リルケ 時禱集     翻訳:尾崎喜八

 
 リルケ Rainer Maria Rilke
 時禱集 Das Stunde-Buch
  (第一部:僧院生活の書、第二部:巡礼の書、第三部:貧しさと死の書
     ※尾崎は第一部「僧院生活の書」のみ翻訳しています(満嶋)。

   ※ルビは「語の小さな文字」で、傍点は「アンダーライン」で表現しています(満嶋)。

                                 

第一部:僧院生活の書

 

 

                                     

 

 時禱集(第一部:僧院生活の書)

 

時間は傾いて私に触れる、
澄んだ、金属的な響きを立てて。
私の感覚がふるえる。私は感じる、私にはできると――
そして私は造形的な日をつかむ。

私が認めるまではまだ何物も成就じょうじゅしてはいなかった。
すべての生成するものは静かに立っていた。
いま私の眼は熟している。そしてどの一瞥べつにも
その欲するものが花嫁のように来る。

何ものも私にとって小さすぎはしない。
そして小さくても私は愛する。
私はそれを金地きんぢに大きく描いて高くかかげる。
するとそれが私の知らない誰かのたましいを解きはなつ……

   *    *

物の上にひろがって大きくなる
輪のような生を私は生きている。
おそらく最後の輪を完成することはないだろう。
しかし私はそれを試みようと思っている。

私は神のまわりを、太古の塔のまわりを廻っている
そしてもう千年も廻っている。
しかも私はまだ知らない、自分が一羽の鷹であるか、一つの嵐であるか、
それとも一つの大きな歌であるかを。

   *    *

修道院の庭に月桂樹のたつ南の国に
私は僧衣をまとったたくさんの兄弟たちを持っている。
私は知っている、彼らが聖母の像をどんなに人間のように並べたかを。
そして私はしばしば多くの若いティツィアンを夢想する。
彼らの中を灼熱した神が行くのだ。

しかしどんなに私が自分のうちに身を屈めても。
私の神は暗くて、黙々と飲む百本の
根で織られた織物のようだ。
私は自分が彼の温ぬくみで活気づけられている事のほかにはもう何も知らない。
私のすべての枝は深くしずもり、
ただ風に吹かれてうなずくだけだから。

   *    *

私たちにはとうてい自力ではあなたを描けない、
其処そこから朝が立ち昇ったおんみほのぼのと明けゆく者よ。
私たちは古い絵具皿から、
それでもって聖者があなたを隠した
あの同じ輪郭、同じ光線をとり出すのだ。

私たちはあなたの前に、壁のように画を建てる。
そのためにもう千の塀があなたを取りまいて立っている。
なぜかといえば、私たちの心があなたを開いて見るたびに、
私たちの敬虔な手がそのあなたを隠すから。

   *    *

私は自分のさまざまな感覚の溺れ入る
私の存在のほのぐらい時間を愛する。
その中で、あたかも古い手紙の中でのように、
私はすでに生きられた自分の毎日の生活を見いだし、
又それが伝説のように、遠く、かつ善く耐えるのを見たのだ。
その時間のなかで私は悟る、私には時のない
第二の広々とした生が残されていると。
そしておりおり私は樹のようになる。
今は亡い子供が悲しみと歌との中で失った夢を
墓の上に生かして、成熟して、
風にそよいでいる樹。
 (その子を囲んで温かい根がひしめいている)樹のように。

   *    *

おんみ、隣人である神よ、私が長い夜にいくたびか
強く戸をたたいてあなたを煩わすとすれば、
それはあなたが稀まれに息をされるのを聴いて、
あなたが広間にひとりでおられるのを知るからです。
そしてあなたが何かを求められる時、そのあなたの探る手に
飲物をさし出す者が其処には一人もおりません。
私はいつでも耳をそばだてています。ただちょっと合図をしてください。
私はすぐおそばにいます。

ただ私たちの間には、たまたま
一枚の薄い壁があります。
それであなたの口か私の口からのひと声が
まったく物音も混乱も起こさせずに
それを壊してしまうかも知れません。

壁はあなたの画像で建てられています。

そしてあなたの画像はあなたの前に名のように立っています。
そして私の深い心にあなたを認めさせる光が
私のうちで燃え上がりでもすると、
心は栄光のようにその額縁がくぶちの上におのれ自身を蕩尽とうじんします。

そして私の感覚はたちまちしびれて、
故郷も無くあなたから引き離されてしまいます。

   *    *

もしもただ一度完全に静かになったら、
もしも不慮のものや、偶然なものや、
隣人の笑いが沈黙したら、
もしも私の感官の立てるざわめきが
見張りする私をあまりにひどく妨げなかったら、

そうしたら、私は千倍もの思いのうちに
あなたを端から端まで考えるでしょう。
そして(ほほえみ一つの間だけ)あなたを所有するでしょう、
すべての生命に。感謝のように
あなたを贈るため。

   *    *

世紀の移る、ちょうどその時を私は生きている。
一枚の大きな紙から起こる風が感じられる。
神と、お前と、私とが書き、
見知らぬ者の手に高々とめくられる紙からの。

その上でなおすべてのものの生まれ得る
新らしい一ページの輝かしさが感じられる。
さまざまな静かな力が自分たちの広がりを調べている。
そしてたがいに暗く見かわしている。

   *    *

私はそれをあなたの言葉から読みます。
あなたの手が、温かく、賢明に、
生成をめぐって自制しながら円熟していった
その動きの歴史から読みます。
あなたは生を大声で語り、死を小声で囁いた。
そしていくたび屯いくたびも繰り返した、「在れよ」と。
しかし最初の死よりも早く殺害が行われました。
するとあなたの成熟した円に一本の罅ひびが入り、
ひとつの叫びがおこって、
あなたを語ろうとして、
すべての深淵の懸橋かけはしである
あなたを担になおうとして、
たった今集まったばかりの声々を
一掃しました――

そしてそれ以来彼らが吃どもりながら口にしたのは、
昔ながらのあなたの名の
かけらだけです。

   *    *

青ざめた少年アーベルが言う。

僕はいない。兄は僕の眼が
まだ見たこともないような事を僕にした。
彼は僕の光をおおいかくした。
彼は僕の顔を
彼の顔で追いはらった。
いま、彼はたった一人だ。
僕は思う、彼はまだ居るにちがいないと、
なんと言っても彼が僕にしたような事を誰も彼にはしないから。

みんなが僕の道を行った。
みんなが彼の怒りに出遭い、
みんなが彼に失われる。

僕は信じる、僕の兄は
裁きの司のように眠らずにいるのだと。
夜は僕を思い出してくれた。
彼をではなく。

   *    *

私の生まれのもとであるおんみ暗黒よ、
私は焰よりもおんみを愛する。
焔は燃えながら
なにか一つの輪をかくために
世界を局限するが、
この輪のそとでは何ものからも知られない。

