ロマン・ロラン「近代音樂家評傳」    尾崎喜八 譯

 ※他の文集・詩集に掲載されている作品はここでは表記しておりません(満嶋)。
 ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

  内容目次

 

   譯者序言
   ベルリオ
   ワグネル
   カミーユ・サンサンス
   リヒアルト・シュトラウス
   フーゴー・ウォルフ
   クロード・デビュッシー
   佛蘭西及び獨逸の音樂
   附録 モツァルト
   
  挿絵目次  
 

 ロマン・ロラン /ヱクトル・ベルリオ /リヒアルト・ワグネル /
 カミーユ・サンサンス /リヒアルト・シュトラウス /
 フーゴー・ウォルフ /クロード・デビュッシー /グスタフ・マーラー/
 フランツ・リスト /ウォルフガング・モツァルト

     

     

    長與善郎君の家庭にありし日の紀念のために   

 

   人生は過ぎ行く。肉體と靈魂とは流れの樣に流れて行く。年月は古りたる樹の肉のうちに記される。有形の世界は、全て滅びては又甦る。卿ばかりは過ぎ去る事がない。不死の音樂よ。卿は内奥の海である。卿は底深い魂である。卿の淸き眸に人生の澁面は映らない。卿を遥かに、群る雲に似て日々の列は飛ぶ。燃ゆるやうに、冷やかに、熱して、不安に逐はれて、一瞬の停まる暇もない。卿ばかりは過ぎ去る事がない。卿は世界の外にある。卿は自身に於て一の世界である。卿は卿の太陽を持ち、卿の法則を持ち、卿の干滿兩樣の潮を持つ。卿に夜の天空の廣野に燦く轍の痕をのこして行く星の平和を持つ。―そは見えざる牧者の確かな手が導く銀の犁である。
 音樂よ。澄みわたった音樂よ。現世の太陽の烈々たる光輝に惱まされた眼にとって、卿の月に似る光の如何に柔かな事であらう! 曾てそこに生きて居た靈魂は、そして其の水を飮むために人々が脚を以て泥土を攪拌した共同の飼水池に背を向けた靈魂は、卿の胸にすがりつき、そして卿の乳房に、渾々として盡きざる夢想の淸水を啜る。音樂よ。卿處女なる母よ。卿はその淨き胎内に一切の感情を持つ。藺草の色の、蒼緑な氷河の水の色の眼の湖に、卿は善と惡とを湛へる。卿は惡を超えて居る。卿は善を越えて居る。卿の内にかくれがを求むる者は時の推移の外に生きる。日々の連續は僅か一日に過ぎないであらう。あらゆるものを噛む死はその牙を碎かれるであらう。
 自分の悲しき魂を搖すつてくれた音樂よ。それを自分に、剛毅な、平和な、そして歡ばしきもの―我が愛、我が寶―として返してくれた音樂よ。自分は卿の汚れなき唇に接吻する。卿の蜜の樣な髪の中に我が顔をうづめる。卿の手の柔らかな掌に燃ゆる我が瞼を置く。我々は默して居る。我々の眼は閉ぢられて居る。しかも自分は卿の眼の云ひ難ない光を見る。物云はぬ卿の唇の微笑を飮む。そして卿の胸にひたと寄り添つて、自分は永遠の生命の鼓動に聽き入るのである。

                「ジヤン・クリストフ」最終巻「新らしき曙」より。

 



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 譯者序言

此書はMary Blaiklock 英譯の“Musicians  of To-day”から重譯された。原著は佛蘭西文“Musiciens d'aujourd'hui”である。
 重譯は直接原書からの譯に如かない。併し原語に對する素養の淺い自分にとつて、直接譯は云ふ迄もなく困難であり危險である。自分は困難と知り、危險を冐してまでも、それを敢てする勇氣を持たなかつた。自分は、そして、その方が本當だと思つた。かくて自分は能ふ限り原著を參照しつゝ英譯から譯出した。英譯は先づ信頼するに足りた。英譯に就て不滿或は不明な箇處は、拙いながらも原著から直譯した。自分は殆んど逐字譯である此書が幾分なりとも原著者の氣魄を行文の中に映し出す事に努めた。そしてそうある事を私かに信じて居る。
 參照した原著は巴里アシヱットの千九百十四年第六版である。英譯は倫敦ケガンボール發行の千九百十五年第二版を使用した。本書の中、附録の「モツアル卜」だけは、原著“Musiciens d'autrefois”の英譯“Musicians of Former days”から譯出した。此の原著を持つて居なかった自分は必然重譯した。英譯は“Musicians  of To-day”と譯者も同じ、發行書肆も同じである。
 「今日の音樂家ミュージシアンス・オブ・トウーデー」には、此書に譯出した評傳の外に、「ヷンサン・ダンディ」、「ドン・ロレンツオ・ペロジ」の評傳があり、「再生。千八百七十年以後の巴里に於ける音樂運動の寫生」と云ふ優れた評論がある。之等は總て此の書に載せらるべきであつた。併し頁數の都合は自分にそれを許さなかつた。そして三個の評論と評傳との代りに「モツアル卜」を加へた。自分は此の責めを、やがて發表するであらう「過去の音樂家」の譯出と共に殘りなく果す積りで居る。抑も此の罪は近時世間に行はれる樣な、他人の譯に自己の名を冠して出版する者等の罪と同等に斷ぜらるべきであらうか?
 原著者ロマン・ロラン氏の比較的若い頃の寫眞を入れたのは、自分の手に同氏最近の寫眞がなかつたからでもあるが、一方此の寫眞が之等の評論を執筆し、「ジャン・クリストフ」の大作に浸つて居た頃のものだと云ふ理由からでもある。
 一切を措いて自分は此書を等しき昂奮と感激とを以て譯した。自分は其處から大いに學ぶべき處のものを得た。底に寂寥を湛へた此の人生の日々にあつて、此書は一の慰めの手である。人は其處から眞の人生を知り、人間を知り、ヒーロイズムを知り、愛を知る事が出来る。此書は實に遥かなる、しかも最も近い内心の愛の故郷から來た。そは吾等が母なる地から來た。愛を通しての理解を措いて此書を論ずるものは誤って居る。此書が單に興味を以て書かれ、皮肉を喜ぶ性情によって書かれ、技巧を論ずる目的によつて書かれ、そして自己の學殖を誇示する爲めに書かれたものでない事は、直ちに讀者の感ずる處であらう。それは直接に人格から來た。精神から來た。評論の爲めの評論からは來なかつた。「心へ行くために心から來た」のである。
 自分は此譯書が單に、種々の意味に於て紹介者である事だけでも目的の一つは果せると思ふ。併し自分は出來得る限り最もよき刺戟をこゝから取り入れる悦びを讀者と共に分けたいのである。自分の此の信念は、譯の行文の内、自ら了解される事と思ふ。
 自分は茲に原著者に對する敬愛の念を表明する。
 此書の出版に就て、盡力を惜しまれなかつた小泉鐡氏、挿繪にした肖像を貸して下さつた柳宗悦氏、そして種々の便宜を與へられた武者小路實篤氏、高村光太郎氏等諧先輩の厚意に對して、自分は甚深の感謝を、末ながら此處に捧げる。尚、二三音樂家の名の特殊な讀み方を態々知らせて下さつた無名氏の厚意を嬉しく御うけする。

  千九百十六年十二月
                                譯 者 識

 


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 ベルリオ(一八〇三〜一八六九)

 《一》

 ベルリオ程知られて居ない音樂家は無いと云つたならば、それは僻論の樣に聽こえるかも知れぬ。世界は彼を知つて居ると思つて居る。騷がしい評判は彼の人間と製作とを取卷いて居る。音樂好きの歐羅巴は彼の百年祭を行つた。獨逸は彼の天才を育て上げ、形作つたと云ふ事でその名譽を佛蘭西と爭った。露西亞は(1)、――巴里の冷淡と敵視とに對して、その熱切な歡迎で彼を慰めたのであるが――其のバラキレフの言葉を通して斯う云つた。彼は「佛蘭西の持つた唯一人の音樂家である。」と。彼の首要な作曲は屢々音樂會で演奏された。そしてその中の或るものは、智識階級と群衆との、どつちの心にも訴へる樣な稀有な資質を持つて居た。少數の作曲は非常な流行とさへなる樣になつた。多くの製作は彼に獻げられ、彼自身は又多數の文學者によつて書かれ、批評された。彼はその顏によつてすら知りつくされて居る。何となれば彼の顏はその音樂と同樣に、一目して彼の性格を示す程目立つて、單純であつたから。如何なる雲翳も彼の心とその創造物とを覆ふては居ない。それはワグネルのそれと違つて理解する爲めに手引を要さぬ處のものである。それは如何なるかくれた意味も、微妙な神秘をも臓して居ないかの樣に見える。人は直ちに其等の友でなければ敵である。最初の印象が最後のものだからである。

  (1)「そして予を助けた處の爾ロシア……」(ベルリオ著。Mèmoires メモアル,II, 353, Calmann-Lévy出版。1897)
 それが一番いけない事なのである。人々はたつた少し許りの努力でベルリオを理解できると思ひ込んで居る。意味の不明であると云ふ事は、うはべだけの明瞭さ程、藝術家の心を傷けはしないかも知れぬ。霧の中に包まれ居ると云ふ事は、永い間誤解されて居ると云ふ意味になるかも知れぬ。併し眞に理解しようとする人々は、少くとも彼等の眞理の探求に於て根本的でなければならない。明徹な構圖と、力强い相反との製作の内に、如何に深さと複雜さとが存在するものであるかと云ふ事が實感されたのは、そう始終でなかつた。――レンブラントの惱める心や、北國の微光の内にも、それと同樣にかの文藝復興期に於ける或る偉大なる伊太利人の赫耀たる天才の内にも。

 それは第一の陷坑である。併し其處には吾人がベルリオを理解しようと企てる時、それを妨げる多くのものがある。彼自身に達せんがためには、人々はその先入觀念と衒氣の、因襲と物語り振りの障壁を壊してかゝらなければならない。早く云へば、若し半世紀に亘つて積もつた塵埃の中からそれを救ひ出さうと欲するならば、人々は彼の製作に關する殆んど全ての時流的概念を振ひ落して終はなければならないのである。                         
 殊に、ベルリオを以てワグネルに對照せしめるの誤りをしてはならない。かの獨逸的オーディンのためにベルリオを犠牲にしたり、無理にも一を他に一致せしめやうと試みるが如き誤りを。何となれば其處にはワグネルの理論の名の下に、ベルリオを葬つてしまはふとする人々があるかと思へば、一方には犠牲とする事を好まぬ代りに、その使命が彼自身よりも一層偉大なる天才のために、路を浄め、下ごしらへをする事にあるワグネルの先驅者、或は一の兄のやうな者にしてしまはふとする人々があるからである。是よりひどい間違ひは無い。ベルリオを理解するにはバイロイトの催眠術的心醉を振り捨てゝしまはなければ駄目である。假令、ワグネルが何ものかをベルリオから學び得た事があつたとしても、此の二人の作曲家は何等共通する點を持つては居ないのである。彼等の天才と藝術とは絶對に相反して居た。互ひは各々異つた野にその畦を耕して居たのである。
 古典的の謬見は明かに危險である。予が斯く云ふ意味は、今も尚批評家の間に勢力ある過去の迷信への戀着と、藝術を狹隘な範疇に押し込めやうとする衒學的慾望の事である。誰か斯くの如き音樂の檢閲官に出會はない者があつたであらうか。彼等は勿體振つた慇懃さを以て、音樂はどの位まで進歩するだらうとか、何處まで行つたら停止しなければならないとか、そして何々は表現してもいゝとか、何々は表現してはならない等と云ふ事を諸君に語るであらう。そう云ふ彼等自身はいつでも、音樂家ではないのである。併し彼等がそれの何なのだ? 彼等は過去の標本に倚りかゝつて居るのではないか。過去! 一握りの制作こそ彼等自身が辛うじて理解し得る處のものなのである。其の間にも音樂は際限のない發達を以て彼等の規定を反駁しつゝ、その脆弱な防壁を破壊して行く。併し彼等はそれを見る事をしない。見る事を欲しないのである。つまり彼等は彼等自身を進ませられないのである。進歩を拒絶するのである。斯かる種類の批評家は、戯曲的で描寫的なベルリオのスインフオニーには厚意を持たない。彼等は十九世紀に於ける大膽極まる音樂的偉業に對して、抑も如何なる評價を試みやうとするのであらうか。その活働の停止した後にのみ理解する事の出來る、是等醜怪なる衒學者等や、熱心なる藝術の破壊者等は、自由なる天才の最惡の敵である。そして其の害惡は、無知な群集の全軍よりも一層甚だしいかも知れぬ。何となれば、音樂的教育の貧弱なる事吾人の生國の如き處にあつては、有力な、併し僅かに半理解に過ぎない因襲の前にあって、その怯懦は非常なものだからである。そして大膽にも其の因襲を突破しやうとする者は何人も審判なしに罪の宣告を受ける。若しベルリオにして彼が呼んで「デルフイの託宣」、ゲルマニア・アルマ・バレンス(慈母なる獨逸(1))と云つた古典音樂の國獨逸の中に、その味方を見出さなかつたならば、佛蘭西に於ける古典音樂愛好者等から、彼が何等の尊敬をも受けなくは無かつたと予は危ぶむ。若い獨逸派の或る者はベルリオの内の靈感に打たれた。彼の創作にかゝるドラマテイツク・スインフオニーはリストによつて獨逸的形式となつて擴がつた。最も名聲ある獨逸現代の作曲家リヒアルト・シュトラウスは彼の感化を受けた。そして、シャルル・マレールブと共にベルリオの全集を編纂したフヱリツクス・ワインガートナーは大膽にも斯う書いた。「ワグネルとリストが居たにも拘らず、若しベルリオが居なかつたならば、吾人は吾人が今在る塲處には居ないであらう。」と。此の傳統の國からの思ひがけない援助は、古典因襲の徙黨を混亂の中に投げ込んだ。そしてベルリオの知己を昂奮させた。

  (1)「メモアル」第二。百四十九。

 併し茲に新らしい危險は起る。佛蘭西に比して一層音樂的な獨逸が、佛蘭西に先立つてベルリオの音樂の壯大と獨創とを認めた事は自然であるとしても、その本質に於てかくも佛蘭西的な魂を、獨逸的性質が如何なる點まで充分に理解し得たかは疑問である。獨逸人の鑑賞したものは或はベルリオの外觀であり、その積極的な獨創であつたかも知れぬ。彼等は「ロメオ」よりも寧ろ「鎭魂曲ルキヱム」を採る。リヒアルト・シュトラウスの如きは「リア王の序曲」の樣な殆んど數にも足らぬ作に感動した。かのワインガートナーは「サンフォニー、フアンタステイク」や「ハロルド」の如きものを注目すべしとして抜擢し、その位置を大げさに説いた。併し彼等はベルリオの奥底のものは感じなかつたのである。ワグネルはウヱーベルの墓の上に斯う書いた。「英吉利は卿を理解し、佛蘭西は卿を讃美せり。されど獨逸こそは卿を愛す。卿は彼女の自體にして彼女の生涯の光輝ある一日、彼女の血の溫かき滴りにして彼女の心臓の一部なり。………」と。吾人は此の言葉をベルリオに適用する事が出來る。獨逸人のベルリオを眞に愛せんとする事の困難の程度は、佛蘭西人のワグネル、ウヱーベル等を愛せんとする事のそれに等しい。斯くて吾人がベルリオに對する獨逸の見解を卒直に受け容れる事は注意に價する事である。何となれば、其處には新たなる誤解が横はるからである。諸君はベルリオの追随者と反對者との双方が、如何に吾人の眞理への到達の途を遮るかを知るであらう。彼等を放逐しやうではないか。
 吾人は、𣪘に困難の終りに到達したのであらうか。否。ベルリオは人間の最も幻想的なものであり、彼程自己に對する人々の親愛に向つて彼等を惑はす手助けをした者はなかつた。吾人は彼が如何に多くを音樂及び彼自身の生活に就て書き記し、そして如何に其の奇智と理解とを彼の抜目なき批評及び美しい「メモアル(1)」の内に示したかを知る。人或は感情の隅々までも表白する批評家としての彼の専門から推して、斯の如き想像的な熟練した著者は、ベートオフェンやモツアル卜より更に適確に藝術に對する彼の思想を語る事が出來るであらうと考へるかも知れぬ。併しそうではない。餘りに烈しい光りが親愛をくらます樣に、餘りに多くの知識は理解を妨げるものである。ベルリオの心は微細な點に費された。それは餘りに多くの刻み目から光りを反射した。そして此の多くの光りそのものを、彼の力を知らしめたであらう一の强烈なる光線の中に収斂する事をしなかつたのである。彼は自己生活と仕事とを統一する術を知らなかつた。否寧ろ其等を統一する事をすら彼は試みなかつたのだ。彼はロマンテイック天才の權化であり、奔放果てしなき力であり、自己の歩むだ道程に意識なき者であつた。予は彼が彼自身を理解しなかつたと迄は云はない。確かに彼が自らを理解した時が幾度かあつた事はあつたのである。彼は機會が欲する處に彼自身を驅りやる事を許した(2)。宛も古代スカンヂナヴイアの海賊がその小舟の底に横はつて、天空を凝視して居た樣に。そして彼は夢想し、苦悶し、哄笑し、或は熱病的の妄念に屈服したりした。彼はその藝術と共に半信半疑の内に生きた樣に、同じ態度を以てその情感と共に生きた。その音樂に於ても、宛もその音樂批評に於けるが如く彼は屢々自らに矛盾を感じ、躊躇し、そして立戻つた。その感情と思想の何れにも彼は信を置かなかつた。彼はその魂の内に詩を持ち、そしてオペラを書く事につとめた。併し彼の感動はグルツクとマイエルベエルの間を行き迷つた。彼は通俗的の天稟を持つて居た。併し人々を彼は嫌厭した。彼は不敵なる音樂の革命兒であつた。併し彼は此の音樂的運動の統御をそれを欲する人々のとるに任せた。一層惡い事は、彼が其の運動を我がものに非ずとし、未來に向つて背を向け、そして過去の内に彼自身を再び投げ込む事であつた。何の爲めに? 多くの塲合彼は知らなかつたのだ。熱情、悲愁、移り氣、傷ける自負――是等のものは生活の嚴肅な事柄よりも多く彼に影響した。彼は彼自身と闘ふ人であつた。

  (1)ベルリオの文學的著述は幾分不同である。甚だしく美しい章句の一方には又、その大げさな情緒に滑稽を感じさせる樣なものがある。そして尚好い趣味に缺けたものもある。併し彼はその風格に自然な才能を持つて居た。そしてその書くものは力强く、感情に溢れて居た。殊に彼の生涯の後半に向つてそうである。「祈禱の行列」は屢々「メモアル」から引用された。そして彼の詩句の或るものは、殊に「基督の幼年期」や「トロイの人々」の中のものは、美はしい言葉と快活なりズムの感じを以て書かれて居る。彼の「メモアル」は全體として、音樂家によつてかゝれた内の最も喜ばしい書物の一つである。ワグネルは、より大きな詩人であつた。併し散文作家としてはベルリオの方が遥かに優秀である。Paul Meriilot―のBerlioz écrivain(1903, Grenoble)参照。 
(2)「機會。知られざる神。それは我が生涯の内の斯の如き大いなる役を演じた。」「メモアル」第二、百六十一

 斯くしてベルリオとワグネルとの比較となる。ワグネルも亦盲目な熱情によつて動かされはした。併し彼は常に彼自らの主であつた。そして彼の理性は彼の心や世間の暴風によつて、或は愛の惱みや政治的革命の紛爭によつて搖ぐ事はなかつた。彼はその經験や、又過失をすらも彼の藝術に仕へさせた。その理論を實行する前に彼は其等に就て書いた。そして自己に確かさを感じた時にのみ、彼の前に道が美しく横はつて居る時にのみ、彼は進水した。斯くてワグネルが如何に多くを彼の計畫に就ての著述と、その辯説の磁石的引力とに負ふ處あるかゞ分る。バヷリアの王が彼の音樂を聽く前に魅惑されたのは、實に彼の散文の著書であつた。そして亦、他の多數の人々にとつても其等の著書は彼の音樂を解く處の鍵であつた。予は予が彼の藝術を半ば理解した時に當つて、ワグネルの思想に印象された事を記臆する。そして彼の作曲の一つが予を惑はした時も予が信頼は動かなかつた。何となれば予は、その理論に於て斯くも論證的である天才に間違ひのあるわけはないと確信して居たからであつた。そして若し彼の音樂にして予の信念を裏切るならば、その過失は予自身にある事をも確信して居たからであつた。ワグネルは眞に彼自らの最も善良なる友であり、最も信頼すべき勇者であつた。そして、そは吾人を彼の制作の奥深い森を通して嵬峨たる嶮崖の上に導く處の案内の手であつた。
 諸君は此の方面に於てベルリオから助けを受けないばかりでなく、彼こそ諸君を誤り導き、迷誤の徑にさまやう處の第一人者である。彼の天才を理解せんとするならば、諸君は獨力を以てそれを攫み取らなければならない。彼の天才は眞に偉大である。併し予が諸君の前にそれを示さうと試みる時、それは一つの弱き性格のなすがまゝに任せられて居るのである。

     ●

 ベルリオに關するあらゆる事が惑ひの中にあつた。彼の外貌すらも、云ひ傳へによる肖像には、彼は漆黒の髪と閃く兩眼とを持った陰鬱な南方人の風貌を示して居る。併し彼は事實では美しく、そして碧色の眼を持つて居た。(1)そしてジヨセフ・ドルテイグは、たとへその兩眼が時には憂愁と倦怠とに曇つて居たとは云へ、深く刺す樣であつたと吾人に語る(2)。彼は三十歳の時、皺を刻むだ額と厚くかぶさつた髮とを持つて居た。或はルグヴエに云はせれば「猛鳥の嘴の上に動く日覆の樣に突出た毛髮の大きな傘(3)」を持て居たのである。彼の口は引きしまつて、唇は堅く結ばれ、その隅は嚴格な褶をとつて居た。そして頤は大きかつた。彼は荘重な聲を持つて居た(4)。併しその談話はひつかゝり勝ちで、時々感激の爲めに顫へた。彼は興味を感じた事を熱情を以て語つた。そして或時はそれが身振りとなって突發した。併し多くの塲合彼は不愉快氣で無口であつた。其の高さは普通で體格は寧ろ痩せて骨張つて居た。そして彼が座して居る時は實際の彼よりもずつと高く見えた(5)。彼は非常に落着かない人であつた。そして彼の故郷ドウフイネから承けた徒歩や山に對する山國生れの人の熱愛を持つて居た。彼が放浪者の生活を愛するのもそれに起因して居た。そして其は殆んど彼が死に到るまで彼を離れなかつた(6)。彼は又鐡のやうな體質を持つて居た。併しそれは彼の窮乏や不節制の結果破壊されてしまつた。即ち雨の中を歩いたり、どんな天候の時でも、地上に雪のある時ですらも戸外に眠つたりした爲めに(7)

  (1)「私は美しかつた。」とベルリオはピウロウに書いた。(千八百五十八年。公表されなかつた手紙の内「赭らむだ長髪」と彼はその「メモアル」第一、百六十五に書いた。「砂色の髪」とレイヱーは云つた。ベルリオの髮の色に就ては予は彼の姪シヤボオ夫人の證明に信をおく、
(2) ジヨセフ・ドルテイグ「オペラの露臺」参照。千八百三十三年發行。
(3) ウ・ルグウヴヱ「六十年間の回想」。ルグウヴヱは茲で彼に初めて會つたとしてベルリオを描寫して居る。
(4) 「可なりのバリトーン」とベルリオは云ふ。(「メモアル」第一。五十八)千八百三十年に彼は巴里の街中で「低音部」を歌った。(「メモアル」第一。百五十六。)その最初の獨逸訪問中ヘヒンゲン公は、彼に彼の作曲の一の中の「ヴイオロンセロの音部」を歌はせた。(「メモアル。」第二、三十二。)
(5) ベルリオの好い肖像は二つある。一つはピヱル・プテイによつて千八百六十三年に撮影された寫眞で、彼がエステル・フォルニヱ夫人に贈つたものである。彼はその肘に身を持たせて、首を曲げ、疲れた樣に地面を凝視して居る。他の一つは彼がその「メモアル」の初版に複製した寫眞であって、そこでは彼は、後方に身をそらして、手をポケットに差込み、首を眞直にして、その顏には精力を現はし、そして其の兩眼の中は確固として嚴格な調子を示したものである。
(6) 彼はネーブルスから羅馬迄、山を超えて一直線に歩いたかも知れない。そして、又スビアコからテイヴオリ迄一氣に歩き通したかも知れない。
(7) 此の事は屢々氣管枝炎と咽喉の痛みとを惹起した。丁度彼の死の原因である内部の疾患の樣に。

 併し此の强剛な體軀の内にこそ、戀愛と同情とに對する病的な願望によつて支配され惱まされた灼熱的で弱々しい魂は生きて居たのであつた。「其の避くべからざる愛の要求こそ予を滅ぼすものである……(1)」戀する事、戀される事――此の事の爲めには彼は全てを擲つたであらう。併し彼の戀愛は夢の中に生きる青年の戀愛であつた。それは人生の現實に面して、彼が愛する女性の魅力を發見する如く、同時に其の缼點を發見し得る人の力ある總明な感情では決してなかつた。べルリオは戀を戀した。そして空幻と感傷的な陰影の中に自分を亡ぼした。その生涯の終り迄、彼は「彼の彼岸にある戀愛のために疲斃し切つた哀れむべき小供(2)」の樣に獨り殘つた。併し斯くも粗野に、斯くも冒險的に一生を生きた此の人は微妙にその感情を表現したのであつた。吾人は殆んど少女の如き純潔を、その「トロイの人々」或は「ロメオとジユリエツト」の「晴れ渡つた夜」の不滅なる愛の章句の中に見出す事が出來る。斯くて此のヴイルヂイル的な感情を以て、ワグネルの肉體の恍惚に比較して見る。そは、ベルリオがワグネルと等しくは戀愛し得なかつたと云ふ事を意味するであらうか。吾人は唯ベルリオの一生が戀愛とその苦惱とから成立つて居た事を知るのみである。かの「サンフオニイ・フアンタステイク」の序に於ける感動すべき章句の樂想は、ベルリオが十二歳の折、「大きな眼と桃色の靴」の十八歳になる少女――ヱステル、Stella Montis (Stella Matutina)を戀した時彼の作曲した一の物語と共に、近くジユリアン・チヱルソオ氏によつて其の興味ある著書の中に説明された(3)。是等の言葉は――或は彼が記した最も悲しいものゝ一であつたかも知れないが――恐らくは彼の一生の記號として役立つたであらう。心の絞罪と畏怖すべき寂寥とを宣告され、戀愛と憂愁との餌食となつた一生。血を凍らせる苦悶の裡に、うつろなる世界を生きた一生。望ましからぬ、そして其の最後に於て彼に贈るべき慰めをすらも持たなかつた一生(4)。彼は其の全生涯を通じて彼を追求した此の恐ろしき「孤獨の苦痛マル、ド、リゾルマン」を生き生きと詳細に自ら記した(5)。彼は苦しむべく宣告されたのであつた(6)。或は一層不幸に他人を苦しますべく宣告されたのであつた。

  (1) 「音樂と愛とは靈魂の双翼である。」と彼は「メモアル」に書いた。 
(2) 「メモアル」第一。十一。
(3) Julien Tiersot "Hector Berlioz et la société de son temps" 1903, Hachette. (ヱクトル・ベルリオと其の時代の社會)
(4) 「メモアル」第一、百三十九参照。
(5) 「私は如何に此の畏るべき病ひを書き表はすべきかを知らない。………私の動悸する胸は空間の中に沈み行くかの樣に思はれる。そして私の心臓に敵し難い或力に引かれながら、宛もそれが消散し、溶け去つて終ふ迄、膨脹するのではないかとさへ感ぜられる。私の皮膚は熱して柔軟になり、頭から足まで汗ばむで來る。私は私を助け、私を慰め、破滅から私を救ひ出し、そして私から離れて行く生命を引き止めてもらふ爲めに、私の友逹に向つて(私が碌に氣にも止めなかつた友達にすらも)叫ばふとする。私は切迫しつゝある死に就て何等の知覺をも持たない。そして自殺は不可能の樣に思はれる。私は死に度くない。――それよりも遥かに私は飽くまでも生きん事を欲する。ライフをしてその千倍にも張り切らせん事を欲する。それは食物を缼く時堪へ難いものとなる處の、幸福に對する極度の食慾である。そしてそれは此の偉大なる感情の奔溢に、出口を與へる處の强烈な喜悦によつてのみ充され得るものである。それは憂鬱の状態ではない。假令それが後からは續いて來るにしても。……憂鬱とは寧ろ是等全ての感情の凝結したものである。――氷の塊。私の心が平和な時でも、吾々の街に生氣がなくなり、人々が田舎へ行つて居る樣な夏の日曜日などには、此の「孤獨イゾルマン」をかすかにも私は感ずる。それは彼等が私から離れて勝手に樂しむで居る事を私が知るからである。そして彼等の居ない事を感じるからである。ベヱトオフヱンのスインフオニイの「アダヂオ。」グルツクの「アルセスト」や「アルミイド」の或る塲面、彼の伊太利風のオペラ「テレマツコー」の或る空氣。そして彼の「オルフヱオ」の極樂の野などは、此の苦痛に寧ろ惡い影響を與へる。併し之等の傑作は同時に解毒劑をも持ち來たす。――其等は人の涙を流さしめる。そして其の悲哀を樂にさせる。是に反して、ベヱトオフヱンの或るソナタの「アダヂオ」やグルツクの「トウリイドのイフイヂヱニイ」は憂愁に滿ちて居る。それがために憂鬱を刺戟する。……室内が寒くなって來た。空は灰色になり、雲に覆はれて居る。北風が陰氣に呻る。……」「メモアル。」第一、二百四十六。

 誰か彼のヘンリヱツタ・スミソンに對する熱烈な戀を知らない者があらう。それは痛ましい物語だつた。彼はジユリエツトを演じた英國の女優に戀してしまつた。(彼が戀したのは彼女であつたのか。ジユリエツトであつたのか。)彼は、唯一度彼女を見た。そして全ては終つた。彼は叫んだ。「あゝ、私は負けた。」彼は彼女を熱心に望んだ。彼女は彼を拒絶した。彼は懊惱と激情の魔醉の中に生きた。彼は白痴の樣に巴里市中や其の近郊を、何等の安息や慰藉のめあてもなく幾日幾夜に亘つて歩き廻つた。塲處を嫌はず。睡氣が彼を見つけて襲ふ時まで。――ヴィユジュイフに近い原野の羊群の中に、ソオの近傍の草塲の中に、ヌヰイイに遠くない凍つたセイヌの堤の上に、雪の中に、そして一度はカフヱヱ・カルデイナルの食卓の上に、そこでは給仕人が彼を死んだものと見て(1)大聲をあげて驚くまで、彼は五時間を眠り通した。彼は其の間にヘンリエツタに關する讒謗の噂を耳にした。彼は彼女を侮蔑した。そしてその悲しき憤恨の内に、彼が直ちに魅せられてしまつたピアニストのカミイユ・モークに親愛を示しながら、其の「サンフオニイ・フアンタステイク」によつて公然とヘンリエツタを辱しめた。

  (1) 「メモアル」第一。九十八。

 やがてヘンリエツタは再び現はれた。今や彼女の青春と力とは失はれた。彼女の美は衰へて其の身には負債を負つて居た。ベルリオの熱情は再び煽られた。ヘンリエツタは今度は彼の望みを容れた。彼はそのスインフオニイに變改を加へて、それを自分の愛の印しとして彼女に捧げた。彼は彼女を贏ち得た。そして彼女と結婚した。一萬四千フランの負債と共に。彼は彼の夢を捕捉した。――ジユリエツトを!オフヱリアを! 本統は彼女は何であつたらうか。冷静で、まめで、眞面目で、彼の熱情などは全然理解する處のない、愛らしい一英國婦人に過ぎなかつた。そして彼の妻君となつた時から、彼を嫉妬深く、誠實に愛しつゝ、そして彼を家庭生活の狹苦しい世界にとぢ込め樣とした處の女にすぎなかつた。併し彼の感情は落着いて居られなくなった。彼は西班牙の一女優に心を奪はれた。(それは常に音樂家が、聲樂家か、合唱部員かであつた。)そして哀れなオフヱリアを後に殘して「ファヴォリイト」のイネエ。「オリイ伯爵」の小姓。――實際的で怜悧な女、歌唱にのみ熱中して冷淡な歌手――マリヱ・レシオと共に遠く去つた。傲岸なるベルリオも、彼女の役を獲るために劇塲の監督に諂ったり、彼女の伎倆を賞揚するために誇大な廣告を書いたり、時には彼の關係した音樂會で、彼女に自分の歌曲を調子外れにさせたりさへしなくてはならなかつた(1)! 若し此の弱々しい性格がその誘惑の中に悲劇を持ち來たさなかつたならば、全ては恐ろしく馬鹿氣た事であつたであらう。

  (1) 「それは本統に呪はるべき事ではないか。」と彼はルグウヴヱに云った。「悲劇と痴愚とを同時にするとは! 私は當然地獄に落ちるに價したであらう! しかし私は其處に居たのだ。」

 斯くて彼が眞に愛して居た、そして常に彼を愛して居た一人の女は、そこでは他國人である巴里に、友達もなく獨り寂しく取り殘されて居た。彼女は沈默の内に衰へて行き、病床に臥し、中風症に冐されて悲痛の八年間を言語を發する事が出來なかつた。それと同時にベルリオも苦悶した。何となれば彼と雖も尚彼女を愛し、憐憫の念に引裂かれる思ひをして居たのであるから。――「憐憫。それはあらゆる感情の中で最も悲痛なものである(1)。」併し、何に向つて役立たせるべき此の憐憫であらう。彼はそれにも拘らず、唯一人懊惱させ死なしめる爲めに、ヘンリヱツタを見棄てたのである。そして一層惡い事は、吾人がルグウヴヱから知つた樣に、彼の夫人、憎むべきレシオをして哀れなヘンリヱツタの前に惡戯の一幕を演じさせた事であつた(2)。レシオはそれを彼に語つた。そして彼女の爲した事を誇つた。斯くてもベルリオはどうもしなかつたのだ。――「どうして私に出來やう。私は彼女を愛して居る!」

  (1) 「メモアル」第二、三百三十五。ヘンリヱツタ・スミソンの死に就て彼が記したる悲壯なる章を見よ。
(2) 「モンマルトルに獨り住んで居たヘンリヱツタが、或日、何人かゞ鈴をならすのを聽いた。そして扉を開けて出て行つた。
「マダムベルリオは御在宅でせうか。」
「私がマダム・ベルリオで御度ゐますが。」
「あなたは勘違ひをして居らつしやるのです。私はマダム・ベルリオを御尋ねして居るのです。」
「で御座いますから私の申す通り、私がマダム・ベルリオなので御座ゐます。」
「いゝゑ、あなたではありません。あななは捨てられた、あの古い奥さんの事を言つて居らつしやるのです。私は若くつて、綺麗な愡々する樣な奥さんの事を云つて居るのです。つまり、それは私の事ですよ」
 そしてレシオは戸外へ川て、彼女の後からピシヤリと扉をしめた。
 ルグウヴヱはベルリオに云つた。「誰が君に此の言語同斷な事を話したのだ。自分はそれをしたのは彼の女だと思ふ。そしておまけに其事を君に自慢らしく話したのだ。何故君はあの女を家の外へ逐ひ出してしまはないのだ。」
「どうして私に出來やう。」とベルリオは悲痛な調子で言った。「私は彼女を愛して居る!」(六十年間の回想)参照。

 若し人々が自らの惱みから鎭められて居なかつたならば、斯かる人間に對するに峻酷であるであらう。併し吾人は更に説き進めて行かう。予は寧ろ斯かる特殊な塲合を通りすぎる事を願ふのであるが、併しその權利を予は持たない。予は此の一男性の性格の特別な弱さを諸君の前に示さなければならない。「男性の性格」と予は云ふか。否。そは意志に於て缺けたる女性の性格であつた。その神經の餌食であつた(1)

  (1) 此の婦人の性質から彼の遺趣返しの戀愛即ち彼がその友イレヱに云った樣に「馬鹿らしく、而も必要な事」は來たのであつた。イレヱは彼にヘンリヱツタ・スミソンを傷けるために「サンフオニー・フアンタステイク」を書かした後で、今はブレイル夫人となって居る、常時のカミーユ・モークに對する情けないフアンタジア「ユーフオニア」を書かせた男である。人は若し彼の信實の修飾若しくは惡變なるものが、欺かうとする意志よりも遙かに、彼の抑制し易いそして展開し易い想像力から來るものであると云ふ事を知らない時、そのやり方に對して一層鋭い注意を要する樣に感じるであらう。併し予は、彼の眞の性質が極めて實直なものであつた事を信ずる者である。予は彼の此の樣な性質の好例として、テイヴオリから來た若い田舎者である彼の友クリスピノの話を引用しやう。ベルリオはその「メモアル」(第一、二百廿九)で云つて居る。「或る日クリスピノが禮を失した時、予は彼にシャツ二枚とズボン一つをやつた後でうしろから三度可成りの足蹴をくれてやった。」併し注釋で彼は斯う附加へた、「之はうそだ。そして常に効果を强めやうとする藝術家の傾向の結果である。私はクリスピノを蹴つた事はなかつた」と。しかもベルリオは後で此の注釋を削除しやうと欲した。そして尚人は、此事を彼の他の小さな自慢と同じ樣に等閑に附するのである。「メモアル」の中の誤りは非常に大げさになつて居る。それにも拘らずベルリオは彼の讀者に向つて、彼が彼を喜ばせた事件のみを書いたと云ふ事を豫告した最初の者である。そしてその序言で彼は自分の懺悔録を書いて居るのではないと云つて居る。人は之に就て彼を批難し得るであらうか。

     ●

 斯くの如き人々は不幸である樣に定められて居るのである。そして若し彼等が他の人々を苦しめたとしても、それは確かに彼等自身が苦しむだ處のものゝ中ばに過ぎないであらう。彼等は艱難を引き寄せ、それを集積する才能を持つ。彼等は酒の如く悲哀を樂しむ。そしてその一滴をすら免さうとはしない。ベルリオは好むで艱難に浸つた生涯を望むだ樣に見える。そして歴史が吾人に傳へた如何なる過大な説をもそれに附加する必要がない程にも彼の不幸は生まゝゝしいものであつた。
 人々は絶え間なきベルリオの愁訴に對して缺陷を見出すであらう。そして予と雖も亦其等の中に力の不足更に一層威嚴の不足を見る。吾人の知る限りに於て彼の不幸に關する物質的の原因は遥かに少なかつた。――予はベヱトオフヱンに就ては云はない。――ワグネルに比較しても。又過去、現在、未來に亘る他の偉大なる人々に比較しても。二十五歳の時彼は盛名を握つた。そしてパガニーニは彼をベヱトオフヱンの後繼者として賞讃した。是に上こす何ものを彼は求め得たであらう。彼は公衆には嫌はれ、スクードオやアドルフ・アダム如きにも侮蔑された。そして劇塲は困難を附隨してのみ彼にその扉を開けた。そは眞に光輝ある事であつた!
 併し、ジユリアン・テイヱルソオ氏によつて爲された樣な注意すべき事實の考察は、彼の生活の息づまるが如き平凡と困苦とを示して居る。三十六歳の時、此の「ベヱトオフヱンの後繼者」は音樂院附屬圖書館に助手として千五百フランの定給を受ける事となつた。そしてDébatsデバ誌の寄書に對するものも、殆んど是とおつかつであつた。寄書。それは彼等が彼に對して眞實のない事のみを語る事を强いたが爲めに彼を怒らせ、彼を抑損した處のものであつた(1)。そして、それは彼の生涯の中での苦難の一つであつた。辛ふじて得た金は總額で三千フランであつた。それによつて彼は妻と一人の子供とを養つて行かなければならなかつた。テイヱルソオ氏の云ふ「同じ二人メーム、ドウー」を。彼はオペラ座で音樂祭を試みた。その結果は三百六十フランの缺損であつた。千八百四十四年の博覽會で彼は一つの音樂祭を組織した。收入は三萬二千フランであつた。その内彼は八百フランを手にした。彼は「フアウストの堕落」を演出した。來る者は一人もなかつた。彼は零落した。露西亞では事がうまく行つた。併し彼を英國に連れて行つた支配人は破産してしまつた。彼は家賃や、醫者の勘定書の心配で心を惱ました。生涯の終りに近い頃になって彼の經済状態は稍恢復された。そして其の死の一年前、彼は斯う云ふ悲しい言葉を云つた。「私は甚だしく苦しむで居る! 併し今死に度くは思はない。私は生きるだけのものを持つて居る!」

  (1) 「メモアル。」第二。百五十八。此の章に書き表はされた悲哀は凡ての藝術家によつて感ぜらるゝものであらう。

 彼の生涯の中での最も悲劇的な挿話の一つは、その窮乏のために書く事の出來なかつたスインフオニーの事である。人々は彼の「メモアル」を終つた頁が、何故に良く知られて居ないかを不思議に思ふであらう。それは人間の苦痛の奥底に觸れて居るからである。
 妻の健康が彼の憂慮を惹起した時に當つて、或夜一つのスインフオニーの靈感が彼に來た。その最初の一部――Aマイノア二四拍子に於けるアレグロ――は彼の頭の中に鳴り響いた。彼は起上つて書かうとした。そして、又、考へに沈んだ。――
 「若し私が此の一小部分を初めたならば、私は全スインフオニーを書かずには居られないであらう。それは多分大きなものに違ひない。そして私はそれにかゝり切りで三四ヶ月を費さなければならない。それは私が最早論説を書く事も、金を取る事も出來なくなる事を意味するのだ。そして此のスインフオニーが完成した時、私はそれを淸書してしまはふと云ふ誘惑と、(それは一千フラン或は一千二百フランの費へを意味する)次にはそれを演奏しやうと云ふ誘惑とに、とても抵抗し得ないであらう。私が音樂會を開くとする。そして収入は費用の中ばをも償ひはしないであらう。私は私の手の中にないものを失ふのだ。哀れな病人は必要な物にも事缺くであらう。そして私は又自分の小使錢も、私の息子が船にのる時の料金をも支拂ふ事が出來ないであらう………是等の考へは私を身顫ひさせた。そして私はペンを投げ出して云つた。「あゝ! 明日こそ此のスインフオニーの事を忘れてしまはう!」。次の夜私は、はつきりとアレグロを耳に聽いた。そして書かれたそれを見る氣がした。私は熱病的な激動で一杯になつてしまつた。私は樂想を歌つた。私は起上らうとした……併し昨日の反省は私を抑制した。私は此の誘惑に對して要心した。そしてそれを忘れる考へに縋り付いた。遂々私は眠りに落ちた。そして翌日眼が覺めると、その凡ての記憶は、本統に永遠に去つてしまつた(1)。」

  (1) 「メモアル」第二。三百四十九。及びその次。

 斯の如き頁は讀む者をして戰慄せしめる。自殺も是より悲惨ではない。ベヱトオフヱンもワグネルも斯かる苦痛を苦しみはしなかつた。ワグネルならば此の塲合どうしたであらう。疑ひもなく彼は其のスインフオニイを書いたに違ひない。――そして彼として正當であつたであらう。併しその義務を愛のために犠牲となし得た程弱かつた哀むべきベルリオは、あゝ! 同時に又その天才を義務のために犧牲になし得た程勇氣あるものであつたのだ(1)

  (1) ベルリオは予が引用した此の物語に續く言葉を以て、云はれそうな如何なる批難に對しても、既に適切に答へをした。「憶病者!」或る若き熱心家に云ふであらう。「汝はそれを書かなければならなかつたのだ! 汝は大膽でなければならなかつたのだ!」と。あゝ! 若い人よ。私を憶病者と呼ぶ君は、私のした事を見はしなかつたのである。若し君にしてそれを見たならば、君とてもどうする術もなかつたであらう。私の妻は半死の状態で、僅に呻吟する事が出來るだけであつた。彼女は三人の看護婦と、毎日彼女を診察に來る一人の醫師とを必要とした。そして私としては、如何なる音樂上の冒險も、その結果は不幸であるに極つて居たのである。否。私は憶病ではなかつた。私が人間であつたと云ふ事のみを私は知る。寧ろ私は藝術が勇氣と殘酷とを區別すべき充分な理性を私に與へた事を證明しゝ、私の藝術を尊敬して居たと云ふ事を信じたいのである。(「メモアル」第二。三百五十三、百五十一)

 此のあらゆる物質的な困窮や誤解に對する悲哀にも頓着なく人々に彼の受けた光榮に就て云々する! 彼の同輩等は彼をどう考へたであらう。――少くとも彼等自身そう呼んで居る人々は。彼は彼が愛し、尊敬し、そして彼の「善き友達」である樣に見せかけて居たそのメンデルスゾーンが彼を輕んじ、その天才を認めない事を知つた(1)。リストを別としては(2)、彼の偉大さを直覺的に感じて居た唯一人の寛大なるシユーマンは、彼が時には「天才か音樂の冒險者」として見られなければならないかと、氣にして居た事を是認した(3)。未だ彼のスインフオニーを讀まない前に侮蔑的にそれを取扱ひ(4)、確かにその天才を理解して居ながら故意に彼を無視して居たワグネルは、千八百五十五年に倫敦で彼に會つた時、その身をベルリオの兩腕の中に投げ込んだ。「彼は熱切に彼を抱擁した。そして啜泣いた。そして彼の著書、そこで彼がベルリオを無慈悲に引裂いた處の「歌劇と戯曲」の中の幾節かが「音樂世界ミユージカル、ウオールド」に發表されると同時に、彼は彼から去つてしまつた(5)。」佛蘭西では、ベルリオが呼んで doli fabricator Epeusと云つた若いグノーが彼に對して法外な謟ひの言葉をおくつた。併し終始彼の作曲のあらを探したり(6)、彼を劇塲から覆滅する事を企てゝ居た。オペラではポニアトスウキー公のために追起された。彼は三度、翰學院に自分を推擧した。そして第一回にはオンスラウの爲めに、第二回にはクラピツソンの爲めに敗られた。そして第三回目に、バンスロン、ヴォーゲル、ルボルンその他の人々に對して一票の差を以て彼は勝利を得た。そして彼等の中には例のグノーも居たのだ。彼はその「フアウストの堕落」が佛蘭西の生んだ最も注意すべき作曲であるにも拘らず、それが佛蘭西で評價される以前に死んだ。彼等はその演出を批難したか? 否。「彼等は全然知らぬ顏をして居たのである。」――吾人に是を語る者はベルリオである。それは注意されないまゝに過ぎてしまつたのだ! 彼は彼の「トロイの人々」が、グルツクの死後に作られた佛蘭西叙情劇の内でも最も高貴な作曲の一つであつたにも拘らず、それが完全に演出されるのを見ずに死んでしまつた(7)。併し別に驚く必要はないのである。今日之等のものを聽かうとするならば獨逸へ行かなければならない。そして尚、たとへベルリオの劇的創作が――モツトル、カルルスルーヱ、ミューニッヒに於て――そのバイロイトを見出し、かの驚嘆すべき「ベンヴエヌート・チエジリーニ」が二十箇所の獨逸都市で(8)演ぜられ、そしてワインガードナー、リヒアルト・シユトラウスによつて傑作として尊敬されたとしても、佛蘭西の劇塲の支配人等は斯かる作の實演を抑も如何に考へるであらうか。

  (1) 「メモアル」のノートの中にベルリオは彼の「善き友情」を拒むだ處のメンデルスゾーンの一書翰を公表して之等の痛ましい句を書いて居る。「私は今、私に對する彼の友情なるものが何から成立って居るかをメンデルスゾーンの書翰の一束の中に見出した。彼にその母に云って居る。そこには明かに私自身の事を書いた文句がある。「XXXは、タレントの閃きなどは少しもない完全な力のカリケチユーアです。……私が彼を呑滅しやうと思ふ時は幾度かあります。」「メモアル」第二。四十八。尚此の外にメンデルスゾーンの云った事をベルリオは附加して居ない。「彼等はベルリオが藝術の内に高い理想を求めて居ると思って居ます。私は少しもそうは思ひません。彼の求めて居るのは結婚する事なのです!」之等無禮な言の不正な事はベルリオがヘンリヱツタ、スミソンと結婚した時、彼女が負債の外には何等の持參物をも持つて來なかつた事とそして彼の持つて居た僅か三百フランの金も一人の友達が彼に貸したものである事を記憶して居る人々を全く腹立せるであらう。
(2) リストは後に到って彼を棄てた。
(3) 「ウアーヴヱルレーの序曲」に關する論文の中に書かれて居る(新音樂雜誌)
(4) 千八百四十年以後ベルリオを批評し、千八百五十一年にその「歌劇と戯曲」の中で彼の作曲の細かい研究を發表したワグネルは、千八百五十五年、リストに斯う書いてやった。「私はベルリオのスインフオニーを初めて聽く事が非常な興味を私に與へるだらうと思つて居ます。そして私は彼の樂譜が見度いのです。若し御持ちなら貸して呉れませんか。」
(5) テイヱタルソオ氏の引用したベルリオの手紙参照。「エクトル・ベルリオとその時代の社會」
(6) 「ロメオ」「フアウスト」「残忍なる尼僧」
(7) 予は予が此の書(近代の音樂家)の最後の評論で更に十分に取扱ふ處のものゝ一の事實を茲に記す事で止めておく。それは千八百卅五年或は千八百四十年以後の佛蘭西の音樂趣味の下落である。――そして予はそれを寧ろ全歐羅巴に於てのものと思ふ。ベルリオは彼の「メモアル」に云ふ。「ロメオとジユリヱツト」の最初の演出以來、音樂及び文學に關する凡てのものに對する佛蘭西公衆の冷淡は、信じ難い程に増大して行った」(「メモアル。」第二。二百六十三」)伊太利オペラ或はグルツクの作の演出に於ての(「メモアル」第一。八十一)昂奮の叫びと千八百三十年のデイレツタントから引出された涙とを、千八百四十年と七十年との間の公衆の冷やかさとに比較して見る。氷の上衣が藝術を覆つたのだ。如何に多くをベルリオは苦しまなければならなかつたらう! 獨逸に於ては偉大なる浪漫的時代は滅びて居た。唯ワグネルが音樂に生命を與へるために殘つて居た。そして彼は歐羅巴に殘存して居た愛と熱心との凡てを乾してしまつた。ベルリオは正に呼吸停止で死んだのである。
(8) 茲に「ベンヴヱヌート」が千八百七十九年以降に演出された都市の公けの表がある。(予は此の通知に對してベルリオの姪の息、ヴイクトル、シヤポー氏に感謝するものである。)それはアルフアベツト順に並べられて居る。ベルリン。ブレーメン。ブルンスウイツク。ドレスデン。マインのフランクフオルト。ブライスガウのフライスブルヒ。ハンブルヒ。ハノーヴヱル。カルヽスルーヱ。ライプチツヒ。マンハイム。メツツ。ミユーニツヒ。プラーグ。シユヴヱリン。ステツテイン。ストラスブルヒ。ストウツトガルト。ウヰンナ。ワイマル。

 併し、是が全てではなかつた。死の大苦悶に比して其の衰滅の悲哀の如何ばかりであつたらう。彼は己が愛して居た人々の相次いで死に逝くのを見た。彼の父、彼の母、へンリヱツタ・スミソン、マリエ・レシオ。そして纔に彼の息子ルイが殘つた。彼は商船の船長をして居た。怜悧で善良な青年であつたが、父に似て不安勝ちで判斷力なく不幸であつた。「彼は事々に私に生き寫しな程不運である。」とベルリオは云つた。「そして自分達は一對の雙生兒の樣に互ひに愛し合つて居る(1)。」「あゝ! 私の可憐なるルイよ!」彼は其の息子に書いた。「お前なくして私は何をする事が出來やう!」數ヶ月の後、彼はルイの遠い海洋の中で死んだと云ふ事を知つた。

  (1) 「メモアル」第二。四百二十。

 今や彼は一人となつた(1)。そこには最早親しい聲は聽えなかつた。彼の聽くものとては、「凡て晝のどよめきと夜の靜けさの中にその耳に歌ふ寂寥と倦怠との恐ろしい二部曲デユエツトであつた(2)。」彼は病ひのために徐々として弱つて行った。千八百五十六年にはワイマルで非常な疲勞に次いで内部の疾病に犯された。それは大なる精神的苦痛と共に初まつた。彼は常に街中に眠つた。彼は絶え間なく苦しむだ。彼は「葉を失つて雨に打たれる立樹」の樣であつた。千八百六十一年の終りに病ひは烈しい状態に陷つた。時には三十時間も續いて苦痛にせめられた。その間彼は寢床の中で苦悶に身をもがき通して居た。「私は此の肉體の苦痛の唯中に生きて居る。疲れの爲めに壓し潰されて。死の來る事餘りに遲い(3)!」

  (1) 私にはベルリオがどうして此の樣にも引裂かれる樣にばかりして行ったのか分りません。彼の人には友達も無ければ追隨者もなく、暖かい聲望の太陽もなければ快い友情の陰もありません。」(ウイツトゲンスタイン公女からリストへの手紙。千八百六十一年。五月十六日附。)
(2) ベンネツトヘの手紙の中にベルリオは云ふ。「僕は疲れた……僕は疲れた!……」彼の生涯の終りに近付くに從って、如何に屢々此の哀むべき叫びが響いた事だらう。「僕は自分が死に行きつゝある事を感じる、……僕は死の中で疲れて居る。」(千八百六十八年八月二十一日。――彼の死前六ケ月。)
(3) アスガア・ハムメリツクへの手紙、千八百六十五年。

 最も悲しむべき事には、彼の悲哀の唯中にも彼を慰めるものゝ何一つなかつた事である。彼は何ものをも信じなかつた。何ものをも。
 彼は神も信じなかつた。不滅をも信じなかつた。

 「私は信仰を持ちません。……私は全ての哲學並びにそれに似たあらゆるものを憎みます。假令宗教的のものでも、他のものでも。……私には醫藥の中に信仰が持てない樣に、信仰を醫藥にする事も出來ないのです(1)。」

 「神は彼の全き無關心の中に憶病であり、残酷である(2)」 

  (1) ウイツトゲン、スタイン公女への手紙。千八百六十二年七月廿二日及び九月廿一日。千八百六十四年八月。
(2) 「メモアル。」第二。三百卅五。彼はその無信仰によつてメンデルスゾーンを驚かし、ワグネルをさへ駭かせた。(千八百五十五年九月十日のワグネルヘのベルリオの手紙參照。)

   彼は名譽を信じなかつた。人間を信じなかつた。美を信じなかつた。そして彼自身をすら信じなかつた。

 「凡てのものは過ぎ去る。空間と時間とは、美も、青春も、愛も、光榮も、天才も、悉く滅ぼし去つてしまふ。死は決して善いものではない。世界は吾人と同じく生れ、そして死ぬる。凡ては無だ。……そうだ! そうだ! そうだ! 凡ては無だ。凡ては無だ。愛したり憎むだり、喜んだ心苦むだり、賞めたり蔑んだり、生きたり死んだり――それが何になるだらう。偉大の中にも弱小の中にも。美の中にも醜の中にも何一つ有りはしない。永遠は冷淡なものだ。冷淡は極はまりないものだ」

  「レ、グロテスク、ド、ラ、ミユージイク」二百九十五〜六

 「僕は生活に疲れました。そして僕は妄誕を信ずるのは人間の心に必要な事だと云ふ事を悟らせられました。そして又、その信仰が彼等の中に生れるのは宛も昆蟲が沼澤に生れるのと等しいと云ふ事をも悟らせられました。」
ジロー僧正への手紙。イツボーの「親友ベルリオ」四百三十四頁參照。

 「君は又、成功すべきミツシヨンに就てのあの古い言葉で僕を笑はせる! 何と云ふ宣教師らしさだ! 僕の内には、併し、どんな議論にも構はずに動く處の一の説明しにくい構造がある。そして僕はそれを止める事が出來ない爲めに、そのなすが儘にさせておくのだ。僕を最も厭はしく感じさせるのは美が是等人間的猿猴の多數にとつては存在して居ない事の事實である。」

  ベンネツトへの手紙。彼は愛國主義を信じなかつた。「愛国主義? 拜物主義? 法螺吹き主義?」「メモアル。」第二。二百六十一。

 「世界の解き難い謎。惡と苦痛の存在。人間の残忍なる强暴。そして最も無力な者等の上に屢々隨處で加へられる處の卑怯なる残虐。――凡て之等のものは熾んに燃えて居る石炭に圍まれた蠍の樣な不幸で手頼りない諦めの状態に私を陷らせます。」

