期の詩集二つだけだった。そしてその二冊が、もっと以前から集めていたロマン・ロランやヴェルハーランや、当時知ったばかりのフランスの詩人シャルル・ヴィルドラック、作家ジョルジュ・デュアメルたちの本が並んだ上高井戸の田舎の家の貧しい書棚で、私の持っている唯一のドイツ書だった。そしてその二冊の中から短くてやさしそうなのを選んで、辞書と文法の本をたよりに、始めてからまだ間もないドイツの原語で読むのだった。なぜならばその頃にはまだヘッセの詩の訳本はなかったし、自分自身詩を書く人間として、詩はその書かれた国語で読みかつ味わうべきものだと信じていたからである。だから好きなヴェルハーランのものは元より、ボードレールでもヴェルレーヌでも、およそ詩と呼ばれるものは、すべてこれも独学のフランス語で読まなければ気がすまなかった。ホイットマンの詩集『草の葉』を、英語で読んでいたことは言うまでもない。
 その私にヘッセの詩を初めて知らせたのは、今は故人の片山敏彦である。彼はそのころ法政大学の独文の教授だったか、私かドイツ語をはじめたことを知ると、「君にはきっとヘッセが気に入るに違いない」と言って、原稿紙に書いた彼自身の一、二篇の翻訳と一緒に、『ウンターヴェークス』(途上)という詩集を貸してくれた。但しそれにはいかにもこの友らしい条件がついていた。「なんだか僕もまた急に読みたくなったから、二週間ぐらいで返しても
らいたい」というのである。正直に言われたその気持はよく分かるので、私は「もちろんそ
れで結構だよ」と承知した。薄い詩集だから筆写してもいいと覚悟していた。ところがそれ
から四、五日たって東京へ出たついでに日本橋の丸善へ立ち寄ったら、まさかと思っていたその『ウソターヴェークス』が、しかも『ゲディヒテ』(詩集)と一緒に有ったではないか!すっかり喜んだ私はほかでの買物をやめにして、即座にその二冊を買って帰った。
 それまで私はホイットマンやヴェルハーランの詩に没頭して、彼らの明るい雄々しい詩精神から深い感化をうけていた。そしてすでに出版された処女詩集にも第二詩集にも、また当時書きためていた第三詩集『曠野の火』の中の作品にもその影響があらわだった。ところがヘッセのうちに見出したものはそれとは違っていた。前の二人が男性的、汎神論的であるに引きかえ、ヘッセの方はいわば女性的で、人間味豊かで、私の生来の気質や傾向に無理なく柔らかく通うものを持っていた。私は片山敏彦の示唆に感謝し、思いがけなく手に入った二冊の詩集と取りくんで懸命に勉強した。一つ一つの作品の動機やそれからの展開がきわめて自然なので、作者の意図するところは直ぐにつかめたか、それでも難解の箇所は近くに住んでいた上智大学出の別の友人に質ただした。するとそこへまた一人同じ大学を出た荒井道太郎という親しい山友達が、便利な『ドイツ文法要覧』などを持って来て声援してくれた。そしてこれが私のドイツ語への入門、ヘルマン・ヘッセヘの初見参ういけんざんだったのである。
 昭和八年(一九三三年)に私の四番目の詩集『旅と滞在』が出ている。それより前の三冊よりもページ数がずっと少なく、本の体裁もすっきりしていて、今でも続刊されているインゼルの文庫を手本にしたことが直ぐわかる。同時に詩そのものも以前のに較べると内面的になり、言葉の選択にも心が用いられ、全体として諦観的で落ちつきが見られる。その後書あとがきに「特に自然からの感銘深いものを選び」とあるとおり、人事よりも自然を通して内心の消息を歌ったものが多い。つまり以前のややもすれば人に退屈を感じさせるような説教じみた、長たらしい叙事的なものから、心を主題の世界に集中した、もっと締りのある叙情的なものに変わって来たのである。そしてその変化には『形象詩集』や『新詩集』のリルケを初めとしたドイツ、フランスの詩人たちからの影響の痕が認められるが、なんと言っても取り扱われた題材の多くか自然や山や旅なので、いきおいヘッセ風な色彩や響きが勝っている。だからその後三、四年たってヘッセの散文のすぐれた小品集『ヴァンデルング』(さすらいの記)や『ビルダーフープ』(絵本)を初めて読んだ時、その詩的素材や心のしらべの或るものに、自分のそれと甚だ似かよった点のあるのを知って驚きもすれば喜びもした。
 その『旅と滞在』に「夕べの泉」という詩があってヘッセに献呈されている。たしか昭和六年か七年ごろに書いたもので、私の作の中でもいちばんヘッセに近いものである。少し長いが許してもらって思い出のために書いて置こう。なぜかと言えば私から受けとったこの詩のドイツ訳を読んでヘッセが喜び、その返しとして自作の「無常」という詩と、同じ題をつけた一枚の肉筆の水彩画とを送ってくれたといういきさつがあるからである。

