尾崎喜八詩文集「後記」集


   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

第一巻 後記

第六巻 後記

 

第二巻 後記

第七巻 後記  
 

第三巻 後記

第八巻 後記  
  第四巻 後記 第九巻 後記  
  第五巻 後記 第十巻 後記  

   ※ 第十巻は尾崎喜八没後に企画・出版されたため、尾崎本人ではなく串田孫一氏による後書です。
    そのため、ここでは割愛いたしました。

 

尾崎喜八詩文集 第一巻 後記

 この巻は三冊の詩集から成り、初版の発行順にならべてある。私の詩作品としてはいずれも初期のもので、書いた当時の意気ごみはともかく、今見ればその幼稚さ、その拙劣さ、まことに噺愧に堪えないようなしろものが多い。
 処女詩集『空と樹木』は大正十一年(1922)五月、東京芝公園の玄文社詩歌部から長谷川巳之吉氏の手で出版されて、装禎も同氏の意匠になったものである。ただ表紙のフランス語の題名だけは、まだ二十代の若い彫刻家高田博厚が書いてくれた。本には彼が私をモデルにしたブロンズの首の写真と、彼の妻君をかいたデッサンー枚とが入っている。ロマン・ロランはこの首の彫刻の写真を見て、「私の友のリヒアルト・シュトラウスが若かった頃とよく似ているところがある」と言い、また「彫刻も立派で、ロダンの作品に非常に近いもののように思われる」と言った。この詩集の巻末には、日本で初めて高田博厚を紹介した私の文章も載っている。
 今でもそうだが、三十五年前の駈け出しのその頃でも、私はいわゆる詩壇の圏外に立って、何の流派にも属していなかった。早くはロバート・バーンズの民謡風で郷愁に溢れた悲歌的熱情に牽かれ、高村光太郎と千家元麿のこれも無流派的な詩風に私淑し、またこの人々の縁につながるホイットマンやヴェルアーランの汎神論的ヒューマニズムの感化をつよく受けていた。ここには余り拙劣で冗漫な七篇を削って四四篇を残したが、本郷赤門附近の下宿生活から東京府下荏原郡平塚村下蛇窪(今日の東京急行大井線戸越公園近く)へ移った頃、「一行として書かざる日なし」というヴィクトル・ユゴーの言葉をそのまま実行していたのだから、たとえ削除を助かった作品とはいえ、その内容技術共に独り善がりで饒舌で粗雑なこと、寡作でありながらすでに一家の風を成していた若い詩人たちの仕事にくらべれば、ほとんど手のつけようも無いような愚作ぞろいである。しかも本人はこの初めての詩集の序文に、「人間及び詩人としての私の存在理由は、私自身がより強くより正しく生きることによって歌い、より明らかにより美しく歌うことによって生きるという、この単純で熱烈な要求を実行する事のほかには無い」と広言しているのだからなおさら始末が悪い。生活力と創作慾とが旺盛で、実力これに伴わず、むしろ書くことを強行しながらおのれを推進して行った一つの時代の、ごまかし得ない証拠物件だと言ったほうが当るかも知れない。そしてこういう救われない作品を常に詩誌『詩聖』が、また井上康文の雑誌が採用して載せてくれたのだから、その寛容は真に多としなければならない。
 第二詩集『高層雲の下』もほぼ同じような事情と心境とのもとで書かれているが、作品そのものにはだいぶ落着きが見られるようである。この詩集は大正十三年(1924)六月、新詩壇社という本屋から出た。今の杉並区上高井戸の畑中にわずか二た間の小さな家を新築して、そこで現在の妻と結婚したその直後の出版である。もっとも大部分の詩は蛇窪時代のもので、「新らしい風」「高層雲の下」ぐらいが武蔵野の新居での作である。しかしだいぶ落着きが見えて来たとは言ってもやはり独学徒弟時代の延長だから、「樹木讃仰」とか「自我の讃美」とか「私の聖日曜日」とかいうような凄いのも出て来る。「野の搾乳場」や「古いこしかた」のような詩にしたところで、其の後ならばもう少し増しな書き方ができたろうと思う。「村の孟蘭盆」などは解体して、ごく短かい民謡風なものにしたら或いは助かるかも知れない。しかし詩人は書ける時には書かなくてはいけない。綺麗ごとをやっている暇の無いほど後から後から湧き溢れて来るもののある間はどしどし書いて、ちっとやそっとの駄作は気に病まないほうがいいのである。洗練や彫琢は後年のことだ。夭折を惜しまれるような一代の鬼才ならばとにかく、晩成に期するところのある者は溢れるにしたがって汲むがいい。恐ろしいのは詩想の枯渇、若くしての老成である。私としては「新らしい風」が一気に出来た時がいちばん嬉しかった。「朝狩にて」「花肖岩」「落葉」のような詩はそれぞれ後年の作に通ずるものを持っている。しかし一気に出来たとは言っても、(夜から明け方まで十時間ぶっ通しで書き上げた)「樹木讃仰」などは人を唖然とさせるばかりで、作品としては多く取り柄の無いものである。
 第三詩集『啖野の火』は昭和二年(1927)の九月に素人社から出た。今は亡いが好人物で肥満した金児農夫雄氏が、汗を拭き拭き高井戸の田舎まで頼みに来た。表紙のドイツ語は、これも故人になった上智大学出の登山文学者荒井道太郎君が考えてくれた。ヘッセを原文で読みたいという其の頃の私に、たえず文法の参考書や激励の言葉をおくってくれた友人である。この詩集の出た時初めて出版記念会というものをしてもらった。会場は小石川春日町の大国とかいった料理屋で、かなりの盛会だった。高村光太郎、江渡秋嶺、石川三四郎などという人達のほかに、萩原朔太郎に連れられて東大の制服姿の若い三好達治の顔も見えた。中西悟堂がいたのは寧ろ自然だが、サトウ・ハチローを見出して驚いた記憶は今となればなつかしい。
 この詩集は当時の新婚生活と周囲のひなびた自然の平和とを反映して、至ってのどかな作ばかりである。「小作人の墓銘」「曳船の舵手」「老教授」の構築的な三部作を除けば、「ひとり者の最後の春」以下、楽々としてミニュエットの趣きがある。「ホーマーも時には眠る」のである。もちろん其の頃書いていたのはこんな詩ばかりではなく、一方ではまた生活の苦みや心の悩みから生れた悲痛なものや内省的なものもあるが、それらは後にまとめた『行人の歌』のほうに入っている。此処に現れた限りではいかにものんきで牧歌的で、人によっては羨ましく思うような環境と生活とが、それを受け入れ、それを讃美する心と共に歌われている。この中で「秋の歌」は私にとっての最初の山の詩であり、「かわゆい白頭巾」は今二人の子供の母親になっている石黒栄子の三十数年前のおもかげである。
 ちょうど此の本の出た年の暮に、スイスのロマン・ロランから便りがあって、「君も私と同じように野中の小さい家に住んでいるのですね。しかし君は私よりも幸福な園丁で、君の家に若い女性の伴侶の花を咲かせました。どうかその愛情の春が長くいつまでも君達のもとを去らないように!」という一節があった。
 春は老いながらも続いているが、それを願ってくれたあの偉大な人はもういない。今はただ心にその遺薫をいよいよ深くかおらせて、自分の人間と芸術とに最後の仕上げをしなければならない。