だが暗黒はそれ自身に一切を容れている、
物の姿も、焰も、動物も、私も、
まるで奪い取りでもするように
人間やさまざまな能力をさえ――

それで、或いはひとつの巨大な力が
私のすぐそばで動いているかも知れないのだ。

私は夜を信ずる。

   *    *

私はすべてのいまだ言われなかった事を信ずる。
私は自分のもっとも敬虔な感情を解き放そう。
何人もいまだ敢えて試みようとしなかった事が、
或る時、思わざるに私に成就じょうじゅするだろう。

これが思い上がりならば、神よ、恕ゆるして下さい。
ただ私はそれであなたにこう言おうと思うだけなのです、
私の最善の力は衝動のようでなくてはならないと。
そのように怒りもなく、ためらいもなく、
そのように子供らはあなたを愛しましたと。

この漫々たる水の流れで、
広やかな支流によって外海へ向かうこの河口で、
この増大する反復で、
私はあなたを公言し、あなたを告知したいのです、
今までに誰一人としてしなかったように。

そしてこれが己惚うぬぼれならば己惚れさせて置いて下さい、
雲に被われたあなたの額ひたいの前に
かくもまじめにひとりで立つ
私の祈りのために。

   *    *

私はこの世であまりに孤独だ。とはいえすべての時間を浄め得るほど
それほど充分に孤独ではない。
私はこの世ではあまりに小さな存在だ。しかしあなたの前で
物のように暗く賢くあり得るほど
それほど充分に小さくはない。
私は自分の意欲がほしい。そしてその意欲と連れだって
行為への道を行きたい。
そして静かな、何かの理由でためらっている時間の中へ
何ものかが近づいて来る時には、
知識ある人々に加わるか、
さもなければ一人で居たい。
私はあなたを常に全体の姿として示したい。
そしてあなたの重く揺らめいている像をとらえるのに
けっして盲目であったり年をとり過ぎたりはしたくない。
私は自分をひろげたい。
私はどこにも曲がったところを持ちたくない。
曲がっているのは其処で私が偽っているからだ。
私はあなたの前に正真正銘の心で立ちたい。
そして永いあいだ真近に見た
一幅の絵のように、
自分でとらえた或る言葉のように、
毎日つかう壺のように、
私の毋の顔のように
又もっとも致命的な嵐を衝いて
私を運んでくれた
一艘の船のように、
私は自分をえがきたい。

   *    *

このように、私には無数の欲望がある。
私の望むのはおそらくは何もかもだ。
一切の無限落下の暗黒と、
あらゆる上昇の顫ふるえきらめく戯れとだ。

じつに多くの人間が生きていて、しかも何物をも望まない。

そして彼らの軽い料理の舌になめらかな感覚で
王侯の気分を味わっている。

しかしあなたは喜ぶ、
すべての仕える顔、渇望の顔を。

あなたは喜ぶ、
あなたを何か道具のように使う者たちすべてを。

まだあなたは冷たくはない。
そして生命が静かに自分の秘密を洩らすために
あなたの深まりゆく水底に沈むとしても遅すぎはしない。

   *    *

われわれは顫ふるえる手でお前のために家を建てる。
そして微塵みじんに微塵を積み上げてゆく。
しかし誰にお前を完成することができるだろう。
大伽藍がらんよ。

ローマはどうだ。
それは崩壊する。
世界はどうだ。
それとても砕け去るだろう、
お前の塔が円蓋をいただき、
幾マイルもつづくモザイクから、
お前の燦然たる額ひたいがそびえ立つまえに。
だがおりおりは夢の中で
お前の空間を
深くその基底から
屋根のこんじきの尖端まで
見わたすことが私にはできる。
そして自分の感覚が
その最後の装飾を
造ったり組み立てたりしているのが見える。

   *    *

私は知っている、かつては誰かがあなたを欲したことを、
そしてわれわれがあなたを欲するのを許されていることを。
たとえわれわれもまたすべての深遠なものを否認し、

一つの山岳が黄金を秘めているのに
もう誰一人それを掘り出そうとしなくても、
岩石の静寂のなかを登ってゆく水の流れは、
あの満ちみちたものは、
いつかそれを明るみへ運び出すだろう。

たとえわれわれが欲しなくても
神は成熟する。

   *    *

おのが生活のかずかずの矛盾を和解させて
それを感謝をもって一つの象徴のうちにとらえる者は、
さわがしい群むれを館やかたから追い出して、
別の饗宴うたげを催すだろう。
そしてあなたは、彼が物静かな宵に
迎え入れるその客だ。

あなたは彼の第二の孤独。
彼の独白への寂せきとした中心。
そしてあなたをめぐって引かれたすべての円が
時でつくられた輪を彼に張る。

   *    *

画筆を握りながら私の手は何を迷っているのだろう。
私があなたを描いても、神よ、あなたはほとんどそれに気づかない。
私はあなたを感じている。あなたは私の感覚の岸辺で
無数の島々にためらうようにためらいはじめる。

そして決してまばたきをしないあなたの眼に
私は空間だ。

あなたはもう自身の輝きの中にはいない。
其処では天使の舞踏のすべての列が
その音楽であなたの遠方まで使い果たした――
あなたは最後の家に住んでいる。
私があなたに口を緘してひとり物思いに耽っているので、
あなたの持つあらゆる天が私の内心を聴き出してしまう。

   *    *

「私はいる。気づかう者よ。あなたは聴かないか、
私が全感覚をあげてあなたの岸に砕けているのを。
翼を見いだした私の意識は
あなたの顔のまわりを白々と飛びめぐっている。
静寂をまとってあなたの眼の前に立つ
私の魂があなたには見えないか。
私の五月の祈りは、樹に熟すように、
あなたの眼には熟さないのか。

あなたが夢みる者ならば、私はあなたの夢だ。
しかしもしもあなたが覚めていたければ、私はあなたの意志だ。
そして壮麗をつくして強力なものとなり、
時代の気まぐれな都市の上で、
星辰の静けさのようにおのれを完成するだろう。

   *    *

私の生活は、あなたの眼にひどく忙しいものに見えるような
そんな嶮しい時間ではない。
私は私の背景のまえの一本の樹だ。
私は私のたくさんの口の一つにすぎない、
それ屯いちばん早く沈黙するあの口に。