  ウイツトゲンスタイン公女への手紙。千八百六十二年。七月二十二日附。

 「私は私の第六十五回目の年に居る。そして私は最早希望も空想も抱負も持つては居ない。私は孤獨だ。そして人間の卑怯と不正直とに對する私の侮蔑、彼等の不義の殘虐に對する私の憎惡は、その絶頂に達して居る。いつでも私は「死」に向つてこう云ふ。「お前の好きな時に!」と。彼は何を待つて居るのだらう。」

  「メモアル」第二。三百九十一。

 そして尚彼は自分の招いた死を怖れた。それは彼の持つ感情の最も激烈な、痛慘な、眞實なものであつた、古いローラン・ド・ラスス以後、是程に死を怖れた音樂家は一人も無かつた。諸君は「基督の幼年期ランフアンス、ド、クリスト」に於けるヘロドの不眠の幾夜を、カツサンドラの苦悶を、ジユリヱツトの埋葬を知るか。――凡て是等を通して諸君は寂滅の囁く畏れを知るであらう。憐むべき彼は此の恐怖に附纏はれた。ジユリアン・テイヱルソオ氏に依って公表された一書翰が示す樣に。――
 「私の一番好きな散歩は、殊に雨の降つて居る時、本統に瀧津瀬の樣に雨の降つて居る時、私の家から近いモンマルトルの墓塲へ行く事です。私は時々其處へ行きます。其處には私を惹付けるものが澤山あるのです。一昨日も私は其の墓地で二時間許り過しました。贅澤な墓の上に工合のいゝ塲處を見付けて私は眠りました、……巴里は私にとつて墓地であり、その敷石道は墓石であります。到る處に死んだ友達と敵との記念があります……私は止む時のない苦痛と、口に云へない疲勞とに苦しむでばかり居ます。夜となく晝となく、自分が悲常な苦悶の中に死ぬか、或はそれ程もなく死ぬかと思ひ煩つて居ます。――私は少しの苦悶もなく死に度いと願ふ程の馬鹿ではありません。何故吾々は死なずに居るのでせう。」

  ウイツトゲンスタイン公女への手紙。千八百五十九年一月廿二日附、千八百六十四年八月卅日附、千八百六十六年七月十三日附、同、アー、モーレルヘの手紙。千八百六十四年八月廿一日附。
“...Qui viderit illas De lacrymis factas sentiet esse meis,” とベルリオは千八百五十四年に其の「トリイスト」の題句として書いた。

 彼の音樂は是等の惱ましい言葉に似て居る。そは或は一層恐ろしく、更に陰鬱でさへあるかも知れぬ。何となればそれは死を息づいて居るから。何と云ふ對照であらう。生に飢えた靈と死を祈る魂と。彼の一生を斯くも恐るべき悲劇としたのは是であつた。ワダネルがベルリオと會つた時彼は安心の吐息を洩した。――彼は遂に彼自らにも増して一層不幸なる人間を見出したからであつた。

  「人間は直ちに同じ不幸にある伴侶を見つけるものである。そして私に自分がベルリオよりも幸福な人間だと云ふ事を知りました。」(ワグネルからリストへ。千八百五十五年。七月五日附。)

 死の閾の上に立ちながら、彼は絶望の内に、彼を見棄てた光明の一の輝きを振り返つた。――ステラ・モンチス。彼の幼い戀の靈感。ヱステルは今は年老いて老婆となり、年月と心勞とに衰へてしまつた。彼は彼女と會ふためにグルノーヴルに近いメーランヘ辿つて行つた。その時彼は六十一で彼女は殆んど七十歳に逹して居た。
「過去よ! 過去よ! おゝ時よ! 永遠に!永遠に(1)!」

  (1)「メモアル」第二。三百九十六。

 併し尚彼は彼女を戀した。必死の勢ひを以て戀した。お丶! 何と云ふ悲壯事であらう! 人は其の荒寥たる心の深淵を見る時、どうして微笑を浮べ得るだらう!諸君は、諸君や予が見る程明瞭には、彼がそのしなびて年老いた顏や、歳月の無頓着や、彼が彼女の内に作り上げた「悲しき理由トリイスト、レーゾン」をば見る事をしなかつたと思惟するか。記憶せよ。彼は人間の最も皮肉な者であつた! 併し彼は是等のものを見る事を欲しなかつたのだ。人生の荒野の中に生きて行く彼を助ける、此のちつぽけな戀愛に縋り付く事をこそ彼は欲したのだ。

 「其の心の内に生きる事を外にして、此の世の中には一として眞實なものはない。……自分の生命は彼女の住むあの片田舎にこびり付いて居る。……生活は自分が自分自身に斯う語る時にのみ堪へ得られる。「此の秋こそ俺はあの人の傍で一ヶ月を暮さう。」と。若し彼女が自分に彼女への手紙を書く事を許して呉れなかつたならば、そして若し時折は彼女からの手紙を受取る事がなかつたならば、自分は此の巴里の地獄の中で死んでしまはなければならない。」
 斯う彼はルグウヴヱに語つた。そして巴里の街の石の上に腰を下して啜泣いた。一方その老婦人は彼の此の愚かな行爲を理解しなかつた。彼女はそれを默許しなかつた。そして迷ひを悟る事を彼に求めた。
 「人はその毛髪が白くなつた時、その夢を捨てて終はなければならない。――友情の夢をすらも。……假令今日一日は保つとしても明日は破れるかも知れない緣を何の爲めに結ぶのであらう。」
 おゝ! 彼の夢とは何であらう。彼女と共に暮す事か。否。寧ろ彼女の傍らで死ぬ事の願ひである。死の來る時彼の傍へに彼女の在る事を感じたいが爲めである。……

 「おん身の脚下に伏して、おん身の膝の上に自分の頭を、自分の手の中におん身の二つの手を――そして終りたいのだ!」

  (「メモアル「第二。四百十五。」)

 死の考への前にかくも悲しみ、かくも狼狽し、そしてかくも戦慄した年老いた小兒よ!
 優勝者ワグネルは同じ年頃には崇敬され、追從され、そして――バイロイトの云ひ傳へを信ずるならば――盛運に飾られて居た。悲哀に打たれつゝそして苦しみ、その成功を疑ひながら世の凡庸と戰ふ痛ましき戰の空虚さを感じて居たワグネルは「遠く世間から免れた(1)。」そして宗教に身を投げ入れた。そして一人の友が彼が食事の祈りをして居るのを見て驚き以て凝視した時、彼は斯う答へた。「そうです。私は自分の救ひ主を信じて信じて居ます(2)!」

  (1) 「然り、それは「パルジフアル」が其の生誕と生長とを負ふて居る處の世界から免れる事である! 人はその生涯を通じて此の世界の深淵の中に、靜かな理性と快活な心とを以て何を見る事が出來るであらう。彼にして、虚僞、欺瞞、不正の法式によつて組成され公認された殺人や劫掠を見る時、抑も彼は彼の目を背け、嫌惡に身を顫はさずに居られるであらうか。」(ワグネル。「千八百八十二年、バイロイトに於けるパルジフアル聖劇の演出」)
(2) その光景は「理想主義者の回顧」の優しく大膽な著者、予が友マルヸイダ、フオン、マイセンブツクによつて予に書き送られた。

 哀れむべき者よ! 世界の征服者は、征服してそして碎かれた!
 併し此の二つの死に就て、信仰もなく、十分幸福であるべき堅忍も力も一を措いては持つ事の出來なかつた處の藝術家の死の方が如何により悲しかつたであらう。――ルウ・ド・カレヱの小さな室で、冷淡なそして敵意をさへ持つた巴里の擾亂の響きの唯中に次第に滅びて行つた彼(1)。酷たらしき沈默の内に我れと自らを閉ぢ込めた彼。その最後の瞬間に己が上に打臥す愛する者の顏を見なかつた彼。その製作の内に信頼の滿足を持たなかつた彼。自己のなし來つた處を靜かに思ひめぐらし踏んで來た道程を誇らしく振り返り、生涯を善く生きたと云ふ考への上に安んじて憩ふ事の出來なかつた彼(2)。そしてその「メモアル」をシヱークスピアの沈欝な言葉を以て書き初め書終つた彼。そして死ぬ時更にそれを繰返した彼。――
 「人生は唯動く影である。一人の俳優が舞臺の上でその時間を氣取つて歩いたり、擦りへらして行く。そしてやがては何ものも聽えない。それは一人の白痴の語る物語である。響きと怒りとに充ちゝゝて何も意味はないものだ(3)。」

  (1) 「私は自分の窓の前に白い壁だけを持つて居る。往來の側では狆が一時間許り咆ゑて居、鸚鵡は金切聲を出し、長い尾の小鸚鵡は雀の囀りを眞似て居る。空地の側では洗濯女が歌を歌って居る。そして他の小さい鸚鵡が絶え間なしに「擔へ筒!……」と叫ぶ。何と云ふ日の永い事だらう!」
「車の氣狂じみた音響が夜の沈默を顫はせる.濕氣と泥濘の巴里! 巴里人の巴里! 今凡てのものが靜かだ。……彼女は不義の眠りに眠りつゝあるのだ!」(フエランヘの手紙 Lettres intimes 二百六十九。三百二。)

(2) 彼はよく斯う云ふ事を云つた。彼の製作が何一つ殘るまいとか、自ら欺いて居たとか、或は自分の樂譜を燒いてしまつた方がいゝとか。
(3) プラーズ・ド・ブユリーは彼の死ぬ少し前彼に會つた。「或る秋の夕方。河岸通りで。彼はアンスチテウートから帰つて居た。彼の顏は蒼白かつた。彼の樣子は痩せて曲つて居た。そして表情は元氣なく神經が高ぶって居た。人は彼の事を動いて居る影だと思ったかも知れない。彼の眼、此の大きな圓い榛色の兩眼すらも、その炎を消してしまつた。一秒時間許り彼は私の手をその痩せた生氣のない手で握つて、囁きよりも聽きとりにくい位の聲でヱスキラスの言葉を繰返した。「おゝ! 人間の此の生活! 彼が幸福な時は、影は彼を惱ませるに十分である。そして彼が不幸な時は、彼の苦痛に濡れた海綿で拭き去られた樣に失せるだらう、そして凡てが忘られて終ふ。」(近代及現代の音樂家)

 斯の如きは世の最も愛すべき天才の一と結び合せて初めて其れ自身を見出す處の不幸なる決斷力なき心であつた「それは天才と偉大との間に存する相違の著しき適例である。――何となれば此の二つの言葉は同意義ではないからである。吾人が偉大と云ふ語を口にする時、吾人は魂の偉大、性格の高貴、意志の强固。その上に意力の平衡を意味する。予は人々がベルリオの内に是等の素質の存在を認めない事を了解し得る。併し彼の音樂的天才を否認し、彼の驚嘆すべき力に付て反駁する事は――そしてそれは巴里に於ては常に行はれて居る事であるが――歎はしくも又烏滸の限りである。彼が人々を感動させると否とに拘らず、彼の作曲の指韜程のものにも、その一作曲の一部分にも、「フアンタステイク」或は「ベンヴヱヌート」の序曲の切れつ端にも、彼と同時代のあらゆる佛蘭西音樂に比較して――予は敢へて斯く云ふ。――一層その天才は現はれて居る。予はベートオフヱンやバツハを生んだ國に於て人々が彼に就て云々して居る事を解する事が出來る。併し佛蘭西に於て吾人は彼に對して何人を持ち出す事が出來やう。グルツクとセデール・フランクは一層偉大な人達であつた。併し彼等は到底彼に比肩し得る程天才者ではなかつた。若し天才なるものが創造の力を意味するならば、予は彼の上に列する處の天才を四人或は五人以上は見出す事が出來ないであらう。予がベートオフヱン、モツアルト、バツハ、ヘンデル、そしてワグネルの名を擧げる時でも、何人がベルリオに優つて居るかを予は知らない。更に何人が彼と同等であるかをさへ予は知らない者である。
 彼は音樂家であるばかりでなく音樂そのものである。彼は彼の役神を禦する事をしなかつた。彼は其の奴隷であつた。彼の著作を知つて居る人々は、如何に彼がその音樂的感動によつて交り氣なく捉へられ、そして使ひつくされたかを知るであらう。それは眞に法悦と拘攣との發作である。最初に「熱病的の昂奮が起つた。血管は猛烈に波打つて涙がどんゝゝ流れた。次で筋肉の痙攣性収縮、手足全體の麻痺、視神經、聽神經の局部的麻痺が來た。彼は何物をも見ず何物をも聽かなかつた。彼は眩最を感じて中ば失神した。」そして若し音樂が彼の意に滿さぬ塲合には反對に彼は、「痛ましい肉對的不安の意識によつて、時には嘔氣によつてさへも(1)」惱まされたのであつた。

  (1) 「歌の間」八、九頁。

 音樂が彼の天性に「憑きもの」であつた事は突如たる彼の天才の發生に徴しても明白である(1)。彼の家族は彼の音樂家たらんとする考へに反對した。そして二十二か三迄彼の弱い意志は澁々ながら彼等の云ふがまゝに從つて居た。彼はその父の云ふに任せて巴里で薬剤の研究を初めた。或る晩彼はサリヱリの「レ・ダナイド」を聽いた。それは雷鳴のやうに彼の上に落ちた。彼は音樂院附屬圖書館に走って、グルツクの樂譜を讀んだ。「彼は食ふ事も飮む事も忘れた。彼はまるで氣の違つた人の樣であつた。」「トウリイドのイフイジヱニー」の演出は彼を惱殺した。彼はルシュールに師事して次で音樂院で勉强した。翌年千八百二十七年に彼は「秘密法官レ、フラン、ジユージユ」を作曲した。二年を經て「フアウス卜の八塲」を作曲した。それは未來の「フアウス卜の堕落」の萠芽であつた(2)。三年後に、「サンフオニー・フアンタステイク」を完成した。(千八百三十年に著手(3))。併し尚彼は羅馬賞ブリ、ド、ロームを得はしなかつたのだ! 是に加ふるに千八百二十八年には既に彼は「ロメオとジユリヱツト」の樂想を抱いて居た。そして又千八百二十九年には「ルリオ」を書いてしまつた。誰か是に上こす音樂の初舞臺デビウの一層華々しいものを見出す事が出來やう。是と同じ時代にびくびくしながら「小仙女」、「戀愛禁制」、「リヱンチ」を書いて居たワグネルと比較する。彼はそれ等を同じ年頃に書いた。併し十年遲れて居たのである。何となればベルリオが既に「フアンタステイク」、「フアウストの八塲」、「ルリオ」そして「ハロルド」を書き上げた後の千八百三十三年に「小仙女」が出來たからである。「リヱンチ」は漸く千八百四十二年に演出された。「ベンヴヱート」(千八百三十五年)「ルキヱム」(千八百三十七年)、「ロメオ」(千八百三十九年)、「ラ・サンフオニー・フユネーブル・ヱ、トリオンフアール」(千八百四十年)の後で。――要するにそれはベルリオが彼の大なる製作全部を完成し、そして其の音樂的革命を成就してしまつた後だと云ふ事になる。そしてその革命はモデルもなく、案内者もなく、獨力で果たされたのであつた。彼が音樂院に居た時如何にしてグルツクやスポンテイーニの歌劇を既に聽く事が出來たであらう。彼が「フラン・ジユージユ」の序曲を作曲した頃は、ウヱーベルと云ふ名さへも彼は知つて居なかつた(4)。そしてベートオフヱンの作曲では僅かに「アンダンテ」を彼は聽いた事があるに過ぎなかつた(5)

  (1) 實に此の天才は彼の幼年時代から微かに燃えて居た。それは最初からあつたものである。そしてその證據は彼が十二才の時書いた五部曲の歌や樂節を、彼がその「フラン・ジユージユの序曲」と、「サンフオニー・フアンタステイク」に使つた事實に見る事が出來る。「メモアル。」第一、十一〜十八參照)
(2) 「フアウストの八塲」はゲーテの悲劇からとつたもので是等のものを含む。(一)「復活祭の歌」。(二)「菩提樹下の田舎人。」。(三)「魔女の會。」(四)及(五)「アウヱルバツハの酒塲」。鼠と蚤の歌二つを含む。(六)「ツーレの王の歌」。(七)「マルガレヱテの物語。」「㷔と燃ゆる戀に」。「兵士の合唱」。(八)「メフイストフヱレスの戀慕曲」――それに「フアウストの堕落」の中の最も優れた特殊なる頁と云はれて居る。(ブリユトンム氏ベルリオの輪作」參照)
(3) 人は若々しい音樂的天才の魂の一層善い顯現を此の時代に書かれた或る手紙の外に見出す事は難い。殊に千八百廿八年六月廿八日附のフヱランヘの熱した迫白を付けた手紙の外に。何と云ふ豐かな溢れる樣な力の生命であらう! それを讀む事は喜悦である。人にそこに生命それ自體の源泉を飮む。
(4) 「メモアル」第一。七十。
(5) 「同前」。是を書き改めるために彼に千八百廿九年に「ベートオフヱンの傳記的註釋」を書いた。そこに現はれたベートオフヱンに就ての彼の鑑賞眼は明かに彼ら時代よりも進むで居る。コーラル、スインフォオニーは「ベートオフヱンの天才の最高峰である。」と彼は書いた。そして「Cシャープ、マイノア」の四部曲に就て彼に大なる鑑識を以て語って居る。

 誠に彼は十九世記音樂史に於ける一の謎であり、最も驚嘆すべき逸物である。彼の不敵な力は彼の時代の凡てを支配した。斯の如き天才を目の前にして誰か彼をベートオフヱンの唯一の後繼者として賞讃したパガニーニの言を肯定しない者であらう(1)。誰かかの哀れな若者ワグネルが、時代を外にしながら困難なそして自ら足れりとする凡庸の中に働き續けて居た事を知らないものであらう。併し程なくワグネルは其の失つた地の爲めに建設した。何となれば彼は自分の要求するものを知って居たからである。そしてそれを執拗に要求したからである。

  (1) ベートオフヱンはベルリオが彼の最初の重要な製作「フラン、ジユージュの序曲」を書いた千八百廿七年に死んだ。

 彼の天才は彼が三十五歳の時、「タキヱム」と「ロメオ」とを以てその絶頂に達した。それらは彼の二個の最も重要な製作であり、又それによつて人々が各々異つた感じを受ける處のものである。予一個としては一方を非常に愛し、そして他方は好まないものである。併し双方共に藝術に二條の大なる新路を切り開いたものである。そして双方何れもベルリオの發足した革命の勝利の道の上に二個の巨大なるアーチの如く据ゑられたものである。予は後章に於て是等の製作の主題に戻らうと思ふ。
 併しベルリオは既に年老いて來た。彼の日々の勞苦と波瀾多き家庭生活(1)、失望と激情、日常の些事と時に來る失敗。是等のものは忽ち彼を惱ました。そして遂には彼の力を疲れ切らせてしまつた。「君は斯う言ふ事を信じるだらうか。」と彼はその友フランに書送つた。「常に僕を音樂的激情の前後不覺の中に攪き亂して呉れた處のものは今や冷淡或は侮蔑を以てさへ僕を一杯にして居ると云ふ事を。僕は自分が非常な速度を以て山を驅け降りて居るかの樣に感ずる。人生は斯くも短かい。僕は終焉の考へが過去の或時から引續いて僕の内にあつたと云ふ事を認める。」千八百四十八年四十五歳の時、彼はその「メモアル」に斯う書いた。「私は自分自身が斯くの如く年老い、そして疲勞し、そして靈感から遠ざかつてしまつた事を感ずる。」四十五歳のワグネルは根氣よくその理論を進めて居た。そして自己の力を感じて居た。彼は四十五歳の時、「トリスタン」と「未來の音樂」とを書いて居た。批評家からは凌辱され、公衆からは知られずに居ながらも「彼は五十歳になれば世界音樂界の首領になれると云ふ所信を抱いて落直き拂つて居た(2)。」

  (1) 彼はヘンリヱツタ、スミソンと千八百四十二年に別れた。彼女は千八百五十四年に死んだ。
(2) 千八百五十五年の手紙の中に諷刺を以てベルリオ自身の書いた言葉。

 ベルリオの心は傷ついた。生活は彼を征服した。それは彼が其の藝術的練達の如何なるものをも失ってしまつたと云ふ事ではない。反對に彼の作曲は一つ一つ完成されて行つた。そして彼の早い頃の製作になかつた純粋な美を「基督の幼年期」(千八百五十年〜四年)や「トロイの人々」(千八百五十五年〜六十三年)の或る頁は持つて居た。併し彼は彼の力を失つてしまつた。そして彼の熱切な感情、彼の革命的意志、そして彼の靈威(その青年時代に彼の持つて居なかつた自恃の代りにあつた處のもの)は、彼を見すてゝしまつた。今や彼はその過去の中に生きた。――「ファウストの八塲」(千八百二十八年)は「フアウストの堕落」(千八百四十六年)の萌芽を持つて居た。千八百三十三年以後彼は「ベアトリースとベネデイクト」(千八百六十二年)を考へ通して居た。「トロイの人々」の樂想はヴイルジールに對する彼の小供らしい崇拜によつて靈感されたものであつた。そして彼の全生涯に亘って離れなかつた。併し今は何と云ふ困難を以て彼は其の事業を果したであらう! 彼は「ロメオ」を書くに僅々七ヶ月を費したのみであつた。そして「ルキヱム」をなるべく速く書き上げる爲めに彼は一種の音樂の速記術を採用した。」程であつた(1)。併し彼は「トロイの人々」を書くのに七八年を費した。熱中と倦怠の氣分の間を往來しながら。そして自己の製作に就て冷淡と疑惑とを感じながら、彼はためらひつゝふらゝゝと彼の道を手捜りした。彼には彼が何をして居るのかゞよく分らなかつた。彼は彼の製作の一層平凡な頁に感心した。ラオコーンの塲面。「トロイに於けるトロイ人」の最後の幕の終曲フイナレ。『カルタゴに於けるトロイ人』の中のイニーアスの居る最後の塲面(2)。スポンテイーニのからっぽな華やかさが最高の意想と入り亂れて居る。それは丁度「鐘乳洞中の鐘乳石」の樣に無意識な力の器械的製作であつた。彼は一の推動力をも持つて居なかつた。それは洞窟の天井の崩壊するよりも單に時の問題であつた。人々は彼がそれと共に働いて來た處の痛ましい絶望に心を打たれる。それは彼の最後の意志であり、彼が作製した遺書である。そして彼がそれを終る時、彼は凡てを終つたであらう。彼の仕事は終結を告げた。もし彼が百年を生きのびたとしても彼はその上に何物かを附加すべき心を持ちはしなかつたであらう。たつた一つ残つて居た事は――それは彼の爲そうとして居た事であるが――彼自らを沈默と死の中に包んでしまふ事であつた。

  (1) 「メモアル」第一。三百七。
(2) 此の頃彼はリストに「基督の幼年期」に就ての手紙を書いた。「私は豫言者の居るヘロドの塲面と歌調との中に或るいゝものを發見したと思って居る。それは性格に充ちゝゝて居る。そして願はくは、それが君を喜はすであらうことを。そこには或は一層優美で快いものがあるかも知れない。それもベデレヘムの二部曲を除いてゞはあるが。私は彼等が同じ獨創の性質を持つて居るとは思はない。」(千八百五十四年十二月十七日附)

 痛ましき運命よ! 其處には彼等の天才を生き永らへた偉大なる人々がある。然るにベルリオにあつては天才は慾望に生き永らへたのである。彼の天才は今と雖もそこにある。人々はそれを「カルタゴに於けるトロイ人」の第三幕の崇高なる頁の内に感ずる。併しベルリオは彼の力を信ずる事を止めた。彼は信仰をあらゆるものに就て失つた、彼の天才は滋味の缺乏によつて死んで行つたのである。それは空ろなる墳墓の上の焔であつた。その老年期の同じ頃にはワグネルの靈はその赫耀たる高翔を持して居た。そして凡てのものを征服しつゝも、その信仰のためには何物をも抛棄する處に於て最高の勝利を贏ち得た。そして「パルジフアル」の聖歌は莊大なる寺院に於けるが樣に響き返つた。そして惱めるアムフオルタスの叫ぶに向つてかの祝福されたる言葉を以て答へるのであつた。「ゼーリツヒ・イン・グラウベン!ゼーリツヒ・イン・リーベー!」(信仰の内に祝福あれ! 愛の内に祝福あれ!)


 《二》

 ベルリオの製作は彼の生涯の上にあまねく擴がつたものではなかつた。それは僅かな年月の間に仕遂げられてしまつた。それはワグネルやベヱトオフヱンに於けるが樣に大河の行程コースに似たものではなかつた。その焔が暫しの間大空の全體を輝かして、やがて次第に消えて行つた處の一天才の爆發であつた(1)。此の驚くべき焔に就て予は諸君の前に語らうと思ふ。

  (1) 千八百三十年に、年老いたルジヱヱ・ド・リイルは「爆發しつゝある噴火山」とベルリオを呼んだ(「メモアル」第一。百五十八)

 彼の音樂上の才能の中には茲に詳細に論ずる必要のない程にも目醒しいものゝ幾つかがある。あんなにも酩酊し、昂奮させる彼の音樂の色彩(1)。音色に關する突飛な發見。(「ルキヱム」の Hostias et precesに於けるフルートとトロンボーンの有名な配合、或はヷイオリンとハープの和階音の奇異なる用法に於ての樣な)新らしい强別法ニユーアンスの發明。そして壯大にして濛々たるオーケストラ。――凡て是等のものは最も美妙なる思想の表現に力を藉す處のものである(2)。斯かる製作が其の時代に惹起しなければならなかつた處の結果を考へて見よ。初めて其等を聽いて驚嘆した最初のものはベルリオ自身であつた。「フラン・ジユージユの序曲」で彼は涙をこぼした。そして頭髪を掻きむしつて鑵皷の上に泣き倒れた。伯林で彼の Tuba mirumが演出された時には彼は半ば氣が遠くなつてしまつた。作曲家として彼に一番近かつたのはウヱーベルであつた。そして吾人が熟知して居る樣に、ベルリオが彼を知つたのは僅かにその生涯の終りの頃に於てであつた。併しその多感性と、夢見る如き詩想とを持つて居たにも拘らず、ウヱーベルの音樂の如何に豐かさと復雜さとに乏しいものであらう! 如何に彼は更に世俗的で更に古典派であつたらう! 如何に彼はベルリオの革命的熱情と粗野な力とに乏しかつたであらう! 如何に彼は調和に於て貧しく、莊大さに於て劣つて居た事であらう!

  (1) カミーユ・サン・サンス氏は千九百年の其の「肖像と回想」の中に斯う書いた。「ベルリオの樂譜をそれが演奏される前に讀む者は、誰しもその効果に對して實際の觀念を持つ事は出來ない。凡ての樂器は、どんな通常の感受にも逆らつて排列されて居る樣に見える。そして音樂の通り言葉で云へば「調子のつく筈はない樣に」見える。それが實に立派に「調子がついて」居るのである。若し吾々が其處此處に散在する朦朧たる形式を發見するとしても、それはオーケストラの中には現はれては來ない。光りはその中に流れ込んで、宛もダイアモンドの刻み目に當る光りの樣に嬉戯して居る。」
(2) ラヴオア氏の『器樂の歴史インストル・ダンストリユマシヨン』中の優れた論説を參照せよ。その「現代の器樂及び管絃樂法の約束トレイテヱ・タンストリユマシヨン・ヱ・ドルシユストラシヨン・モデルン」(千八百四十四年)に於けるベルリオの意見がリヒアルト・シユトラウスりによつて無駄にならなかつた事を注意しなければならない。彼は最近にその本の獨逸版を出した。そして彼の最も有名オーケストラの効果を奏したある物はベルリオの理想の實現されたものであつた。

 ベルリオは其のほとんど最初から、如何にして管弦樂法に對する此の天才を得來つたであらうか。音樂院での二人の先生は器樂に關しては何事をも教へなかつたと彼は自ら云つて居る――

 「ルシュールは音樂に就ては非常に狹い觀念しか持つて居なかつた。レイシァは多數の管樂器の特殊な用法を知つて居た。併しその配合法の問題に就て彼が非常に進歩した考へを持つて居たとは私には思はれない。」

 彼は自分自身を教へた。オペラが演ぜられて居る最中彼はその樂譜を讀むのを常とした。

 「それは斯うしてであつた。」と彼は云つて居る(1)。「私がオーケストラの用法を段々會得して行き、多數の樂器の音列と機構を知ると同時にその表現法と音の性質とを知つたのは。表はされた効果と、それを表はすために用ひられた手段とを注意深く比較考量しながら、私は音樂的表現と器樂の特殊な技巧とを結び合はすかくれた約束を發見する事が出來た。併し何人も此の事で私を指導して呉れた者はなかつた。現代の三大家、ベートオフヱン、ウヱーベル、スポンテイーニの方法の研究、器樂の慣用法と多く採用されない樣式と配合法との偏頗のない吟味、名手との會談、彼等の異つた樂器に私が試みさせた効果、之等の事柄が僅かの天性と伴つて私の土臺となつた(2)。」

  (1) 吾人は此の天性を次の一事實によつて理解する事が出來るであらう。彼は「フラン・ジユージユ」の序曲と「ワーヴヱルレー」とを、果してそれらが實際に演奏出來るものかどうかを知らないで書いた。「私は或る樂器の構造に就て之程何も知らなかつた。」と彼は云つて居る。「それは「レ・フラン・ジユージユ」の序曲でトロンボーンのためにDフラツトのソロを書いた後での事であつた。私はそれを演奏するのは恐ろしく困難な事だと云ふ事を怖れた。そこで私は非常に不安を感じながらオペラの管絃樂部のトロンボニストの一人の處へ出掛けに行つた。彼はその曲譜を見て、そして私を安心させた。「此のDフラツトの調子」と彼は云った。「此の樂器で一番愉快なものの一つです。そしてあなたはその曲譜の思ひの外の効果を信じる事が出來ます」(「メモアル」第一、六十三)
(2) 「メモアル」第一、六十四

 彼が此の方面に於ての始祖である事は疑ふ者のない處である。そして又何人と雖もワグネルが侮蔑の口吻を以て呼んだ「彼の悪魔の樣な賢こさ」を否定するものも殆んどない。或は熟練した巧妙な表現上のメカニズムや、彼の創造力から離れて尚彼をして音樂の惡魔師、調子と音律との帝王たらしめた處の、樂器を超越した彼の力に無感覺である者もない。此の天品は彼の敵――ワグネル――によつてすら認められた。彼はベルリオの天才を幾分かの不公平を以て狹い限界内に極限しやうとし、そして又それを「無限の精緻と、異常なる狡猾の旋轉花火を持つた一の建物……メカニズムの驚異(1)」に貶めやうとしたのである。

  (1) 「べルリオはメカニズムの特性を考慮しつ、眞に驚くべき科學的蘊蓄を示した。若し現代の産業の器械の發明者が今日の人道の恩人と考へられるならば、ベルリオは當に音樂界の救済者とされるに價する者である。そこで、彼の御蔭を蒙って、多くの音樂家は單純なメカニズムの種々の用法で音樂に驚嘆すべき効果を産出する事が出來る。………ベルリオは彼の案出物の廢趾の下に望みなげに埋もれ横たわるのである。」(「歌劇と戯曲」、千八百五十一年)

 併したとへベルリオに剌戟され牽引されなかつた人が殆ど無かつたとは云へ、彼の猛烈な熱情、燃ゆる樣な妄想、煮え返るが如き想像、凡て彼の製作をしてその時代の最も美しい繪畫的反射鏡の一つたらしめた、又之からもさうさせるであらう處のものによつて彼は常に人々を感動させた。最も深い悲哀の唯中に、最も粗野な喜悦の旋轉花火と爆發とを輝かす彼の法悦と絶望の亂心的な力、その愛と憎惡の充溢、生活に對する無窮の渇望(1)――是等のものはかの「べンヴヱヌート」に於て群集を、「フアウス卜の堕落」に於ては軍隊を湧き立たせた處の本質であつて、そは大地、天國、地獄を震撼して曾て鎭まる事のなかつたのみか、主題が熱情から遙かに遠ざかつて居た時ですらも尚呑滅と熱烈の限りをつくして、かくて又一方には甘く優しき情緒と深奥の靜寂とを現はす處のものであつた(2)

  (1) ベルリオからフヱランヘの手紙。
(2) 「私の音樂の主要な特性は熱情的な表現と、内心の温か味と、音律的な脈動と、豫測し難い効果とである。私が熱情的な表現と云ふのは、主題が熱情に反對のものである塲合にも尚私を驅つて死物狂ひにその主題の奥底の感情を再現させそして平静な情緒と深い静寂とを取扱はせる樣な表現法を意味するのである。即ちそれは「基督の幼年期」に於て、わけても「フアウストの堕落」に於ける「天ル・シール」の塲、「ルキヱム」の「サンクタス」に於て見出す事の出來るものである。」(「メモアル」第二。三百六十一。)

 此の噴火山の樣な力を、此の青春と熱情との奔流を人々がどう考へるにしても尚それらは否認する事の出來ないものである。丁度太陽を認めざるを得ない樣に。
 同時に予はベルリオの自然に對する愛を注意しなければならない。それはプルトンム氏が云つた樣に「堕落ダムナシヨン」の如き作曲の精神であり、更に云ひ得べくんば凡ての偉いなる作曲の精神をなすものである。如何なる音樂家も、ベートオフェンを外にして之程深く自然を愛した者はなかつた。ワグネル自身は自然がベルリオの内に目醒ました樣な激しい感動を實現した事はなかつた。そして如何に此の感情が「堕落ダムナシヨン」、「ロメオ」、「トロイの人々」の音樂に飽和した事であらう(1)

  (1) 「そして君は今君の「ニーベルンゲン」の溶けつゝある氷河の唯中に居る!自然の前で書くならば、それは壯麗なものでなければならない!……それこそ僕が拒絶された此の歓喜である! 美しい風景、高い山嶺 渺々たる海洋、之等は僕の内に思想を湧かせる前に僕を夢中にさせてしまふ。僕は感じる。併し感じたものを表はす事が出來ない。僕は月が井戸の底に映つて居る時にのみ、月を描く事が出來る。」(ベルリオからワグネルへの手紙。千八百五十五年、九月十日附)

 併し此の天才は、たとへそれが珍らしからぬものであるにも拘らずよく知られて居なかつた他の特別な素質を持つて居た。その第一のものは純粋な美に對する彼の感覺である。ベルリオの外觀のロマンテイシズムが此の事に對して吾々を盲目にしてはならない。彼はヴィルジール的精神を持つて居た。そして若し彼の色彩がウヱーベルを想はせるとしても、彼の構圖デザインは屢々伊太利の快美を持つて居た。ワグネルは決して此の言葉の拉典的な意味の、美に對する愛を持つて居なかつた。誰かベルリオの如く、南方の自然、美しい形、そして調和ある動律を理解した者があらう。誰か、グルツク以後、斯くも眞に古典美の秘密を認め得た者があらう。「オルフヱオ」が作曲されてからこの方、何人と雖も「トロイにおけるトロイ人」の第二幕のアンドロマケの入口程にも完全に、音樂の中に薄肉彫を刻んだ者はなかつた。「カルタゴのトロイ人」に於けるヱネイドの芳香は愛の夜の上に流れて居る。そして吾々は輝く大空を見、海の呟きを聽く。彼のメロデイーのあるものは、彫像であり、アテネ風の純粋な腰線フリーズであり、美しい伊太利少女の高雅な身振りであり、そして聖なる笑ひに滿ちたアルバニアの丘陵の浪打つ輪廓を思はせるものである。彼は「地中海の美」に感動し、それを音樂にとり入れることよりも更らに以上の事をした。――彼は希臘悲劇の眞髄を創造した。彼のカッサンドルだけを以つてしても、彼を曾て音樂が見た最大の悲劇詩人の列の中に加へるに充分であらう。そしてカッサンドルは、ワグネルのブリユンニルデに好適の姉妹である。併し彼女は一のより高貴な種族と、ソフォクレス自身が愛した處の靈と行爲の高い抑制を持つて居る事に於て更に優秀である。

 ベルリオの藝術をあれ程迄に自然に流れ出させた古典的の高貴さは充分に注意された事がなかつた。彼があらゆる十九世紀音樂家の中で、最も高い程度に彫塑美の感覺を持つた者の一人であつたと云ふ事も完全に知られては居なかつた。そして又彼が甘美な漂ふ樣な曲調メロデイーの作家であつたと云ふ事をも人々は始終認めては居なかつた。ベルリオがメロデイーの發明の才能に乏しいと云ふ一般的の先入主にとらはれて居たワインガードナーが、ふとした時に「ベンヴヱヌート」の序曲の樂譜を開いて、僅か十分もかゝれば演奏してしまはれる程に短かいその作曲の中から、一つや二つではなく四つか五つの驚くべき豐かさと、獨創とを持つたメロデイーを見付けたときの彼の感じた驚嘆を彼は自ら書いて居る。
 「私はこんな寶を發見した事の喜悦と、人間の理解の範圍の如何に狹いものであるかと云ふ事に氣がついた苦痛とで笑ひ出してしまつた! 此處で私は悉く人格の彫塑化であり、表現である五つの樂想を算へる事が出來た。それは驚嘆すべき手際と、多樣な形式とで次第に絶頂に登つて行き、やがで强大な効果を以て終つて居るものであつた。そして是が批評家や公衆から創造の力がないと云はれたあの作曲家の手によつて成されたのである! 此の日以後私にとつては藝術の共和國に他の偉大な市民が存在する事になつた(1)。」

  (1) Musikführer. 千九百三年。十一月二十九日。

 之に先んじてベルリオは千八百六十四年に書いて居る。
 「偉大な音樂家が屢々やつた樣に、曲の樂想テームとして一の非常に短かいメロディーを持ち出す樣な窮屈な事をしなくつても、私が常に自分の作曲に豐富なメロディーを入れる事に心をつくして居ると云ふ事を人々に納得させるのは、わけのない事である。人々は、元より、之等のメロディーの價値を、そしてその特牲や獨創を批判する事は自由である――それらのものを批判するのは私の爲めではない――併し其等の存在を迄否認することは、不正であると共に愚劣な事である。其等は屢々大規模である。そして未熟で、近眼の音樂的視力では明瞭にそれらの形式を分つ事は出來ないだらう。又、彼等は、限られた視力にとつては、主要のメロディーの形を覆ふ樣な第二のメロディーに與するかも知れぬ。或は最後に、浅薄な音樂家等は之等のメロディーが、彼等の呼んで以てメロディーとする處の面白い小さな物に似てもつかない事を發見するかも知れぬ。彼等は二つのものに同じ名を與へる氣になれないのである(1)。」

  (1) 「メモアル」第二。三百六千一。

 是等のメロディーに何と云ふ輝かしい變化のある事であらう。そこにはグルック式の歌曲がある。(カッサンド戸の歌)淸純な獨逸風の歌がある。(マレガレヱテの歌」。「焔と燃ゆる戀に」)ベリーニに傲つた最も澄み渡つた幸福な形の伊太利風のメロディーがある。(「ベンヴェヌート」のアルレカンの短歌アリエッタ。)ひろゞゝしたワグネル風の樂句がある。(ロメオの」終曲フイナレ。)民謠がある。(「基督の幼年期」の牧人の合唱。)最も自由でそして最も現代的な吟唱曲レシタテイヴがある。(ファウストの獨白。)その完全な展開、嫋やかな輪廓、そして縺れ合ふ强溺法ニユーアンスと共に、それはべルリオ自身の構想であつた(1)

  (1) ジヤン・マルノル氏はその論説「音樂家、ヱグトル・ベルリオ」(千九百五年。一月十五日。二月一日。「メタキュール・ド・フランス」)の中でベルリオの一聲造曲モノデイーに對する此の天禀を論じた。

 予は既にベルリオが悲劇的憂愁、生活の疲勞、死の苦痛の表現に於て比類なき才能を持つて居た事を語つた。一般的にも彼は音樂での偉大な悲歌作者エレジストであると云ふ事が出來る。非常に聡明で且公平な批評家アンプロは云つた。「ベルリオは内奥の喜悦と、深い感情とを感じて居る。それはベートオフエンを除いては曾て如何なる音樂家も感じた事のなかつた程のものである」と。そしてハインリツヒ・ハイネも彼を呼んで「巨大なる鶯、鷲の樣な大きさの雲雀」と云つた時、ベルリオの箇性に就て鋭い智覺を持つて居たと云へる。此の比喩は單に美しいばかりでなく、恐ろしく適切である。何となれば、ベルリオの巨大な力は孤獨で優しい心への捧仕であるからである。彼はベートオフヱン、或はヘンデル、或はグルック、或はシユーベルトの英雄ヒーロイズムらしさすらも持つて居なかつた。彼は「基督の幼年期」に現はされて居る樣に、甘い快よさと内奥の悲哀、渧涙の力、そして悲歌的熱情と共にウンブリア畫家のあらゆる魅力を所有して居た。

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 今や予はベルリオの偉大なる特色に達した。それは彼をして大音樂家以上のものたらしめ、ベートオフヱンの後繼者以上のものたらしめ、或は或る人の云ふが如くワグネルの先驅者以上のものたらしめた處のものである。それは彼がワグネル其の人よりも更に適切に、「未來の音樂」の創造者、新らしい音樂の使徒と見なさるべき資格を持つ處の特色である。そして尚それは今日に於ても殆んどそう思はれては居ないのである。
 ベルリオは二重の意味に於て獨創的である。その天才の異常の複雜さによつて、彼は自己の藝術の相對する兩極に觸れた。そして音樂の全く異つた二面の光景を吾人に示した。大なる一般的の藝術、そして音樂を解放した處のものがそれである。
 吾人は悉く過去の音樂的傳統によつて奴隷化されて居る。幾時代に亘つて吾人は吾々自身では氣がつかなかつた此の軛を引きずつて行く事に慣れ切つて居た。十八世紀の末葉以後、音樂が獨逸の独專する處となつたために、音樂的傳統は――それに先立つ二世紀の間、それは主として伊太利のものであつたが――今や殆んど全く獨逸のものになつてしまつた。獨逸の形式に就て考へて見るのに、樂句フレーズの取扱方、その展開、調和、そして音樂上の修辭法も、作曲の法式も、吾々の凡てが獨逸の大家の手で次第に彫琢されて行つた外國思想から來て居る。此の支配力は、ワグネルの勝利以前には、そう完全に、そう重壓的ではなかつた。それから以後、此の偉大なる獨逸時代――その把握力は章句、塲面、働作、そしてあらゆる戯曲をその抱擁の中に包み切ってしまふ樣な一千の手を持った鱗のある怪物――が全世界を統治した。吾人は佛蘭西作家がゲエテ或はシルレルの形式に倣つて書かうとしたとは云へない。併し佛蘭西作曲家は過去に於て獨逸音樂家の方法を踏襲して作曲しやうとしたばかりでなく現在も尚それを試みて居るのである。
 何故その事に驚くのか? 吾人は明かに事實を見なければならない。音樂では吾々は――斯う云ふ事が出來るならば―――佛蘭西形式の大家を持つて居ないのである。吾々の大音樂家は悉く外國人である。佛蘭西歌劇の最初の流派の創立者ルリはフロレンス人であつた。第二の流派の創立者グルックは獨逸人であつた。第三の流派のそれは伊太利人のロツシーニであり、獨逸人のマイヱルベールであつた。喜歌劇オペラ・コミツクの先祖は伊太利人のデュニ、白耳義人のグレトリーであつた。吾々現代の歌劇の流派を改革したフランクは之も亦白耳義人であつた。之等の人々は彼等の民族に獨特な形式を齎した。或は更に、グルツクがした樣に「各國共通(1)」の形式を發見しやうと試みた。それは、彼等がそれによつて佛蘭西精神の獨自な本質を抹殺する處のものである。是等の形式の内で最も佛蘭西的なものは、二人の外國人の作、喜歌劇である。併し更に多くを、一般に認られて居るよりも以上に、滑稽歌劇オペラブツフに負ふて居る。そして、それはいづれにしても非常に不充分に佛蘭西を代表したものである。より理性のある心を持つた人々は此の伊太利乃至獨逸の影響から脱却しやうと企てた。併し概して獨逸と伊太利の中間形式の創造に行きついてしまつた。オーベヱ及びアンブロアズ・トーマの歌劇がそれである。

  (1) グルツクは千七百七十三年二月、「メルキュール・ド・フランス」への手紙で彼自身此の事を云つて居る。

 ベルリオの時代の以前に、佛蘭西音樂を自由なものとする事に非常な努力を致した第一列に位する眞に唯一人の大家が居た。それはラモオであつた。そして彼の天才を以てして尚伊太利藝術に征服されてしまつた
1、予は十六世紀末葉の佛蘭西ブランドルの大家に言及して居ない。それはジアンヌキアン、コステレー、クロード・ル・ジユーン、或は近頃ヘンリ・エキスパート氏に見出されたモーデユイ等である。最後の人は、その風格に非常な特色を持つて居たにも拘らず、其時代から今日迄殆んど全く知られずに來たのである。宗教戦爭は佛蘭西音樂の傳統を打砕いて、その藝術の精華を辱かしめた。

 境遇の力に是非なくも佛蘭西音樂は外國音樂の形式を摸して居た。そして。宛も十八世紀に於ける獨逸が、佛蘭西の建築と文學とを摸傚しやうと試みたと同じ樣に、十九世紀の佛蘭西は、その音樂に獨逸語を語る事が習慣となつた。大概の入々が彼等が考へるよりも更に多くを語る樣に、思想そのものさへ獨逸化されてしまつた。それ故に此の傳統から來た不眞面目を通じて、そこから佛蘭西音樂の思想の眞實で自發的な形式を見出す事は困難であつた。併しベルリオの天才は本能によつてそれを見出した。最初から彼は、佛蘭西音樂を窒息させて居た外國の傳統の壓迫からそれを解放する事に努力した(1)

  (1) ワグネルが、ベルリオを眞の佛蘭西音樂家の典型としてオーベヱに比較したと云ふ事實は興味ある事である。――オーベヱと、その伊太利と獨逸とをこね合した歌劇。此の事は如何にワグネルが、多くの獨逸人と同樣に、佛蘭西音樂の眞隨を掴む事が出來なかつたか、そして如何に彼がその外側をのみ見て居たかと云ふ事を示すものである。一國民の音樂的特性を發見する最良の方法はその民謠を研究するにある。若し人あつてその身を佛國民謠の研究に委ねるならば、(そして材料に決して乏しくないのである、)人々はそれがどの位多く獨逸の民謠と相違して居り、そして如何に佛蘭西民族の傾向がより美しく、より自由に、且更に力强く更に表現的ヱキスプレツシブなものとして現はれて居るかと云ふ事を賓際に知るであらう。

 彼はその不完全と無學とを以てして尚、如何なる方面にも適して居た。彼の古典の教育は充分なものでなかつた。サン・サンス氏は次の樣に語つて居る。「彼にとつて過去と云ふものは存在して居なかつた。古い作曲家に對する彼の智識が彼の讀んだ事のある者に限られて居た樣に、彼はそれらの人々を理解して居なかつた。」と。彼はバツハを知らなかつた。幸福な無學! 彼は獨逸の聖樂オラトリオの大家の記憶や因襲にとらはれて苦しむ事なく、「基督の幼年期」の樣な聖樂を書く事が出來た。そこにはブラームの如く、殆んど彼等の生涯を通じて、過去の反覆であつた人々がある。ベルリオは一度も自分自身を表現するものゝ外は考へた事がなかつた。人々に對する彼の鋭い同情から迸つた處のあの傑作「埃及への脱出ラ・ユイト・アン・エヂプト」を創造したのは斯くの如くにしてゞあつた。
 彼は曾て此の世に現はれた處の最も桎梏を受けざる魂の一つを持つて居た。自由は彼にとつて命懸けに必要な物であつた。「心の自由。意志の自由。魂の自由――あらゆるものにあつての自由………絶對にして無限なる眞の自由!(1)」そして人生に於ての彼の不幸であつた此の自由に對する熱愛は、彼を凡ての信仰の滿足からもぎ放して以來、彼の思想の依つて以て休息すべき如何なる塲處をも拒み、彼から平和を奪ひ、懐疑の柔かい枕すらも奪ひ去つてしまつたのである。――此の「眞の自由」こそ彼の音樂的抱懐の無比の特色と莊嚴とを形造つたものであつた。

  (1) 「メモアル」第一。二百二十一。

 「音樂は」とベルリオは千八百五十二年にシー・ローブに書いた。「凡ての藝術の中で最も詩的で最も力强く、最も生きゝゝしたものである。彼女は極端に自由でなければならぬのに未だそうなつては居ない………現代の音樂は古代のアンドロメダの樣に裸體であり、聖らかに美しい。彼女は廣々した海の岸の岩に繋がれながら、彼女を其の縺から解き放ち、慣習と名付けられた怪物キメーラをこなごなに打砕くべき勝ち誇つたペルシユースの來るを待つて居る。」

 爲すべき事は、音樂を其の限られた音律リヅムから、傳統的の形式から、そしてそれを含むで居る法則から釋放する事であつた(1)。そしてそれにも増して大切な事は、言語の支配から脱却し、詩への屈辱的な囚禁から抜け出して眞實のものに成る事であつた。千八百五十六年にベルリオはウヰツトゲンスタイン公女へ宛てゝ書いた。――
 「私は自由な音樂に手を擧げます。そうです。私は音樂が誇らしく自由であり戰勝者の樣であり、無上のものである事を欲します。私は彼女が彼女の出來るあらゆるものを採る事を欲します。そこで彼女にとつて一のアルプス、一のピレネヱと雖も存在しないでせう。併し彼女はたった一人で立向つてその勝利を得なくてはなりません。彼女の士官に手頼ってはならないのです。私は彼女に、出來る事なら、戰ひから出來上つた善い詩句を望みたいのです。併し彼女は、ナポレオンの樣に目の前に火を見、アレキサンダーの樣に、密集軍フアランクスの前列の中に進まなければなりません。彼女は或る塲合には何人の助けもからずに征服する位强力です。何故ならば彼女はメディアと共に「私は獨りだ。それで充分だ!」と叫ぶ權威を持つて居るからです。」

  (1) 「今日の音樂は、彼女の青春の力を以て、觧放され、自由であり、そして彼女の望む處をする事が出來る。多くの古い法則は少しも人氣を持つては居ない。それらは淺薄な思慮によつてゞなければ、慣習の愛好者の爲めの慣習の愛好者によつて作られたものである。意志と、心と、聽覺との新らしい要求は、新らしい努力、或る塲合には、古い法則の破壊を必要として來る。多くの形式が今も尚採用されて居るには古るすぎて來た。同じ事で居ながら、それを使ふ人の使ひ方によつて、或は人がそれを使ふ事の理由によつて、全然善くもなり、全然惡くもなる、響きと調子とは思想に次ぐものであり、思想は又感情と熱情とに次ぐものである。」(之等の意見は千八百六十年の巴里のワグネル音樂會に關して書かれたものである。そして「歌の間」の三百十二頁から引いたものである)
 之をベートオフヱンの言葉に比較して見る。「人が美を進ませゐ爲めに破ってはならないと云ふ規則はない。」

 ベルリオはグルックの不都合な理論(1)と、音樂を言語の奴隷とするワグネルの「罪」とを猛烈に排斥した。音樂は最高の詩であつて如何なる支配者をも知らないものである(2)。それ故に、絶え間なく純粋な音樂に表現の能力を増進させる事がベルリオの仕事であつた。そして傳統トラヂシヨンへのより溫健でより親しい繼承者ワグネルが、音樂と言語との握手に指を染め、(それは寧ろ不可能な事であるが)新らしい叙情劇を創始しようと企てゝ居る時、より革命的なベルリオは、その無比の典型が今日尚、「ロメオとジユリヱツト」である處の劇的交響樂ドラマテイツク・スインフオニーを成就した。

  (1) 千七百六十九年の「アルセスト」の「捧ぐる辭ことば」と、次の樣なグルツクの宣言を想起する必要はあるだらうか。「自分は音樂をその眞の職責に目醒ませ樣と努力した。――それは即ち情緒の表現と境遇に對する興味とを强めるために詩を助ける事である。……そして、そうするには如何に美しい色彩と、光りと陰影との幸福な配合が熟練した描寫に待たれる事であらう。」
(2) 此の革命的理論は𣪘にモーツアルトの持つて居たものであつた。「音樂は至高のものとして君臨しなければなりません! そして人をして何事をも忘れさせなければなりません。……歌劇では、詩と云ふものは音樂の從順な娘である事が絶對に必要な事です。」(父への手紙。千七百八十一年、十月十三日附。)此從順を取り入れる事の不可能な事に恐らくは絶望しながら、モツアルトは眞面目に歌劇の形式を破壊してそれに代つて彼がDuodramaと呼んだ處のメロドラマを製作しやうと考へた。それは千七百七十八年の事であつた。(ルツソオは千七百七十三年にその一の例を示して居た。)そこでは詩と音樂は漠然と組合されて、互ひに結び付くよりも却って並行した二つの路を並び合って進んで行った。(千七百七十八年、十一月十二日の手紙)