   一九五九年二月五日

                 春近き多摩河畔、淡烟草舎にて
                            尾 崎  喜 八


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尾崎喜八詩文集 第二巻 後記

 詩集篇第二巻にあたるこの本は、『行人の歌』、『旅と滞在』、『高原詩抄』の全作品に、おなじころ書かれたもので戦後の小詩集『残花抄』というのに初めて載った拾遺作品数篇を加え、さらに戦時中の詩集『此の糧』、『同胞と共にあり』から約四十篇を採って編んだものである。だいたい昭和の初年から同十八年ぐらいまでのものが集っていて、私の中期の詩作品の集成と見ることができる。
 『行人こうじんの歌うた』は昭和十五年(1940)十二月に東京の龍星閣から出た。菊版和紙刷り、帙ちつに収められた純白な清楚な本で、ページ数二〇四ページ、限定五百部の出版だった。その本の「後記」からの若干の引用が、或いは当時の私の生活の雰囲気や、精神の風土の消息をよみがえらせる一助となるかも知れないと思うので、読者諸兄姉の寛容を期待しながら再録することにする。
 『……この集の中でもとりわけ私にとって懐かしい上高井戸時代の作品は、其処の田舎へ震災直後彼自身罹災した私の父が建ててくれた、まるで農園の事務所か山小屋のような小さい家に住んでいた当時の記念である。武蔵の国豊多摩郡上高井戸の田舎、数十本の若木の桜林を背に、借りた二段歩の畠にかこまれ、緑の屋根とクレオソートを塗ったしたみ、四畳半わずか二た間の家だった。純白にふちどった窓が大きく、居ながらにして丹沢の山の嶺線と富士とが見えた。そこへ当時二十才はたちになる今の妻が、羊飼の娘のようにして私の嫁になりに来た。風も冷やつく三月の或る日、その頃はまだ山にも親まなかった野の詩人と娘の華燭に、「しあわせな二人」のヨーデルを歌う大筒笛ワルトホルンは響かなかったが、教会の鐘も鳴らなかったが、小屋のまわりには早春の夕日にさえずる幾羽の頬白の歌があった。
 『われわれは先づ其の日の記念に数本の若い樫かしの木を植えた。その樫は、今でも伐られずにいるとすれば、いずれも優に一抱えの太さになっているだろう。四年の間、われわれは其のあたりで作る畑物を皆一応は作ってみた。しかし何を作るにしても一々近所の農家の指導に俟ったことは言うまでもない。私たちの家の土間の壁には美しい画入りの農事暦も無ければ、本棚に、今有るような行届いた立派な農芸書も無かった。夫婦は鍬をとり、肥料桶をかついだ。一個の桶を二人してかつぐのだった。百姓なみにひでりの時は雨を祈り、長雨には晴れを願い、虫害を憂え、雀を逐った。輪作に、間作に、私たちの作った主なものは麦、大根、甘藷、馬鈴薯、里芋、白菜、胡瓜、葱……ちょうど今でも荒川と多摩川とに挾まれた武蔵野台地の畑場で見られるものの大部分だった。ほとんど収入にもならない詩を書き、いくらかは生活の助けになる翻訳の仕事をしながらの、自給自足を目的の農作だったから、毎日同じ物を食卓に供することが多かった。もちろん特別のメニューに恵まれる時もたまにはあったが、それにしても雑貨屋へ五町、煙草屋とポストヘ七町、郊外電車の駅へ十町、肉屋と魚屋へ十五町だった。今でも私たちの足が甚だ丈夫なのは、その頃の余儀ない鍛練のたまものであるかも知れない。
 『子供としては、其処で長女を、やがて長男を得た。後者はその誕生が期待されている間に交わした「ジャン・クリストフ」の作者との約束にしたがって、生れるや朗馬雄ロマオと名づけられた。謂わばロマン・ロランがその名親コンペールだった。それはまた特に両親の掌中の珠でもあった。異常に澄んだ眼と、いくらか蒲柳の体質とを持った児。それは此の世の運が拙かったか、数え年二才で父に先立った。その児の出て来る詩は集中に三篇あるが、そのうちの最後のものはすでに影の中にある! 彼らの父母の若かった日の記念として此の集を貰うべき二人のはらからのうち、早くして死んだこの弟のほうへは、読者の寛容を乞いながら、彼の名親からの悲しく美しい言葉を贈ってやりたい――(原文略す)「私の可哀そうな可哀そうな子供たち! 私はその三月五日の明けがたに、喪と雪とにとざれた小さい家の中で君たちと一緒にいたような気がする。ロマオ……あたかも君たちに預けて置いたもう一人の小さい私が、君たちと私とから去ってしまったようだ! 私は君たちと一緒に彼をなくしてしまった。しかし君たちは再び彼に会うだろう、友らよ! 彼は再び君たちから生れるだろう。そして君たちが悩み乗りこえた一切の事が彼の魂を富ますだろう。われわれの愛と涙からは何ものも失われはしないのだ……」
 『こうして五年間にわたる私たちの高井戸生活は終りを告げ、その前年にこれもまた他界した父のあとを襲って私の一家は東京へ移った。昭和三年後の作品のところどころに、故園をおもう歌の幾つかあるのも止むを得ない事であった』
 引用の長すぎたきらいがあるので、これ以上註釈めいた事は省くが、集中の「希望」、「慰め」、「熱狂」、「夜の道」、「夜」、「今朝もまた」のような詩は、貧苦との闘い、愛と生活への熱誠に生きる私が、それを書く事でみずからの魂を救ったあの幾年の、痛切な思い出につながる作品であることを言って置きたい。なおこの集の終りに出て来る「訪問」、「五歳の言葉」、「カマラード」、「新戦場」の四篇は、同じ頃の作品でありながら散逸していたものを今度改めて加えたのだが、特に親友串田孫一君の手で拾い上げられた「新戦場」は、 この一篇のために当局の忌諱に触れて一冊の詩華集が発売禁止になったという歴史を持っている作である。