   夕べの泉 (Hermann Hesse gewidmet)
  君から飲む、
  ほのぐらい山の泉よ、
  こんこんと湧きこぼれて
  滑かな苔むす岩を洗うものよ。

  存分な仕事の一日のあとで
  わたしは身をまげて荒い渇望の唇を君につける、
  天心の深さを沈めた君の夕暮の水に、
  その透徹した、甘美な、れいろうの水に。

  君のさわやかな満溢と流動との上には
  嵐のあとの青ざめた金色こんじきの平和がある。
  神の休戦の夕べの旗が一すじ
  とおく薔薇いろの峯から峯へ流れている。
 
  千百の予感が、日の終りには
  ことに君の胸を高まらせる。
  その湧きあまる思想の歌をひびかせながら
  君は青みわたる夜の幽暗におのれを与える。

  君から飲む、
  あすの曙光をはらむ甘やかな夕べの泉よ。
  その懐妊と分娩との豊かな生の脈動を
  暗く涼しい苔に跪ひざまずいて乾すようにわたしは飲む。

 自分自身のものを書く仕事にいよいよ没頭し、その僅かな暇をみて山登りをしたり、前々からの自然観察を続けたり、更には新しい熱情として人文地理学、地質学、気象学、天文学などの勉強を始めたりしていた私に、もう辞書や文典と首っぴきでヘッセを、少なくともその長篇小説を、ていねいに読む気力も時間もない幾年かが続いた。しかし幸いにもこの大家を愛する専門の語学者が幾人かいて、行きとどいた立派な翻訳か後から後からと本となって現われた。私はそのおかげで、労せずして彼のそれぞれの時期を代表する作品を読むことかできた。『ヘルマン・ラウシャー』も、『ペーター・カーメンチント』も、『車輪の下』も、『ゲルトルート』も、『ロスハルデ』も、『クヌルプ』も、『デミアン』も、『荒野の狼』も、『ナルチスとゴルトムント』も、『シッダールタ』も、さては『ガラス玉演戯』という最後の大作さえ。ほとんどはその原書を持っていながら書棚に並べただけの私にとって、これらの訳者諸君こそ忘れてはならない恩人だと言える。
 そうは言ってもその間、私もヘッセヘの永年の愛と感謝の気持から、『放浪』とか、『画家の詩』とか、『童話』とか、三百篇近い詩を自分で選んだ『詩集』とかいうたぐいのものを翻訳して出版した。そして最後に出したのは『画と随想の本』だが、これは私が勝手につけた名で、今まで読んだ中でとりわけ好きだったり、その時どきの心境にぴったりした手頃な美しい散文をいくつか訳し溜めたものへ、作者自身の画いた水彩の風景画を数葉入れた本である。そしてその中の三枚ほどはヘッセが自分で選択してくれたものだった。しかしその本がようやくのことで出た一九六四年には、肝腎のヘッセその人はもうこの世にいなかった。それより二年まえに高齢八十五歳で他界したのである。
 幾人かの友人だの知人だののように、存命中のヘッセを訪ねることのできなかった私は、せめて彼の顔や姿やその晩年の住まいを写した写真を見ることで満足している。それには幸い彼自身から送られたものもあるし、愛読者のための『ヘルマン・ヘッセ訪問』とか『写真による年代記』とかいう本がある。それにもう一つ彼の声、それも晩年の声を録声したレコードがあって、これまた私へのせめてもの慰めとなっている。一枚は自分でも訳したことのある『童話』の中の「詩人」という見事な小品、もう一枚は「夏と秋との間」という美しい随筆風のものと三篇の詩の朗読である。そしてその両方とも深い低音の落ちついた読み方で、とうてい老人とは思えないような発音の明晰さと力強さとを持っている。春や秋の夜など書斎のソーファにくつろいでじっと聴き入っていると、あたかも永年尊敬し愛してきた詩人ヘッセが眼の前にいて、しかもそれが今の私と同い年ぐらいで、その私のために自作を読んでくれているような気がするのである。