 ドラマテイツク・スインフオニーは當然總ての形式的理論と相容れなかつた。二種の議論はそれに反して起つた。一つはバイロイトから來て、今では一種の信條となつた。他の一つは何等の理解も無くて尚音樂を語る處の群集に持上げられた時流的意見であつた。
 ワグネルによつて主張された第一の議論は、科白せりふと科介しぐさの助けを藉らずしては音樂は眞に働作を説明する事は出來ないと云ふのである。かくも多數の人々がベルリオの「ロメオ」を初めから終りまで非難し通したのは此の意見の名の下にであつた。彼等は働作を音樂に「翻譯トラデユイルし」たり、しやうとするのを幼穉だと思つて居る。それならば働作を音樂で「引立たレプザンチヱゝせる」事を彼等は少しも幼穉だとは考へないのか?科介なるものが非常に幸福に音樂と融合し得るものと彼等は思つて居るのか? 若し彼等にして過去三世紀に亘つて吾人を惱ました此の大なる虚構を根こぎにしやうとさへ試みるならば! 若し彼等にしてルッソオや卜ルストイの如き偉人等があの樣にも明確に見た程――歌劇なるものゝ馬鹿らしさを彼等の目を見開いて見るならば! 若し彼等にしてバイロイトが示した反自然を知つたならば! 「トリスタン」の二幕目には、イソルデが情熱に燃えながらトリスタンを待って居る有名な一節がある。彼女は終に彼の來るのに氣がつく。そして幾度か繰返すオーケストラの樂節に合せて、そのスカーフを打ち振るのである。予は、科介の連續に合せた音響の連續のあの「眞似事イミタシオン」が(何故ならば、それは無意味だからである。)予に與へた効果を云ひ表す事は出來ない。予はそれを怒るか笑ふかしなければ見て居られなかつたのである。不思譏なのは此の一節を音樂會で聽く時にはその科介が分る事である。劇塲だとその何れをも會得する事が出來ない。或はそれが幼稚なものに見えて來る。自然な働作が音樂の甲胄をつけると硬張つて來る。そして二つのものを一致させやうとする不合理が吾人を强迫する。「ラインゴール卜」の音樂で吾々は巨人の身の丈けとその足どりとを心に描く。そして輝く電光と、雲上に映ずる虹とを見る。それが劇塲だと丁度人形芝居の遊戯である。そして吾人は音樂と科介との間に到底越える事の出來ない深淵を感じる。音樂は別箇の世界である。若し音樂が戯曲を描寫しやうとすれば、そこに現はれるものは現實の働作ではない。それは精神によつて形を變へられそして心の内の幻影にのみ認めらるべき理想の働作である。最も愚劣な事は二種の幻影を同時に示さうとする事である。一つは眼へ、一つは精神への。恐らく常に彼等は互ひに殺し合ふのである。
 プログラムをもつたスインフオニーに反抗して固執された他の一つの議論はまやかしの古典的議論である。(それは眞の意味で少しも古典的ではない。)「音樂は」と彼等は云う。「限られた主題を表現すべき性質のものではない。それは漠然とした思想にのみ適して居る。それは一層無制限であり、その力に於て一層強大であり、そして更に暗示的なものでなければならぬ。」と。
 借問す。無制限な藝術とはどんなものか? 漠然とした藝術とは何を指すか? 二つの言葉は互ひに矛盾しては居ないであらうか? 此の奇怪な結合は果たして實在し得るものであらうか? 彼の天才が彼に囁く時彼は手當り次第に作曲すべきであると人々は考へるか? 吾人は少くとも斯う云はなければならない。ベートオフヱンのスインフオニーはその深奥の世界に降つて行つた「制限された」製作であると。そしてベートオフヱンは、より確的な智識ではないまでも、少くとも彼の交渉して居たものに就て明確な直覺を持つて居たと。彼の最後の四部曲カルテツトは彼の靈魂の描寫のスインフオニーであつてベルリオのスインフオニーとは非常に異つたものである。ワグネルは前者の或る一つを「ベートオフヱンの一日」と云ふ題名の下に解剖した。ベートオフヱンは彼の心の深淵、彼の精神の微妙さを音樂に翻譯しやうと常に試みて居た。それは言語によつて明白に説明さるべきものではなくて尚言語同樣に制限されたものである。實際には、一層制限されたものである。一言にしてつくせば、一の抽象的な物として樣々の經驗を総括し、多くの意味を包含した處のものなのである。音樂は言語に比して百倍も表現的であり、精確である。そして特殊な感情と主題とを表現する事がその權利であるばかりでなく、それが彼女の義務である。そしてもし其義務が果されなかつたとしたならば結果はそれが音樂ではないと云ふ事になる。それは全然何物でもないのである。斯くしてベルリオはベートオフヱンの思想の眞正の後繼者である。「ロメオ」の樣な製作と、ベートオフヱンの一スインフオニーとの相遑は、前者が音樂の内に客觀的感情と主觀とを表現する事に力をつくして居る樣に見える處にある。併し予は音樂が何故に内面觀察から韜晦し、宇宙の戯曲を描き出さうと試みるために詩に隨つてはならぬものであるかと云ふ事の理由を知らぬものである。シヱークスピアはダンテと等しく善い。併し、斯ふ云ふ事が云へる。ベルリオの音樂に於て發見されるものはベルリオ自身であり、「ロメオ」の全ての塲面に現はれた樣に、愛に餓へ、幻影に弄ばれた處の彼の魂であると。
 非常に多くの事柄が云ひ殘されて居る時、予は一の論議を長々と説く事を止めやうと思ふ。併し予は最後として、吾人が藝術の内に境界を作る無稽の努力を排除するものであると云ふ事を暗示してをく。吾人は斯う云つてはならない。「音樂は斯々の事を表現する事が出來る」とか、「出來ない」とか。寧ろ吾人は斯う云ふのが至當である。「若し天才にして欲するならば……」と。天才にとつてはあらゆる事が可能である。そして若し音樂がそうある事を望むならば、彼女は明日は繪畫であり詩であり得べきである。ベルリオは其の事を彼の「ロメオ」に於て適確に證明した。
 此の「ロメオ」は確かに一の特殊な製作である。「そこに純粋藝術の殿堂が打建てらるべき不可思議なる島」である。予一箇の意見を以てすれば予はそれが單にワグネルの最も力ある創作に比敵するものであると考へるばかりでなく、その教訓に於ても藝術の爲めの資源に於ても、更に豐富である事を疑はぬものである。それは同時代の佛蘭西藝術が未だ尚十分には利用する事をしなかつた處の資源と教訓とである。數年に亘つて少壯な佛蘭西派の人々が吾人の音樂を獨逸形式から取戻し、當然佛蘭西のものであるべき。そして「ライトモチーヴ」に制肘されざる吟唱的の歌詞を創造する事に努めて居た事は吾人の知る處である。即ち現代思想の自由を表現するがために古典或はワグネルの法式に助けを求めざる處の一層正確で一層重苦しくない詞である。左程久しからぬ以前、「スコラ・カントルム」が「音樂的朗誦の自由……」を叫んだ宣言書を發した。「自由な音樂の自由な語法……自由な語法のムーヴメントと、古代舞踊の彫塑的なリヅムとを持つた自然音樂の勝利。」斯くして過去三世紀の音樂に向つて戰ひを宣したのである(1)。――其の音樂が茲にある! 諸君は何處へ行つても之に上越す完全な典型を見出す事は出來ないであらう。多くの人々が此の音樂の根蒂がモデルを抛擲したものであると廣言し、ベルリオに對する彼等の輕侮を露骨に示して居る事は本當である。予はそれを許すとしても尚、彼等がベルリオの音樂の驚くべき自由さを感じないのならば、そして、それが眞に生きゝゝした精神を覆ふ處の微妙な羅だと云ふ事が分らないのならば、予は彼等の「自由音樂」主張の本來が眞の生命であるよりも、一層擬古主義に近いものだと思はなければならなくなる。先づ彼の製作の中での最も著名なページ、(ベルリオ自分が一番好きだつた全ての作曲の中の1つである(2))「愛の塲面や」、「ロメオの悲しみ」、や(ワグネルが持つて居た樣な精神が再び感情と喜悦の嵐を緩和して居る)「キアピユレツト家の祝祭」の樣なものを研究するだけでなく、「女王マツブを歌ふスケルツオ」か、「ジユリヱツトの目醒め」、そして二人の戀人の死を叙する音樂の樣な左程よく知られて居ないページを研究して見るがいゝ。一方には何と云ふ明るい優美さがあり、他方には何と云ふ震動する激情があり、そして双方共に何と云ふ意志の自由と、その適切な表現とがある事だらう? その詞は驚嘆すべき明徹さと單純さとを持つて莊麗である。餘計なものは一つもない。そして正確な筆を示さない言葉は一つもない。(「ダムナシヨン」に迄遡る)千八百四十五年以前のベルリオの大作の殆んど凡ての中に、諸君は此の神經質な精密さと、すさまじい自由さとを發見するに違ひない。

  (1) 「トリビユーン・ド・サンジヱルヴヱヱ。」千九百三年十一月。
(2) 「メモアル。」第二。三百六十五。
(2) 「此の作は通常の人々には少し利き過ぎる程な一味の莊嚴を持つて居る。そしてベルリオは、そのノートの中でページを飜して、そこをやらずにしまふ樣に天才の恐ろしい傲慢を以て指揮者コンタクターに注意して居る。(ジヱオルヂ・ド・マツスニヱの「ベルリオ」)。ジヱオルヂ・マツスニヱの此のいゝ研究は千八百七十年に出た。そして遥かにその時代より進んだものである。

 今度は彼の音律リヅムの自由な事である。同じ時代の全ての音樂家の中で一番ベルリオに近かつたが爲めに一番よく彼を理解する事の出來たシユーマンは、「サンフォニー・ファンタステイク」の作曲以來、此の事に感動してしまつた(1)。彼は斯う書いた――
 「確かに今の時代は、同一の拍子と音律とが不同な拍子と音律とに結び付いて一層自由に使ひこなされて居る樣な作を産むで居ない。第二の樂句が珍らしい程第一の樂句に交渉して居る。問題に對する答案である。此違式がベルリオの性格から出たものである。そして彼の南方人の氣性に対して自然なものである。」

  (1) 「おゝ! 私は此の唯一の論文を書いてくれた事に對して、どんなにシユーマンを愛し、崇拜し、尊敬して居るだらう。」(フーゴー・ウオルフ。千八百八十四年。)

 此の事に反対する處でなく、シユーマンは其處に何物か音樂の進歩に大切なものを見た。
 「明かに音樂はその起源に、音律の法則が未だ彼女を惱ます事のなかつた時代に、復歸しやうとする傾向を示して居る。それは彼女が自分を解放する事を欲し再び拘束を受けない語法を獲得しやうとし、そして一種の詩的言語の品位ある境に自分を高上せしめそうとして居る樣に見える。」

 そしてシユーマンはヱルネスト・ワグネルの次の樣な言葉を引用して居る。「時の暴力を振り落として、そこから吾人を取り戻す者は、人々の想像し得る以上に、音樂のために自由を取り返してやる者である(1)。」

  (1) 新音樂雜誌、「ヱクトル・ベルリオとローベルト・シユーマン」参照。ベルリオは根氣よく音律の自由――彼の云った樣に「音律の訓和」のために戰った。彼は音樂院に音律部を設けやうとした)(「メモアル。」第二。二百四十一。)併しこんな事が佛蘭西で理解されるわけがなかつた。「此の事に閼して伊太利の樣に後戻りしない程佛蘭西に執拗に音律の放釋を排斥した。」(「メモアル。」第二。百九十六。)併し過去十年の間に音樂に於ける大なる進歩が佛蘭西では行はれた。

 更にベルリオのメロディーの自由に注意する。彼の各樂節は生命それ自體の樣に脈搏し流溢する。そして「或る樂節は箇々に切り放しても」とシユーマンは云ふ。「丁度古代の多くの民謠の樣に、調和に堪えない程の烈しさを持つて居る。そして又時にはそれらの完全を傷ける樣な伴奏をさへ持つて居る(1)。」此等のメロディーは、その力强い彫琢と繊細な浮彫とによつて、輝かしい調子モデユレーシヨンの兇暴さと、强い妁熱した色彩とによつて、光りと陰の柔かな葷しによつて、或は堅硬な潮の樣に肉體の上を流れる目にも見えない程の思想の波紋によつて、最も小さな肉體と心との顫動を再現する程にも情緒と交渉して居るものである。それは特殊な感覺の藝術である。そしてワグネルのに比べて一層微妙に表現的である。それ自身現代の音調に滿足しないで、古い樣式に、サン・サンス氏の云つた樣な叛逆に、バツハの日以來音樂を支配して來た多音ポリオフニーに、そして或は結局「消滅しなければならない運命を持つた異端(2)」に迄立戻つたのであつた。

  (1) 同前。「罕なる特質」とシユーマンは附け加へる。「それが彼の殆んど凡てのメロディーに一々の特色を與へて居る。」と。シユーマンは何故に「ベルリオが屢々彼のメロデイーに伴奏として單純なパスや、中間部を無視して第五音を上げたり下げたりした和弦を使ふ」かを理解して居た。
(2) 「そこで眞の藝術には何が殘つて居るだらう。或はベルリオこそ其の唯一の代表者であるかも知れない。ピアノフオルトを研究する事なしに彼は本能的に旋律配合法カウンターポイントを嫌つて居た。此の點で彼は、カウンタポイントの化身であり、此の法則から出來るだけのものを採ったワグネルとは正反對の位置に居る。(サンサンス)

 ベルリオの吟唱曲レシタテイヴがその長い、旋廻する音律(1)と共に、ワグネルの朗誦曲デクラマシヨンに比して如何に多く美しいものであらう。ワグネルのそれは――主題のクライマツクスから離れて、そこでは歌曲が廣い力强い樂句の中に破れて、その影響は屢々到る處で弱くなつて居る。――彼等自らを言葉を以てする高低の類似樂譜に制限し、オーケストラの快い調和に反抗してやかましく鳴りびゞくのである! ベルリオの管絃樂は、又、猛烈な急流をなして流れながら、そしてその流程の中にあらゆるものを流し去りながらワグネルのそれに比して一層微妙な性質を持つてゐ、一層自由な生命を持つて居る。同時にそれは、その結合と堅硬さに於て少く、併し一層柔軟である。その性質は波動に富むで変化がある。精神と働作の無數の微細な感激が其處に映し出されて居る。それは自發と氣まぐれの驚異である。

  (1) ジヤツク・バツシイは、ベルリオの塲合では、最も頻繁な樂句だと、十二、十六、十八、或は廿の節線を持つて居ると云ふ事を指摘した。ワグネルでは八つの節線を持つた樂句は罕であり、四つのそれは一層普通であり、二つのものはそれよりも更に普通であり、一節線のものに凡てに於て最も頻繁である。(千八百八十八年、六月十日「ル・コルレスポンダン」所載の論文、「ベルリオとワグネル。」

 その外見にも似もやらずベルリオと比較する時、ワグネルは古典派である。彼は獨逸古典音樂家の仕事を承けついで、それを完成した。何等の革新をも彼はしなかつた。彼は音樂の一進歩の絶頂であり終結である。ベルリオは新らしい音樂を起した。そして吾人はそこに凡て大膽で且優美なる青春の熱情を見る。ワグネルの藝術を縛つて居る鐡石の樣な法則は、それが完全な自由の幻影を吾人に與へるベルリオの初期の製作には見出されない(1)

 

(1) 此處で吾人はベルリオの、諧調ハーモニーの貧弱と粗野とに就て記さなければならない。――それは爭ふ事の出來ない事實である――何となれば或る批評家や作曲家等は彼の天才に就て「綴語の誤り」のみしか見る事が出來なかつたからである。(予は何か愚劣な事を云って居るのだらうか、――ワグネルは予に向つてそれを語るだらう。)是等の恐るべき文法學者――二百年以前には、その變則な語法に就てモリヱールを批評した樣な――に對しては、予はシユーマンを引用して答へなければならない。

「至つて貧しい材料から出來るベルリオのハーモニーは、その効果がそれゞゝ種々雜多であるにも拘らず、一種の單純さによつて各々特色を持つて居る。そしてベートオフヱンのものだけに見る事の出來るあの堅さと簡潔さとによつてすらそうである。……人々は――少くとも古い法則に從へば――到る處に平凡で極まりきつたものか、或は正しくないハーモニーを見出すであらう。或る塲處では彼のハーモニーは快美な効果を持つて居るのに、又他方ではその結果は曖昧で不確かであり、或は氣持惡い響きを出し、そして餘り念入に過ぎ、無理をしすぎて居る樣な處がある。併し尚ベルリオに於ては此等の凡てが幾分なりとある慥かな特色を示して居る。若し或る人がその誤謬を正さうとし、少しでもそれを制限しやうとすれば――いゝ音樂家にとつてそれは兒戯に等しい事であるが――其の音樂はだれてしまうであらう!」(「サンフオニー・フアンタステイクに關する論文。)

併し、ワグネルが「ハーモニーとメロデイーの事柄で、新語法は許さるべきだとか、紹介すべきではないとか云ふ樣な子供の樣な問題」と書いた如く、吾人も此の「文法上の論議」を止めやうと思ふ。(ワグネルからベルリオヘの手紙。千八百六十年二月廿二日。)シユーマンは斯う云った「第五音に注意するがいゝ。そして靜かにしやうではないか!」

 ベルリオの音樂の深奥の特色がしつかりと握まれるや否や、人は何故にそれがこんなに多數の秘密な敵意に遭遇したか、或は今も尚遭遇して居るかゞ分るだらう。音樂的傳統を貴ぶ、高名で學識ある如何に多くの能才の音樂家等が、彼の音樂の呼吸する自由の空氣に堪えられないのでベルリオを理解する事が出來ずに居る事だらう! 彼等は、ベルリオの辯説が顚覆し、震動させた獨逸音樂の事ばかりを考へさせられて居たのである。予はそれがよく解る! 一人の佛蘭西音樂家が佛蘭西の事を大膽にも考ヘたのはその時が初めてゞあつたのだ! そしてそれこそ予が何故にベルリオに就て獨逸の思想を餘り從順に受け入れる事の危險であるかを警告する理由である。ワインガーナーや、リヒアルト・シユトラウスや、そしてモツトルの樣な人々――俊秀な音樂家等――は、疑ひもなく、ベルリオの天才を、吾々佛蘭西音樂家よりも一層よく、一層速やかに評價する事が出來た。併し予は、彼等が彼等自身のそれとは斯程までに反對した精神に向つて感じた其の評價なるものを全然は信じられない者である。こんなにも親密でこんなにも自由な其の思想を學び、その思想を讀む事は佛蘭西に就ての事である。佛蘭西の民衆に就ての事である。そして其等は何時かはその福音を彼等におくるであらう。

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 ベルリオの他の偉大な特色は、殆ど其の頃、自治にまで高上して行つた若々しい民主制デモクラシーや、一般民衆の精神に適應する樣な音樂に就ての才能の内に在つた。彼は自分の貴族的な侮蔑があつたにも拘らず群衆と共に居た。イツポー氏は彼にテインの浪漫的藝術家の定義をあてはめて斯う云つて居る。「初めに世界的の高さに逹しながら、物々しくもその胸と心の激動を展げて見せる、豐富で、しかも大望にみたされた或る新らしい民族の庶民」と。ベルリオは革命の周圍の中に、帝王的偉業の物語りの中に生長した。彼は千八百三十年の七月、「屋根の上を風を切つて飛び、彼の窓に近い壁に當つて平たくなる流れ彈丸の堅く鈍い音をきゝながら、」羅馬賞のためのカンタゝを書いた(1)。此のカンタゝを書き終ると彼は「ピストルを手に持つて、義勇民の群(Sainte canaille)と一緒に巴里の賤民の樣を振舞ふために」出かけて行つた。彼はマルセイヱーズを歌つた。そして亦「聲と心臓と、その血管の中に血を持つて居る凡ての人々!」(2)にそれを歌はせた。彼は伊太利への旅行の途中、モデーナとボローニアの叛亂に參加しやうとして居たマツズイーニの徒黨と、マルセイユからリヴルン迄一緒に旅した。たとへ此の事に意識があつたにしろ無かつたにしろ、彼は革命の音樂家であつた。彼の同情は民衆を離れなかつた。彼は、劇傷での其の傷面を、(「名歌手デイー・マイステルジンゲル」の群集に三十年を先んじて)「ベンヴヱヌート」の第二幕、羅馬カルニヷル祭のそれの樣に、雲集し騷擾する群集で滿たす事としたばかりでなく、尚、彼は庶民の音樂と、巨大なる形式とを創造した。

  (1) 「メモアル」、第一。百五十五。
(2) 是等の言葉は全部奏樂と二重合唱の「マルセイヱーズ」の準備の樂譜に記したベルリオの命令からとつたものである。

 彼の手本は茲ではベートオフヱンであつた。「英雄曲エロイカ」に於ける、「Cマイノア」に於ける、「A」に於ける、そして就中「第九スインフオニー」に於けるベートオフヱンであつた。ベルリオは此の事に就ても、他の事柄での樣にベートオフヱンの後縫者であると共に、彼の製作を承けついで行く處の使徒であつた(1)。そして彼は自分の材料の効果と樂器とに對する理解を以て彼の自ら云つた樣に、「バビロン風でニネヴヱ式(2)」であり、「ミケラシジヱロに傚ふ音樂(3)」であつて且「無限に大規模(4)」である處の大建築を打ち建てた。それは二つのオーケストラと一つの合唱團とから成る「埋葬と凱旋の交響樂」であつた。それはベルリオが愛して居た處の、(その終曲フィナレ「ジユデックス・クレデリス」は彼にとつて今迄書いた内で最も効果のあつたものに思はれた(5)。)オーケストラとオルガンと三つの合唱團とから成つた「神にデ・デユーム」であつた。それは二つのオーケストラと二つの合唱圖との「アンペリアール」であつた。それは「中心になつて居るオーケストラと肉聲の集團とを取りまきながらしかも或る距離を置いて互ひに相別れ、相答へる管樂器の四つの合奏團」とを持つた有名な「ルキヱム」であつた。之等の作曲は「ルキヱム」と同じ樣に、その形式に於て生まのまゝでありそして平凡な感情を持つては居たけれど、尚その莊麗さは征服的であつた。此の事は取扱はれた手段の尨大な事によつてのみでなく、同時に「その形式の氣息と、是等の作曲に不可思議にも巨大な性質を與へる處の、そしてその最後の目的に到っては何人の揣摩する事をも許さない處の、進行法の或る驚くべき緩やかさ(6)」に關係して居るのである。ベルリオは是等の作曲の中に、音樂の自然のまゝな塊の中に見出さるべき美しさそのものゝ目ざましい例を殘した。聳え立つアルプスの樣に、彼等はその廣大さアムマンシテによつて人々を動かす。一獨逸批評家は云ふ。「是等巨大な製作の中でこの作曲家は、音響と純粋な音律との本質的で野蠻な力を勝手氣儘に遊び耽らせて居る(7)。」と。それは殆んど音樂ではない。自然それ自らの力である。ベルリオは自分でその「ルキヱム」を「音樂の洪水(8)」だと云つて居る。

  (1) 「ベートオフヱンから」とベルリオは云ふ。「音樂に於ける巨大な形式の生誕は始まる。」(「メモアル」。第二。百十二。)併しベルリオはベートオフヱンの手本、――ヘンデルを忘れて居たのである。吾人は同時に佛蘭西革命の音樂家を數に入れなければならない。メウール、ゴセツク、ケルビーニ。是等の人々の製作は假令、各の力に於て同じではないとしても、尚、莊大さを持つても居たし、且、新らしくして高貴な一般的音樂の知覺を屢々示して居るものである。
(2) 千八百五十五年のモーレルへの手紙。ベルリオは斯う云う風に彼の「神に」のテイピ・オムネスとジユヂツクスの事を書いた。之を次の樣なハイネの解釋と比較して見る。「ベルリオの音樂は私をして前代の巨大な動物、又は神話時代の大帝國……バビロン。セミラミスの空中庭園。ニネヴヱの竒觀、ミズライムの大瞻な建築を想像せしめる。」
(3) 「メモアル。」第一。十七。
(4) 失名の人への手紙。多分千八百五十五年頃に書かれたもの。(「ジークフリート、オークス」のコレクシオン)。そして千九百四年にアルフレツド・ブルノーの佛蘭西音樂史(Geschichte der franzosichen Musik)に發表されたもの。その手紙にはべルリオ自身の書いた、彼の製作の珍らしい解剖的の目録が入つて居る。彼はそこで「ルキヱム」や「サンフオニー・フユネーブル・ヱ・トリオンフアール」や「神に」の樣な「巨大な性質」の作曲に對しての、そして又「アンペリアール」の樣な「莊大な形式」の作曲に對する彼の特別な愛を語つて居る。
(5) 「メモアル。」第二。三百六十四。尚前掲の「ジーグフリード・オークス」コレクシヨンの手紙参照。
(6) 「メモアル。」第二。三百六十三。同第二。百六十三。尚、千八百四十四年に行はれたる、出演者千廿二人の大音樂祭に關する記録参照。
(7) ヘルマン、クレツツシユマルの「音樂堂の指揮者」(Führer durch den Konzertsaal)
(8) 「メモアル。」第一。三百十二。

 斯の如き颶風は民衆に向つて呼びかけ、鈍り切つた人道の大洋を浪立たせ、奮起せしめるために放たれた處のものである。かの「ルキヱム」はシクステインのそれとは異つて居るにしても、そしてベルリオもシクステインに就ては少しも考へては居なかつたが)滔々たる貴族主義に對する最後の審判である。併し同時に、狂亂し、昂奮し、そして寧ろ野蠻性を帶びた群集に對するそれであつた。「ラコツズイーの進行曲」は革命戰爭のための音樂と云ふよりも、寧ろ、匈牙利進行曲である。それは進撃の譜を奏する。そしてベルリオの云ふ樣に、そのモツトーとしてヴイルジールの詩をとつていゝのである。
     “……… Furor iraque mentes
   Praecipitant pulchrumque mori succurrit in arrinis”(1)

  (1) 千八百六十一年二月十四日附の或る若い匈牙利人への手紙。――「ラコツズイーの進行曲」が、ブダペストの聽衆に惹起した信じ難い程の激励と、就中、最後の驚くべき光景を記述した處の「メモアル。」第二、二百十二を參照せよ。

「私は突然這人って來た一人の男を見た。彼は見すばらしいなりをして居たが、その顏は不思議に昂奮の色に輝いて居た。彼は私を見るや否や自分の身を私に投げかけて熱情をこめて私を抱きしめた。その兩眼は涙で一杯になって居た。そして口を利くのも苦しさうであつた。「あゝ。あなたムツシウー、あなたムツシウー! 私はモア匈牙利人ですオングロア、………不運な男ですボーヴル・デイアブル。……佛蘭西語は出來ませんパ・バルレ・フランセヱ……ちつとばかり伊太利語をアン・ポコ・イタリアノ……昂奮しているのを許して下さいバルドン・ネヱ・モ・ネクスタース。……あゝ! あなたのキヤノンはよく解りましたヱー・コムブリ・ヴォートルキアノン。………そうですウイ。そうですウイ。すばらしい戰ひですラ・グランド・バタイユ。……獨逸アルマンの犬めシアン!」それから彼の胸を力一杯叩いて、「心の底にダン・ル・クウル……私モア……私はあなたを持つて居ますジユ・ヴ−、ボルト。……あゝ! 佛蘭西人フランセヱ…… 革命家レヴオリユーシヨネヱル ……音樂の革命の出來るのはあなただ!サヴオアル、フヱール、ラ、ミユージイク。」                                  

 ワグネルは「サンフオニー・フユネーブル・ヱ・トリオンフアール」を聽いた時、「最も善い意味での一般的な作曲を書く」ベルリオの「巧妙さ」を認めないわけには行かなかつた。
 「そのスインフオニーを聽いて居て、自分は紺のズボンと、赤い帽子のどんな町の子供でも完全に理解する樣な生きゝゝした印象をうけた。自分はその製作に、ベルリオの他の製作を覆ふ程な優秀の名を與へる事に躊曙しない。それは初めから終りまで莊大で高貴である。美しいそして熱烈な愛國心が、その哀憐の最初の表白から敬神の最後の榮光に迄浪立つて、そして其の製作を凡ての不健全な誇張から免れしめて居る。自分は喜んで、此のスインフオニーが人々の勇氣に焔を點じ、そして國民が佛蘭西の名を冠する限り永遠に生きるであらうと云ふ確信を表明する者である。」(千八百四十一年五月五日に書かれれもの。)                       

 何故にこんな製作が我等の共和制デモクラシーによつて等閑視されて居るのか? 何故に我等の公共生活に席を占めては居ないのか? 何故に我等の大なる典禮にあづからないのか? それは人々が前世紀の間の音樂に對する政府の無關心に氣がつかない時、彼等がいぶかしげに發する自問である。若し力が彼に與へられ、或は彼の仕事が革命の祝宴にその席を見出したとしたならば、恐らくベルリオの爲さずにしまつた事は何であつたらう!
 不幸にして吾人は、茲でも再び彼の性格が彼の天才の敵であつた事を云はなければならない。同樣に、その生涯の第二期に於て此の自由音樂の使徒は彼自身に恐れをなし、その本性の結果の前に畏縮し、且古典主義に後退したゝめに此の革命家は、民衆と革命とを悲しげに難ずる處まで落込んでしまつたのであつた。彼はそれを「共和のコレラ」と呼び、「不潔で愚昧な共和」と呼び、「荷擔人クロシユトウールと褸襤拾ひシツツオニヱヱの共和」と呼び「その蠢動と革命の蹙め面がボルネオのヒヒ(註1)や猩々よりも百倍も愚鈍で動物的な、人道の卑しむべき彌治馬(1)」と呼んだ。何と云ふ恩知らずだ! 此の革命に、此の民主々義デモクラシーの暴風に、此の人類的狂嵐に、彼は己が天才の最善のものを負ふて居た。しかも彼は全てを擯斥したのだ! 彼は新時代の音樂家であつた。しかも彼は過去に隠れ家を求めたのだ!

  (1) ベルリオは千八百四十八年の革命に對して罵る事を決して止めなかつた。それは彼の同情を得なければならない筈のものであつた。常時の昂奮した状態に居て、ワグネルの樣に熱噴した作曲をする爲めに材料を求める事をしないで、彼は「基督の幼年期」を書いて居た。彼は絶對の無關心を裝つて居た。あんなにも無關心になれない彼がである!――彼に政府の處置に賛成した。そして夢想の希望を輕蔑した。

(註1:犭に非/サイト管理人記述)

       ●

 そんな事はどうでもいゝ! 自らそれを望むだと否とに拘らず、彼は音樂に向つて一の莊麗な路を切り拓いたのである。彼は佛蘭西の音樂に封してその天才が當然踏まなければならない路を示した。彼女が夢想だもしなかつたその運命を示した。彼はそれが曾て眞實で且表現的であり、外國の因襲に捉はれずして吾人實在の奥底から發し、そして佛蘭西精神を映し出した處の音樂的言語を我等に與へた。それは彼の明徹な想像に、美に對する本能に、瞬間的の印象に、そして彼の感情の微妙な陰影に照應する言語であつた。彼は歐羅巴に於ける最大の共和に向つて、國民的で且一般的鞏固な基礎を置いたのである。
 其處に光輝ある偉勳がある。若しベルリオにしてワグネルの推理力を持ち、その直覺を能ふ限り用ふる事をしたならば、若し彼にしてワグネルの意志を所有し、そしてその天才の靈感に形を與へてそれを堅固なる全體に鍜へ合せたならば、予は彼こそワグネルがしたよりも一層偉大なる音樂の革命を成し遂げたと云ふ事を言明して憚らないものである。何故ならばワグネルは更に力强く、更に彼自身の支配者でありながら、しかも箇性に於て乏しく、そして實際では光榮ある過去の終末であつたからである。
 その革命は尚も續けられるのであらうか? 恐らくは。併しそれは半世紀の遅きに惱むだ。ベルリオは人々が千九百四十年頃に至つて漸く彼を理解し出すだらうと悲しげに計算した(1)

  (1) 「私の音樂の道程は、若し私が百四十年間生きられると非常に滿足に終るだろう。」メモアル。第二。

 要するに、その偉大なる使命が彼にとつて重きに過ぎた事は怪しむに足りない事である! 彼はあれ程にも孤獨であつた(1)! 人々が彼を嫌へば嫌ふ程、彼の寂寥は一層大なる慰安の内に立つて居た。彼はワグネル、リスト、シユーマン、フランク等の時代にあつて孤獨であつた。そこに彼の敵、彼の友、彼の讃美者、そして彼自らが、全く差別なく混在する全世界を自分の内に臓しながらの孤獨であつた。孤獨。そしてその寂参に彼は苦しむだ。孤獨――之こそ彼の青年と老年の兩時代に亘つて反覆され、そして「サンフオニー・フアンタステイク、」「トロイの人々」によつて繰返された言葉である。之こそ予が是等の章を書きながら予の前に置かれたる宵像――彼の顏があんなにも彼を誤解して居た時代の悲しくも苛酷なる非難に面して居る「メモアル」の美しい肖像の中に予が讀んだ處の言葉である。

  (1) 此の寂寥はワグネルを動かした。「ベルリオの寂寥は、彼の外的の境遇によるばかりでなく、その根源は彼の性格の中にある。よし彼がその市民仲間と同じ樣に鋭い同情と快活とを持つて居る佛蘭西人であつたとしても、尚彼は孤獨である。彼は彼の前に助けの手を差し伸べる只一人の者をも見ない。彼の傍らには、彼の凭りかゝるべき只一人の者も居ない。」(千八百四十一年五月五日の論文。)是等の言葉を讀む人々はベルリオに對する彼の理解を妨げたものが彼の叡智ではなくして、彼の同情の缼乏であつた事を感じる。予は彼がその心中では何人が彼の大なる敵手であるかをよく知つて居た事を疑はない。併し彼は決して何事も之に付て云はなかつた。若し或る人が出版の目的のものではなかつた一の愚劣な記録を信じる樣な事さへなければ。そしてその中で彼は彼をベートオフヱンとボナパルトに比較して居るのである。(モツトルによつて獨逸の雜誌に發表され、ジヱオルヂ・ド・マツスニヱ氏によつて千九百二年一月の「演劇評論レヴ−、ダール、ドラマテイク」に發表されたアルフレ・ボヴヱー氏コレクシヨン原稿。)

 

 



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 ワグネル

  
《「ジークフリート」に就て》  

 最初の印象程感動的なものはない。予は、予が未だ子供の頃シルク・ディヴェエの老バドルーの一音樂會で初めてワグネルの音樂を聽いた事を記憶して居る。うら悲しい霧の降る或る日曜日の午後、予はそこへ連れて行かれた。そして吾々が黄ばむだ霧を戸外に殘して會塲に入るや否や、吾々は壓迫するやうな溫氣と燈火の眩ゆい輝きと、群衆の囁く聲とに襲はれた。予の呼吸は苦しくなり、そして間もなく身體が窮屈になり初めた。それは吾々が木製のベンチに腰をかけて、人體の堅固な壁の間の狭い塲所につぶれる樣になつて居たからであつた。併し音樂の最初の拔萃が初まると同時に、そんな事は凡て忘られてしまつた。そして人は痛ましい併し氣持のいゝ無感覺の狀態に陷つてしまつた。或は、人間の其の不快と云ふものが快樂の度を一層鋭くさせたかも知れない。

登山の酩酊的の氣持を知つて居る者は、同時に、如何にその氣持が、登山の不快と、――疲勞や日光の眩耀と、息切れと、そして生活力を昂進し、刺戟し、肉體を痙攣させる樣な他の凡ての感覺と密接に相伴つて居るものであるかを知つて居るであらう。その爲めに、それに付てのあらゆる記憶が、心の上に削り去る事の出來ない迄に深く彫りつけられるのである、奏樂堂の愉快な事は、イリユージヨンに對してさのみ重大な意義を持つては居ない。それ故、その理由は恐らくは、ワグネルの作品との最初の會合の生き生きした印象を予に與へた處の、あの古い演奏塲の全き不便さにあつたかも知れないのである。
 抑も何と云ふ魔術的な混亂が予を感動させた事だらう! 凡ては予にとって神祕であつた。管絃樂の新らしい發聲法ソノリテ、新らしい音色、新らしい音律、そして新らしい主題。凡てが遠い中世と原始傳説との粗野な詩、凡てがその情慾と、隠れたる悲哀の渾沌とした熱病であつた。予はよく理解する事が出來なかつた。どうしてそんな事が出來るであらう? 其等の音樂は予にとつては未知な製作からの拔萃であつた。樂想の聯絡をとらへる事は、部屋の響音アクステイクの工合や、管絃樂の拙ない奏法や、未熟な演奏者のために、殆んど困難であつた。それは凡て音樂的の構想を破壊し、色彩法の調和を損ふ處の原因であつた。浮き出すやうに演奏されなければならない塲所もいゝ加減にやられた。そして他の塲所は又、謬つた速度と、精確さの缺けて居た事とで歪められてしまつた。今日、吾々の管絃樂が年々の研究に現はれる時ですらも、若し予が樂譜を知らない樣な塲合には、その全塲面を通じ、ワグネルの思想の跡を辿ると云ふ事は事は往々にして不可能である。何故ならば、多くの伴奏が詩句と聰明な知覺との明瞭さを打ち消し壓碎してしまふからである。若し人が今も尚之と同じ經驗をするとしたならば、如何にその不明瞭さが大きなものであるかを了解する事であらう! 併しそれはどうでもいゝ! 予は人力以上の熱情に惓き込まれてしまつた事を感じたのだ。或る猛烈な感激が予の内の感激の情を呼び醒まし、一樣の感謝すべき喜悦と苦痛とを以て予を一杯にしたのである。何故ならばそれは何れにしても、常に喜悦である處のかの力を齎すものであつたからである。それは宛も予から予の幼き魂を奪ひ去つて、換ふるに英雄の心靈を以てした樣に思はれた。
 そしてそれは單に予一人の經驗ではなかつた。予の周圍にゐた人々の顏に、予は予と同樣な感激の反映を見たのである。此の演奏塲内の有樣を、そして殆んど凡ての人々の顏が斯くの如く凡庸であり、理想も興味もない生活の消耗によつて烙印を押され、消沈し、痿痺して居ながらも、尚且或る瞬間を音樂の聖らかな精神に興奮する之等哀れな人々の形容に對して、誰かそれを云ひ表す事が出來るであらう? それは交互に起る莊嚴と、奇異と、感動の表情であつた。或るメロディーを享樂する之等多數の人々の感激の光景!……予の生涯の中のどんな塲處を此の日曜日の音樂會は持つた事であらう! 予は一週間を通じて、此の二時間を待つ事のために生きた。そしてそれが終つてしまつた時、予は予の内に、來るべき日躍日まで其の思ひ出を溫めて居たのである。ワグネルの音樂の青年に對する魅惑は屢々憂慮を惹起した。人々はそれが思想を毒し、活動を妨げるものだと思つた。しかし予はその時ワグネルに熱狂した青年が、その以後に於ても曾て活動に興味を失つたと云ふ事を見出さなかつた。そしてどうして人々は、此の音樂が吾々にとつては缺くべからざる物であり、それは死ではなくして却つて生命であると云ふ事を理解できないのであらう! 餘りに人爲的な都會文明の中にあつて、活動からは遠く、自然からはへだゝり、そして眞實にして強い生命から遙かなる吾々は、この最も敬虔にして最も英雄的であり、そして最も豐饒な魂、世界的熱情と、大地の氣息とに滿ち切つた此の魂によつて吾々自らを擴大するのである。「名歌手マイステルジンゲル」に、「トタスタン」に、そして「ジーグフリード」に向つて、斯くも吾々に缺けて居る處の歡喜、愛、力を求めんがために往くのである。

     *

 予が此の樣にも強くワグネルの魅力を感じて居た頃、予の年長者の中には、常に予の驚嘆を冷却させやうとし、そしてうはてな微笑を以て斯う云つた或る批難好きな人々が居た。「そんな事は何でもないよ。音樂會などでワグネルが本當に解るものか。君はバイロイトの劇塲でワグネルを聽いて見なくつては駄目だ」と。その後予は幾度かバイロイトヘ行つた。そして又ベルリン、ドレスデン、ミューニツヒ其の他各處の獨逸都市で演出されたワグネルの作を見た。併し予は遂に再び過去の心酔を感じなかつたのである。人々が優秀な作に、より近く接する事で彼の歡びを更に大にすると考へるのは誤りである。それはそれを輝かしはする。併し想像を傷け、神祕を逐ひ散してしまふ。人が音樂會で聽く謎の樣な拔萃は、その精神が集注されるが故に壯麗な廣袤を占めるのである。曾て吾々が巨大にして不可思議な姿の閃影を見、そしてそれがやがて消えてしまつた處の、かの「ニーベルンゲン」の叙事詩は、吾々の夢に現はれる闇深い森林に似て居た。今日に到つて吾々は凡ての徑を踏査した。そして初めて、此の想像の皮相なる迷路を統一して居る至上の法則と理論とを發見する事が出來た。人物は明るみの中へ現はれた。彼等の顏面の極小の皺も吾々には見馴れた。そして我々は彼等の前に立って、最早昔日の困惑した猛烈な感激には動かされなくなつた。
 併しそれは恐らく歳月のなす業であらう。そして若し予が昔日のワグネルを認めないのならば、それは予が過去の予自身を認めないがためであらう。藝術上の制作、殊に音樂上の制作は吾々自身と共に變つて行く。例へば、「ジーグフリード」は最早予にとっては些かも神祕的ではないのである。今日の予を動かすものは、天才の明智と、描法デッサンの鮮かな力強さと、その超越性と、男性的な力と、そして制作と人物とを通して存する異常なる健全さである。
 予は時にかの哀れなニイチヱを、其の愛惜したものを打倒す彼の病癖を、そして如何に彼が實際では彼の内にあつた「頽廢デカダンス」を、他人の内に探し求めたかを思ふ。彼は此のデカダンスをワグネルのものにしやうとした。そして(若し人々が、彼の出來心なるものが彼の幸福な時には孵化しなかったと云ふ事を知らない塲合には嗤ふべきものである處の)その移ろ氣と奇論を好む偏狂とによつて牽き付けやうとした。彼はワグネルの最も顯著な素質を認めなかつた。彼の力を、決斷力を、調和性を、論理を、そして彼の進歩の力を! 彼はワグネルの樣式をゴンクールのそれと比較し、そして愉快な皮肉を以て彼を大縮圖畫家ミニアチユリスト、淡色の詩人、「彼の前に立つと他の凡ての音樂家が餘りに強壯に見える(1)」程その形式に於て弱々しく、女性的な憂鬱と嬌態の音樂家と呼んで自ら面白がつた! おゝ! 如何に美しく、同じ傷が、そしてワグネルと彼の時代とが晝かれて居る事だらう! 誰か此の廓大鏡を要する樣な、繊細で念入りな四齣悲劇テトラロジーの小さな繪を記憶して居ないものがあらう。――そしてその憂欝な客間に於ける美貌で且倦怠したワグネルを、そして又「餘りに強壯」な角闘者の會合に於ける、かの同時代の音樂家の群を!――此の謎解きジユデスプリに就て滑稽な事は、何にでもあれ通常の意見に反對する時にのみ最も幸福を感じる典雅の裁決者によつて、それが今日眞面目に稱讃されて居る一事である。

  (1) フリイドリツヒ・ニイチエ。「ワグネルの堕落」

 予はワグネルの内に鋭敏なる感覺以上のものが、強いて云へばヒステリー或は現代の神經質な性癖を露はした頽廢の一面が存して居た事を疑はない。若し之を缼いて居たならば彼は彼の時代の代表者となる事は出來なかつた。そして此の事は凡ての大藝術家が必ずそうあるべき事なのである。併し確かに彼の内には頽廢以上の或ものがある。そして若し女子や青年にして、彼方に存在する何ものかを見る事が出來ないならば、それは彼等自身から卒業し得ない其の無能を示して居るのである。久しい以前にワグネルはリストに對して、公衆と云はず藝術家と云はず、その女性的な方面を除いては、彼の音樂の如何なる方面をも聽いたり理解したりする事を知らないと云ふ事を指摘して、「彼等はその力が掴めないのだ」と訴へた。「私の推定する成功は」と尚彼は云ふ「謬つた解釋の上に立つて居るのである。私の社會的の名譽は胡桃の殼位の値打しかないのである。」と。實際彼は二十五年の間、歐羅巴に於ける文學と音樂の頽廢主義者によって喝釆され、保護され、そして壟斷されては居なかつたであらうか? 併し誰か彼の内に力強い音樂家、古典作家、「ベートオフヱン」直系の後繼者を認め得たであらう? 誰かかの英雄的で牧人的な天才の嗣子を、誰かその史詩的氣魄を、誰かその熱烈なる形而上學を、誰かその戰闘の音律を、そしてその勇壯なる喇叭と壯大なる歩調に於て、誰かかのナポレオン的章句を認め得たであらう?
 「ジークフリード」にも増してワグネルがベートオフヱンに近付いた處はない。「ワルキユーレ」ではウォータンとブュリンニルデの、殊にジークムンドの或る性格と章句とが、ベートオフヱンのスインフオニーとソナタとに接近して居る。予は「ワルキューレ」の森の欝蒼たる靜寂と、逃走し捜索する人物とを思ひ起す事なくしては、「ピアノの爲めの第十七番のソナタ」(作品三十一番、第二)の吟唱曲、Con espressione e semplice を彈く事が出來ない。併し「ジーグフリード」にあつては單に細部の類似ばかりでなく、作品全體に旦つて、その詩、その音樂が凡てベートオフヱンと同じ精神を持つて居る。予はベートオフヱンが恐らくは「トリスタン」を斥けて「ジーグフリード」を好くだらうと考へずには居られない。何となれば、それは純潔にして粗野であり、眞摯にして諧謔好きであり、諷刺と情感と深奥な思想に富み、慘酷で愉快な戰闘を夢み、そして巨人の如き檞の木の陰と鳥の歌とに於て、凡て獨逸古代精神の完全なる權化だからである。

     *

 予の見る處では、その精神と樣式とに於て、「ジークフリート」は、ワグネルの制作中特殊な地位に立つて居る。それは歡喜に溢れて居る。唯、「名歌手」のみは、其の快活さでそれと對抗する。そして尚ほ吾人は「名歌手」の内に詩と音樂との正しい均衡を發見する事は出來ない。「ジーグフリード」は全き健全と幸福とを純粋に息づいて居る作である。
 そして人が苦痛と疾病から遠く離れる時、それは確かに驚嘆すべきものとなる。ワグネルがそれを作曲した時代は彼の生涯の最も悲慘な時であつた。それは藝術に於ても常に屢々そうであつた。人は偉大なる藝術家の制作の内に彼の生活の説明を聽かうとする時、誤謬に陷る。除外例は眞實ではないからである。藝術家がその制作に彼の生活とは反對の事柄、彼が經驗しなかつた事柄を述べる事は非常に屢々ある事實である。藝術の目的は藝術家がその經驗に於て逸したものを塡補するにある。「藝術は生活の停止した處に初まる」とワグネルは云つた。活働の人が猛烈な藝術作品を愛する事は殆んど罕である。ボルジアとスフォルツアとはレオナルドを保護した。十七世紀の強猛で殘虐な人々、そこでフアゴンの披針ランセツトがあんな重要な役を演じた中風症のヹルサイユ宮廷、新教徒を迫害し、バラテイン領を燒いた将軍や大官、凡て是等の人々は一樣に牧歌を愛誦した。ナポレオンは「ボールとヴィルジニー」を讀んで泣き、蒼白なペジエロの淡色の音樂を歡んだのである。餘りに烈しい活働の生活に疲れた人々は、藝術の内に其の安靜を求める。餘りに狭苦しく凡庸な生活に居る人々は、藝術の内にその力を求める。偉大なる藝術家は彼が悲哀と共に在る時必然的に愉快なものを書き、愉快な時悲しき制作をする。ベートオフヱンの「歡びへのスインフォニー」は悲哀に滿ちたものであり、ワグネルの「名歌手」は巴里に於ての「タンホイゼル」の失敗の後、間もなく作曲されたものであつた。人々は「トリスタン」の中にワグネルの戀愛の痕を見出さうとする。併しワグネルは彼自ら云ふ。「自分は生涯を通じて、眞に懲愛の幸福を味つた事は一度もなかつた。自分は此の美しさ夢想の爲めに一の紀念碑を打ち建てるであらう。そして「トリスタンとイソルデ」の計畫を頭に描いて居る」。而して、それは幸福で放膽な「ジーグフリード」に就ても同樣であつた。                   

      *

 「ジークフリード」の最初の意想は、ワグネルがあらゆるものに打ち込んだと同じ熱心の感情を以て參與した處の、千八百四十八年の革命と時を同じくして居た。彼の傳記作者として知られて居るハウストン・ステユワート・チェムバレン氏は――或る種の偏見がないでもなかつたが、免に角アンリ・リシュタンベルジヱ氏と共にワグネルの復雑な精神を闡明した點で最も成功した人であるが――ワグネルが常に愛國主義で且獨逸王政主義者であつた事を證明するために大なる苦心をした。成程彼はやがてはそうなつたかも知れない。併し予はそれが彼の進化の最後の實相では無かつたと思ふ。彼のした仕事がそれ自身を語つて居る。千八百四十八年六月十四日の國民共和協會に於ける、有名な演説の中で、ワグネルは猛烈に現在の社會制度を攻撃した。そして金錢の廢止と、貴族制度の最後の反映の消滅とを要求した。「未來藝術作品」の中では、彼は「地方的國家主義」の彼方なる「超國家的宇宙主義」の近き将來を説いた。そしてそれは單に言葉の上だけではなかつた。彼は理想のために其の生命を賭したのであつた。チェムバレン氏は、千八百四十九年五月ドレスデン攻圍中の軍隊に、革命の小冊子を配布して居る彼を見たと云ふ、或る目撃者の言葉を引いて居る。彼が捕縛されて銃刑に處せられなかつた事は實に奇蹟である。ドレスデン攻陷の後、一通の召喚狀が彼に向つて發せられて、彼が僞名の旅行免狀を持つて瑞西に亡命した事は吾人の知つて居る處である。若し後に至って彼が「誤想に惑はされ、己の感情に驅使されて居た」事を告白したと云ふのが眞實ならば、それは其の時代の歴史には何等の關係もない事である。謬想と感奮とは生活の一部である。從つて彼が其等に就て二十年或は三十年の後に及んで後悔したと云ふ理由のために彼の傳記からそれを不問に附する事は出來ない。何故ならば、それにも拘らず其等のものは彼の活働を指導し、彼の思想に靈感を與へたものだからである。かの「ジーグフリード」が眞直に嘖出したのは、實に革命そのものからであつたのだ。
 千八百四十八年にはワグネルは未だ四齣悲劇に就て考へては居なかつた。併し「ジーグフリードの死」と呼ぶ三幕から成る英雄的な歌劇を思つて居た。そこには黄金の運命的な力がニーベルンゲンの寳の中に象徴され、ジーグフリードは「財貨の主權を撤廢するために、地上に下つて來た社會主義的贖罪者」を表はす筈であつた。その計畫が熟するや否や、直ちにワグネルは彼の主人公の生活の流れに登つて行つた。彼は彼の幼年時代を、寳の獲得を、ブリュンニルデの目醒めを夢想した。かくて千八百五十一年に「若きジークフリート」の詩を書いた。ジークフリードとブリュンニルデとは未來の人道を、世界が黄金の羈伴を脱却した時、實現さるべき新時代を表はしたものであつた。それに次でワグネルは傳説の根元に溯つて行つた。そして現代の象徴、諸君や予と等しき人間ウォータンが現はれた(1)。その對照としては、斯くあるべき、そしていつかは生るべき人間ジークフリードが現はれた。遂にワグネルは「神々の曙」を、吾人現代の社會と共に滅亡するワルハラを、そして新らしき人道の生誕を案出した。ワグネルは千八百五十一年にウーリッヒに宛てゝ、此の作品の全部は「大革命が終りを告げた後に」演出されねばならぬと云ふ事を書いた(2)。

  (1) 「ウオータン」に注意して呉れ給へ。彼は疑ひもなく吾々自身を表はしたものである。そしてジーグフリード其の人が、吾々の期待し翹望し、――吾々の創造する事の出來ぬ未來の人、併し吾々の死滅によつて彼自ら創造するであらう處の――自分の空想する最も完全な人物である時、ウオータンは現代精神の總計である。」(千八百五十四年一月廿五日ワグネルよりレツケルヘの手紙)――其の時代の歴史と「ニーベルンゲンの指環」の發想とに就ては、アンリ・リシユタンベルジエ氏著「詩人及び思想家としてのリヒアルト・ワグネル」の第三章並びに、ワグネルのリスト、ウーリッヒ、レツケル等に宛てた手紙を參照。
(2)千八百五十一年十一月十二日附。 フリイドリツヒ・ニイチエ。「ワグネルの堕落」

 オペラの公衆は「ジークフリード」の中に、彼等が革命の作品を讃美して居た事を知って恐らくは非常に驚いた事であらう。それはワグネルによつて、その滅亡が彼にとつてはしかく緊要であつた處の憎惡されたる財貨に反對する思想が説かれて居るからであつた。そして彼は、凡て是等輝ける歡喜の頁の中にも、彼が悲哀を語つて居た事を曾て疑はなかつた。
 ワグネルは、其處で彼が「藝術社會に對するかくも多くの不信と、彼の強ひられたる束縛に對するかくも激しい憎惡」とを感じ、そしてその事で彼が殆んど死なんばかりの神經の疾患に襲はれた處の、巴里に於ける暫しの滯在の後、チューリッヒに向つた。彼は再び「若きジーグフリード」の製作に戻つた。そしてそれが大なる歡喜を齋したと彼は自ら云ふ。
 「併し自分は自分自らを音樂より他のものに向つて適應させる事の出來ないが故に不幸である。自分は自分が幻影に養はれて居、そして尚且現實こそは唯一の價値あるものだと云ふ事を知つて居る。」
 「自分の健康はよくない。神經は次第に加はり行く衰弱の不安な狀態にある。全き想像と、充分な活働の皆無な自分の生活は、屢々來る途切れと、長い休息の時間とによつて辛ふじて働く事の出來る程にも自分を疲勞させる。そうでない時自分は長い痛ましい苦しみを以て刑罰を受けなければならない。…………自分は非常に寂しい。幾度か自分は死を希ふ。」
 「働いて居る時自分は我が苦痛を忘れて居る。併し休息の瞬間には幻影が自分の身邊に群つて來る。そして自分は甚しく慘めである。おゝ! 藝術家の光榮ある生活よ! 如何に眞實なる生活の一週間のために、自分は喜んで此の生活と別れ得る事だらう!」
 「自分は眞に幸福な人が、どうして藝術の力などを考へるのか理解する事が出來ない。若し吾々にして生活を樂しむ事が出來るならば、吾々は藝術の必要を少しも感じないに相違ない。現在が吾々に是以上何ものをも提供しない時、吾々は藝術作品の必要を叫ぶのである。「自分は希ふであらう!」我が青春、我が健康を再び獲得せん事を。自然を享樂する事を。一身をさゝげて自分を愛する妻を得ん事を。そして美しき子供を。是が爲めには「我が藝術の全て」を與へても自分は惜まない。それだ! 殘つて居るものを自分に授けて呉れ!」

 斯くの如くにして四齣悲劇の詩は、彼が餘程後に云つた樣に、再び健全で中庸を得た人間となるために、そして自然の子となるために、藝術及びそれに類する一切のものを捨て去らうかと幾度か考へたその迷ひに迷つた感情の中で書かれたのであつた。彼は日一日と鋭さを増して行く苦痛の狀態にあつてその詩の作曲を初めた。

 「自分の夜は屢々不眠である。疲れ切つて、且哀れな有樣で。自分は自分に僅かの歡びをすら與へぬ處の一日の期待を以て我が寢床から起上る。人々の社會は自分を苦しませる。そして自分は自分自らを苦しましめんがためにそれを避けて居るのである。自分のするあらゆる事が悉く嫌厭の情を以て自分をみたす。それは堪え得べき事ではない。自分は最早斯の如き生活には永く我慢できなくなつた。此の樣にして生くるよりも寧ろ自分は自殺するであらう………自分は何ものをも信じない。唯一つの望みを自分は持つ。それは眠る事である。人間のみじめなる一切の感情が自分のために存在しない樣な、しかく底深い眠りに陷る事の願ひである。自分は免に角此の眠りを得るやうにしなければならない。それはさして困難ではない筈である。」

 休養の目的で彼は伊太利へ旅行した。チユーリン、ゼノア、スペチア、そしてニースへ。「併し其處未知の世界にあつて彼の寂しさは、彼が非常に憂欝となり、倉皇としてチユーリッヒに歸つて來た程にも恐るべき徴候を現はした」。彼が「ラインゴールド」の氣随氣儘で快活な音樂を作曲したのは其處であつた。彼は「苦痛の狀態が普通の狀態であつた」時代に「ワルキューレ」の樂譜に着手した。そして彼は其の哲學が彼の本能的な厭世主義を強固にし、結晶させた處のショーペンハウエルを發見した。千八百五十五年の春、音樂會を開催するため倫敦へ行つた。そして世界に對する新らしい接觴に奮激して再び病ひを得た。彼は「ワルキューレ」にもう一度手を着ける事に大なる苦痛を感じた。「頻繁に來る顏面丹毒症の襲擊の中で」彼は遂にそれを完成した。その疾病は後に至つてゼノアで水治療法を施さねばならなかつた。彼が(千八百五十六年の終りに於て)「ジークフリード」に着手しやうとした時、「恐るべき苦痛としての戀愛」を描かうと思つた、「トリスタン」の意想が、同時に彼の内に醱酵し初めた。「トリスタン」の暴虐な魔襲は彼に「ジーグフリード」の完成を許さなかつた。彼は燃ゆるが如き熱に焼けたゞれた。そして「ジークフリード」を第二幕の唯中で投げ出してしまつた。彼は狂氣の樣に「トリスタン」の中に躍り込んだ。「自分は戀愛の希求を、そが完全に飽滿せらるゝ時まで追求せん事を欲する。そしてその終焉の空に飜へる黑旗の襞の中に我れと我が身を包んで死に行く事を望む(1)」と。彼は「ジーグフリード」を十四年の後、幾度かの斷續の後、普佛戰爭の最後の年、即ち千八百七十一年二月五日に到るまで完成することが出來なかつた。
 約言すれば斯の如きが英雄的牧歌の歴史であつた。人々にとつては、彼等が藝術によつて樂しむその休養の幾時間は、藝術家の苦痛の幾年にも相當すると云ふ事を、時に思ひ起すのは恐らく無益な事ではないであらう。

