詩集「その空の下で」 (昭和四十五年)

されど同じ安息日の夕暮れに

音楽会で

シューマンと草取り

一つのイメージ

ほほえましいたより

復活祭

晩年のベルリオーズ

森林限界

詩人と笛

夏 行

鎌倉初秋

古い山の地図を前にして

続けかしの歌

二つの現実

エリュアール

その空の下で

黄道光

沈みゆく星に寄せて


 

 されど同じ安息日の夕暮れに
          Am Abend aber desselbigen Sabbats......

 十五年のその昔、美砂子よ、お前は二歳、
 私は幼いお前をかるがると背負い、
 白い頭巾をすっぽりかぶせ、緑の毛布に厚くくるんで
 まだ雪の消え残る信濃富士見の高原に
 天上の春の最初の使信、
 復活祭の雲雀の歌を遠く求めて歩いたものだ。

 今、成人してその天からの春の知らせの深い意味を
 ようやく身うちに感じている若いお前が、
 年こそ経たれ、この同じ復活祭の夕暮れに
 私のためにバッハのオルガン衆讃曲コラールを弾いてくれる。
 そしてもうお前を抱く事も背負う事も叶わない私が
 毛布を膝に、指を組んで聴き入っている。

 しかしその年老いた今日きょうの私を
 お前が憐み、いとおしむのはまだ早い。
 私はこうして、ここにまだ在る
 まだいくらかの仕事の日々も許されている。
 しかし、しかし、そういう私の存在が
 やがて懐かしいこの世から消えた時、
 或る春の同じ安息日の夕暮れに
 お前はふと私の訪れを空気に感じて、
 同じコラールを、花の窓べに。
 一層深い思いで弾いてくれるだろうか。

 

 

 

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 音楽会で
      (高野紀子さんとその東京ルネサンス・コンソートの人々に)

 片膝に載るほどの小さいオルガソを弾く娘は
 役割りを変えて白い短い縦笛も吹く。
 悠然と並んだヴィオラ・ダ・ガンバの弦の響きは
 涼しく、雅みやびて、おっとりと
 イギリス・ルネサンスの舞曲をかなでて、
 古い善い時代の夢と秩序とをよみがえらせる。
 しかもそれがすべて揃いの衣裳を裾長く曳いた
 匂うばかりの若い女性の合奏なのだ。

 ああ、私にしてもっと若かったら!
 しかしもう続かない息、固い指、かすれた声、
 諦めもさして苦痛ではないほど歳をとった。
 今は焦燥もなく、歎きもなく、羨望もなく、
 彼女らの町や宮廷や野の歌に静かに聴き入り、
 その画のような輝きに見惚れなければならない。
 それが受容だ、それが救いだ。
 そしてそれが老境の知恵というものだ。

 

 

 

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 シューマンと草取り

 少女がシューマンのピアノ曲を練習している。
 その窓の下で私は花壇の雑草を抜いている。
 少女は同じ個所を根気よく繰りかえす。
 私の相手はチューリップの若い列を窒息させる
 ハコベ、ナズナ、イヌノフグリの夥おびただしい群衆だ。

 雑草の美は美で認める私ではあるが、
 やがて揃って咲くべき選ばれた花には代えられない。
 他方シューマンは美しくて精緻だが、
 この際、彼の情熱は暗く、不安で、
 その意識の流れには或る錯乱さえ感じられる。

 しかしそのシューマンを少女は結局
 彼女のものとして整え、纒め上げるだろう。

 そして私はさっぱりとした花壇を後に
 抜き集めた雑草を横抱きに運んで、
 命あらば生きて咲けよと空地あきちの隅に撒きひろげる。

 

 

 

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 一つのイメージ
        (或る若い友に)

 君は君自身のアルプを持たなくてはならない。
 沙漠の中の緑地オアシスではなく、高地の牧場を。
 暗い樅の谷間から輝く雪線の近くまで
 高山の眺めが一望の中におさまるところ、
 そこが君の領域、君の労働と収穫の
 喜ばしくも誇り高い場所でなければならない。

 君はそこに君の牧草をなびかせ、畑を育てて、
 君の牝牛から、山羊から、穀物から、
 君のミルクを、チーズを、パンをとり入れるのだ。
 朝日に燦く沢のほとりに君の家畜らの鈴が鳴り、
 金と青との暑い昼間に君からしとどの汗が流れ、
 峯々を染める夕映えの中で君の「牧者の歌ランズ・デ・ヴァーシュ」が響く。

 君の知恵と力と信念とに営まれる其処は君自身の世界、
 誰からも指一本さされる事のない独自の天地だ。
 闘いも、苦しみも、とりいれも、喜びも、
 良心の天に則のっとって全力挙げて試みるがいい。
 ああ、若く、雄々しく、けなげな友よ、
 それが君にとっての甲斐ある生活、
 男一匹の威厳に満ちた堂々たる人生だ。