私は、死の音色ねいろのほうが高くなるので
容易にたがいに親しもうとしない
二つの音色のあいだの休止だ――
しかしこの暗い間のなかで
震えながら二つの音が諧和かいわする。
そして歌はやはり美しい。

   *    *

もしも私が何処か昼間がもっと軽やかで、
時間が優しくたおやかな土地に育ったのだったら、
あなたのために或る大きな祝祭を考え出したことだろう。
そして時折するように、物怯じして荒々しく、
この両手であなたを掴むこともなかったろう。

其処では私が思いきってあなたを濫費したことだろう、
尽きる時なき現在者よ。
私はあなたを一箇の毬まりのように
湧き上がる歓喜のなかへ投げこんだろう。
誰かがあなたを受けとめて。
あなたの落下に
両手を上げて飛びつくようにと。
物の中なる物よ。

私はあなたを剣のように
きらめかせたことだろう。
純粋な金の指輪に
あなたの火をちりばめたろう。
そして指輪は真白な手の上で
私のためにその火を支えたにちがいない。

私はあなたを描いたろう。壁にではなく、
空そのものへ、端はしから端まで。
また私はあなたを形作ったろう、
巨人がするように、山として。燃えさかる火として、
沙漠の砂から吹きひろがる熱風として――
それとも
すでにいつの日にか
あなたを見たことがあったかも知れない……
   私の友人たちは遠くにいる。
私には彼らの笑い声がまだほとんど聴こえない。
そしてあなたは、あなたは巣から落ちた。
黄いろい爪とつぶらな眼をした
その雛鳥のあなたが私の心を悲しませる。
 (私の手はあなたには大きすぎるのだ)
そして私は指で泉の水を一滴すくい、
のどの渇いたあなたがもしやその雫まで身を伸ばしはしないかと窺っている。
そしてあなたの心臓と自分の心臓とがどきどきして、
双方が不安におののいているのを感じる。

   *    *

私が愛して兄弟のように思っている、
すべてこれらの物に私はあなたを見いだします。
あなたは種子として、つねに些細な物に身を与え、
また大きな物には大きく身を与えておられます。

そのように仕えながら物の中を行くことこそ
力の不思議な戯れです。
根の中では目ざめ、幹の中では消え、
そして梢では復活のように立つことこそ。

   *    *

或る若い修道僧の声。

私は流れ去る、流れ去る、
指の間からこぼれる砂のように。
私はにわかに無数の感覚を持つ。
そしてその一つ一つが別様ように渇いている。
私は感じる、
からだじゅうの百の箇所が脹れ痛むのを。
だがいちばんひどいのは心臟のまんなかだ。

私は死にたい。私を一人で置いてくれ。
今にこの脈管が張り裂けるほど
不安になれるだろうと
思うのだ。

   *    *

ごらんなさい。神よ。あなたのために建てようとして又一人新しい人間が来ます。
きのうまで子供だった彼は。まだその両手を
女たちから教えられたように一つに重ねて合わせていますが、
それはすでになかば嘘です。
なぜならば彼の右手はもうその左手から離れて、
抵抗のためか。合図のためか、
腕の上でひとりになりたがっているからです。

その額ひたいはきのうはまだ
年月のために丸くされた小川の中の石のように、
波打ちのほかには意味もなく、
偶然が高くかかげた大空の絵を
になうほかには望みとてもなかったのです。
ところが今日はその額の上に
世界の出来事が殺到して
仮借かしゃくのない裁きをうけては
その判決のなかへ沈んで行きます。

ひとつの新らしい顔の上に空間が生まれます。
この光の前には光というものはありませんでした。
そしてかつて無かったようにあなたの書物がはじまります。

   *    *

私はおんみを愛する、おんみいとも和なごやかな掟よ。
われわれはおんみと格闘したが故におんみのもとに成熟した。
われわれが打ち克ち得なかったおんみ大いなる郷愁よ。

われわれが遂にそこから出ることのなかったおんみ森林よ。
われわれが各自の沈黙で歌ったおんみ歌よ。
さまざまな感情が逃げながらその中に虜われとなる
おんみ暗い網よ。

おんみはあのようにも限りなく偉大におんみ自身を始めていた、
われわれに手を染めたあの頃すでに――
そしてわれわれはおんみの太陽の中にかくも熟し、かくも拡がり、
かくまで深く植えこまれた、
今おんみが人間や天使や聖母たちの中で
憩いながら仕上げをすることができるほど。

天空の斜面で手を休められるがいい。
そしてわれわれが翳かげらすのを黙々と甘受せられるがいい。

   *    *

私たちは職人です。見習い、徒弟、親方です。
そして高らかな中堂よ、あなたを建てています。
埒おり一人の真摯な旅の男が立ち寄って、
一筋の光のように私たち百人の者の心をよぎり、
竄る新らしい手法を震えながら教えて行きます。

私たちは揺れる足場を登って行きます、
手に手に重く鉄鎚をさげながら。
すべてを知っているかのような煌々こうこうたる時間が
海から風の来るようにあなたから来て、
私たちのひたいに触れる時まで。

すると無数の鉄鎚から響きが起こって、
その一打ち一打ちが山々にこだまします。
私たちは暗くなった時初めてあなたをひとり残します。
そして成りつつあるあなたの輪郭が黄昏たそがれます。

神よ、あなたは偉大です。

   *    *

あなたは偉大です、ただおそばに立つだけで
もう私という者が無くなってしまうほど。
あなたはあまりに暗いので、私の小さな明るさなどは
あなたの縁ではなんの意味もありません。
あなたの御心は波のように行きます。
そして毎日がその中に溺れます。

ただ私の憧れだけはあなたの頤おとがいまで昇ってゆき。
見馴れぬ、蒼白な、救われなかった天使、
しかもその翼をあなたに差し出す最高の天使のように
あなたの前に立ちます。

その傍かたわらを幾夜の月が色あおざめて漂い過ぎた
あの果てしない飛行をもう彼は欲しません。
それに国々の事ならばもう充分に知っています。
彼は焙でするように、その翼で
あなたの影多いお顏の前に立ちたいと願っています。
そしてその白い光で、あなたの灰いろの眉が
自分を断罪するかどうかを見たがっています。

   *    *

このように多くの天使たちが光の中にあなたを求め、
ひたいを星に打ちつけながら
一つ一つの光からあなたを学び知ろうとしています。
しかしあなたの事を思うたびに、私には
彼らがあらぬかたへ顔を向けて
あなたのマントの襞ひだから遠ざかって行くような気がします。

なぜならばあなたは金色の客にすぎなかったのですから。
あなたは晴れやかな大理石の祈りのなかへ
懸命にあなたを勧請かんじょうした一つの時代のためにだけ、
さながら彗星の王のように
その額ひたいの光流を見せびらかしたのではないでしょうか。