  (1) ワグネルの言葉の引用は凡て、千八百五十年から五十六年迄に、レツケル、ウーリツヒ、リストに宛てた彼の手紙から拔萃したものである。

     *

 諸君は「ジーグフリード」の演出に就ての、かのトルストイの興味ある記録を知つて居るであらうか。
 「私が行つた時は、肉袖袢を着た一人の俳優が、鐵床を表はしたつもりの或る道具の前に座つて居た。彼は假髪をかぶり、附鬚をつけて居た。彼の白い美爪術を施した手は少しも勞働者らしくなかつた。そしてその優しい働作と突出した腹と、軟弱な筋肉とは明かに彼が俳優である事を示して居た。馬鹿らしい鐵槌を以て、曾て人のした事もない樣な手附で、彼は異樣な刀身を鍛へた。人は彼を侏儒だと思ふ。歩く時、彼が脚を膝の處で折って居るからである。彼は長たらしく歌を歌つた。口を妙な格好に開けて。管絃樂は又奇妙な音と聯結のない初め方とで奏された。すると帶革に角笛をつけた別の俳優が熊に扮した四足で歩く一人の男をつれて現はれた。彼はその熊を侏儒にけしかけた。侏儒は逃げた。併し今度は彼の膝を曲げる事を忘れてゞあつた。人間の顏を持つた俳優は主人公ジーグフリードを表はすものである。彼は長い間叫びつゞけた。そして侏儒も同じ樣に答へた。そこヘ一人の旅人が登塲した。神ウォータンである。彼も亦假髪をつけて居た。そして槍を持つて、滑稽な姿勢で立つたまゝ、見物の知らない、併し彼自身は疾うに知って居る事柄を悉くミメに語つた。それからジークフリードは劒の破片を表はして居るつもりの何かの切れ端を取り上げた。そして「ヘアホー、ヘアホー、ホーホー! ホーホー、ホーホー、ホーホー、ホーホー! ホヘオー、ハーホー、ハヘオー、ホーホー!」と歌つた。そして之が序幕の終りであつた。凡ては、私がそこに終りまで居ることに非常な苦痛を感じた程無稽で愚劣極まるものであつた。併し私の友人等は私に止まるやうに頼むだ。そして私は第二幕はもう少しはいゝだらうと心に勇氣を持たせた。
 「次の塲面は森を現はすものであつた。ウォータンが龍を起して居た。初め龍は「眠つて居度い」と云つた。併し遂に彼はその洞窟から出て來た。龍は鱗を貼りつけた緑色の皮を着た二人の人間によつて扮されて居た。皮の一端で彼等は尾を動かした。そして他の一端で焔を發する處の鰐の樣な口を開いた。怖ろしい獸であるべき筈の――そして或は五歳位の少年を怖ろしがらせる事は出來るかも知れない――龍は、バスの聲で二言三言何か云つた。それは大人がそれを見物して居るのが不思議な程幼稚でたわいもないものであつた。それにも拘らず幾千の所謂教養された人達は注意深く目を瞠り耳を傾けて、そして昂奮して居た。やがて角笛を持つてジーグフリードが登塲した。彼は暫しの間、非常に美しい樣子であるかの樣に横になつた。そして時々獨り言を云つたり全く默つたりした。彼は小鳥の歌をまねたがつた。そして劍で藺草を切つて笛を作つた。併し笛が上手に吹けないので彼は自分の角笛を吹いた。此の塲面は到底見るに堪えないものである。そして、そこには音樂らしいものは少しもない。私は此の馬鹿らしさにおとなしく耳を傾け、それを謹んで感心して居る私の周圍の三千の人々を見で居られなかつた。
 「或る勇氣を出して私は我慢して次の塲面を待つた。ジークフリードと龍との爭鬪である。そこには叫喚と、火焔と、劍撃とがあつた。併し私は之以上忍耐する事が出來なかつた。そしていまだに忘れる事の出來ない樣な嫌惡の情を抱いて私は劇塲を飛び出してしまつた。」

  (1)ハルペリン・カミンスキー佛譯トルストイ著「藝術とは何ぞや。」
譚者曰。茲に引用された論文は英譯のものと比較すると遥かに省略されて居る樣である。ロマン・ロラン氏が省略したのか、主要な部分は大概書かれて居るが免に角非常に短かくなつて居る。併しこゝでは原文のまま譯しておく。

 予は予が此の興味ある批評を厚意の笑ひなしには讀み得なかつた事を自白する。しかもそれはかのニイチエの毒惡で病的な諷刺の樣に痛ましく予に響いては來ない。予が著しき感情を以て愛し、且歐羅巴に於ける美しき心靈として尊敬した處の此の二人が、即ちトルストイとワグネルとが、互ひに門外漢或は敵手として相持して居た事は、曩の予にとつては悲しみであつた。予は衆愚によつて理解されない樣に宿命的に定められた處の天才が或る種の嫉妬深い我儘から、その同輩と接近する事を、或は彼等に友情の手を差伸ばす事を拒むがために、その寂寥を一層狹いものとし、一層苦しきものとすると云ふ事實を思ふに堪えなかつた。併し今の予は歸つて其の方がよかつたと思ふ。天才の第一の價値は眞摯な點にある。若しニイチヱがワグネルを理解しない樣な道を擇んだとしても、トルストイが彼に向つて門を鎖したとしても、等しくそれは自然な事である。そしてそれがそうでない時こそ却つて恐ろしく不自然である。彼等は各々自分自身の役割を持つて居る。そしてそれを換へる必要はないのである。ワグネルの不可思議な夢幻と、その内的生命の魔術的な直覺とは、現代社會の眞相を發き、且それ自らを覆ふて居る虚僞の帳を引き裂いた處の、トルストイの無慈悲な眞實に比較して、決して遜色のないものである。かくて予は「ジーグフリード」を愛すると同時に、トルストイの諷刺を喜ぶ。何となれば、予は彼の現實主義レアリズムの最も顯著なる特色の一であり、彼自らが云つた樣に、彼をして眞にルツソオを彷彿たらしめた處のその剛直なる皮肉を愛するからである。此の兩者は共に過度に純化されたる文明の代表者であり、そして共に自然への復歸を説く不屈の使徒である。
 トルストイの粗暴な挑戰は、ラモオの歌劇に對するルツソオの諷刺を思はしめる。彼はその「新ヌウベルエロイズ」の中で同じ方法を以て劇塲に於ける悲しく幻想的な演出を嘲つた。その時も亦、問題は怪物に就て、「獸類たるの精神を持たないサヺア人のが木偶でくのぼうによつて活躍された龍に」就てゞあつた。
 「彼等は自分に向つて、其處には樣々の物を動かす驚くべく多數の機械のある事を保證した。そして幾度かそれを見せやうと自分に云つて來た。併し自分は大なる努力でかち得た小さな効果に對して、少しも好奇心を持たなかつた。………空は、まるで洗濯屋の物干のやうに、棒や紐で支へられた或る紺色の襤褸で表はされて居た。………神は女神達の馬車は、丁度「ブランコ」の樣に、太い綱に吊られた枠の中の四本の桁で出來て居た。そしてその桁に一枚の板が渡されて、そこへ神が座つて居た。彼の前には顏料を塗りたくつた粗い布が一枚かゝつて居る。それは此の素晴らしい馬車が止まる爲めの雲の役目をするのである。………劇塲内には少さな方形の揚蓋が装置されて居た。それは必要に應じて開けられるのであつて、惡魔が穴倉から出られるやうにしてあるのである。惡魔が空中に飛揚しなければならない樣な塲合には、青い服装をしただんまり役者が、時には、彼等が勇敢にも襤褸の空へかくれてしまうまで、紐に吊られて空間にぶら下がつて居る、實際の煙突掃除人が代りをする。………

 「併し諧君は此の劇塲をゆする樣な叫びや吟り聲のわけがわからないに相違ない。………わけても一番不思議なの、之等の怒號が見物の喝釆のたつた一つの方法だと云ふ事である、彼等の拍手喝釆して居るのを見る人は、彼等が少し許りの鋭い響きでも聽きとる事を嬉しがったり、又、役者にもう一度すっかりやり直させたりするのを見て彼等を肓目の群だと思ふであらう。自分は之等の人々は丁度市塲で野師のする熟練した藝當に喝釆するやうに、劇塲で女優の金切聲に喝釆して居るのだと斷言する。――或る者は、それがやられて居る時ぴくゝゝして居る。併し或る者は、或る人がその歡喜を露骨に現はすやうな事件が起らずに、それが無事にすむだのを見で非常に喜ぶ。………之等の美しい音響に對して、丁度それも亦美しいものであるかのやうに、管絃樂の響きが極めて適當に混ざり込む。諸君は何等のメロディーもない樂器の止む時もない雑音や、長たらしく果てのない低音部のうめき聲や、自分が一度も聽いた事のない樣なこんなに苦し氣で退屈な事柄全體や、そしてそれがために自分が頭痛を起さずには半時間も居られなかつた樣な事を想像して見るがいゝ。之等悉くは、その特別な節や調子を持つて居ない點で、まるで單調な聖歌の合唱であつた。併し、若し偶然に管絃樂が少しばかりでも景氣のいゝ節を出さうものなら、もう一般的の足踏が初まる。そして諸君は土間全體が管絃樂の一人に連れて、辛うじて、併しやかましく運動を初めるのを見る。彼等は實際に不足して居る音調を僅かの時間だけ感じる事を歡びながら、いつでも彼等から免れやうとして居る樣な節を追ひかけてその耳を疲らせ、聲を疲らせ、手足を疲らせ、そして身體全體をつからせるのである………」

 予はラモオの歌劇の一つが彼の同時代者に與へた印象が、如何にワグネルによって彼の敵手に與へられたそれと似たものであるかを示すために、此の稍長い文章を引用した。そしてルッソオがトルストイの先驅であつた樣に、ラモオがワグネルの先驅であると云はれたのは理由のない事ではなかった。         
 實際では、卜ルストイの批評が向けられたのは「ジーグフリード」に對してではなかったのである。そしてトルストイは彼が考へたより遙かに此のドラマの精神に近かよったのであつた。抑も「ジーグフリード」は、直接自然から湧き上つた自由で健全な人間の英雄的化身ではなかつたであらうか。
 「自分の心の感激に從ふ事が自分の最高の法則である。此の本能に隨ふ事によって自分が成し能ふことは自分がしなければならない事である。本能の呼ぶ聲は呪ふべきであらうか、或は祝福すべきであらうか。自分は知らない。併し自分はそれに服從した。そして自分は決して我が意志に自分自らを叛かせはしないであらう。」
(「ジークフリードの草稿。」千八百四十八年記録。)

 ワグネルは、トルストイの採つたものとは全然異つた方法を以て文明と戰つた。そして若し兩者の効果が等しく偉大であるとしたならば、その實際の効果は、一面が平凡である樣に他の一面も亦平凡であると云はなければならぬ。
 トルストイの罵詈が、眞にその攻擊の的としたのはワグネルの作品ではなくして、彼の表現の方法にあつたのだ。舞臺の仕掛けの莊麗な事は少しも幼稚さを匿くすものとはならない。龍フアフナと云ひ、フタッカの牡羊と云ひ、熊と云ひ、蛇と云ひ、その他ワルハラ動物見世物メナージエリー小屋の全體は失笑を禁じ得ないものであつた。唯、予は斯う云ふ事を附け足して置きたく思ふ。龍を怖ろしいものとした失敗はワグネルの罪ではなかつた。彼は決して怖ろしい龍を晝かうとはしなかつたと云ふ事を。彼は自分の考へによつて、龍に對しては全然喜劇的の性質を與へたのである。本文と音樂とは、フアフナを一種の食人鬼、簡單な動物、就中滑稽なものとして居たのである。
 併し予は、此の舞臺上の寫實が、之等哲學的大夢幻劇に何ものかを附加したと云ふよりも、寧ろそれから何ものかを取り去つたと思はずには居られぬのである。マルヰダ・フォン・マイセンブックは予に次の樣な事を語つた。千八百七十六年のバイロイトの音樂祭の時、彼女が「指環」の舞臺をそのオペラグラスで非常に注意して觀て居ると、目の前に二つの手がかざされて、そして、彼女は急き込んで斯う云ふワグネルの聲を聽いた。「そんなに筋に氣をとられて居てはいけません! お聽きなさい!」………それはいい勸告である。音樂會で、その音が不完全な處の、ベートオフヱンの最後の作品を聽く最もいい方法は、耳をおさへて樂譜を讀む事だと云ふのは輕薄な人間の言葉である。吾人は、偏つた見解からでなく、ワグネルの歌劇の演出を觀る最良の方法は暝目して耳で聽くにあると云つても差支へはない。その音樂は之以上望む事の出來ない程にも完全である。想像の把握するものはそんなにも力強い。それが心に暗示する處のものは目が見るよりも一層限りなく美しい。予はワグネルの作品を最もよく鑑賞することの出來る處は、劇塲であると云ふ所謂ワグネリアンの説には一度も同意しなかった。彼の製作は史詩的交響樂サンフオニー、エピクである。其等の額縁ガードルのために予は寺院を望むであらう。そして舞臺装飾のためには我等の思想の無限の領土を、俳優等のためには我等の夢を擇ぶであらう。

     *

 「ジーグフリード」の序幕は四齣悲劇の中で最も戯曲的なものゝ一である。俳優に就ても、戯曲的効果に就ても、予はバイロイトに於てよりも完全に滿足を感じた事はなかつた。佛蘭西では見る事の出來ないアルベルヒやミメの樣な夢幻的の人物は、獨逸の想像力に底深い根を持つて居た。バイロイトの俳優は、その震へながら澁面を作る寫實主義レアリズムを以て、彼等に感動的な生命を與へる事で卓越して居た。「ジークフリード」で其の初舞臺をつとめたブルグスタルレルは、役の精神とぴつたりした猛烈な粗野を以て演じた。予は、彼がどう見ても扮装したとは思へぬ樣な妙味を以て、眞の勞働者の樣に働き、火を起して刀身を赤熱させ、それを湯氣の立つ水の中に浸けて鐵床の上で仕事をし、そしてやがてホーマー的の快活さの爆發の内に、バッハ又はヘンデルの歌の樣に響く序幕の終りの美しい歌を歌つた、かの半神的英雄である鍜冶工を如何に巧みに演じたかを記憶して居る。
 併し之等一切の事にも拘らず、それは夢想するか、或は音樂會で此の若々しい魂の詩を聽く事の方が遙かによかつたのである! わけても第二幕に於ける森林の不可思議なる囁きが、如何に最も直接に予が心に物語る事であらう! 林の中の空地や森林の光景がどれ程詩的であらうとも、又は、樹々の間に降り灑がれる光線が、今は吾々の劇塲で宛もオルガンの複雑な鍵の樣に使はれて、如何程巧妙で變化に富むで居やうとも、顫へる樣な幾千の囁きを持つ樹々の動搖を、大地のかすかな響を、葉ずれする風の響を、聽き知らぬ聲を天空の逶明な無限の底にたゞよはす小鳥等の幻の歌を、見えざる生命に動く沈默を、神祕の微笑を以て自然の母の腕に抱かれながらの此の聖らかな眠りを、之等凡て輝く夏の日中の音樂を、目を見開いて聽くと云ふ事は恐らく謬りでなければならぬ。ワグネルは「トリスタンとイゾルデ」の葬禮の船に乘り込むために、ジーグフリードを森の中に眠つたまゝに殘した。併し彼は斷膓の悲哀を以て彼と別れたのであつた。
 「私は若いジーグフリードを寂しい森の奥に連れて行つた。其處で彼を菩提樹の陰にのこして、私は目に涙をためて別れを告げた。私は自分自身に對する苦しさにつかれてしまつた。彼を生きたまゝで埋める事は私の心を引き裂くやうであつた。そしてそれをするまで、私は自分の内に、苦しく痛ましい闘いを經驗した。………いつか私は彼の處へ歸つて行くであらうか? 否。それは終つたのだ。二度とその事を話してはならないのである。」

  (1)千八百五十七年六月廿八日ワグネルよりリストへの手紙。

 ワグネルは悲しむべき理由を持つて居た。彼は、ジーグフリードを再び永遠に見ない事をよく知つて居た。彼は十年を經てから彼を目醒ませた。併し凡ては變つた。優秀な第三幕は最初の二つの新鮮さを失つて居た。ウォータンは主要な人物となつた。そして戯曲の中に、理性と厭世思想とを齎した。ワグネルの高貴の思想は或は一層高くなり、そして一層彼自身の主となつたかも知れない。(ブリュンニルデの目醒めは古典的の威嚴を持つ。)併し青春の熱情と豐富さとは去つてしまつた。予は此の事が多くのワグネルの讃美者の意見でないと云う事を知つて居る、併し若干の、崇高な美しさを持つた頁を除いては、予は「ジーグフリード」の終りと、「神々の曙」の初めとの愛の塲面を好まなかつた者である。予はそれ等の内に誇張と詠嘆とを見た。餘りに過度にされた洗練が、それを平凡なものにした。合奏曲の形式中には、疲勢し、且斷片的にされたものがあつた。「ジーグフリード」の最後の頁にある重苦しさは同じ時代の「名歌手」を思はせる。それは決して、最初の幾幕に見られる處の歡喜と同じものでもなければ、亦、その歡喜の性質を同じくしたものでもなかつた。
 その事はどうでもいゝ! それは喜悦である。そして作品に對する最初の感動は、その光明が年月によつて曇らされなかつた程輝かしいものであつたのだ。人は「ジーグフリード」の終る事を望み、そして陰慘な「神々の曙」を免れる事を望むであらう。奥底から動かされる樣な眞率な心を持つた人々にとつて、四齣悲劇の悲しき第四日はどんなに重苦しいものであらう! 予は「指環」の最終の時流れ出した涙を、そして予等がバイロイトの劇塲を後にして夜の丘を降つて來た時一人の友達の斯う云つた言葉を覺えて居る。「此の感じは丁度僕が愛して居た者の葬式から歸る時の樣な感じだ。」それは本當に葬禮である。そして尚斯の如き終末――宇宙的の死――に對して斯の如き紀念碑を打建てると云ふ事には、或ひは、權衡を失したと思はれる或るものがあるかも知れない。又は少くともその全體を芝居や教訓の目的物とする事には。「トリスタン」は一層の力強さを以て同じ終局に達した。何となればそれは一層簡明だつたからである。そればかりでなくその終りは緩和されて居た。「トリスタン」に於て、生は憎むべきものである。併しそれは「神々の曙」に於ては同じではない。何となればジーグフリードとブリュンニルデとの上に置かれた呪詛の不合理であるにも拘らず、彼等の生は、彼等の戀愛が可能である事によつて、幸福であると共に願はしいものである。かくて死は莊麗な、併し畏るべき終局カタクリズムとして現はれる。そして人は「指環」が「バルジフアル」の樣に棄世と犠牲とを息づいて居ると云ふ事を辛じて云ふ事が出來る。棄世と犠牲とは、只此處でのみ云はれる。ブリュンニルデを火葬塲に驅りやつた最高の興奮にも拘らず、それは神來でもなければ、勸喜でもなかつた。人は彼の脚下に大なる深淵が口を開き、そして彼の愛する者等が其處に落込む有樣を見る悲痛の情を經驗する。
 予は「ジーグフリード」に就てのワグネルの最初の勸念が、年月の流れと共に變化して行つた事を屢々殘念に思つた。そして(眞の悲劇がジークフリードの死と共に終りを告げるが故に、それは音樂會の中でこそ一層効果のある處の)「神々の曙」の大詰の壮大であるにも拘らず、予は遺憾の念を以て此の千八百四十八年の革命から生れる一層樂觀的な詩が、如何に美しいもりであつたらうと思はずには居られないものである。「それではその生活に就て眞實ではなかつた事になる」と或る人は云ふ。併し人生の惡の方面のみを書く事が、何故により眞實な事になるのか? 人生は善でも惡でもない。それは吾々の作る處のそれである。そして吾々の見る處のそれである。歡喜は悲哀と等しく眞實である。そして涸れる時のない活働の源泉である! 抑も幾何の慈愛が偉大なる人の笑いの中に現はれて居る事だらう! 光輝ある、そして暫しの快活を迎へやうではないか!
 ワグネルはマルヰダ・フオン・マイセンブツクに書いた。「私は偶然に又プルタークのテイモレオンの一生を讀みました。その一生は稀有な、曾て耳にした事のない樣な事柄で、非常な幸福の中に終つて居ます。それは歴史の内でも特別な塲合です。それは能く人々に、此の樣な事柄も可能だと云ふ事を思はせるに足るものです。私は深い感激に打たれました。」と。
 予も亦「ジーグフリード」を聽きながら同じ感激に打たれた。――偉大なる悲劇的藝術の内にあつて、殆んど比類なきまでに斯くも有盆で斯くも超凡なものは、此の幸福な演劇でこそあつたのだ!

 

《「トリスタン」》

 「トリスタン」は、宛もワグネル自身が彼の世紀のあらゆる藝術家等の中で一頭地を拔いて居た樣に、あらゆる戀愛の詩の中にあつて、高嶺の樣に聳えて居る。それは崇高な力の紀念である。それは完全な作品ではない。完全さは非常に缺けて居る。完全な製作とは、彼ワグネルには無かつたものである。其等を創造するに要した必要なる努力は、永く堪えて行くにしては大に過ぎた。一の單なる製作と雖も勞苦の幾年かを意味して居たからである。戯曲全體に溢れて居る此の緊張した感情は、思ひつくと同時に實現される樣な、そんな突然の神來によつて出來上るものではなかつた。永い間の、そして慘憺たる勞力が必要とせられる。英雄的な力と、爛熟した複雑さとを持つ此のミケルアンジヱロを思はせる巨人や暴風の生命は、彫刻家や畫家の製作の樣に、彼等の動作の一瞬間に定著して終ひはしなかつた。それは彼等の感覺の無限の細部の内に生き、生きることを續け、そして生きることを見るのを續けて行く。一樣の神來を期待することは、人間的でないものを期待することである。天才は神聖なものを示すことが出來る。そして「母ラ、メール」を喚び起し、垣間見ることも出來る。併しそれは呼吸すべからざる此の世の中に住むことは出來ない。それ故意志は、よしその本務に於て不確かであり、又屢々變り易いものであらうとも、時には神來にとつて代らなければならない。吾人が偉大なる作品の中に、軋轢し衝突する處のものを見るのも此の故である。そしてそれは人間の弱さの證據である。然り恐らくは「トリスタン」の内には、ワグネルの他の戯曲、例へば「神々の曙」等に比してその弱さは遙かに尠いであらう。何となれば彼の天才の力が之れ程勇敢であり、その高颺が之れ程目くるめく高さに逹したものはどこにも見出されないからである。ワグネルは彼自身よく此の事を知つて居た。彼の手紙は、再び失ふたがためにのみ摑み、且抱擁する處の憑きも物デモンと格闘する、此の靈魂の絶望を示して居る。そして吾人はそこに苦痛の叫びを聽き、彼の憤怒と絶望を感ずる心地がする。
 「私は自分が如何に實際情けない音樂家であるかを君に話す事が出來ない。私の心の底で、私は自分が不器用な人間(Stümper)であり、救はれない失敗者と云ふ事を知つて居る。君は私が「やらなければならない」と云ひながらピアノの前に座り、そしてやがては私が白痴の樣に投げ出してしまふ見るも哀れな切屑(Dreck)を組み合せる時、私の云ふ意味が分るだらう。私は自分が製作した物がどんな種類の音樂的廢物(Lumpenhaftigkeit)であるかを熟知して居る。………私を信じて下さい。端麗なものを製作する事を私に望むのは間違つて居ます。私は時々、本當に私に「タンホンゼル」と「ローエングリン」を書くやうに靈感を與へたのはライツシーゲルであつたと思ふ。」

 之はワグネルが此の驚嘆すべき製作を終つた時、リストに訴へて書いたものである。同じ樣にミケルアンジエロも千五百九年に其の父に書いた。「私は苦しんで居ます。私は法王に向つて何を要求する勇氣もありません。私の仕事がどんな報酬に値する程な充分な進歩をもして居ないからです。その仕事は餘りに困難である上、實際には私の本職ではありません。私は自分の時間を目的なしに浪費して居るのです。神が私を助けて下さる事を!」一年の間、彼はシクステインの天井で仕事をして居たのである。
 之は謙遜の爆發より以上のものである。何人と雖もミケルアンジエロやワグネルに上越す誇りを感じ得る者はない。併し彼等二人は共に鋭い手傷の樣にも、その製作の短處を感じた。そしてよしや之等の短處が彼等の製作をして人類精神の光榮たる事を妨げないとしても、尚彼等は等しくそう感じたのである。
 予はワグネルの演劇に個有な短處を注視しやうとは思はない。彼等は眞に動作で現はす事難く、演劇としては何物をも得る處のない戯曲的で史詩的な交響樂である。描寫された感情の嵐の中の不釣合、舞臺上の冷やかな因襲と科介の強められた怯懦、凡て或る瞬間に於て、例へば第二慕に於て――斯の如きものを持つ「トリスタン」にあつては、特に如上の事が感じられる。それは人の心を痛ましめ、打ち顫はせ、そして殆んど奇怪なものに感じさせる。
 併し「トリスタン」が演劇には不適當な、一のスィンフォニーである事を認めると同時に、吾人は尚その缼點を見る。就中、その不均齊な點を見る。序幕の管絃樂は寧ろ屢々稀薄であり、その樂想は堅固さを缼いて居る。そこには罅隙と測り知れぬ空洞とがある。そして喨々たる旋律の線は高く空間に張られたまゝである。始めから終りまで叙情的な曲調の熱情は朗誦デクラマシオンによつて破壊されて居る。更に惡く辨説デイセルタシオンによつて破壊されてゐる。狂亂した熱情の旋風は、説明や論議の吟唱曲に席を譲るために突然に止むで終ふ。そして、よし之等の吟唱曲が殆んど常に一の大なる浮彫であらうとも、よし之等の形而上學的夢幻樂が、人々の喜ぶ樣な兇猛な巧智の性質を持つて居やうとも、而もこの詩的な音節と、純粋な感情と、清澄な音樂との優秀さは、此の音樂的で哲學的な戯曲が、吾人に向つて、哲學、戯曲、その他音樂を束縛し監禁するあらゆる物に對する、嫌厭の情を起さしめるに足る程にも明瞭な事實である。
 併し「トリスタン」の音樂的の部分は、作品全體として缺點を脱しては居ない。それは同時に統一を缼いて居るからである。ワグネルの音樂は實際樣々の形式から成つて居る。人はその中に伊太利風、獨逸風、時には各種の佛蘭西風ガリシズムの形式をすら發見する。そこでは崇高なものが平凡なものと一緒になつて居る。そして時々吾人は彼等の相互關係の見苦しさと、その形の不完全さとを感じる。そして又時には同一の根底から發する二樣の樂想が一緒に來て、その對照を餘りに強からしめるために彼等が互ひに損ひ合ふ事もある。聖盃グラアルの騎士の化身であるマルク王の美しい嗟歎は、二部合奏の噴㷔の後その澄み切つて冷やかな光明が全く消え去つて行く程にも、しかく深味のある節度と、しかく物質的効果を無視した方法とを以て取扱はれて居る。
 作品は釣合の不足に依て、到る處で惱んで居る。それは、作品の莊大さから來る殆んど避くべからざる缺陷である。凡庸な作品は全く容易にその外觀に於ては完全である事が出來る。併し高い望みを持つた作品が完全の域に達すると云ふ事は罕である。小さな谿谷や微笑する草塲の風景は、目に眩ゆいアルプスや、急流や、氷河や、暴風の光景よりも一層容易に調和を齎す事が出來る。何となれば恐るべき感情の高潮は、時には畫面を重壓し、時には調和を傷けるからである。そして此の事は「トリスタン」の或る大なる頁に就ても同樣である。吾人はその例證として、身を灼く樣な期待を、――第二幕に於ける情慾に充たされた夜のイソデルの期待を、そして第三幕に於ける、手傷に横はつて狂ひながら、イソルデと死とを齎らすべき船を待ちこがれる「トリスタン」の期待を擧げ、或は又、その無限の情慾が靜まる時なき海の樣に永遠に哀哭し、そしてその身を岸に打ちつける處の、かの序樂を擧げる事が出來る。

     *

 「トリスタン」の中で最も深く予の心に觸れる本質は、彼の敵によつて、公衆の眼を奪つたり喜ばせる爲めに浅薄で粗大な物質的方法を用ふる野師シヤルラタンとして取扱はれた處の人間が、その心内に持つて居る明白な正直さと眞面目さである。抑もどんな戯曲が、「トリスタン」に比して一層外見的な効果を等閑に附し、それに對して謹み深いものであるだらう! その抑制は殆んど多きに過ぎる程にも行はれて居る。ワグネルはその戯曲に於て、彼の主題に關係のない美景や、挿話を凡て排斥した。彼の意想の動くまゝに、或る時は「ワルキューレ」の嵐を暴れ立たせ、又或る時は聖金耀日ヷンドレデイ・サンの柔かな光力を輝かせた人は、序幕に於て船を取り卷く大海の片影をすら描寫しなかつた人である。彼がそうする事を望むで居ながら、而かもそれを犠牲にした事を信じるがいゝ。此の反覆した戯曲を、悲劇の室の壁の内に包容する事が彼を喜ばせた。そこにはどんな合唱もない。人間の靈の神秘から吾人の注意を引き離すやうな何物と雖もない。そこには只二つの人物があるのみである。戀する二人である。そして若し第三のものがあればそれは運命に屬するものである。二人の者が生贅としで受け取られたその運命の手に屬するものである。運命。何と云ふ驚嘆すべき威嚴が比の一戀愛戯曲の中にある事だらう! その熱情は陰暗で而かも嚴格である。そこには笑ひはない。唯、宗教的とも云ふべき信仰があるのみである。そしてそれはその誠實に於て「バルジフアル」のそれよりも或は一層宗教的なものであるかも知れぬ。
 彼の取り扱ふべき主題を、二個の生ける心靈の内面生活の上に全く集中するために、輕佻で些々たる、そして空虚な挿話を抑制した人間を見る事は、世の戲曲家にとつて一の教訓である、此の點に於てワグネルは我等の師である。而かも彼の誤謬にも拘らず、かれはその時代の他の凡ての文學、或は戯曲家に比して吾人が學ぶに足る處の一層善く、一層強く、そして一層有益な師である。

     *

 予は其の批評が、是等の註解の内に、予が爲さうと試みた處のものよりも更に大なる塲處を占めた事を知つてゐる。併しそれにも拘らず予は「トリスタン」を愛する。數年に旦つて、我等及び我等の時代の人々に對して、抑もそれは如何に酩酊的な飲料であつたであらう! その壯麗さは些かでも失はれたであらうか? 否。それは永く完全なものとして存在する。「トリスタン」はベートオフェン以後、最も高い藝術の絶巓として存して居るのである。
 併し或る夕、予はそれに耳を傾けながら、斯う思はざるを得なかつた。「あゝワグネル。君も亦何時かは行つてしまふであらう。そしてグルックやバッハやモントヴェルディやパレストリーナや、その他凡てその名は今も尚我々の内に生きながら、而もその思想は、徒らに過去の反覆に努める一掬ひの初歩の音樂家によつてのみ感じられる處の、大なる心靈と手を握り合ふであらう。たとへ君は我等の青春の確固たる光明であり、其處から我等が道德精神と世界に對する抵抗力を引き出す處の、生と死の、慾望と抛棄との力強い源であるとしても、君も亦既に過去の人である。そして常に新たなる醒覺に飢えてゐる世界は、その慾望の止む時もない干滿二樣の潮流の中にあつて、その行くべき道に進み入るであらう。その思想は既に變化した。そして新時代の音樂家は未來のために新らしい歌を作つてゐる。併しそれは君と共に過ぎ去つた暴風雨の一世紀の聲である」と。

 

 

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 カミーユ・サンサンス (一八三五)

 

 サンサンス氏はその生存中にクラシックになると云ふ稀有な名譽を擔つた。彼の名は長い間知られなかつたにも拘らず、今やその完全な藝術と同樣にその價値ある性格によつて世界的の名聲を支配して居る。如何なる藝術家も彼程公衆に就て惱まなかつた者はなかつた。そして又、それが通俗なものであつたにしろ、或は老練なものであつたにしろ、批評と云ふものに對して彼にも増して冷淡であり得たものもなかつた。子供の時、彼は外的の成功に對して一種の反感を持つて居た。 
       "De l'appalaudissement
 J'entends encor le bruite qui, chose assez etrange,
 Pour ma pudeur d'enfant etait comme une fange
 Dont le flot me venait toucher; je redautais
 Son contact, et parfois, malin, je l'evitais,
 Affectant la raideur."(1)


  (1)「喝釆と云ふものから私は今も尚喧騒を聽く。不思議にもそれは私の幼ない恐怖の内に自分を汚す泥土の樣に見えた。私はそれに觸れる事を恐れた。斯くてひそかに傷ましい偏執を以て自分はそれを避けて居た。」
 之等の詩は、彼の千八百四十六年の處女演出の五十回記念を祝ふために、千八百九十六年六月十日サル・プレヱルで開かれた音樂會で、サンサンス氏の朗讀したものである。彼が最初の音樂會を開いたのも此のサン・プレヱルであった。

 遂に長い傷ましい戰ひの末、彼は成功を獲得した。そこでは彼は「彼に最も烈しい苦痛を與へるために懲罰としてベートオフヱンのスインフォニーを聽く事を(」宣告した樣な愚劣な批評に對して戰はなければならなかつたのである。しかも此の事の後で、そしてアカデミーへの通過の後で、「ヘンリー八世」と「サムフォニー・アヹック・オルグ」(オ1)ルガンを伴奏とせるスインフォニー)の後で、彼は尚賞讃と批難の外に立つて居た。そして悲しき嚴格さを以て自らの捷利を判斷した。

        "Tu connaitras les yeux menteurs, l'hypocrisie
        Des serrements de mains,
        Le masque d'amitié cachant la jalousie,
        Les pâles lendemains

        "De ces jours triomphe où le troupeau vulgaire
        Qui pèse au même poids
        L'histrion ridicule et le génie austère
        Vous mets sur le pavois." (2)

  (1)サンサンス著、「ハーモニーとメロディー」千八百八十五年。
(2)サンサンス著、「我が韻文」千八百九十年。
 「君は知るであらう。佯りの眼を、手の抑壓の虚僞を。嫉妬をかくして居る友情の假面を。勝利の日々の退屈な翌日を。凡俗の賤民が名譽を以て君が頭を飾る時。貴い天才の功業を道化者の頓智と同じものに考へる時。」

 サンサンス氏は今や老境に入った。そして彼の名聲は外國へまで擴がつた。しかも彼は弱らなかつた。左程久しくない以前、彼は一人の獨逸新聞記者にこう書いた。「私は賞讃と批難とに就ては少しも注意を拂つて居ない。それは私が自分の功績(それは馬鹿氣た事である)に對して高い觀念を持つて居るからではなく、自分の仕事をしながら、そして自分の天性の仕事を遂行しながら、宛も林檎の樹が林檎の實を結ぶ樣にしながら、他人の意見のために自ら苦しむ事を私が必要としないからである。(1)

  (1)レギン氏への手紙。千九百一年九月九日、伯林「ベルゼン・クーリヱル」の通信。

 斯の如き獨立性は如何なる時代に於でも罕である。しかも公衆の意見の勢力が暴君的な吾人の時代にあつては非常に罕である。そして尚、藝術家なるものが他國に比して一層社交的な佛蘭西にあつては、最も罕なものである。藝術家の樣々の素質の中で之は又最も珍貴な素質である。何となれば、それは彼の性格の基礎を固めるものであり、又彼の良心と固有の力との保證だからである。それ故、直ちに光明裡に置かれなければならない。

     *

 藝術に於けるサンサンス氏の意義は二樣の性質を持つて居る。從つて人は、佛蘭西の外面から批判すると同時に、彼を内面から批判しなければならない。彼は佛蘭西音樂にあつて例外な或るもの、最近に至るまで殆んど獨特な或るものを代表して居る。即ち大古典的精神と音樂的教養の快美な空氣である。吾人はそれを、全くこの現代藝術の基礎が獨逸のクラシックに立脚して居る事によつて、獨逸的教養と呼ばなければならない。十九世紀の佛蘭西音樂界は、怜悧な藝術家、想像的なメロデイーの作家、そして熟練な劇作者に富むで居た。併し眞の音樂家、善き且堅固な作家には乏しかつた。二三の著しい例外を別にして、我國の作曲家等は作曲を娯樂と考へ、そしてそれを思想の特殊な形式と考へずして文學的観念の一種の装飾と見做す能才の好事家の樣な傾向を著しく持つて居た。吾人の教育は淺薄なものである。それは数年間にして音樂院で得られるものであつて、しかも國民全體に及ぶものではない。小兒は、文學或は雄辯の空気を呼吸する樣には、彼の周圍の音樂を呼吸しない。そして佛蘭西に於ける殆んで全ての人々が、美しい著作に對して本能的な感情を持つて居るにも拘らず、極めて少数の人々しか美しい音樂に注意して居ない。此の點から吾人の音樂の一般的な誤謬と破産は起る。それは一の贅澤な藝術として安置された。獨逸音樂の樣に、民衆の思想の詩的意現とはならなかつたのである。
 之を成就する爲めには、吾人は佛蘭西にあつて極めて單なる状態の團結を必要としなければならない。尤もかゝる状態がカミーユ・サンサンスをして今日あらしめるに役立つたものではあつたが。彼は驚嘆すべき天與の才能を持つて居たばかりでなく、彼の教育に献身的であつた熱心な音樂家の家庭から生れた。五才の時彼は「ドン・ファン」のオーケストラの樂譜で薫陶された(1)。小供の時彼は
  "De dix ans, d'elicat, frêle, le teint jaunet, mais confiant, naif, dlein d'ardeur et de joie."(2)
「公開の音樂界で演奏しながら、自分をベートオフヱンやモツアル卜に思ひ比べた。そして十六の時には「第一スィンフォニー」を書いた。成長するにつれて彼はバッハとヘンデルの音樂に浸つた。そしてロッシーニ、ヹルディ、シューマン、ワグネル(3)等の手法に倣つて自由に作曲する事が出來た。彼は樣々の形式の作曲をした。希臘の形式のものを。十六世紀、十七世紀、十八世世紀の形式のものを。彼の作曲は多樣である。――彌撒ミサ、歌劇、喜歌劇、カンタタ、スィンフォニー、交響樂詩、オーケストラの爲めの音樂、オルガンやピアノの音樂、聲樂、そして室内音樂。彼はグルックとラモオの學識ある編纂者である。そして之を以てしても彼が單に一個の藝術家であるのみでなく、彼の藝術に就て語り得る藝術家だと云ふ事が出來る。彼は佛蘭西では罕な人物である。――人は彼の郷國を佛蘭西よりは寧ろ獨逸に見出すと考へるであらう。

  (1)サンサンス著。「シャルゝ・グノーとモツアルトの「ドン・ファン」千八百九十四年。
(2)十歳にして虚弱で蒼白く、しかし單純な自恃と喜悦には溢れて居た」。(「我が韻文」)
(3)シャルゝ・グノー著。「藝術家の記憶」千八百九十六年。

 獨逸は、併しながら、彼を見誤る事はなかった。そこではカミーユ・サンサンスの名は佛蘭西の古典精神として考へられ、ベルリオの時代から、セザール・フランクの若き一團の出現に到るまでの吾人の音樂を代表する、最も價値ある者として考へられて居る。――フランク自身は未だ獨逸ではよく知られては居ないが。――サンサンス氏は、實に、佛蘭西藝術家の最善の素質を持つて居る。そしてその中でも最も主要なものは思想の完全なる明晰さである。此の學殖ある藝術家が、彼の學識によつても殆んど煩はされて居ないと云ふ事は、そして、彼が一切の衒學から脱却して居ると云ふ事は、注意すべき事柄である。衒學は獨逸藝術の禍患である。そして最も偉大なる人々もそれを脱し切つては居なかつた。予はその爲めに荒むだブラームスに就ては云はない。しかもそれはシューマンの樣な愉快な天才や、バッハの樣な力強い天才にあつてすらそうであつた。「此の容態ぶつた藝術は、小さな田舎の都會の有難さうな客間に似て人を退屈させる。それは人を息づまらせる。そして殺す事をさへ仕兼ねない。」「サンサンスは衒學者ではない」とグノーは書いて居る。「彼は余りに子供でありすぎた。そしてそれに對して余りに總明になりすぎたのである。」しかも先づ彼は、常に余りに佛蘭西人であり過ぎたのだ。
1、ヱドモン・イッポーによつて引用された「ヘンリー八世と佛蘭西歌劇」の一節である。サンサンス氏は「之等のよく書かれた併し重苦しくつまらぬ作品、そして退屈な方法で獨逸の一小都會の狭いベダンテイツクな精神を映した之等の作品」に就て到る處で語つて居る。(「バーモニーとメロディー」)

 サンサンス氏は予をして時に我が十八世紀の作家の一人を思はしめる。それは百科辭典アンシクロペティの一學者でもなければルッソオの徒黨の一人でもなく、寧ろヴオルテール派の者である。彼は思想の明晰さを持つ。表現の端麗と精確とを持つ。そして彼の音樂を、「單に高尚であるのみでなく、宛もそれが優美な民族、俊秀な家庭から出現したかの樣な、極めて高尚なもの(1)」にする心の品性を持つて居る。

  (1)シャルゝ・グノー著。「サンサンスの「アスカニオ」千八百九十年。レギン氏への手紙。

 彼は又優れた一種の冷静な認識力を持つて居る。そして「その精神に於て温和で想像を抑制し、最も激動した感情の唯中にあつてさへも自己の支配力を持つ事が出來る(1)」此の認識力は、思想の陰暗と神秘とに近いものゝ敵である。そして所産はかの不思議な書物「問題と神秘プロブレム・エ・ミステール」である。――その題名は當を得たものではない。何となれば、理知の精神はそこを支配し、若い人々に向つて、「北方の雲霧、スカンディナヴィアの神々、カトリックの奇蹟、ルールド、降神術、秘學ヱソテリズム、絶智學アノフイグリズム」に對して「脅しの世界の光明(2)」を保護する樣に訴へて居るからである。

  (1)グノー著。「サンサンスの「アスカニオ』
(2)サンサンス著。「問題と神秘」千八百九十四年。

 彼の自由に對する愛と要求も亦十八世紀のものである。自由は彼の唯一の熱情だと云ふ事が出來る。「自分は熱烈に自由を愛する」と彼は書いた(1)。そして彼は、藝術批判の絶對な大膽さを以てそれを實證した。彼はそこでワグネルに對する嚴しい論究を示したばかりでなく、敢てグルツクとモツアルトの弱點を批評し、ウエーベル、ベルリオの誤りを指摘し、そしてグノーに對する厚意ある意見を發表した。その上バッハに心酔した事のある此の古典主義者は、「今日に至つてバッハやヘンデルの作品を演出するのは怠惰な娯樂」であつて、彼等の藝術を復活させやうとする人々は「丁度幾世紀も人の住まなかつた家に住まはうとする人間」に似て居ると迄言及するに至つた。彼は尚も進んで、彼自身の製作を批評し、自己の意見と撞着してしまつたのである。自由に對する愛は彼をして、同一作品に向つて、その時々に違つた意見を作らせた。彼は、精神はその意見を變更する権利を持ち、必要に應じてはそれ自身欺く権利を持つとさへ考へた。彼にとつては、首尾貫徹の奴隷となるよりも、直摯な誤謬を受け入れる方が一層善い事の樣に思はれた。そして此の現象は藝術以外のものにも現はれたのである。彼が若い友に宛てゝ、余りに窮屈な嚴格さに捉はれぬ樣に勸告して居る詩に現はれた倫理學に於ても。
  "Te sens qu'une triste chimère
  A toujours assombri ton âme: La Vertu......"(3)
 或は彼が思想の落付いた自由を以て、宗教、信仰、福音を論じて、道德と社會との基礎を、唯、自然に求めて居るその哲學に於ても。

  (1)「ハーモニーとメロデイー。」
(2)サンサンス著。「肖像と回想」千九百年。
(3)「德と云ふ憐れむべき怪物が、常に卿の魂に暗い影を投げて居る事を私は知つて居る。」(「我が韻文」)

 此處に「問題と神秘」から摘録した彼の思想の一片がある。
「科學が進歩する時、神は後退する。」
「霊魂は、單に思想の表現の一導體に過ぎない。」
「活動の抑制、性格の萎縮、死の苦痛の下に幸福を分つ事。之即ち福音書が社會の基礎に就て説く處のものである。」
「基督教の德は、社會的の德ではない。」
「自然には日的がない。それは無終の圓である。そして我々を何處へも導きはしない。」

 彼の思想は何等の拘束もなく、人道に對する愛と、個人の責任觀念とに溢れて居た。彼はベートオフヱンを、彼が宇宙的な友愛の意志を高揚した點で、「最大なる者。眞に偉大なる藝術家の唯一の者」と呼んだ。彼の心は、哲學に就て、劇塲に就て、古代の繪畫に就て(1)、同樣に科學的論文(2)、數卷の詩集、そして脚本(3)すら書いた程博大なものであつた。彼はあらゆる種類の事柄を――予はそれが何れも同等な技倆を以てなされたとは云はないが――その認識力と理想的な才能を以て取り上げる事が出來た。彼は藝術家の間に、先づ第一に音樂家の間に、稀有なる意力の典型を示した。彼が宣言しつゝ自分も亦それに從つた二個の原則は、「あらゆる誇張から脱する」事と、「汝の心の健康を確固として保有せよ(4)」と云ふ事であつた。之等のものは確かにかのベートオフヱンやワグネルの原則ではなかつた。そして恐らく之に適應する前世紀の著名な音樂家を見當てる事も困難であらう。サンサンス氏の特色のある點は、彼の内なる不完全さに存すると云ふ事を、何等の註釋の必要もなくそれは自ら語つて居る。彼は如何なる熱情にも悩まされなかつた。どんなものも彼の理性の明徹を曇らす事はなかつた。「彼は何等の偏見も持たない。何ものにも左袒しない(5)。」――人は、彼が、自己の意見を變更する事を恐れないのみか、彼自身をすら變更して恐れないと云ふ理由で、次の樣に附加へる事が出來る。――「彼は何の改革者にも滿足しない。」と。彼は全く獨歩である。或は、殆んど余りに獨歩でありすぎる。時には自分がその自由を以て何を爲すべきかを知つて居ない樣に見える事がある。予は、ゲーテならば、彼は少し「惡魔」に不足して居る、と云ふだらうと思ふ者である。

  (1)「羅馬古代の劇場装飾に關する記録ノート・スユール・レ・デコール・ド・デアトル・ダン・ランチケ・ロマン」サンサンス著。千八百八十年。彼はそこでポムペイの壁畫を論じて居る。
(2)千九百五年、佛蘭西の天文學會で行った蜃氣樓の現象に關する講演。
(3)サンサンス著、「著者の痙攣ラ・クランプ・デ・ゼクリヴン」
(4)「ハーモニーとメロディー」
(5)シャルゝ・グノー著。「藝術家の記憶」 「ハーモニーとメロデイー。」

 彼の最も獨特な精神的特色は、その根源を無ネアンの苦痛の感情(1)に置いて居る物惓い憂欝にある樣に見える。そしてそれは、全く不健全な倦怠を伴つて、その後に移り氣な氣分と神經質な快活、そして氣違ひじみた曲と物眞似とに對する気随な嗜好を從へたものである。彼に、ブレトンやアウヹルニアのラプソディーを、ペルシアの歌を、アルゼリアのスィートを、葡萄牙の船歌バルカロールを、丁抹、露西亞、アラビアの漫想樂キヤブリースを、伊太利の記憶を、アフリカのファンタジアを、そして埃及のコンチヱルトを書くやうな世界に突進させたのは、彼の熱烈で動搖する精神のなす處であつた。そして同樣に、彼は希臘の悲劇を書き、十六世紀十七世紀の舞踏曲を書き、十八世紀のブレリユードとフユーグを書いて各時代を遊歴した。併し彼の興味が彷徨した之等の時代と國々の異國的で古代的な反映の中に、人は、彼の旅行の間に徒らにその嗜好にみ從つて、彼の相會した人々の精神に深く交渉する事をせず、出來るだけ樣々のものを拾ひ集めてそれを佛蘭西らしいものに複製する點で、かのヴェロナをポアディヱに比べ、バデヱアをボルドーに較べた處の、そしてフロレンスに在つた時、「非常に不思議な形をした羊、大きなマスティツフ犬程の大きさで、その形は猫に似、そして黒と白の鎬のある、虎と呼ぶ動物」に對して、ミケルアンジヱロに對してよりも遙かに多くの注意を拂つた處の、かの伊太利に於けるモンターニユに做つた、快活で怜悧な佛蘭西人の俤を認めるであらう。

  (1)「時」「轡」「謙抑」(「我が韻文」)

 純粹な音樂的見地から見る時、サンサンス氏とメンデルスゾーンとの間には或る類似がある。兩者の内に、吾人は同じ智的抑制と、彼等の作品の異種の要素の中にある、保留された同一の平衡とを發見する。勿論之等の要素は兩者共に共通ではない。何となれば、彼等が生きて居る時代、郷国、そして周圍が同じではないからである。そして又、彼等の性格にも大なる相違がある。メンデルスゾーンは一層豪放で一層宗教的である。サンサンス氏は一層衒學的で一層官能的である。彼等が趣味の共通な純粹さと、リズムの智識、そして彼等が新古典的性質を書くに用ひたその手法に於ける天稟によって善き件侶である時、相互の學識によつては、それ程精神上の同族だとは云へないのである。
 サンサンス氏に直接に影響したものに就ては、予がそれを指摘するに困難を感じ、且、寧ろ大膽な事だと思ふ程枚擧に暇ないものがある。彼の驚嘆すべき同化の能力は、彼をして屢々ワグネルやベルリオ、ヘンデルやラモオの、又はルリやシヤルパンシヱヱの、或は――その歌調を彼が全く自然に「ヘンリー八世」の音樂に移した――ウィリアム・バードの樣な、十六世紀の英國の、或るハープシコードやクラヴィコードの樂手の形式にさへも傚つて書く事をさせた。併しながら吾人は、之等は愼重な摸傚であり、サンサンス氏が自己を決して欺かなかつた處の、好奇の慰みだと云ふ事を忘れてはならない。彼の記憶は欲するがまゝに仕へた。併し彼はそれがために曾て煩はされた事はなかつた。
 吾人の理解が及べば及ぶだけ遙かに、サンサンス氏の音樂的意想は、十八世紀の終りに屬する大古典派の精神に注がれたのである。人が何と云はうと、更に遙かに、バッハの精神よりもベートオフヱン、ハイデュン、モツアル卜等の精神に注がれたのである。シューマンの魅力も彼の上にその痕跡を残した。そして彼は又、グノー、ビゼー、ワグネルの影響を感じた。併し最も強大な感化は彼の友であり師であるベルリオ(1)のそれであつた。そして尚凡てに拔んずるものはリストの感化であつた。吾人は此の最後の名を以て止めなければならない。

  (1)「私の凡ての發生が形作られ、且それが善く形作られたのはベルリオのお蔭であった。」(「肖像と回想」)

 サンサンス氏がリストを愛したのは正當な理由のある事であつた。何となれば、リストは等しく自由の愛人であり、傳統と衒學とを拂ひ落し、そして獨逸の因習を侮蔑したからである。そして彼は亦、その音樂がブラームスの頑強な樂派からの反動であつたが爲めに彼を愛した(1)。彼はリストの作品に心酔した。そしてリストがその先驅であった處の新音樂の――ワグネルの捷利が萌芽の内に摘みとつてしまつた樣に見えながらも、突然に且華々しくリヒアルト・シユトラウスの制作の中に、再び生命を得て爆發した、かの「標題」音樂の――最初のそして最も熱烈な選手の一人であつた。「リストは現代の大作曲家の一人である」とサンサンス氏は書いた。「彼は、ウヱーベル或はメンデルスゾーン、或はシューベル卜、或はシューマンがした以上の事を敢てした、彼は交響楽詩を創始した。彼は器楽の救濟者である。……彼は自由音樂の主權を宣言した(2)。」之は熱狂の瞬間の一時的な言葉ではない。サンサンス氏は常に此の意見を持つて居たのである。生涯を通じて彼はリストに對するその敬愛の念を誠實に持ちつゞけて來た。――彼が「ヴヱニ・クレアトール」を「長老リスト」に捧げた千八百五十五年から、リストの死後數ヶ月經て彼が「フランツ・リストの記念のために」「サンフォニー・アヹック・オルグ」を捧げた千八百八十六年に至るまで(3)。「人々は、彼等が呼んで、リストに對する私の軟弱とする處のものを嘲笑するに躊躇しなかつた。併し假令私の内に彼が靈感した熱情と感謝の情とがプリズムの樣に來やうとも、そして其等が私の眼と彼の顔との間に挟まらうとも、私はそこに、何等大いに悔ゆべきものを見はしなかつた(4)。私は未だ彼の人格的な迷はしの魅力を感じて居なかつた。私は彼と語つた事もなければ彼に會つた事もなかつた。そして私は自分の興味が、彼の最初の交響樂詩を讀む事に捉へられた時でも、私は彼に何ものをも負ふて居なかつた。そしてやがて其等のものが、「髑髏の舞ラ・ダンス・マカーブル」、「オンファールの糸車、」及び同じ性質の他の作品に導く處の方向を指示した時でも、私は自分の批判が、彼の恩惠に對する先入觀念に少しも偏執して居なかつたと云ふ事と、自分のした事に就ては、自分一人が責任ある者だつたと云ふ事を明言する事が出來るものである(5)。」

  (1)「私はリストの音樂が非常に好きである。それは彼が他の人々の意見を損はないからである。彼は云ひ度いと思つた事を云ふ。そして彼の焦慮した點は、出來るだけ善くそれを云ひ現はさうとする處にあつた。」(イツポーより引用。)
(2)「ハーモニーとメロデイー」及び「肖像と回想」より引用。
(3)「ハーモニーとメロデイー」の中でサンサンス氏は吾人に次の樣な事を語つて居る。彼はリストの作曲ばかりを演出するイタリー座で一の音樂會を組織して、それを指揮した。併し、佛蘭西の音樂の民衆にリストを味はせやうとした彼の努力は、凡て失敗に歸した。
(4)敬愛の念は相互にあった。サンサンス氏は、リストなくしては、彼が「サムソンとダリラ」を書く事が出來なかつたに違ひないとさへ云った。「リストが「サムソンとダリラをワイマルで演出して呉れたのみでなく、彼なくしては、私の作物が世に出なかつたのである。私の主題の暗示は、私がそれを書かうと云ふ意志を擲つてしまった程の敵意に會つて居た。そして手元にあるのは不分明なノートだけであつた。……それから或る時ワイマルで私はリストにその事を話した。するとりストは全く信じ切って、ノートを見もしないで「君の仕事を完成おしなさい。私がこゝで演りませう」と云つた。併し千八百七十年の出來事のためにその演出は數年間のばされたのであつた。」(「音樂評論」)千九百一年、十一月八日)
(5)「肖像と回想」

 此の影響は予にとっては、サンサンス氏の作品の或物を説明して居るやうに思はれる。それは啻に彼の交響樂詩の内に――彼の最も優秀な作品の内に――明白であるのみでなく、描寫的で物語風な要素の強く出て居るオーケストラの爲めのスイートやフアンタジアやラプソディーにも發見する事が出來る。「音樂はそれ自身魅力がなければならない」とサンサンス氏は云つた。「併し、若し特定の軌道を踏むで音樂に一の意想を結び付けながら、音樂的純粹さに此の想像を附加したならば、その結果は最も此麗なものとなるであらう。魂の能力の一切が賭けられ、そして同じ目的に向けられるのはそれからである。藝術がそこから獲得し得るものは一層大なる美ではない。併しその區域が一層廣大な物である。それは更に大なる形式の變化であり、更に大なる自由である。(1)

  (1)「ハーモニーとメロデイー」

     *

 斯くて吾人はサンサンス氏が他の藝術の或る力を――詩、繪畫、哲學、物語、戯曲、即ち人生全體の或る力を――音樂の中に移し入れるがために、現代の獨逸のスィンフォニー作者の強力な企畫に參加して居る事を知る。併し、如何に深淵が彼等と彼との間に横はつて居る事であらう! 泥土と石礫と天才との間に、不安氣にも悶懆して居るリヒアルト・シュトラウスの狂亂的な噴出の傍らに、サンサンス氏のラテン藝術は平靜と調刺とを持して立つて居る。「一千の小徑を云て魂に入り來る」彼の感觸の繊麗と、細心な中庸と幸福な雅致とは、美しい言語と誠實な思想との愉樂を持つて來る。そして吾人はその魅力を感じるより外はないのである。今日の不安な惱ましい音樂と比較する時、彼の音樂はその温和さと、天鵞絨の樣な調子と、水晶に似た明徹さと、滑らかなそして流れる樣な形式と、言葉につくせぬ端麗さとを以て吾人を撃つのである。彼の古典的な冷靜さへも、新らしい樂派の、共に眞摯な、誇張に對するその反動によつて吾人に好感を與へる。人は、時には、メンデルスゾーンへ、或はスポンティーニやグルックの一派へ運び返される樣に思ふであらう。自分の知り、自分の愛する國を旅して居るかの樣に感じるであらう。そして、しかも人はサンサンス氏の作品の中に、他の作曲家の作品の直接な類似を見出しはしないであらう。何となれば、何人と雖も、自分の内に古代の大家の全てを移し入れた此の大家にも増して、その記憶に疎遠な者はないからである。其等に親近なのは彼の精神である。そしてそれが彼の人格の秘密であり、吾人にとつての彼の價値である。彼は吾人の音樂的の不安の上に、他の時代の光明と甘美とを少しもたらした。彼の作曲は宛も他の世界の破片である。
 「ドン・ジオヷンニ」に就て語りながら彼は云つた。「折々、吾々は希臘の聖地から、時の荒癈に傷けられ損はれた破片や、腕や、トルソーの屑を發見する。それは曾て彫刻家のチゼルが創造した神の影に過ぎない。しかも幾分の魅力はそこにさ□もある。崇高な形律が一切に拘らず輝いて居る。(1)

  (1)「肖像と回想」

 そして此の音樂もそうである。それは時には稍蒼ざめて稍抑制されすぎて居る。しかも人はその樂句フレースに、或るハーモニーに、過去の聰明なる注意の輝いて居るのを見るであらう。