 

 

 

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私のヘルマン・ヘッセ(2)

 ヘルマン・ヘッセが自分で水彩画と文章とを書いた『ヴァンデルング』(さすらいの記)と いう本の中に、「礼拝堂」と題したまことに見事な一編がある。徒歩の旅でドイツからイタリアの地へ入って行ったヘッセが、ある村道で一宇の礼拝堂の前を通りかかる。差しかけ屋根のついた小さい玄関のある薔薇の花のような色の御堂である。そこでヘッセの画心が動かされて一枚の写生をし、そこから一編の文章が生まれる事になる。
 「おお、この土地にある幾多の親しみぶかい礼拝堂よ! お前たちは私の神とはちがう神 のしるしと銘とをつけている。お前たちの信者は私の知らない言葉でお祈りをする。それで も私はかしの森や山の草原でと同じように、心からお前たちに祈りを捧げることができる。お前たちは若者らの春の歌のように、あるいは黄いろく、あるいは白く、あるいは薔薇色に、緑の中から浮き出して輝いている。お前たちに向かってはどんな祈りも許されるし、どんな祈りも神聖だ」
 「祈りというものは讃美歌と同じように、聖きよらかな、救う力のあるものだ。祈りは信頼であり、是認である。ほんとうに祈る者は願いはしない。ただ自分の境遇や、自分の悩みを語るだけだ。彼はちいさい子供たちが歌を歌うように、自分の苦しみと感謝とを低い声で歌うのだ。そのようにオアシスや小鹿と一緒にピザの寺院に描かれている至福な隠者は祈ったのだ。あれは世界中でいちばん美しい画だ。そういうふうに木も獣も祈るのだ。りっぱな画家の画の中では、どんな木もどんな山も祈っている」
 「信仰へ達する道は人それぞれみんな違っているだろう。私の場合では数知れぬ迷いと悩み、無数の自己呵責、甚だしい愚味、いわば愚の原始林を通っている道だった。私は自由思想家だった。それで信仰とは魂の病気だと思っていた。私は苦行者だった。それで自分の肉体へ釘を打ちこんだ。私は信心ぶかいということが健康と晴朗とを意味しているのを知らなかった」
 「しかしその茨の道はむだではなかったのだ。(永い試練の旅を終えて)故郷へ帰って来た者は、故郷にとどまっていた者とは違っている。彼はもっと深い心から愛を捧げる。そして正義についても迷妄についても一層自由だ。正義は故郷にとどまっていた者たちの徳である。それは一つの古い徳であり、原始人の徳である。もっと若いわれわれにはそれを利用することはできない。われわれは唯一つの幸福だけを知っている。それは愛だ。そして唯一つの徳だけを知っている。それは信頼だ」
 ヘッセはこの美しい詩的散文を、一九一九年四十二歳の頃に書いたはずだが、それまでには何冊かの詩集と共に、すでに『ヘルマン・ラウシャー』、『ペーター・カーメンチント』(郷愁)、『車輪の下』、『ゲルトルート』(春の嵐)、『ロスハルデ』(湖畔のアトリエ)、『クヌルプ』、
 『デミアン』などを世に問うてもいれば、その主人公たちの生活や心の世界をさながらに体験してもいたのである。そしてなおかつこれを書いた。たとえ彼にその生涯の照る日曇る日を通じて心境の明暗もあり消長もあったにしろ、そしてそこから多種多様な作品が生まれたにしろ、帰するところはこの愛と信頼への奉仕にあったように思われる。彼の五十九歳の時の詩に「ガラス玉演戯」というのがあるが、宇宙万物の音楽と巨匠の音楽とに畏敬の念をもって聴き入ることを願いながら、「彼らは星座のように水晶の響きを立てているが、われわれの生の意義もその奉仕の中に育って来た。そして何びとといえども聖なる中心へ落ちこむほかには、彼らの軌道から脱落するという事はあり得ない」と言っている。われわれにしてもしも晩年のヘッセの心の琴線を弾くことができたならば、それは必ずや生の無常観を基底音としながら、しかしやはりこの愛と信頼の旋律を奏でたであろうと思われる。