そういう時代が消えうせた時、あなたは帰って来られた。

その息で私を吹いたあなたの口が今ではまっくらです。
そしてあなたの手は黒檀でできています。

   *    *

それは私が外国の本で読んだ
ミケランジェロの一生だった。
彼は度をはずれて
巨人のように巨大で、
測り得ないという事を忘れた人間だった。

それは一つの時代が終ろうとする時
常に必ず立ちかえって来て、
その価値を総括する人間の一人だった。

そういう人間がなお存在して一時代の積荷全部を持ち上げ、
それを自分の胸の深淵へと投げ入れる。
彼以前の人々は不幸と快楽とを持っていたのに
彼は生をただ塊りとしてのみ感じ、
自分が万物を一つの物として掴むのを感じる――
ただ神だけが彼の意志をこえてひろびろと君臨している。
それで、彼はそのような到達し難さの故に
けだかい憎しみをもって神を愛する。

   *    *

イタリアまで伸びた樹なる神の枝が
もう花を咲かせている。
それはたぶん、喜んで、
おびただしい早生はやなりの実をつけるかも知れないが、
しかし開花のまんなかで疲れを感じて。
結実することはないだろう。

ただ、神の春だけが其処そこにあった。
ただ、彼の息子、言葉だけが
みずからを完成した。
すべての力が
光りかがやくこの少年にそそがれた。
すべての人々が贈り物を持って
彼に来た。
すべての人々が第二天使ケルビムのように
彼を讃えた。

そして彼は優しく薫った、
薔薇ばらの中の薔薇のように。
彼は故郷を持たない者らをとりまく
一つの輪だった。
時代の高まる声々の中を
マントと変貌とを身につけて彼は行った。

   *    *

そこではまた胎内の児に目ざめた女、
小心な、美しく駭おどろかされた女.
かの試煉に立たされた乙女が愛された、
その内部に百の通路かよいじを秘めている、
花のさかりの乙女、見出されることの無かった乙女が。

人々は彼女を行かせ、さまよわせ、
新らしい年と共に追いやった。
彼女の献身的な聖母生活は
堂々とした驚くべきものとなった。
それは祭の日々の鐘の音のように
すべての家々を音高く通りぬけた。
そしてかつては乙女らしく放心していた彼女が
深くその胎内に思いをひそめ、
ひたすらあの一人の者に満たされながら、
また幾千の人々のためにも尽したので、
今では葡萄ぶどうの園のように身ごもっている彼女を
あらゆるものが照り光らせているように見えた。

   *    *

しかし花綵はなずなの装飾の重たさや、
円柱の列と拱廊こうろうの崩壊や、
讃美の歌の唱和の声が
その心を悩ませでもしたかのように、
おのれよりも偉大な者をまだ産むにいたらない幾時ときを、
この乙女が
来たるべき傷へと眼をやっていた。

しずかに解かれた彼女の両手は
からのままで置かれている。
哀れ彼女はまだあの最も偉大な者を産んではいないのだ。
そして天使らは、慰めを与えようともせず、
よそよそしく、恐ろしそうにそのまわりに立っている。

   *    *

このように人々は彼女を描いた。しかしその中にただ一人
自分の憧れを日光から持ち出した画家があった。
その憧れはすべての神秘からいっそう純粋に、
しかし苦悩の中でいよいよ普遍的なものとして彼の内に熟していった。
彼の一生は涕泣ていきゅうがその手の中でおのれを打つ
泣き男のようだった。

彼は彼女の苦しみへの最も美しい面紗おもぎぬだ。
それは彼女の痛ましい唇へぴたりとついて、
ほとんど微笑のために彎曲している――
そして七人の天使らの蠟燭ろうそくの光にも
彼の秘密は打ち負かされない。

   *    *

どんな枝にもまぎれたことのない一本の枝で、
神なる樹が、又もや夏らしく告知しながら、
その成熟にざわめくだろう、
人々が聴き耳を立てている国、
人がみな私のように孤独な国で。

なぜならば天啓はただ孤独な者たちにのみくだるのだから。
心の狭く貧しい一人によりも
同じ種類の多くの孤独者にこそ一層多く与えられるのだから。
なぜならば彼らの互いに遠く隔たった見解をとおして、
百の存在の中でそれぞれに異った
彼らの理解と否認とをとおして、
一人の神が波のように行くという事を
殆ど泣かんばかりにして彼らが悟るその時まで、
各人にそれぞれの神が姿を現わすだろうから。

その時、この見る者たちが、
互いに口にする究極の祈りはこうだ――
根なる神に実が結んだ、
行け、行って鐘を打ち砕け。
われらはもっと静穏な日々に出会えるのだ。
その中にこそ時間は実って立っている。
根なる神に実が結んだ。
まじめであれ、そして見よ、と。

   *    *

私には信じられない、われわれがこんなに毎日
その頭を見渡しているあの小さな死というものが、
われわれの憂慮や懸念の種だということが。
それがまじめに威嚇して来ることが私には信じられない。
私はまだ生きている。建てる時間も持っている。
私の血は紅あかい薔薇よりも永く続くのだ。

私の感性は恐怖とのおもしろおかしい戯れよりも深い。
その戯れへとこの感性も落ちこみはしたが。

私は世界だ。
そこから私の心が顛落した世界だ。

   その感性のように
巡回の僧たちは遍歴している。
人々は彼らの帰って来ることを忌み怖れる。
人々は知らないのだ、その来るのがいつでも同じ一人か、
二人か、十人か、千人か、それとももっと多いかを。
彼らの知っているのはその異様な黄いろい手だ、
近か近かと差し出されるむきだしの手だけだ――
そら、
まるでその衣ころもから生えたような。

   *    *

もしも私が死んだらば、神よ、あなたはどうしますか。
私はあなたの壺です。(もしも私が壊こわれたらば?)
私はあなたの飲物です。(もしも私が腐敗したらば?)
私はあなたの着物、あなたの関節です。
私と一緒にあなたはその意味を失いましょう。

私の死後には、もうあなたに近しく温かく言葉をかける
どんな家もなくなります。
あなたの疲れた足からは
私というビロードのサンダルも落ちます。

あなたの大きなマントもあなたを捨てます。
しとねで迎えるように、私の頬で
温かく迎えたあなたのまなざしが
私を捜しに来るでしょう、いつまでも、いつまでも――

そして日の沈む頃になると見知らぬ石の
膝のあいだに横たわるでしょう。

どうしますか、神よ。私は心配です。

   *    *

あなたはどんな竈かまどの上にでも楽々と寝て
何かつぶやいている煤すすけた者だ。
知識は時の中にしか無い。
あなたは永遠から永遠へと
模糊として知られぬ者だ。
あなたはすべての物の意味を重たく担って
乞い求める者、不安の者だ。
あなたは圧迫の中でいよいよ顫ふるえながら
力づよい声々に立ちもどって来る
讃歌の中の音綴シラブルだ。
そのほかの姿であなたは自身を示したことがない。