 

 

 

 

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 リヒアルト・シュトラウス (一八六十四)

 

「英雄ヘルデンの生涯レーベン」の作者は、巴里の人々には既によく知られて居る。コロンヌやシュヴィヤールで、吾々は、指揮者の壇上に立つ急激で横柄な身振りの、丈の高い痩せた影法師や、稍々熱病的で蒼白な顏や、異常に澄み渡つて、しかも不安と落着きとの交錯した両眼や、子供の樣な口もとや、殆んど白くなつた明色な髭や、薄いこめかみの上、圓く秀でた額の上に、王冠の樣な形をして縮れた髪を持つた彼を見るのである。                          
 予は此處に、獨逸に於てはワグネルの天才の後繼者と思ひ做され、彼自身は亦、ベートオフエンに做つて英雄交響樂サンフォニー・ヱロイツクを志し、そして自分を英雄の如くふるまはふとする點で、二樣の大膽さを有する、此の奇異で異色に富んだ人間を描き出して見やうと思ふ。


     *

 リヒアルト・シュトラウスは四十四歳である。(千九百八年)彼は千八百六十四年六月十一日、ミユーニッヒで生れた。著名な樂手だつた彼の父は、王立管絃樂團の第一ホーンをやつて居た。彼の母はプショルと云ふ麥酒釀造家の娘であつた。彼は音樂的な周圍の中に成人した。四歳でピアノを彈き、六歳で小さな舞踏曲や、リイダアや、ソナタや、同時に、管絃樂のための序樂をさへ作曲した。此の異例な、藝術に對する早熟は、その神經を極度に緊張させ、その精神に幾分病的な程の奮激の情を起さしめた處の、彼の才能の熱し易い性格に、恐らく何等かの影響を與へる處がなければならなかつた。其れ以來、彼は絶え間なく作曲した。高等學校ヂムナース時代にはソフォクレスの悲劇の爲めの合唱曲を書いた。千八百八十一年には、へルマン・レヴイが彼の管絃樂團で、此の青年學生のスインフォニーを演奏した。彼は大學時代を、器樂の作曲に送つた。ビューローとラデッケとが、彼に伯林で演奏させた。そしてビューローは彼を熱愛した極、千八百八十五年に、音樂指揮者として彼をマイニンゲンに呼んだ。千八百八十六年から八十九年までは、同じ名目でミユーニッヒの帝室劇塲に居た。そして千八百八十九年から千八百九十四年迄ワイマルの帝室劇塲で樂長をして居た。千八百九十四年帝室樂長としてミユーニッヒに歸つてヘルマン・レヴイの後を繼いだ。そして遂に今日、王立劇塲のオーケストラを指揮するに至つた伯林に赴くために、彼は、ミユーニッヒを去ったのである。
 彼の生涯で、二つの事が、特に記さなければならない。それは、彼が深い感謝を示して居たアレキサンドル・リッターの感化と、南方への旅行とである。彼がリッターを知ったのは千八百八十五年の事であつた。此の、フランスでは知られない。そして數年前に歿した音樂家は、ワグネルの甥であつた。彼は、「ファウラー・ハンス」と「王冠は誰に?」と云ふ、二つの著名なオペラを書いた。そして、シュトラウスに據れば彼は、リイドにワグネルの法式を採り入れた最初の音樂家である。そしてビューローとリストの書翰の中で、屢々問題にされて居る人である。シュトラウスは云ふ。「彼に會ふまで私は、嚴格に古典的の教養の中で育てられた。私は、全然、ハイドュンやモツァルトや、ベートォフェンによつて養はれた。そして、メンデルスゾーンや、ショパンや、シューマンや、ブラームスを研究して居た處であつた。私がリストやワグネルを理解する樣になつたのは、實に此のリッターの御蔭であつた。私に、此の二人の大家の著書と制作とが音樂史上で、重要な位置を占めて居る事を教へたのも彼であつた。數年の教授と、懇切な忠告とで、私を「未來の音樂家」たらしめ、そして、今日誰にも頼らずして一人立ちで歩いて行けるやうになつた此の道に、先づ私を導いて呉れたのも彼であつた。そして、私に、ショーペンハウヱルの思想を知らしめたのも、等しく彼であつた」と。
 第二の影響、彼の内に消し難い痕跡を残した樣に見えた南方の影響は、千八百八十六年の四月から初まつた。先づ彼は羅馬とネーブルスを訪れた。初めてゞあつた。そして「伊太利より」と題する交響幻想樂フアンタシー・サンフオニイクを携へて歸つて來た。千八百九十二年の春、急性肺炎に犯されて、ギリシヤ、ヱヂプト、シゝリーと、一年半に亘る長途の旅行をした。此の至福な國々の朗らかさは、永遠の哀傷を以て彼を滿たした。之以來、北方は――「北方の灰色に重なる恐ろしい灰色。太陽の光りを見る事なき思想(1)」は――彼を重壓するものとなつた。四月の或る寒い日、予がシャルロッテンブルヒで彼に會つた時、彼は、冬の間は少しも作曲の出來ない事と、あの伊太利の輝々とした陽光にノスタルジアを感じて居ると云ふ事を、嘆息して語つた。此のノスタルジアこそ、獨逸の陰暗に強く苦しむで居る一の魂と、南方の色彩や音律や、微笑や、歡喜に對する不斷の憧憬とを、直接に感ぜしめる處の彼の音樂に、深く根を張つて居るものである。かのニイチヱによつて夢想された音樂家の樣に(2)、彼は、「より深刻で、より強力な音樂、或は寧ろ一層惡戯的で一層神秘な音樂。かの蒼々として逸樂的な海洋と、地中海の空の明るさとの光景に對しても、決して衰へもせず色褪せる事もなく、そして曇る事もない超獨逸的な音樂。――かの棕櫚の樹と同樣な精神を以て、傾きかゝる砂漠の落日に面してさへも、尚且その存在の權利を主張し得る超歐羅巴的音樂。そして猛獣の群の中にありながら如何に美しく、如何に寂しく生活し且動作すべきかを知って居る音樂――その優秀な魅力が、善惡の觀念に關らざる處から來る音樂。凡そ斯の如き音樂をその耳に聽いて」居るかの樣に見えるのである。そして「時々は、僅かにその上を、水夫や、金色の影や、優しい心弱さの憧憬が掠めて過ぎ、それを指して遙かな大空のはづれから、最早何人も理解し得ざる道德世界の歿落の幾千の色彩が灑ぎ來たり、そして之等遅ればせな亡命者等を待つに、懇切にして同情深かるべき音樂」を聽いて居るやうである。――しかも、常に北方が、北方の憂欝が、そして道德的苦痛、死の思想、生活の残虐が、「凡て賤民の悲哀」が、光明に飢へた彼の魂の上に新らしく重りかゝり、そして熱狂した思索と、酷烈な戰闘とを強ひるのである。そして、疑ひもなく、彼も亦そうある方がいゝのである。

  (1)ニイチヱ。
(2)同前。「善惡の彼岸。」千八百八十六年版。余は此處にニイチヱを引用する事を許してもらふ。しかも彼の思想は、斷えずシュトラウスに影響して居る樣に見ゑそして現代の獨逸精神の上に、多大の光りを投げて居る樣に見ゑるのである。

 リヒアルト・シュトラウスは、詩人であると同時に音聽家である。之等二樣の天性は彼の内に共存して、常に一は他を制御しやうとして居る。從つて平衡は屢々破れる。併し、若し意志の力がそれを維持する事に成功する時、此の同じ標的に向つて放射された二箇の才能の結合は、ワグネル以後比類を見ない程の力強い効果を生む。此の二つの天性は、各々その根底を、予が思惟して以て詩的或は音樂的才能以上に稀有なものとする處の、かの英雄的思想の内に置くものである。歐羅巴にも他の大なる音樂家は居る。しかも彼こそは、英雄の創造者である事によつて、一層偉大なる音樂家である。
 英雄を語るものは戯曲を語る。戯曲はシュトラウスの音樂の到る處に現はれて居る。それが最も不適當と考へられる樣な制作に於てすらそうである。即ち、リイダアの或るもの、純粋音樂の作曲の中に於てさへもである。そしてそれは、彼の制作の中で最も重要な位置を占めて居る交響楽詩ポヱーム・サンフオニツクに於て、わけても明かである。その詩と云ふのは次の樣なものである。「嵐の中の放浪者の歌ワンデラース・スツールムリード」(千八百八十五年」「伊太利よりアウス・イタリヱン」(千八百八十六年)「マクベス」「千八百八十七年)「ドン・フアン」(千八百八十八年)「死と變貌トツド・ウント・フヱルクレング」(千八百八十九年)「グントラム」(千八百九十二年、九十三年)「テイル・オイレンシュピーゲル」(千八百九十四年)「ツァラトゥストラは斯く語りきアルゾー・シユプラツハ、ツアラトクストラ」(千八百九十五年)「ドン・キホーテ」(千八百九十七年)「英雄の生涯ヘルデン・レーベン」(千八百九十八年)

  (1)此の論文は千八百九十九年に書かれたものである。その以後「スインフオニヤ・ドメスチカ」(千九百三年)が作曲された。それに就ては「佛蘭西及び獨逸の音樂」の評論の中で述べる。  

 予は、此の藝術家の精神と手法とが、型に入つて居る處の、最初の四つの制作に就ては多くを語るまいと思ふ。「嵐の中の放浪者の歌」(作品十四)は、其の題材をゲーテの詩からとつて、管絃樂を伴奏とした聲樂六部曲である。それは、シュトラウスがリッタアを知る前に書かれたものであつて、樣式をブラームスに做つて、その智識と手法に於て、幾分作爲のあるものである。「伊太利より」(作品十六)は羅馬の郊外や、羅馬の廢趾や、ソレントーの海邊や、そして伊太利の民衆の生活から受けた印象を、豐かに描寫したものである。「マクベス」(作品二十三)は、詩的題材を音樂に移入した連作の、左程光彩のない最初のものである。「ドン・ファン」(作品二十)は最も優秀なもので、ルノーの詩を、誇張した美しさを以て譯したものである。そして、人間的快樂の凡てを握る事を夢想しながら、遂に敗戰と絶望との末に死に行く英雄の、ローマンテイックな亂心を現はしたものである。
 「死と變貌」(作品二十四(1))は、その思想と樣式とに於て、注目すべき進歩を示す。それは今日に於ても、シュトラウスの中で最も活動的なものであり、最も高貴な統一を以て作られたものであつて、アレキサンドル・リッツターの詩から出發した作である。予はその大要を次に述べやうと思ふ。
 僅かに一個の燈火の燃えて居る貧しげな室の中に、一人の病人はその寝床に横たはつて居る。死が、怖ろしい沈默の内に、彼に近付いて來る。不幸な人は折々夢を見て、その追憶に慰められて居る樣に見える。彼の生涯が彼の目の前を過ぎる。無邪氣な幼年の日、幸福だった青春の時代。それから中年の苦闘。そして、常に彼が掴み損ねたその慾望の崇高な標的に對する努力。彼は、それを追及する事を續けながら、遂にそれを掴み得たと思ふ。併し、此の時死は電雷の聲を以て、「停まれ!」と彼を捉へる。彼はその夢想を實現しやうとして、絶望と奮激を以て、懊惱の中に格闘する。けれども、死の鐵槌は彼の骸を破碎する。そして夜がその上に擴がつて行く。そしてやがて彼があてもなく地上に求めて居た幸福に對する約束が天上に轟き渡る。贖罪と變貌即ち是である。

  (1)千八百八十九年に作曲されて、千八百九十年に、アイゼンナツハで最初に演出されたもの。

  リヒアルト・シュトラウスの友人等は、此の正教的な絡局に向つて、猛烈に反對した。そしてザイドル(1)、ヨリゼンネ(2)、ウイルヘルム・マウケ(3)等は、その題材は一層高尚なものであるべきで、それは内心の自我に對する霊魂の永遠の格闘であり、そしてその解放は藝術によつて成さるべきだと云ふ事を要求した。併し、予は、斯の如き凡廉で冷淡な象徴主義は、吾人が如何なる作曲にも感じる處の、死に對する苦闘に比して、遙かに一層興味のないものだと云ふ事を信じながらも、此の論爭には加はらないであらう。それは、比較的に云へば、古典的な作品である。宏大で莊嚴で、その樣式に於て殆んどベートオフヱンである。瀕死の人の幻覺、熱のための戰慓、動脈を走る血液の鼓動、絶望的な懊惱、凡そ斯の如き題材上の寫實は純美な形式の中に變化されて居る。それはCマイノアの手法に於ける寫實であり、運命に向つてのベートオフヱンの辯論の寫實である。若し凡て標題プログラムの暗示が取り去られたとしても、そのスィンフォニーは、尚その内奥の感情の調和によつて、了解し易く、深い感銘を與ヘるものとなるであらう。「死と變貎」は、獨逸の音樂家の大多數によつて、シュトラウスの制作の最高峯を示すものだとされて居る。予はその考へには反對な者である。音樂家の藝術が、その結果として、異常な進歩をしたのである。又、併し、「死と變貌」が、彼の生涯の一紀元の絶頂だと云ふ事も、一時代を包括する最も完全な制作だと云ふ事も眞である。そして「英雄の生涯」は、第二の驛となり、次なる時代の、第二の最高の頂きとなるであらう。如何に第一期以來、感情の莊大さと、力強さと、豐富さとが增して居る事だらう! 併し、それに次ぐ作品、「グントラム」の中にも同樣に輝いて居ながら、やがて消されてしまつたあの繊麗な純粋さと、メローデイアスな精神と、そして少年らしい優美とは、遂に再び彼の見ないものとなつてしまつたのである。

  (1)「リヒアルト・シュトラウス。その性格の寫生。」千八百九十六年。プラーグ。
(2)「リヒアルト・シュトラウス。批評並びに生物學的評諭。」千八百九十八年。ブリユツセル、
(3)『音樂指揮者。死と變貎』フランクフルト。

    *

 千八百八十九年以來、シュトラウスは、ワイマルでワグネルの戯曲を指揮して居た。その空氣を呼吸しながら、彼は劇塲に向つて注意の目を開けた。そして歌劇「グントラム」の臺本を書いた。病氣がその仕事を妨げたので、彼はヱヂプトヘ行つて書き績けた。序幕の音樂は、千八百九十二年の十二月から九十三年の二月へかけて、カイロとルキゾルを旅行して居る間に書いたものである。第二部は、千八百九十三年の六月、シゝリーで書き上げられ、そして第三幕は、千八百九十三年の九月の初め、バヷリヤで出來上つた。此の音樂には、しかしながら、東洋的な空氣の痕跡はない。其處には寧ろ、伊太利風のメロデイーと、軟かな光りと、稍陰欝な靜けさとがある。予はその中に病後の物倦い氣持と、その夢に微笑をたゝえながら、しかも、常に涙が流れ出さうにしてゐる少女の心を感じる。それは疑ひもなく、その作品に對して、シュトラウスが秘密な愛情を持たずにゐられない程に病後の名狀し難い印象から發したものゝ樣に、予には見えたのである。彼の熱病はその中に眠つてゐる。そして、或る頁は、べルリオの「トロイの人々」を思はせる樣な、愛に滿ちた自然の感情に溢れて居る。併し、音樂は、非常に屢々空虚でコンヴヱンショナルである。そしてシュトラウスの他の作品にあつては罕なワグネルの暴虐さへも、そこでは感じられる。併し、詩は興味に富んだものである。シュトラウスが、彼自身を、非常に多く投げ込んだからである。そして尚、此の豐饒で憂欝であり、そして尊大な彼の思想を、動揺させる處の危機を吾人は感じるのである。
 シュトラウスは、神秘的な「戀愛詩人ミンネゼンゲル」の階級に就ての歴史上の研究を讀んで居た。それは中世紀に墺太利に起つた一團であつて、藝術の腐敗に反抗して、人々の魂を歌の美によつて救済する事が、彼等の目的であつた。彼等は自分達を Streiter der Liebe「戀愛の戰士」と呼んだ。その當時、新基督教思想に感染し、ワグネルとトルストイの感化を蒙つて居たシュトラウスは、此の思想に狂奔して、「戀愛の戰士」の一人を取つて彼の英雄とした。即ちグントラムである。
 舞臺は、時代を十三世紀の獨逸にとつて居る。序幕は小さな湖水に近い、森の中の空地を現はす。村民が貴族に反抗して、鏖殺されると云ふのである。グントラムと其の主人フリードホルドが彼等に施物を分配する。そして敗北者の軍隊は、森の中へ逃げて行く。獨り残されグントラムは、春の喜びと、自然の無邪氣な目醒めの中にあつて、その空想に耽る。併しその美しさの下にかくれて居る悲惨な考へは、彼を壓して來る。彼は、罪人や、人間の苦しみや、内亂に就て考へる。彼は、自分を此の禍ひの地におくつた事を基督に感謝して、十字架に接吻する。そして罪惡の中心、暴虐者の邸庭に、彼に向つて聖なる默示を知らしめんがために往かうと決心する。その時丁度、貴族の中で最も残虐なローベルト公の妻、フライヒルドが現はれる。彼女は其の周圍に起つた出來事に恐れをなして、生活は彼女にとつて厭ふべきものとなつた。そして彼女は入水しやうとする。グントラムがそれを引き止める。彼女の心痛と、美しさとに動かされて湧いた彼の憐憫の情は、彼女が人々の愛する公妃である事と、不幸な者等の唯一人の慈母だと云ふ事を彼が知つた時、知らず知らずの内に、深い戀愛に變つて行く。彼は、神がその救世のために、自分を彼女につかはし給ふたと云ふ事を語る。そして、彼は、自ら、人々を救ひ、フライヒルドを救ふと云ふ二重の使命のために喚ばれるのだと信ずる處の城へ赴く。
 第二幕は、公の城内で、諸侯等がその捷利の祝宴を張つて居る處である。御用戀愛詩人の誇張した謟ひが終ると、グントラムが歌ふ事をうながされる。豫てから人人の醜態に失望し、歌ふ事の無益を感じて居た彼は、躊躇して將に退席しやうとする。けれども、フライヒルドの悲しげな樣が彼を引き止める。そして彼は彼女の爲めに歌う事になる。彼の聲は、初めは靜かに愼重に、此の勝ち誇つた力の祝宴の唯中に彼の感じた憂愁を物語る。それから彼は、その夢想に捉はれとなつて、そこに平和の靜かな姿の輝くのを見る。彼は、理想の生活と、自由な人生の繪晝を描きながら、刻々に彼を恍惚の境に引き寄せて行くその青春の情感を以て、戀慕に滿たされて彼女を叙述する。それから、世界に擴がつた戰ひと、死と、荒野と、夜とを描く。彼は自ら直接に、貴族に語りかける。彼は、彼にその本分を教へ、そして人民に對する愛が、如何に彼の償ひであるかを説く。彼は、絶望の域に逐ひをられた哀れな人々の怨恨を以て彼に迫る。遂に彼は市街を再建し、囚人を解放し、そして彼等の臣民の救済に同意する事を貴族等に強制する。かくて彼の歌は、聽衆の甚深な感動の中に終る。唯一人、此の卒直な言葉の危險を感じたローベルト公は、その近仕の者に、歌手を捉へよと命ずる。しかし家來はグントラムに味方する。此の爭亂の最中に、百姓が新らしい一揆を起したと云ふ事が報ぜられる。ローベルトは人々に武装を叫ぶ。併し、彼を取卷く之等の人々に助勢されて居る事を知って居るグントラムは、ローベルトを捕縛する事を命令する。公は防戰する。グントラムは彼を斬殺する。それから彼の心に急激な變化が起る。それは第三幕で明白になる處のものである。次の塲面になると、彼は全く無言である。彼はその劍を捨てる。そして其の敵に對して、民衆の上に彼等の權威を取り戻す事を認める。彼は、貴族の軍隊が、叛徒を討伐するために出發する喧騷の中で、自分を縛して、牢獄に収容する事を承諾する。しかも、残酷で天眞ナイーヴな喜悦に溢れ切つたフライヒルド、グントラムの劍によつて救助されたフライヒルドは、彼に對する愛に一身を捧げて、彼を救ひ出さうと決心する。
 城の牢獄の中で行はれる第三幕は、豫想外で、不確かで、且、不思議なものである。それは劇の筋の論理的な結果ではない。人は其處に、詩人の思想の急轉を感じ、彼がそれを書いた瞬間にも彼を動搖させた精神の劇變を感じ、そして、彼が闡明し得なかつた困難を感じる。しかし、彼がその生活の針路を向けやうとして居る新らしい光明は、透き通る程明らかになつて來る。シュトラウスは、そり戯曲に結末を與へる新基督教的抛棄へ遁れる事のために、その作曲の内で、餘りに進みすぎた。彼は、人物を全く改造する事によつて、僅かにそれから兔れ得たのである。かくて、グントラムはフライヒルドの戀を拒絶する。彼は自分も亦、人々と同じく、罪惡の呪詛の中に落ち込んで居た事を感じる。人々に向つて慈愛を説きながら、彼はエゴイズムの餌食となつて居たのである。ローベルトを殺したのも、暴君の手から人民を取り返すと云ふ事のためよりも、寧ろ一層、本能的な、動物的な嫉妬を滿足させるためである。かくて彼は、その凡ての慾望を抛棄する。そして、遁世する事によつて、人の世の罪惡を贖はふとする。併し、舞臺の興味は、あの「パルジファル」以後稍平凡になつた、こんな見越しのついた結末にあるのではない。それは、明かに最後の瞬間に書き加へられ、そして急激に舞臺の内に爆發しながら、しかも卓絶した莊大さを持つた他の塲面にあるのである。即ち、グントラムと、彼の昔の伴侶フリードホルド(1)の對話である。彼の友であり、指導者であるブリードホルドは、彼の罪惡を指摘して、彼を裁くべき聖職の前に連れて行かうとする。原詩に從ふと、グントラムが承諾して、彼の誓言の前に、その感情を犠牲にする。併し東方を旅行して居る間に、シュトラウスは、此の基督教的な意志の否定に向つて、突然な恐怖を感じた。そしてグントラムも、彼と共に、それに反抗する。彼は、その聖職の法規に隨ふ事を拒絶する。そして、信仰によつて人生の贖罪を願ふ虚僞の望みの象徴である處の、彼の琵琶を破碎する、彼は、曾てそれに向つて訴へた處の、そして今や生活の光輝にかき消された處の、かの貴い、しかし架空な空想を投げ返す。彼は曾ての宣誓を否認しはしない。併し、最早誓ひを立てた時の彼と同じ人間ではない。彼が未熟な經驗にゐた時、彼は、人間と云ふものは法律に從ふべきものであり、そして人生は法律によって支配されなければならないと云ふ事を信ずる事が出來た。僅かの時間が彼に光明を與へた。今や、彼は自由で獨りである。彼自身と共に獨りである。「只、獨りでのみ、自分は我が惱みを慰める事が出來る。只獨りでのみ、自分は我が罪を贖ふ事が出來る。我が内心の法則のみ、我が生活を支配する事が出來る。只、自分を通してのみ我が神は自分に語る。只、自分に向つてのみ、我が神は語る。永遠の寂寥エヰツヒ・アインザーム。」それは個人主義の誇らしき目覺めであり、「超人」の力強い厭世主義である。此の樣な感情は、否定それ自身や、抛棄の思想に對して、一の活動の性質を與へる。そこでは、同時に、それが一種の猛烈なる意志の肯定である。

  (1)或る人々は、フリードホルトの内にアレキサンドル・リツターの思想がうかゞへるとした。同時にグントラムにはシュトラウスの思想が見られると云つた。

 予は、その思想の眞價と、殊に、その一種の自叙傳的な興味のために、稍長く反覆した。此の時以來シュトラウスの心は、一の形を備へて來た。彼の生活の狀態は、特別な變化を示さないまでも、進歩したに違ひない。――「グントラム」は、その作者の痛ましい失望の原因であつた。彼はそれをミューニッヒで演出して成功しなかつた。管絃樂と歌手とは、彼等が不可能だと云つた一の音樂を拒絶した。又、或る著名な批評家から、「グントラム」は歌へる樣に作曲されて居ないと云ふ事を證明した、正式の證明書を與へられて、彼等がそれをシュトラウスに送つたと云ふ事が云はれて居る。重大な困難は、主要な臺詞が、その空想と詞とで一幕半にも比敵する程な長さを持つて居る事であつた。獨白の或るものは、第二幕に於ける歌の樣にその終りまでに一時間半を要した。――「グントラム」は、併しながら、千八百九十四年五月十六日、ワイマルで演出された。――そして程なくシュトラウスは、バイロイトで(「タンホイゼル」の)ヱリザベットを演じた處の、そして爾來その夫のリイダアの譯出に一身を捧げた處の、ポーリーヌ・ド・アーナ、「フライヒルド」と結婚した。

     *

 併しシュトラウスは、劇てに於ての失敗の恨みを、深くその膽に銘じた。そして次第に加はつて行く劇的傾向と、日は一日と增して行く誇りと侮蔑の精神とを示す處の、かの交響樂詩ポヱム・サン・フオニイクに立ち戻つた。人は、此の勝利の藝術家の匿した手傷を感ずる爲めには、劇塲の公衆を指して、「銀行家と商人の卑賤な道樂者の集合」と、斯くも冷たい輕蔑! を以て云ふ彼の言葉を聽くがいゝ。何となれば、劇塲は彼に對して長い間その扉を鎖して居たのみでなく、しかも皮肉を以て、彼は伯林のオペラ座で、彼に俗惡な趣味――實に立派なロワヤール趣味――を強いた處の、音樂的の屑を指揮する事を餘儀なくさせられたからである。
 此の新らしい時期の最初の大交響樂は、「ロンドーの形式に於て、古代傳説に據れる、道化者ティルの愉快な諧謔(1)」(作品二十八)であつた。彼の輕蔑は、茲では、社會の因襲を嘲る賢明な諷刺を以て現はされたゞけである。此のティルと云ふ人間、惡魔のやうな道化者、獨逸とフランドルの傳説上の英雄は、佛蘭西では殆んど知られて居ない。此の點シュトラウスに非常に損をして居る。何となれば、その作品が、吾々の曾て耳にした事のない樣な一組の挿話を、吾々に想ひ起させやうとして居るからである。――街を歩きながら美しい婦人を鞭でなぐるティル。司祭の眞似をして無趣味な説教をするティル。自分をはねつける若い婦人に戀を仕掛けるティル。ペダントを嘲弄するティル。判決を受けて絞殺されるティル。斯の如き音樂的描寫を以て、時には性格を、時には對話を、時には境遇を、或は風景や思想を、換言すれば彼の移り氣な精神の最も輕快で最も變化に當むだ印象を再現しやうとしたシュトラウスの趣向は、そこでは恐ろしくはつきり現はされて居る。彼が、獨逸では容易に了解されるやうお意味を持つた、あの一般的な主題に基いたと云ふ事は本統である。そして又、彼が要求した樣な正確なロンドーの形式では全然なく、却つて、標題なしには了解し難い僅かの惡戯を除けば、全體が眞の音樂的統一を保つ樣な或る方法によつて、彼等を開發したと云ふ事も本統である。此の、獨逸國内では非常に歡ばれるスィンフォニーは、彼の他の作曲の或るものに比して、遙かに個性に乏しく予には見えるのである。それは、不思議な諧調と、非常に複雑した器楽法によつて、寧ろ、メンデルスゾーンの、洗練された作品の樣に響いて來る。

  (1)千八百九十四年と、九十五年の間に作曲。千八百九十五年コロンに於て最初の演出。

 次に來る詩「ニイチヱに據る自由音樂、ツァラトゥストラは斯く語りき(1)」(作品三十)には、更に、より莊大で一層個性に富むだものがある。その感情は、一層廣大に人間的である。そして、シュトラウスをして快美で逸話的な極小の細部をも失はしめなかつた處の標題は、表現的で莊重な線を以て描かれて居た。シュトラウスはニイチヱのそれと相對して、彼の自由を斷言して居る。彼は自由な精神が、かの「超人ウヱーバーメンシユ」に達するために遍歴する、ある開展の舞臺を現はさうとした。それは純粋に個人的な思想であつて、哲學系統の一部ではない。此の亞題は次の通りである。「宗数的思想に就てフオン・デン・ヒンデルウヱルテルン、」「最高の心願に就てフオン・デア・グロツセン・ゼーンズフト、」「歡喜と熱情に就てフオン・デン・フロイデン、ウント、ライデンシヤフテン」、「墓の歌ダス・グラブリード」「智識に就てフオン・デア・ウイツセンシヤフト」、「快方に向へる患者デア・グネゼンデ」(その慾望よ心救はれたる魂)「舞踏の歌ダス、タンツリード」「夜の歌ナハトリード」。人は其處に、最初自然のヱニグマによつて惱まされて、信仰の中に避難所を求める人間を見る。次で彼は禁慾主義的思想に反抗して、愚かしくも熱情の中に身を投げ込む。併し程なくそれに飽滿して、嘔吐を催す。死ぬ程の苦しみを苦しみながらは彼は科學に走つて再びそれを抛棄する。そして智識に對する不安から脱却する事に成功する。かくて彼は、遂に笑ひの中に、即ち世界の主、幸福なる舞踏に、そこに宗教的信仰、滿されざる慾望、熱情、嫌厭、歡喜、之等一切の人間的感情が參加する處の大宇宙の輪舞に、その救ひの手を見出す。「汝が精神を高翔せよ、我が同胞よ、高く、一層高く! しかも汝が脚を忘却せざらん事を! 予は笑ひを尊重せり。汝超人よ、笑ふ事を學べ(2)!」かくて舞踏は遠ざかつて天空の境に消える。そしてツァラトゥストラは遙かの世界に舞ひつゞけながらその姿を沒する。――併し、彼は、宇宙の謎を他の人々の爲めに解いたのではなかつた。そしてそれに特色を與へる光彩ある調子に配するに、音樂の終りに於ては悲しき疑問を對置したのである。

  (1)一千八百九十五年より九十六年に作曲九十六年十一月、フランクフオルト・オン・マインに於て最初の演出。
(2)ニイチヱ

 少數の主題が、音樂的の表現に、一個の、しかし豐富な材料を提供して居る。シュトラウスは、それを力と巧妙とを以て取り扱つた。彼は人間の「心願ゼーンズフト」を、自然の平然たる力と對照する事によつて、熱情の渾純の中に統一を維持する事を得た。彼の勇敢さに就てはかのシルク・デゝに於て、複雜を極めた「智識のフユーグ」の詩を聽き、ツァラトゥストラの笑ひを表はす木笛と喇叭の顫音を聽き、宇宙の輪舞を聽き、Bナチュラル・メージアに最後の記號、三度反覆されるCナチュラルの疑問の記號を置く、その結末の大胆さを聽いた之等の人々を思ひ起すと云ふ事は、殆んど無益な事である。予は此のスィンフォニーに缼點がないとは思はぬ者である。主題は各々同等な價値を持つては居ない。或るものは平凡である。そして一般的には、作品の苦心の存する處は、その思想の優秀にある。予は、やがて、シュトラウスの音樂の二三の缺點に立ち戻るであらう。併し此處では只、漲溢した生命の波濤と、之等の世界を旋廻せしめる歡喜の熱病とを考へやうと思ふのである。
 「ツァラトゥストラ」は、シュトラウスの内なる、侮蔑的な個人主義の發展を示して居る。即ち、「賤民の犬と凡ての發育不全にして陰慘なる種族を嫌厭する精紳。かの笑ふ處の嵐。原野と等しく、沼澤と悲哀の上にも亦快活に舞踏する嵐の精神(1)」の發展を示して居る。此の精神は、それ自身に於て笑ひ、そして、千八百九十七年の「ドン・キホーテ」「騎士的人物を主題とせるファンタステイック・ヷリヱーシヨン」(作品三十五)の理想主義に於て窺ふ處のものである。此のスィンフォニーは、予の見る處では、音樂が標題に到達し得る最高の地點を示して居る。他のどんな作品にも、シュトラウスが、之程の叡智と、精神と、非凡な巧妙さとを現はしたものはない。そしてどんな作品でも、(予は誠實に云ふのであるが)四十五分もかゝつて、作者と演奏者と公衆とに至難な努力を強ひる、あの戯れと音樂的な諧謔との爲めに、多くの力が、それ以上に徒費されたものはない。その複雜さと、獨自な性質と、そして各部分の夢幻的な氣まぐれとの爲めに、此の交響樂詩は、演奏に最も困難なものである。諸君は、次に示す標題の要領によつて、作者の要求する處を判斷するがいゝ。

  (1)ニイチヱ「ツアラトウストラ」

 序言は、騎士物語の讀書に沒頭して居る、ドン・キホーテを現はす。そして吾人は、フラマンドや和蘭の小さな繪に見る樣に、啻にドン・キホーテの姿を見るのみでなく、彼の讀む書物を同時に讀ませられる。此處では巨人と闘ふ騎士の物語であり、彼處では貴婦人に一身を捧げる勇侠騎士の冐險であり、他處では又、彼の罪惡を贖ふと云ふ誓言を履行するために、その生命を捧げる紳士の冐險である。ドン・キホーテは、吾々と共に、物語の空氣の中に混亂する。そして白痴の樣になる。――彼はその従者を隨へて家郷と別れる。二人の人物は、熱心を以て描かれて居る。一方は、骨張つて惟悴した小心な老ひたる西班牙人で、その意志は不決斷でありながら、一度思い込んだ時は極めて強情な、詩人の端くれである。他方は、肥へて陽氣で狡猾な百姓で、(常に出發した地點へ戻つて來る呼吸をはづます樂句を以て音樂に譯された處の)剽輕で滑稽な諺を繰返して饒舌る男である。――彼等の冐險は初まる。此處には風車がある。(ヴァイオリンと木笛の顫音)そして、大帝アリファンファロンの鳴く處の軍隊がある。(木笛のトレモロ)そして又、第三のヷリヱーション(變調)に於て、サンチヨがその主人に騎士生活の効用を質問して居るのだと吾々が想像する騎士と従者との對話がある。サンチヨはその事が疑はしくてならないのである。ドン・キホーテは光榮と名譽に就て彼に語る。併しサンチヨは少しも注意をしない。此の立派な言葉に對して、彼は常に油濃い食事と、チヤラゝゝゝ鳴る金錢の、實際的な効果を述べ立てる。――それから冐險は再び初まる。二人の道連れは、木馬に跨つて空中を飛行する。そして「主調音に於けるコントルバスのトレモロが、大地を離れない馬を現はす(1)」時、フルュートとハープと、ケットルドラムとウィンドマシーン(Windomachine)の半音階の樂句が此の眩暈するやうな旅行の幻像を説明する。

  (1)アルトウール・ハーン『音樂指揮者。「ドン・キホーテ』フランンクフオルト

 併し予は之で止めやう。作者が思ひのまゝに耽り入つた愉快な遊びを説明するには之で充分である。此の作を聽く者は、誰しもその形式と管絃楽法に對する熟練と、シュトラウスの喜劇的な感情とに驚嘆するであらう。そして、喜劇的で戯曲的な凡ての材料を、かくも自在に創造する事が出來ながら、彼が自分を本文の説明(1)に制限してしまつた事を知る時、尚ほ更驚くであらう。シュトラウスが、彼の型式を一層しなやかに、一層豐富にした處の、力の集積であり、驚異すべき修練である「ドン・キホーテ」は、音樂家の熟練の點からは進歩を示すものでありながら、尚、彼の精神への後退の一歩を示す樣に、予には見えたのである。何となれば、かの輕薄で 浮華な社會に喜ばれる、遊戯藝術、玩弄藝術の頽廢した思想を、彼が其處で採用したやうに見えたからである。

  (1)シュトラウスは、各ヷリヱーシヨンの初めで、彼が註釋した「ドン・キホーテ」の章句を、樂譜の上に記した。

 「英雄の生涯(1)」(作品四十)によって、彼は、その翼の一擊を以て飛翔し、そして絶巓に達した。こゝには、音樂が研究し、説明し、そして改作すべき何等の外國の題材もない。作品の全體に旦つて發展して居る絶大な熱情、英雄的意力は、一切の障害を破壊し去った。疑ひもなくシュトラウスは、彼の内に標題を持つて居たのである。併し彼は、自分で予に斯う云つた。「あなたは、それを讀まれる必要はありません。只、其處で、英雄が彼の敵と闘つて居ると云ふ事を知られるだけで充分です」と。予はそれが如何なる點まで實際であるかを知らない者である。そして、本文なしにその音樂を聴く人々にとつて、その意味が曖昧か否かを知らぬ者である。併し、作者の此の言葉は、彼が文學的のスィンフォニーの危險を覺つた事と、彼が純粋音樂に接近しつゝある事を示す樣に思はれたのである。

  (1)千八百九十八年十二月完成。九十九年三月三日フランクフオルト・オン・マインに於て最初の演出。ライプチツヒ、ロイツカールト出版。

  「英雄の生涯」は六章に分たれて居る。英雄。英雄の對手。英雄の仲間。戰塲。英雄の平和的事業。彼の遁世とその心靈の理想的成就。それは實に、英雄主義に酩酊した、尨大で、奇異で、粗野で、壯嚴な、一の超凡なる作品である。一人のホーマー的な英雄が、愚鈍な衆人、喧騷し跛行する愚民の群の嘲笑の間にあつて苦しむ。ヷイオリンの獨奏は、一種のコンチヱル卜の中に、誘惑と、媚態と、女子の墮落した醜さを現はす。鋭い喇叭トランペットが戰闘を鳴り響かす。そして此の時に當つて、大地をゆるがせ、心臓を躍らしめる、此の怖るべき騎兵の襲撃を、此の嵐の渦巻を、此の都市の沸騰を、そして此の意志を導く處の逆巻く潮流を、抑も如何にして書き表はすべきだらう。――曾て音樂を以て描寫されたる戰闘の中の、此の最も驚嘆すべき戰闘を! 予は、獨逸に於ける最初の演奏の時、此の音樂を聽きながら身を震はした人々が、突然立ち上つて全く無意識に粗暴な振舞をしたのを見た。予自身は亦、不可思議な熱狂、宛も湧き上る海洋の動亂に似た感情を味つた。そして予は、三十年の間に、獨逸は初めて勝利の詩人を發見したと云ふ事を考へたのである。――「英雄の生涯」は、若し文學的の缼點が、標題に從ふために音節ムーブマンの絶頂に於てその最も熱情的な頁の進勢ハヅミを、一擧に斷ち切つてしまふ樣な事さへなかったならば、實に音樂界での傑作の一つであつたであらう。吾人は亦その終りに近く、幾分の冷やかさを、寧ろ疲勞を見出す事が出來る。征服者である英雄は、彼が無益に征服した事を覺る。人間の卑陋と愚劣とが依然として残つて居る事を覺る。彼はその憤怒を自制する。そして侮蔑を以て諦らめる。かくて、彼は自然の平和の内に退くのである。彼の創造力は、想像的な作品の内に溢れて居る。そして、此處でシュトラウスは、(「英雄の生涯」に現はれた天禀に於てのみ許される)不可思議な大膽さによつて、此の作品を、曾て彼が歌つた處の英雄等と同化させながら、彼獨特の詩、「ドン・フアン」、「マクベス」、「死と變貎」、「ティル」、「ツァラトゥストラ」、「ドン・キホーテ」、「グントラム」、並びに彼のリイダアの思ひ出によつて、實現したのである。――時としては、嵐が、彼の心にその戰闘の追憶を喚起する。しかも彼は、戀愛と歡喜の時間をも思ひ出すのである。そして彼の心は靜かなるを得る。かくてその時、朗らかな音樂は展開されて、そして彼の力強い穏和の内に、英雄の頭上の名譽の王冠の樣に置かれた、凱旋的な調子に迄高昇するのである。
 ベートオフヱンの思想が、屢々シュトラウスのそれに靈感を與へ、それを刺戟し、指導したと云ふ事は疑ふ餘地のない事である。最初の音樂(Eフラット)の主調トナリテに、一般の樂節ムーヴマンに、吾人は第一「英雄曲」と、「歡びに捧ぐる聖歌」の反映を見る。そして同時に、最後の樂曲に於ては、ベートオフヱンの或るリイダアを、より多く思ひ起す。併しながら、シュトラウスの英雄は、ベートオフヱンのそれとは著しく違つたものであつた。古典と革命の面影は消されて、外的の世界と、英雄の敵とが、シュトラウスの内に、より以上の席を占めたのである!その英雄は、脱却と克己とに向つて、大なる苦痛を經驗した。そして、彼の勝利が、更に狂暴なものであつたと云ふ事は實際である。若し、かの善きウーリビシヱフが、第一「英雄曲」の破調に於ける、モスコウの兵燹を見やうと欲したならば、抑も、彼は、此處に何を發見したであらう。燃え上る都市の光景! 戰塲の光景! 加之、「英雄の生涯」には、かのベートオフヱンの内に、絶えて見る事を得なかつた、鋭い侮蔑と猛惡な笑ひとがある。善良さに於て貧しい此の作は、實に英雄的傲慢の所産であつたのである。

     *

 此の音樂を全體として見る時、人は、先づ、その樣々な形式の明かなる異質に驚かされる。そこには北方と南方とが混在して居る。そして、人は、そのメロディーの中に、太陽の牽引を感じる。「トリスタン」の中には伊太利風の何物かゞ在つた。そして、如何により多くがこのニイチヱアンの作品の内にある事だらう! その樂句は屢々伊太利風で、諧調は超獨逸的である。獨逸的な多音の嵐の中に欝積した暗雲と濃密な思想の被幕を裂いて、そこに現はれる伊太利の海濱の微笑する線や、その沿岸に展開された輪舞の幾群を見る事が出來るのは、その藝術が持つ魅力の一つだと云はねばならね。是は單に曖昧な類推ではない。彼の最も進んだ製作、「ツァラトゥストラ」や「英雄の生涯」の中から、佛蘭西や伊太利の明白な回想を引き出すと云ふ事は、凡そ容易で且無益な事であらう。メンデルスゾーン、グノー、ワグネル、ロッシーニ、そしてマスカーニ等は、不思議に腕を組み合つて居る。併し、之等の異種の元素は、作品全體の中で、作者の考慮によつて、制御され、同化させられて、且融和して居るのである。
 管絃樂は、その組合せが少いとは云へない。ワグネルのマセドニア方陣の樣に、緻密な、密集した塊ではないが、極度に細別され、區別されたものである。各部は、各々獨立した企圖に成つて他を顧慮する事なく、その想像の動くがまゝに任せて居る。それは或る時には、丁度べルリオのものを讀む時の樣に、その演奏の結果が、聯絡のない、弱められたものになるに相違いない樣に見えるであらう。しかもそれは殆んど完全である! 「どうです。よく響きはしませんか?」とは、シュトラウスが、「英雄の生涯」の指揮を終つた後で微笑を浮べながら予に云つた言葉であつた。

  (1)シュトラウスの最近の制作の内の、管絃樂の組合せは次の樣である。
「ツアラトウストラ」。ピコロ、一。フリユート、三。オーボヱ、三。イングリツシユ・ホーン、一。Eフラツトのクラリネツト、一。B調クラリネツト、二。B調バス・ クラリネツト、一。バツスーン、三。ダブル・バツスーン、一。F調ホ-ン、六。C調トランペツト、四。トロンボーン、三。バス・テユーバ、二。ケツトルドラム。ビッグドラム。シムバル。トライアングル。カリヨン。E調ベル。オルガン。ハープ、二。其の他弦樂器。
「英雄の生涯」。ホーン、六個の代りに八個。トランペツト四個の代りに五個(Eフラツト、二。B調、三。)尚、ミリタリー・ドラムを加ふ。

 それは、凡ての論理の敵が、氣まぐれと放逸な想像とが、勢ひを得て居る彼の主題に於て、殊にそうである。抑も之等の詩は、吾人が感じて居た樣に、文學的題材を、繪畫を、逸話を、哲學的思想を、そして作者の個人的感情を、交互に、寧ろ同時に表現しやうと云ふ野心を持つては居ないであらうか? どんな統一が、ドン・キホーテや、ティル・オイレンシュピーゲルの冐險物語に見られる事であらう? それにも拘らず、此の統一は、主題の中にではなく、彼等を處理する精神の中に存在して居るのである。そして最も饒舌な文學的生命を持つた之等の描寫的のスインフォニーを辯護するものは、即ち、より合理的で、より集中的な音樂的生命である。音樂家が、詩人の氣まぐれに對して、手綱を握つて居るのである。粹狂なティルは、「古いロンドーの形式に隨つて」喜戲して居る。そしてトン・キホーテの愚行は、「騎士風な主題に於ける、序言アントロデユクシヨンと終曲フイナレを持つた。十個のヷリエーシヨン」の中で説明されて居る。此の方法に於てこそ、現在で最も文學的で且描寫的なものゝ一つであるシュトラウスの藝術は、そこに人々が、大藝術家等に養はれて畢竟古典派である眞正の音樂家を感じる處の、音樂的構造の堅牢な事によつて同種類の他の者等から、確固として區別されるのである。
 斯くて又、此の音樂にあつては、到る處で、力強い統一が、混亂した諸元素を、そして屢々不釣合なものを感じさせるのである。それが、予にとつては、作者の靈魂の反映である樣に見えるものなのである。此の統一は、彼が感じる處のものではなくして、彼が欲する處のものである。彼の情感は、その意志に比して、彼にとつては遙かに興味の少いものであつた。そして熱烈さに於て乏しく、人格に於て、屢々、缺けて居たものであつた。彼の不安は、往々にしてシューマンから、その宗数的感情はメンデルスゾーンから、逸樂的方面はグノー或は伊太利の大家から、そして熱情はワグネルから(1)來たものである。併しながら彼の意志はヒーロイックで統治ドミナトリイス的で、熱情的で、莊厳に達するまでに力強いものである。そして此の事こそ、リヒアルト・シュトラウスが偉大で、且、現代に於て無雙なものであり得る所以である。即ち、人は彼の内に、人々を支配する力を感じるのである。

  (1)「グントラム」で、人は、彼が「トリスタン」の中の一樂句を使はうと決心した事を信ずる事さへ出來る。同時に彼が、熱烈な情慾を表現するべき、一層適當なものを見出し得なかつた事を。

     *

 彼がベートオフヱンとワグネルの思想の一部の繼承者であるのは、此のヒーロイックな方面によつてゞある。彼が詩人であり、更に寧ろ、彼の内、彼の英雄等の内に映發された處の現代獨逸に於て、最大の詩人であるのも此のヒーロイックな方面によつてゞある。――此の英雄を歡察しやうではないか。
 彼は、精神並びに、救濟的藝術に對する、抜群な能力に於て、拘束されざる信念を把持する理想主義者である。彼の理想主義は、最初、「死と變貌」に於て宗教的であり、「グントラム」に於て青春の幻想に滿たされ、そして婦人の樣に優しく、慈愛深きものであつた。次で、それは、世間の低劣と、それが衝突した處の障害に向つて奮激し、憤怒した。輕蔑は生長した。それは嘲罵に變じた。(テイル・オイレンシュピーゲル)それは爭闘に激して、次第に酷烈となり、遂に傲慢なる英雄主義にまで進んだのであつた。如何に「ツァラトゥストラ」に於て、彼の笑ひが吾々を鞭打ち、懲しめる事であらう! 如何に「英雄の生涯」に於て、彼の意志が、吾々を打ち碎き、傷ける事であらう! 彼は勝利によつて、彼の力に自信を持つた。そして今や彼の誇りは制限を知らぬものとなつた。彼の意氣は昻つた。そして彼は、曾て彼の反抗した人々の樣に、その法外な夢想と、現實との區別がつけられなくなつたのである。今日の獨逸には、疾病の根源がある。自負の亂心、自己の狂信、そして十七世紀の我が佛蘭西を思はしめる他人に對する輕蔑、是である。"Dem Deutschen gehört die Welt"(獨逸は世界の支配者なり)とは、伯林の商店の陳列窓に掲げられた廣告の、つゝましやかに語つて居る言葉である。此の點に到達する時、人々の精神は狂亂の境に踏み込むものである。あらゆる天才が、見やうによれば、狂氣して居る。併しながら、ベートオフヱンの狂氣は、彼自身の内に集中されて、彼獨特の喜悦のために創造の事業を遂行した。現代獨逸藝術家中の天才の多くは攻擊的である。それは、破壊的敵本主義の色彩を持つ。「世界を支配する」理想主義者は、眩惑の對象となる事が容易である。彼は、彼の内の世界を統御する樣に作られた。しかも、彼が統御するために呼び出した外界の現象の渦巻は、彼を熱狂させた。シーザーの如く、彼は、正路を忘るゝに至つたのである。獨逸は、そのニイチヱの聲を聽き、獨逸劇塲、セゝツションの幻覺藝術家等の聲を聽いた時、初めて、世界に於ける帝國の位置を占むる事が出來た。そして、今や此處にリヒアルト・シュトラウスの莊大なる音樂はあるのである。
 此の熱狂の赴く先は何處であるか? 抑も此の英雄主義の志す處は何ものに向つてであるか?此の強剛で緊張した意志は、そが、決勝點に達する時に於て速かに、或は逹せんとする以前に於て早くも衰へ去つてしまふ。それは、その勝利を如何にすべきかを知らないのである。そして勝利を輕視し、信ずる事をせず、或はそれに疲れてしまふのである(1)。 

  (1)「少し以前まで、欧羅巴統御の意思、欧羅巴支配の力を把持して居た獨逸精神は、遺言の結果の代りに、棄權へ達してしまつた。」「自己批評の論文」。(ニイチヱ)。千八百八十六年。 

 かのミケルアンジヱロの「勝利」の樣に、それは、俘虜の背にその膝を折り敷いた。そして彼を打ち殺す樣に見える。併し突然それを止めて躊躇する。そして、憂欝な倦怠を感じて、不愉快氣な口付と、放心したやうな不安な目を以て他方を見つめる。
 リヒアルト・シュトラウスの今日の制作は、丁度斯の如く予に見えるのである。グントラムは、ローベルト公を殺しながら、しかもその劒をとり落す。ツァラトゥストラの狂氣の笑ひは、失望した無氣力の告白によつて終つてしまふ。ドン・ファンの痴愚の熱情は、無の中に消えて行く。死に際してドン・キホーテは、その幻想を棄て去つてしまふ。そして英雄彼自身ですらも、その仕事の無益を悟つて、冷淡な自然の内に忘却を求める。――ニイチヱは、現代の藝術家に就て語りながら、「遂に疲勞して、基督の十字架下に打ち倒れる一切の、意志のタンタール、法律と反逆の敵」を嘲つた。――此の十字架と無を願ひつゝ、英雄等は、嫌厭に向つて、或は絶望よりも一層悲しき忍從に向つて、その一切を抛棄し、そして屈服する。ベートオフヱンがその悲哀に打ち克つたのは、斯うしてゞはなかつた。彼の陰欝なアダジオは、そのスインフォニーの眞中で流涕する。併し、歡喜と勝利こそは、その終りにあつたのである。彼の制作は征服をなし終へた英雄の凱旋である。併しシュトラウスのそれは、征服的英雄の敗戰である。――斯の如き意志の不决斷は、最も明瞭に、現代獨逸文學の内に、わけでも「沈鐘」の作者の内に見る事が出來るであらう。併しシュトラウスにあつて、それは最も顯著なものである。それは彼が明かに、最も英雄的であるが故に。一切の抛棄に終り、「予は最早や欲せず!」に終る此の超人の意志の盛装。
 此處に獨逸の思想の、死太い虫は横つて居る。――予は現在を輝かし、未來に先駈けする俊秀に就て語つて居るのである。その勝利に、莫大な富に、數に、そしてその巨腕を以て世界を抱擁し、制馭する事も出來る處の力に醉ひながら、遂に立止つて勝利の前に疲勞し、――「何故に自分は征服したのか?」と自問する英雄的な人々を予は見るのである。

 

 

 

 

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 フーゴー・ウオルフ (一八六〇〜一九〇三)

 偉大な藝術家等の歴史を讀む者は誰しも、彼等の生涯を包むで居た悲哀の量の多い事に心を打たれる。彼等はその大なる感受性を一層殘酷に傷ける、日常生活の試練と失意とを受けたばかりでなく、其の周圍は砂漠に似て居た。何故ならば、彼等は其の同時代者よりも二十年、三十年、五十年乃至は百年も先へ歩むで居たからである。そして彼等は屢々、世界を征服する事よりも、寧ろ生きる事の爲に絶望的な努力をする樣に定められて居た。
 此の果てしない苦闘に向つて、その天性が他の人々のそれよりも一層繊細である者が、長年月に亘つて反抗を續けて行く事は罕である。そして最も美しい天才者の多くが、病患、貧困、或は早世をその運命として持つて居る。そして尚、そこには、凡ての事柄に拘らず幸福であつたモツアルトや、シューマンや、ウヱーベル等がある。何となれば彼等は、その魂の健康を、創造の喜悦を、最後まで持ちこたへて行く事が出來たからである。よし彼等の肉體は勞苦と艱難とに引裂かれたとしても、尚彼等の夜の暗黑を遙かに照らす一の光明は燃し續けられて居た!そして假令彼が貧困であり、彼自らの内に幽居し、そしてその愛情に眩惑されて居たとしても、彼ベートオフヱンは、人間の最も不幸な者からは遠く離れて居た。彼の塲合だと、彼は自分自身の他には何も持つて居なか

つた。併し彼は自分を本當に握つて居た。自分の内の世界に君臨して居た。そしてどんな王國も、そこに嵐の吹き荒ぶ無邊際の蒼空の樣に擴がつた彼の廣大な想像の王國とは較べものにならなかつた! 最後の日に到る迄、彼の内の年老いたプロメシユースは、哀れむべき肉體に縛られながらも、その碎かれざる鐵の樣な力を持ちつゞけて居た。嵐の中に死に行く時でも、彼の最後の身振りは反抗のそれであつた。その苦痛の唯中にも、彼は彼の床の上に起上つて、空に向つて拳を振つた。そして戰ひ酣なる時僅かの一撃に打たれて、彼は倒れた。
 併し、彼等自ら生き長らへながら、その霊魂の徐々たる破壊を見まもりながら、そして次第に死に行く是等の人々に就ては、抑も如何なる事が云はるべきだらう! 
 斯の如きはその悲劇的運命が、彼に大音樂家の地獄の中に一の隔離した席を與へた處のフーゴー・ウオルフの宿命であつた。

  (1)フーゴー・ウオルフに關する書物は、彼の死後非常に多く獨逸で出版された。その主要なものはヱルンスト・デクセー氏の大部の傳記である――「フーゴー・ウオルフ」(伯林。千九百三年〜四年。)予に此の書物から非常に利する處があつた。それは彼に對する智識と同情に充ちたものである。予は亦ポール・ミユレル氏の優れた小冊子「フーゴー・ウオルフ」(近代評論モデルン、エツセー」伯林。千九百四年)並びにウオルフの書翰の聚集を、殊にヲスカル・グローヱ、ヱミール・カウフマン、フーゴー・フアイストに宛てた彼の手紙を参考にした。 