 

 

 

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 ほほえましいたより
         (故寺田正二氏への思い出に)

 「じゃ、行ってくるよ」と軽く別れの言葉を残して、
 当日の花嫁である姉娘は一月半ばの早朝六時、
 一人で鵠沼くげぬまから東京へとハイヤーを飛ばしたそうだ。
 それから母親と高校三年の弟とが
 後を追って出かけたそうだ。
 長年の療養生活で寝たきりの学者である父親は
 留守をまもって一日じゅう
 好きなレコードを聴いて暮らしたそうだ。
 みんなが帰って来たのは夜よるだったが、
 東京での昼間の式は型破りのもので、
 入場の際のメッデルスソーンの「結婚式行進曲ウェッディング・マーチ」を弟が弾き、
 間に女の友だちがリストの「愛の夢リーベストラウム」を弾いたそうだ。
 そして式の終りには新婦のピアノ伴奏で
 新郎が「ホーム・スイート・ホーム」を独唱したそうだ。
 そういう一部始終を病床の父親は
 長いテープの録音で聴いたり、無数の写真で見たりして、
 「四〇パーセントぐらい」は自分も列席していた気持になったそうだ。
 後になって弟は
 メンデルスゾーン演奏のアルバイト代として、
 「金壱千円也」を姉から徴収したそうだ。

 

 

 

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 復活祭

 「天は笑い、地は歓呼する……」
 バッハのカンタータが今終わった。
 庭を埋めて咲くタンポポ、シバザクラ、紫ケマン、
 祝祭と花の朝を風は冷たく、日は暖かい。

 生涯を詩にうちこんで幾十年、
 もはや旅路の果ての遠くないのを思えば、
 を追っての復活を願う
 祈りの歌もただごととは聴かれない。

 木々の梢に歌ほとばしらせる小鳥たちや
 青い空間に浮かびきらめく蝶や蜂、
 「われを天使に似させたまえ」のつつましい訴えが
 彼ら純真で欲念薄い者達にこそふさわしく思われる。

 

 

 

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 晩年のベルリオーズ
           (渝る事なき愛情をもって)

 寒さと雨とぬかるみのパリの片隅、
 リュ・ド・カレーの孤独と寂寞の薄ぐらい部屋で、
 眉に垂れかかる銀髪を掻き上げながら、
 老い衰えたベルリオーズが一通の手紙を書いている。
 五十年前の初恋の、片恋の、年上の娘、
 あの故郷グルノーブル・メーランの「山の星ステラ・モンティス
 今は七十歳に近い老女エステル・フールニエに
 最後の憩いの胸と膝とを求める手紙を。

 人生は「ただ動く影にすぎなかった」のか。
 それは本当に「一人の白痴の物語だった」ろうか。
 しかしあのたぎり立つ青春の一大ロマンス『幻想交響曲』や
 あの荘麗な『死者のための鎮魂曲』、『ローマの謝肉祭』、
 さては『ロメオ』、『ファウスト』、『イタリアのハロルド』。
 そういう傑作はすべて空しい戯れだったのか。
 『キリストの幼時』と『トロイの人々』とは長びく夕日の残照だったが、
 それは彼の聖書的な牧歌であり、音楽でのヴィルジールだったのだ。
 彼はそれらをさえ人間喜劇の終曲フィナーレだと言うのか。

 燃える情火にその天才を焼き尽くさせた男、
 時代の無理解と孤独との中で己れへの信を失った男、
 「人は髪の毛の白くなった時、もはや夢を、
 友情の夢をさえ忘れ捨てねばなりません」と
 訓戒の返事を与えられるとは知るや知らずや、
 生き疲れ、衰え果てたベルリオーズが、
 遠くいとけない昔の恋人、現在の老婆に、
 雨の夜の墓地にゆらめく鬼火のようなはかない手紙を書いている。

 

 

 

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 森林限界

 画のようでもあれば歌のようでもあった
 あのお花畠の楽園をあとに、
 ウソが笛吹き、キクイタダキがこまかに囀る
 トウヒ、シラビソ、コメツガの密林を登りきれば、
 もう此処は山の高木帯の尽きるところ、森林限界。
 天地八方からりと開けた光の世界に
 曲がりくねったダケカンバを最後として、
 行く手はハイマツの海と聳え立つ岩の砦とりでだ。

 なんという清浄な日光、颯々たる風!
 下界での悲喜も煩悩もここに絶えて、
 ただ無心の生き身がこつねんと立つばかり。
 時折聴こえて来るイワヒバリの歌だけが
 遠い世からの消息のように思われる。