 『旅と滞在』は昭和八年(1933)六月に初版が出、昭和十三年五月に増補版が出た。いずれも東京神田の山の書肆朋文堂の出版で、初版本の装頓には今は亡い友人恩地孝四郎君をわずらわした。インゼル・ビュッヘライに型どった薄い清雅な本だった。
 『配列は必ずしも作の年代順に従わず、寧ろそれぞれの作品の素材が拠って得られた地理的秩序のもとに配分した。詩集の題名について言えば、この世での生活は滞在であると同時に旅でもあるという私の現在の考えを、それはそのまま表現している。とはいえ私は単なる人生の傍観者ではない。生命と時間とは流転するが、私は自分を私自身の視ることの愛と仕事の実践とによって世界の大いなる生に関係してゆく者だと思っている。方法や手段は異るかも知れない。しかし私は私らしくやり抜こうと思っている』と、この詩集の初版のあとがきに私は書いている。
 それはともかくも、此の集の中のいくつかの作品に、手法の上でリルケからの影響の見出される事は言って置かなければならない。私の過度な叙情の流れをせきとめ、ほしいままな述懐のひろがりを抑制して、それを即物的なもの、結晶的なものたらしめる詩法を授けたのは実にライナー・マリア・リルケであった。『形象詩集』や、特に『新詩集』のリルケが彫刻家ロダンから学んだように、私もまた自分の独自の野で歌を成しながら、このリルケから学ぶところ甚だ多くかつ深かったのである。

 『高原詩抄』は昭和十七年(1942)九月、東京の青木書店から出た。戦争中の事でもあり、装頓にも用紙にも見るべきものがなかった。戦時ではあるが此の種のものをと言う書店の希望をいれて、山や高原の旅から得た旧作三十五篇に新らしく二十数篇を加えて編んだ。したがって全集の此処にはその新作だけが載っている事になるが、集末の「山を描く木暮先生」と「噴水」の二篇は、戦後札幌の玄文社から出た『残花抄』という小さい詩集から拾遺として抜き出したものである。
 さて、此の年、ヘルマン・ヘッセの詩画渠『画家の詩』の翻訳、十年間丹念に自分で撮影して記録をとって来た雲の写具と天気解説の本『雲』、三番目の散文集である『詩人の風土』、それにこの『高原詩抄』を加えた四冊につづいて、詩集『此の糧』が出た。

 『此の糧かて』は昭和十七年十月東京二見書房の出版。大東亜戦争直前の十月から翌十七年九月ごろまでの作品三十三篇で成っている。この全集ではその中から十八篇を選び、更に同じ頃の作で次の詩集に入れるのを忘れた二篇、「つわものの父の歌」と「その手」とを加えて二十篇にまとめた。
 この詩集の出る時私は島根県下の或る山里に「日本の母」の一人を訪ねていたが、秋の日本海に臨んだ浜田の旅館で次のような巻末の言葉を書いた。
 『初め私は本の名として「組長詩篇」というのを考えた。隣組長や町内会の役員の任に当ること茲に五年、力は足りなくても心と時間とだけは惜みなくこれに捧げて来た。殊に今度の大戦以来いよいよ重くなる其の任に居りながら、日に新たなる感激をもって此の集のほとんど全ては書かれたのである。忘れがたい記念。「組長詩篇」の名を捨てることはいくらか惜しかった。
 『然しまた「此の糧」は、かつて文学者愛国大会の席上で感激をもってみずから朗読した詩でもある。してみればこれまた自分の記念には値しよう。それで幾らかは人に知られたあの芋の詩の題をとって、此の集に冠することにしたのである。
 『いずれにもせよ、これらの作品はすべて此の大戦の第一年を通じて私から生れた私の詩だ。これらは善きにつけ悪しきにつけ悉く私の本質の刻印を担っている。ただ其の中の一つ二つでもいい、それが読む人の心に触れて、そこに正しく明らかな共鳴を生むことができたならば私の願いは充たされるのである』
 「すべてが私の本質の刻印を担っている」と私は言った。今でも私はそれがそうだった事を否定しないし、今日の私の人間を知り、私の作品の底流をなしているものを知っている人々が、逆に当時にさかのぼってこれらの詩を読むとして、それを善しとするしないに拘らず、その言葉そのものに偽りの無い事だけは認めるだろう。こういう詩を書きながら、公表こそしなかったが又別に全く違った詩を書いていたなどとは、私は言わない。私は本心を吐露して書いたのだから。そして私には本心が一つしか無かったから。たとえその本心がかつての輝かしい普遍的人類愛の理想から墜落して、其処に私が生を享け、共処に生き甲斐と仕事の喜びとを受けている祖国へのみじめな忠誠、同胞への血緑的で盲目的な愛の衷情へと落ちこんで行ったとしも、それが常に無私のものだった事は断言できる。この無私の本心、この良心の、甚だ一地方的で狭隘なものだった事を私はみとめ、後になって明らかにされたような事情に一切無知だった自分の愚かさを私は恥じるが、また他方天皇と祖国との名において命を捨て、命を失い、数年にわたる艱難をなめてそれに堪えた当時の同胞と、常にまごころをもって結びついていた事は今に及んでもなお私の慰めとするところである。私及び私の詩に現われた人物は、どんな形であれ、戦争によってうまい汁は吸わなかった。後にも先にも!
 敗戦後の日本で、私は戦争協力者とか戦争讃美者とかいう恪印を捺された。眼前の危急におもむく事が協力ならばその名も甘受しよう。同胞と苦難をわかちながら、慰めの歌、力づけの歌、手を取りあう歌をなす事に、讃美以外の言葉が無いならばそれも受けよう。「人はすべて迷う。ただおのおの異った仕方で迷う」のである。人類の観点からして、私は迷誤の道へ踏み入った。もう此の迷いは再びしない。ねがわくば人類を成すすべての民衆や人民が、彼らの少数の権力支配者共をして迷誤の機会を作らせないように!