     *

 彼は千八百六十年三月十三日に、ステイリヤのウインデイシユグラツツで生れた。彼は革屋の四番目の息子であつた。――革屋の音樂家。丁度老いたるファイト・バッハがパン屋の音樂家であり、ハイデュンの父親が車夫大工の音樂家だつた樣に、フイリツプ・ウオルフはヴアイオリンやギタアやピアノをやつた。そして普段から彼の家で小さな五部合奏會をやつて居た。そこで彼は第一のヴアイオリンを、フーゴーは第二のヴアイオリンを、フーゴーの兄弟はヴイオロンセロを、叔父はホーンを、一人の友逹は次中音テノールのヴアイオリンを受持つた。田舎での音樂の趣味は特別に獨逸のものに限られては居なかつた。ウオルフは羅馬教徒カトリツクであつた。彼の趣味も總ての獨逸音樂家のそれと同じ樣に、合唱の本に養はれたのではなかつた。その上ステイリヤでは人々がロツシーニや、ベリーニや、ドニツヱツテイの古い伊太利歌劇をやる事を好んだ。ウオルフは、ずつと後まで、彼の血管の中をラテン民族の血が流れて居ると思ふ事を喜んで居た。そして彼はその一生を通じて佛蘭西大音樂家に對する偏つた愛を持つて居た。
 彼の修學期は格別光彩を殘したものではなかった。一つの學校から他の學校へと轉じながら曾て同じ處に彼は落付いて居なかつた。それでも彼は取り柄のない若者ではなかつた。彼は控へ勝ちで他人と親しくする事には無頓着だつた。そして熱心に音樂に沒頭して居た。彼の父は、自然、彼が音樂を職業とする事を好まなかった。それで彼はベルリオが持つて居たと同じ苦しみを抱いて居た。遂々彼は家族の許しを受けて維納に行ける處まで漕ぎつけた。そして千八百七十五年に、そこの音樂學校コンセルヷトアルへ入つた。併しその事でちつとも幸福ではなかつた。二年目の終りに彼は我儘だと云ふので放逐されてしまつた。
 どうしたらいゝだらう? 彼の家族は零落れて居た。火事の爲めに彼等の少し許りの持物が烏有に歸してしまつたからである。彼は漸く自分を壓し付けて來る彼の父の無言の叱責を感じ出した――何故なら彼は父親を本當に愛して居たから。そして彼の爲めにした父親の犠牲を知つて居たから。彼は自分の田舎へ歸る氣になれなかつた。又實際歸る事も出來なかつた。それは死ぬ事であつた。此の十七の少年にとつては生活の資料を得る手段を探し出す事と、自分を啓發して行く事が同時に必要だつたのである。音樂學校を放逐されてからは彼は他の學校へ入らうと思はなかつた。彼は自ら教へた。驚く程自ら教へた。併し、どんな報酬に向つてだ! 彼が其時から三十になるまで續けて行つた艱難。生きる事と、彼の内にある美しい詩的精神を耕す事とに彼が使ひへらした莫大な精力の高。――之等の努力と辛苦とは、疑ひもなく、皆彼の不幸な死の原因となつたのだ。彼は仕事に對する智識と熱情とに向つて燃える樣な飢渇を感じて居た。それは時には彼に飲み食ひの必要を忘れさせるものであつた。
 彼はゲーテに對して非常な嘆美の情を抱いて居た。そして、その天與のものと生涯とが幾分彼に似通つて居た。ハインリツヒ・フオン・クライストに有頂天になつた。彼は又、未だ僅かしか認められて居ない時分のグリルパルツヱルとヘツベルの心醉者であつた。そして又、後年彼が獨逸で有名にさせた處のメーリケの價値を發見した最初の獨逸人の一人であつた。此の外に彼は英國と佛蘭西の作家のものを讀んだ。彼はラブレを好んだ。そして、その「叔父べンジヤミン」(Oncle Benjamin)が、ウオルフの云ふ處によれば、彼等の前に彼等自身の小さな世界の幻影を齎し、彼の快活で善良なユーモアのために彼等にその勞苦を微笑を以て堪えて行かせた事で、非常に多くの獨逸の田舎の家族の間に好感を與へた處の佛蘭西の田園小説家クロード・テイヱーに特別な愛を持つて居た。そして若いウオルフは、碌に食ふ事も出來ないで居ながら、一層よく外国の藝術家の思想を知るために佛蘭西語と英語を學ぶ方法を見付けた。
 音樂に就ては、彼は非常に多くをその友達の維納音樂學校の教授シヤヤルクから學んだ(1)。併しベルリオと同樣に彼はその一番多くの智識を圖書館から得た。そして大家の樂譜を讀む事に數ケ月を費した。ピアノを持つて居ないので彼は、ベートオフヱンのソナタを維納のプラーテル公園へ持つて行つては、露天の腰掛の上でそれを研究するのを常として居た。彼はバッハとベートオフヱンの古典派に浸り、シユーベルトとシユーマンの樣な獨逸の歌リイドの大家の中に漬かった。彼は熱烈にベルリオを好いた若い獨逸人の一人だった。そして遂に佛蘭西が、マイヱルベールや、ワグネルや、フランクや、デビュッシーに屬する佛國批評家の曾て理解しなかつた此の大藝術家を所有する名譽を感ずる樣になつたのはウオルフの御蔭であつた。彼は又早くから、その音樂に就ては、八つのスインフオニーも、「神にテ・デウム」も、彌撒曲ミサも、カンタゝも、その他夥しい數の作曲も佛蘭西の吾々がちつとも知らない處の老アントン・ブルツクネルの友達であつた。ブルツクネルは氣持のいゝ愼み深い性質と、人に好かれる、寧ろ子供らしい人格を持つて居た。彼はその生涯を通じて、幾分ブラームスの仲間に壓倒されて居た。併し佛蘭西のフランクと同樣に、彼はその當時の官學派と戰ふべき新らしい獨創的才能を身邊に鎧つて居た。

  (1)ヨセフ・シヤルクは維納に於けるワグネル協會フヱライン創始者の一人であつた。そしてその一生を彼が呼んで彼の「司令官閣下ヘル・ゲネラリツシムス」と云つた)ブルツクネル崇拝の宣傳と、ウオルフに對する競爭とに捧げた。

 併し是等凡ての感化に比べてその最大のものはワグネルの感化だつた。千八百七十五年に「タンホイゼル」と「ローヱングリン」とを指揮するために、ワグネルが維納に來た。そこで青年等の間に、丁度一世紀前に「ヴヱルテル」のそれが惹起したと同じ樣な心酔の熱情が湧上つた。ウオルフはワグネルに會つた。どうして? 彼は彼の兩親への手紙の中で、それを吾人に語る。予は彼自身の言葉を茲に引用しやう。それは人を微笑させるだらう。彼の青春の向ふ見ずな信仰に愛を感じさせるだらう。そしてこんなにも熱情を湧かさせる人間が、たつた少し許りの同情によつてさへこんなにも多くいゝ事の出來る人間が、若し他人を慰める事をしない樣な塲合には、それは非難すべき事だと云ふことを感じさせるだらう。それにも增して如何に彼が寂しさと、救助の手を持たない事で、ワグネルの樣に苦しむだかを知らせるだらう。諸君は此の手紙が十五歳の少年によつて書かれた事を記憶して居なければならない。
 「僕は――の處へ行きましたよ。誰の處か解りますか?……リヒアルト・ワグネル先生の處! すつかり御話します。あつた通りの事を。僕が自分のノートブックに書いた通りの文句を、僕は間違はない樣にそのまゝこゝへ書きます。
 十二月九日、木曜日の十時半に、帝国ホテルでリヒアルト・ワグネルに會ひました。之が二度目です。僕はそこの階段の處で半時間許りあの人の來るのを立つて待つてました。(僕はあの人が其の日「ローヱングリン」の最後の練習を指揮すると云ふ事を知つてたのです。)遂に先生は二階から下りて來ました。そこで僕はあの人が未だ僕から相當の距離に居る時、非常に叮嚀に御辭儀をしました。あの人は大變親しいやり方で僕に禮を返しました。あの人がドアに近付いた時、飛び出してあけて上げましたら、数秒時間僕の顏をヂッと見つめて、それから劇塲オペラの練習に行つてしまひました。僕は出來るつたけの速力で馳けました。そして一頭曳の馬車へ乘つて居るリヒアルト・ワグネルよりも先に劇塲へついてしまつたのです。僕は又御辭儀をしました。そしてあの人のために馬車の戸をあけて上げやうとしました。けれども僕にそれが出來ない内に御者がその席から飛び下りて僕の代りにあけてくれました。ワグネルは何か御者に云ひました。僕はそれが僕の事だなと思ひました。僕はあの人に續いて劇塲に入りたいと思ひましたけれど、彼等は入るのを許してくれませんでした。
 僕は幾度か帝国ホテルであの人を待つて居ました。そして此の事で僕はホテルの支配人と近付きになりました。その人は僕の爲めにうまく取り計らつて呉れると約束したのでした。次の土曜日、十二月十一日の午後に來て彼に會へば、彼が僕をコシマ夫人の召使とリヒアルト・ワグネルの從者とに引合せる事が出來ると僕に云つてくれた時の僕以上に一體誰が喜んだでせう!僕は云はれた通りの時刻にそこへ著きました。夫人の召使とは一寸會つたゞけでした。僕は翌る日の日曜十二月十二日の二時に來るやうに云はれました。僕はきつちり其の時間に行きました。けれども召使と從者と支配人とは未だテーブルについて居たのです。……それから僕は召使につれられて先生の室へ行きました。そこであの人の來るまで十五分位待つて居ま
しだ。とうゝゝワグネルがコシマとゴルトマルクと一緒に出て來たのです。。僕は非常に丁嚀にコシマに御辭儀をしました。併し女の人は僕を一寸見たヾけで、たしかにその事を何とも思つて居ませんでした。……ワグネルは僕にはまるで注意しないで自分の室へ行きかけました。その時召使が頼む樣な口調であの人に斯う云ひました。
 「あゝ。ワグネル樣。此の方があなたに御話をしたいと申して居る若い音樂家で御座ゐます。此の方は長い間あなたを待つておゐでだつたのです。」と。
 そこであの人は自分の室から出て來て僕を見ました。そして斯う云ひました。
 「私は前に君を見た樣に思ひますが。君は……」
 「君は馬鹿だ」と、ことによると云ひたかつたのかも知れません。
 あの人は僕の前へやつて來て、すつかりローヤル式に装飾した應接間の戸をあけたのです。室の眞中には天鵞絨と絹で覆つた寢椅子がありました。ワグネル自身は毛皮で縁をとつた長い天鷲絨のマントに身を包んで居ました。僕が室の中へ入つた時、あの人はどんな用事があるのかと聞きました。

 此處でフーゴー・ウオルフは兩親の好奇心を引くために彼の話を切つて「次の手紙に續く」と付加へた。彼は次の手紙でつゞけて居る。

 「僕はあの人に斯う云つたのです。「高い名譽を持つて居らつしやる先生! 私は長い間、私の作曲に就て先生の御意見を伺ひたく思つて居りました。そして、それは………」
 こゝ迄來ると先生は僕の言葉を遮つて斯う云ふのです。「可愛い子供。私は君の作曲に意見を述べる事は出來ない。私は僅かの時間もない。自分の手紙を書く暇さへないのです。それに私は音樂と云ふものをまるで分つて居ないのです。(Ich verstehe gar nichts von der Musik)」

 僕は先生に、僕が本當に何かしら出來る人間かどうかを聞きました。するとあの人は斯う云ひました。「私が君位の年で作曲して居た時分、私が何かしら大きな事の出來る人間かどうか云つて呉れる人は一人も居なかつた。君は私にピアノで君の作曲をきかせて呉れる位の事は出來ます。併し今私はそれを聽いて居る暇がない。君がもつと年をとつて、もつと大きなものを作曲して、そして若し機會があつて私が維納へ來る樣な時かあつたらその時君は君のした事を私に見せる事が出來るのです。併し今はそれが何の役にも立ちません。私にも未だ君の作曲に意見を述べる事は出來ないのです。」
 僕が古典派を手本にして居ると先生に云ふと、あの人は云ひました。「よろしい。よろしい。誰でも初めからオリヂナルだと云ふ事は無理です。」そしてあの人は笑ひました。それから又云ひました。「愛する友達。私は君の未來に澤山の幸福のある事を祈りたい。眞面目に仕事を御續けなさい。そして若し私が維納に歸つて來る時があつたら君の作曲を私に見せて下さい。」
 僕は深い感動と印象とを與へられて、そこで、先生の處を辭したのです。」

 ウオルフとワグネルとはその後一度も會はなかつた。併し、ウオルフは絶えずワグネルの利益になる樣に戰つて居た。彼はワグネルの家族と何等箇人的の交際はしなかつたけれども幾度かバイロイトへ行つた。併し彼はリストには會つた。リストは例の善良さでウオルフが彼に送つた作曲に就て親切な手紙を書いて變更した方がよくなる箇處を彼に教へた。
 モットルと、作曲家のアダルベルト・ド・ゴールトシュミットとは彼が貧乏して居た時彼のために若干の生徒を探してやつて彼をたすけた最初の友達だつた。彼は七つか八つになる子供に音樂を教へた。併し哀れな先生だつた。そして授業して居る事が殉教だと云ふ事を知つた。取つた金は辛じて彼を干乾しにしないだけであつた。そして一日に一度しか食ふ事が出來なかつた――天は見そなはすのだ。自ら慰めるために彼はヘツベルの傳記を讀んだ。そして一度は亞米利加へ行かうと思つた。千八百八十一年に、ゴールトシユミツトが彼にザルツブルヒ劇塲で第二樂長の位置を得てやつた。彼の仕事はシュトラウスとミレッケルの小歌劇オペレッタの唱歌隊に練習をつけてやる事だった。彼は自分の職務を忠實に、併し死ぬ程疲れ切つてつとめた。そして彼は彼の權威を示すのに必要な力をなくした。彼は長く此の位地に止つて居なかつた。そして維納へ歸つて來た。
 千八百七十五年以後彼は作曲をして居た。歌リイド、ソナタ、スインフオニー、四部合奏曲カルテツト等を。そして彼の歌は既に最も重要な位置を占めて居た。彼は亦、千八百八十三年にはその親しみ多いクライストの「バンテジレア」のために交響詩ポエム・サンフオニイクを作曲した。
 千八百八十四年、彼は音樂批評記者としての地位を得る事に成功した。どんな新聞に! 遊獵と新流行の記事で埋まつて居る世俗的な「サロンブラット」にである! 人は此の小さな野人は賭物ガグールとしてそこへ置かれたのだと云つたかも知れない。千八百八十四年から千八百八十七年までの彼の批評は生いのちと諷刺とに滿ち滿ちて居た。彼は大古典音樂家を讃美した。グルック、モツアル卜、ベートオフヱン――そしてワグネルを。彼はベルリオを辯護した。その維納での成功が單に羞づべきものであつた現代伊太利音樂家を手ひどくやつつけた。彼はブルツクネルに對する槍を折つた。そしてブラームスに向つて勇敢な戰闘を開始した。それは彼のブラームスに對する偏見や敵意からではなかつた。彼は彼の製作のあるもの、殊に室内音樂ミユージク・ド・シヤンブルを好きだつた。併し彼はそのスインフォニーに缺點を見た。彼の歌の朗誦リイダアデクラマシヨンに附きものゝ不注意を不快に思つた。そして、一般的には、彼の獨創の不足に、力の不足に、悦びの不足に、大きくして豐かな生命の不足に慊らなかつた。その上彼は、不埒にもワグネルやブルツクネルやその他凡ての改革者に反對する仲間の頭領である事を攻撃した。何故ならば、維納での音樂を退歩させる者等が、音樂と批評との自由と進歩の敵である者等が、ブラームスの身邊に集り、彼の名を後ろ楯にして憎むべき仕事を働くからであった。そして、ブラームスは藝術家として、又人間として、彼等の仲間からは實際に超越して居た事は居たが、彼等を拒絶するだけの勇氣はなかつた。
 ブラームスはウオルフの論文を讀んだ。そして彼の攻撃が彼の平氣さを動かした樣には見えなかつた。併し「ブラームス黨」は決してウオルフを許さなかつた。彼の最も激烈な敵は「必ず赦さるべからざる聖靈の褻瀆(1)、」(馬太傳第十二章、三十一、二節)反ブラアムス主義を發見した處のハンス・フオン・ビウローであつた。それで數年を經てからウオルフが彼自身の作曲を公演する事に成功した時、彼は維納に於ける「ブラームス派」の首領マツクス・カルベツクと同樣に報告書コント・ランデユを朗讀する事が出來た。
 「ウオルフ氏は曾て報告者として、その筆法と趣味との奇怪なる罪證によつて、音樂界に到底防ぐべからざる底の嘲笑を湧起せしめたり。時に人ありて、寧ろ其身を作曲に委ぬるに如かずなる注告を氏に致す。されど氏の音樂最後の所産は、此の好意を持てる注告の甚だしく不適當なる事を證したり。氏は再び批評の筆を収る事に立戻らざるべからず。」

  (1)デトレフ・フオン・リゝヱンクロンに宛てたフォン・ビウローの手紙。

 維納の一管絃樂協會がウオルフの「バンテジレア」の試演をやつた。そして凡ての善い趣味にも拘らず、嘲笑の喧囂の中で演奏された。それが終つた時管絃樂の指揮者は斯う云ふのであつた。「紳士諸君。私は此作品を終りまで演奏する事を許して下すつた事を諸君に謝さなければなりません。併し私は、ブラームス先生に就てあんな事を書く程の勇氣ある人のやり方をどんなものだか知りたいと思つたからであります。」と。

 ウオルフは、彼の義理の兄弟の税務監督官のストラツセル(1)と一緒に、その故郷に數週間滯在して居た間僅かに貧困から免れて居た。彼は彼の書物や詩集を持ち出しては、それを作曲し初めた。

  (1)ストラツセルに宛てたウォルフの手紙は、彼の藝術家としての熱情と、不幸な魂に對する智覺を與へる事で吾人を益する事が非常である。 

     *

 今や彼は二十七歳になつた。そして未だ何も出版しては居なかつたのである。千八百八十七年と千八百八十八年とは彼の生涯中最大の劇變期であった。千八百八十七年には彼があれ程愛して居た父親を失つた。そして彼を當惑させた此の損失は、彼の多くの他の不幸と同じ樣に彼の爲めにはそのヱネルギーの源泉となつた。同じ年にヱクスタインと云ふ侠氣のある友達が彼の歌リイドの最初の集を出版した。ウオルフはそれまで息づまつて居たが此出版が彼を甦らせた。そして天才を釋き放した。千八百八十八年の二月、維納に近いぺルヒトルヅドルフに住居を定め、絶對の平和の中で彼はスワビアの牧師詩人パストウル・ポヱート、ヱドヴアルド・メーリケの詩を三ヶ月の間に五十三個の歌リイドに作曲した。それは千八百七十五年に死んだ人で、一生を誤解と笑に過したが、今は獨逸國内で非常に一般的な名譽を得た人である。ウオルフは、その創造力の突然の發見の爲めの、歡喜と驚骸の高調の唯中に彼の歌を作曲した。

 「今は夜の七時です。そして僕は幸福です。最も幸福な帝王と同じ位な幸福さです。又、新らしい歌! 僕の魂。それを若し君が聽いて呉れるなら!……悪魔は歡樂で君を引き攫つてしまふだらう!……
 又、二つの新らしい歌リイド! 中に一つ僕が怖くなる程恐ろしく不思議な音を出す奴がある。之と同じものは二つとは在りはしない。神はいつか之を聽く哀れな人々の上に惠みを垂れ給ふのだ!……
 若し君が僕の今書き上げた最後の歌リイドを讀むとしたら、君は魂の中にたつた1つの慾望より他のものは持てなくなる。死ぬ事だ!……君の幸福な幸福なウオルフ!」

  ドクトル、ハインリツヒウヱルネルに宛てた手紙。

 彼はメーリケ、リイダアを終ると直ぐにゲーテの詩の歌リイドの連作セリイにとりかゝつた。三ヶ月の内に、(千八百八十八年十二月から千八百八十九年二月迄に)彼はゲーテ歌集リイダア・ブツフをすつかり書き上げた。――五十一個の歌リイダア。その中には「プロメトイス」の樣に大きな劇的な塲面を持つたものも幾つかあつた。
 同じ年に、ペルヒトヅドルフに居ながら、アイヒヱンドルフの歌リイドの一巻を出版した後で、ハイデによつて飜譯された西班牙の詩によつた歌リイダアの新らしい輪作シイクル――西班牙歌集スパニツシヱス・リイダア・ブツフ――に突入した。彼は一樣の喜びの法悦の中で四十四個の歌リイダアを書いた。

 「今自分の書いてゐるものを、自分は未來の爲めに書くのである……シユーベルトとシユーマン以後斯ふ云ふものは一つも無かった!」

 西班牙歌集を書き上げてから二ヶ月過ぎて、千八百九十年に彼は又、偉大な瑞西の作家、ゴツトフリード・ケラーの「アルテン・ワイゼン」と呼ぶ詩の爲めの歌リイダアの輪作シイクルを作曲した。そして最後に、同じ年に、彼はガイベルとハイゼの飜譯した伊太利の詩による伊太利歌集イタリヱニツシヱス・リイダア・ブツフに着手した。
 そして、それから。――それから、沈默が來た。

     *

 ウオルフの歴史は、音樂の歴史の中で最も特殊なもの一つである。そして天才の神祕を最もよく示したものゝ一つである。
 予は前に述べた處を略記する。二十八歳の時はウオルフは殆んど何も書かなかつた。千八百八十八年から、千八百九十年迄の間に、五十三個のメーリケ・リイダア、五十一個のゲーテ・リイダア、四十四個の西班牙のリイダア、十七個のアイヒエンドルフ・リイダア、一打デイゼーヌのケラー・リイダア、そして最初の伊太利のリイダア、凡て驚くべき特色を持つて殆んど二百を算するものを、次から次へと酔つて居る者の樣に書いたのである。
 そしてやがて音樂は止むだ。源泉は涸れ切つた。ウオルフは非常な煩悶の中で絶望的な手紙を書いた。
  
 「……作曲する事に就て、僕はまるで考へと云ふものがなくなつてしまつた!それが何時おしまひになるかは神が知り給ふのみだ! 僕の哀れな魂の爲めに祈つてくれ(1)
 「……此の四ヶ月の間と云ふもの、僕は精神の衰退に惱まされて居た。その事は、極めて眞劒に、僕が永遠に此の世を去るのではないかと云ふ懸念を起こさせた………本當に生きる者だけが生きなければならない。僕はずつと前から死んだ者の樣にして來た。若し之が實際の死であつたならばと思ふ! 併し僕は死んで僕は埋められて居る。唯僅かに肉體を支配する力が僕に幻の生命を見せて居るだけだ。やがて此の肉體が、既に去つてしまつた靈魂の後を追はん事を! 是が僕の奥底のものであり、唯一の願ひなのだ。此の十五日間僕はトラウンゼヱの眞珠、トラウンキルヒヱンに住んで居る。……人間の欲する處を滿足させるもの悉くが、僕を幸福にさせるために此處にある(2)。……平和・靜寂、美しい風景、新鮮な空氣。一口に云へば凡てが僕の樣な世捨人ヱルミートの趣味に適して居るのだ。そしてそれでも、それでも我が友よ。僕は此の地球上で最もみじめな生物である。僕の周圍には凡てのものが幸福と平和を見せて、凡てが動搖し、顫動して、その務めを果して居る。……たつた一人、僕は、おゝ、神よ! たつた一人、僕は聾で愚鈍なけものゝ樣に生きて居る。今は讀書すらも僕を少しも慰めはしない! 絶望の中で僕はそれに没頭しては居るけれど。作曲に就て云へば、それは終つた。僕はもうハーモニーやメロデイーの事を考へる事も出來なくなつた。そして僕の名を冠する作曲が本當に僕のものであるかどうかをさへ疑ひ初める樣になつてしまつた。おゝ! 何の爲めの此の名譽だ!……どんな善いものゝための立派な計畫だ。若しそれが此のみじめさへ逹するためのものだつたなら!……
 「天は人々に全き天才か或は全く然らざるものを與へる。地獄は予に凡てその半ばのものを與へた。」
 何と云ふ眞實だ! おゝ! 何と云ふ眞實だ! 不幸な人よ! 君の一生の花盛りに、君は地獄へ行つた。そして運命の邪惡の顎に、君はその迷へる現在と君自身とを投げ込んでしまつたのだ! おゝクライスト(3)!………」

 

(1)千八百九十一年五月二日附の、オスカル・グローエヘに宛てた手紙。
(2)ウォルフは一人の友逹と其處に住んで居た。彼は千八百九十六年まで自分の家と云ふものは持つて居なかった。そして、それも彼の友逹の親切によるものであつた。
(3) 千八百九十一年八月十三日附のヴヱツテーヘの手紙。

  千八百九十一年十一月二十九日、デーブリングで、突然、音樂の泉がウオルフの内に噴き上つた。彼は續け樣に十五個の伊太利の歌リイダアを書いた。時には一日の中に數個を書きながら。十二月になるとそれは又止つた。今度はそれが五年間續いた。併しながら此等の伊太利のメロディーは何等努力の跡を感じさせなかつた。そして、彼の從來の製作と比べて、もつと大きな精神の緊張も示して居なかつた。反對に、恐らく之等のものはウオルフの製作の中で最も自然で最も純化されたものである。そんな事はどうでもいゝ! 天才が彼の中で沈默して居る時、ウオルフは何にもならないのだ。彼は三十三個の伊太利の歌を書かうとしたが二十一番目で止めなければならなかつた。そして千八百九十一年に、伊太利歌集イタリヱツシヱス・リイダアブツフの一冊だけを出版した。第二卷は、五年後の千八百九十六年に、一ヶ月で完成した。
 人は此の寂しい人の苦しむだ苦痛を想像する事が出來る。彼は創造の喜悦の中にのみ生きた。そして彼の生活が數年間いはれなく停止するのを見た。彼の天才は、近付いては離れ、暫しの間再び近付いては、又離れた。抑も幾度であらう? それが今度も亦歸つて來るであらうか?

 「……君は僕に僕の歌劇オペラの消息を尋ねるのか(1)? あゝ! 僕は、若し自分が極くちつぽけな歌リイドヒヱンを書けるとすれば、それで滿足するだらう! そして今、歌劇を?……それが自分から去つてしまつたと云ふ事は僕はかたく信じて居る……僕はどんなものを作曲するよりも、もつとよく支那語が話せる。恐ろしい事だ!……如何に僕が此の無爲に苦しんで居るかを、僕は云ひあらはす事が出來ない。僕は我れと自分を縊る事を望むだらう(2)。」
 「……君は僕の深い失望の原因を尋ねて僕の傷口に香膏を注がふと云ふ。……そうだ。若し君に出來ればだ! けれども僕の病ひには、地上のどんな草も役に立ちはしない。唯、神だけが僕を癒せるのだ。僕に靈感をとりもどし、僕の内に眠つて居る精靈を喚びさまし、それに新らしく僕を所有させる事が出來るなら、僕は君を神と呼び、君に向つて祭壇をしつらへやう! しかし、それは神への叫びであつて人間へではないのだ。僕の宿命を决する力は唯神の御手にあれ! よしそれがどんな仕方で自分に向けられやうとも、そして、それが最惡のものであらうとも自分は我慢するであらう。然り。如何に太陽の光りが僕の悲しき存在を輝かす事がなくつてもだ………そしてその上に、斷乎として我々はページを飜へして、我が生涯の暗黑の章と共に終らん事を望むのである(3)。」 

  (1)ウオルフの夢想、數年間の願望は一つのオペラを書く事であつた。
(2) カウフマンへの手紙。千八百九十一年八月六日。千八百九十三年四月二十六日。
(3)千八百九十四年六月二十一日附、フーゴー・フアイストへの手紙。

  此の手紙は――それがたつた一つのものではないが――ベートオフヱンの手紙の憂欝な忍從を思はしめる。そして不幸なベートオフヱンすらも知らなかつた樣な悲哀を示して居る。――誰か知り誰か知らないであらう。……最後のソナタ、「盛式彌撒ミサ・ソレムニス、」そして「合唱を持てるスインフオニーサンフオニー・アヹツカ・シユール(1)」の目覺めの前、千八百十五年に續く悲しき日々に於て、抑も彼は同じ苦痛を苦しまなかつたであらうか?

  (1)譯者註。コーラル・スインフオニー、或は第九スインフオニー。

  千八百九十五年の三月、ウオルフは恢復した。彼は三ヶ月の間に「主席法官コレジドール」のピアノの樂譜を書いた。數年間彼は舞臺に、殊に喜歌劇オペラコミツクに心を惹かれて居た。ワグネルにあんなに歸依して居ながら彼はかう宣言した。「ワグネルの樂劇から脱却しなければならない。」と。彼は自分の天性を知つて居た。そしてワグネルの足跡を辿らうとは決してしなかつた。その友達の一人が、釋迦の傳説からとつた歌劇の主題を彼に提出した時、彼は「世界は未だ釋迦の教理を理解する事は出來ない」と云ふ事と、彼には「人類に向つて新らしい頭痛を與へやうとする」氣がないと云ふ言葉を以てそれに答へた。
 「ワグネルは、彼の藝術で、吾々が大空に嵐を巻き起す事を彼が既にそれを征服してしまつた今になつては、不必要だと思ふ事で喜ぶ程にあんなに大きな解放の事業を完成した。此の美しい天空の中に、一の愉快な隠栖を覓めると云ふ方が遥かに賢い仕事である。僕の發見したく思つて居る此の愉快な小さな塲處と云ふのは、水と蝗と野生の蜂蜜との砂漠の中にあるのではなくて、併し、喜ばしい原始的な集りの中に、ギタアの清搔すががきの中に、戀愛の吐息の中に、月光の中に、そして何々……一口に云へば、その背景にシヨンペンハウヱルの、哲學の悲しき救濟者の妖怪スペクトルの居ない、全く一般的な喜歌劇の中にあるのである(1)。」

  (1)千八百九十年六月二十八日附、グローヘ宛の手紙。

 歌劇の臺本ポユームを、全世界に、古今の詩人の間に、シヱークスピアの中に、友人リゝヱンクローン(1)に覓めた後で、彼自身書く事を試みた後で、彼は遂にそれを西班牙の小説「ドン・ペドロ・デ・アラルコン」の改作「ロザ・マイレデール夫人」に得た。それは他の數個所の劇塲で斷られた後、千八百九十六年の六月にマンハイムで演出された「主席法官コレジドール」であつた。此の作は、音樂的に優れた點を持つて居たにも拘らず不成功に終つた。臺本リグレの貧弱な事がその失敗に與つたのであつた。

  (1)デトレフ・フォン・リゝヱンクローンは彼に亞米利加の主題を暗示した。併しウオルフは諷刺的にかう云った。「僕は、バツフアロー・ビルや彼の不潔組合ソシヱテ・マル・ラヴヱヱに驚きながらも、矢張り自分の生立ちの地、石鹸の利益を知つて居る人々を擇ぶ。」

 併し肝心な事は創作的天分が歸つて來た事である、ウオルフは伊太利歌集イタリヱニツシエス・リイダアブツフ第二巻の二十二箇の歌リイダアを一息に書いてしまつた。クリスマスに、彼の友達ミユルレルが、ウォルター・ロバアト・トルノーの獨逸譯のミケルアンジエロの詩を彼に贈つた。そしてウオルフは嬉しさに顚動してしまつて、即座にその詩の爲めに歌リイダアの全巻を捧げやうと決心した。千八百九十七年に、彼は最初の三つのメロディーを書いた。同時に彼は新らしい歌劇、アラルコンに依つたモリツツ・へルネスの詩「マニユヱル・ウヱネガス」に着手した。彼はその復活した健康を以て、力に滿ち、喜悦に滿ち、勇氣に滿ちゝゝて居る樣に見えた。千八百九十六年にミユルレルがシユーベルトの早世に就て語つた時、ウオルフは答へた。「人間は、彼が云ふべき事を悉く云つてしまはない内に奪ひ去られると云ふ事はない。」
 彼は自分で云つた通り「蒸汽機關の樣に」猛烈に働いた。千八百九十七年の九月には、「マニユヱル・ウヱネガス」の作曲で夢中になつて居た。休みなしにである。必要な食物をとる時間ですらやつとであつた。十四日間に、彼はピアノの樂譜の――作品全體の樂想モチーヴを悉くと、序幕の半ばとを含む――三十頁を書き上げてしまつた。
 その時亂心は來た。千八百九十七年九月二日、その仕事の唯中に、「マニュヱル・ウェネガス」の序幕の大吟唱曲の唯中に彼は倒された。
 彼はドクトル・スフェトリンの療養所に收容された。そして千八百九十八年の二月迄そこに居た。幸ひな事に彼は、彼を看護し、有り勝ちな不注意を補つて呉れる忠實な友達を持つて居た。彼の得たゞけのものでは、彼が平和の内に死んで行く事さへむづかしかつたからである。千八百九十五年の十月に、出版業者のシヨツトが、彼にメーリケ、ゲーテ、アイヒェンドルフ、ケラー、西班牙の詩などの歌と。伊太利詩の最初の卷の出版に對する印税を送つて來た時、その合計の高は、五年間で、八十六マルク三十五ブヘンニツヒだつた! そしてシヨッ卜は慇懃にその賣行がこんなに善いとは思つて居なかつた事を云つて寄越した。控へ目な、そして時には秘密な義俠心によつて彼を悲境から救つたばかりでなく、その最後の不幸の中で、貧窮の恐怖から彼を免れしめたのはウオルフの友達殊にフイーゴー・ファストであつた。
 彼は理性を恢復した。彼は、千八百九十八年の二月、病を全治する事と、仕事の事を考へない樣にするために、トリヱストとヹネチアヘ旅行させられた。併し注意も甲斐がなかつた。
 彼はフーゴー・ファイストに書いた。 
 「君は僕が何かしすぎると云ふ事を心配したり怖れたりする必要はない。仕事に對する本當の嫌悪の情がすつかり僕をとりこにしてしまつた。そして、それがため僕はどんな樂譜も決して書かないだらうと思ふ。僕は書きかけの歌劇に、ちツとも興味を持つて居ない。大概の塲合全ての音樂は厭ふべきものとなつた。それは僕の親切で善良な友達のおかげだ! 此の國に僕がどの位滿足して居られるか、それは僕にとつては謎だ!……あゝ! 君等幸福なスワビアの人々よ! 君等は何と云ふ羨やむ人達だらう!……君等の美しい風景で僕に挨拶してくれ。そして不幸で、疲れ果てた君等のフーゴー・ウォルフに、温かく抱かれて居てくれ(1)。」

  (1)千八百九十八年二月二日。フーゴー・フイストヘの手紙。

 併し、彼が維納へ歸つた時には、もう全快した樣に見えた。彼はその健康と快活とを取り戻した。唯、彼の性來の驚きのために、彼は、「次第に孤獨を欲する平靜で、沈痛な、緘默の人(1)」となつた。彼は何も作曲しなかつた。唯、ミケルアンジヱロの歌リイダアを訂正してそれを出版した。彼は冬の計畫を立てた。そしてグムンデンの近くの田舎で、「絶對に平靜に、何等の煩ひもなく、只藝術にのみ没頭して(2)」暮せる事を喜んだ。ファイストヘの彼の最後の手紙で彼は云ふ――      

 「僕はすつかりよくなつた。もう何にも養生の必要はなくなつた。君こそ僕よりもその必要があるかも知れない(3)。」

  (1)千八百九十八年四月二十一日、フアイストへの手紙。
(2) 同年八月二十九日、同人への手紙。
(3) 同年九月十七日、同人への手紙。

  新らしい亂心の發作は來た。今度こそ萬事は終つた。千八百九十八年の秋、ウオルフは維納の癲狂院へ送られた。最初の間彼は、若干の見舞客に面會したり、音樂家であると同時にウォルフの製作の讃美者である其處の主事デイレクトウールと、小さな二人合奏をしたりする事が出來た。彼は亦、春には、友達や附添の物と屋外で少しばかり散歩する事さへ出來た。併し彼はやがて、事物や、人々や、自分自身をさへも分らなくなり初めた。「そうだ。」と彼は吐息をつきながら云つて居た。「もし此の俺がフーゴー・ウオルフだったなら!……」千八百九十九年の中程から病は非常に昂進した。それは一般的の痲痺であつた。千九百年の初めに、先づ言語が冐された。そして千九百一年の八月には遂に全身に及んだ。千九百二年の初めから彼は醫師に見放された。併し彼の心臓は未だ破壊されずに居た。そして、不幸な人は尚一年を生き長らへた。千九百三年二月十六日、遂に彼は肺炎で倒れた。
 人々は彼のために盛んな葬式を行つた。それはフーゴー・ウォルフの生前には何事をも爲なかつた人々の全てによつて行はれたのであつた。墺國政府、維納市、彼の故郷ウィンディッシユグラッツ町、ウォルフを放逐した音樂學校、長い間彼の製作を冷遇した樂友協會ゲゼルシヤフト、ムージツクフロインデ、彼に向つて扉を鎖したオペラ、彼を輕蔑した歌手、彼を嘲笑した批評家――凡ての人々が其處に列つた。人々は彼の哀しき曲の一つ、アイヒェンドルフの「忍從レジニヤシヨン」と、彼に前立つて數年前に死んだ彼の舊友ブルックネルの合唱を歌つた。彼の忠實な友ファイストは、一同の先登に立つて彼の爲めに一の記念碑をべートオフヱンとシューべルトのそれの近くに建立する事に斡旋した。

     *

 斯の如きはその生命を三十七歳に斷ち切つた彼の生涯であつた。――何故なれば全き亂心の五ヶ年を數に入れる事は出來ないからである。藝術界に於ても之程恐しい例は少ない。ニイチヱの不幸も之とは隔つて居た。ニイチヱの亂心は幾分なりとも精力を産むものであつた。それは曾て平衡を保つた完全な健康の裡には發する事のなかつた閃々たる天才を迸發させたものである。ウォルフの亂心は死滅的であつた。それのみでなく、人は彼の生活が、その三十七年間に於てすら如何に不思議に割りつけられて居たかと云ふ事に氣がつくであらう。彼は實際では二十七歳になる迄その創作を初めなかつた。そして千八百九十年から千八百九十五年に至る五ヶ年の間、沈默を強ひられた。彼は事實では三年或は四年しか生きなかつたのである。併し此の四年間を彼は多くの他の藝術家等が長い道程の間にしたよりも一層眞實に生さ拔いた。そして其の製作の中に、一度それを知つた上は到底忘れる事の出來ない樣な人格の印象を殘したのである。

     *

 之等の製作は、既に吾人が知つて居る樣に、主として歌リイダアから成つて居る。そして之等の歌は、ドラマの領域でワグネルによつて實證された抒情音樂の原理を應用した點に於て特色がある。此の事は彼がワグネルを模倣した事を意味しはしない。人は、ウォルフの音樂の其處此處にワグネル派の形式を見出す。(宛も、到る處に明らかなベルリオの記憶の見られると同じ樣に)それは彼の時代の避くべからざる標準である。そして各大家は夫れ夫れ吾人全體に属する言語を豐富ならしめるためにその持分を出資するのである。併しウォルフの眞のワグネル主義は之等無自覺な類似から成立つたものではなかつた。それは、詩を音樂の靈感たらしめやうとするウォルフの確かな意志の中に存して居た。「何よりも先づ」と彼は千八百九十年にフンペルディンクに書いた。「詩こそ僕の音樂の眞源泉である事を示すのだ。」
 人間が、ワグネルの樣に、詩人であると同時に音樂家である塲合、彼の詩と音樂とが完全に調和すべきは自然な結果である。併しそれが、他の詩人の魂を音樂に飜譯すると云ふ塲合になると、心的の明敏さの特殊な天稟と、豊かな同情とが必要なものとなる。之等の天稟こそ非常な強度を以てウォルフの所有して居たものであつた。如何なる音樂家も彼よりも鋭く詩人等を翫味し、評價したものはなかつた。彼の批評家の一人であるゲー・キユールは云つた。「彼はモツアル卜以後、音樂界に於ける獨逸最大の心理學者であつた。」と。此の心理學は少しも困難なものではなかつた。ウォルフは彼が眞に愛した詩でなければ、それを音樂にする事は出來なかつたのである。彼は彼が音樂化しやうと欲した詩があると、常にそれを幾度か繰り返して讀むか、或は高聲に夕方それを朗讃した。若し彼がそれによつて非常な昂奮を感じると、彼はそれから隔離して、それに就て默想し、そしてその雰圍氣の中に漬つた。そして眠りについて翌朝になると彼はいきなりその歌リイドを書く事が出來たのである。併し或る詩は幾年か彼の内に眠つて居る樣に見えた。そしてやがて突如として音樂の形となつて彼の内に目覺めるのであつた。斯う云ふ時、彼はいつでも幸福の叫びを發した。「君には解るかい?」と彼はミユルレルに書いた。「僕は無性に嬉しくつて怒鳴つたのだ。」彼は丁度卵を産むだ後で鬨をつくる年老いた牡鶏の樣だつたとミユルレルは云つた。
 ウォルフは曾て彼の音樂に平凡な詩を選んだ事がなかつた。――それはシユーベルトやシユーマンに就て云はれるより以上にである。彼は同時代の詩人の書いたものには一つとして手をつけなかつた。假令彼によつて作曲される事を非常に望んで居たリゝヱンクローンの樣な人々には同情を持つて居たとしても。併し彼はそうする事が出來なかつた。彼は大詩人の製作に對しても、それが彼の一部と思はれる程彼に親しみ深いものにならなければ作曲する事は出來なかつたのである。
 その歌リイダアにあつて吾人を驚かすものは、ピアノの件奏の重要な事と、肉聲に對する其の獨立とである。或時は肉聲とピアノとが、言葉と詩想との間に斯くも屢々存在する處の對照を表現する。又或時はゲーテの「プロメトイス」の樂譜の塲合の樣に、それは二箇の人格を表現する。そこでは件奏が電雷を放射するジユース神をあらはし、肉聲がタイタンを描き出す。或は又、アイヒヱンドルフのセレナードの樂譜の樣に、歌が、耳傾けながら彼の青春の頃を追懐する老人の聲である時、件奏を用ひて彼は戀する学生を描くであらう。併し常にピアノと肉聲とは彼等獨自の箇性を持つて居るのである。諸君は全體を傷けずして彼の歌リイダアから何物をも取り去る事は出來ない。殊に、彼の情緒を開いては閉ぢそして圍んでは約める樣な樂器の樂節に於てそうである。音樂的形式は、詩的形式を正確に摸する事によつて驚くべく多樣である。それは或る時は不確かな思想、詩的印象或は一小動作の簡潔な記録であり、或時は又、大叙事詩か劇的繪畫である。ミユルレルはウォルフが詩の中に、その詩人以上のものを加へた事を注意して居る――丁度その伊太利歌集イタリヱニツシエスリイダアブツフの塲合の樣に。それは彼等が彼に就て成し得る非難の最も惡いものである。そして尋常の事柄ではない。ウォルフは、彼自らの悲劇的運命にふさはしい詩を作曲する時、宛もそれに對して或る預覺を持つて居た樣に、彼は特別に卓越して居た。吾人があの「ヰルへルム・マイステル」の老いたる竪琴弾きや、ミケルアンジヱロの或る詩に現はれた偉大なる虚無に見る樣な、懊惱し絶望する心靈の煩悶を、彼にも增してよく表現した者は一人もなかつたのである。
 彼の歌リイダアの全集の中で、最初に出版された「ヱドヴアルト・メーリケの五十三箇の詩、歌聲とピアノの爲めの樂譜」は最も一般的なものである。それはウォルフのために多數の知己を得た。それは藝術家等の間にではなくて、(或は少數の彼等に)併し、善良で最も公平な人々――藝術をその職業とせずして而し尚それを彼等日常の精神的のパンとした貧しい人々や、正直な人々の間にであつた。獨逸には、彼等の苦しい生活を、その音樂に對する愛によつて美化して行く是等多數の人々がある。ウォルフは此の樣な友を到る處に發見した。殊に最も多くをスワビアに發見した。スツットガルトで、マンハイムで、ダルムスタットで、そして是等の都會を取り卷く田舎で彼は非常に一般的ポピユレールになつた。――シューベル卜とシユーマン以後の唯一人の一般的な音樂家となつたのである。社會のあらゆる階級が彼を愛する點で一致した。「彼の歌リイダアは」とデクセイ氏は云ふ。「シユーベル卜の歌の傍らに置かれて、一番貧しい家庭のピアノの上にさへある」と。ウォルフにとつてスツットガルトは、彼自身書いた樣に、第二の故郷となつた。彼は、スワビアで前例のない程な此の聲望を、歌に對する人々の熱愛から、ウォルフの歌の中に甦つたスワビアの牧師メーリケの詩に對する熱愛から受けたのである。ウォルフはメーリケの作詩の四分の一を作曲した。彼はメーリケを自分の内にとり入れた。そして彼に獨逸詩人の中の最初の席の一つを與へた。それは眞に彼の意志であつた。そして彼はその歌リイダアの巻頭にメーリケの肖像を入れた時にその事を云つた。彼の詩を朗讀する事が、ウォルフの靜まる時なき精神に一の緩和劑として働いたとしても、或は彼が初めて此詩を音樂にして見た時、自らの天才を自覺したとしても、兎も角彼はそれに對して深い感謝の念を抱き、そして最初の歌集を初めるに際して、その快美な、寧ろベートオフヱン風の歌、「希望に向へる病後の人デア・グネゼンデ・アン・デイー・ホツフヌング」を以てそれを表はそうとしたのである。
 「ゲーテ歌集」(1888-89)の五十一個の歌リイダアは、幾つかの歌の類作から成つて居た。「ヰルヘルム・マイステル・リイダア、」「ディファン(シュライカ)リイダア」等。ウォルフは詩人の通つた創造の道と同じ道を進まうと試みた。此の點で吾人は、彼が屢々シユーベル卜に拮抗するのを見る。彼はシユーベル卜が詩人の思想を的確に傳へて居ると思はれた詩を材料にする事を避けた。丁度「秘密ゲハイメス」や「義兄弟クロノユ」の塲合の樣に。併し彼はミユルレルに、シューベル卜がゲーテに就て少しも理解を持つて居なかつた時が幾度かあつた事と、その證據として、彼がゲーテの眞の人格を表はす事よりも、寧ろその詩の普通な抒情的な思想を飜譯する事の方に意を用ひたと云ふ事を語つた。ウォルフの歌リイダアに就て特に興味のある點は、彼が詩中の人物に對してそれぞれ獨自の性格を賦與した事である。竪琴彈きハルフヱン・スピイレルとミニヨンとはその驚くべき洞察と抑制とを以て寫し出されて居る。ウォルフは單一な言葉の中に悲哀の全世界を現はすゲーテの藝術を、或る頁の内に發見した。偉大なる心靈の荘重さが、熱情の渾沌を遙かに瞰下するのである。
 「ハイゼ及びガイベルによる西班牙歌集」(1889-90)は既にシユーマン、ブラームス、コルネリウス其の他の人々に靈感を與へたものであつた。併し誰一人として、それに粗削りで且肉感的な性質を與へやうとしたものはなかった。ミユルレルは特に、如何にシユーマンが其の詩の本性を惡變したかと云ふ事を擧げて居る。彼は單に其等の詩に獨特の感傷主義サンチマンタリズムを投げ込んだばかりでなく、彼は勇敢にも、此の最も特色のある獨自の性質を持つた詩を、四部の合唱を以て歌はせる樣な事をした。それは彼等を全く馬鹿々々しいものにすることであつた。そして一層惡い事には、若しそれが彼を妨げる樣な事があると、彼は詩の言葉や意味を變更したのであつた。之に反してウォルフは彼自身を此の憂欝で逸樂的の世界に深く沈潜させた。そして决してそこから心を轉じる樣な事をしなかつた。そして誇らしげに云つた樣に「幾つかの傑作」を彼は産んだ。類集ルケイユの最初に現はれた十個の宗教的な歌は、幻想の神秘であり、血涙に泣くものである。其等は耳に痛ましく、心に痛ましい。なぜならば、それが、自ら苦悶する處の一の眞實の、熱切にして荒寥たる表現だからである。それに隣つて、人は、聖なる家族サント・フアミイユの微笑する幻影を見る。それはムリロを想はしめる。三十四箇の民謡はその驚くべき變化に於て、燦爛とし、微動し、氣まぐれである。一つ一つが痛切な線を以て描かれた異つた形容と人格を表はして居る。そして類集全體は生命に溢れて居る。「西班牙歌集」はあの「トリスタン」がワグネルの傑作である樣に、ウォルフの傑作であると或人は云った。
 「伊太利歌集」(1890-96)は全く異つたものである。その表現法は茲では集中的コンサントレヱであつた。ウォルフの天才は形式に於て古典的の純美に近かよつた。彼はその音樂上の用語を單純化する事に苦心した。「自分は今偏へにモツアルトの樣に書く事を欲する。」と彼は云つた。全ての附加物が最小限度に縮められて、本質的なものゝみになつた。そのメロディーは非常に短かくなつて、抒情的と云ふよりも一層戯曲的となつた。ウォルフは其等の作を彼の製作の中での重大な位置においた。「僕は彼等を」と彼はカウフマンに書いた「僕の作曲の中で一番獨創的で一番完全なものだと思ふ。」と。
 「ミケルアンジエロの詩ゲデイヒテン」(1897)に就ては、其等は彼の精神錯亂によつて妨げられた。ウォルフは四つだけしか作曲出來なかった。その内一つを彼はかくしてしまつた。之等のものは、單にそれが作曲された悲しい日の思ひ出によつて感動すべきものであるばかりでなく、この悲劇の豫言的直覺によつて、且重苦しく、尊大で、嚴肅な苦痛によつてそうである。第二のメロデイーは曾てウォルフが書いたものゝ中で、恐らくは一層美しいものであらう。それは眞に彼の死の歌である。

   Alles endet, was entstehet.
   Alles, alles rings vergehet.

   諸々の生れしものは終り。
   一切悉く去りまた消ゆ。

 そして斯う歌ふのは死せる人出或る。 

   Menschen waren wir ja auch,
   Froh und taurig, so wie Ihr.
   Und nun sind wir leblos hier,
   Sind nur Erde, wie Ihr sehet.