 処女作『ヘルマン・ラウシャー』は、一九〇一年ヘッセ二十四歳の時に出た。友人で今は亡い詩人の遺稿を編纂した形になっていて、発刊当時はほとんど世の注意を引かなかった物らしいが、やがて彼の名が広く知られ、熱心な読者の数が続々と増すようになると、さかのぼって新しく鑑賞の眼を注がれるようになった。元来ヘッセの作品は彼の長い生涯におけるそれぞれの時期の魂の告白であり、生活体験の記録であることが一つの顕著な特色となっているが、この『ラウシャー』は正にその第一歩である。ここには主人公の幼年時代の故郷の自然との親しみや両親の思い出などと共に、生来の孤独への愛やロマンティックな性情がきわめて美しい文章で描かれていて、まだ駈け出しの頃の、かく言う詩人私などの心を奪ったものである。その「わが幼年期」に続く「十一月の夜」での主人公の真理探求の苦しみ、中世を現代に夢みるような「ルルー」の恋物語、詩人としての独自の道の発見に悩む孤独と絶望の「眠られぬ夜」、そして最後にようやく知性や思想の抑圧を脱してもう一度美の宗教、みずみずしい詩の泉への自己投入に踏み切る「一九〇〇年の日記」――晩年のヘルマン・ヘッセを思う時、私はこの作品とそれに続く『ペーター・カーメンチント』とか、長い人生遍歴の末に彼の帰って行ったふるさとの最も古い一隅のように、どんな愛惜、どんな慈しみのまなざしで振り返られたかを想像せずにはいられない。ヘッセはスイス・ルガーノ湖畔の村、風光すぐれたモンタニョーラでその一生を終えた。若いカーメンチントが数々の外国旅行や人生冒険の果て、ついに「魚は水のもの、百姓は田舎のもの」と見きわめて、そこを最後の安住の地として帰って行った山と湖の故郷の僻村ニミコンこそ、後年のモンタニョーラの予感ではなかったろうか。たとえそれが南ドイツ・シュワーベンのカルヴではなかったにせよ……

 私は自分もまた広大な自然や聖なる音楽に養われながら人生の晩年を静かに生きる者として、前記の二作や『車輪の下』、『クヌルプ』などを含む若い日のヘッセの作品を愛惜し、その豊かに美しい随想集や水彩のスケ″チの本と共に、懐かしく思い出す折々に取り出しては好きな幾ページかを読み返す。そして含蓄が深くて言葉の響きもまた音楽的な彼の詩を、ひとり小声で読む楽しみもまた私だけに許されたものである。それに私は彼が自作を朗読したレコードを持っている。そのバリトーンは明晰で張りがあり、さすがに彼が若い頃から自信を持っていただけの事はある。
 しかしあの第一次世界大戦以後のヘッセ、ベートーヴェンの『第九』で歓喜に寄せる大合唱を呼び起こす「おお友よ、その音ならぬ他の音を!」の一句を題として、当時戦争による憎悪をあおり立てていた文学者や思想家たちに警告の文章を書いたために売国奴と罵られ、多くの新聞雑誌からボイコットされて全く孤立無援だったヘッセ、その時唯一の同感者、ただひとりの良心の友としてのロマン・ロランから賞讃と激励の手を差しのべられたヘッセ、そしてその大戦五年間の心身の苦悩と試練とから従来の牧歌的・ロマンティックな心境や作風に別れを告げて、それ以来ひとりの求道者、西欧文化の破滅を予見する思想家的作家として、深刻な孤独を身にまとって「内面への道」へと踏みこんで行ったヘッセを私は心から敬慕する者である。
 『ラウシャー』、『カーメンチント』、『車輪の下』、『クヌルプ』、『青春は美わし』等、私はこれらを読む季節として人生の青春期と、過去にむかって好意の目を投げることのできる老年期とを勧めたい。しかし『デミアン』から『シッダールタ』、『荒野の狼』、『ナルチスとゴールトムント』(知と愛)、わけても『ガラス玉演戯』に至っては、なかんずく成熟した中年期、もしくは人生智にくゆった老年の初期に勧めたいと思う。けだしその思想的内容から言っても、構想から見ても、また作その物を支配する動機からしても、それらの読書にはおのずから適齢期があるように思われるからである。

 

 

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『ベートーヴェンの生涯』
            (或る文庫版のために)

 ロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』。私はこの小さい、しかし輝かしい本を大正二年(一九一三年)満二十一歳の時に初めて読んだ。数年たってフランス語が読めるようになって、原書と照らし合わせてみるとずいぶん杜撰ずさんな英訳本を夢中になって読んでいたのだという事に気がついたが、ともかくもその時に味わった興奮と感動とは、それまでにどんな読書からも経験した事のないような深刻で新鮮なものだった。もっともそれより少し前から同じロランの大作『ジャン・クリストフ』の前半や『トルストイ』を読んではいたが、一時はもっぱらこの『ベートーヴェン』一巻に没頭して片時も身辺を離さなかった。そのくせ今と違ってその音楽をいつでも何でも欲する時に聴く事のできるような恵まれた時代ではなかったから、この大音楽家の作品についての知識は、少なくとも私の場合、ほとんど皆無だと言ってもよかった。つまり私はまずロマン・ロランによってベートーヴェンという一人の高邁な芸術家を知り、その創造の世界の輪郭を知り、同時にこの本によってますますロランその人を愛し敬うことを学んだのだった。そして自分のその後の人生行路に、早くして決定的な暗示を与えたのも、実にこの二人の偉大な先人であったと今でもかたく信じている。
 この本はロランが三十七歳の時(一九〇三年一月の終り)に、友人シャルル・ペギーの「カイエ・ドゥ・ラ・キャンゼーヌ」社から「偉人叢書」の第一巻として出版された物であるが、これがひとたび世に出るが否や数週間のうちに売れつくして、無数の未知の読者を獲得しながらその後も幾たびか版を重ねた。ロランはなおその叢書の続刊として、貧しくて真価を認められず画商の餌食えじきであったミレー、高潔な軍人で革命的戦士の亀鑑であったオーシュ、イタリア独立の英雄ガリバルディ、イギリスの光輝ある革命家トーマス・ペーン、作家で自由の友シラー、イタリアの愛国者マッチユなどの評伝を書くつもりでいたが、この企ては惜しいかな『ミレー』だけで終わって果たせなかった。
 しかし彼がこの本の美しくて壮烈な序文の終りのほうで、「この英雄的な軍団の先頭にま
ず強くして純潔なベートーヴェンを置こうではないか」と書いているその軍団なるものが以
上のような人々を指していて、単に思想や力によって勝利を得た人々ではなく、悩んでいる者達の雄々しい友であり、人類の善のために苦しみ戦った偉大な魂たちである事は言うまでもない。そして「そのベートーヴェン自身苦しみのさなかにあって祈念した事は、おのれの実例が他の多くの悲惨な人々への支えの力となることであり、自分同様に不幸な或る人間が自然のあらゆる障害にもかかわらず、人間という名に値する一個の人間となるためにその力の限りを尽くした事実を知ってみずから慰めるようにという事であった。その超人的な奮闘と努力との幾年の後におのれの苦悩を克服し、(彼の言ったように)哀れな人類にいくばくかの勇気を吹きこむ天職を達成し得た時、この征服者プロメテーは、神に救いを求めている一人の友にむかって、″おお、人間よ、なんじの力でなんじ自身を救え!″と答えたのだった。彼のこの誇らしい言葉から霊感を受けようではないか。彼の実例にならって、生と人類との中にわれらの人間的信仰を燃え上がらせようではないか」と結んだ時、実にロマン・ロランは彼がこの本を書いた所以ゆえんを立派に解き明かし、人がこの本から汲み上げるべき清新で強壮な泉の味をすでに鮮かに暗示したのである。
 私たちの若い頃と違って、いま青・少年である人々のなんと恵まれた、もしくはなんと贅沢なことだろう。彼らはその交響曲といわず、ピアノ作品といわず、弦楽四重奏曲といわず、どんなベートーヴェンをも実演によってかレコードによってか、ほとんど常に聴くことができるし、あえて言えば、浪費することができる。またこの巨匠の生涯の伝記やその作品の研究、解釈等の書物もおびただしく出ていて、読む気さえあればいつでも読め、どんな選択も意のままである。しかしわれわれには許されなかったこの種の贅沢が、そういう彼らにとって果たして幸福であるか否かは考えてみる必要があるだろう。少なくとも二十一歳の時の私としてはあの貪弱きわまる演奏目録ですでに心を躍らせる事ができたし、このロマン・ロランの小冊子一冊から精神を奮い立たされ、心を高められる事ができたのである。そしてそのベートーヴェンの人と作品とについて充分多くを学び知っている現在でさえ、なおたまたま今日のような機会に半世紀も前のあの純粋な感激を思い出せば、その魂の至福な経験を、自叙伝中の単なる一章とはとうてい思い得ないのである。