なぜならばあなたは美を掻き集めて
身のまわりに財宝をならべる人ではないから。
あなたは倹つましく生きた素朴な者だ。
永遠から永遠へと
ひげをたくわえた農夫だ。

   *    *

年若い僧に。

きのうは子供であったお前、そのお前に混乱が来た。
どうかお前の血が迷いの中で濫費されることのないように。
お前は享楽を願わず、喜びを欲している。
お前は花聟として造られた。
そしてお前の花嫁は育たなくてはならない。すなわちお前の童貞は。

大いなる快楽がお前をも熱望し、
すべての腕が突如として裸になる。
敬虔な画像の青ざめた頬の上に
異様な炎がめらめらと立つ。
そしてお前の官能は、無数の蛇のように
音響の真紅につつまれて。
タンバリンの拍子に乗って張りつめる。

そして突然、お前はただ一人残される、
お前を憎む両手と共に――
そしてお前の意志が或る奇蹟を行わなければ、
…………………………………
しかし暗い街路を行くように
神の噂がお前の暗い血のなかを行く。

   *    *

年若い僧に。

それならばこの人が教えるとおりに祈るがいい。
この人こそ迷いから醒めて立ち戻った人だ。
その神聖な像たちに
彼らのあらゆる本質の威厳を保たせながら、
ある会堂で、金碧こんぺきの硝子ガラスの上に美女を描いて、
その手に剣を握らせた人だ。

彼はお前にこう言えと教える――
   おんみ、私の深い心よ、
おんみを失望させないという、この私の言葉を信じたまえ。
私の血の中にはかくも夥おびただしいざわめきがある。
しかし私は知っている、私があこがれの子だという事を。

或る大きな厳粛なものが私に襲いかかる。
その影の中にいると生は涼しい。
いま初めて私はおんみだけと居る。
おんみ私の感情よ、
おんみはまことに少女のようだ。

かつて私に近く一人の女がいた。
そしてそれが色褪せた身なりで私を手招ぎした。
しかしおんみは私にいとも遠い国々の話をしてくれる。
それで私の力が
丘陵のつきるかなたに眼を放つ。

   *    *

私は讃歌を持っています、口にこそ出しませんが。
ここには私が自分のさまざまな感覚を傾ける
鼓舞された生活があります。
あなたは私を大きいと御覧になる。しかし私は小さい。
あなたはひざまずいているあの物たちの中から
おぼろげに私を見わけることがおできになる。
彼らは家畜と同様で草を食べます。

私は荒野の斜面の羊飼です。
それで夕暮になると彼らは私に集まって来ます。
すると私は彼らのうしろから歩いて
ほのぐらい橋の音をぼんやりと聴きます。
そして彼らの背中から立つ湯気ゆげ
私の帰路が隠されます。

   *    *

神よ、あなたのように、私はあなたの時間をどのくらい理解できるでしょうか。
それが空間のうちで完成されるという意見は
あなたの前に言いふらされていますが。
あなたにはは一つの傷のようなものです。
それであなたはその傷を世界でもって冷やされました。

今それはわれわれの間で僅かながら癒えています。

なぜならばさまざまな過去が病める者たちから
多くの熱を飲んだからです。
すでにわれわれは和なごやかなたゆたいの内に
深部のおだやかな脈搏を感じています。
われわれは慰めながらの上に横たわって
すべての傷口を覆い包んでいます。
しかしあなたは、あなたの顏の影の中で、
定かならぬものへと伸び拡がって行かれます。

   *    *

その手を時代の中、
哀れな都会の中で働かせていない人々、
それを道路から遠い或る場所の
静寂のほとりに置いている
まだ名も無いような人々が、
おんみ毎日の祈りの言葉よ、おんみを誦し、
一枚の紙をたよりに優しくも唱えている。

結局はただ祈りがあるばかりだ。
われわれの手が神聖化されているのは
懇願しない物は何一つ造らなかったからだ。
誰かが描いたと言い、刈り取ったと言い、
それは実に道具の努力から、
敬虔な心が花咲いたことなのだ。

時代とは多くの姿を持った何ものかだ。
われわれは時おり時代の声を聴きながら、
永遠の仕事、古い仕事にたずさわっている。
われわれは覚えている、神が鬚ひげのように、着物のように、
われわれを大らかに包んだことを。
神の堅い壮麗さの中にいて、
われわれは玄武岩の石理のようだ。

   *    *

名は私たちにとって
ひたいの上に荒々しく置かれた光のようだ。
あの時、私の眼は
時宜を得た判決を伏目になって、
(それ以来今に語られている)おんみ、
私と世界とに重りかかるおんみ、
暗くなりゆく大いなる錘であるおんみを見た。

おんみはおもむろに私を押し曲げた、
私がためらいながら登って行った時代から。
いささかの抵抗の後私は頭をさげた。
今おんみの和なごやかな勝利をめぐって
おんみの暗黒がつづいている。

今おんみは私を持っている。そして私が誰であるかを知らない。
なぜならばおんみの広やかな感覚は
私が暗くなったことだけを認めるのだから。
おんみは独特な優しさで私をとらえて、
その老いたる鬚をまさぐる私の手に
じっと耳を澄ましている。

   *    *

あなたの最初の言葉はだった。
こうして時が始まった。それからあなたはしばらく黙った。
あなたの第二の言葉は人間だった。それは不安を意味していた。
(われわれは今でもその言葉の響きに暗く包まれている)
それから再びあなたの眼が暝想に沈んだ。

しかし私はあなたの第三の言葉を聴きたいとは思わない。

夜になると、しばしば私はこう祈る――
身ぶりの中に育ちながらとどまって、
精神によって夢の中へ駆り立てられる唖おしであれ。
沈黙の重い総和を
ひたいと山々との中に書きしるす者であれ。
名状しがたいものを辱しめた。
慎怒からの隠れがであれ。
楽園に夜が来た。
角笛を持った牧者であれ、
かつてはそれを吹いたと話だけに残るあの牧者で。