   曾ては我等も亦人なりき。
   幸にして亦悲しき事卿等の如く。
   今や我等より命はうばはれ、
   我等唯、地なり、卿等の見る如く(1)

 その精神錯亂の最後の強襲の前の一時の小康に際して、彼が此の歌を書いて發表した時、彼自身殆んど死せる人であつた。 

  (1)
Chiunque nasce a morte arriva
Nel fuggir del temps,e'l solo
Niuna cosa lascia viva......
Come voi, uomini fummo,
Lieti e tristi, come siete;
E or siam, ocme vedete,
Terra al sol, di vita priva.   
        (ミケルアンジヱロ詩百三十六)

     *

 ウォルフが眞に死ぬと同時に、彼の天才は全獨逸を通じて認められた。彼の諸々の苦しみは彼を愛する者の中に殆んど驚くべき反動を惹起した。フーゴー・ウォルフ協曾は到る處に創立された。そして今日吾人は夥しい數の出版、書翰集、回想録、傳記等を持つ。それは人が不幸なる藝術家の天才を常に理解して居た事を明言し、そして誹謗者に對して憤怒する塲合の事である。そして記念碑と彫像とは間もなく簇出しやうとして居る。
 予はその性質に於て粗削りで眞摯なウォルフが若しそれを豫見し得たならば、此の遲れたる尊敬の内に大なる慰藉を見出したかどうかを疑ふものである。彼は其の死後の讃美者に向つて斯う云つたであらう。
 「君達は僞善者だ。君達がこんな彫像を建てるのは、僕に對してゞはなく、君達自身に對してなのである。それは演説をし、委員を設け、そして君達が僕の知己であると云ふ事を他人にも信じさせ自分にも信じたいからの事なのだ。僕が君達を必要とした時、君達は何處に居たのか? 君達は僕を死なせた。僕の墓の周りで喜劇をやつて呉れるな。それよりも君達の敵意や無關心に對して、苦闘して居る他のウォルフが居はしないかと君達の身邊を見廻はすがいゝ。自分に就て云へば、僕はもう港に到着したのである。」

 

 

 

 

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 クロード・デビュツシー

  ペレアとメリザンド

 千九百二年四月三十日、巴里に於ける「ペレアとメリザンド」の最初の演出は、佛蘭西音樂史上一の特筆すべき出來事であった。その重大な點は巴里に於けるルリの「カドモスとヘルミオーネ」ラモオの「イッポリートとアルシー」、或いはグルツクの「オーリードのイフイジヱニー」の最初の演出のそれと比較すべく、我が抒情劇の暦の中、三四の大書すべき日附の一つであつた(1)

  (1)予は――此處では何等の價値もない――一切の個人的感情を排して、純粋に史的見地から此の研究を書かうと試みる事を許されてもよさゝうである。事實としては、予はデビユッシー黨ではないのである。予の同情は全く異つた種類の藝術に向いて居る。併し予は予がその作品を幾分の公平を以て批判する事の出來る處の大藝術家に、敬意を拂ふ事を促がされて居るやうに感じるのである。

 「ペレアとメリザンド」の成功は、樣々の事柄にかゝつて居る。その或るものは世俗的である。即ち全ての他の成功と云ふものに存して居る役割を、こゝでもそれが演じて居る處の、所謂流行である。又、その或るものは一層重大である。そして佛蘭西の天才等の精神の内なる深い或るものから發して居る。そして其の成功に對しては道義モラール上及び美學ヱテテイク上の理由がある。そして最も廣い意味で純粋に音樂上の理由がある。

 

 

 

 

     *

 「ペレアとメリザンド」の成功の道義上の理由を説きながら、予は或る思想の形式に就て諸君の注意を惹きたいのである。それは佛蘭西にのみ特別なものではなくして、今日に於ては歐羅巴の俊秀な社會の一團に普通なものである。そして「ペレアとメリザンド」の内に表現されたものである。メーテルリンクの戯曲の動いて居る空氣は、人をして宿命に擬する意志の憂欝な忍従を感ぜしめる。吾人は、何ものと雖も、事件の成行を變へる事の出來ない事を示される。吾人の誇りから幻影を踏みにじつて吾人が各自の主でないのみか、吾人の生活の全悲喜劇を支配する知られざる者と抑へ難い力の奴隷に過ぎない事を示される。何人と雖も彼の好むもの、彼の愛する者に就て責任を有しないと云ふ事を吾人は語られる。――それは若し彼がその好むものを知り、愛するものを知ればと云ふ事である。――そして彼は何故とも知らずして生き、そして死に行くと云ふ事である。
 此の宿命的な思想は歐羅巴の智的上流の倦怠を映發しながら、デビユッシーの音樂の中に驚くまでに譯出されて居る。そして諸君がその音樂の詩的で肉感的な魅力を感ずる時、その思想は蠱感的となり、魔醉的となり、そしてその精神は感染的となる。何となれば、音樂全體には、心意を逸樂的な屈従に沈潜せしめ得る催眠術的な力があるからである。
 「ペレアとメリザンド」の藝術上の成功の原因は、一層特別に佛蘭西的性格から來て居る。そして直ちに正嫡であり、自然であり、止み難いものである處の反動を示して居る。予はそれを生命ヴイタール――外國藝術に封する佛蘭西天才の反動、そしてワグネル派の藝術並に佛蘭西に於けるその醜惡な代表者等に對する反動――とさへ云ふであらう。
 抑もワグネル派の戯曲は完全に獨逸人の天稟に適應したであらうか?予はそう考へない者である。併しそれは、予がその決定を獨逸の音樂家等に任せる問題である。吾々に就て云へば、吾人はワグネル派の戯曲の形式が、佛蘭西の民衆の精神にとつて――彼等の藝術的趣味に對して、劇塲に關する彼等の理想に對して、そして彼等の音樂的感情に對して――性に合はないものだと云ふ事を主張し得る權利を持つ。此の形式は吾人を壓迫したであらう。そして捷利の天才の權利をもつて佛蘭西人の魂に強く影響したであらう。そして又もそれを繰返すかも知れない。併し何物と雛もそれを吾人の郷土に於ける異國人とする外、どうする事も出來ないであらう。
 趣味の相違に拘泥する事は不必要である。ワグネル派の觀念は、何事を措いても先づ力の觀念である。ワグネルの熱情的で理智的な發揚とその神秘的官能主義は、防壁を物ともせず、その前に横はる一切のものを掃蕩し燒きつくす燃え上れる急湍の樣に潰出した。斯の如き藝術は尋常の規矩を以て律し難いものである。それは惡い趣味を恐れるの必要がない。そして予はそれを賞讃する!――併し又他の觀念の存在する事、そして他の藝術なるものが、その豐富さと力とによると同樣に、その適合と精妙さとによつて等しく表現的なものだと云ふ事は、理解するに難くはない。そして此の藝術即ち吾々の藝術は佛蘭西に於けるワグネル藝術のカリカチユアや、不調和な力の必然的な弊害に對する反動程に強く、ワグネルの藝術それ自身に對する反動ではないのである。
 天才はその意志する處を遂行する權利を持つ。若し欲するならば、趣味も、道德も、そして社會の一切をも足下に踏むでいゝのである。併し天才でもない者が同じ事をしやうとする時、彼等は片腹痛い厭はしい事をするだけである。佛蘭西には餘りに多くのワグネルの猿が居る。此の十年或は廿年の間に、ワグネルの影響を免れた殆んど一人の佛蘭西音樂家もなかつた。人は、熱情の誇張と極端とに反対して、それが眞摯であると否とに拘らず自然さと善い趣味の名のもとに、辛じて佛蘭西精神の反抗を理解して居る「ペレアとメリザンド」は此の反抗の宣言の樣に來た。それは誇張と過剩とに對する、そして想像の限内を踏み起す凡てのものに對する強硬な反動である。誇張した言葉と情緒とに對する此の嫌厭は、彼等が最も深く感動した時ですらも、凡ての感情を示す事の恐怖に近いものゝ内に根ざして居る。デビユッシーによると、熱情は殆んど咡いて居る。そしてそれは、不幸な夫婦の心の中の愛情が序幕の終りに於ける憶病な「おゝ。何故あなたは行つてしまふのです」によつて、そして最後の塲面に於ける靜かな「私もあなたを愛して居ます」によつて現はされた樣な、メロデイックな線のあるかないかの顫へによつて表現されて居るのである。瀕死のイソルデの猛烈な哀號と、渧泣も言葉もないメリザンドの死とを考へ合せて見る。
 舞臺の點から論ずる時、「ペレアとメリザンド」は、之も亦バイロイトの觀念とは全く相反したものである。ワグネルの戯曲の壮大な釣合――殆んど途方もない釣合――は、その緻密な結構は、そして始めから終りまで之等尨大な作品と觀念とを支へて、且屢々動作或は情感の浪費をすら現はす激烈な意力の集注は、純一で論理的で温和な佛蘭西の戀愛から、出來るだけ遠くへ離れて居る、小さく鋭く刻まれた「ペレアとメリザンド」の縮圖は、全く苦もなく戯曲の改革に新らしい舞臺を示しながら、ワグネル派の劇塲の其等とは全然異つた方法で仕上げられたのである。
 そして此の反抗に氣勢を添えやうとしたかの樣に、「ペレアとメリザンド」の作者は今や「トリスタンを書いて居る。その構想は近くベデイヱ氏によつて世に出されたテキストを用ひて、佛蘭西の詩から採つたものである。それは、その軟かで高い旋律に於て、ワグネルの猛烈で衒學的な、併し莊嚴な詩と、驚嘆すべき對照をなすものである。 
 併し二人の作曲家の特に相異つて居る點は、彼等が歌劇に對する詩と音樂それゞゝの關係を案出したその態度にある。ワグネルにあつては、音樂は歌劇の心髄であり、自熱せる焦點であり、引力の中心である。それはあらゆるものを吸収して絶對に先頭に立つて居る。併しそれは佛蘭西の考へではない。音樂の舞臺は、吾人がそれを佛蘭西で考へて居る樣に(吾人の實際所有して居るものはそうでないとしても)全體を調和あるものにする樣な藝術の結合を現はすべきである。吾人は、同じ釣合が詩と音樂との間に保たれなければならないと云ふ事を要求する。そして若し彼等の均勢が少しでも破られなければ、吾人は其の發言が一層意識的で一層合理的
である理由によつて、詩が敗者ではなかつたと云ふ事を提言しなければならない。之はグルックの目的とした處であつた。そして彼が之を善く實現したが故に、佛蘭西の公衆の間に何物も打倒す事の出來ない名譽を獲得し得たのである。デビユッシーの力は、彼がよつて以て音樂的の溫和と公平の觀念に接近した方法の中に存する。そして彼は、戯曲に捧仕する作曲家としてその天稟を其處へ置いたのである。彼はメーテルリンクの詩を統一しやうとしたり、或はそれを音樂の急流の中に捲き込まふとは決してしなかつた。彼は現在では如何なる佛蘭西人も、彼の内に歌つて居るデビユッシーの音樂なくしては、その演劇の一章句をも考へる事が出來ない程、それを自己の一部とした。
 此の作品を歌劇史上重大なものたらしめる之等全ての理由から離れて、そこには尚、より深い意義の存する成功に對する純粋に音樂上の理由がある。「ペレアとメリザンド」は、佛蘭西の楽劇に一の革進を齎らした。此の革進は樣々のものに關して居た。そして先づ吟唱曲レシタテイヴに關して居た。

 

(1)それは音樂家に對しての事である。併しながら予は公衆の群にとっては――常にそうである樣に――
一層重大な他の理由の存する事を知つて居る者である。

     *

 吾人は曾て佛蘭西では――喜歌劇に於ける僅かばかりの企てを別にしては――吾人の自然な言語を適確に表現した吟唱曲を持つて居なかつた。ルリとラモオとは其のモデルとして、彼等の時代の悲劇舞臺の誇大なる朗誦デクラマシヨンを探った。そして過去廿ケ年に亘つて佛蘭西歌劇は、一層危険なモデル――肉聲の跳躍と、烈しく鳴り響いて重々しい抑揚をもつたワグネルの朗誦――を選むだのである。之程佛蘭西にとつて不愉快なものはない。あらゆる趣味の人達は、彼等がそれを許さなかつたとしてもその事で苦しむだ。此の時に當つて、アントソーヌ、ジヱミヱ、ギトジー等が劇塲の朗誦を更に自然なものにした。そして此の事が佛蘭西歌劇の誇張した朗誦を尚更下らぬ、古めかしいものにしてしまつた。それ故に吟誦曲の革進は避け難い運命に居たのである。ジャン・ジヤック・ルッソオは、デビユッシーがそれで成功した其の方面を先見して居た(1)彼は、「抑揚が斯くも調和的で單純な」佛蘭西語法の調子と、佛蘭西歌劇の吟誦曲の「金切聲の喧ましい音調」との間に、何等の契點も存して居ないと云ふ事を、その「佛蘭西音樂に關する書翰レトル・シュル・ラミユージツク・フランセヱ」の中で示した。そして彼は結論として、吾人に最も適する吟唱曲は、「小さな音程アンテルヷルの中に低徊して肉聲を非常に上げもせず下げもせず、それが如何なる種類の音響でも叫びでもなく、微妙に支へられた音であり――そして樂譜の間デヱンヱ或は長音ヷルリルの中に、又はその音階ヂグレの中に僅かの不釣合もなく、實に少しも歌らしいものを思はしめない樣なもの」でなければならないと云つた。

  (1)吾人は尚、十七世紀前半に於て趣味の人々が、佛蘭西歌劇のこの劇塲的朗誦に反對して居たと云ふ事を記さねばならない。千六百卅六年にメルゼンヌは書いた「吾々の歌手は、詠歎と語勢が悲劇或は喜劇を歌ふ時伊太利人によつて非常に多く使用されたと云ふ事を信じて居る。それ故彼等はそれを使ふ事を好まないのである。」 

 「ペレアとメリザンド」の和樂の構造は、之もワグネルの戯曲とは非常に相違して居る。それはワグネルにあつては一本の大きな根から發した生きものであり、檞の木の樣にその力強い生育が、あらゆる方向に枝を差しのばす處の組み合つた樂句の一組織である。他の比喩を以てすれば、一見しては仕上がつて居ない樣で、しかも吾人に印象を與へる繪畫に似て居る。そして、それが主題とされて居るものを修正しても又は變更しても、尚、緊密な全體の、凡てが引き離し難い不滅性を持つた合成の効果を持つて居る。之に反してデビユッシーの組織は云ひ得べくんば、一種の古典印象主義である。純化された、調和的な、そして平靜な印象主義である。それは音樂的繪畫により添つて動いて居る。各々が、微妙なひらめく樣な靈魂の生活の瞬間に交渉して居る。そして繪畫は、軟かい纎細な筆觸で置かれる賢い小さな一觸れで描かれて居る。此の藝術は、その作品の中に外來のものらしい「パルジファル」の面影が僅かに一二は散見するに拘らず、ワグネルの藝術よりも、一層ムソルグスキーのそれと(彼の荒けづりは少しも見られないが)提携するものである。人は、作品の内を流れる執拗なライトモテイーヴも、人物や性格を音樂に譯出しやうとした主題も發見する事は出來ない。唯、併し、變化する感情を現はす樂句と感情と共に變化する樂句とを見る。その上デビユッシーのハーモニーは、ワグネルや全ての獨逸派に用ひられた樣な、暴虐な對位コントルポアン(カウンターポイント)の法則にしばりつけられた、拘束されたるハーモニーではない。それはラロイが云つた樣に、先づ第一に調和的であり、そしてそれ自身の内に、その起原と終局とを持つて居るハーモニーである。

  (1)如何なる批評家も、之程拔目なくデビユッシーの藝術と天稟とを辨別したものはなかつたと予は思ふ。彼の解剖の或るものには、賢い直覺の標本である。此の批評家の思想は、殆ど音樂家の思想と同じものに見えるのである。

 デビユッシーの藝術は、次に來るものに煩はされる事なく、唯瞬間の印象を與へやうと企てゝ居るかの樣に、何等の注意もなしに、その十全を瞬間の亭樂に置いて居る。ハーモニーの花園に、それは最美の花を擇る。何となれば、表現の眞摯さは第二位にあつて、第一の理想は樂しむ事にあるからである。茲に再び、それは藝術の中に快樂を覓めて、戯曲と眞理の要求が正常と認める樣な時ですらも醜さを許す事を喜ばない、佛蘭西民族の美的官能主義の意義を釋いて居る。モツアル卜も同じ考へを持つて居た。彼は云つた。「音樂は最も怖ろしい塲合でも必ず耳に逆らふ樣ではならない。耳を魅惑しなければいけない。そしていつでも音樂で居なくつてはいけない」と。
 彼の調和的な言葉と同じ樣に、デビユッシーのオリヂナリテーは、その愚劣な讃美者等の或者が云つた樣な新らしい和弦の案出にあるのではなくして、彼がそれを取扱つた新奇の方法に存するのである。人は、彼が融和せざる第七音と第九音とを驅使し、相次いで來る長第三音と第九音とを驅使し、そして音調全體に基礎を置いた調和的な進行法を驅使したからと云つて、大藝術家だとは云はれないのである。其等に何かを云はせるだけなら唯の藝術家に過ぎない。そして、それはデビユッシーの形律ステイールの特色にあるのではなくして――形律の特色ならば、人はその箇々の例を彼以前の大作曲家ショパン、リスト、ジヤブリヱ、シヒアル卜・シュトラウスの内に見出す事が出來る。――併しデビユッシーにあつては之等の特色が、彼の人格の表現だと云ふ點にあるのである。そして「ペレアとメリザンド」「第九音の郷土」が、曾て書かれた如何なる樂劇にも似ない詩的雰圍氣を持つて居る點にあるのである。
 最後に、管絃樂は故らに抑へられ、軽快にされ、そして區分されて居る。何故ならば、デビユッシーはワグネルの藝術が吾々に染み込ませた、あの躁宴と音響とに貴族的な輕侮を持つて居るからである。それは十七世紀後半の美しい古典樂句の樣に謹直で上品である。"Nequid nimis"(無駄のない)と云ふ事は藝術家のモットオである。塊マツスの効果を得るために音色ダンブルを練り合せる代りに、彼は其等の別々な性質を釋き放し、箇々の性質を變へる事なしに微妙にそれを混ぜ合して居る。今日の印象派畫家の樣に彼は原色を以て描く。併し不體裁なものに見える一切の粗暴を排して、微妙な中庸を以て描くのである。

     *

 予は「ペレアとメリザンド」の成功を説明する爲めに、そしてその讃美者等がそれを歌劇史上に置いた位置を説明するために、その理由以上のものを舉げた。此の作曲家が、彼の樂劇の革進に就て、その使徒等の信じた程鋭くは意識を持つて居なかったと云ふ事を信ずべき多くの理由がある。彼にあつては革進は一層本能的な性質を持つ。そしてそれが革進に力を與へたものである。それは佛蘭西精神の無意識な、しかも深奥な要求に答へて居る。予は、デビユッシーの制作の史的重大さの方が、その藝術的價値よりも一層大なるものだと、敢て云ふ者である。彼の人格には缼點がないとは云へない。――(缼點の最も重要なものは消極的缼點である。或る資質の缼除。そして、ベートオフェンやワグネルの樣な藝術界の英雄を作り上げた強大で浪費的な缺點である。」――彼の逸樂的な天性は、直ちに變化に富むで精確である。そして彼の夢想は、十六世紀に於ける「昂プレヤード」詩人の、或は日本の畫家の藝術の樣に澄み切つて繊細である。併しながら其の全ての天賦の中に、彼は、――或はモツアルトを除いては――他の如何なる音樂家の中にも、予が之程明瞭には接見した事のない樣な一の資質を持つて居る。そして此の資質は、即ち善い趣味に對する天稟である。デビユッシーはそれを多過ぎる程持つて居る。それが爲めに彼は、彼の音樂の熱情的な力や其の眞生命すらが貧しくされた樣に見える程、藝術の他の諸要素を犠牲にして居るのである。併し人は自己を惑はしてはならない。此の貧しくされたと云ふ事は外觀にすぎないのである。そして彼の作品の内には、その熱情が、單にヴヱイルを着せられたゞけだと云ふ證據がある。それは、單にメロデイックな線の顫へか、或は限前を過ぎて行く影の樣に、吾人に彼の性格の奥底で演ぜられる戯曲を語る處の管絃欒である。此の情緒の高い羞恥は、丁度ラシーヌの悲劇が詩に於てそうであるやうに、歌劇に於て稀有な或物である。そして、共に佛蘭西精神の完全なる華である。その身が外國人で、佛蘭西に好奇心を持ち、そしてその天稟を理解しやうと欲する人々は、ラシーヌの「ペレニース」を研究すると同樣に、「ペレアとメリザンド」を研究しなければならない。
 ラシーヌがした以上にデビユッシーの藝術が、佛蘭西の天稟を全く代表してゐるわけではない。何となれば、それに反對して、此處に示されなかつた全く異つた他の一面が存するからである。その一面とは、即ち英雄的動作であり、理性と笑ひの酩酊であり、光明に對する熱望であり、ラブレ、モジヱール、ディドローの佛蘭西であり、そして音樂では――一層善き名の無いために――強いて云へば、ベルリオとビゼーの俳蘭西である。眞實を云ふならば、それこそは予の擇ぶ佛蘭西である。併し天は予に、他の一方を無視する事を許さない!それは、佛蘭西の天才を築き上げる處の、二個の佛蘭西に存する釣合である。吾人現代の音樂にあつて「ペレアとメリザンド」は吾々の藝術の一方の極であり、「カルメン」は他方の極である。一方は全てが表面に顯はれて全てが輝き、一切が生命を持つて何等の陰影も伴はず、そして些かも沈潜してゐない。他方は企てが内部にあつてあらゆるものが微光に浴し、そして沈默に包まれてゐる。之こそ二種の理想である。そして佛蘭西の地イール・ド・フランスの軟かな明るい空を包む、輝々たる太陽とおぼろな霧の循環である。

 

 

 

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 佛蘭西及び獨逸の音樂

 

  千九百五年五月、アルサス・ロレーヌの第一回祭ムージツクフエストがストラスブールで擧行された。それは藝術上一の重大なる出來事であつたと共に、數世紀に亘つてアルサスの地に反目を續け、相互の理解以上に爭論の的であつた處の二個の文明を、此の「音樂祭フヱート・ミユージカール」の内に、同時に招來するの意味であつた。
 祝祭の公けのプログラムは、その發起者などの調停の目的の上に、苦心の存するものであつた。予はストラスブールのマックス・ベンティナー博士によつて書かれたそのプログラムの冊子から次なる言葉を引用しやうと思ふ。

 「音樂はあらゆる使命の中に存して、その最高のものを成し遂げる。それは種々の方向に於て互ひに見知らぬ者である各國民、各民族、並びに各國家をつなぐ一の鏈紐となるであらう。それは不統一なるものを統一し、敵意の間に平和を齎す事も出來るのである。……音樂の友誼上の目的に向つて、アルサス・ロレーヌにも増して適當な國はない。人々の古い會合の地、此處は太古の時代よりして、北方と南方とが彼等の物質的並精神的の富を交換し來つた塲處である、そして又、精神的生活の中心として現在まで殘つて居る此のローマ人によつて建設された古い都市、ストラスブールにも増して音樂を觀迎するに容易な塲處はない。……一切の大なる智的潮流はアルサス・ロレーヌの人々の上にその痕跡をのこして來た。それ故彼等は異つた時代、異つた民衆の間に立つて仲裁者の役割を演ずべき運命とになつて來たのである。……東方と西方、過去と現在とは茲に相會し、そして手を取り合ふ。凡そ斯の如き祭典にあつては、審美上の勝利を獲得する事が問題ではない。それは異つた時代、異つた國民の藝術にあつて、偉大にして高貴であり、且永遠なるものゝ一切を等しく持ち來す處に存するのである。」

 斯の如き歐羅巴的オリムピアの競技を挙行しやうとした事は、永遠の戰塲、アルサスにとつつて、一の燦然たる抱懷であつた。しかも其の善き意嚮にも拘らず、此の國民的會合は二個の文明と二個の藝術、即ち佛蘭西藝術及び獨逸藝術の間に於て、音樂上一の爭闘に終つた。何故ならば之等の二藝術は、今日にあつて眞に歐羅巴音樂の中に存在する總てのものを代表して居るからである。

 此の樣な試合は非常に昂奮的なものである。そしてすべての戰士にとつて大なる利益ともなるものである。しかも不幸にして佛蘭西は著しく此の事に冷淡であつた。斯の如き國際的會戰に參加し、そして戰闘の状態の好況である事を視んとするのは我が音樂家及び批評家等の義務であつたのだ。――予が云ふ意味は、我々の藝術がしかあるべきものとして示され、それによつて我々が、その結果から何事か學ぶ處あらんとするのである。――併も佛蘭西の公衆はこう云ふ時何事をもしない。彼等は、自由に批判し又敢てそうする事を餘りに知りすぎてゐる彼等の巴里の音樂會に魂を打ち込んでゐるのである。そして我々の藝術は、開豁なる空氣を求め、外國藝術と壮んなる戰闘を試みる事をせずして、朋黨の雰圍氣の中に萎縮しきつて居るのである。此の事は我が批評家等の大多數が、外國藝術を理解しやうと試みるよりも寧ろ其の現在を認めない處から來てゐる。ストラスブールの音樂祭で感じたよりも強い遺憾の念を、彼等の無關心に對して予が感じた事はない。そこでは佛蘭西音樂が我々自身の不注意によつて代表されたと云ふ面白からぬ状態を示したにしても、兎に角、予は、若し吾人が此の競技に興味を持つた參觀者であつたならば、その力がどんなものであつたらうと思はずには居られなかつたものである。

     *

 完全な折衷がプログラムの作製の上に試みられた。吾人はモツァルト、ワグネル、ブラームス等の名が、セザール・フランクやギュタヴ・シヤルパンシェヱ、或はリヒャルト・シュトラウスやマーラーの名と、全て混交してゐるのを見る。そこにはカズヌーヴやダロオの樣な佛蘭西歌手や、アンリ・マルトオやフェルッキオ・ブソニの樣な佛蘭西及び伊太利の名樂手が、獨逸、墺太利、スカンディナヴィアの藝術家と共にある。ストラスブールの各合唱協コルフヱライから組織された合唱團と管絃樂(Strassbürger Städtische Orchester)は、リヒアルト・シュトラウス、グスタフ・マーラー、そしてカミーユ・シュヴィヤールに指揮された。併し之等の著名な樂長等カベルマイステルの名は、吾人に、實際では音樂會の中心であつた人を――全ての練習を指揮し、そして最後に自分は退いてあらゆる名譽を外國の管絃樂指揮者に負せたアルサスの人、ストラスブールの教授ヱルンスト・ミュンク氏を忘れさせてはならない。サン・ギョームのオルガニストであるミユンク教授は、音樂の爲めにストラスブールで何人がしたよりも以上の事をした。そして、優秀な合唱團(Choeurs de Saint-Guillaume)をそこで訓練した。そしてもう一人のアルサス人で、音樂史家にその名をよく知られて居るアルベルト・シュワイツェルと共力して、立派なバッハの音樂會を組織したのである。シュワイツヱルはサン・トーマ神學校(Thomasstift)の監理者であり、牧師であり、そして神學及び哲學に關する興味ある書物の著書である、此の外に彼は「ジャン・セバスチャン・バッハ」と云ふ現今で著名な書物を書いた。それは二重に注意さるべきものである。第一にそれは佛蘭西語で言かれてゐる。(ストラスブール大學の一教授によつてライプチヒ出版されたけれども)。第二にそれは佛蘭西及び獨逸精神の調和的な混淆を示し、そしてバッハ及び古典藝術の研究に新らしい生命を與へてゐる。之等アルサスの地に生れて、最も善きアルサスの修養と最も美しい二個の文明の結晶を代表する人々と知己になると云ふ事は、予にとつては非常に興味ある事であつた。
 三日間の音樂祭のプログラムは次の樣である。 

五月廿日。土曜日。
 「オベロンの序樂。」ウェーベル作。
   (リヒアルト・シュトラウス指揮)
 「盛福レ・ベアチテユード。」セザール・フランク作。
   (カミーユ・シュヴィヤール指揮)
 「伊太利の印象。」ギュスタヴ・シャルパンシェヱ作。
   (カミーユ・シュヴィヤール指揮)
 「メロディーとバラッド三つ。」ジャン・シベリウス、フーゴー・ウオルフ、
   アルマス・ヱルネフェル卜作。(ヱルネフヱルト夫人歌唱)
 「名歌手マイステル・ジンゲルの最後の塲。」ワグネル作。
   (リヒアルト・シュトラウス指揮)
五月廿一日。日曜日。
 「第五スインフォニー」グスタフ・マーラー作、
   (グスタフ・マーラー指揮)
 「コントラルトー、合唱、及び管弦樂のためのラプソディー。」ヨハンネス・ブラームス作。
   (ヱルンスト。ミュンク指揮)
 「ヴァイオリンの爲めのGメージアに於けるストラスブールのコンチェル卜。」
   (アンリ・マルトオ演奏。リヒアルト・シュトラウス指揮)
 「スィンフォニア・ドメステイカ。」リヒアルト・シュトラウス作。
   (リヒアルト「シュトラウス指揮)
五月廿二日。月曜旧。
 「カリオランの序樂。」ベートオフヱン作。
   (グスタフ・マーラー指揮)
 「ピアノの爲めのGメージアに於けるコンチェルト。」ベートオフヱン作。
   (フェルッキオ・ブソニ彈奏)
 「歌。"An die enferute Geliebte"」ベートオフヱン作。
   (ルウドウィヒ・ヘツス歌唱)
 「コーラル・スィンフオニー」
   (グスタフ・マーラー指揮)

     *

 シユヴイヤール氏唯一人が、音樂祭に於ける我が佛蘭西音樂家を代表して居る。そして彼等は管絃樂の指揮者の選定を忽せにしたのである。併し獨逸はその二人の最大の作曲家、シユトラウスとマーラーを、彼等最近の作曲を指揮させるために派遣した。そして此の二人が彼等自らの國の中に享樂する名譽に對抗させるために、吾々自身の第一流の作曲家の一人を出すと云ふ事は、さして困難ではなかつたのである。
 シュヴィヤール氏は、彼がその形律を完全に奏出し得るデビッユシーやデュカの樣な吾人現代の大家の作品の一つではなく、却つて、予が惟ふに、彼がその精神を全く理解して居ない樣なフランクの「盛福」を指揮する事を依頼された。フランクの神祕的な軟か味は彼を兔れて、彼は戯曲的なものだけを描出する。それ故「盛福」の演出は多くの美しい長所があつたにも拘らず、フランクの天稟の不完全な觀念をのこしたのであつた。
 併しながら、腑に落ちない事は、そして正にシユヴイヤール氏を當惑させた事は、「盛福」の全體が演奏せられずしてその斷片のみが演奏されたと云ふ事である。そして此の點で予は、之からも亦此の樣な祭典の賓客となる佛蘭西藝術家は、彼等の眼を閉じてプログラムに同意する事をしないで、自己の要求を考へるか、或は彼等の助けを拒絶するかしなければならないと云ふ事を、勸告する自由を有する者である。若し仏蘭西音樂家にして獨逸の音樂祭に席を與へられる樣な塲合には、佛蘭西の人々は、彼等を代表する樣な作品を撰擇する事を許されなければならない。そして先づ、撰ばれる處のものは、巴里で作品を指揮して居る佛蘭西管絃樂の主席の者でなければならない。そして彼の到着の時、切斷された樂譜や、全體でもない僅かの斷片の氣儘な選拔を見るやうであつてはならない。何となれば、彼等は八章の「盛福」から五章だけを演出し、そして切斷が第三と第八の「盛福」の間で行はれたからである。それは藝術に對する敬意の不足を示したものである。何故ならば作品はそのまゝ演ぜらるべきであつて、さもなければ何にもならないからである。
 そして、此三日間の祭典の中で、組織者がその第一日を佛蘭西音樂に捧げると云ふ鄭重さを持つて居たと云ふ事は、そしてその爲めに一の全部の音樂會を一方に片寄せたと云ふ事は、更に適當な事であつた樣である。併し、疑ひもなく彼等は、佛蘭西の作品を、その効果を弱めるために獨逸の作品の間へ注意深く挾むだのである。そしてアルサス・ロレーヌの知事の面前で、アルサスの公衆によつて佛蘭西音樂が受ける筈の有りそうな(そして實際の)熱狂を少なくしたのである。之に加ふるに、ストラスブールで誰も知る事の出來ないものが音樂上の理由で命令されたと云ふ選定法によつて、その夜の終りに選ばれた獨逸の作品は、外國の見せ掛けと外國の兒戯(Wälschen Dunst mit Wälschen Tand)とを排したハンス・サックスの鳴り渡る對句を持つた「名歌手」の最後の塲面であつた。此の禮儀の不足は――此の言葉も、此の音樂會が「外國」藝術の無視すべからざる事を示すために行はれたとすれば新に無意味なものであるが――それが若し、此の樣な祭典に席を占めた佛蘭西藝術家の冷淡の如何に遺憾なものであるかと云ふ事を教へる役に立力ないとすれば、洗ひ立てる程の價値もないものであらう。そして此の樣な間違ひも、若し彼等が前以てプログラムを知り、そしてそれに對して彼等の否認を云ひ送つてやれば、出來する事はなかつた筈である。
 予は此の出來事を、予の意見が後に至つてその苦痛を予に語つた多くのアルサス人の聽衆のそれと、同じであつたと云ふ幾分の理由から書いたのである。併し、それは兎もあれ、吾が佛蘭西の藝術家等は、吾々の音樂が「盛福」の切斷された樂譜や、シャルパンシェヱの「伊太利の印象」などによつて代表さるべきものだと思つてはならないのである。何故ならば、後者は、よし輝かしい賢明な作品であつたにした處で決して第一流のものではなく、ワグネルの絶大な作品の一つにでも出會へば、實に手もなく壓しつぶされてしまふ樣なものだからである。若し人々にして佛蘭西と獨逸の藝術の間に一の試合を初めやうと欲するなちば、予は反覆して云ふが、優秀なものを選ばなくては駄目である。ワグネルには、ベルリオを、シユトラウスにはデビユッシーを、そしてマーラーにはデユカ或はマニヤールを對抗せしめなくては駄目である。

     *

 斯の如きが試合の状態であつた。そしてそれは、故意であると否とに拘らず、佛蘭西にとつては面白からぬものである。しかも公平な觀察者の眼に、その結果は我々に對する希望と鼓舞とに滿ちたものであつた。
 予は藝術に就ては、國籍の問題を以て自分を煩はした事は一度もなかつた。予は、獨逸音樂に對する予の嗜好をすら匿した事はなかつた。そして予は思ふ。今日でさへリヒアルト・シユトラウスは、歐羅已に於ける第一位の作曲家であると。斯う云ひながらも、予は、予がストラスブールの音樂祭で感じた不思議な印象――音樂界に到來しつゝある變化の印象――を自由に語る事が出來るのである。佛蘭西藝術は沈默裡に獨逸藝術の位置に取つて代らうとして居る。
 "Wälschen Dunst mit Wälschen Tand"…………此の侮辱的な言葉は人がセザール・フランクの音樂の内に表現された誠實な思想に耳を傾ける時、如何に見當違ひなものに見えるであらう!「盛福」の中では、何事も、或は殆んど何事も、藝術の爲めになされはしなかつた。それは魂に語る魂である。D調彌撒曲の終りでベートオフヱンが書いた樣に、"Vom Herzen ........ zu Herzen!"「それは心へ行くために心から來る」。予は、彼自身である事の、そしてその公衆の考へに煩はされずして眞理のみを語る事の德を、斯く迄高い程度に持つた者が、ベートオフヱンでなければフランクの他に居る事を知らない者である。宗教的な信仰が之程眞摯に表現された事は曾てなかつた。フランクは、バッハを別にすれば、實際に基督を「見」、そして人々にも彼を見せる事の出來る唯一の音樂家である。彼の基督は、バッハのそれと比較して一層單純であると予は敢て云ふ事が出來る。何故ならばバッハの思想は、彼の題目を展開する事の興味によつて、作曲法の或る習慣によつて、そして彼の力を弱める反覆と悧怜な趣向とによつて、屢々誘ひ出される事があつたからである。フランクの音樂にこそ、吾人は素朴で生きゝゝして力に滿ちた基督の言葉それ自身を聽く。そして音樂と聖なる言葉の間にある不可思議な調和の内に、吾人は世界の良心の聲を聽く。予は、曾て或人がコシマ・ワグネル夫人に向つて、「パルジフアル」の或る章句は、殊に合唱"Durch mitleid wissend"は、眞に宗教的な性質と默示の力とを持つて居ると云つたのを聽いた事があつた。併し予は、より大なる力と一層眞に基督教的な精神とを、「盛福」の中に發見する。
 茲に驚くべき事がある!此の獨逸の音樂祭に於て、單に古典形式に模した嚴肅な音樂を示したばかりでなく、宗教的な精神と腦曹書の精神とを示した者は、唯一人の佛蘭西人だつたのである!二個の國民の性格は逆にされた。獨逸人は、此の嚴肅さと宗教的信仰とを、非常な困難を以て僅かに理解し得る程度まで變つてしまつたのであつた。予は此の點から聽衆を勸察した。彼等は啞然として退屈氣にさも斯う云ひたそうに謹聽して居た。「一體此の佛蘭西人は、魂の奥底と敬神とで何をしやうと云ふのだらう?」
 音樂會で予の傍らに座つて居たアンリ・リシユタンベルジヱは云つた。「確かに吾々の音樂は獨逸人を退屈にし初めましたね、」と。
 獨逸の音樂が佛蘭西の吾々を退屈させる特權を享けたのはつい此の間の事であつた。                                   
 斯くて「盛福」の片苦しい莊嚴さを補ふために、彼等は直ちにギユスタヴ・シヤルバンシェヱの「伊太利の印象」を其の後へ持つて來た。諸君は聽衆の安心を見たであらう。とうゝゝ彼等は或る佛蘭西音樂を聽く事が出來たのだ。――獨逸人の理解するやうな! 佛蘭西現今の凡ての音樂家中で、シヤルバンシェヱは、最も獨逸で愛されて居る音樂家である。彼は藝術家と公衆の間に知れ渡つて居る唯一のものである。彼等がその管絃樂の中に感じた眞面目な快樂と、彼の主題の快活な生命とが、佛蘭西の兒戯―― Wälschen Tand ―― に對する輕い輕侮によつて少し許りよくされたと予は云ふべきであらうか?
 「あれをよく御聽きなさい。」とリヒアルト・シユトラウスは「伊太利の印象」の第三音節の時に予に云つた、『あれこそモンマルトルの音樂です。美しい言葉の音樂です。「自由よ!……愛よ!」人がわれ知らず叫ぶのがあれです』
 そして彼は、全體から全く魅力のある音樂を發見した。そして疑ひもなく心の底から、獨逸でのみ一般的になつて居るコンヴェンショナルな考へによつて、此の佛蘭西人に同意したのである。シユトラウスは實際非常にシヤルパンシェヱを好いて居る。そして伯林に於ける彼のパトロンである。そして巴里で初めて「ルイズ」が演出された時、彼がそれに對してどれ程幼稚な喜ばしさを現はしたかを予は記憶して居る。
 併しながらシユトラウス並びに大多數の獨逸人は、此の快活な佛蘭西の兒戯が、今も尚佛蘭西獨特の所有物であると思ひ込まふとする時、全く誤つた軌道に立つて居るのである。彼は實際それが獨逸風になつた爲めにそれを愛する。そして彼等は、全然事實を知らないのである。過去の獨逸藝術家は、兒戯の内に喜びを見出しはしなかつた。如何に容易に予は、彼自身の作品から例を引いて、それに對する彼の嗜好をシユトラウスに示す事が出來たであらう!今日の獨逸人は、昨日の獨逸人と殆んど共通なものを持つては居ないのである。
 予は單に一般民衆に就て語つて居るのではない。今日の獨逸の公衆は悉く之「ブラームス黨」かワグネル派である。彼等は意見と云ふものを持つて居ない。そして彼等には何でもいゝのである。彼等はワグネルに喝釆し、ブラームスにもう一度歌はせる。彼等は、その心底に於ては輕薄であると共に、センチメンタルで粗大である。此の公衆に就て最も驚くべき事は、ワグネルの死以來、力に對する彼等の崇拜である。「名歌手」の終りを聽きながら、予は此の傲慢な音樂が、此の帝國行進曲が、粗雜な健全さと光榮とを以て、如何に此の軍國的で平民的な民衆を映出して居るかを感じたのであつた。
 併し最も注意すべき事は、獨逸の藝術家等が日は一日と、彼等の燦然たる古典音樂家を、わけてもベートオフヱンを理解する力を失ひつゝある事實である。非常に拔け目なく、そして彼自身の領域を確かに知つて居るシュトラウスは、他の如何なる獨逸樂長よりも生き生きと彼の精神を感じて居ながら、ベートオフヱンの領土に入る事を喜ばない。ストラスブールの音樂會でも、彼は自分のスィンフォニーを除いては、「オベロンの序樂」とモツアルトのコンチヱルトを指揮するだけで甘んじた。斯の如き演奏は興味あるものである。彼の樣な人格は、彼の指揮する作品の内に現はれるそれを注意する點が實に愉快な程にも奇異なものである。然るに、如何に即席に且性急にモツアルトの趣さが現はされた事だらう! そして如何にリズムが曲調的な優美さの浪費によつて強められてしまつた事だらう! 併し此の塲合シュトラウスは、解釋の或る自由が許されて居たコンチヱルトを以て之に應じたのである。しかしながら思慮の淺いマーラーは、「ベートオフヱン音樂會コンセル・ベートオフヱン」の全部を指揮する危険を敢て試みたのであつた。そして抑も此の夜の有樣を、何と形容したらいゝのであらう? 予は、作品から一切の呼吸が取り去られてしまつた處の、立派で見せかけだけのブソニの弾き方で演奏された「ピアノの爲めのGメージアに於けるコンチェルト」に就ては云はない。彼の解釋が、公衆によつて熱狂的に感動されたと云ふ事を書くだけで充分である。獨逸藝術家は、此の演出には何等の責任も持つては居ない。併し、伯林から來た次中音テノール歌手によつてその力一抔の聲で怒號されたリイダアの快美な輪作シユシルク、"An die entfernte Deliebte"に對しては、そして予にとつては言語同斷な演奏であつた「コラール・スインフォニー」に對しては、彼等は責任あるものである。予は墺太利第一流の樂長カペルマイステルによつて指揮された獨逸の管絃樂が、之程の罪を犯さうとは想像し得なかつた。音節は怪しげであつた。スケルツオは生命を持つて居なかつた。アダジオは夢想の瞬間を與へずにあわてくさつて驅け出した。そして終曲フイナーレには、樂想の開展を破壊し、思想の糸を斷ち切る樣な途切れがあつた。管絃樂の各部は互ひに倒れ懸つた。全體が不確かで平衡が失はれてゐた。曾て予はワインガートナーの新古典的窮屈さを巌しく批評した事があつた。併し此の神經衰弱なベートオフヱンを聽いた後で、如何に予は彼の健全な釣合と、精確であらうとする彼の努力とを了解し得た事であらう! 否、吾人が今日の獨逸で聽く事の出來るのはベートオフヱンでもモッアルトでもない。それはマーラーとシュトラウスである。
 それでもいゝ! 吾々は吾々に從ふのだ。過去は過去である。ベートオフェンとモツアルトを捨てゝ、マーラーとシユトラウスを語らうではないか。

     *

 

  マーラーは四十六歳(1)である。彼は獨逸音樂家の中の傳説的風格を持つ。そしてシユーベルトの樣に、校長と僧侶とを思はしめる。彼は、長い綺麗に剃つた顏と、亂した頭髪に覆はれた角張つた頭蓋と、禿げた額と、拔んでた鼻と、眼鏡のうしろで閃く眼と、大きな口と薄い唇と、こけた頬と、少し倦怠した樣な厭味な表情と、そして禁慾主義者の樣な風釆を持つてゐる。彼は恐ろしく神經質である。そして指揮者の卓で痙攣してゐる猫を以て現はした彼の影繪のカリカチユアは、獨逸では非常に通俗なものである。

  (1)此の評諭は千九百五年に書かれたものである。

 

 

 ボヘミアのカリシユトで生れ、維納でアントン・ブルックネルの弟子となつた彼は、維納のHofoperndirectorホツフオペルンデイレクトル(宮廷劇塲監督)である。予は、いつか此の藝術家の作品を、詳細に亘つて研究しやうと思つてゐる。何故ならば彼はシユトラウスに次で獨逸第一の作曲家であり、南方獨逸の音樂の主要な代表者だからである。
 彼の作品で最も主要なものは一組のスインフオニーである。そしてストラスブールの音樂祭で彼の指揮したのは此のスィートの第五番目のものであつた。第一のスインフオニーは「タイタン」と呼ばれて、千八百九十四年に作曲された。全體の構造は集團的マツシーヴで尨大シクロペーンヌである。そして之等の作品の基礎をなす處のメロディーは、餘り質の良くない荒削りの石塊に似て、併しその大きさによつて、そして偏見の頑固さに支持されて音律上の目的の執拗な反覆によつて、僅かに目につくものである。或時は粗惡で或時は繊細なハーモニーを持つた此の博識で生硬な音樂の積み重ねは、主としてその嵩によつて問題にされる價値を持つ。管絃樂は重苦しく騒がしい。そして直鑄樂器は、鳴り響く建築の陰氣な色彩を支配し、そしてぞんざいな鍍金を施す。基調をなしてゐる思想は新古典主義である。そして幾人軟弱で散漫である。その階調的構造は組み合せである。 吾人は、ワグネルやブルックネルの形律と戰つてゐるバッハやシューベルトやメンデルスゾーンの形律を見る。そして、輪唱キヤノンの形式に對する明かな趣味によつて、それはフランクの或る作品をすら思ひ出させる。之は贅澤で喧ましい一の骨董品である

 之等のスインフオニーの第一の特色は、一般的に云へば、管弦樂を持つた合唱である。マーラーは云ふ。「自分が大きな音樂の繪畫(Ein grosses musikalisches Gemälde)を考へる時、自分の音樂的意想の賓現のたすけとして、詞(das Wort)を使はずにはゐられない樣に感じる瞬間が必ず來る」と。
 此の肉聲と樂器の組み合せによつて、マーラーは或る驚くべき効果を得た。そして彼はこの方面に於ける靈感をベートオフヱンとリストの内に求める事に成功した。十九世紀が此の組合せを僅か許りしか採用しなかつたと云ふ事は信じ難い事である。何となればそこから得るものは、音樂的であると同時に恐らく詩的だからである。

 「Cマイノアに於ける第二スインフオニー」で、最初の三部は純粋に器樂的である。 併し第四部では反對中音コントラルトーの肉聲が、次の樣な悲しい素朴な感情の言葉を歌つてゐるのを聽く。

  "Der mensch liegt in grösster Noth!
  Der mensch liegt in grösster Pein!
  Je lieber möcht' ich im Himmel sein!"(1)
 魂が熱情的な叫喚を以て神に達しやうとあせる。
  "Ich bin von Gott unb will wieder zu Gott"(2)
 次で和樂の挿話"Der Rufer in Der Wuster!"が來る。そして吾人は、猛烈で惱ましい調子の「荒野に叫ぶ人」の聲を聽く。そこには、合唱がクロプストックの美しい頌歌、復活の約束を歌ふ默示的の終曲がある
  "Aufersteh'n ja, aufersteh'n wirst du, mein Staub, nach kurzer Ruh!"(3)
掟は告げられた。
  "Was entstanden ist, dass mus vergehen,
  Was vergangen, auferstehen!"(4)
 そして全ての管弦樂と合唱とオルガンとが、永遠の生命の頌歌を歌ふのである。

  (1)「人は最大の悲哀に横はる。人は最大の苦痛に横はる。如何に我天國にあらむ事を願ふなる!」
(2)「我は神より來る。されば再び神に歸らむ!」
(3)「汝は甦らむ、汝は甦らむ。おゝ我が塵埃よ。暫しの眠りの後。」
(4)「生れたる者は滅ぶべし。滅びたるものは甦らざるべからず。」
 

 「夏の朝の夢」(Ein Sommermorgentraum)と云ふ名で知られてゐる「第三スインフオニー」で、第一部と最後の部とは管弦樂だけの爲めに書かれたのである。第四部はマーラーの最も善い音樂の一つである。そしてニイチヱの言葉の驚嘆すべき作曲である。
  "O Mensche! O Menshce! Gib Acht! gib Acht!
  Was spricht die tiefe Mitternacht?"(1)
第五部は、通俗な傳説に依つた快活で昂奮した合唱である。

  (1)「おゝ。人よ! おゝ。人よ! 聽け! 聽け! 暗き夜半の語る言葉を!」

 「Gメージアに於ける第四スィンフオニー」では最後の部だけが歌である。そしてパラダイスの歡樂の一種の小供らしい描寫でありながら、殆んど諷刺的な性質を持つたものである。
 その外觀にも似ず、マーラーは之等のスィンフオニーが標題音樂と關係することを拒むで居る。若し彼の音樂が如何なる種類の標題からも懸絶して、それ自身の價値を持つて居ると云ふならば疑ひもなく彼は正しい。併しながら、それが常に一定のステインムングの表現即ち意識的な氣分の表現だと云ふ事は疑ふ餘地のないことである。そして事實では、彼がそれを愛すると否とに拘らず、スティンムングの方が、音樂それ自體が與へるよりも遙かに大なる興味を音樂に與へてゐるのである。彼の人格は、彼の藝術よりも一層興味ある樣に予には見える。
 之は獨逸の藝術家の間に、屢々見る事實である。フーゴー・ウォルフはその一例であつた。マーラーの塲合は、實に寧ろ奇とすべきである。彼の作品を研究する時、人は、彼が現代獨逸に於ける稀有な型――眞面目さを以て事物を感ずる利己主義者――の一人だと云ふ事を會得したと感じる。さりながら、彼の情感と彼の意想とは、それを實際に眞摯で人格的な方法を以て表現することに成功しなかつた。何故ならば、其等は追憶の雲を通し、古典主義の雰圍氣を通して吾人に達するからである。予は、劇塲監督としてのマーラーの地位と、その職業によつて強ひられる音樂の中での絶間ない飽充とが、此の事の原因をなしてゐると思はずにはゐられない。創造的な精神にとつて、過ぎたる讀書程致命的なものはない。ましてや、それが自己特有の自由な意志を學ぶ事をしないで、過多な滋養物を吸牧する樣に強ひられる時、その大部分が不消化なのは當然である。徒らにマーラーは、彼内心の聖殿を護らうとする。それはあらゆる方面から來る外國思想によつて犯される。そして其等を驅逐する事の反對に、管弦樂の指揮者としての彼の良心は、却つて其等を受け入れ、殆んど其等を抱擁するやうにさへ強ひられてゐる。その熱病的な活動を以て、そして重荷を負ふてゐるかの樣に押しつけられながら、彼は絶間なく製作し、そして夢想すべき時間を持たない。マーラーは、彼がその關係してゐる仕事を棄て、彼の樂譜を閉じ、彼自身の内に退き、そして――若しそうする事が晩そ過ぎないならば――再び自分自身になるまで忍耐して待つ事が出來る時、初めてマーラーであるであらう。
 彼がストラスブールで指揮した「第五スインフオニー」は、全ての彼の他の作品にも增して、此の方向を採る事の差迫つた必要を予に證明した。此の作曲の中で、彼は、彼の以前のスインフオニーの主たる引力の一である合唱の使用を、自分自身に許さなかつた。彼は、彼が純粋音樂を書き得る事を實證しやうとした。此の主張を一層確實にするために、彼は、他の作曲家がその祭典でしたと同樣な、音樂會のプログラムに發表した作品に説明をつける事を、絶對に拒絶した。それによつて彼は、自己の作品が嚴格に音樂的見地から解釋される事を望むだのである。それは彼にとつては危險な試みであつた。
 斯くも期待した作曲家の作品をたとへ予が如何に讃美しやうと欲したとしても、予は此の試みが彼に幸ひしたとは感じなかつた者である。此のスインフオニーは、――その比例を證明すべき何等の確かな目標はないにしても――兎に角一時間半もかかる程に恐ろしく長いものである。それは尨大さを狙つて、獲たものは殆んど空虚さだけである。モティーヴは通俗以上のものである。ベートオフヱンがメンデルスゾーンに啓發されて居る樣な、平凡な性質と騒がしい音節を持つた葬禮行進曲の後へ、シャブリヱがバッハに手をかして居るやうなスケルツオが、寧ろ一種の維納ワルツが來る。アダジオは幾分甘つたるい感傷性を持つ。終りのロンドオは、幾分フランクの意想を思はせる樣に現はされて、之が此の作曲の中の一番いゝ部分である。それは狂亂した魔醉の精神の内に奮激して、そこから合唱が壓碎的な歓喜を以て湧き上る。併し全體としての効果は、それを抑壓して重苦しいものにする、反覆によつて失はれて居る。作品全體を貫いて、そこにはペダンティックな強情さと、散漫さとの混合物がある。それは聯絡なきものであり、開展を裁ち截る急激な途切れであり、何等音樂的理由見なしに作品を中斷する退屈な意想であり、そして生活の停止である。
 わけても予の恐れる處は、マーラーが力の觀念によつて――今日の全ての獨逸藝術家の頭に入れられて居る觀念によつて――痛ましくも催眠術を施されて居る點である。彼は、不決斷で、皮肉で、悲しげで、性急で、そして弱い心を持つた人のやうに予には見える。且、ワグネル風の壮大さを追つてあがいて居る維納音樂家の精神を持つた人の樣に予には見えるのである。彼程善く田舎風(Ländler)の美と繊麗なワルツと、悲しき幻想とを表現した者はない。彼程シユーベルトの感動と逸樂的な憂鬱との秘密に近付いた者はない。そして時折、彼がその善き素質と缼點とを以て予に思ひ起させるのはシユーベル卜である。しかも彼は、ベートオフヱン或はワグネルたらむ事を欲する。そこが彼の誤つて居る點である。何故ならば、彼は彼等の釣合と巨大な力とを持つて居ないからである。人は、彼が「コーラス・スインフオニー」を指揮して居た時だけで、極めて容易にそれを感じたのである。
 しかし、よしや彼がどうであらうとも、そして彼がストラスブールで予に與へたものが失望であつたとしても、予は決して彼に就て輕々しく、或は嘲弄的に語らないであらう。斯くも高い目的を持てる音樂家は、いつかは彼自身に價ひする樣な制作を劍造するであらうと云ふ事を、予は確信して居るものである。

     *

 リヒアルト・ストラウスは、マーラーと全完なる對照をなす。彼は常に投げ遣りで不平想な子供に似た風格を持つて居る。背が高くてほつそりして、幾分高雅で傲慢な彼は、今日の獨逸藝術家の誰よりも更に洗練された種族から出た者のやうに思はれる。侮蔑的で、成功のために鈍らされて、そして非常に氣むづかしい彼が、他の音樂家に對する態度には、マーラーの樣な愛嬌のあるつゝましさはない。彼の神經質はマーラーのそれに劣らない。そして彼が管弦樂を指揮して居る時、彼はその音樂――石が投げ込まれた清澄な水面の樣に波瀾を起す音樂――の最微の部分につゞく狂亂的な舞踏に夢中になるかの樣に見える。併し彼はマーラーからは非常な利益をうけて居る。彼はその勞働の後で如何に休息すべきかを知つて居る。昂奮的で眠たげな彼の緊張した神經は、その懶惰によつて平衡を得る。そして彼の奥底にはバヷリア人の贅澤に對する嗜好がある。その激烈な生活が終つた時、驚くべきヱネルギーの高を費ひ切つてしまつた後、彼が殆んど無爲な時間を持ち得る人間だと云ふ事を、予は確言する。その時、人はぼんやりとして眠たげな彼の眼を見る。そして彼は何も見なければ何も考へずに、自働人形の樣に數時間歩く習慣を持つて居た昔のラモオに似て居る。                           
 ストラスブールでシュトラウスは彼の「スインフォニア・ドメステイカ」を指揮した。その標題は露骨に論理を蔑視して居る樣に見えて、しかも善い趣味を持つて居た。彼はスインフオニーの中に、彼自身と、その妻と、子供とを("Meiner lieben Frau und unserm Jungen gewidmet")を描寫して居る。「私には、なぜ私が自分の事をスインフオニーに作曲してはいけないのか分りません」とシュトラウスは云つた。「私は、自分がナポレオンやアレキサンダアと全然同樣に興味あるものだと云ふ事に氣がつきました」。或人は、他人が誰でも彼の興味にあづかる必要はないと云つて答へた。併し予はそう云ふ論法を採らないであらう。シュトラウス程の價値を持つた藝術家ならば、吾々を悦ばす事がたしかに出來ると予は信ずるからである。その中で予を不快にさせたものは、彼が自己を語るその方法である。その題目と、彼がそれを表現するために採つた方法との間の不釣合は、餘りに強よすぎて居る。就中予は、内部的な秘密な自我の見せつけを好まない。この「スインフォニア・ドメテイカ」には家内アンテイミテの内輪さの不足がある。爐邊、居間、寢室は、總て外客に公開されて居る。之が今日の獨逸の家庭の感じであらうか? 初めて予がそれを聽いた時、作者に對する予の愛があつたにも拘らず、それが純粋に道義的の理由から予を不快にしたと云ふ事は實際である。併し予は終に最初の意見を飜へした。そしてそれは驚嘆すべきものであつた。諸君は標題を知つて居るであらうか?
 第一部は三個の人物を示す。男と、女と、小供である。男は三つの主題によつて表はされた活氣と諧謔とに滿ちたでモテイーヴと、思索的なモテイーヴと、熱心で熱情的なモテイーヴとである。女は唯二つの主題を持つ。一は移り氣を表はし、他は愛と優しさを表はす。子供は一個の單純なモテイーヴを持つ。それは穏和で、無邪氣で、完全に性格化されて居ないで、その眞の價値は主題の開展の中へ少しも出て來ないものである。………子供は兩親の中どつちに似で居るだらう? 家族は彼の廻りに座つてそれを議論する。「此の子は御父さんにそつくりですよ」(Gauz der Papa)と伯母が云ふ「母親生き寫しだ」(Ganz die mama)と伯父が云ふ。
 スインフオニーの第二部は遊戯する子供を表はすスケルツオである。恐ろしく騒々しい遊戯、殆んどヘラキュレスの快活さを持つた遊戯である。そして家中が兩親の會話に反響する。如何に吾々は、かのシューマンの善良な可愛い子供等と、その質朴な家族から遠く離れて居る事だらう!……――遂に子供は寢かされる。誰かが搖籃を搖する。時計が夕べの七時を鳴らす。夜が來る。夢と不安。愛の塲面………時計が朝の七時を打つ。眼覺め。樂しい爭論。男の主題と女の主題とが、怒りと諧謔の熱心さを以て相反撥するタブルフューグ。最後の言葉を語るのは男である。子供の讃美と家庭生活の讃美。
 此の樣な標題は、聽衆を導くよりも寧ろ迷はす樣な結果に終る。それは逸話的な、寧ろ喜劇的な方面を強める事によつて作品の意想を害する。そして疑ひもなく其處には喜劇的な一面がある。シユトラウスは、彼が結婚生活の愉快な繪畫を描かうとしたのではなくして、結婚と、親たる事の神聖さを讃美しやうと欲したと云ふ事を無益にも警告した。併し彼の内には、彼の意に反してそれを殺すやうな諧謔家が居る。彼が子供を語つて居る時を除いては、音樂の中に眞に嚴肅で宗教的なものは少しもない。かくて男の粗暴な陽氣さが優しくなり、女の腹立たしい嬌態が甚だしく柔和になる。そして總て他方では、彼の皮肉と諧謔とが最上の物を取り戾して、殆んど叙事詩の樣な快活さと力とに達するのである。
 併し人は、惡い趣味に接近し、又は一總惡い何ものかにすら接近する此の輕佻な標題を忘れなければならない。それを忘れ得た時、人は四つの部分――アレグロ、スケルッ、アダジオそしてフューグの形式の終曲――から成る一個の良く釣合のとれたスインフォニーを發見し、そして現代の音樂界で最も優秀な作品の一つを發見するだらう。それはシュトラウスの此の前のスインフォニー、「英雄の生涯」の熱狂した充溢を持つ。しかも藝術的構造に於て更に優れて居る。人は、それが「死と變貌」の持つて居なかつた色彩の豐富と技術的な熟練とを持つて居る事によつて、「死と變貎」以後のシユトラウスの最も完全な作品であるとすら云ふ事が出來る。人は、明るく柔軟な管絃樂の美と、情感の繊細な陰影を表現し得る力とに眩惑された。そして之が、かの麵種のない粗大な麵麭の樣なマーラーの管絃樂の堅い塊の後では一層予を感動させたのである。こゝでは凡てが筋力であり生命であり、萎縮した何物と雖もない。……尤も、主題の最初の説明は餘りに圖解的な性質を持つて居る。シユトラウスのメロデイックな語彙は、幾分制限されて餘り高尚ではない。併しそれは非常に個人的である。此の青春の熱情に燃え、箭の樣に空氣を貫き、そして狂想の唐草模樣アラベスクの中に扭ぢ入る力強い主題から、彼の人格を引き離すと云ふ事は不可能である。夜を描寫したアダジオには、よしやその趣味は惡いものであつても、多くの嚴肅さと、夢幻と、ざわめく情感とがある。終りのフューグは驚くまでに快活である。そしてベートオフェンに比敵する巨大な諧謔と英雄的牧詩の混合である。音樂はその偉大なる開展の中に彼の形律を思はせる。最後の讃嘆は生命に溢れて居る。その喜悦は心臓を浪打たせる。最も猛烈ハーモニーの効果と、最も忌むべき破調とは音色の驚くべき配合の爲めに柔らげられて、殆んどその中にかくれて居る。是即ち官能的で力強い藝術家、「名歌手」のワグネルの眞の後繼者の作品である。