 『同胞と共にあり』は昭和十九年(1994)三月、前詩集から一年六ヵ月を置いて二見書房で出版された。収容した詩の数六十篇。「北門の春」、「消息」、「工場の山男」。しだいに不利になって行く戦況を反映して、詩にも暗い影と悲調とが加わっている。この全集には六十篇の中から十八篇を選んで、別に当時の作で捨てるに忍びない「弟橘媛」と「白鳥の陵にて」の二篇を添えた。

 こうして敗戦にむかう祖国日本の運命は日に日に暗澹となり、私に詩の絃がまったく絶え、ついに戦火によって家を失うまで、救護と防衛とに奔走する毎日ばかりになってしまった。

   一九五九年五月十五日

                   春蟬の歌と野薔薇の淡烟草舎にて
                           尾 崎 喜 八

 

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尾崎喜八詩文集 第三巻 後記

 詩集篇の最後のものである此の巻は、昭和三十年(一九五五年)二月東京三笠書房発行の『花咲ける孤独』の全部と、同三十三年十一月東京朋文堂刊行の自選詩集『歳月の歌』に加えた新作品、およびそれ以後の作でまだ詩集にならない二十一篇から成っている。つまり終戦の年の冬から今年の夏のはじめまでに書いた総数百十八篇で、年代の上から見ると、『美しき視野』、『夕映えに立ちて』、ならびにその後の全散文がこれに対応する。

 戦争がおわっても住むに家がなく、一年ちかくを親戚や友人のもとに転々と寄寓し、最後に未知の或る人の厚意でその信州富士見高原の山荘におちつく事ができ、ついに七年という月日を其処でおくるにいたった顚末とその間の生活については、散文集『美しき視野』その他でくわしく述べた。当時私は五十四歳。たとえ戦争による心身の深い痛手がなくても、もう人生の迷いの夢から醒めていい年齢だった。この上はまったくの無名者としてよみがえり、ただびととして生き、艱難も屈辱もあまんじて受けて、今度こそは字義どおり、また永年の念願どおり、山野の自然に没入して万象との敬虔な融和のなかに魂の平和をつむぎ、新生の美しい視野を得なければならないと決心した。

  Lass, o Welt, o lass mich sein!
  
  Locket nicht mit Liebesgaben,
  
  Lasst dies Herz alleine haben
  
  Seine Wonne, seine Pein!
  
  おお、世界よ、私をほって置いてくれ!
  
  愛の施しで誘うことをせず、
  
  この心をしてその喜び、その苦しみを
  
  ただひとり味わわせてくれ!
メーリケ=ヴォルフのこの詩この歌が、やがては表裏常なき人間のちまた以上に親しいものとなるべき見知らぬ森や草の小道で、今はまだ半ばうつろな、半ばようやく予感に染められている私の内心の訴えだった。
しかしまたそれと同時に、
  惜しまれることを期待もせず、
  
  思い出される明日あすを願いもしない。
  
  生きる喜びを大空のもとに満喫した身が
  
  今はた浅いなんのなさけを求めようぞ。
というような、心の奥になお燃えのこる憤りの余燼と、たのむのはただおのれ一人という自信から生れた詩句のきれはしを、八ガ岳へと続くぼうぼうたる草の中、九月の空に無心に浮かぶ雲の下で、立ちながらノートに書きつける私でもあった。

 そしてこの明暗こもごも去来する早春の天地のような心境エタ・ダームが、虚脱と枯渇との冬からおもむろに私を救って、やがてぞくぞくと詩や文章を花咲かしめる契機となったのである。