 この上は孤絶の山頂さしてひた登りに登るのだ。
 残んの命を決然として美しく
 生き抜こうとする者のように。

 

 

 

 

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 詩人と笛

    その一

 詩人が堅い木管の小さい笛を吹いている。
 十七世紀の終わる頃にわずか三十六歳の若さで死んだ
 イギリスの或る作曲家の美しい小曲を
 この一時ひとときの心と体の憩いとして。

 笛などは年甲斐もないと言って彼を笑うな。
 今たまたま重荷のように思われる人生を路傍に下ろして
 永遠を垣間かいま見る森の木蔭で一息入れているところだ。
 そして歌が終われば又立ち帰る一日の旅だ。

    その二

 息と指との造形から
 楽符の列が旋律を生み、彼のこの世の四半時間が
 今、中世イギリスの田園や町となる。

 そして或る時は物語に暗いドイツの森に、
 また或る時はイタリアの海べの丘や白い廃墟に……
 だがそれは彼の郷愁のしらべではあるが逃避ではない。
 詩人がその夢想と共に織り上げる一片の現実だ。 

 

 

 

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 夏 行げぎょう
       (岡厚生君に)

 回想や想像の中では山でも海でも
 すべて絵空事えそらごとのように思われる今日の酷暑、
 アルプスの雪溪の思い出も駄目、
 寒い深い秋芳洞の記憶も駄目、
 気を変えて読んでみるあのステファーヌ・マラルメの
 「海の微風ブリーズ・マリーヌ」も甲斐がなかった。

 骨身にこたえる暑さにも負けず、
 寄る年波の醜い頽廃や
 精神の弛緩にも打ち克つためには、
 今書いているこの文章を書き果たすこと、
 書きながらいくばくかの喜びを創造すること、
 何はあれ存在の証しであるこの仕事と闘うだけだ。

 焼けつくような蟬の合唱、空中の燕のきしり、
 炎天のヤブカラシの花から花への揚羽のひらめき。
 だがここに一つの慰めとして、警めとして、
 ぎっしりと書物の押し合う部屋の窓に、
 あのけなげな学生がみちのくのみやげにくれた
 南部盛岡の鉄の風鈴ふうりんが目も覚めるように鳴っている。

 

 

 

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 鎌倉初秋

 きらびやかに暑くたくましかった
 海と山との夏は徐ろに逝こうとしているが、
 幾十という蟬の声は唸りを帯びて
 まだこの一山一寺の全域を圧している。

 片隅の静かな庫裡くりのあたり
 すでに葉雞頭が黄に赤に、
 とんぼ、やんまも軽やかに飛んで、
 カンナ、ジニアの古風な花達も衰えない。

 そぞろ歩く若い女性の人影が
 鬱蒼と年古りた大樹のあいだで
 独りで在る時と処とに秋めいた思いを与えながら
 遠い歴史のしっとりと青い瞬時を味わっている。

 

 

 

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 古い山の地図を前にして

 グラスから冷たい飲み物を飲みながら、
 もう一方の手の指先をゆっくり這わせて
 強く凝らした老いの瞳で追っている。
 綾のような等高線の旋律に添ったり
 それを裁ち切ったりする昔のおのが足跡を示す
 今では淡うすい、しかし曾ては血のように濃かった
 赤鉛筆の線のゆくえを。

 二十メートルずつの間隔の広さ狭さで
 こころざす山の傾斜角を図にまで書いた
 遠い昔の生一本な、まっすぐな、
 あの初恋のように純な熱中がほほえましい。
 そういう過去をこの古い地図から振り返って、
 もう一杯なみなみと注ぎ、
 晩い燕の飛びかう夏夕暮れの飲み物を
 今度はグッと一息に飲む。

 

 

 

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 続けかしの歌
        (古い妻に)

 彼女がいつも健かだということ、
 足る事を知って、頼もしく、
 つねに明るく家事に働いているために
 何か遠くでいい音のする秋の日のようだということ
 それが齢を重ねてもなお仕事を
 毎日の務めとしている私には強い支えだ。

 二十年も昔に貰った信州の田舎の菊を
 贈り主のこころ同様大切に護り咲かせて
 今他人にも根分けして共に喜ぶ晴れやかな真情、
 遠い学校へ通う孫たちのために
 夜更けまで何かと用意をしてやりながら
 朝は早くも日の出のような顔のまばゆさ。

 道の上の霜がきらきらと溶け
 どこかで頬白が歌っている冬の午前、
 今日もまた命あって机に向かえば
 静かに運ばれる一椀のコーヒー、
 私はそのうしろ姿と昔ながらの誠実に
 ちらと視線をやって心の手を振る。 

 

 

 