     *

 要するに之等の作品は、その外觀に似もやらず、シユトラウスもマーラーも彼等の初期の立脚地から暗々裡に退却して、標題を持つたスインフォニーを棄て初めて居ると云ふ事を人々に感じさせる。シユトラウスの最後の制作は、些かの暗示もなく全く簡單に「スインフオニア・ドメスティカ」と呼ばれる事によつて何等の損失をも招いては居ない。それが實際のスインフオニーである。そして同じ事がマーラーの作曲に就ても云へる。シユトラウスとマーラーは今や改造中である。彼等は共に古典のスインフオニーに立戾つて居る處である。
 併し其處には、此の種のものを聽く事から來る一層重大な結論がある。第一に、シユトラウスの才能が彼の本國の音樂界で、次第に例外的なものになりつゝあると云ふ事である。一切の著しい缺點と共に、シユトラウスは、彼の想像の暖かさの中に、彼の抑へ難い自發と永久の若さの中に、一人立つて居る。そして彼の智識と彼の藝術とは、古くなつて行く獨逸の藝術の唯中で、日は一日と發育しつゝある。一般的に、獨逸の音樂は沈むだ徴候を示して居る。予はその神經衰弱を詳細に論じないであらう。それは智慧を教へる危機を通過しつゝある。併しそれにも拘らず予は、此の無理な神經の昂奮に次いで痲痺の状態が來る事を恐れるものである。眞に不安なのは、今も尚豐富な凡ての才能にも拘らず、獨逸が早くもその主要な音樂的天禀を失ひかけて居る點である。彼女のメロディクな美は殆んど姿をかくした。人はシユトラウス、マーラー或はフーゴー・ウオルフの内に、テキストや文學的意想の適用とそのハーモニーの開展を外にしては、何等眞實な價値も個性も見出されない事を知る事が出來る。その上、獨逸音樂は日に日にその奥底のものを失ひつゝある。ウォルフには、彼の特別に不幸な生活の爲めに、未だ此の精神の痕跡があつた。併しマーラーには、彼がその意力を彼自身の上に集中しやうとして居る努力があるにも拘らず、極めて僅かしかそれが無い。そして三人の作曲家の中で最も興味ある人間でありながら、シユトラウスになると絶無である。獨逸の音樂家等は、最早少しの深みをも持つては居ない。予は此の事實が、殆んど凡ての之等の藝術家等が、樂長カベルマイステル或は監督として關係して居る劇塲の厭ふべき影響に原因して居る事を説いた。よしそれが表面のものであらうとも、彼等の音樂が――見せびらかしの爲めに書かれ、効果を狙つて書かれた音樂が――准樂劇的メロドラマテイツクな性質を持つて居るのは茲に起因して居るのである。
 劇塲の影響にも增して更に有害なのは、成功の影響である。是等の音樂家は、今日では、その作品を演奏する事に對して多過ぎる程の便宜を持つて居る。一の作品は、それが殆んど完成しない内に、そして音樂家がその作品と共に、寂寥と沈獣の内に暮す時間を持たない間に演奏されてしまふ。そして尚主たる獨逸音樂家の作品は、各種の方法による廣告に助けられて居る。即ち彼等の音樂祭(musikfeste)によつて、彼等の批評家によつて、彼等の新聞によつて、そして彼等の作品の辯疏的説明である「音樂案内者」(musikführer)によつて、それは、羊の樣な公衆に流行を初めさせるために、無數に外國へ播布される。全て斯う云ふ事のために、音樂家は直きに彼自身に滿足するやうになり、その作品に關する都合のいゝ意見を信ずる樣になる。彼の生涯を通じて同じ樣な題材を鍛へ、それが最後の形に達するまでは自分のメロデイーを廿度も鐵床の上へ載せたベートオフヱンと思ひ合せて何と云ふ相違であらう! マーラーに缺けて居るのは殊に此の點である。彼の主題は、その粗い寫生に於てベートオフェンの或る意想を少しく下品にした樣な處を持つて居る。併し彼はそこから一歩も踏み出さないのである。
 最後に、予は、獨逸に於て音樂を脅かす危険全體の中で、その最大のものに就て語らうと思ふ。「獨逸には餘りに音樂が多すぎる。」之は僻諭ではない。藝術にとつては、それが多すぎる事位不幸な事はないと予は信ずる。音樂は音樂家を溺れさせて居る。音樂祭が音樂祭につゞく。ストラスブール祝祭の翌日に、アイゼンナッハでバッハの音樂祭があつた。それから、週の終りにはボンでベートオフェンの音樂祭である。音樂會、劇塲、合唱協會、室内音樂協會、こう云ふものが音樂家の全ての生命を吸ひとつてしまふ。獨りになつて、心の内の音樂に耳を傾ける樣な時間を、抑も彼は何時持つのであらう? 此の如き音樂の急流は、彼の心靈の聖所を侵し、その力を弱め、そして、その聖らかな寂寥と思想の寶とを破壊するものである。
 諸君は此の樣な音樂の過多が、獨逸に非常に古くからあつたと思つてはならない。偉大なる古典作家の時代には、この同じ獨逸は、音樂會の一定した設備などは殆んど持つて居なかつた。そして合唱の演出なども殆んど知られて居なかつた。モッアル卜とベートオフヱンの維納には、音樂會を催す僅かに一つの組合しかなかつた。そして合唱協會(Chorvereine)は全然なかつた。それは獨逸の他の都會でも同じ事であつた。前世紀間の獨逸に於ける音樂的教養の驚くべき普及は、藝術の創造に交渉して居るであらうか? 否。予はそうは信じない。そしてその相反が日に日に激しくなつて行く事を感じる。諧君は、かのデユカがあれ程巧みに音樂に取り入れたゲーテの詩「未熟な魔術使」(Sauberlehrling)を記憶して居るであらうか? それは師の留守の間に弟子が魔術の鎖を解いて、何人も再び閉ざす事の出來ない水門を開き、遂にその家を水に漬からしてしまつたと云ふ詩である。
 それは獨逸の音樂にあつても同樣である。彼女は音樂の洪水を汎濫させて今やその中に溺れかゝつて居るのである。

 

 

 

 

 

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 附録 モツァルト

  書翰を通して見たる彼

 予は宛も之を二度目として(アンリ・キユルゾン氏佛譯)のモツァルトの書翰を讀むだ處である。そして予は之等の書翰は、啻に藝術家等に興味を感じさせるばかりでなく、同樣に他の人々にとつても有盆なものであると云ふ理由で、各圖書館の藏書の中に加へらるべき筈だと思ふ者である。諸君が之等の書翰を讀む時モツァルトは生涯を通じて諸君の友となるであらう。彼の親しげな顔は勞苦の瞬間に現はれて來るであらう。そして諸君がみじめな境遇に居る時、諸君は彼の快活な子供らしい笑聲を耳にし、彼があんなにも勇敢に堪え拔いて行つた跡を考へて、自分が暗欝な氣分に負けて終ふ事に顔を赭めるであらう。彼の記憶を喚び起さうではないか。それは今にも暗がりの中に滑り込まうとして居る。

  (1)予は(最早や少し古くなつた)此の評論が、千七百八十九年にかのドラ・ストツクがモツアルトを理解した樣に、單に粗いスケツチとして見られる事を希望する。彼の紀念に就ては、いつかもつと價値のある研究をしたいと思つて居る。兎に角予は彼の優しい姿を過ぎし日の歌劇大家の最後の肖像たらしめやうと思ふ。
(2)「モツアルトの書翰。」千八百六十五年、ルードウイヒ・ノール出版千八百七十七年第三版。

 

 

 

 

 吾々の心に觸れる第一のものは、彼の驚くべき道德的健全さである。是は、彼が肉眼的には強壮でなかつた爲に一層駑くべきものとなる。一切に亘る彼の才能は、異常によく均衡を保つて居たやうである。彼の魂は感情に溢れて居た。而も尚それ自らの主であつた。彼の心は不思議な程靜かであつた。その母の死や、コンスタンス・ウェーベルに對する愛のやうな塲合にすらそうであつた。彼の理性は澄むで居た。そして公衆の欲する處のものを、成功を得る最善の道を、本能的に摑まへた。そして彼自身を傷けずに、世界の嗜好を征服する爲にその誇らしき天稟を驅使する事が出來た。
 此の道德的均衡は、感情に富むだ性質にあつては稀有なものである。凡そ熱情と名のつくものは、悉く感情のありあまつたものだからである。モツァルトは各種の感情を具へて居た。けれども熱情は持つて居なかつた。彼の天稟に對する怖るべき自負と強い意識とを別にしては。「ザルツブルヒ大僧正は、君が慢心に漬かり切つて居ると思つて居る。」と一人の友達が或る時彼に云つた事がある。
 モツァルトは此の自負をかくさうとはしなかつた。そして、それを傷けるやうな人間に向つては、ルソオの共和主義の同時代者の一人のやうな倣慢さを以てこう答へた。「人間に尊貴を賦與するのは心だ。だから若し俺が一伯爵でないとしたつて、俺は恐らく多くの伯爵より以上の名譽を持つて居るのだ。そして侍者にしろ、伯爵にしろ俺に無禮を加へた瞬間からして、そいつは低級な無頼漢になるのだ(1)。」千七百七十七年、二十二才の時、二人の自稱諧謔家が彼の黄金拍車の十字章を笑つた時彼は斯う云つた。「君達がやつとの思ひでもらふ樣な勲章を皆手に入れる事だつて、君達が今の僕の樣にならうとするよりは、やさしい事だ。死んでまた生れて、二度もそんな事を繰返したつて君達は僕のやうになれはしない。」「俺は腹が煮え返る樣だつた」と彼は附け足した。

 

(1)千七百八十一年六月廿日

  彼は常に自分に就て云はれた凡ての追從の言葉を注意深く書きとめたり、又時には落着き拂つてそれを引合ひに出したりした。千七百八十二年に彼はその友達に云つた。「カウニッツ公は大公に、僕の樣な人間は、百年に一度しか此の世に生れて來るものではないと話した。」と。
 彼は自分の誇りが傷けられる樣な時、烈しい憎惡に堪える事が出來た。親王に仕へて居ると云ふ考へは彼を非常に苦しめた。「此の考へは我慢できない」と彼は云つた。(千七百七十八年十月十五日)ザルッツブルヒ大僧正の言葉を聽くと、「彼は全身を顫はせて、醉つぱらひの樣に街中をよろめき歩いた。彼は家へ歸らなければならなかつた。そして床へ入つた。併し翌朝になるまで彼はいつもの彼ではなかつた。」(千七百八十一年五月十二日)「俺は心の底から大僧正を憎む。」餘程たつてから又斯う云つた。「どんな人間でも俺を怒らせたら、俺はきつと復讐をせずにはおかない。そして若し俺が興味を以て復讐しなければ、俺は自分が只敵に返報をしただけで、その男を矯正しなかつたと思ふのだ。」
 彼の誇りが怪しくなつたり、或は寧ろその傾向が裏切られそうになつた時には、此の恭順な子は、僅かに彼自身の慾望にだけ權威を感じた。

「私はあなたの手紙のたつた一行にも、私のお父さんを認める事は出來ませんでした。確かにそれは一人の父からの手紙には相違ありませんが、私のお父さんからのではありませんでした。」(千七百八十一年五月十九日。)

 そして彼はその父親の同意を受ける前に結婚してしまつた。(千七百八十二年、八月七日)

 若し諸君にして、モツァルトの自負に對する熱情を取り除けば、諸君は只快活で愛すべき魂を持つた彼を見るであらう。彼は女性の或は寧ろ小児の――鋭い同情と溫順とを持つて居た。何となれば、彼は天性として涙や笑ひや諧謔、そして憎氣のない小児の凡ての惡戯を賦與されて居たからである。
 多くの塲合、彼は元氣がよかつた。そして特別に興味を持つたものはなかつた。ぢつとして居る事は彼には困難だつた。そして歌つたり跳廻つたりした。恥かしい事があると死ぬ位ひ笑ひころげた。さほどおかしくもない時ですら、そう云ふ事があつた。彼は善良な諧謔と惡どい諧謔とを好いた。(殊に惡どいのを、そして時には粗野なものを。)併しそれに害心や底意アリエル、パンセヱはなかつた。それから又之と云つて意味のない言葉の響きを喜んだ。「シュトル!シュトリ!……クナルレル、バルレル……シュニップ……シュナップ……シュネペペルゝ!シュナイ」斯う云ふ言葉は吾人が千七百九十一年六月六日の手紙に見る處のものである。千七百六十九年に彼は書いた「僕は此の族行がこんなにも僕を樂しませる事で、唯々嬉しさにはち切れるばかりだ!……馬車の中がこんなにも暑いから!……そして僕等の馭者はいゝ若者で道さへよければ馬車を風の樣に走らせるから!」

 吾人は、何でもない事に彼が歡んだ例や、良好な健康から來る彼の笑ひの例を幾百でも探し出さうと思へば探し出せる。血は彼の脈管の中を自由に流れ廻つた。しかも彼の感情は敏感に過ぎはしなかつた。

「僕は今日寺院の傍の廣小路で、四人の惡者が縊られたのを見た。あの人達はリヨンでやつた通り此處でも亦人間を絞め殺して居るのだ。(千七百七十年十一月三十日。)

 彼は非常に博大な同情――現代の藝術家達の所謂「人道」を持つて居なかつた。彼は自分の知つて居る人達を愛した。――彼の父や、母や、友逹やを。それ等の人を彼は優しく愛した。そして彼が熱烈な愛情を以てそれ等の人々の事を話すのを聽いた人は、丁度彼の音樂がその心を溫かくする時と同じ樣な感じに打たれた(1)

  (1)彼の母の死に就ての書翰、殊に千七百七十八年七月九日の書翰を参照。」 

 「妻と僕とが結婚した時、僕達は涙を流して泣き出した。そして、皆が同じ樣に泣いた程、僕達の激しい感情に引き込まれないものはなかつた。」(千七百八十二年八月七日)

 彼は貧しい人々のみが友情を解するのと同じように、友情に對して美事な理解を持つて居た。彼は云ふ。
「僕等の、最も善良で最も眞實な友達は、貧乏な人々である。金持は、友情と云ふものに就ては何も知らない。」(千七百七十八年、八月七日)
「友達? (彼はどこでも斯う云つた)僕が友達と名付ける人々は、どんな塲合にも、その友達の幸福だけを考へて居て、彼を幸福に出來る事なら何でもすると云ふ人だけである。」(千七百七十八年十二月十八日)

 妻に興へた彼の手紙、殊に千七百八十九年と九十一年との間に書かれた手紙は、愛の感情と狂的な快活とに滿たされて居る。そして、彼は、其頃あたかも、彼の生涯の最大の悲運を築き上げて居た處の病患や心勞や、畏るべき苦痛などは感じて居なかつた位ひに見える。"Immer zwischen Augst und Hoffnung"(常に懊惱と希望との間にあつて(1))と彼は云ふけれども彼は之を、諸君が想像するやうに、彼の妻を元氣づけたり、彼の本統の事情を彼女に僞つたりする爲めの、勇敢な努力を以ては云はなかつた。その言葉は止み難い笑ひの慾望から發したのである。そして彼はそれに打勝つ事も出來なかつたし、又、彼の勞苦の最も激甚な時にすらその慾望を滿さずには居られなかつたのである(2)。彼の笑ひは非常に、涙に似たものであつた――愛すべき性質から噴き上つたこんな幸福な涙に。

  (1)千七百八十八年、七月十七日。ブッフベルヒへの彼の手紙と、金錢のための絶間ない懇求の條を参照。彼と妻とは二人共病んで居た。そして子供等は居る。家の中には少しの金もない。音樂會での彼の所得は話にもならなかつた。音樂會の豫約表は二週間諸方を廻つた。そして一人の名前すら書き入れてはなかつた。モツアルトの誇りは、それを頼むで歩く事で酷らしく苦しむだ。併し彼は選り好みは出來なかつた。「若しあなたが私を見棄てれば、私共は倒れて終ひます」と彼は云つた。(千七百八十九年、七月十二日及び十四日。)
(2)彼の父親へ宛てた手紙――大なる悲嘆を以て書かれた手紙――の中ですら、彼は巴里での母の死の有樣を語りながら、彼が耳にした興がつた事柄を、笑談まじりに書かずには居られなかつた。(千七百七十八年、七月九日) 

 彼は、たとへどんな生活が彼のにも增して辛くはあり得なかつたとしても、非常に幸福であつた。それは病患と貧苦とに反抗する不斷の格闘であつた。死はその上に終局を置いた。――彼が三十五歳の時。何處から彼の幸福は來るを得たか?
 そうだ。先づ第一に彼の宗教から。完全で且一切の迷信から離脱し、そして、よしや疑念がそれに觸れた事があつたとしても、曾てそれに傷けられた事のなかつた、堅實で強固な一種の信仰とも云ふべきものから。同時に、それは熱狂と神祕思想を持たない、沈靜で平和な信仰であつたのだ。Credo quia verum. 彼は死に瀕した父に斯う書いた。
 「常に最も惡い運命を想像する事に慣れては居ても、私は吉報を待ち望むで居ます。死が人生の眞の歸結である以上、私は、數年前から、この人間の最善の友達と親しくするやうに努めて來ました。そして彼の顔は、今や私にとつていさゝかも怖るべきものではないのみか、若しさうだとすれば、落着いて慰められながら見上げる事の出來るものであります。私は此の祝福に向つて、神に感謝します……そして私は事によると明朝には自分がもう生きては居ないかも知れないと思はずに、床へ就く事は出來ません。そして尚、私を知つて居る何人と雖も、私が悲しがつて居、怏々として居ると云ふ事は出來ません。此の幸福に向つて、私は自分の創造主に感謝を贈ります。そして私の人間仲間が、それを分け持つ樣になる事を心から望むで居ます。」(千七百八十七年四月四日)         

 斯くて彼は、永遠に對する思想の中に幸福を見出した。地上に於ける彼の幸福は、彼を取り卷く人々の愛の内にあつた。そして殊に、彼等に對する彼の愛の内にあつた。その妻への手紙の中で彼は云ふ。

「若しお前が何にも不足して居ないと云ふ事を僕が感じられゝば、僕の苦勞は、皆にとつて珍奇なものになり、愉快なものにさへなるのだが。そうだ! 一番悲しい、込み入つた心配事も、若しお前が幸福で丈夫だと云ふ事が確かでさへあつたなら、そんなものは、ごくちつぽけな事に見えて來るのだが。」(千七百九十一年、七月六日)

 併し、モツァルトの眞の幸福は創造にあつた。休む間もない、そして病弱な天才等にとつては、創造は苦しみ――捉へん由もない理想の痛ましい追求――であるに相違ない。けれども、健康である事、モツァルトの樣な天才等にとつては、創造は完全な喜悦であり、それが殆んど肉體的快樂に見えた程にも自然な事であつた。作曲する事は食ふ事、飮む事、眠る事と同じ位、彼の健康にとつては重要な事柄であつた。それは必要であつた。必要物であつた。彼が欲すれば、常に滿たす事を得たが故に幸福な必要物であつた。

 若し人が、金錢に開する書翰の中の數行を理解する事が出來れば、此の事はよく理解できるであらう。「休息は、僕の唯一の目的が、出來るだけ金をとる事にあると云ふ事を保證した。何故ならば、それは健康に次いで、最も貴い所有物だからである。」(千七百八十一年、四月四日)

 是は低級な理想の樣に見えるかも知れない。併し、人は、モツァルトがその生涯を通じて金錢に不自由をして居た事を忘れてはならない。――此の事のために彼の想像は束縛せられ、そして彼の健康は此の故に惱まされたのだ。斯くてこそ、常に彼は成功を思ひ、彼を自由ならしむべき金錢に就て考へなければならなかつたのだ。之より自然な事はない。若しベートォフェンが是と異つた生活をしたとすれば、それは彼の理想主義が、他の世界と、生活の他の方法へ、――(若し吾々が彼の日々パンを保證した富めるパトロンを除くとすれば)空幻の世界へ――彼を馳りやつたがためである。併し、モツァルトは生活や、世界や、事物の眞相を愛した。彼は、生きる事と征服する事とを欲した。そして征服を仕遂せた。――何故ならば、生きる事の方は、明かに、彼の支配に屬するものではなかつたからである。
 モツァルトに就て最も不思議な事は、彼が己れを犠牲とする事なしに、その藝術を成功の方に向け得た事であつた。そして彼の音樂が常に、公衆に與へる効果を考へて書かれた事であつた。兎に角、それは此の事のために失敗しては居ない。そして彼が云はんとした事を、それは精確に云つて居る。此の點、彼はその微妙な思慮と賢こさと、諷刺的な精神とに助けられたのである。彼は聽衆を睡棄した。けれども彼自身を大なる評價の上に置いた。彼は自分が赤面しなければならない樣な譲歩をしなかつた。彼は公衆を欺いた。併し同時に之を指導した。彼は、人々が彼の思想を會得するやうに幻影を與へた。しかも、事實としては、彼の作品に敬意を表した喝釆は、單に喝釆を目的として作曲された章句に對してだけの興奮であつた。そしてどうした事だらう? 喝釆されゝばされるだけ作品は成功し、そして作曲家は自由に、新しい作を創造する事が出來たのである。

  (1)「庶民と名の付いたものゝ事は考へないがいゝ。僕のオペラには、長い耳を持つた人々を別にすれば、あらゆる種類の人々の爲めの音樂がある。」(千七百八十年十二月十六日) 「僕のものには、其慮此處に鑒識家にのみ愉快を感ぜしめる樣な章句がある。併しそれ等のものも、鑒識家でない人々が、何故とも分らずに、そこから快感を得る事が出來るやうな方法で書かれたのである。」(千七百八十二年十二月廿八日) 「僕が自分の歌劇でやつた事は、到る處で特別な成功を得て來た。それは僕が自分の公衆と云ふものを知つて居るからだ。」(千七百八十一年九月十九日) 「土其古近衞兵の合唱は、全然維納人のために書かれたものである。」(千七百八十一年九月廿九日) 「それから(「ゼライルよりの誘拐」の序幕の終りで)非常に急速に取扱はれる筈のピアニツシモが來る。そして、やがて、大きな音を出す筈の結末が來る。それが、序慕の終りに必要な全てゞある。音が大きくなるに隨つて、それはうまく行く。音が短かくなるに隨つて、矢張りうまく行く。それがために、人々は、喝釆の手を冷す暇がないのである。」(千七百八十一年。九月廿六日)

「作曲する事は、僕の一の喜悦であり熱情である」とモツァルトは云つた。(千七百七十七年、十月十日)
 此の幸福な天才は、創造するために生れた樣なものであつた。こんな強壮な藝術的健康の例を、他に見出す事は困難である。何故ならば、人は、彼の特殊な天賦を、ロッシイニの樣な人間の懶懦な想像と、混同してはならないからである。バッハは辛抱強く働いた。そして、いつでも友達に斯う云つた。「私はどうしても仕事をしずには居られません。そして誰でも私のやる樣に勞作すれば、屹度私のやうに成功するでせう。」と。ベートォフェンは、作曲の死の苦しみに居る時は、彼のあるつたけの力で戰はなければならなかつた。彼の友達が、仕事をして居る彼を見て驚いたのは、彼が極度の疲勞状態に居るのを屢々見たからである。「彼の容貎は歪むで、汗は顏を流れて居た」とシンドラーは云つた。「そして、まるでコントラパンティストの軍隊と戰つて居るやうであつた。」と。此の言葉は、彼の「クレド」や「D彌撒曲ミサ」に於て眞である。それにも拘らず、彼は、いつでも、物を書きとめておいて、それを考へたり、書いたものを抹殺したり訂正したりして初めからやり直し、或は二個のノートを、彼がずつと前に仕上げたと思つたり、時には、既に印刷されたと思つたりした或るソナタのアダジオヘつけて見る事をした。
 モツァルトはこんな苦しみをまるで知らなかつた(1)。彼は自分のしたいと思ふ事が出來た。そして自分に縁遠い事をしやうとは一度も思はなかつた。彼の作品は、彼の生活の中の甘い薫りのやうなものであつた。――むしろ、その唯一の心づかひが、生きる事にある樣な美しい花の比類であつた(2)。創造は、彼にとつて時々それが二重或は三重の流れとなつて流れ出す程やさしいものであつた。そして彼は何等の思慮もなしに、心的活動の信じ憎いやうな離れ業を演じた。彼はフューグを書きながらプレリュードを作曲する事があつた。又、或る時、音樂會で、ピアノとヴァイオリンのためのソナタをやつた事があつた。彼はそれを前の晩作曲した。八時から夜中までに大急ぎでヴァイオリンの樂譜を書いてしまふと、もうピアノの譜を書いたり、自分の相手と練習する暇がなくなつた。翌日になると、彼は頭の中で作曲したものを、記憶を以て弾奏した。(千七百八十一年、四月八日)之は多くの中の一例にすぎない。

  (1)「予は、彼が創作に苦しまなかつたと云ふ事を、無理にも云ふ者ではない。クヒヤルツに向つて、彼は、何人と雖も熱心な勤勉と不斷の研究がなければ大家になれるものではないと云ふ事を千七百八十七年に云つて居る。彼は尚斯う云つた。「作曲を研究して居る時の僕程、苦しむで働いたものは一人もあるまい。」併し實際の音樂的創作は、彼にとつて苦しい仕事ではなかつた。それは丁度彼の勞働に花の咲く事であつた。
(2) その心づかひは、吾々が既に知つて居る樣に、全く眞實であつた。

 此の樣な天稟は、彼の藝術の全領域と、行き旦つた完全の中に展開しさうなものであつた。彼は、しかしながら、特別に樂劇に適して居た。若し、吾人にして、彼の天性の内の首要な特色を想ひ起して見れば、吾人は、彼が強く沈着な決斷力に支配され、且確かで、よく釣合を保つて居た事や、彼が熱情にあり餘ると云ふ樣な事がなく、しかも美しい思想と、邊通自在の才能を持つて居たと云ふ事を知るであらう。此の樣な人は、若し彼が創造的天分を持つて居るとすれば、最もよく人生を客觀的の立塲から表現する事が出來る。彼は、どんな物にも一樣に灑がれねばならない樣に思はれる處の、一層熱情的な天性に煩はされる事はなかつた。ベートォフェンは彼の作品の如何なる頁にもベートォフェンをのこした。そして、それは善い事であつた。他のどんな大家と雖も彼がした樣には吾々を喜ばせる事は出來なかつたらである。併しモツァルトは、彼の素質――敏感、拔け目のない考へ、おとなしさ、そして自己支配力――の混交のお蔭で、他人の内の相異つた性質を會得する事や、彼の時代の交際社會に關係する事や、そして詩的洞察を以てそれを彼の音樂に再現する事に、自ら敵當して居た。彼の魂は彼の内にあつて靜かであつた。そしてどんな内部の聲も聽かれやうとするために騒がしくはなかつた。彼は生活を愛した。そして彼が住むで居る世界に對する鋭い觀察者であつた。そして、彼の見た處のものを再現する事は、彼にとつて些かも努力に値しなかつたのである。
 彼の天分は、その劇的製作の中に最も強く輝いて居る。そして彼も此の事を感じて居た樣である。何故ならば、彼の手紙は、劇的の作曲に對する彼の嗜好を吾人に語りで居るからである。

「誰かゞオペラの話をするのを聽くだけで、或は、劇塲に居たり、歌ふのを聽いて居るだけで、我れを忘れるに充分だ!」(千七百七十七年、十月十一日)

「僕はオペラを書く事に、恐ろしい欲望を持つて居る。」(同前)

「僕はオペラを書く人には、誰にでも嫉妬する。オペラの歌を聽いて居ると、涙が兩眼に湧いて來る。……僕の一つの理想は、オペラを書く事だ」(千七百七十八年二月二日及び七日)

「オペラは、どんなものよりも眞先きに僕に來る。」(千七百八十二年、八月十七日)

     *

 オペラに就て、モツァルトがどんな考へを持つてゐたかを見やう。
 最初に、彼は純粋に、あからさまに、一個の音樂家であつた。彼の内には、吾人が、かの自ら教へて、それに成功したベートォフェンに見るやうな、文學的教育と趣味とが極めて少しばかりある(1)。彼が音樂家以上の何者かであつたとはどうしても云へない。何故ならば、彼は實際音樂家だけであつたからである。彼は、戯曲に於ける詩と音樂との提携のやうな面倒な問題に、永く頭を惱ます事をしなかつた。彼は音樂のある處には、如何なる敵手と雖もあり得ないと云ふ事を速斷した。

  (1)彼は、それにも拘らず、注意深く教育された。彼は羅典語を少し知つて居た。そして、佛蘭西語、伊太利語、英語を學んだ。吾々は彼が「テレマーク」を讀んだり、「ハムレツト」に諷言を與へたりしたと云ふ事を聽く。その書齋に、彼はモリヱールとメタスタシオの著作や、オーヴイツドの詩や、ヴイーラントや、ヱワルド・フオン・クライストのものや、モーゼス・メンデルスゾーンの「フヱードン」や、フリードリツヒ二世の著作を持つて居た。その外、彼に特別な興味を與へた數學や、代數の書物もあつた。併し、若し彼の興味がベートォフェンのそれよりも大きく、そして彼の智識が一層博かつたとしても、彼にベートォフェンの文學的の天分と詩に對する趣味とは持つて居なかつた。

「オペラでは、詩が、音樂の從順な娘でなければならないと云ふ事が、絶對の命令である」(千七百八十一年、九月十三日)

 後になつて彼は云つた。
 「音樂は、王者の樣に凡てを統べる。爾餘のものは問題にならない。」

 併し此の僕は、モツァルトが、彼の臺本リブレツトに興味を持たなかつたと云ふ事や、詩なるものは音樂に對して單に言譯にすぎなかつたと云ふ程、彼にとつて音樂が愉快なものであつたと云ふ意味ではない。全く反對である。モツァルトは、オペラが、性格や感じを眞實に表現すべきものだと云ふ事を納得して居た。けれども、彼は此に到達するのは音樂家の義務であつて、詩人の義務ではないと思つて居た。それは、彼が詩人であるよりも一層音樂家であつたがためであつた。そして彼の天才が、彼そして、その仕事を他の藝術家等と分け持つ事に、嫉妬を感じさせたがためであつた。

 「僕は、自分の感じや思想を、詩の文句で表はす事は出來ない。それは僕が詩人でも畫家でもないからだ。けれども、僕はそれを音で示す事が出來る。僕が音樂家だからである。」(千七百七十七年十一月八日)

 斯くて詩は、モツァルトに對しては、單に「よく出來た設計」と、劇的な局面と、「従順な」言葉と、そして特別に詩のために書かれた言葉とを與へた。その他は作曲家の領分であつた。そして、モツァルト自身に從へば、彼は思ふがまゝに、詩と同じ樣に精確な言ひ廻しや、その特別なやり方で、極めて深長な言ひ廻しを作つたのである(1)

  (1)メンデルスゾーンの言葉を比較して見る。「音譜に、言葉と同樣に明確な意味を持つて居る。たとへその意味は、言葉に飜譯する事が出來なくても。」

 モツァルトが一つのオペラを書いた時、彼の思慮は全く明晰であつた。彼は「イドメネオ」と「ゼライルよりの誘拐」の幾つかの章句の註釋をするのに苦しんだ。そして、心理解剖に對する彼の賢こい注意は明かに現はれた。

「オスミンの憤怒(1)がどんゝゝ激しくなつて行く時、聽衆が、歌も終りに近付いたと想像する時、違つた拍子と、違つた形式とで行くアレグロ アッセーは、いゝ効果をおさめるに違ひない。何となれば、こんな猛烈な激情に運び去られた人間は、最早や、自分がどうして居ると云ふ事も、自分の正常な判斷力が奪ひ取られてしまつたと云ふ事も、まるで分らなくなるからである。それ故音樂も亦、我れを忘れて居るやうに見えなければならない。」(千七百八十一年、九月二十六日)

  (1)「ゼライルよりの誘拐」の第三の歌。」

 同じオペラの歌、「オー ウィー エングストリッヒ」(O vie äugstlich)の處に就てモツァルトは斯う云ふ。
「心臓の鼓動は、ヴァイオリンのオクターヴによつて豫告された。顫へる心の躊躇と苦悶とは、クレセンド(漸次強音)で表現された。そして囁さと吐息とは、沈默した第一ヴァイオリンと、齊奏するフリユートによつて與へられた。(千七百八十一年、九月二十六日)

 表現の眞理に對する此の樣な探求は、何處で停止するであらう? それは、やがては停止するだらうか? 音樂は常に心臓の苦悶と鼓動とであるのか? 然り。此の情緒が調和的なものである限りは。
 彼が全然一個の音樂家であつたが故に、モツァルトは、詩が、彼の音樂に何かを要求する事を許さなかつた。そして若し劇的の局面が、彼が善い趣味だと認めた範圍外へ踏み出す樣な樣子でも見えれば、彼はそれを自分の音樂に當て篏めるやうに無理にでも仕兼ねなかかつた。

  (1)そして亦、彼が一個の音樂家であり、詩と音樂との間に介在する鎖が、彼の自由を束縛して居る事を感じたが故に、モツァルトは千七百七十三年にディドロオが、「ドゥオドラマ」と名付けた一種の「メロドラマ」によつてやつて見やうとした樣な、オペラの改造と、それに代るものを作る事とを考へた。そこでは、音樂と詩とは友達の樣に調和しなければならなかつたが、亦、互ひに獨立して、唯、並行線上でのみ活働しなくてはならなかつた。「僕は絶えず、ドゥオドラマのための音樂を書きたいと思つて居る。」と彼は云つた。「其處へは歌が入らない代りに朗誦が入る事になる。そして音樂は無くて叶はぬ吟誦曲の樣になるに相違ない。又或時は音樂の件奏のついた詞が入る。するとそれは見事な印象を與へるに相違ない。」(千七百七十八年、十一月十二日)

 「熱情は、猛烈であると否とに拘らず、それが不愉快な程度に達した時には、もう止められなければいけない。そして音樂は、最も怖ろしい塲合でも、必ず耳に逆らふ樣ではならない。耳を魅惑しなければいけない。そしていつでも音樂で居なくなつてはいけない。」(千七百八十一年、九月二十六日)

 斯くて音樂は、人生の繪晝である。而も、洗練されたる人生の繪畫である。そしてメロディーは、よしそれが靈魂の反映であるにしても、肉體を傷けたり「耳に逆つたり」する事なしに、靈魂を魅惑しなければならない。故に、モツァルトに從へば、音樂は人生の調和的表現である(1)

  (1)モツアルトを批評する時、吾人は、純粹のメロディーなるものを、それ等を監理して居る定則から、別にする事を忘れてはならない。之等の定則は、たとへ善い趣味を持つて居たにしても、時には少し平凡な事がある。それ等は、安物好きの公衆に、その本來の趣味よりはずつと粧ひを凝らした佳人を持たせる目的に使用されたものである。モツアルトは、此の事を、その手紙の中で云つて居る。それ故、若し吾々が、音樂の終りの方に塗り付けられた非常に平凡な樂句を見出したとしても、全體に存する事實を誤解してはならない。モツアルトは、只、さほど重要でない點でのみ譲歩をした。併し決して、彼の深い感情や彼が尊重したものを繕ふ樣な事はしなかつた。

 此の事は單にモツァルトのオペラにのみある眞實ではなくて、彼の全ての製作に於ての眞實である(1)。彼の音樂は、それがどんな外觀を呈して居やうとも、智識へではなく、心臓に訴へられたものである。そして常に感情と熱情とを表現したものである。

  (1)あゝ。併し、此の事は彼が音樂用の時計を買ふために、數フロリンを取らうとしてソナタとアダヂオを書かなればならなかつた時を別にしてゞある。

 最も注意すべき事は、モツァルトの描いた感情が屢々彼自身のものではなくつて、彼が觀察した公衆の感情であつたと云ふ事である。彼はそんな情緒を感じなかつた。只それを見たのである。人は之を信じる事が出來ない。併し、彼は自分の手紙でその事を云つて居る。                         

 「僕は、ローゼ孃の性格を土臺にしてアンダンテを作曲したい。そして、カンナビヒ孃は即ちアンダンテだと云つても、それは全然眞實である。」(千七百七十七年、十二月六日)

 モツァルトの戯曲的な精神は、それが表現と一番釣合はない樣な作品の中にも現はれて居る程、強大であつた。――音樂家が、最も彼自身であるものと、その夢想とを投げ込むだ作品ならば尚更の事である。

 書翰をわきへ置いて、之から、モツァルトの音樂の流れへ浸り入らうではないか。此處に吾人は彼の魂を見出し、それと共に、彼の特色のあるおだやかさと理解力とを見出すだらう。
 之等二つの素質は、あまねく彼の天性に行き亘つた樣に見える。そして、それは軟かい光りの樣に彼を圍繞し、彼を包括した。彼が自分の蟲の好かない性格を描寫する事に成功しなかつたり、描寫しやうとしなかつたりした所以は茲にある。唯、吾人は音樂がベートォフェンやウエーベルや、ワグネルの手を通ると、憎惡と侮蔑を表現したり鼓吹する事の出來るものであると云ふ事を知るために、「レオノーレ」の暴君や、「フライシュツツ」と「オイランテ」の惡魔の樣な性格や、「指環」の中の鬼怪な主人公等に就て考へる必要がある。けれども若し、かの公爵が「第十二夜トウヱルフス・ナイト」で云つた樣に、「音樂が愛の糧である」ならば、同時に愛は音樂の糧である。そして、モツァルトの音樂は實際に愛の糧である。そして之こそ彼があんなにも多數の友達を得た理由である。そして如何によく彼が彼等の愛に酬ひた事だらう! 如何に彼の心から、なつかしさと愛情とが流れ出た事だらう! 小児の時から彼は愛情に對する殆んど病的な欲求を持つて居た。次の樣な事が記録されて居る。或日、彼は突然墺太利の公女に向つて、「奥樣。あなたは私を愛して下さいますか。」と云つた。すると公女は彼をからかふ積りで、否と云つた。小児の心は傷けられて、彼は泣き出してしまつた、と。
 彼の心はいつまでも小兒のそれで居た。そして、凡ての彼の音樂の裡に、吾人はこの簡單な要求を聽く心地がする。「僕は君を愛する。だから君も僕を愛して呉れ給へ(1)

  (1)彼にとつて、彼が愛する何人かゞ居ない處で作曲をする事は殆んど不可能であつた。 「お前は、お前なくして、時間がどんなにのろくさく過ぎて行くか信じられまい。僕は自分の考へて居る事をはつきりとは云へないが。併し自分の身邉の空虚さや、曾て滿されなかつた樣な一種の憧憬を感じる。それは常に在るもので、一日一日と勢を增して行き、そして全く僕を病的にするものだ。仕事はもう少しも僕を惹きつけない。それは寝床を出ると、自分の勝手な時に、お前と少しばかり話をする習價になつて居たからだ。あゝ。その滿足はもう行つてしまつた。若し何か歌はふと思つてピアノに向つても、僕に止めなければならなくなる。それが餘りに僕の感情を高ぶらせるからだ。」(千七百九十一年、七月七日。その妻への手紙)

 彼の作曲は不斷に戀愛を歌つて居る。彼自身の感情に溫められながら、その無味な詞と、いつも同じ樣な愛の挿話とにも拘らず、叙情的悲劇のコンヴェンショナルな性質が特色のある調子を獲て、戀愛の可能性を持つあらゆる人々に對する、永遠の魅力を把握する。モツァルトの戀愛には、放肆なものや、ローマンティツクなものはない。彼は單に愛念の甘さとその悲哀とを表現する。モツァルトが熱情に惱むだ事のない樣に、彼の主人公も傷いた心に苦しまされた事はなかつた。アンナの悲哀でも、或は、「イドメネオ」のヱレクトラの嫉妬でさへも、ベートォフェンとワグネルによつて放釋された樣な精神に似たものを持つては居ない。モツァルトのよく知つて居た熱情は唯憤怒と矜恃とであつた。凡ての熱情中の最大なるもの――「完全なヴイナス」――は彼の内には一度も現はれて來なかつた。彼の全作品に、云ふに云はれぬ平和の性質を與へたのは、此の缼乏のした事であつた。藝術家等が戀愛なるものを肉慾の飽滿と、虚僞でヒステリカルな神祕主義とによつて、吾人に示さうとのみ心がけて居る樣な時代に、吾人と同樣に生きながら、モツァルトの音樂は、その智識と全く同じ程度に、無智を以て吾々を魅惑する。
 モツァルトには、併しながら或る肉感性がある。たとへグルックやベートォフェンよりも熱情的でないとしても、彼は一層逸樂的である。彼は獨逸の理想派ではなかつた。彼はヴヱニスから維訥への途中にあるザルツブルヒで生れた。従つて彼の性質に、伊太利人らしい或物が見えるのはさもあるべき事である。彼の藝術は、その口が祈禱を除く外一切のものゝ爲に作られた處の、ペルヂーニの畫く美人の天使長アークヱンジヱルや、天國の男女兩性人ハーマフロデイートの樣な、だるい表現を想起させる事がある。モツァルトの畫布はペルヂーニのよりも大きかつた。そして彼は全く異つた方法で、宗教の世界の沸き立つ樣な表現を發見した。若し吾人が、彼の純潔と肉感との二樣の音樂を見出す處があるとすれば、それは僅かにウンブリア位ひなものかも知れない。次の樣な、戀愛の歡ばしい夢想家を考へて見るがいゝ。――その生き生きした心と青春の愛を持つたタミノを。ツエリーナを。コンスタンスを。「フィガロ」の中の伯爵夫人と彼女の優しい憂欝を、スウザンヌの眠たげな愛慾を。涙を笑ひを持つた「五部曲」を。「菫の土堤に吹いて、芳香を持ち去り持ち來る甘い南風(1)」の樣な、Cosi fan tutteの「二部曲」(Soave sia il vento)を。どんなに多くの雅致と豐麗モルビテツッアをば吾々は感じる事だらう。

  (1)彼にとつて、彼が愛する何人かゞ居ない處で作曲をする事は殆んど不可能であつた。 「お前は、お前なくして、時間がどんなにのろくさく過ぎて行くか信じられまい。僕は自分の考へて居る事をはつりとは云へないが。併し自分の身邉の空虚さや、曾て滿されなかつた樣な一種の憧憬を感じる。それは常に在るもので、一日一日と勢を增して行き、そして全く僕を病的にするものだ。仕事はもう少しも僕を惹きつけない。それは寝床を出ると、自分の勝手な時に、お前と少しばかり話をする習價になつて居たからだ。あゝ。その滿足はもう行つてしまつた。若し何か歌はふと思つてピアノに向つても、僕に止めなければならなくなる。それが餘りに僕の感情を高ぶらせるからだ。」(千七百九十一年、七月七日。その妻への手紙)

 併し、モツァルトの心は常に――或は殆んど常に――その戀愛に於て無技巧であつた。彼の詩は、觸れたもの悉くを變形してしまつた。それ故「フイガロ」の音樂の中に、佛蘭西のオペラの派手な、併し冷淡で腐敗した性質を認める事は困難である。ロッシーニの淺薄な快活は、情調の點でポーマルシヱーに一層近か寄つた。ケルビーニの創作は、戀愛の神祕的な影響の下にあつて、心の動搖と、呪縛とを表現した點で、殆んど全く新らしい或物であつた。モツァルトの健全な無邪氣は、危なげな位置(丁度ケルビーニと伯爵夫人とのそれの樣な)を滑り越して、樂しい會話の題目の外のものは何物も見なかつた。實際には、モツァルトの「フイガロ」と「ドンフアン」と、佛蘭西諸作家のそれとの間には大なる深淵がある。モリエールの塲合だと、佛蘭西精神は、それが苦しげに或は愚かしく昂奮して居ない時には、その周圍に何等かの痛ましいものを持つて居つた。そして、ポーマルシヱーだと、それが冷たく、光つて居た。モツァルトの精神は全く異つて居た。そして些かも悲哀の余韻を殘さなかつた。彼は害心を持つて居なかつた。愛と、生活と、活働とに滿たされて、彼は社會の惡戯と享樂とに向つて身づくろひをして居た。その性格は、笑ひと無考へな戯言との中で、彼等の好色感情を匿さうと努める歡ばしい生き物であつた。其等は、モツァルトがその妻に書いた戯れに滿ちた手紙を人に思はせるものである。
「愛する妻よ。若し僕がお前の可愛らしい肖像に爲た事をすつかり話したら、お前は大笑ひするだらう! 例へば、それを覆から出した時僕は斯う云つたのだよ。「神樣はお前を祝福して下さるよ。ちつちやなコンスタンス!……神樣はお前を祝福して下さるよ。このいだづらつ子!……此の尖り鼻のくしゃゝゝゝ頭!」と。それから元の通りにする時、僕は靜かにそれを入れて、一生懸命に御機嫌を取つたのだよ。「さよなら。ちつちやな廿日鼠や。おやすみ」と。僕は馬鹿な事を書いたのが氣になるよ。――少くとも世間ではそう思ふだらうからね。けれども、お前と別れてから六日になるもの。僕にはそれが一年も立つた樣な氣がする。……そうだよ。……若し他の人達が僕の心を見通せなくとも、僕は赤面しなくつちやならない。………」(千七百九十年、四月十三日及び九月三十日。)

     *

 多分の快活は愚行に誘ふものである。そして、モツァルトは其れを二つながら所有した。伊太利滑稽歌劇オペラ・ブツフアと、維納趣味の二重の影響は、彼の内にそれを増長させた。之は彼の最も面白くない一面である。そして、人は、若しそれが彼の役割でないとすれば、喜んでそれを通り越して行くであろう。肉體が精神と同じ樣な欲求を持つと云ふ事だけは自然である。そして、モツァルトが陽氣の絶頂に居た時にはたしかに或る惡戲がその結果として現はれねばならなかつた。彼は自分を小供の樣に喜ばせた。そして、人は、レポレロや、オスミンや、パガヂヱーノの樣な性格が、彼に素晴らしく大きな氣晴しを與へた事を感じるであらう。
 時として、彼の道化は殆んど崇高なものであつた。ドン ファンの性格を、そして實際、此のオペラ ブッフア(1)の作者の掌中にある他のオペラを考へて見るといゝ。茶番は、此處では悲劇的な動作と一緒にされて居る。それは司令官の彫像とヱルヴイラの哀傷とを取り卷いて演じられる。夜樂セレナードの塲は一の茶番狂言である。併しモツァルトの精神は、それを優秀な喜劇の塲面にした。ドン ファンの性格全體は、異常な變通性を以て書かれて居る。實際それは、モツァルト自身の作品の中で、そして恐らく、十八世紀の音樂藝術の中ですらも、一の例外の作曲である(2)

  (1)之等の標題は、モツァルトに於て眞の區別に符合した。彼は言つた。『君は、僕がオペラ セリアと同じ方法で喜歌劇を書くと思ふか? オペラ セリアが教養と實に少しばかりの諷刺を必要とする時、オペラ ブツフアは多分の快活と諧謔と、そして極く少しばかりの教育とを必要とする、若し世人がオペラ セリアに輕快な音樂を要求するならば、僕はお役に立たないのだ。」と。(千七百八十一年、六月十六日)。
(2) 「恐らく」と予は言つた。何故ならば、吾人は十八世紀に於ける伊太利音樂家の ヴイス コミカ(人々を笑はせる力)を忘れてはならないからである。そして、ヘンデル、グルツク、モツアルト、其の他の獨逸古典音樂家逹が、凡て利益を受けた處の、伊太利の圖書館内に眠つた樣に横はつて居る多數の書物の上に吾人の正當な理解を置かなければならないからである。

 吾人は樂劇の中に、あれ程にも眞實な生命を持ち、そして、オペラの一の終りから別のものに到るまで、一貫した完全と合理性とを持つた性質を見出すためには、ワグネルに行かねばならない。若し此の中に、何等かの驚嘆すべきものがあるとしたならば、それはモツァルトが、懐疑的で貴族的な放蕩家の性格を、あれ程精確に描き得たと云ふ鮎にある。併し若し人にして、もう少しばかりドン ファンに近付いて研究すれば、彼の立派さの中に、我儘の中に、翻弄好きな精神の中に、誇りの中に、肉感性の中に、そして彼の怒りの中に、人は、モツァルト自身や、彼の天才が全世界の善惡二樣の感化を受ける可能性を感じた處の、その靈魂の薄暗い奥底に發見さるべき、非常によく似た面影の存する事に氣がつくであらう。

  (1)ドン ファンは、此處では十八世紀の伊太利人である。そして物語の中の傲慢な西班牙人でもなければ、ルイ十四世の朝廷の観想した無神論者の若い侯爵でもない。

 併し、何と云ふ不思議な事だらう! 吾人がドン ファンの性格を現はすために使つた言葉は、どれもこれも、既に、吾人がモツァルトに特殊な人格と天分とに就て使つた言葉である。吾人は、彼の音樂の肉感性と、彼のたはむれ好きな精神とを語つた。そして彼の誇りと、怒りの發作と、同時に、彼の怖ろしい――そして正當な――利己主義とを指摘した。
 斯くて、(竒異な論ではあるが)モツァルトの内的自我は一箇の準ドン ファンであつた。そして彼は、彼の藝術の中に、同じ要素の違つた組合せ方によつて、彼自身からは最も遠い種類の性格を、全く作り上げる事が出來たのである。彼の愛嬌のある欲情ですら、ドン ファンの性格の魔力によつて表現された。そして、外見はどうあらうとも、尚、此の熱情的な性質は、ロメオの有頂天を描寫しやうとしたならば恐らく失敗に終つたのであらう。斯くてドン ファンは、モツァルトの最も力強い創造であつた。そして天才の矛盾した性質の一例であつた。

     *

 モツァルトは、戀した事のある、そしてその魂が靜かである人々の、選ばれたる友である。惱める人々は到る處にかくれがを求める事が出來る。――偉大なる慰籍声の内に。彼自身はあれ程にも苦しみながら、そして慰めからは遠く生きて居た人の内に。――予はその人をベートォフェンだと云ふ。
 モツァルトの引いた籤は樂なものではなかつた。運命はベートォフェンを取扱つたよりも、一層残酷に彼を取扱つたからである。モツァルトは如何なる形の悲哀をも知つて居た。彼は心的懊悩の苦痛、見えざる者に對する恐怖、そして寂しき魂の悲哀を知つて居た。彼はその或る物を、ベートォフェンやエェーベルの手がとゞかなかつた一の方法で、吾人に語つた。別のものゝ中から、彼のフアタジアと、そしてピアノの爲めの「Bマイノアに於けるアダジオ」とを取りて考へて見る。之等の製作の中には、――若し、予が、彼の他の作品には天稟がなかつたと云つても生意氣な事にならないのなら――予が稱して天稟だとする處の新らしい力が現はれて居る。併し予は、此の「天稟」なる言葉を、人間自體の外にある或物、別な見地からは、全く平凡に見えるかも知れぬ處の魂に、翼を與へる或物の意味に使用する。――魂の内に巣をくつて、吾々の内の神であり、そして吾々自身よりも更に高い心靈である處の、或る獨立した力の意味である。
 併し吾人は、未だ漸く、かの生活と歡喜と戀愛とを、不思議にも賦與された一個のモツァルトを考へたばかりである。そして吾人が、彼の創造した人物の内に發見するものは、常に彼自身であつた。今や吾人は、更に神秘な世界の入口に立つて居る。此處に語る處のものは、靈魂の本質、非人格的で普遍的な一個の實在ビーイングである。――天才者にして初めて表現し得る靈魂の共通的な根源、「神」である。
 モツァルトの個人的自我と内的の神とは、時に、崇高な辨證に關係した。殊に彼の怏々として樂しまぬ精神が、世界の外に避難所を求める樣な塲合に、かゝる二重の精神は、屢々ベートォフェンの製作中に見るものであつた。とは云へ、ベートォフェンの魂は、猛烈で移り氣で熱情的で且變つて居た。モツァルトの魂は、之に反して、若々しく、優雅であり、時に感情の過剰に惱まされながら、而も平和に滿ちて居た。そしてその苦痛を、韻律的な樂句を以て歌ひ、彼獨特な愛らしい方法で歌つて、やがてその顏に微笑を浮べながら、涙の中に寢ついてしまふのである。之こそ、彼の音樂の中の詩がその魅力を作る處の、花の樣な魂と、最高の天稟との對照である。
ファンタジアの或るものは、美しく刻まれた緑葉と、微妙な芳香を發する花に覆はれて大なる枝を差し伸ばす、太い幹を持つた樹の樣である。ピアノの爲めの「Dマイノアのコンチヱル卜」は、英雄主義ヒロイズムの氣息を漂はす。そして吾人は、交互に微笑を射出する電光を見る氣がする。有名な「Cマイノアに於けるファンタジアとソナタ」は、オリムピアの神の莊巌と、ラシイヌの女主人公の一人の微妙な感覺とを持つて居る。「Bマイノアのアダジオ」に於て、神は莊重な容貌を表はして、今にも彼の電雷を放たうと身がまへて居る。そこでは心靈は吐息をついて、大地をはなれない。その思想は人間の感情の上にある。そして終りに至つてその悲歎は物惓げになり、やがて眠りに落ちて行く。

     *

 時あつてモツァルトの魂が、勇敢な二元を抛棄して、高空に飛翔し、人間的感情の奔騰を知らない、崇高で靜寂な宗教に達する事がある。此の樣な時、モツァルトは最も偉大なるものと同じである。そしてベートォフェン自身ですらも、彼の老年の幻影の裡で、モツァルトがその信仰によつて變形された樣な高さよりも、一層朗らかな高さに達した事はなかつたのである。
 不幸な事には、之等の塲合は稀なものであつた。そしてモツァルトの信仰は、彼が彼自身を取戾さうとあせつて、只、此の樣な表現を求めて居る樣にのみ見えた。ベートォフェンの樣な人間は、彼の信仰を屢々再建した。そして絶間なくそれを語つた。モツァルトは初めから、信仰家であつた。彼の信仰は強固で優しかつた。そして少しの不安も感じなかつた。それ故、彼はそれに就て語つた事はなかつた。寧ろ彼は、彼を廻る、慈愛深く、果敢なき世界を語つた。それは彼があれ程にも愛し、そして彼が愛する事を望むだ世界であつた。けれども、戯曲的の主題が宗教的感情の表現に道を開くか、或は重苦しい心勞や病苦や、死の豫感が、生活の歡喜を破壊したり彼の思想を神の方に轉じた時、その時こそモツァルトは最早彼自身ではなかつた。(予は、世界が知悉し、世界が愛するモツァルトの事を話して居るのである。)若し死がその途上で彼をとらへる事をしなかつたなら、其の時彼は、彼が成つたであらう處のものとして現はれた筈であつた。――それは、ゲーテの、基督教的感情とパガンの美しさとの合體の夢想を實現するに適した藝術家。「現代と古代との世界の調和」を成し遂げる筈の藝術家である。――それはベートォフェンが彼の「第十スインフォニー」で果たさうと試み、ゲーテが彼の「ファウスト」の第二部でやらうとした處のものであつた(1)

  (1)ベートオフヱンの「ノートブツク」
ゲーテは、此の方面に於けるモツアルトの使命に就て、はつきりした意見を持つて居た。 千七百九十七年、十二月十九日に、シルレルはゲーテに宛てゝ斯う書いた。「僕はいつでも、悲劇がオペラから、もつと美しく、もつと高尚な形式に發達するやうにと望むで居ります。丁度昔、それがバツカスの歌舞隊や祝祭から發逵した樣に。實際には、オペラは自然の凡ての卑屈な模傚を避けた方がいゝのです。そして音樂の力と、彼等の野鄙な性質から情緒を解き放す感覺の高調とで、オペラは初めて、その心を高尚な感情の方へ動かす事が出來るのです。熱情でさへも、自由と一緒に現はれて來るでせう。何故と云へば、音樂がそれと手をとり合ふからです。そしてそこでは默認された驚くべき程の事も、主題には殆んど關係しずに、精神を沈靜にするでせう。」 ゲーテは斯う答へた。「若し君が「ドン ジオヷンニ」の最終の公演を見られたら、君のオペラに就ての望みが、すつかり實現されて居た事を知つたでせうに。併し此のオペラは唯一つのものです。そしてモツアルトの死は之に似た色々のものを見られると云ふ、吾々の希望を、凡て打ちこはしてしまひました。」(千七百九十七年、十二月三十日)

 殊に、その三つの作品の中に、モツァルトは「聖なるもの」を現はした。即ち「ルキヱム」と、「ドン ジオヷンニ」と、[魔笛」の中にである。「ルキヱム」はその凡ての純潔の中に基督教的信仰を息づいて居る。モツァルトは、其處に自分からは遠い世界的の歡喜を置いた。そして僅かに、神と語るために畏れかしこむで、敬虔な悔改めの内に來た處の、彼の心を落ちつけた。悲しき恐怖と、優しい哀傷とが高貴な信仰と一つになつて全篇に漲る。或る樂句の痛ましき悲愁と人格的な抑揚とは、他人のために永遠の安靜を乞ひながら、自分自身の事を考へて居たモツァルトを暗示する。
 他の二作に於ては、宗教的感情がその出口を見出す。そして藝術家の直觀によつて、それは、あらゆる信仰の根本を吾人に示すために、個人的な信仰の限界を突破して居る。二個の作は相互に完成し合つて居る。「ドン ジオヷンニ」は、ドン ファンがその不身持と似非信仰家の奴隷として負はなければならなかつた、定業の重荷を吾人に負はせる。「魔笛」は「德」の歡ばしい自由を歌ふ。共に、彼等の單純な力と、優しい美しさとによつて、古典的な性質を帯びて居る。「ドン ジオヷンニ」の宿命と「魔笛」の莊嚴とは、グルックの悲劇を思はせないで、寧ろ、希臘藝術に對する近代藝術の大なる接近を暗示して居る。「魔笛」の中の或るハーモニーの完全な純潔さは聖盃の騎士の神秘的な熱狂でさへも、容易に達し難い程な高さに迄飛翔して居る。凡そ斯くの如き制作にあつては、あらゆるものが澄み渡つて光りに溢れてゐるのである。

     *

 此の光明の成長の中でモツァルトは、千七百九十一年、十二月五日に死んだ。「魔笛」の最初の演出が同じ年の九月三十日に行はれた。そしてモツァルトは、彼の生涯の最後の二ケ月間に「ルキヱム」を書いた。斯くして彼は、死の手が彼を捉へた時、彼の實在の秘密の幕を僅かかに上げかけたのであつた。三十五歳で。そして彼が、彼の内に囚はれとなつて居た至高の力を、初めて意識するやうになつたのは、死の接近と、その神來の唯中での事であつた。――彼が、その最後の、そして最高の作品の内の彼自身を許した處の力である。三十五歳の時は、ベートォフェンが未だ「アッパショナタ」や「Cマイノアのスインフォニー」を書いて居なかつた事や、そして「第九スィンフォニー」や「D彌撤曲」の意想からは遠い道を歩いて居たと云ふ事を記憶するのは、今此の時である。
 死はモツァルトの生命を短かく斷ち切つた。併し彼が手離した樣な斯の如き生命は、他の人々にとつては永遠に涸れる事のない平和の源泉であつた。「革命」が凡ての藝術中に入り來つて、音楽にも不安を齎す樣になつて以來、此の熱情の動亂の中で、かの、人がオリンポスの岡の上に求める樣に、この莊嚴の内にかくれがを求めると云ふ事は歡びである。此の靜寂な一點に立つて吾人は眼下の草原を見はるかしながら、違つた世界の英雄等や神々の戰ひを打ちまもり、そして彼等を取卷いて、海洋の怒濤が遠い濱邊に打ち返すかの樣な大世界の物音を聽く事も出來るのである。

   Suave, mari magno........................

   (終)

 

 

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