 巻頭の「告白」と「冬野」とは、終戦の年の暮に千葉県の三里塚に近い田舎で書いた。その古い開墾部落に妻の実父が永く定住していたので、私たちは其処をたよって東京都下の砂川村から行ったのだった。松林と畑地のつづく広大な下総丘陵。浅い大小の断層谷が帯のような稲田になり、丘陵面では麦、甘藷、落花生を作っていた。その間に小さい集落や独立農家がぽつりぽつりと散在して、私たちになじみの武蔵野よりも民度が低く、生活も自然もいたって単調で辺鄙の観があった。私たちには地平線のどの方角にも山の片鱗さえ見えない、ただ朝や日の暮に無数の嘴太鴉はしぶとがらすの群飛する、この土地の無感情にちかい表情が却って気に入って、あわや此処に永住の決心をするところだった。しかし寄寓者としての気づかいや、手伝いの労働や、戦中から戦後にかけての栄養失調のためか私に肺浸潤の症状が現われた。それで一方ではその治療のため、また他方では今後の文筆生活に当然影響しないではいないさまざまな不利不便を考えて、ついに意を決してふたたび東京へ帰ることにした。「告白」と「冬野」とはこうした環境と、心の空をよぎる明暗の移ろいのなかで書かれた。散文集『雲と草原』の後のほうに出て来る「麦刈の月」や「冬の歌」も、また同じ土地で同じ時期にものした悲歌的牧歌である。
 東京では古い友人で山関係の著書も多い河田禎君夫妻に温かく迎えられた。私の旧居と東京女子大学とにきわめて近いその吉祥寺の家で最もいい一間を与えられ、紹介された女医にかかって療養をつづけながら、三里塚から引続いてのマーテルリンクの自然エッセイ集や、シトン・ゴードンの「雪の荒野にて」という北極の鳥や花の観察を書いた本の翻訳に精を出し、かたわら詩や散文の創作を試みた。「詩心」は私には古いなじみである近くの善福寺公園のベンチでの、また「告白」は桜散る四月の夜空を仰ぎながらの感慨である。散文「一日の春」と「多摩河原」とは、ようやく快方にむかった者の、自然への感謝を歌ったアンダンテ・カンタービレと言えるかも知れない。
 六月の末から九月までは、杉並区中通町に住むこれも古い友達で詩人でもある井上康文君の家に厄介になって、私たちは此処でもまた厚遇をうけた。荒れすさんだ東京の花々しく暑い夏だった。ひどい偏頭痛が頻繁に私をなやませた。ここでは散文「蝶の渡海」と「大平原」とを或る雑誌に書いて、終戦後初めて稿料というものを受けとった。また昔この友人の手で出たシャルル・ヴィルドラックの選詩集を新たに改訳増補した本と、旧作の山の詩十数篇をあつめた大型の美しい限定本『夏雲』とが出版されたのも、ここでの寄寓中の事である。その間にも私たちは二度か三度信州の富士見へ行って数日を過ごした。前にも書いたその高原の山荘に娘夫婦が疎開していて、秋には私たち両親を呼ぶ手筈をととのえていたからである。環境と家とはすこぶる気に入った。私はすべての準備のできる秋をひたすら待った。詩「新らしい絃」は、遅命の新らしい転回を待つあいだの東京の炎熱の一夜に、卒然として爽かな秋風か驟雨のように私をよぎった落想であった。

 こうして「存在」や「夕日の歌」以下富士見定住後の詩ははじまるのだが、その生地パターンをなす七年間の生活のことは散文集『美しき視野』その他に書いたからここでは略す。たぶん「詩人と農夫」や「林間」のようなものが東京へ帰ることになった年の最後の作で、その後に散見するのは毎年の夏や秋の幾日を、今度は仕事を持って行った時のあの高原での収穫である。なお言いそえて置きたいのは、ここ十年ほどの間に作った詩の実数はおよそこれらの倍はあって、はぶかれたものの中にも、いつか再び取り上げられ鍛え直されて物になるような作品もいくらかは有りそうだという事である。例としては甚だ不倫のきらいはあるが、ちょうどヘンデルやベートーヴェンがしたように。けだし私にとって、この人々の事を思ったりその芸術を一層よく理解したりすることは、老来いよいよ切実なものとなった力づけでもあれば喜びでもあるからである。
                    
  一九五九年九月二十七日
                       
             秋光窓にみちる淡烟草舎にて
                        尾 崎 喜 八

 

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尾崎喜八詩文集 第四巻 後記

 『山の絵本』は私の散文をあつめた本の最初のもので、昭和十年(1935)七月、東京神田の朋文堂から出た。初版は縦二二センチ横一六センチという変型、その頃としてはゆったりと落ちついた立派な本だった。本文三四六ページで、ヘルマン・ヘッセから贈られた水彩画の原色版を口絵に、別刷の写真二〇枚、布クロースの水色の表紙が片山敏彦の意匠になる美しいカバーに包まれていた。その後おなじ書店で幾度か重版され、またその間二度ばかり装頓も変ったが、戦後は角川書店と新潮社とからそれぞれ文庫本になって出た。私の著書の中ではいちばん多く読まれた本である。
 私は昭和五年ぐらいから好んで山へ行くことを始めたが、自然の中で過ごしたり生物を観察したりすることはそれよりも遥か以前、六つ七つの子供の頃から好きだった。大きくなったら田舎に住んで、空や太陽や雲の下、鳥や草木や虫たちの間で美しく楽しく生きたいというのが、父にも母にも隠し持っていた私の幼い夢だった。長じて文学を愛するようになってからも、この信念や傾向は変らず、この憧れも弱まらなかった。そしてようやく独立の生活を営む事ができるようになると、私は貧しい中で少しづつこの夢の実現に取りかかった。詩集『空と樹木』『高層雲の下』『曠野の火』のようなものを読んだ人は、この実現の跡についてすでに充分知っておられることだろうと思う。ところが、そのうちに、詩で書いたような事をもっと自由に、こまかく、具体的に、散文の形で書いてみたいという気が起こった。自分だけの日記やノートとしてではなく一つ一つの創作として。他人に読んでもらうしっかりした文章として。しかもそれは国木田独歩の「武蔵野」や徳富蘆花の「みみずのたわこと」のような物ではなく、その中で詩と科学とが共に奏でて歌を成している文章、そこに生きる事の喜びが実例によって勧奨されているような文学――日本でこれが最初の詩精神につらぬかれた生活と自然愛との協奏曲のような文学――でなければならなかった。
 詩と並行してそういう散文を書き始めているうちに、私は武蔵野五年間の田園生活と別れて、父亡き後の東京の実家に住まなければならない事になった。中央区新川に自然の風物は皆無だった。日常の周囲に田園を持たない生活からは、自然に霊感された詩も文章も生まれようがなかった。ところが幸いにも好著『一日二日山の旅』や『静かなる山の旅』で私を感心させていた河田禎君と知り合うようになり、この年長の友人に案内されて山へ出かけるようになった。それが病みつきだった。そして彼の紹介で「霧の旅会」という山の会へも入った。木暮理太郎とか武田久吉とかいうような尊敬すべき大先輩が、その名誉会員になっている親しみ深い会だった。私はもうぼつぼつ山や高原の紀行文を書き始めていたが、会誌の『霧の旅』や本屋から出ている『山小屋』『山』などという雑誌に発表した文章が、新らしく出来た友人や山好きの人達のあいだで好評を博した。中でも「念場ガ原・野辺山ノ原」や、「たてしなの歌」などが広く愛読されたようである。そして昭和十年、多く山や自然を主題とした詩集『旅と滞在』が出てから二年後の夏、同志の祝福と歓迎とのうちに、私の最初の散文集、私の詩と自然とのコンチェルト、この『山の絵本』は出版されたのである。