   *    *

あなたは来てはまた出て行く。
戸はきわめて柔らかに締まる、ほとんど風も起こさないほど。
あなたは静かな家々を通りぬける
あらゆるものの中での最も静かな者だ。

人々はあまりにあなたに馴れているので、
本を見ていてもその挿画さしえ
あなたの青い影によって
美しくされているのに気がつかない。

その間にもいろいろな物があるいは低くあるいは高く
たえずあなたを響かせているのだが。

ときどき心の中であなたを見ていると、
あなたの全容がいくつにもわかれる。
あなたはただ明るい小鹿のむれのように行く。
そして私は暗くなり、森になる。

あなたはそのそばに私の立つ車の輪だ。
あなたのたくさんの暗い輻のうち
たえずどの一つかが重くなって、
廻りながら私に近づいて来る。
そして私の気に向いた仕事が
反復をかさねながら育ってゆく。

   *    *

あなたは群を抜いてもっとも深遠な者、
潜水者の、また塔の羨む者だ。
あなたはみずからを語った穏和な人、
しかも誰か臆病な者が問いかけると
寡黙のなかへ沈んでしまった。

あなたは矛盾の森。
私はあなたを赤児のように揺すろうとするが、
あなたの呪咀は実現して
もろもろの種族の上に恐怖を撒く。

あなたに最初の書物が書かれ、
最初の画像があなたを企てた。
あなたは苦悩と愛との中にいた。
あなたの威厳は原鉱あらがねからのように
それぞれの額ひたいの上に取り出されて、
成就じょうじゅした七つの日で打ち延ばされた。

あなたは千百のものの中にまぎれこんだ。
それですべての捧げ物が冷えてしまった。
だがついにあなたは高らかな教会の合唱壇の
金色の扉のかげで身動きをした。
すると其処にひとつの不安が生まれて
あなたを形態で包んでしまった。

   *    *

私は知っている、あなたが謎めいたものだという事を。
そのあなたを取り巻いて時間がためらいながら立っている。
ああなんと美しく、私があなたを創作したことだろう、
緊張のひとときを、
わが手の不暹のなすがままに。

私は多くの雅致ある設計図をひき、
さまざまな故障を耳にした――
それでその企画がいとわしいものになった。

線も、楕円も、
いばらの蔓つるのように縺もつれ合った。
そして突然、私の内心で
すべての形式のうちの最も敬虔な形式が
一つの手法から疑惑へと崩れていった。

私は自分の仕事を見渡すことはできない。
それでも感じてはいる、それは完成したと。
しかしそれから眼をそむけて
いくどでも建て直そうと思っている。

   *    *

これが私の毎日の仕事だ、
その上に私の影が皿のように載っている。
私はまた木の葉や粘土のようであり、
祈りをしたり画をかいたりしている日が
すべて日曜日。そして私は谷あいで
嬉々としているエルサレムだ。

私は壮麗な主の都だ。
そして百の舌で主を語る。
私の中でダヴィデの感謝は鳴り消えた。
私は竪琴のようなたそがれを横たわり、
夕べの星を呼吸した。

私の街路は東へ向いて行く。
そして私は永いこと種族から見捨てられている。
そうだそれ故にこそ
私はいっそう大きくなったのだ。
私は自分の中を大股に行く人々を聴く。
そして私の孤独を
発端から発端へと延べひろげる。

   *    *

お前たち、攻撃をうけたことのない多くの都市よ、
お前たちには敵を待ち望んだ経験はないか。
ああ、長々と決著のつかない十年間
彼らの包囲をうければよかったのだ。

お前たちが慰めもなく、悲歎のうちに
飢えながら耐えぬくまで。
敵は城壁の前に風景のように横たわっている。
なぜならば彼らは襲ったものを取りかこんで
このように持久することを知っているからだ。

屋根の端はしから眺めるがいい。
彼らはそこに陣どって疲れもせず、
数も減らず。弱まりもしない。
そして威嚇や協約や説得のための軍使を
町へ送ってよこすこともしない。

彼らは無言の仕事をする
巨大な破城槌だ。

   *    *

私は我を忘れた
あの飛行から帰って来る。
私は讃歌だった。そして神が、歌詞が、
まだこの耳の中で鳴っている。

私はふたたび静かになり、謙虚になる。
そして私の声もやむ。
私の顏は
いっそう美しい祈りへと沈みこむ。
他の者たちを揺さぶりながら叫んでいた時、
彼らにとって私は風のようだった。
天使たちのいるような、そんな遠くへ私は行ったのだ。
光が遍満しているような、そんな高みヘ――
だが、神は深々と暗くなる。

天使たちは神の稍の尖端を吹く
最後の風だ。
その枝から吹くことは
彼らにはひとつの夢のようだ。
そこでは天使らは神の暗い力よりも
更にいっそう光のほうを信じている。
ルチフェルでさえ
彼らの近くへ身をのがれた。

彼は光の国の王者だ。
そして彼の額ひたいが無の大いなる輝きの前に
けわしく聳え立っているので。
その顔は焼けこげて
ついには暗黒をねがうほどだ。
彼は時代の明るい神、
時代はその彼に騒がしく眼をさます。
そしてしばしば彼が苦痛のなかで叫ぶか
苦痛のなかで笑うかすると
時代は彼の救いを信じて
その力にすがりつく。

時代は撫ぶなの葉むらの
もみじした縁へりに似ている。
それは神が脱ぎすてた
華やかな衣裳だ。
つねに幽遠なその神が
飛行に疲れて、
根のようなその髪の毛が自分のために
万物をとおして伸び育つまで
年毎ごとに身を隠す時脱いで捨てるあの衣裳だ。

   *    *

あなたは行為によってのみ捉えられ、
手によってのみ明らかにされる。
感覚はすべて客にすぎない。
そして世界のそとに憧れている。

感覚はすべて虚構だ。
人はそこに精妙な縁ふちどりを感じ、
誰かが縫いかがってくれたのだと思う。
しかしあなたは来て、捨て身になって、
のがれる者に襲いかかる。

私は知ろうとは思わない、あなたが何処どこにいるかを。
何処からなりと話しかけるがいい。
あなたの従順な福音記者は
すべてを記録しながら、しかも
音に注意することを忘れている。

しかし私はこの完全な足どりで
いつもあなたに向かってひたむきに行く。
なぜならば私たちが互いに理解しないとしたら、
私は何者で、あなたはまた誰だろう。

   *    *

私の生は昔のすべての皇帝ファーたちの臨終の時と
同じ衣裳、同じ髪をまとっている。
ただ私の口には権力だけが縁遠かった。
しかし沈黙のうちに仕上げた私の国々は
私の背景に集まっている。
そして私の意識は今でも君侯だ。