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 二つの現実

 どうしたものか隣席の若い女性が
 あたりに気を兼ねながら又しても苦しげに咳きこみ始める。
 ベートーヴェンの大曲『荘厳ミサ』は
 満員の聴衆の上を海流のようにうねり進む。
 私は持ち合わせの薬を女に与えて
 暗がりの中でその背を摩さすりながら聴いている。
 「サンクトゥス」に続いて直ぐに「べネディクトゥス」
 そしてもう始まった輝かしい独奏ヴァイオリンの
 天を翔けるようなあの神々しい長い楽句。
 私は見知らぬ女性の背中に手を当てたまま、
 つづく「神の小羊」まで、
 人間一人の苦しみと万人の法悦という
 この二つの現実を懸命に一つのものに練り上げていた、
 鍛えていた。

 

 

  

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 エリュアール
       (仮空の真実として、山崎栄治君に)

 或る日突然エリュアールの訪問をうけた。
 その詩集の翻訳者である友人の紹介で。
 彼は旧知のように私に近づき、
 人間のただびととして私の手を握った。

 エリュアールは私の書棚をぐるりと見渡した、
 ランボー、ロートレアモン、アポリネール、ブルトン、
 ジード、ヴァレリー、ヴィルドラックにまじって
 自分の著書のあるのにつつましく微笑しながら。

 彼はおのれの過去について語らなかった、
 私がそれを知っていることを知っていたから。
 彼は現在を語らなかった、
 私と共に太陽の下のそれを見ていたから。

 だがその澄んだ美しい限は言っていた、
 詩は人生と世界、夢と愛との所産であり、
 人生に奉仕する実用品であり、
 人類を集合させるために戦いをやめないものだと。

 彼は機嫌よく帰って行ったが、
 私の心に残った快い感銘は、
 愛にも、知恵にも、知識にも
 経験にもぎっしり詰まったくだもののような、
 無限に美味で、身になって、頼もしい
 われらの同僚、厳とした人間仲間、
 ポール・エリュアールそのものの真面目だった。

 

  

 

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 その空の下で
         (妻に代わりて)

 安達太良山あだたらやまもここから先は足で登るか、
 ガラガラ廻っている味気あじきないあのリフトで
 吊り上げられて行くかするよりほかはない。
 山麓をいろどる落葉松からまつの新緑、遠い郭公、
 峰の高みに真白な残雪の帯、
 そして頭の上は、見よ、この空だ。
 おばさまが言ったという「智恵子のほんとの空」、
 東京ならぬみちのくの空が、
 「あどけない話」どころか真底女人にょにん
 思い入ったまじめさで、少し悲しく、
 深く青々とひろがっている。
 私はこの空を今は亡い人のその昔の郷愁と
 同じ思いでしみじみと見上げる。
 足もとには猩々袴か燕オモトか
 つやつや光る強い緑の芽がぎっしり。
 これもあのかたの故郷の山の草だと思えば、
 踏むどころか、記念に一株掘るどころか、
 気をつけて、丁寧に、
 跨いで、
 行く。

 

 

 

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 黄道光

 「波と鐘」、「前世」、「ローズモンドの館やかた
 愛するアンリ・デュパルクよ、
 かつて私の若い胸を躍らせた三つの歌、
 君が此の世に遺して行った傑作の三つが今終わった。

 それらの歌は私の青春の一時期と絡み合い、
 今も古い多彩な追憶を呼びいだす。
 悲恋と、愛と、絶望と、奮起、
 憤りと、歎きと、喜びの思い出を蘇らせる。

 私はそこから記憶の断片をとりあつめて、
 夢のようだった七十幾年の生涯のうちの
 色も豊かな一枚の強籾な布を織り上げる。

 愛するデュパルクよ、君の雄々しい歌が今終わった。
 そして早春の夕映えも谷間の家の窓に消え、
 私の余生の西空になごりの黄道光がほのかに明るい。

 

 

 

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 沈みゆく星に寄せて

 窓からの眺めを夜に変えて
 天文学的薄明もついに終わった。
 正面の暗い杉山の頂きをすれすれに
 巨大な黄玉のような木星が傾きかかり、
 西の空低く金星が爛々と
 今宵の別れに輝いている。

 八月も終りに近い夏の夜の
 この星々が送る美しい告別を私は愛する。
 太陽が沈み、暑熱が去り、
 南の風がそよそよと北に変わって、
 世界が夜の休戦と平和に移る時の
 この最初の告知の光を私は喜ぶ。

 しかし私は知らない、いかなる明日あすが自分に来るかを。
 そして人間の運命の星の動きは
 どんな天界図にも載っていず、
 どんな暦からも予測されない。
 しかしただ私は知っている、自分の星が
 この空の奥底へとやがて永久に消え沈むのを。

 

 

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