   一九五九年四月二十九日
                       新緑すでに雲のような淡烟草舎にて
                          尾 崎  喜 八

 


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尾崎喜八詩文集 第五巻 後記

 昭和十三年七月刊行の『雲と草原』、同十七年六月の『詩人の風土』の大半、二十一年三月の小冊子『麦刈の月』、それに二十三年六月に出た『美しき視野』からの一部を加えてこの巻を編んだ。およそ昭和十一年から二十一年夏まで、十年間の作である。もっともそのあいだ別に詩集四巻、ジャヴェル、ヘッセ、デュアメル等の翻訳七巻、写真入りの解説書『雲』一巻などの仕事がある。四十四歳から五十四歳。おもえば私として最も多産な十年であった。しかしもしも戦争によるその後半の低迷や中絶が無かったら、或いは更に多くをなし得たかも知れない。

 昭和十年の『山の絵本』を承けた『雲と草原』とそれに続く数冊とは、前者と同様、「発見された物デクゲルトの再発見ルデグヴ」という理念にもとづいて書かれた文章から成っている。私の歩いたような処はすでに他の人達も歩いたろうし、私の見たような物も人々は見たに違いない。それは、おそらく、ちっとも珍らしい場所でもなければ物でもないであろう。その意味からすれば、私はつねに先蹤者のあとを行き、踏みならされた土を踏む人間である。しかしその私の歩きぶり、着眼とまなざし、耳や鼻や味覚のための舌のはたらき、人間や物からの心情による感受の仕方は、言うまでもなく私の天賦と後天のもの、私にあって独特のものである。発見された物の再発見とは正にこうした独自の体験の意味であり、その体験を自分らしい言葉と文体とによって表現し、この理念の力と美とを顕揚しようというのが、これらの文章を書いた、また今後も書くであろう私としての弁解プレテクストである。
 もしも私の傾向や欲望がいわゆる詩人の埓内にとどまっていたら、私はおそらく此の種の文章を書かなかったであろう。しかし私の衷の詩人の心は深く柔かく見入ることによって富まされようとし、浄化されることを願い、見られた物の中からその場限りでないものを、かりそめならぬものを、言わば神の徴候を見出そうとしたのである。私はそれが発見の機会であるが故にすべての会合と遭遇とをよろこんだ。好んで大道を行き、迂路をさまよい、たたずんで身をかがめ、腕をひろげて眼を凝らすのが私の敬神の所作であった。私は見ることによって無数の未知から養われた。しかし知ることは私にとって神への最短の空路ではなく、それによって心情の領域のひろがる喜びに鼓舞されながら、いっそう孜々として努める地上遍歴の道であった。

 アンドレ・ジードはあの美しい青春の書『地の糧』の中で言っている。「ナタナエルよ、行きずりにすべての物を見るがいい。ただ何処にも足を停めないように。そして君自身に言いきかせたまえ、かりそめでないのはただ神だけだと」そして続けていっそう見事な一句を言い放っている。「重要さは君のまなざしの中にこそ有るのであって、見られた物の中には無い」 Que l'importance soit dans ton reagrd,non dans la chose regardée.
 これらの輝かしい言葉はまことに詩人のそれであり、「永い眠りにおちいっていた懶惰な幸福」の或る朝の決定的な涼しい目ざめの歌ではあるが、そのみずみずしさと一面の真理とは充分に認めながらも、注目という行為と注目される物自体との罰に等しく重要性を見る私にとっては、やはりゲーテの、
   見るために生まれて来て、
   物見をせよと言いつけられ、
   誓って塔に身をゆだねれば、
   おれには此の世がおもしろい。
という、あの『ファウスト』第二部の望楼守の言葉のほうが今の心境にいっそう近い。そしてそれに続く次のような句を、むかし青春の客気にかられて、早くも未熟な或る詩集の銘として借りたことを、過ぎ去った時間のかなたに遠くほほえましく思い出すのである――
   お前達しあわせな眼よ、
   お前達の見て来たものは、
   とにもかくにも
   すべていかにも美しかった!
   Iht glücklichen Augen,
   Was je ihn gesehn,
   Es sei wie es wolle,
   Es war doch so schön !

 さて二十年の昔の「よろめく姿ども」がここにある。見られたものは皆それぞれに完璧でも、注がれた視線は柔かに滲み入るよりもむしろ挑いどみ、心はおのれに逸はやって却って貧しく、描写の筆も幼稚でつたない。敬虔で単純であったものが過剰を負わされて醜くされ、あらずもがなの感慨が到るところで笑うべき講釈を試みている。「美ガ原」、「秋山川」、「須走」など、よしんばその善意には恕すべき点があるとしても、なお且つこの未熟と拙劣とのもっとも顕著に露呈された適切な例と言えるであろう。総じてこれらの文章に見られる独相撲的な力りきみは、初心で未成熟な伝道者にありがちな教師気質ペタゴギズムの現れというべきであって、昭和も十年代、私は自分の主題や志向に君臨しているつもりで却ってそれらに引廻されていたのである。『雲と草原』では、むしろ「灰のクリスマス」や「こころ」や「春」などのようなものに、或いは精神と技術とのやや好ましいバランスが見られるかも知れない。
 『麦刈の月』の九篇は、降服の年を中にはさんだ実りすくない前後三年間の記念である。私は「井荻日記」と「冬の途上」とを書くと永く且つ思い出多い杉並区の生活を後に市内青山に移り、昭和二十年の春最後の戦火に追われて都下砂川町へ避難し、そこで「水車小屋」を書き終戦に遭った。それから転じて千菜県印旛郡遠山村の寒村でもっともみじめな冬を過ごし、索寞として慰めなき新年を迎えながら、その間「麦刈の月」のパセティックな回想と、秋と冬のエレジーである「二つの歌」の後篇とを書いた。そして再び上京して、 吉祥寺・荻窪と、親切な友人らの家に寄寓の生活を送っている間に残りの四篇を物した。「蝶の渡海」や「大平原」のような、当時の空気に緑遠いものを書いたのは、いよいよ窮迫を告げる生活へのいささかの糊口の資を得るためだったのである。
 そして同じ二十一年の初夏、これもまた戦災に遭って東京を後にした娘夫婦の長野県富士見の避難先を訪れてしばらくの滞在をし、秋には鎌倉で老後を養っていた高齢の母の野辺の送りをし、さてそれまでは全くの未知の人だった旧華族渡辺昭氏の好意で、ついにその八ガ岳山麓富士見高原の別荘に、やがて七年間に及んだ新生の第一歩を始めることになったのである。この散文集につづく『高原暦日』、『美しき視野』、『碧い遠方』の諸篇が、永く喜び苦しみを共にして来たわれわれ夫婦の其処での生活を物語るだろう。