その意識にとって、祈ることはやはり建設すること、
恐怖がほとんど偉大と美とに達するようにと
あらゆる塊りから築き上げることだ――
そしてすべての跪拝きはいや信仰の姿を
(ほかの者たちから見られないように)
金の円屋根、紺青こんじょうの円屋根、多彩の円屋根、
そうした無数の円屋根で高々とかこむのだ。

なぜならばそのような会堂や僧院は
彼らの聳立しょうりつや発生によって、
なかば救済された者たちの手が
それを介して王らや乙女らの面前へと行く
あの竪琴、あの音うるわしい慰め手にはかならないから。

   *    *

そして神は私に命じて書かせる――

   王らには無慈悲があるがいい。
   無慈悲は愛に先だつ天使であり、
   このアーチ無くしては、時の中に
   私の渡る橋はないのだから。

そして神は私に命じて描かせる――

   私にとって時は最も深い悲しみだ。
   それで私は時の皿の中へ投げこんだ、
   眠らぬ女を、聖痕こんを、
   (それが時を数えるようにと)無数の死を、
   町々のおびえたようなバッカス祭を、
   精神錯乱と王たちを。

そして神は私に命じて建てさせる――

   なぜならば私は時の王だから。
   しかしお前にとって、私はただ
   お前の孤独への漠然とした関知者にすぎない。
   そして私は眉の下の眼だ……

その眼が私の肩越しに
永遠から永遠へと眺めわたす。

   *    *

無数の神学者たちがあなたの名の
古い夜のなかへ消えてゆきました。
処女たちはあなたに向かって眼を覚まし、
若者らは銀を鎧よろってあなたの中、
あなたという戦いの中できらめきました。

あなたの長い拱廊で
詩人たちは会合し、
歌ごえの王となり、
そして和なごやかで、深くて、老練でした。

あなたは詩人たちをすべて似させる
優しい夕暮の時間です。
あなたは彼らの口ヘ暗くもぐりこむ。
すると彼らは或る発見の感じのうちに
それぞれ華やかにあなたを粧よそおいます。

百千の竪琴が箕のように
あなたをその寡黙から舞い上がらせます。
そしてあなたの昔ながらの風が
あらゆる事物や要求にむかって
あなたの尊厳の息吹いぶきを投げるのでした。

   *    *

詩人たちはあなたを撒きちらしました。
(あらゆる片言を一陣の嵐が吹きぬけました)
しかし私はあなたを、あなたの喜ぶ器うつわのなかへ
もう一度貯えたいと思います。

さまざまな風の中を私はさまよいました。
あなたはその中で千度も舞い上がりました。
私は見いだす物すべてを取り入れます。

盲人はあなたを杯として用い、

奴僕はあなたを奥深く隠しました。
しかし乞食はあなたを差し出しました。
そして時々は人の子供のそばに
あなたの御心の大きな一片がありました。

あなたは御存知です、私が探ね求める者だということを。

彼は両手のかげに顔を隠して
羊飼のように行きます。
(どうか彼を惑わす視線を、見知らぬ大たちの視線を彼から外らしてください)
彼はあなたを完成することを夢みています、
そしていつかは自分自身を完成することをも。

   *    *

ソボールの内部には稀まれにしか日が射しません。
壁はさまざまな像でうずまっています。
そして処女たちや老人たちを押し分けて
張り拡げられた翼のように
金光燦爛と皇帝の門がひらいています。

壁はその柱列の端はしのほうで
聖像のかげに消えてゆきます。
そして静かな銀の光の中に宿るさまざまな宝石は
合唱のように立ちのぼり、
やがてまた宝冠のなかに落ち沈んで
前にもまして美しく沈黙します。

そして青い夜のように
顔青ざめた彼らの上には、
かつてあなたを喜ばせたあの女性にょしょうが浮かんでいます。
あの女衛士えじ
牧場のように、また間断なく、
花をもってあなたを囲む朝露のようなあの女性が。

天蓋はあなたの子たちでいっぱいです。
そしてそれが建物を円まるく括くくっています。

私が恐れおののいて眺めるあなたの玉座を
どのようにあなたは思っておられるのでしょうか。

   *    *

私はそこへ一人の巡礼として入って行った。
そして不安に満たされながら
石であるおんみを額ひたいに感じた。
数にして七つの蠟燭ろうそく
おんみの暗い存在をかこみ、
すべての像のなかに
おんみの褐色の痣あざを私はみとめた。

乞食たちがほそぼそと痩せやつれて
立っている処に私も立っていた。
彼らの着ている物の翩翻へんぼんから
私は風であるおんみに気がついた。
またヨアヒムのように鬚ひげを垂れて
老い朽ちた農夫も私は見た。
そして賑やかな同類にかこまれて
朦朧もうろうとなってゆくその姿から、
周囲の者たちや彼のうちに
かつて見なかったほど無口に
しかも優しく出現したおんみを感じた。

おんみは事物の成行きを時の手にゆだねる。
そのおんみには休息というものがない。
農夫はおんみの心を知って、
それを取り上げ、さて投げ捨て、
そしてふたたび拾い上げる。

   *    *

番人が葡萄ぶどうの畠のなかに
彼の小屋を持って番をするように、
主よ、私はあなたの手の中の小屋、
おお主よ、あなたの夜よるの夜よるです。

葡萄山、牧場、林檎りんご園、
春を忘れぬ耕作地、
大理石のように堅い地面に立って、なお
百の実をつける無花果いちじゅくの樹。

匂いはあなたの円まるい枝から出て行きます。
そしてあなたはお問いにならない。私がよく番をしているかとは。
恐れもなく、樹液のなかに溶けこんで、
あなたの深い心が私のそばを登って行きます。

   *    *

神は人間を造るとき、一人一人にただ説いた、
そして黙々と彼と一緒に夜から出て行った。
しかしその言葉、人間が始める前に神の言った
雲のような言葉はこうだ――

お前の放たれた感覚から
あこがれの果てまで行くがいい。
私に着物を渡せ。

物らのうしろで火事のように大きくなれ、
拡大された彼らの影が
常にすっかり私を被うように。

あらゆるものに出逢え。美にも、怖れにも。
ただ行かなくてはならない。感情にはいや果てというものは無いのだから。

土地は近い、

彼らが人生と呼んでいる土地は。

その人生をお前は識しるだろう、
その厳粛さから。

では、握手だ。

   *    *

私は高齢の僧や画工や神話の記者たちのところにいた。
彼らは静かに記録を物したり、見事な古代文字を書いたりしていた。
そして私は自分の幻覚の中で、キリスト教の世界の果てに
風や水や森林と共にざわめいているおんみ土地を
切りひらくつもりではなく眺めている。