 

 

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「此の家の以前の子供」

 「私の愛する人生詩」という題目で答えをうながされた時、私にはすぐに現代ドイツの詩人・小説家ハンス・カロッサのことか頭に浮かんだ。彼には詩集というものが一冊しかなく、その数も全部で百篇に満たないほどわずかだが、天体や結晶にもたとえたいそれらの詩のほとんどすべてが私には讃美と畏敬とにあたいし、読むたびに新しく、繰りかえして常に深い感銘に打たれずにはいられないのである。詩人としての仕事の上で、自分の方向がいつの間にか「芸術のための芸術」の方へかたより過ぎたように思われる時、私は遠い夜道をゆく者が北極星を求めたように、しばしば詩の空にカロッサの光をたずねるのである。カロッサ自身がやはりそうだった。彼は巨星シュテファン・ゲオルゲやそれを取りまく惑星の群の中にあった時でも、なお終始あの「広大無辺なゲーテ」を忘れないただ一人であった。
 カロッサの詩には短い物もあるが概して長いのが多い。そして一体に長い詩という物は今日のわれわれのセンスからすると冗漫に見えたり退屈に感じられたりしがちなものだが、カロッサに限ってそういうことが無い。あたかも地底の堅い岩石をうがって行く時のように、われわれはそこにすばらしい思想の鉱脈や結晶を発見する新鮮な喜びに誘われて、坑道の長いことや発掘の困難を意に介さないのである。今私はそういう物の中から比較的短い一篇を取り出して、自分の手で翻訳してみた。

   此の家の以前の子供

  此の家の以前の子供、私は今はただ客にすぎないが、
  それでも昔ながらの強力な家の霊に忠誠心を捨てない、
  そして此の家に住んでいる蛇とも死ぬまで親しくするつもりだ。
  時々、旅の道すがら、私は王たちの食卓に列し、
  また聖なる山のほとりで予言者だちの箴言に傾聴する。
  そしてその両方が、いつかは彼らに仕えるように私に望む。
  しかし私は王たちからの贈物は、黄金も宝石も
  のこらず敬虔な蛇にひきわたし、
  予言者たちの力強い秘密の教は
  躊躇もなしに静かな家の霊に洩らしてやる。
  どんな報酬も私は要らない。
  私の要求するのは年に一度客となる権利だ。
  年ごとの秋に、私が山の路を下りて来ると、
  一人の男が若い牡牛たちと一緒に堅い耕地を鋤きかえし、
  老人の羊飼が褐色のぶちのある羊の群を見張っている。
  家の中では娘たちが色さまざまな花模様の布を織り、
  美しい堂々とした母親が牛乳とパンとを運び、
  子供らは矢を削ってくれと私のそばへやって来る。
  蛇は廊下で心地よげに舌打ちをし、
  家の霊は竈の火の中で歌っている。
  王たちや予言者たちに仕えるものは何一つ無い。
  しかもすべてが霊たちの未だ生れない一人の主あるじに仕えている。

 故郷の家の家督を譲って、今では遠く広大な世界を生きている身だが、一年に一度帰省して生家の客となるのが楽しい。古い家風を維持する家の霊は相変わらず竈の中で歌っているし、家の宝を守る蛇は今日も廊下や土台のあたりを這っている。旅の途中ではよく諸国の王に招待されたり賢者聖者の言葉に耳を傾けたりしたが、いつかは自分達に仕えるようにと言って丁重に贈られた引出物や貴い言葉、それらはすべてそっくり蛇や家の霊に渡してしまう。故郷はいい。秋の故郷の風物と我が家との昔ながらの落ちついた深い和らぎ。そこでは誰一人、また何一つ現世の支配者や予言者などに仕えていない。そこで彼らの仕えるのは未来だけだ。やがて生まれるべき光にだけだ。故郷と家とは自分の信念をいつも強める。現世のどんな権力にも奉仕せず、ただ未来のために黙々と尽くそうという信念を。およそこういう大意のものだが、この詩を心の中で次第におしひろげて考える時、その含蓄するところがいよいよ深く、芬々の心を清め、精神を活気づけ、魂を広々とさせる力のどんなに大きいかを悟らずにはいられないのである。