 『雲と草原』、『詩人の風土』、『麦刈の月』、お前達よろめく姿ども、愛すべき幾多の影どもよ。遠い忘却の霧の中からはからずも浮かび出て、ふたたび在りし日のままに振舞うがいい! 全集に編むというのでかつてのお前達に立ちむかえば、まこと『ファウスト』の「薦むる詞」であの大ゲーテの言ったとおり、
   今わが持てる物遠き処にあるかと見えて、
   消え失せつる物、わがためには、現前せる姿となれり。
である。

   一九五九年一月十五日

                   東京多摩河畔、淡烟草舎にて
                          尾 崎  喜 八

 

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尾崎喜八詩文集 第六巻 後記 

 この巻は昭和二十三年(一九四八年)三月に長野県上諏訪のあしかび書房から出た『高原暦日』、同年六月東京の友文社から出た『美しき視野』の後半、および昭和二十六年九月東京の角川書店から、書きおろしではあるが文庫本として出版された『碧い遠方』の三冊から成っている。
 これらの文章はいずれも戦後の流寓先、信州富士見高原での五年間の作であって、別に『花咲ける孤独』の大半の詩作と、デュアメル、ジャム、ヘッセ、リルケらのものを主とした数冊の翻訳の仕事とがこの間を綴っている。五十五歳から六十歳まで、いわば人生に成熟する晩年初期の業績としては、顧みていくらか物足りない感はあるにしても、これらの流星群とそれを射出したエネルギーとは疑いもなく私のものである。ただその輻射点の決定と軌道の計算とは、これを心ある読者にまかせるほうが良いと思う。
 この本について言うべきこと、言いたいことは、すべて一巻の中に尽くされている気がする。無知の頭上に落下した戦争というものをどう受けとったか、召集をうけない国民の一人としてどのように戦時を生きたか、祖国降服後の五年間をいかに考え、その考えからいかにみずから行動したか、暗黒の底からの光明の追求、絶望と悲惨の中での幸福への力泳、個々の実行からより善い思念をつかみとろうとする必死の奮闘、仲間も求めず徒党も作らず、ただ一人での涙と汗と歌……私はそういうものをこの一巻にのこらず書いた。すべては孤独の荒蕪地に自分で育てて自分でみのらせた一籠の成果だ。「棺を覆うて後さだまる名」のことわざは有るにもせよ、私はこれらの果実に含まれている味や匂いの精神エスプリが、その本質エサンスが、すでに或る種の読者の口中に楽しくひろがり、彼らを養い、同時にそれ自身にふさわしい未来を秘めていることを信ずる者である。

   一九五九年八月二十日
                       蟬時雨の淡烟草舎にて
                          尾 崎  喜 八


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尾崎喜八詩文集 第七巻 後記

 前著『碧い遠方』が出てから早くも七年、当時あの本へ入れなかった数篇にその後の作品を加えて今度この集を編むことになった。文章の終りにそれぞれ執筆の年を書きそえて置いたが、「クリスマスヘの道」がもっとも古く、「折れた白樺」がいちばん新らしい。だいたい「詩人」から「復活祭」までが戦後の富士見在住時代の作で、あとは東京へ帰ってから書いたものである。だいたいと言うのは、「祖父の日」の2と3とが、正しくは帰京後のものだからである。幼い者の成長のあとをたどる文章として、こんなふうに纒めてみたのであった。
 この中には興の湧くままに自発的に書いたものもあれば、新聞や雑誌にたのまれて筆をとったものもある。詩人の私としてはもちろん前の場合のほうが自由で好ましいのだが、しかしまた題材や字数や時間の制約をうけながら、その枠の中で力を試みることにもそれ相応の意義はある。(つねに自発的な所産のように考えられているにしてからがそうではないだろうか。詩人は一篇の詩を書きながら、想念の無軌道な飛躍や筆の走りを制御するために、つまりあらかじめ設定した内面的秩序にしたがわせるために、絶えずなんらかの制限をそれに加えているのである)ただ、時によっては同じような註文の重なることがあって、そんな時には重複だの混乱だのが起こる。数篇を一括した「季節の短章」がその適切な例で、著者としては恥ずかしい次第だが、全然捨ててしまうのも惜しく、あえて未熟をさらすことにした。

 他の物といくらか動機やニューアンスのちがう「同行三人」の三つの文章は、いずれも「東京新聞」にスケッチ入りで載ったもので、同紙の毎週の連載「現代の表情」の一つとして書いた一種のルポルタージュである。どの見学の際にも担当の記者と画家とが同伴だった。また「放送歳時記」の三篇は、同じ名の企画によるNHKからの放送台本である。私はこれをこのままの形で話すように読んだから、聴いた当時を思い出される読者もあるかと思う。
 本の題名『夕映えに立ちて』には、別に『野の復活祭』の初案があった。この本に自分の人間と詩業との復活の朝を想定して、ここを出発点に、地上最後の旅へ踏み出そうという気持からいえば捨てるに忍びない題ではあるが、またよく考えてみれば、この本を編む心には、ようやく傾く年齢の坂をくだりながら、ふと足をとどめて、しばし生涯の夕映えの風景に立ちつくしたいという深く切実な思いもあった。ここには私の善意や願望がある一方、抑制された憤りのあともあり、多少の美点の認められるものがあるにしても、又さまざまな欠点や未熟も露出している。そういう風物を残らずならべて、万象をひとしく聖別する夕空の光輝に浴させようというのが私の夢のイメイジであった。今後自分を待つものが「われらと共にとどまれ」のカンタータか、「星空の下の夕べの歌」かは知らないが、今は若い頃からの愛唱歌、シューベルトの『夕映えの中にて』 Im Abendrotに万感を托すことにしたのである。

 
  おお、おんみの世界のなんたる美ぞ、
  父よ、そがこんじきに輝く時!