私はおんみを物語ろう。おんみをよく見て描写しよう、
白い陶土や金粉をもってではなく、林檎の樹皮からの汁だけで。
たとえ真珠をもってしようともおんみを紙の上にかたどる事は私にはできない。
それに私の感覚がでっち上げる震える像、
そんな物をおんみはその単純な存在で駆逐してしまうだろう。

それならばおんみの内なるをただつつましく率直に挙げよう。
どこの国の王であれ最も古い王たちの名を挙げて、
彼らの事績と戦いとを私のページの端に書きつけよう。
なぜならばおんみは大地だから。時はおんみにとって夏のようなものに過ぎず、
その時に近づくのに、おんみは遠隔のものに近づく以外の方法は考えないから。
そしてたとえ彼らがおんみを一層深く播き、一層よく耕すことを学んだとしても、
おんみは同じような収穫から軽く触れられるのを感じるのみで、
自分の上を闊歩する種播く者や刈り取る者の足音を聴かないから。

   *    *

おんみ暗くなりゆく大地よ、おんみは辛抱づよく周囲の壁に耐えている。
そしておそらくは町々になお哀惜あいせきのための一時間を許し、
会堂や孤独の僧院になお二時間の明るさを保証し、
すべての救済された者をなお五時間の苦しみにまかせ、
そしてなお七時間、農夫らの一日の労働を見まもるだろう――

この捕捉しがたい不安な時間のなかで
ふたたび森となり、水となり、拡がりゆく荒野となる前に、
おんみはおんみの未完成の像の返還を
すべての物に要求する。

どうか私にもほんの僅かな時を与えてくれ。そうしたら私はすべての物たちが
おんみにふさわしく広々としたものになるまで、誰よりも彼らをいつくしむだろう。
私の欲しいのはただの七日だ。七つの日、
そこにまだ誰一人として書いたことのない
七ページの孤独だ。

しかしその七ページを含む本をおんみが誰に与えようと、
おんみ自身で書こうとして
その者を手中にとらえている以上、
彼はいつまでも紙の上にうつむいたままだろう。

   *    *

このように、ただ子供として私は目覚めている。
どんな不安やどんな夜の後にもなお
ふたたびおんみを見る事ができるという
堅い信念に安んじて。
私はさとる、私の思いが測量する度ごとに
おんみがどれほど深く、長く、又どれほど遠く且かつ広いかを――
しかしおんみは居る、あくまでも居る、
時間のために顫ふるえながら。

私には自分が今、子供でもあれば赤児でもあり。
大人でもあればそれ以上の者でもあるような気がする。
ただ私は感じる、
輪はそれ自身の回帰によって豊かだということを。

私はおんみに感謝する、
あたかも多くの壁越しのようにいよいよ微かに
私に働きかけてくる深遠な力よ。
今初めて私の仕事日が順調になった。
そして私の暗い手にたいして
一つの神聖な顔のようになった。

   *    *

すこし前までは私という者の存在しなかったことを
あなたは知っているだろうか。あなたは言う、否と。
そこで私は思う、もしも急ぎさえしなければ
自分は決して亡びずにいられるのだと。

たしかに私は夢の中の夢以上のものだ。
何かの究極だけにあこがれるものは
或る一日か一つの響きのようなものに過ぎない。
たとえ多くの自由を見いだしても、
それを悲しげに捨てながら、
よそよそしくあなたの手を押しのけて行く。

こうしてあなたにはただ闇だけが残った。
そしてむなしい光の中に育って
ますます盲目になった岩石から
ひとつの世界史が立ち上がった。
其処そこへ家を建てる者がまだ誰かいるのだろうか。
多数は更に多数を求めて、
石はうち捨てられた物のようだ。

そしてあなたから切り出す者は一人もない。

   *    *

光があなたの樹の稍にざわめいて
あなたのすべての物を乱雑に空疎にする。
昼間の光が消えると、初めて人々はあなたを見いだす。
たそがれには、空間のいつくしみが
千の頭の上に千の手を置く。
そしてその手の下で見知らぬ事物が敬虔になる。

あなたはこの最も穏やかな仕方以外の仕方で
世界を維持しようとはなさらない。
その世界の空からあなたは大地をとらえて、
それをマントの襞ひだの下にお感じになる。

あなたには存在に対するそんなにも静かな術すべがある。
そして騒がしい名をあなたに捧げる人たちは
もう皆あなたが隣人だという事を忘れている。
山のように高まるあなたの手から、
われわれの意識に法則を与えるために、
暗い額ひたいをしたあなたの無言の力が昇ってゆく。

   *    *

あなたは心から進んでする人、あなたの恩恵は
いつもすべて古風きわまる身ぶりで来た。
誰かが両手を合せて、
それが優しく
ひとつの小さい闇を作ると――
彼は突然あなたが身うちに生まれるのを感じて、
その顔を
風の中へのように
はじらいの中へ沈める。
そしてそれから他の人たちの処で見たように
石の上に寢たり立ったりする事を試みる。
彼はあなたの目覚めている事をもう自分が見破った
その不安からあなたをなだめようと心を砕く。

なぜかといえばあなたを感じる者は、あなたの事で得意にはなれないから。
彼は怖れおののいてあなたのために心を痛め、
あなたに気づきそうなすべての他人から身をのがれる。

あなたは荒野の奇蹟、
移住者に現われる奇蹟だ。

   *    *

一日の終りのひととき、
地にはすべての用意ができている。
お前の憧れは何か。わが魂よ、言え。

荒野になれ。そして荒野よ、広々たれ。
平遠な、亡びて久しい土地の上に
月の光のさしのぼる時、
生い茂って、それともわかぬ
古い古い塚を持て。
形をとれ、静寂よ。物を型どれ。
(それは彼らの幼年時代、
彼らはお前を喜ぶだろう)
荒野になれ、荒野になれ、荒野になれ。

すると私には夜との弁別のむずかしい
あの老人もおそらく来て、
耳そばだてている私の家へ
その巨大な盲目を持ちこむだろう。

私はすわって瞑想している彼を見る。
その背丈たけは私より高くはないが、
空も、荒野も、また家も、
すべてが彼の内部にある。
ただ歌だけが彼には失われて、
もうそれを始めるよすがもない。
幾千の耳から、
愚者たちの耳から、
時と風とが飲んでしまったから。

   *    *

それでも、私にはこんな気がする、
私こそ彼のためにそれぞれの歌を
自分の内深く貯えているのだというような。

彼は震える鬚ひげのかげで沈黙している。
或いは自分のメロディーから
おのれを取り戻したがっているのかも知れない。
そこで私はその膝へ近づいて行く。

そして彼の歌が、さざめきながら、
彼のうちへ流れ帰る。

 

 

 

 

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