 

 

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一詩人のブールデル見学

 上野公園の東の丘、国立西洋美術館の広い芝生の前庭に、夏の真昼の明るい驟雨にびっしょり濡れて、ブールデルの堂々たる彫像のむれは立っていた。台風を待つ鎌倉の真珠母いろの曇り空の下から、蒸し暑い緑にうずもれたその谷戸やとの奥の奥から、雨傘持参でおとずれた私の眼と心とが、なんとこの光景にすがすがしくされ喜ばされたことだろう! なんとこの巻頭の画を、この前奏曲を、待ち望んでいたこれからの驚きと楽しみの先ぶれとして受けとったことだろう!
 見ろ! 炎天の下ではなく、背景の桜の木立と同様に、涼しい雨に濡れてこそいよいよ見事なあれは「果実」か。そのむこうは「サッフォー」か。しかし待て。彼女たちをゆっくり見る楽しみは帰りまで取って置こう。門前の食堂で晩い中食をとって、それから電車に乗りさえすればいいという帰りの時まで。
 静かな館内、おちついた光の漂い。むかし雑誌『白樺』で初めて知り、その後いくつかの写真で見覚えのあるブールデルの作品が、それぞれ台の上にどっしりと据えられて、鷹揚なもてなし、芸術家達のための栄養物のように並んでいる。一つの作品を前に、正面から、側面から、背後から、つぶさに眺め味わって尽きることのない滋味だ。よしんば私か詩人でも、この精妙で逞しい造形から発散し肉薄して来るものを、しっかと受けとめて身にしなければならない。まず「ロダン」があり、「ベートーヴェン」がある。制作中のロダン、両手のある、或いは肱をつくベートーヴェン。初めて見るのに以前から知っていたような気がするのは、若かった頃の私の幼稚なブールデル認識の余韻であろう。『余は万人のために美酒をかもすバッカスなり』の銘を刻んだ「メトロポリタンのベートーヴェン」を、この音楽の巨匠について書いた本の口絵で見て我が意を得たりと思ってから早くも半世紀近くになる。
 しかし幾分安易なこの古い親しみの感情は、まずモントーバンの「戦士たち」の頭部習作の一群に出逢って突然息をとめられる。それは主題の持つ一つの激越な性格から来るものであろうが、憤怒というか、絶望というか、諦念というか、その眼、その口、その鼻及び全体の充実をきわめた表現は、或る傑出した交響曲の断片を思わせる。ブールデルはこのモントーバン記念碑を構成する五人の群像のために、実に五十二点にも及ぶ頭部習作を作ったという。その一つ一つのすばらしさが思いやられるではないか。それならば詩人、私よ、書いてみろ! これ程にも見事に実った重量感に満ちた短い詩を、たとえ五篇でも、十篇でも。「ローマ人」と題した戦士の胸像の美しさを何と言おう。右手に厚い重たい剣を振り上げ、手の平を思いきり開いた左腕をうしろでに伸ばして上半身をひねった、この膝までの大ブロンズ像のすさまじさをどう言い現わそう。私は三つの頭のくくり合わされた「叫ぶ戦士たち」のかたまりを前に、手にしたノートへただ《圧倒的!》と書くほかはなかった。

 しかし圧倒的なのは何もこの種の作品に限ったわけではなかった。もっと動きのすくない静かなもの、たとえば「ペネロープ」や「気高い荷」がそれだった。高さ二メートル四十センチのブロンズの女人像ペネロープは、両眼を閉じた頭を心もち左へかしげ、その頤あごを垂直に曲げた左手の甲へ軽く戴せ、その左手の肱を水平に曲げた右腕で支えている。そしておのずと左へねじれた上半身から腰へかけての重心を今度は踏み出した右足へ移しているのだが、これらの動きのメロディアスな移りゆきが、長い豊かなローブの襞の流れでいかにも高貴に奏でられている。
 「気高い荷」と題されたもう一つの女の立像がそれだった。これもまた頭へ戴せた大きな重たいくだもの籠を高々と上げた左手で支え、右腕を曲げて胸に小さい子供を軽そうに抱いている。題のという言葉が複数になっているから、子供とくだものとの双方が共に気高いというのであろう。いかにもそのとおりで、気高さはその女人の顔にも、まっすぐに踏み出した右足の先から頭巾をかぶった頭の上の籠までの、みずみずしい端正な垂直線にも現われている。この像をブールデルは或る日街で見かけた一人の女、頭へ包みを戴せ、腕に子供を抱いた身重みおもの女のノーブルな容姿への感動から作ったと言われているが、やがて十年後の「アルザスの聖母像」の予感だとしてもそれほど無理ではないであろう。そしてここでもまたひろびろと右へ流れたローブの裾が、左手に支えられた頭の上の大きなくだもの籠と響き合って、いとも安らかな対位法を歌っている。