     *

 この本の出版については畏友串田孫一君の終始親身もおよばぬ尽瘁と援助とをかたじけなくした。ここに謹んで御礼を申し上げる。また校正に造本に肝胆を砕かれた創文社の大洞正典氏、みごとな写真を提供された雑誌『アルプ』の編集者三宅修君、ならびに穂屋野会会員朝比奈菊雄、小林義郎、川嶋利哉の諸君に心からの感謝を述べると共に、年来の愛読者諸兄姉のためにその健康と幸福とを祈念するものである。

   一九五八年十一月一日
                    東京多摩河畔、淡烟草舎にて
                            尾 崎  喜 八


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尾崎喜八詩文集 第八巻 後記

 昭和三十四年十月に全七巻を終った詩文集のあとをついで、その後ことしの春まで二ヵ年半に書いた散文作品をまとめてこめ第八巻を編んだ。そのあいだ別に詩や翻訳の仕事もしたが、それらの出版はまた他の機会に譲ることにする。
 目次からも見られるように、全巻の文章が七つほどのグループに分けられている。しかしこれには別段たいした意味もなく、しいて言えば、「野外と屋内」の十六篇は『挿花』という雑誌に毎月一回づつ連載したものであり、「牧場の変奏曲」を含む長短六篇の文章は、『アルプ』を初めとする山関係の雑誌へ送ったものを一纒めにしたに過ぎないというような具合である。ただ、「友への手紙」以下三篇はNHKから放送したり、同協会の機関紙に発表したりした物だから、先方の希望にしたがって特にお断りしておきたい。その他すべての文章に対して、この全集への再録を快諾してくださった出版社、新聞社、雑誌社に、改めて謝意を表さなければならない。

     *

 齢七十の坂道をくだりながら、肉体は老い、体力はいくらか衰えても、ついにこれという固疾もなく、精神と心とは私にあってまだ若い。さして困難でない山ならばまだ登れるし、辞書を片手に難解な書を読む気力もある。昼間の仕事、夜の音楽にも、愛や根気や熱情の火は消えない。家族と身辺とに事さえなければ、仕事はすなわち休息であり、閑暇もまた仕事への貯水池となっている。自流による発電と揚水の発電。出力は減っても効率は年齢以上の平均値を示しているようだ。そしてこういう状態がいつまで続くか知らないが、寿命や運命は神の意志に、毀誉褒貶は世間に任せて、光あるうちは光の中を歩まなければならないと思っている。
 しかし心よ、けっして驕るな。そして思え、人間にはついに完成という時はなく、また独力ではその域に近づくことさえできないことを。先人や同時代者の薫陶・牽引なくしては、今日のお前ですらあり得なかったことを。人を慈まぬ者は忘れられ、世を侮る者は見すてられ、自我に執する者は貧しい。
 ともあれこういう気持で私は生き、その生活から私は書いた。この本は、よしんば善いにせよ悪いにせよ、ほぼ今の私の全貌と主たる関心事とを伝えている。そしてこれに『いたるところの歌』という題を与えた真意は、心ある読者諸君がすでに序詩から汲み取ってくださった事と思う。一切はこれ空に似ているが、そこからいくらかの永遠を創造するのがすなわち「歌」だと信じるのである。

     *

 この本の出版に際しては、前七巻の時と同様創文社社長久保井理津男氏や、大洞正典氏を初めとする編集部の人々から一方ならぬ御世話になった。また巻頭の室内の写真を恵与された小原会館の松原濠氏は、『挿花』に執筆の当初から懇篤な友情を示しつづけられた。以上の諸君に対して、末筆ながらここに改めて感謝の意を表するしだいである。

   一九六二年六月十日
                  梅雨けむる淡烟草舎にて  尾 崎 喜 八

 


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尾崎喜八詩文集 第九巻 後記 

 月日の経つのは速いもので、詩文集の第八巻『いたるところの歌』が出てから今年でもう十年になる。今度第九巻として纒めたこの本は、従ってその十年間の収穫である。私もあれから十年歳をとったから、思えば『晩き木の実』と言っても当たらなくはない。
 内容としては、例によって自然、音楽、文学、生活記録、紀行文というように大別し、別に高村光太郎夫妻の思い出を添えた。それから後の四〇ページ程は東京玉川上野毛の旧居からこの鎌倉の新居へ移った以後に書いた物のごく一部で、あとは又いずれ本にするためにもう一巻分ぐらい用意されている。
 東京が五年、鎌倉が五年。その後半の五年間に雑誌「芸術新潮」へ「音楽と求道」というのを今も毎月連載している。これは或いは私の最後の仕事になるかも知れないが、とにかくこの十年間というものを私はただ漫然とは生きなかった。『晩き木の実』と、やがて出る一冊、『音楽と求道』、それに詩集。それになおほかの或る雑誌に連載中の翻訳と文章の本。齢満八十歳を迎えていまださして衰えぬこの心身の健やかさを、有り難い事として私は神に感謝している。

 本書の刊行について創文社社長久保井理津男、同編集長大洞正典の両氏を始め、串田孫一(装幀)、山口耀久(校正)、源滋子(校正)、及び三宅修(写真)の諸君に心から御礼の言葉を申し上げる。

   一九七二年五月十五日
                         北鎌倉明月谷にて
                              尾 崎 喜 八

 



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