 男の場合でも勿論度外視できないが、特にブールデルの女の場合、私はその頭部の髪の形
のそれぞれ美しい扱い方に強く心をひかれた。
 館内へ入るとすぐ一群の「ベートーヴェン」と並んで、大きな「ラ・フランス」のマスクがあった。最初はその隣人のエロイカ風な性格に通じる威厳のある悲劇的な風貌に打たれはしたが、それを引き立てているものが髪の形でもあったことに気がついてもう一度確かめに行ったのは、ほかの部屋で幾つかの女人の頭部を見た後の帰りの際だった。あの決然とした顔を一層いきいきとさせ、それを自由と愛と平等のフランスたらしめるためには、その髪の毛は正にこのようにうずたかく、このように漫々と満ちていなくてはならなかったろう!(但し私はこの彫刻のモデルを女だと信じて言っているのだが、よしんば男であっても差しつかえはない)
 モントーバンの町サン・タントナンのパン屋の主人の姪と言われる若い女性のアメリアをモデルにした一つのマスクと二つの胸像。私がブールデルの女人像の髪の美に注目したのは、「自由」の頭部と題された大きなブロンズの作品を見ながら、カタログに載っている次のような説明文を読んでからである。「アメリアは非常に美しい髪をしていたが、昼間それを波打たせておくために夜は編んでいた。髪が荒れるのを嫌ったのである。ブールデルはそうした彼女を見て夢中になった。この習作が編髪を持つのもそのためである」。まったくその編髪に粧われた頭は美しい。額から鼻梁、口から頤へかけての端正な横顔の輪郭線を申しぶんなく生かすように、その生え際から潔く撫でつけられてきりりと後頭部へ納まった豊かな髪は、まことに女性に与えられた宝の一つの見本というほかはない。そして、しかもその髪が、簡素な着衣の二つの胸像の場合には、一層堅くりりしく結ばれて、「自由」にふさわしい颯爽とした空気をまとっているのである。
 そしてブールデルの女の髪の扱い方への同じ観察の楽しみが、「母と子」でも、「チリーの女」でも、「セレーネ」や「果実」の頭部でも、とりどりに私を満足させた。或るものは母性の憂愁の重い冠りを思わせ、或るものは女性の品位の光背のように輝きひろがり、或るものは人知らぬ月の女神の哀傷を歌い、そして或るものは甘美な秋の実りの充溢と豊満とを誇っていた。
 八十数点という大小の彫刻と、数十枚のデッサン、水彩、油画の類を心ゆくまで見て、ブールデル的造形美の世界を満喫した二時間近い館内の見学。さすがに多少疲れを覚えて外へ出ると、雨は止んで日光が洩れ、灰いろの片乱雲の忙しく走る空の下で、大きな彫像の立ちならぶ美術館前庭の光景はいきいきとしていた。そしてその活気の大部分が、これら自然の協力を待つ構築的・記念碑的な性質を持った作品の林立からの発散である事は間違いないように思われた。
 私はすでに幾らか訓練を経た眼で「国の護り」を、「勝利」を、「叙事詩」を、「力」を、「自由」を、「雄弁」を、「詩人」を見た。いずれも馴染なじみのような気がして、もう驚いたりまごついたりすることもなかった。或る点までブールデル芸術の特質を知った今は、これらギリシャ、中世、ゴティックの精神に現代の気息を通わせた彫刻の原始林の樹々を、山でのようにゆとりある賞讃の眼で眺め味わうことができた。そして竪琴に片肱かけて想いにふける「サッフォー」には《重厚・壮大》という簡単な心覚えを、また右手の平に小さいくだものを載せ、しぜんに組んだ両脚の左の腰を軽く台石に支えさせて若木のようにすらりと立った、大きな見事な結髪と美しい顔の「果実」には《暢達・豊麗》という短い評語を、それぞれ歩きながらノートへ書きつけたのだった。

 

 

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